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旧約では開示されていなかった、人の死んだ後の有り方(ヨブ記14章)
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14:1 女から生れる人は/日が短く、悩みに満ちている。
14:2 彼は花のように咲き出て枯れ、/影のように飛び去って、とどまらない。
14:3 あなたはこのような者にさえ目を開き、/あなたの前に引き出して、さばかれるであろうか。

ヨブはさらに、神に向かって疑問と願いを投げかける。
こんな花のようなはかない自分にさえ目を留めて徹底してさばかれるのですか、と。

14:4 だれが汚れたもののうちから清いものを/出すことができようか、ひとりもない。

イザヤも告白している。自分はくちびるの汚れた民の間に住んでおり、くちびるの汚れた者だ、と。
そしてヨブ自身、自分が汚れた者であり、どう考えても、どう転んでも、自分の中から良いものをひねり出す事は出来ない。
今まで多大な努力をしたけれども出来なかった、と。
ヨブのような義人でさえ、そうなのだ。人間、誰もが、どう転んでも罪の中にある。
しかし神は、この時ヨブが考えているような、すなわち、人間の罪を事細かにつまんで、裁いて、苦しみのまま放置されるようなお方ではない。
神は実に、その、人の罪と死という問題を扱うために、ひとり子キリストをお与えになる程の愛をもって愛し、創世記3章から黙示録20章までの膨大な贖いと救いのご計画を発動されたのだ。
それは、信じる者が誰一人として滅びる事なく、永遠のいのちを持ってほしいと、願っておられるからである。

14:5 その日は定められ、/その月の数もあなたと共にあり、/あなたがその限りを定めて、/越えることのできないようにされたのだから、
14:6 彼から目をはなし、手をひいてください。そうすれば彼は雇人のように、/その日を楽しむことができるでしょう。

ヨブは願っている。限り有る人生、死んだらおしまいなのだから、せめて、罪有る人間にそんなに目を留めず、手を引いて下さい、かまわないでください、そうすれば、人はそのはかない人生の中、はかない楽しみができるでしょう、と。
あいにく聖書は、そのようなはかない現世利得を提供して、せいぜい生きている間は楽しみなさい、というようなものではない。
ヨブは、私から目をそらして下さい、かまわないでください、と言ったが、とんでもない。
イエス様の十字架の場面で、二人の強盗も刑罰を受けていたが、その内の一人の言葉に注目したい。

ルカ23:40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
23:41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

この強盗の人生は、ヨブに比べ、圧倒的に義人とは遠い生き方をして来た、にもかかわらず、彼はその日、イエス様と共にパラダイスに行った。なぜだろうか。
それは、強盗はイエス様に「御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言った。
そう、「わたしを思い出してください」と、関わりを求めて行ったから、彼はパラダイスに行けたのだ。
ヨブは義人であったが「かまわないでください」と言って、苦しみが続いた。
しかし強盗は、自分の罪ゆえの刑罰から来る痛みの中でも、自分の罪を認め、自分には到底及ばない御国の王位に着かれるイエス様に「思い出してくださ」と関わりを求めたからこそ、彼はパラダイスに行けたのだ。

14:7 木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、/その若枝は絶えることがない。
14:8 たといその根が地の中に老い、/その幹が土の中に枯れても、
14:9 なお水の潤いにあえば芽をふき、/若木のように枝を出す。
14:10 しかし人は死ねば消えうせる。息が絶えれば、どこにおるか。
14:11 水が湖から消え、/川がかれて、かわくように、
14:12 人は伏して寝、また起きず、/天のつきるまで、目ざめず、/その眠りからさまされない。
14:13 どうぞ、わたしを陰府にかくし、/あなたの怒りのやむまで、潜ませ、/わたしのために時を定めて、/わたしを覚えてください。
14:14 人がもし死ねば、また生きるでしょうか。わたしはわが服役の諸日の間、/わが解放の来るまで待つでしょう。

ヨブの哲学は、人はひと度死んでしまったら、もう生き返らない、というものだった。
旧約においては死んだ後の概念が新約ほどはっきりしたものではなかった。
最高の知恵が与えられたソロモンでさえ、次のように言った。

伝道者の書3:20 みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
3:21 だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
3:22 それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。

こういうわけで、旧約は、死後の概念があいまいで、地上で生きている限りの幸いこそ全てだと思われていた所もあり、死人の復活を信じないサドカイ派もあれば、復活を信じるパリサイ派もあった。
しかし主は、新約において、死後どのようになるのかを、はっきりさせて下さった。

黙示録20:11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

このように、死後、必ずよみがえらされ、おのおの「しわざ」に応じてのさばきがあり、そして、死も、よみも、火の池へと投げ込まれる。
善人も悪人も同じところに行く、というのは、誰もが訪れる「第一の死」においては、そうだろう。
しかしその後にさばきがあり、主の前に悪と見られた人は、永遠の死、「第二の死」に入るのだ。

2コリント5:1-10
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

私達には、キリストにあってさばきを免れ、永遠のいのちに至る望みがある。

ヨハネ5:25 よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。
5:26 それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。
5:27 そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。
5:28 このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。

ある人は、さばきのためによみがえらされ、ある人は、生命を受けるためによみがえらされる。
その分岐点は、キリストの御声を聞いて善をおこなうか、それとも悪をおこなうか、である。

母が子供に対して出来る最高の事(出エジプト記2:1-9)
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週報/メッセージ(説教)概要

 今日は母の日である。母はうめきつつ、いのちを産み、はぐくみ育て、日々労を負っている。現代は、子を健全に育てるのに困難な時代と言える。子供を誘惑するものが多い中、いかに子を健全に守り育てて行くべきか。本日、男の赤ちゃんが生まれたらナイル川に投げ込まなくてはならないという過酷な時代の中、子を守り、立派な指導者モーセの母となったヨケベデから学び、私達もこの時代、いかにゲームやインターネットなど子を飲み込もうとする危険な「ナイル川」から守り、健全に育てあげるべきか、その術を得たい。

『さて、レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。』(2:1) 時代が悪く絶望的だと、人は結婚や子を産む事を躊躇し、少子化が進むものだが、ユダヤ人達はそれでも新たな家庭を築いて、増えて行く。
『女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。』(2節) 赤ちゃんは、神様から預けられたいのちである。母はそのいのちの輝きを見て、身勝手な世の王の要求を飲んだりして奪ってはならない、と、かくまった。母とは、子のため、いのちのため、うめきつつ守るものである。
ちょうど箴言31章の、マサの王レムエルの母が、子供に「何を言おうか」と、悩みに悩んだように。
この母の有様は、聖霊の私達に対する有様に良く似ている。創世記1章2節において、創造後の地球が闇の混沌状態にあった時、神の「霊(女性名詞)」は、水の上を「舞いかけて(女性動詞)」いた。それはちょうど、めんどりがひなを翼でかばっているのと同じ状態である。聖霊は母のようにうめきつつ執り成すのだ。
イスラエルでは赤ちゃんが生まれたら、ハトラーという、御言葉が刺繍された布でくるむ。女性は子供を宿したと知った瞬間から、ハトラーの刺繍を始める。お腹の子に向かい、トラー(御言葉)をテフィリンしながら。
彼女達は子が胎内で形作られる時から御言葉で覆い、生まれた後も御言葉の包みの中で守ってあげようとする。まさに創世記1:2の状態だ。母が子供に対してできる最高の事は、御言葉によって守る事なのだ。

ヨケベデは子をなんとかして守ろうとしたが、『もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかご(英: ark)を取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。』(3節) この「かご(ark)」は、ノアの「方舟(ark)」と同じ言葉であり、「契約の箱」も、arkである。
彼女がこの小さな方舟に、瀝青と樹脂を塗って、その中に子を入れたのは、ちょうどノアが方舟をつくって瀝青を塗り、その中にいのち達を入れ、新しい時代へといのちを継がせたのと同じである。
契約の箱という”アーク”の中には、契約の石の板と、アロンの杖と、マナの壺が入っている(ヘブル9:4)。
律法の石版は、神の指で記された御言葉であり、アロンの杖は、植物としては死んだ杖が生き返ってアーモンドの花と実がふいた復活の象徴であり、祭司の証拠である。マナは、神が直接的に命をやしなって下さった証拠物である。私達も、残酷な時代では、子を御言葉に委ね、復活を信じ、いのちの養いの望みをかけるため、子をアークに入れるのだ。現代、私達が入れるべきアークとは何か。それは、ユダヤ人がしているように、自分自身の口の御言葉宣言により、あるいは子供自身の口から御言葉を宣言させる事によって、子を御言葉で囲う事である。母親が子供にしてあげられる最上の事は、御言葉で囲ってあげる事だ。

彼女は子供をアークにかくまって、あとは全てを神様に委ねた。親がいのちのために出来る限りの事をし、自分の力ではどうにもならない所まで来たなら、子供をアークに入れ、あとは全部、神様に委ねる時である。
神はその子をパロの娘の所へ導き、彼女の心にその子を憐れむ心を与え、そうして、合法的に、しかも報酬つきで、母は自分の乳でその子を養えるようになった。
主は、神様から託されたいのちを守ろうと努力する人には、限りなくフォローして下さるのだ。
当時、多くの赤ちゃん達が、時代がそうだからといって、ナイルへ沈められて行った。どのような時代でも、いのちは主のものであり、主は御心のままに、男女の所へ新しいいのちを送り、そのいのちを養うために必要な物も、力も、全て備えて下さる。そして、いのちを大切にする人をさらに祝福し、徹底して守られる。
私達は子供を、時代がそうだからと言って、ナイルに沈めてはいけない。子供にゲームやスマホを与えていれば大人しくなる、ラクだと、と思って放置していたら、子供はどんどん仮想世界へと沈んでしまう。
私達はむしろ子供を真理の御言葉で囲い、神様と私達とのいのちの交わりをし、そうして主ご自身から全て必要な養いをいただき、家庭が喜びと笑いで、そしていのちで満ち溢れて行く皆さんでありますように!

神と論じ合う(ヨブ記13章)
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ヨブは友人達に対し、さらに語る事を止めない。

ヨブ記13:1  見よ、わたしの目は、これをことごとく見た。わたしの耳はこれを聞いて悟った。
ヨブ記13:2  あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。わたしはあなたがたに劣らない。
ヨブ記13:3  しかしわたしは全能者に物を言おう、わたしは神と論ずることを望む。

ヨブは、友人達のあまりに的を外した心なしの格言に飽々して怒り、ついに、神に挑戦したい事を表明する。
彼は今まで、ここまではっきりと「神と論ずる事を望む」と言い切った事は無かった。いわば友人達の心なしの格言の応酬が、ヨブをそのように引き出したのだ。
友人達からすれば、なんと恐れ多い言葉を神に発してしまったのか、と思う所かもしれないが、実を言うと、「神と向き合って論じあおう」としたその時点が、その人にとっての重要な転換点となる。

神と論じ合おうとする事は、とても重要である。
イザヤ1:18  主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
イザヤ1:19  もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
イザヤ1:20  しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。

イザヤ書では、主が「互いに論じよう」と言っており、それによって、緋のような罪が白く、紅のような赤い罪が羊の毛のようにされていく、というのだ。
人にとって、創造主と一緒になって密接に関わる事こそ、最も大事である。それがたとえ、喧嘩腰であったとしても。

旧約の偉人・エノク、ノア、アブラハムに共通しているキーワードは、神と共に「歩む(ハーラフ)」である。(創世記5:22-24, 6:9,12:1-2)
彼らは、罪深い時代・罪深い人々の中に住んでは居ても、周囲の愚かさや思想とは一つにならなかった。それは主と共に歩み、主の御言葉を守り行い、そうして「全き者」(創世記17:1)となって行ったからだ。

神と共に「歩む(ハーラフ)」、それは神の民の必須条件であり、祝福に必要不可欠な行動である。
主はエデンの園を「歩き回られた(ハーラフ)」(創世記3:8 )。 私達も、主と共に歩きまわるなら、そこはエデン(「歓喜の場所」という意味」)であり、たとい死の陰の谷を「歩む」としても、主と共に歩んでいるなら、そこには慰めがあり、敵の前で宴を設けられ、杯は溢れ、恵みといつくしみが追って来るのだ。(詩篇23編)
そして、呪われるための近道は、祝福の源なる神との密接な関わりと解く事、神から離れる事である。ちょうどカインのように。

ヨブはこの時点、主に対して怒っていたものの、主に対して激しく論じて行き、そして主は彼と激しく論じて下さり、そうして後、倍の恵みを施して下さった。
ちょうどヤコブが、神と取っ組み合いの相撲を取り、その後に祝福が与えられ、新しい名イスラエルが与えられたように。
私達も進んで、神と関わり合うべきである。

ヨブ記の結論は、ヤコブ5:11である。
ヤコブ5:11  忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

多くの人々は、ヨブ記を、なんにも悪い事をしていない正しい人に、なぜ災いが起きるのか、という「神の不条理」を扱った文献と思っているが、その解釈は、中途の災いにしかフォーカスしていない人間の解釈である。
ヨブ記の結論、それはヤコブ書に書いてある通り、「忍耐した人は幸いである」「主はいかに慈愛とあわれみとに富んだ方か」という事だ。
実際ヨブ記を全部読んでみると、ヨブが災いに遭っていた日々に比べ、祝福と幸いに満ちた年数の方が、圧倒的に多いではないか。

ただ、このヨブ記13章という時点では、彼は激しく怒っており、神と論じ合あおうという勢いだが、その前に彼は友人達をこてんぱんにこき下ろす。

ヨブ記13:4  あなたがたは偽りをもってうわべを繕う者、皆、無用の医師だ。
ヨブ記13:5  どうか、あなたがたは全く沈黙するように。これがあなたがたの知恵であろう。
ヨブ記13:6  今、わたしの論ずることを聞くがよい。わたしの口で言い争うことに耳を傾けるがよい。

ここまで言われてしまっては、友人達もさらにヒートアップせざるを得ない。

ヨブ記13:7  あなたがたは神のために不義を言おうとするのか。また彼のために偽りを述べるのか。
ヨブ記13:8  あなたがたは彼にひいきしようとするのか。神のために争おうとするのか。
ヨブ記13:9  神があなたがたを調べられるとき、あなたがたは無事だろうか。あなたがたは人を欺くように彼を欺くことができるか。
ヨブ記13:10  あなたがたがもし、ひそかにひいきするならば、彼は必ずあなたがたを責められる。
ヨブ記13:11  その威厳はあなたがたを恐れさせないであろうか。彼をおそれる恐れがあなたがたに臨まないであろうか。

ヨブは、彼らが自分達を教え諭す者、「高い者」として位置づけ、「低められているヨブ」「間違っているヨブ」を教え諭し、正しい方向に導こうとして、実際は的を外した格言を並べ立てている事を、ヨブは、「神に成り代わっている」「傲慢だ」と非難し、神がそんなあなた方に現れるならあなた方は耐えられるのか、とまで言っている。

ヨブ記13:12  あなたがたの格言は灰のことわざだ。あなたがたの盾は土の盾だ。
ヨブ記13:13  黙して、わたしにかかわるな、わたしは話そう。何事でもわたしに来るなら、来るがよい。

彼はもはや、友人達には黙っていてほしい、自分はただ、神と関わりたい、という願いを叫びの中で打ち明けた。
人は、人生の中でどうしようも超えられない苦難や悲しみに直面した時、何かの慰めや解決を求めて、誰か「人」に行くなら、大体、もっと失望するものだ。
苦難や悲しみの度合いが深ければ深い程、なお、そうである。
そのような時、ヨブのように、人にではなく、神に向かうべきなのだ。

ヨブ記13:14  わたしはわが肉をわが歯に取り、わが命をわが手のうちに置く。
ヨブ記13:15  見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。
ヨブ記13:16  これこそわたしの救となる。神を信じない者は、神の前に出ることができないからだ。
ヨブ記13:17  あなたがたはよくわたしの言葉を聞き、わたしの述べる所を耳に入れよ。
ヨブ記13:18  見よ、わたしはすでにわたしの立ち場を言い並べた。わたしは義とされることをみずから知っている。
ヨブ記13:19  だれかわたしと言い争う事のできる者があろうか。もしあるならば、わたしは黙して死ぬであろう。

ヨブは何もかも失い、瞬間瞬間、ひどい”かゆみ”に悩まされ、さらには、友人達にも悩まされている状態である。
もう自分は失う者は無い、どころか、瞬間瞬間ただ苦痛だ、もうどうなってもいい、ともかく、ここまでなったからには神と論じ合いたい、と求めるようになった。
それで20節以降、神との論議に入るのだが、しかし最初の論調は、友人達に示したような凛々しく激しい態度ではなく、まずは、恐る恐るのお願いから始まる。

ヨブ記13:20  ただわたしに二つの事を許してください。そうすれば、わたしはあなたの顔をさけて隠れることはないでしょう。
ヨブ記13:21  あなたの手をわたしから離してください。あなたの恐るべき事をもってわたしを恐れさせないでください。
ヨブ記13:22  そしてお呼びください、わたしは答えます。わたしに物を言わせて、あなたご自身、わたしにお答えください。

つまり、神の圧倒的な力と圧倒的な正しさでわたしを圧迫しないで下さい、この痛手を取り除いてください、そして、わたしが話せるように、お膳立てして下さい、というのだ。
神に論じ合いたい!と激しく迫っておきながら、神に憐れみを求めているのである。
なんと調子の良い、と思えるかもしれないが、私達も神にお願いする時、調子よくお願いするものである。
ヨブはさらに、調子の良い申し出をする。

ヨブ記13:23  わたしのよこしまと、わたしの罪がどれほどあるか。わたしのとがと罪とをわたしに知らせてください。
ヨブ記13:24  なにゆえ、あなたはみ顔をかくし、わたしをあなたの敵とされるのか。
ヨブ記13:25  あなたは吹き回される木の葉をおどし、干あがったもみがらを追われるのか。
ヨブ記13:26  あなたはわたしについて苦き事どもを書きしるし、わたしに若い時の罪を継がせ、

ヨブは、自分が罪を犯した者であると自覚している。
そして、自分が若き時に犯した罪は、ほんの木の葉ほどだ、そんな小さな一つ一つの罪さえも詳細に記録して、ご覧になられるのか、と、申し上げている。

ヨブ記13:27  わたしの足を足かせにはめ、わたしのすべての道をうかがい、わたしの足の周囲に限りをつけられる。
ヨブ記13:28  このような人は腐れた物のように朽ち果て、虫に食われた衣服のようにすたれる。

昔、奴隷を持っていた主人は、奴隷の足型を取るか、あるいは足の裏に焼き印を押す。それは万一奴隷が逃げたとしても、その足あとから、どの奴隷が、どこに逃げたのかを特定するためだった。
ヨブは神に対し、自分の足あとの記録を、良しも悪しもつぶさに記録し、その一つ一つを入念に調べつくされているような気がしたのだ。
現在インターネット上で、人々がネット上で行った物事が全部、ウェブログ上に記録されているように。
ヨブは、神よ、あなたはそんな足あとの一つ一つも記録しておられるのですか、そんな事をしたら、誰も彼も、腐れた物のように朽ち果て、虫に食われた衣服のようにすたれてしまいますよ、と申し上げている。
そう、そんな事をされたら、人は、ひとたまりもない、と思う。しかし神は、ウェブログよりもさらに詳細に一人一人の記録をしておられ、それによって終わりの日、裁かれる事になる。

人は人生の内で、一体いくつ、主に打たれても仕方がない罪を犯して来ただろうか。ヨブでさえ、そうなのだ。
一体なぜ人は、主の御前に死罪に値するような事を何遍も犯しているのに、主に打たれずに、こうして生きながらえているのか。

それは、「神の恵み」故である。
私達は今、恵みの中で生かされている。
神は、悪は即処罰と機械的に処断するお方ではなく、情状酌量して下さるお方であり、私達はこの恵みの日、救いの日の内に、キリストの十字架の贖いの覆いへと、飛び込んでいくべきである。救われるために。
神と積極的に関わっていくべきである。
ダビデは積極的に、神に情状酌量を求めて祈った。

詩篇25:6  主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。
詩篇25:7  わたしの若き時の罪と、とがとを思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。
詩篇25:8  主は恵みふかく、かつ正しくいらせられる。それゆえ、主は道を罪びとに教え、
詩篇25:9  へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。
詩篇25:10  主のすべての道はその契約とあかしとを守る者にはいつくしみであり、まことである。
詩篇25:11  主よ、み名のために、わたしの罪をおゆるしください。わたしの罪は大きいのです。

積極的に神と関わり、時にはヨブのように神と論じ合い、時にはヤコブのように神と相撲を取り合い、神と仲良く共に歩みつつ、造り変えられ続け、祝福の実りを豊かに実らせていく皆様の人生でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ヨブの応答 - 善悪判断の応酬という不毛な牢獄へ落ち込んで行くヨブ達(ヨブ記12章)
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ナアマ人ツォファルの言葉に対してヨブが答えるが、その答えは、ツォファルへの返答というより3人の友人達の論説に対するヨブの辛辣な総評となり、さらには、神と論じ合いたい(13:3)とまで、論調がエスカレートして行ってしまう。

12:1 そこでヨブは答えて言った、
12:2 「まことに、あなたがたのみ、人である、/知恵はあなたがたと共に死ぬであろう。

ヨブは、あなた方が広げた知恵は人の知恵、死ねば一緒に無くなる息のような知恵だという酷評から始まる。
ツォファルは、ヨブを口達者なおしゃべりで、それもそのおしゃべりの内容は、「むなしい(バド:うそ)」、「あざけり」だと決めつけてかかって来た(11:3)が、ヨブはまさに売り言葉に買い言葉で返し、自分も知恵ある者だ、と主張する。

12:3 しかしわたしも、あなたがたと同様に悟りをもつ。わたしはあなたがたに劣らない。だれがこのような事を知らないだろうか。
12:4 わたしは神に呼ばわって、聞かれた者であるのに、/その友の物笑いとなっている。正しく全き人は物笑いとなる。

ヨブ自身、自らを悟りある者、あなた方に劣らない者である、わたしは神を呼んで神に聞かれた者である、それなのにあなた方ときたら、わたしを物笑いにしている、と批判し、あなた方が開帳したそんな知恵など、知らない者があろうか、と、こきおろす。
感情が高ぶって発せられた言葉とはいえ、一応、ヨブを思いやって訪ねて来た友人達である。傲慢な言葉であるが、以下に続く言葉は、もっと論調がヒートアップして行く。

12:5 安らかな者の思いには、/不幸な者に対する侮りがあって、/足のすべる者を待っている。
12:6 かすめ奪う者の天幕は栄え、/神を怒らす者は安らかである。自分の手に神を携えている者も同様だ。

ヨブは、友人達が、自分達は安泰な者、不幸に落ちぶれたヨブを、高い位置にある自分達が教え導かなければならない、というような立場にしている、と指摘し、しかも、「かすめ奪う者」「神を怒らす者」「自分の手に神を携えている者」という言葉を発したからには、暗に、ヨブの友人達はそのような者だ、と批判しているのだろう。

義人ヨブ。なぜここまでねじ曲がってしまったのか。
パウロは言う。

1コリント3:18 だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。
3:19 なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」と書いてあり、
3:20 更にまた、「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある。

ヨブと友人達は、自分をこの世の知者だと思っており、それを曲げずにいるが、ヨブのように大いに苦しんでいる友人と相対した時には、むしろ自分の知者である事を降ろし、愚かになるべきだ。
もし自分をあくまで知者だと貫くなら、「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある通りである。

もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていないのである。(1コリント8:2)
知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てるからだ。(同1節)
むしろ、「自分は正しい」という思い込みは、ヨブのような義人さえも腐らせてしまうのだ。

ヨブはさらに言う。
12:7 しかし獣に問うてみよ、/それはあなたに教える。空の鳥に問うてみよ、/それはあなたに告げる。
12:8 あるいは地の草や木に問うてみよ、/彼らはあなたに教える。海の魚もまたあなたに示す。
12:9 これらすべてのもののうち、いずれか/主の手がこれをなしたことを知らぬ者があろうか。
12:10 すべての生き物の命、/およびすべての人の息は彼の手のうちにある。

全ての生き物のいのち(ネフェシュ:生物的な命)も、神の似姿である人間の息(ルアッハ:神の霊)も、全て神の御手が下さるものである。
そのような事は、何も、あなた方が言わなくても、獣でも、鳥でも、地も、海の生き物さえ、みんな知っている事だ、とヨブは言う。
ちなみに、ヨブ記3章から37章の、詩文体の討論の中で、唯一、主エホバの御名があるのは、この12章9節のヨブの言葉のみである。
それ程、この討論には、主エホバの御名の無い、人間の知恵、人間の正しさばかりがはびこっている、不毛なものなのだ。

12:11 口が食物を味わうように、/耳は言葉をわきまえないであろうか。
12:12 老いた者には知恵があり、/命の長い者には悟りがある。
12:13 知恵と力は神と共にあり、/深慮と悟りも彼のものである。

友人達の言葉は、ヨブには全く響かなかった。味わいが無かった。
知恵は、人が年を取れば自動的に身につけるものではない、神が下さるものである、それに引き換えあなた方の知恵は人間由来で、死んでしまえば無くなるものだ、とヨブは主張している。

友人達は、因果応報的な神観を打ち出したが、続く14節以降から読み取れるヨブの神観は、神は何か専制君主のように、思いのままに人を高くし、あるいは引きずり下ろす圧制者のようなお方であるかのような感じが、にじみ出ている。
それはねじ曲がった神観であるが、ヨブをそのようにしてしまったのは、結局、ヨブと友人達の「自分は正しい」という、頑として曲げない前提条件と、「自分は知者だ」という驕り高ぶりである。
自分は善、あれは悪。
そのような善悪判断こそ、全てのものに死をもたらす毒薬である。

創世記2:16  主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
2:17  しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

ヨブと友人達を、主エホバの御名の無い、不毛な人間の議論という「死」へと導いてしまったものは、飽くなき善悪主張なのだ。
結局、この12章から学ぶべき言葉、この不毛な善悪応酬の牢獄から解放される鍵は、以下の御言葉であろう。

ローマ12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
12:16 互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。

ツォファルによる最初の弁論 - 数多の言葉から言葉尻を捕らえて議論する事の無意味さ(ヨブ記11章)
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11章は、ナアマ人ツォファルによるヨブへの最初の答弁である。

11:1 そこでナアマびとゾパルは答えて言った、
11:2 「言葉が多ければ、答なしにすまされるだろうか。口の達者な人は義とされるだろうか。
11:3 あなたのむなしい言葉は人を沈黙させるだろうか。あなたがあざけるとき、/人はあなたを恥じさせないだろうか。

ツォファルが最初の答弁をする頃になると大分議論が白熱化しヨブが多くの言葉をすでに発したが、それ故にツォファルはヨブを口達者なおしゃべりで、それもそのおしゃべりの内容は、「むなしい(バド:うそ)」、「あざけり」だと決めつけてかかっている。

11:4 あなたは言う、『わたしの教は正しい、/わたしは神の目に潔い』と。

確かにヨブの怒涛のような分量の言葉の中には、そのように言った言葉もあった。(10:7)
しかし怒涛のような言葉を言わなければならない情状があったわけであり、決して彼は理由なく怒涛のような言葉で「うそ」や「あざけり」を言ったつもりは無い。
そこで、この言葉ゆえにますますヨブを苛立たせ、さらにあさってな議論のぶつけあいが白熱化してしまう。

11:5 どうぞ神が言葉を出し、/あなたにむかってくちびるを開き、
11:6 知恵の秘密をあなたに示されるように。神はさまざまの知識をもたれるからである。それであなたは知るがよい、神はあなたの罪よりも/軽くあなたを罰せられることを。
11:7 あなたは神の深い事を窮めることができるか。全能者の限界を窮めることができるか。
11:8 それは天よりも高い、あなたは何をなしうるか。それは陰府よりも深い、あなたは何を知りうるか。
11:9 その量は地よりも長く、海よりも広い。

ツォファルがヨブを、うそとあざけりを口達者にべらべらしゃべっているという思い込みから話している限り、いかに神の素晴らしさを並べようとも、それは苛立たしい羽音に過ぎない。
相手をよく見ない・聞かない伝道は、まさにそのようなものでしかない。

11:12 しかし野ろばの子が人として生れるとき、/愚かな者も悟りを得るであろう。

聖書注解を見ると、彼がこの「ことわざ」を持ちだした理由も、その意味も難解とされているが、いずれにせよヨブが御し難い野ろば、愚か者、と揶揄している事は確かだろう。
相手がどうしてそんなに饒舌になるのか。どうしてそんなに、傍からみれば愚か者のような有様になってしまっているのか。それをまず見て、聞き出す必要がある。
よく聞いてこそ、突かれた人を癒やす舌が与えられるからだ。
イザヤ50:4 主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。

いずれにせよ、ヨブ自身が言葉数を多くしてしまい、その言葉の中に、愚か者と見做されて仕方ないような言葉もあった事は確かである。

箴言10:19 言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある。
伝道者の書5:1 神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。
5:2 神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。
5:3 夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。

ヨブは言葉数を多くして、愚かな声となってしまった。
口から怒涛のように文句を述べたい時は、どうすれば良いか。

ハンナは、ペニンナから礼拝のたびに子供がないという点を突かれてハンナを苛立たせた。
ハンナはペニンナに対し、あるいは夫に対し、怒涛のように愚痴をこぼしても仕方がなさそうな状況であったにもかかわらず、その言葉は一切、言葉の振動として空中に発さず、ただ神にのみ、言葉にならない祈りを捧げた。
彼女は全部、神に持って行った。それゆえ、神は彼女の祈りに答えられ、神に捧げられた子、サムエルという、偉大な預言者を生むに至った。

私達のこのくちびるは汚れており、また、汚れたくちびるの民の間に住んでいる故、私達はそのままでは神の御前に出る事は出来ない。(イザヤ6章)
だからこそ、ただ、神に持っていくべきである。憂い、悲しみ、叫びを。
ヨブは苦難を受けた後、確かにくちびるで罪を犯さなかったが、しかし募る憂いを神に向かって吐き出す事がないままに、友人たちへの言葉のぶちまけに入り、そうして、この段々と白熱化して行く無味な議論へと突入して行ってしまった。

私達はただ、人にではなく、まず神に向かうべきである。

父・子・御霊なる神が3方向から私達を愛で取り囲み守っておられ、トーブ(善)へと導いて下さる(ローマ8:26-39)
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御父は、私達のために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されたほど、私達を愛してくださった。
8:32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。

御子キリストは、私達の代わりに死んで身代わりの犠牲になって下さる程に私達を愛し、よみがえり、神の右の座に着き、私達のためにとりなしていてくださる。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。

御霊は弱い私達を助け、言いようのない深いうめきによって私達のためにとりなして下さる。
8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

このように、父、子、聖霊なる神が、3方向から私たちを愛の囲いで取り囲み、執り成し守っていて下さる。

そういう訳で、世のいかなる者が私達に敵対し、悪を企んでも、主はそれを益(アガトン:善=トーブ)へと創り変えて下さるのである。
8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益(アガトン)となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。

ヨセフの兄たちはヨセフに悪を企んで奴隷として売り飛ばそうとしたが、神はその絶対的な悪を、ヤコブ家族70人を救うための善に変えてくださった。
彼は正直で、柔和で、怒らず、つぶやかず、何事も神を第一にし、自分を低くする性質だったので、神に愛され、どんな人がどんな不当に扱おうと、彼は神の特別扱いを受け、結局彼がする事は全て祝福された。

『あなた方はわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを「良きに変らせて(ハシャバ・レトバー)」、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。』(創世記50:20)
ここが創世記の結論であり、全歴史の結論である。
ここのハシャブは「織り込む、染み込む」の意味で、トーブは「良し」という意味である。たとえ何者かが私達の人生に悪を企み、罪の奴隷や絶望の牢へ投げ込もうとも、神のトーブがそこに織り込まれ染み込まれる。
ヨセフの兄達が弟ヨセフを奴隷に売った事は、ひどい悪である。しかし神はその悪を用い、売った兄や、父さえエジプトのゴシェンの地で養い、一つの国家へと仕立てて行くという、絶大なトーブに変えてくださった。
神の名は「有りて在る」であり、創造の6日に6回トーブを宣言された方だ。いかにサタンの企みにより、奴隷にさせられても、そこにトーブを「在らせ」、織り込ませ、癒やし、忘れさせ、引き上げ、栄えさせて下さる。

そうであるからには、世の何者が私達に敵対できるだろうか。
世の何者も、この愛から引き離す者は、無い。

8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

神様を不当者にしてしまう人に共通する主張:「わたしは悪くない」(ヨブ記10章)
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ヨブの、ビルダデに対する返答から、神への問いかけへと転換した9章に続き、10章は、神様に対する感情的な嘆きのぶちまけへと発展して行く。
感情的なぶちまけの故に、その内容には神様に対する認識が間違っている点も多いが、少なくとも「神様と関係している」という点において、彼は道を外していない。

10:1 わたしは自分の命をいとう。わたしは自分の嘆きを包まず言いあらわし、/わが魂の苦しみによって語ろう。
10:2 わたしは神に申そう、/わたしを罪ある者とされないように。なぜわたしと争われるかを知らせてほしい。

3人の友人たちの弁論の内容は、間違っていないかもしれないが、彼らの言葉には主エホバの御名は無く、神様との個人的な関わりが無いのに対し、ヨブの弁論の内容は、たとえ間違っているにしても、それでも、神様と深く個人的に関わっている点においては、ヨブのほうが真実なのだ。

10:3 あなたはしえたげをなし、み手のわざを捨て、/悪人の計画を照すことを良しとされるのか。
10:4 あなたの持っておられるのは肉の目か、/あなたは人が見るように見られるのか。
10:5 あなたの日は人の日のごとく、/あなたの年は人の年のようであるのか。
10:6 あなたはなにゆえわたしのとがを尋ね、/わたしの罪を調べられるのか。
10:7 あなたはわたしの罪のないことを知っておられる。またあなたの手から救い出しうる者はない。

彼は、神様はあたかも肉に過ぎない人間のごとくに不当に人をしいたげ、悪人に与するような事をして御手のわざを捨てているのは、一体それは良い事なのか、と言っており、さらに、神様はあたかも人間が肉の目で見るのと同じように人を見、罪のない人間を不当に苦しめる、と申し上げているが、それらは、行き過ぎた思い込みである。
聖書のはじめから終わりまでを読むなら、神は真実で正当なさばきをされるお方である事が分かる。

ただし、この問題を単に感情的な叫びだと看過する事ができないのは、実に多くの人達が、このヨブのような偏見を持って、神様に敵対している事である。
そのような偏見は、どうして起きるのか?
その原因は、単純明快である。
それは「自分は正しい」「自分には罪がない」という前提条件で生きている事である。
ヨブはまさに、3章から37章まで、ずっとその意識を貫き通している。

まずローマ3章に書いてある通り、義人はいない、ひとりもいない。
さらに書かれてある。
1ヨハネ1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

ヨブはまさに、神の側を偽り者とし自分の側を正当としている状態だが、その原因はここに書いてある通り、罪がない、と言う所である。
全て、神は不当だ、と叫ぶ人達に共通している前提条件は「自分は悪く無い」「自分には罪は無い」である。
神は、真実で正しい方である。私達が自分の罪を告白するなら、神はその罪をゆるし、すべての不義からきよめて下さるのだ。

ヨブは確かに義人を貫いたかもしれない。いわれのない罪を犯さなかったかもしれない。
ただ唯一、彼が罪を犯した事とは、義人は本来一人もいないはずなのに、自分をあくまで正しいとし、自分に罪はない、とした事だ。

ヨブは続いて、わたしをこのように造られたのはあなたではありませんか、と主張し(8-13節)、そのように私をつくっておきながら不当に苦しめ、私が正しくても、圧倒的な力で「罪有り」とねじふせてしまいます。これいかに?と主張する。(14-17節)
世の中には、確かに、そのように主張する人も多い。
しかし結局、一緒である。すなわち、自分は正しい、自分には罪がない、という前提条件が、そもそもまちがいなのだ。

ダビデも同じように苦しみが大きくなった時、彼は素直にそれは自分の罪ゆえだと告白した。
詩篇25:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれんでください。わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです。
25:17 わたしの心の悩みをゆるめ、わたしを苦しみから引き出してください。
25:18 わたしの苦しみ悩みをかえりみ、わたしのすべての罪をおゆるしください。

ヨブの場合、確かに1章2章において、見上げるほどの信仰告白をした。
しかしその気高さゆえに、自分を義としてしまい、罪を告白するに至らず、ずっと苦しむはめになってしまう。
ダビデはすぐに自分に罪があり、主の憐れみゆえにそれを覚えていないでください、あなたの憐れみで憐れみ、赦して下さい、と告白するから、回復もすぐなのだ。

10:18 なにゆえあなたはわたしを胎から出されたか、/わたしは息絶えて目に見られることなく、
10:19 胎から墓に運ばれて、/初めからなかった者のようであったなら、/よかったのに。
10:20 わたしの命の日はいくばくもないではないか。どうぞ、しばしわたしを離れて、/少しく慰めを得させられるように。
10:21 わたしが行って、帰ることのないその前に、/これを得させられるように。わたしは暗き地、暗黒の地へ行く。
10:22 これは暗き地で、やみにひとしく、/暗黒で秩序なく、光もやみのようだ」。

ヨブは再び、こんな事なら生まれて来ないほうが良かった、あるいは生まれてそのまますぐに墓に運ばれたほうが良かった、と言った。
こんな正しい者が、こんな苦しい目に遭わせられるような不条理を提供されるなら、生きていないほうがましだ、という方向に行ってしまう所に、苦しみはずっと継続してしまう。

このようにヨブは、感情的になるにつれ、隠れていた自己義がどんどん吐き出されて行く。
自分は正しい、神は不当だ、とする事は当然間違いであるが、それでも彼は、神様と深く、個人的に関わろうとしている。
それも、神様の胸ぐらを掴んで、どうしてですか!とせんばかりの勢いであるが、神様は、そこまでして「関わろう」とする人を、待っていましたとばかり答えて下さり、間違った方向性を但し、さらに祝福の器へと造り変えてくださる。
主が、祝福をつかみとるために相撲までふきかけて来たヤコブを、イスラエルへと変えたように。

夫婦関係は、喧嘩している内はまだ安泰であるが、もし、相手が浮気しても何も感じない・喧嘩もしないとしたら、深刻である。
同じように、霊的に最も深刻な状態とは、神様と関わろうとしない、神様に対する無関心な状態である。

主を敬う人を守り、安全に導いて下さる主(創世記31:1-18)
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週報/メッセージ(説教)概要 

世の中には、過酷な要求をしたり騙し取ったり、契約をころころと自分の有利に変える雇い主も多い。前回登場したラバンはまさにそういう雇用主だったが、主はその下で働かされているヤコブを顧みて下さった。
主は、悪者の道に歩まず、誠実に生きる人にこそ目を留め、祝福し、そのような悪環境から救い出し、さらに優れた所へと導いて下さる。前回の続きからの箇所を見るとそれがよく分かるので、今回も見ていきたい。

『さてヤコブはラバンの子らが、「ヤコブはわれわれの父の物をことごとく奪い、父の物によってあのすべての富を獲たのだ」と言っているのを聞いた。』(創世記31:1) 実際は逆で、ヤコブに報酬として約束したぶち毛やまだら毛の羊ややぎを、ラバンは息子達に渡して3日の道のりの向こうへ移送してしまい、ヤコブはそれを、文句も言わず、少ない残りを飼った。
ヤコブには不利だったが、ラバンは騙しでのし上がる者、ヤコブは全てを支配しておられる神に依り頼む者。軍配は当然、ヤコブに上がる。神はヤコブのものを増やし、ラバン達のものは減って行った。しかし彼らは不都合な事は自動的に人のせいにし、自分達がした悪事を悔い改めず、ヤコブの神を恐れる事もせず、嘘を思い込んで言いふらし、敵対心を露わにして行く。
その時、主はヤコブに現れた。「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいる」と(3節)。そこでヤコブは、ラバンの娘である妻達に伝える。あなたの父の、自分に対する顔つきは変わってしまった。それでも「わたしの父の神はわたしと共におられる。」と(5節)。主は弁護して下さるのだ。
7-9節を読むと、ラバンは何度も報酬を変えていた事が分かる。元々の約束はぶち毛とまだら毛のものが報酬だったが、勝手にそれをぶち毛のもの限定に変更し、自分は儲かってヤコブを貧しくさせようと企んだが、ラバンの口から「ぶち毛のものが報酬だ」と言ったとたん、いのちを支配しておられる主は、ぶち毛をどんどん生まれさせ、それを見たラバンが、やっぱり、まだら毛が報酬だ、と言ったら、今度は主は、まだら毛のものばかりを生まれさせた。
以上のように、いのちも、物も支配しておられる主は、主に忠実に従う神の民が、いかなる領域でビジネスをするにしても、その手のわざを祝福し、悪人の手に陥る事はさせない。
ラバン達は彼が祝福されているのを見てなおヤコブの神に立ち返らず、妬んで罵るが、主は保護される。

『すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。』(12節) 主は、主の民の悩みをつぶさに見、また追い使う者ゆえに叫ぶ叫びを聞き、その苦しみを知っておられる。(出3:7)
ヤコブは14年間、結婚するために猛烈に働いて何も持っていなかったが、わずか6年で、雇用主であるラバンを追い抜いた。不利な条件で始まり、しかも報酬を何度も変えられたにもかかわらず、である。
主はさらに言われる。『わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』(13節) 
ベテル。そこはヤコブにとっての信仰の原点である。その時ヤコブは、兄エサウに命を狙われていたため、杖一本だけで家を飛び出し、その途上、ベテルで石の枕をして一晩寝た。そこで、夢を見た。天から地に架けられたはしごを御使い達が登り降りしており、主は彼に現れて言われた。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。」(創世記28:15) それ以降、ヤコブは確かに守られ、祝福されて来た。

こうしてヤコブは帰る決心をし、ラバンの娘である妻達も賛成だった。彼女達は父から「よそ者(ノクリィ:異邦者、姦通の女)」と見なされ、しかも、花嫁のために蓄えるべきお金も、父に使い果たされてしまったのだ。
こうしてヤコブと妻達は一大決心し、大勢となった子供達や家畜たちを連れて、ラバンの家から脱出する。
その大移動は、危険が伴うであろう事は明らかであり、ヤコブも、自分を殺そうとしていた兄エサウとの確執がどうなっているかを知らない。しかし、確かな主の言葉があり、御旨である事が明らかなのだから、いかにその旅の先が危険なように見えても、進みゆくべきである。これは私達の場合も一緒だ。
ただ主の言葉だけを頼りに出て行く。ヤコブにベテルで現れた主は、その20年間、主が約束して下さった通り、ずっと真実に導き続けて来られた。そして、これからもそうだと信じて、彼らは出て行く。この主は、今も変わらず、信じる私達を、導き続けて下さる。恐れる事なく主と共に歩み行く皆さんでありますように!

神と人との間で執り成す仲保者がいない事を嘆くヨブ(ヨブ記9章)
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9章と10章は、シュアハ人ビルダデに対するヨブの答えであるのだが、9章の途中から、ヨブの神に対する訴えへと変わって行く。

9:1 ヨブは答えて言った、
9:2 「まことにわたしは、その事の/そのとおりであることを知っている。しかし人はどうして神の前に正しくありえようか。

ヨブはビルダデに反論していない。
神は悪者を滅ぼすが、悔い改めて神に立ち返るなら神は祝福を回復して下さるという事には反論の余地はない。
しかしヨブにとって問題なのは、どうしてこんなにも、自分に見合わないと思える程の災いにあわなければならないのか、という事である
もし災いに見合った罪を犯していたのであれば、まだ納得が行くが、しかし、こんなにも酷い災いに見合うような悪い事を、ヨブ自身は見つけられないからこそ、「一体何故に!」と叫び続けているのである。

そして、神の力強さ、全知全能さを、ヨブは4節から11節まで告白し、そんな力強すぎる神について、次のように言う。

9:3 よし彼と争おうとしても、/千に一つも答えることができない。
・・・
9:12 見よ、彼が奪い去られるのに、/だれが彼をはばむことができるか。だれが彼にむかって『あなたは何をするのか』と/言うことができるか。

さらに、ヨブは、このような神に何か物申しても無駄だ、たちまちにその全能なる御腕で、こんな私の訴えはいとも簡単にへし折られてしまうのだ、という独白をする。

9:14 どうしてわたしは彼に答え、/言葉を選んで、彼と議論することができよう。
9:15 たといわたしは正しくても答えることができない。わたしを責められる者に/あわれみを請わなければならない。
9:16 たといわたしが呼ばわり、/彼がわたしに答えられても、/わたしの声に耳を傾けられたとは信じない。
9:17 彼は大風をもってわたしを撃ち砕き、/ゆえなく、わたしに多くの傷を負わせ、
9:18 わたしに息をつかせず、/苦い物をもってわたしを満たされる。
9:19 力の争いであるならば、彼を見よ、/さばきの事であるならば、/だれが彼を呼び出すことができよう。
9:20 たといわたしは正しくても、/わたしの口はわたしを罪ある者とする。たといわたしは罪がなくても、/彼はわたしを曲った者とする。
9:21 わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。わたしは自分の命をいとう。

結局、神はわたしのちっぽけな訴えなんて聞いてくれないのだ、自分が何を叫んでも神様は御心のまましか行わないのだ、訴えても無駄だ、という無気力にヨブは覆われている。

9:22 皆同一である。それゆえ、わたしは言う、/『彼は罪のない者と、悪しき者とを/共に滅ぼされるのだ』と。

世間の多くの人が、この言葉に共感する。
神様は聞いてくれない、罪のない者も、悪しき者と一緒に滅ぼされる、と。
いや、違う。神は訴えを聞かれ、そのとおりであるかどうか計るために見に来られ、そして正当に審判する。

ソドムとゴモラは、不品行がはびこり、性的な錯乱がまかり通り、不当に抑圧されている者が多く、神の御前に悪を積み上げている町であった。
『主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」』(創世記18:20-21)
神は全能なるお方なのだから、わざわざ人の姿を取って、その通りかどうかを見に行く必要は無いはずである。
しかし、主がわざわざ人の姿を取り、主みずから足で行って目で見、耳で聞き、そこの住人が実際に乱暴した様を実体験したのであるなら、その報いとして滅ぼされても、誰も何の文句も言えないはずである。

そして主は、なさろうとする事をアブラハムに打ち明けられた。
なぜなら主は、いかに罪人であっても、滅ぼす事は望んでおられず、彼らが悪の道から離れて生きることを望まれるお方であり(エゼキエル18:23)、人を滅ぼさないようにと、ご自身に執り成してくれる人が立つのを、主は望んでおられるからだ。

アブラハムは、主がソドムとゴモラに行き、その罪が非常に大きいかどうかを確かめに行く、という事を聞いて意を決し、主の前に立ち、申し上げた。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」(創世記18:24)
主の答えは、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(26節)だった。
そこを発端に、主とアブラハムとの交渉がはじまり、アブラハムは「では45人なら」と食い下がり、さらには40人、30人と詰めて行き、最終的には、ソドムにいる義人がたとえ10人であっても、町は滅ぼさない、という約束を漕ぎ着けるまでに至った。

主は、見て、聞かれるお方である。
そして、人の祈り、執り成し、交渉に、応じて下さるお方である。
ヨブ記9章の瞬間的には、主に聞かれていないかのように見えても、全体で見るなら、主は聞かれただけでなく主は恵み深く憐れみ深いという事を示された。

多くの人は、この、瞬間的な事だけを見て「神は不当だ」と攻撃材料にするが、そのような人は、その後にどうなったか、という事を飛ばしてしまっている。
書いてある。

ホセア6:1 「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。
6:2 主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。
6:3 わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。

神は、打って終わりではない。再び包んで、いやし、以前よりも素晴らしい状態へして下さる。
ユダヤでは先の雨と後の雨によって土地は潤され作物が大いに育つが、それ以外の大部分のシーズンは、乾季である。カラカラである。
しかし主は、このユダヤの地に冬の雨と春の雨を降らせ、それによって、ぶどうやオリーブがよく育つのだ。

ヨブ記9章は、瞬間風速的に、カラカラの真っ最中である。
しかしヨブ記全体で見ると、いや、聖書全体で見ると、主は恵み深いお方である事がわかるのだ。
神は、カラカラにして、それで滅ぼすお方ではない。その後に雨を降らせ、潤し、先の状態よりも遥かに優れた状態にして下さる。
逆にサタンは、不当な道に導いて、潤し、不当な道を行けばもっと潤うと思わせて、砂漠のどまんなかへ導いて干からびさせるのである。

ヨブは友人達への返答から、いつしか独白へと移り、そして、神様への問いかけへと移っていく。

9:27 たといわたしは『わが嘆きを忘れ、/憂い顔をかえて元気よくなろう』と言っても、
9:28 わたしはわがもろもろの苦しみを恐れる。あなたがわたしを罪なき者とされないことを/わたしは知っているからだ。
9:29 わたしは罪ある者とされている。どうして、いたずらに労する必要があるか。
9:30 たといわたしは雪で身を洗い、/灰汁で手を清めても、
9:31 あなたはわたしを、みぞの中に投げ込まれるので、/わたしの着物も、わたしをいとうようになる。

ヨブは、「どうせわたしは罪ある者とされている。どうして、いたずらに労する必要があるか。」と、善を行う事も無駄なのではないか、自分がいかに自分をきよめようとしても、主の前にはただただ罪ある者、と、どうせされてしまうのだ、と、恐れている。
これを、不条理だ、と人は思う。しかし、神は、そんな不条理はしないお方である事を聖書は語っている。(後述)

9:32 神はわたしのように人ではないゆえ、/わたしは彼に答えることができない。われわれは共にさばきに臨むことができない。
9:33 われわれの間には、/われわれふたりの上に手を置くべき仲裁者がない。

ヨブは、このような偉大すぎる神を前に、どんなに頑張っても罪とされてしまう人間との間に仲介する者が、とりなす者がいない、と嘆いている。
しかし神は、そんな人間に、完全な仲介者を送って下さった。
イエス・キリストである。

2テモテ2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。

多くの人が誤解している。
神は天でふんぞり返って地を見下ろし、罪有る人間のもがき苦しみに何もしないでただ罪定めしている、と。
違う。
神であられるお方は、ご自分の御座を降り、天から降りて来られ、人となり、人として生き、人としての弱さ、悲しさ、苦しさを舐め尽くされ、悪魔の誘惑を受けられ、それに御言葉によって勝利し、私達に悪魔に勝利する方法を示して下さった。

ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
5:1 大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。
5:2 彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができる。

神の子キリストは、罪が無いお方であられるのに、人の身代わりとなって罪を負われ、死が無いお方であられるのに、人の死を身代わりに負って、死んでくださり、そして、復活によって、罪と死を打ち砕き、勝利して下さった。
このキリストを主として信じる者に、キリストと同じ立ち位置、すなわち神の子としての立ち位置を与え、パラダイスへの道を開き、永遠のいのちを与えて下さったのだ。

キリストにあってこそ、私達はヨブが感じたような疎外感を感じる必要は一切無いのである。

ビルダデによる最初の弁論 - 単純な格言では片付けようがない問題(ヨブ記8章)
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8章はヨブに対するシュアハ人ビルダデによる答弁である。

8:1 時にシュヒびとビルダデが答えて言った、
8:2 「いつまであなたは、そのような事を言うのか。あなたの口の言葉は荒い風ではないか。
8:3 神は公義を曲げられるであろうか。全能者は正義を曲げられるであろうか。

ビルダデの口から出た真っ先の言葉は、ヨブの言葉は荒い風のようだ、いつまでそのような事を言うのか、という、責め立てる言葉だったが、ヨブ自身、自分の言葉は風のようであると自覚しており、その理由は、望みが絶えたからであり、霊のもだえと魂の苦しみゆえに口を制御できない、と、既に言っていた。(6:26,7:11)
だからヨブに対しそのように言うのは、風邪をひいた人に対して、なぜそのように荒く咳をするのか、と言うようなものである。
さらに彼は、歯に衣着せずに言う。

8:4 あなたの子たちが彼に罪を犯したので、/彼らをそのとがの手に渡されたのだ。

口語訳や新共同訳では、明確に、ヨブの子達が神に罪を犯したゆえに災いが起きた、と言っているが、KJVや新改訳では「”もし”、あなたの子らが神に罪を犯し」と訳している。
ここの「もし」は、「見よ!」とも訳せる語「イム」であるゆえ訳が分かれているのだが、いずれにせよ彼は子達にかかった災いを子達の犯した罪と関連づけ、ヨブはそれに対し何の反対もしていない所を見ると、やはりヨブ自身、子達が神に対して何らかの罪を犯したからだ、という自覚があるのだろう。

8:5 あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6 あなたがもし清く、正しくあるならば、/彼は必ずあなたのために立って、/あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
8:7 あなたの初めは小さくあっても、/あなたの終りは非常に大きくなるであろう。

確かにその通りなのだが、ヨブは既に神に激しく求め祈っている。
ヨブ自身には、神に激しく求めて祈った記憶が明確にあるのに、なお、「あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば」と言われても、ただ気分を害する以外にないし、本人自身、清く正しく歩んで来たという記憶しかないのに「あなたがもし清く、正しくあるならば」と言われても、全く心に届かないし、「あなたの初めは小さくあっても、/あなたの終りは非常に大きくなるであろう」と言われても、何の慰めにもならない。

8:8 先の代の人に問うてみよ、/先祖たちの尋ねきわめた事を学べ。
8:9 われわれはただ、きのうからあった者で、/何も知らない、/われわれの世にある日は、影のようなものである。
8:10 彼らはあなたに教え、あなたに語り、/その悟りから言葉を出さないであろうか。

エリファズは自分が体験した神秘体験を元にヨブを諭したが、ビルダデは先人の知恵を元に諭す。
11-19節は、神を忘れる者・神を信じない者は実にもろく、くもの巣によりかかっているようなものだ、いかに生い茂っていたとしてもすぐに枯れてしまうものだ、という、一連の格言を披露し、そうして次のように結論づける。

8:20 見よ、神は全き人を捨てられない。また悪を行う者の手を支持されない。
8:21 彼は笑いをもってあなたの口を満たし、/喜びの声をもってあなたのくちびるを満たされる。
8:22 あなたを憎む者は恥を着せられ、/悪しき者の天幕はなくなる」。

シュアハ人ビルダデの答弁は、単純に正論で、ヨブも「まことに、そのとおりであることを私は知っている。」と答えている。(9:2)
しかしヨブが直面している問題は、そんなに単純ではないのだ。
ヨブ自身、道を外した記憶も、悪を行った記憶も無く、なにより、神ご自身から「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」(2:3)と言われる程なのだから、「罪を犯したらすなわち災いが、きよく歩んだならすなわち幸いが」という単純な論理をヨブに押し付けられても、全くあさってに聞こえただろう。
ヨブは単純に思い出せるような罪を犯していないのに、こんなにも酷い災いに遭ってしまっている事、そして、その意味が見いだせない事こそ、切実な問題なのだ。

人は、罪を犯した、犯していない、で世の諸々を片付けようとする。
イエス様の弟子だって、そうだった。しかし、イエス様の答えは、人の思い込みと論法とは別次元のものである。

ヨハネ9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。

それは神の栄光あらわれるため。
これが、イエス様の答えである。
そうである。ヨブ記前半から中盤は、ただだれが罪を犯した、犯していない、の激しい応酬で、何の益も生み出さなかったが、後半は、神の圧倒的な栄光で満ち満ちている。

人のあらゆる弱さ、災い、そして犯して来た罪さえ、全部、神の栄光へと変えて下さる私達の主イエス様こそ、偉大なお方である。

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