メッセージ - 最新エントリー

わが友よ、わたしをあわれめ!わたしをあわれめ!(ヨブ記19章)
Youtube動画
メッセージ音声

_______________ .
ビルダデに対するヨブの答えが19章である。

ヨブ記19:1 そこでヨブは答えて言った、
19:2 「あなたがたはいつまでわたしを悩まし、/言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
19:3 あなたがたはすでに十度もわたしをはずかしめ、/わたしを悪くあしらってもなお恥じないのか。

ビルダデはただ罪の指摘をしたが、この時ヨブにとって必要なものは、罪定めではなく、憐れみだった。
ヨブは友人達が来るまでは、くちびるで罪を犯さなかったが、友人達が来てひたすら罪定めしてしまったために、ひねくれてしまった。

19:4 たといわたしが、まことにあやまったとしても、/そのあやまちは、わたし自身にとどまる。

そう、罪は、留まるのだ。
ヨブは当時の誰よりも罪を犯すことが少ない人だったかもしれない。しかしアダム以来、生来持った罪が、本人を責め立て、その罪から来る報酬である死を、誰も避けられない。

全ての人には罪がある。そしてその報いを受けなければならない。
ヨブは、たまたま他の人よりも罪が少なく、たまたま祝福されていたにすぎないが、実は彼さえも、罪の報酬をいつ受けてしまっても文句が言えない存在なのだ。

しかし、ヨブはそれを「不当」だと叫ぶ。

19:5 もしあなたがたが、/まことにわたしに向かって高ぶり、/わたしの恥を論じるならば、
19:6 『神がわたしをしえたげ、/その網でわたしを囲まれたのだ』と知るべきだ。
19:7 見よ、わたしが『暴虐』と叫んでも答えられず、/助けを呼び求めても、さばきはない。

ヨブは神に、「暴虐(カァマァス:間違っている, KJV:wrong)」と叫んだ。神よ、あなたが暴虐だ、間違っている、と。
そしてあなたは、何も答えない、沈黙している、と。
神は確かにこの時は沈黙していたように見えるかもしれないが、神は、いつまでも沈黙しておられるようなお方ではない。必ず正当なさばきをし、報いて下さるお方だ。

しかしヨブは、6節から13節まで、ずっと「彼(神)は」で始まる言葉で叫んでいる。
すなわち、神がわたしを塞がれ、わたしを苦しめた、という訴えがなされ、そして13節から20節までは、彼の周りにいた人間が、ことごとくヨブを厭い、嫌い、侮り、あざけり、そむいたという事を、訴えている。

19:13 彼はわたしの兄弟たちを/わたしから遠く離れさせられた。わたしを知る人々は全くわたしに疎遠になった。
19:14 わたしの親類および親しい友はわたしを見捨て、
19:15 わたしの家に宿る者はわたしを忘れ、/わたしのはしためらはわたしを他人のように思い、/わたしは彼らの目に他国人となった。
19:16 わたしがしもべを呼んでも、彼は答えず、/わたしは口をもって彼に請わなければならない。
19:17 わたしの息はわが妻にいとわれ、/わたしは同じ腹の子たちにきらわれる。
19:18 わらべたちさえもわたしを侮り、/わたしが起き上がれば、わたしをあざける。
19:19 親しい人々は皆わたしをいみきらい、/わたしの愛した人々はわたしにそむいた。

このようにヨブは、神から打たれ、友から身内から、妻からいとわれ、嫌われ、無視されてしまった事を嘆いた。
のみならず、ヨブ自身のからだそのものも、ヨブに敵対してしまっている。

19:20 わたしの骨は皮と肉につき、/わたしはわずかに歯の皮をもってのがれた。

このような状況のヨブに、一体、何が必要だろう。
それは、あわれみである。
ヨブはそれを求めて叫んだ。

19:21 わが友よ、「わたしをあわれめ、わたしをあわれめ(ハヌイ!ハヌイ!)」、/神のみ手がわたしを打ったからである。

ハヌイはハナン(憐れむ)の命令形)である。
わが友よ、わたしをあわれめ、わたしをあわれめ。
これこそ、ヨブが最も欲していたものである。

しかしこの言葉は、友人達にはむなしく響いた。
友は、憐れみではなく、相変わらず罪定めと空しいことわざで返したからだ。

神に打たれ、人にさげすまれ、あわれんでくれる友が、誰もいない事。
これこそ人にとって最も深刻な事態であり、人類の誰しもが最も恐れるべき事である。

神は、そんな人類に、何も助けずにただ沈黙しておられるだけなのだろうか?
否!
神は、そんな絶望でうめいている人間のために、まことの友となって下さる、神のひとり子であられるイエス様を遣わして下さった。

イエス様は、38年もの間病気で動けず、もはや誰も彼を助けず、誰も彼を訪ねなくなってもう久しくなってしまったしまったような人に、友となって下さるために、訪れて下さった。

ヨハネ5:6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
5:7 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
5:8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
5:9 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。

イエス様は彼をいやし、床を取り上げて歩かせて下さった。
同じように、ヨブも、やがて床を取り上げて歩き出す時が来る。
神は決して沈黙しっぱなしではないのだ。

この、38年臥せっていた人にとって、最も深刻な「よくない事」は、病気ではなく、友がいない事だった。
彼はそれを訴えたが、イエス様は、まことの友となって下さった。
しかも、友のために、いのちを捨ててくださった。

ヨハネ15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

ヨブの友人達は、ヨブの様を見て、ありもしない罪定めをした。
しかし、まことの友であられるイエス様の場合は、人の罪の身代わりとなっていのちを捨てて下さった。

ヨブは、あわれんでくれる友を求めたが、その叫びは、友人達に対してむなしく響いた。
しかし、私たちには、いるのだ!
弱く、罪の責め苦の中であえいでいる私たちを、知っておられ、叫びに耳を留め、いのちを投げ出すほどの素晴らしい友となって下さり、弁護者となって下さり、覆い、あがない、救って下さるお方、イエス・キリストが!

このイエス様の友となるためには、条件がある。それは私達が、イエス様が命じる事を行う事である。
『あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。』(ヨハネ15:14)

そして、イエス様の命じられる事は、以下である。

ヨハネ15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
・・・
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
15:17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

互いに愛し合う事。
これこそ、イエス様が友となって下さる条件であり、幸いが戻って祝福が返ってくる条件だ。
実際、ヨブは最終的に、彼の友人達のために執り成し祈った。
すると、祝福が倍になって帰ってきた。

ヨブ記42:9 そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。
42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。

しかし、19章時点では、激しい罪定めの糾弾し合いが、変わらずに展開されている。

ヨブ記19:22 あなたがたは、なにゆえ神のようにわたしを責め、/わたしの肉をもって満足しないのか。
19:23 どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように。どうか、わたしの言葉が、書物にしるされるように。
19:24 鉄の筆と鉛とをもって、/ながく岩に刻みつけられるように。

ヨブは自分の言葉が、永遠に書き記される事を、求めている。
求めずとも、神の御前において、私達の行いもそうであるし、心の動きも、全て、書き留められている。
そして、終わりの日に、申し開きをしなくてはならない。

マタイ12:34 おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。
12:35 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。
12:36 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。
12:37 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。

私達が地上でしたあらゆる行いが、あらゆる言葉が、あらゆる心で描いた事が、永遠に記録されるとしたら、それは絶望以外の何者もない。

しかし、私達が友となって下さるイエス様に助けを求め、彼が私達の弁護者となって下さるなら、私達が犯してきた罪の記録は、御前からなくされ、神はもはやその罪を思い出さないのだ。

旧約を見ると、アブラハムもサラもヤコブもダビデも、かなりえぐい罪を犯した事が詳細に記録されている。
しかし、新約においては、その罪は記録されておらず、ただ彼らが少しでも為した信仰に基づく良い行いを、大いに取り上げ、信仰の偉人に仕立て上げている。
私達も、そうなのだ。
キリストを信じて救われ、眠りについた者は、この地上における諸々の罪は思い出されず、むしろ、この地上において行った、ちょっとした信仰のわざが永遠に賞賛され、天国において永遠に生きる恵みが与えられている。
これこそ、莫大なあわれみである。
ヨブは友人達に、わたしをあわれめ!と叫んだが、神はそのまことの友・イエス様を通して、莫大なあわれみを注いで下さったのだ。

ヨブの時代、イエス様はいないはずなのに、しかし、どうもヨブは、この御方を知っているかのようである。

19:25 わたしは知る、/わたしをあがなう者は生きておられる、/後の日に彼は必ず地の上に立たれる。

本当に不思議である。
ヨブはかつて言った、彼の保証となって下さるお方がいると。また、その彼が、弁護してくれる、と。
さらには、彼をあがなう方は、生きておられ、そして後の日、その方は、地の上に立たれる、と言った。
確かにイエス様は、そのようなお方である。

エペソ1:7 わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。

イエス様こそ、その血によって贖って下さったお方。そしてその血によって、罪のゆるしを得た。
まさにヨブが望んだ通りのお方である。

19:26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、/わたしは肉を離れて神を見るであろう。
19:27 しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。

ヨブはさらに、彼自身が地上の肉の身体を離れた後、神を見る事になると言った。
それも、他の誰かではなく、わたしが直接、見る、と。

19:28 あなたがたがもし『われわれはどうして/彼を責めようか』と言い、/また『事の根源は彼のうちに見いだされる』/と言うならば、
19:29 つるぎを恐れよ、/怒りはつるぎの罰をきたらすからだ。これによって、あなたがたは、/さばきのあることを知るであろう」。

確かにヨブが言った通り、人は死んだ後、他の誰でもなく、「わたし自身」が神の御前に立たなければならない。
人を責め立て、あざけり、さばく者の座にいる者は、そのさばきの座においては逆にさばきにあうという事を、ヨブは、あたかも預言しているかのようである。

ヨブは、イエス様を知らないけれども、その心は、イエス様のご性質を求め、そのお方へと向かって行った。
彼の時代、当然イエス様は現れていないが、しかし彼は、イエス様の正確なご性質を持っておられるお方を求め、そしてその御方は「おられる」とはっきり告白した。
全て真理を求める人は、この御方を知らなくても、この御方を求めるようになるのだ。

ガラテヤ3:22 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
3:23 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

旧約の全ては、キリストへと導く養育係である。
ヨブは、諸々の苦難を通して、キリストを求めるように導かれたのだ。
そして今、私達は、キリストを知った以上、もはや養育係の元にはいない。

ガラテヤ3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。

今や、ヨブが切に求めた、救いの実体であられるキリストがおられ、この御方にあって、私達はあがないを受け、保護されている。
そしてさばきの日には、彼は弁護者として、私達の側に立って下さる。
このようにお膳立てしてくださった神の恵みは、なんと計り知れないものだろう。

ビルダデによる二回目の弁論 - 物事をややこしくしてしまう「目の中の梁」(ヨブ記18章)
Youtube動画
メッセージ音声

_____________ .
18章は、シュアハ人ビルダデによる第二回目の論議であるが、その内容は、実に単純明快、すなわち、悪人に対する因果応報である。

18:1 そこでシュヒびとビルダデは答えて言った、
18:2 「あなたは 屬い弔泙如廰◆峺斥佞砲錣覆鮴澆韻襪里」。「あなたはまず悟るがよい」、/それからわれわれは論じよう。

 屬い弔泙如廚箸いΩ斥奸ビルダデによる第一回論議(8章)も、その言葉で始まった。
ビルダデは、ヨブの論議および彼の友人達による、この不毛と見える議論に、さっさと終止符を打ちたいようである。
さっさとこの忌まわしいやり取りを終わりにしたいと、結論を急ぐあまり、語調を荒げ、単刀直入に相手を切るような言葉を発してしまい、しかし逆にそうやってもっと議論を白熱化させてしまう事は良くあるが、ビルダデは、まさにその罠に陥っている。

◆峺斥佞砲錣覆鮴澆韻襪里」、この「わな」と訳された語はヘブライ語でケネツ、「終わり」という意味であるが、アラビヤ語では「わな」という意味である故に、訳され方が分かれている。
新改訳では「けりをつける」、KJVでは「make an end」と訳されており、つまり、さっさとこの罠のような論議を脱したい、さっさと終わりにさせたいような雰囲気である。
そこでビルダデは、次の言葉を発する。
「あなたはまず悟るがよい」
相手に悟る事を要求しているが、有用な議論は、まず聞く事から始まるはずである。

ビルダデは、ヨブが神に「これでもか」とばかりに向き合っているのに「神を知らない者」よばわりし、ヨブが神が認めている義人であるにもかかわらず、5節以降で、悪人が受ける因果応報について、とうとうと語っている。
結局、聞いていないのだ。そして、口走りが過ぎるのだ。それゆえ、この長い不毛な論議が続いている。

ヨブ記18:3 なぜ、われわれは獣のように思われるのか。なぜ、あなたの目に愚かな者と見えるのか。
18:4 怒っておのが身を裂く者よ、/あなたのために地は捨てられるだろうか。岩はその所から移されるだろうか。

ビルダデはヨブを「怒っておのが身を裂く者」としている。
本当に、人は、見えないものである。自分こそが、そのことをしている者であり、そして自分こそが、相手を怒らせている事を。
彼らに、以下の御言葉を知って行うたしなみがあったら、状況は変わっていたかもしれない。

マタイ7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

ヨブ記において、物事をややこしくしている「梁」とは、自分が正しいという思いと、怒りの二つであろう。
それは、私達にも言える事だ。
相手はどうしてこうなのだろう、どうしてみんなは、私だけに態度が違うのだろう、と感じた時、自問自答すべきである。
自分の目に、梁があるのではなかろうか、と。
相手が100%悪い、自分は100%正しい、という思い込み。その無意識的な前提条件こそ、やっかいな梁である。

どうしたら、この梁を取り除く事が出来るだろうか。
ヤコブは言っている。

ヤコブ1:19 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。

まず、聞く事。語るにおそい事。怒るに、おそい事。
ヨブ記の4人は、まさにこれに欠けている。
そして私達も、これらに欠ける者であるとするなら、行く先々で波乱を起こし混乱を起こし、面倒くさい人だと嫌煙されてしまう。

ヤコブ1:20 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。

もし私達の目に、人の怒りという「梁」が入ったままであるなら、誰も神の義へと導けるものではない。
もし、人を「神の義」が支配する状態へと導きたいなら、または、自分を取り巻く状況に「神の義」の支配をもたらしたいなら、まず、自分の中にある「人の怒り」を取り除く事から始まり、そして「語るにおそく、怒るにおそく」する努力が必要なのだ。

1:21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

御言葉こそ、救う力がある、と書いてある。
自分がどのような霊的状況にあるのか、そのような立ち位置にあるのかは、御言葉というものさしで計ってこそ、正しく導き出せる。
そして御言葉こそ、自分の中にある梁の正体を照らしだす光なのだ。

1:22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
1:25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

完全な自由の律法、とわざわざ表現されている。なぜ単に「御言葉」ではなく、完全な自由の律法と表現したのか。
律法(トーラー)は613のするな・せよの命令集であり、聞くだけでも堅苦しく思えがちだが、それを守り行う先には、完全な自由があり、大きな祝福があるのだ。

1:26 もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。
1:27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

ヨブと友人達を見ていると、思えてくる。
彼ら、信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いている、と。
しかし私達自身こそ、この罠に陥らないよう、よくよく戒めるべきである。

ヨブ記18:5 悪しき者の光は消え、/その火の炎は光を放たず、
18:6 その天幕のうちの光は暗く、/彼の上のともしびは消える。
18:7 その力ある歩みはせばめられ、/その計りごとは彼を倒す。
18:8 彼は自分の足で網にかかり、/また落し穴の上を歩む。
18:9 わなは彼のかかとを捕え、/網わなは彼を捕える。
18:10 輪なわは彼を捕えるために地に隠され、/張り網は彼を捕えるために道に設けられる。
18:11 恐ろしい事が四方にあって彼を恐れさせ、/その歩みにしたがって彼を追う。
18:12 その力は飢え、/災は彼をつまずかすために備わっている。
18:13 その皮膚は病によって食いつくされ、/死のういごは彼の手足を食いつくす。
18:14 彼はその頼む所の天幕から引き離されて、/恐れの王のもとに追いやられる。
18:15 彼に属さない者が彼の天幕に住み、/硫黄が彼のすまいの上にまき散らされる。
18:16 下ではその根が枯れ、/上ではその枝が切られる。
18:17 彼の形見は地から滅び、/彼の名はちまたに消える。
18:18 彼は光からやみに追いやられ、/世の中から追い出される。
18:19 彼はその民の中に子もなく、孫もなく、/彼のすみかには、ひとりも生き残る者はない。
18:20 西の者は彼の日について驚き、/東の者はおじ恐れる。

ビルダデは5節からとうとうと「悪い者はこうなる」「悪い者はこんなに酷い目にあう」と述べたてており、そして結論は以下の言葉である。

18:21 まことに、悪しき者のすまいはこのようであり、/神を知らない者の所はこのようである」。

彼は、悪人と決めてかかって、とうとうと語ったが、最終的に神からよしと認められたのは、ヨブのほうだった。
私達はこの事から戒めを受けるべきである。
自分の目に、梁がないか。
すなわち、人の怒りや自己義という梁によって見えない状態になっていないかを。

保証となって下さるお方が無いゆえに絶望するヨブと、そのお方がおられる故に希望がある私達(ヨブ記17章)
Youtube動画
メッセージ音声

_____________ .
ヨブは引き続き、神からも友人達からも見捨てられた心情を吐露する。

17:1 わが霊は破れ、わが日は尽き、/墓はわたしを待っている。
17:2 まことにあざける者どもはわたしのまわりにあり、/わが目は常に彼らの侮りを見る。
17:3 どうか、あなた自ら保証となられるように。ほかにだれがわたしのために/保証となってくれる者があろうか。

この3節の「保証となられるように」は、原文は「保証する」の命令形であり、直訳は「どうか置いて下さい。私を保証して下さい。あなたと共に」となる。
ヨブははっきりと、神に、自分の保証を求めている。
しかしその声は虚しく響き、ヨブの身を担保して下さる方が誰もいないので、ヨブの心は再び闇の中へ落ち込んで行く。

いかにヨブのような義人であったとしても、神と人との間に立って弁護し、執り成してくれるお方がいないなら、ただ絶望の闇に落ち込んで行く以外に無いのだ。

17:6 彼はわたしを民の笑い草とされた。わたしは顔につばきされる者となる。
17:7 わが目は憂いによってかすみ、/わがからだはすべて影のようだ。
17:8 正しい者はこれに驚き、/罪なき者は神を信ぜぬ者に対して憤る。
17:9 それでもなお正しい者はその道を堅く保ち、/潔い手をもつ者はますます力を得る。

ここのヨブの叫びを見ると、あたかもイエス様が十字架の受難の中で叫んでいるかのような内容だ。
そう、イエス様は私達人間の代わりに、つばきかけられ、その目は憂いによってかすみ、そのからだは影のようになり、弁護される事なく、容赦なく十字架上で裁かれたのだ。

本来、私達こそ罪人であり、どんなに義人ぶったとしても、罪がある。
元々は、ヨブが絶望したように「神に捨てられた」「保証となってくれる人がいない」と言って絶望しなくてはならない者である。
しかし、イエス様が身代わりになって、十字架上で神に捨てられ、「父よ、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」と叫ばれた。
だから私達は、ヨブのように絶望する必要は無い。
イエス様が、私達の身代わりとなって捨てられて、死んで下さり、陰府へと下り、そしてよみがえり、今や、栄光の父の右に立って、私達の事を執り成しておられるのだから。

1ヨハネ2:1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために「助け主(パラクレートス:弁護者)」、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。
2:2 彼は、わたしたちの罪のための、「あがないの供え物(ヒラステリオン:贖罪蓋)」である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

「贖罪蓋」とは、契約の箱を覆う蓋であり、それが無いなら、契約の箱は外界へ開かれっぱなしであり、そうすると、罪有る人間は、神の「聖」に打たれて死んでしまう以外に無い。(1サムエル記6:19)
今や、イエス様が贖罪蓋となり、私達の罪を覆い、神と人との間の仲保者となって下さったゆえに、私達はイエス様ゆえに、自分の罪に打たれる事がないのだ。
ヨブには、それが無いという事で、絶望するしかなかった。

さらに私達を弁護して下さるパラクレートスが、ほかにおられる。

ヨハネ14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

イエス様が復活後、御父のところに上り、そこからペンテコステの日に送って下さった助け主、聖霊が、私達に留まり、それも、いつでも私達のうちにいて下さる。

ヨハネ14:18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
14:19 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
14:20 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。

聖霊は私達と共におられ、そしてイエス様を証し、御父を証しして下さる。
だから、聖霊を否定する者は、御子も、御父をも否定する者であり、それは決して赦されないのだ。

こうして聖霊は、私達の弁護者となり、助け主となり、御子キリストを証するお方、御父を証するお方、である。
聖霊は私達が御国を受け継ぐ保証であられ、いつまでも共におられ、私達を生かし、導いて下さるお方である。

このように、私達はヨブのように、自分を保証して下さるお方がいないと言って絶望する必要が、全くなくなった。私達を保証して下さるお方、すなわち、私達の身を担保するために、身代わりになって十字架につけられ復活された主イエス様がおられ、そして、私達を弁護する助け主・聖霊がおられるからである。
この助けが得られている私達キリスト者は、どれほど素晴らしい中を、生かされていることだろう。

説教において必要なもの:聖霊の促しと、御言葉と、イエスのあかし(使徒2:14-36)
Youtube動画
メッセージ音声

_____________ .
弟子達は「異なる舌(ヘテロス・グロッサ)」が与えられ、口が全く変わってしまった。
彼らは確かに、他国人にも分かる言葉が与えられたが、彼らの言葉を聞いた、複数の言語を話す人達が一様にその言葉を聞いた時の感想は、彼らは「神の大きなみわざを語った」という事だった。
弟子達120名が、それぞれ別の言葉で話したのに、一致している事は、神の大きなみわざを語った事である。
これらの事は、人間技では有り得ない。
しかし、そのようなしるしが見せられても、自分になっとくの行く説明を自分でつけようとして、しかも、けちをつける者も出てくる。

使徒2:13  しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。

そこでペテロは、十一人の者と共に、聖霊に「押し出され(ヒステミー)」、駆り立てられて、語り出す。
聖霊のわざは、いかんともしがたい衝動に駆られて語り、また行動するものだが、聖霊に押し出された言葉には、必ず、イエス・キリストの証があり、イエス・キリストを栄光化する言葉であう。
またそのわざには、必ず、イエス・キリストのご性質が現れる。
次のように書かれてあるからである。

ヨハネ16:13  けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
Joh 16:14  御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
Joh 16:15  父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。

1ヨハネ4:1  愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。
1Jn 4:2  あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、
1Jn 4:3  イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。

ペテロは言った。
使徒2:15 今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。

そもそも、起こった出来事を見れば酒を飲んでではない事は明らかである。
彼らは風の大音響のために集まったのだし、色々な国の言葉を一瞬で身に付ける事も出来ないし、神様のおおいなるみわざは酔っ払って話せる事ではない。

ペテロはこの大きな奇跡よりも、むしろ、ナザレ人イエスというお方について、時間を割いて丁寧にメッセージし出す。
聖霊の特徴、それは、イエスのあかしである。
ペテロは、ヨエル書の言葉を引用し、この出来事は預言の成就であると宣言する。(16-21節)
それに続き、ペテロは、ナザレ人イエス・キリストについての説教に入る。
教会の説教には必ず、御言葉の引用とイエスのあかしが必要だが、その力の根源は、聖霊が促すものである。

2:22 イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざ(デュナミス)と奇跡(テラス)としるし(セメイオン)とにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。

ペテロが語っている相手の人達は、祭りに集っていた人達である。
彼らが前回エルサレムに来た時は、過越祭であり、ちょうどその最中にイエス様は十字架につけられたので、彼らは、イエス様見ていたのだ。
イエス様は、数々の力あるわざ(デュナミス)と奇跡(テラス)としるし(セメイオン)、これら三つを通し、神から遣わされたお方である事を、示された。

2:23 このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。
2:24 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。

そのイエス様を、あなた方が、十字架につけたのだとペテロは歯に衣着せずに宣言し、そして、その復活された事を宣言する。

2:25 ダビデはイエスについてこう言っている、/『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、/わたしの右にいて下さるからである。
2:26 それゆえ、わたしの心は楽しみ、/わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、/あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない/であろう。
2:28 あなたは、いのちの道をわたしに示し、/み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであ/ろう』。
2:29 兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。
2:30 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、
2:31 キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。

すなわち、ダビデが言っていた「あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、/あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない/であろう。」という言葉は、ダビデ自身がダビデの事を語ったのではない、事実彼は死んだ、だからこの事は、ダビデが「主」と告白したお方、すなわち、イエス様の事を語ったのだ、と論破したのだ。

2:32 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。
2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。

ペテロは「あなたがたが現に見聞きしているとおり」と言った。
現に見ている出来事なのだから、彼らには弁解の余地は無い。
ヨエル書からこの出来事の説明がつき、ダビデの詩編から主キリストの復活を論破し、そして目の前に起きたこのしるし、それらをつきつけて、そしてダメ押しをする。

2:36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。

あなた方が、十字架につけた。
確かに、これを聞いていた群衆の中には、イエス様を十字架につけろと叫んだ人達もいただろう。
しかし実は、21世紀を生きる「わたしたち」も、イエス様を十字架につけたのだ。
私達人間には全て罪があり、そして彼は、私達の罪のゆえに刺し通されたからだ。(イザヤ53章)

2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。

聖霊に押し出された人のメッセージは、人の心を刺す。
そして悔い改めへと導く。

伝道とは、メッセージとは、人が良く考えだして語るものにあらず、聖霊に押し出されて語るからこそ、力があり、人をゆり動かし、心を刺し、そして造り変えるパワー(デュナミス)があるのだ。
私達も、主の働きのために、聖霊を求めるべきである。

聖霊に満たされた人の特徴:ことばが清い(使徒2:1-14)
Youtube動画
メッセージ音声

______________ .
昨日のペンテコステ礼拝に続き、聖霊の働きについて、今回は特に、その聖霊の特徴である「舌」「ことば」がきよく変えられる事について、見ていきたい。

使徒2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
2:3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

「他国の言葉」はヘテロス・グロッサ、すなわち原意は「異なる舌」である。
炎のような舌でもって言葉が造り変えられる。彼らは、どのような言葉を語ったのか。

2:5 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
2:6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
2:7 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。
2:8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。

彼らはなんと、諸々の言語の言葉を、明瞭に、意味が伝わるように、語りだした。
その語った内容は、何だったか。

2:9 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
2:11 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。

彼らは、色々な国語で、「神の大きな働き」を述べたのだ。
聖霊充満の人の特徴は、神の大きな働きを伝える事、そしてその大きな目的は、イエス様があらかじめ約束された通り「イエス・キリストの証人となる」事である。

それにしてもどうして、世界中に言語がこうも沢山あるのだろう。
それは、バベルの塔の事件ゆえだ。

創世記11:1 全地は同じ発音、同じ言葉であった。
11:2 時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。
11:3 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
11:4 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

この町の王は、ニムロデである。彼は主に敵対して逆らう者だった。
創世記10:8 クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。
10:9 彼は主の「前に(before, against)」力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。

人々の上に君臨し、高くなろうとする性質、それはサタンの性質そのものである。(イザヤ14:12-15)
このように、ニムロデが君臨し、多くの人々を従えて神に敵対する者だったため、主が特別に手を下された。

創世記11:5 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、
11:6 言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。
11:7 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。
11:8 こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
11:9 これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。

主は「われわれ」と言われた。
つまり、父・子・御霊なる神が、一致して人に敵対し、人の言葉を混乱させ、高ぶって神に敵対できなくさせたのである。

そして時いたり、神はアブラハムを召して一つの民族とし、そうして起こしたイスラエル民族に、あのペンテコステと同じ日、シナイ山においてトーラーを、神の御言葉を授けられた。
それにより、人には神のことば・神の基準には、決して従えないような「罪」がある事が分かり、そうして、救われるお方を求めるようになる。

そして時至って、「ことば」なるお方・キリストが、人となって世に降りて来られた。
そして、このお方を信じ、そのの血によって贖われた人々は、あの聖霊降臨日、炎の分かれた舌に息吹かれ、舌が変えられ、国々の言葉の壁を超えて神の栄光を語り告げるようになったのだ。

使徒2:14 そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。

ペテロは十一人の者と共に「立ちあがり」と書いてあるが、ここはヒステミー(押し出す)の受動態が使われているので、「押し出された」「立ち上がらされた」である。
聖霊は、人を駆り立て、押し出す。
聖霊に押し出された主の働き人は、無理やり、嫌々ながら、するのではない。
押し出されて、せざるを得ないのである。

ペテロはペンテコステ以前は、くちびるが回って過ちを犯す人だった。
変貌山においても、あの、鶏が啼いた晩においても。
しかし彼のくちびるは、変えられた。ちょうどイザヤがそうだったように。

イザヤ6:5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
6:6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、
6:7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。
6:8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

イザヤは祭壇の炭火で、くちびるが清められた。
そして、御言葉を伝えるに値する者となり、主から使わされた。
あの、かつてはくちびるが回って過ちを犯してしまっていたペテロも、聖なる炎でくちびるが清められた。その日、彼は押し出されて説教し、その結果、3000人もの人が救われた。

聖霊によって、くちびるが清められないなら、大いに用いられる事はない。
有名人になればなる程、くちびるに気をつけなくてはならないように。

主はこの時代、くちびるがきよい、用いられるべき器が、少ない、と嘆いておられるのではなかろうか。
だから私達は、用いられるように、と祈るよりも前に、まず、自分の口が人を傷つけたり行ってはならない言葉を滑らしたり、という口が、聖なる火で焼かれ、イザヤのように、ペテロのように清められるよう、祈り求めるべきだ。

約束の時、約束の場所で、約束された主との出会い(使徒1:4-8)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 本日は聖霊降誕日(ペンテコステ)、イエス・キリストの弟子達が聖霊を受けた事を覚え、祝う日である。
この出来事の前、弟子達は弱く、よく失敗し、十字架の時に至っては、イエス様を見捨てて逃げてしまった。
私達も、人間的な頑張りと忠誠心だけでイエス様について行こうとするなら、この、聖霊降臨前の弟子達の域を超えられない。しかし弟子達は、聖霊降誕を境に全く変わってしまった。イエス様こそ神の御子・救い主であると大胆に宣言し、殉教をも恐れず、地の果てまで御言葉を届ける程、強力な働き人に変身した。
主の働き人の、力の根源は、聖霊である。『聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力(デュナミス)を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となる』(使徒1:8)
聖霊が降った時に受ける「力(デュナミス)」は、ダイナマイトの元となった言葉である。聖霊を受けた時、各々は爆弾を抱えたような者となり、消極的な人の「消極」は爆破され、積極的になり、破綻してしまった人の「破綻」は爆破され、創造的な人に変わる。それはひとえに、その人がイエス・キリストの証人となるためであり、その人が全くいのちの方向へ変わってしまう様を見て、人々がイエス様を信じるようになるためだ。

聖霊はどんな人に与えられるか。それは主が約束された言葉を信じ、その成る事を求める人に、である。
弟子達は「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(1:4)と言われた通り、都に留まり、そして皆一つ所に集まって「心を合わせ、祈りに専念していた。」(14節) そうして五旬節の日そこに集まっていた人にこそ、聖霊が与えられたのである。主の約束どおりする時、約束の成就があるのだ。
約束した日時に、約束の駅で待っていないなら、約束の地へ一緒に行く機会を逃してしまうように、主が約束された御言葉通りにしないで、その時、そこに居合わせないなら、主と一緒となる事を逃してしまう。
この「約束の日、約束の時間、約束の場所での、約束された主との出会い」を、ヘブライ語では「モエド」と言い、それをすなわち「祭り」と言う。ユダヤ人は日毎・週毎・月毎・年ごとに「祭り」があり、彼らはそれごとに、主との出会いをしている。もし、その祭りを逃すなら、その時限定の受けるべき祝福を、逃してしまう。

この聖霊降臨日(ギリシア語:ペンテコステ)は、旧約における七週の祭り(ヘブライ語:シャブオット)である。
七週祭とは、イスラエルの民がエジプトを出た49日(七週)後にシナイ山で律法を与えた事を記念する祭りであるが、旧約の「祭り」は、新約の出来事に対応しており、いずれも神のご計画のうちに成就されて行く。
旧約の「過越祭」は、新約におけるイエス・キリストが十字架でほふられる事に対応している。仮庵祭は、イエス様の受肉に対応しており、そして七週祭(シャブオット)は、聖霊降臨(ペンテコステ)に対応している。
シャブオットのその日、主はシナイ山に降りて来て(A)火の中に現れ、(B)雷鳴と角笛が吹かれる響きの中、全山は震え動いた(出エジプト記 19:18)。それに対応し、新約のペンテコステの日、天から(B')激しい風が吹いて来るような響きが起こり、(A')炎の分かれた舌が現れ、一人ひとりの上に留まった。(使徒2:2-3)
シャブオットの日、主の著しい顕現の中「わたしは主である(アニ・ヤーウェ 出20:2)」と、主ご自身が直接的に現れ語った(C)が、ペンテコステの日、一同は聖霊に満たされ(プレソー)、御霊が語らせるまま他国の言葉で、神の大いなるみわざを語り出した(C')。このように、旧約の祭りは、新約へと対応しており、主の約束とご計画が成就し、最終的には、黙示録にある終末へ、そして永遠へと対応する。

旧約のシャブオットの時、神がシナイ山に降りて来られ、神の御言葉(トーラー)がイスラエル民族に与えられるという、歴史をひっくり返す重大イベントだったが、新約における同じ日・ペンテコステは、聖霊なる神がキリストを信じる私達に降りて来て、私達に宿って下さるという、さらに歴史をひっくり返す重大イベントだ。
  この重大イベントに立ち会う事が出来たのは、主が約束された言葉を信じ、祈りつつ待ち望んだ人である。
ダビデは、天から降った御言葉が宿る契約の箱が、自分の町に入った日、大いに喜び踊ったが、私達は、人を爆発的に造り変え、力強き働き人として下さる永遠なる神の霊が、私達に入居し、内住して下さる事を、喜び期待しつつ祈り求めるべきだ。「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」(ヘブル10:25)
かの日、主にある兄弟姉妹達が、約束を信じ、共に集まり、心を合わせ祈り求めていたように、私達は主の「祭り」である礼拝に、共に集い、共に祈り求め、共に聖霊の充満を体験する皆さんでありますように!

ヨブが神に捨てられ人からも捨てられたと思った時に求めた、神と人との間に立つ仲保者(ヨブ記16章)
Youtube動画
メッセージ音声

____________ .
16-17章は、ヨブによるエリファズへの回答なのだが、といっても、彼の友人に向けられた言葉はわずかで、多くの言葉は、主に向けられている。

16:1 そこでヨブは答えて言った、
16:2 「わたしはこのような事を数多く聞いた。あなたがたは皆人を慰めようとして、/かえって人を煩わす者だ。
16:3 むなしき言葉に、はてしがあろうか。あなたは何に激して答をするのか。

ヨブは、エリファズの15章の1節から35節にわたっての論説を、わずかな言葉でばっさり切った。
状況を見極めず、ただ自分の思い込みによって相手を計り、その誤った動機から発せられた格言が、立派であればあるほど、また長々としていればいるほど、煩わしいものだ。

16:4 わたしもあなたがたのように語ることができる。もしあなたがたがわたしと代ったならば、/わたしは言葉を練って、あなたがたを攻め、/あなたがたに向かって頭を振ることができる。
16:5 また口をもって、あなたがたを強くし、/くちびるの慰めをもって、あなたがたの苦しみを/和らげることができる。

ヨブは、もし自分と友人達の立場が逆転したら、言葉を練って友人達を攻め、友人達に向かって頭を振る(すなわち、あざけりばかにする)事が出来、そして言葉でもってあなた方を強くし、苦しみを和らげる事が出来る、と、批判とも嫌味とも取れる事を言ったが、いずれにしてもヨブは、人も神からも何の助けを得られない事を嘆いている。

16:6 たといわたしは語っても、/わたしの苦しみは和らげられない。たといわたしは忍んでも、/どれほどそれがわたしを去るであろうか。

ヨブは、以上の言葉をもって、友人達への言葉は終わりにし、そして7節以降の言葉は、再び神に向けられる。
彼は再び吐露し始める。友人達から、そして神から、自分が苦しめられている事を。

16:7 まことに神は今わたしを疲れさせた。彼はわたしのやからをことごとく荒した。
16:8 彼はわたしを、しわ寄らせた。これがわたしに対する証拠である。またわたしのやせ衰えた姿が立って、わたしを攻め、/わたしの顔にむかって証明する。

彼は、自分に今ありありと現れている、このやつれ果てた自分の外見が、その証拠だ、と主に申し上げる。

16:9 彼は怒ってわたしをかき裂き、わたしを憎み、/わたしに向かって歯をかみ鳴らした。わたしの敵は目を鋭くして、わたしを攻める。
16:10 人々はわたしに向かって口を張り、/侮ってわたしのほおを打ち、/ともに集まってわたしを攻める。
16:11 神はわたしをよこしまな者に渡し、/悪人の手に投げいれられる。
16:12 わたしは安らかであったのに、/彼はわたしを切り裂き、/首を捕えて、わたしを打ち砕き、/わたしを立てて的とされた。
16:13 その射手はわたしを囲む。彼は無慈悲にもわたしの腰を射通し、/わたしの肝を地に流れ出させられる。
16:14 彼はわたしを打ち破って、破れに破れを加え、/勇士のようにわたしに、はせかかられる。
16:15 わたしは荒布を膚に縫いつけ、/わたしの角をちりに伏せた。
16:16 わたしの顔は泣いて赤くなり、/わたしのまぶたには深いやみがある。

ヨブは、神から敵対され、友人達から敵対され、もはや自分には何の助けも見いだせない事を告白し、絶望の暗闇に閉じ込められた心情を神に吐露している。
それでもヨブは、自分の潔白を主張する。

16:17 しかし、わたしの手には暴虐がなく、/わたしの祈は清い。
16:18 地よ、わたしの血をおおってくれるな。わたしの叫びに、休む所を得させるな。

血は、叫ぶ。義人アベルの血が神に叫んだように。
ヨブは、たとえ自分が死んだとしても、その血が覆われる事がないように、すなわち、自分の血がずっと潔白を叫び続けるように、と願う。

このように、神から捨てられ、人から捨てられ、ただ絶望しかない状況に追い込まれた、と感じているヨブは、驚くべき告白をする。

16:19 見よ、今でもわたしの証人(エド:証人、記録者)は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある。
16:20 わたしの友はわたしをあざける、/しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。
16:21 どうか彼が人のために神と弁論し、/人とその友との間をさばいてくれるように。

ヨブは、彼を見ておられ、彼を記録し、彼を保証しておられるお方の存在を告白しており、そしてその方が、自分と神との間に立って弁論してくださるように、と願っている。
さらに彼は、17:3においても、「どうか、あなた自ら保証となられるように。ほかにだれがわたしのために保証となってくれる者があろうか。」と言っている。

神と人との間に仲保者は、唯一、キリストであるが、ヨブはキリストを知らないはずである。
一体どうして、彼は、このような仲保者の存在をはっきりと告白し、願う事が出来たのだろう。

旧約において、アブラハムは自分達を導いて下さる御使いがいた事を意識しており(創世記24:7)、ダビデも、自分の前にはいつも主がおられた事を意識しており、それ故彼は揺るがず、心は楽しみ、望みがある事を喜んだ。
使徒2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。

モーセも、荒野で、彼らについて来た岩、すなわちキリストを意識し(1コリント10:4)、モーセの後に現れる指導者を預言した。
イザヤも、とりなして下さるキリストを預言した。(イザヤ53:12)
このように、旧約の信仰者達は、聖霊によってキリストを知り、意識し、預言したのである。

ヨブがはっきりと自分の保証となって下さるお方を告白しているからには、彼もまた、霊的に、そのお方の存在をさとったのかもしれない。
いずれにせよ、今、はっきりしている事は、私達には確かに、おられるのだ!
私達を神の御前で弁護し、保証して下さる御方、イエス・キリストが。

ローマ8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。

私達の身代わりに死んで下さった方、そして、よみがえって下さった方・キリストが、私達のために、とりなして下さる。
のみならず、聖霊も言いようのない深いうめきによって、とりなしておられる。
ローマ8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

このように私達は、御子にとりなされ、御霊にとりなされ、そうして父なる神のみ前に大胆に進み出る事が出来、さばきにあう事がなく、永遠に生きるのである。
そして、キリストに繋がれたその”つながり”は、世の何者も奪う事が出来ない。

8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

ヨブは、神から捨てられ人から捨てられたように思えた時、自分をとりなし弁論して下さるお方を叫んだが、私達にはいつでも仲保者キリストに助けを求める事が出来る。
私達が彼と共に歩むなら、彼があらゆる悪魔サタンの訴えから弁護し、私達の罪は覆われ、そのように救われた状態・祝福の状態のうちに、この世の旅路を歩んで行けるのである。

エリファズによる二回目の弁論 - 本質を外した格言の押し売り(ヨブ記15章)
Youtube動画
メッセージ音声

____________ .
15:1 そこでテマンびとエリパズは答えて言った、

テマン人エリファズの第二回目の論議である。
第一回目はまだ理性的であったが、しかしこの度の彼の言葉は、幾分ヒートアップしている。
自分達は知恵の言葉を披露した、その披露に対し、聞いた者は、ありがたさと尊敬をもっていただくものだ、と、期待していたのに、ヨブはそうではなかった。
その事のいらだちが、言葉の節々に現れ始める。

15:2 「知者はむなしき知識をもって答えるであろうか。東風をもってその腹を満たすであろうか。
15:3 役に立たない談話をもって論じるであろうか。無益な言葉をもって争うであろうか。

エリファズは、自分達は知恵がある者達である、それなのに、その私達の言葉を、あたかも作物を干からびさせる東風のようにあなたは見做すのか、と、彼をたしなめる。

15:4 ところがあなたは神を恐れることを捨て、/神の前に祈る事をやめている。

ヨブは祈っていなかったのだろうか?
いや、直前の13章後半から14章まではずっと神に対しての祈りだった。
ヨブは神を恐れていなかったのだろうか?
いや、祈りのはじまりである13章後半は、神に対する恐れだった。

エリファズにとって「祈り」は、理性的に、良い言葉だけを並べ立てる事だという決めつけがあったのかもしれない。
それだから、ヨブの、あまりに自由な、そして獣のような勢いで御前に言葉をぶちまけるものは、祈りではなく、神に対する暴言だと見えたのかもしれない。

いずれにせよ、エリファズは、ヨブの言葉の内容を結局聞いておらず、ヨブの状況を理解しておらず、ただ、ヨブの「激しさ」だけを見て、彼は神に逆らったのだ、罪を犯したのだ、と思い込み、そして、その思い込みの偏見がかかったまま、ヨブを諭す言葉を始める。
つまり、この15章のエリファズの諭しもまた、偏見というフィルターがかかった状態での言葉なので、ヨブに対しては全く空虚なことわざになってしまった。

15:5 あなたの罪はあなたの口を教え、/あなたは悪賢い人の舌を選び用いる。
15:6 あなたの口みずからあなたの罪を定める、/わたしではない。あなたのくちびるがあなたに逆らって証明する。

ヨブに対し、あなたはかなり偉そうで知恵があるかのように振舞っているが、私達もまたそれに引きを取らない者だぞ、と主張をする。

15:7 あなたは最初に生れた人であるのか。山よりも先に生れたのか。
15:8 あなたは神の会議にあずかったのか。あなたは知恵を独占しているのか。
15:9 あなたが知るものは/われわれも知るではないか。あなたが悟るものは/われわれも悟るではないか。
15:10 われわれの中にはしらがの人も、/年老いた人もあって、/あなたの父よりも年上だ。
15:11 神の慰めおよびあなたに対するやさしい言葉も、/あなたにとって、あまりに小さいというのか。

つまり、エリファズにとっての優れた知恵とは、先祖伝来の知恵であり、また白髪の年老いた人であればあるほど、その知恵に長けているものだ、というものである。
ひいてはヨブ、あなたはどれほどの知恵があるというのか、自分達はあなたよりも年上の者がいるではないか、と主張し、その上で、どうしてあなたの心は激しく波打って逆らうのか、と聞く。

15:12 どうしてあなたの心は狂うのか。どうしてあなたの目はしばたたくのか。
15:13 あなたが神にむかって気をいらだて、/このような言葉をあなたの口から出すのはなぜか。
15:14 人はいかなる者か、どうしてこれは清くありえよう。女から生れた者は、どうして正しくありえよう。
15:15 見よ、神はその聖なる者にすら信を置かれない、/もろもろの天も彼の目には清くない。
15:16 まして憎むべき汚れた者、/また不義を水のように飲む人においては。

この言葉の内容は、4:17-19とほぼ同じである。
このように、ヨブを悪者、罪有る者に仕立て、彼が前に言ったのと全く同じように、悪者の行く道がどのようなものかを、くどくどと説き聞かせていく。

15:17 わたしはあなたに語ろう、聞くがよい。わたしは自分の見た事を述べよう。
15:18 これは知者たちがその先祖からうけて、/隠す所なく語り伝えたものである。

人の言葉を聞いていない人から「聞け」と言われても、ますます耳を塞ぎたくなるものであり、自分が知者の知恵を語るものだ、と言われても、相手の状態を正しく理解していない者がひけらかす知恵は、ただ人をうんざりさせるものでしかない。

15:19 彼らにのみこの地は授けられて、/他国人はその中に行き来したことがなかった。
15:20 悪しき人は一生の間、もだえ苦しむ。残酷な人には年の数が定められている。
15:21 その耳には恐ろしい音が聞え、/繁栄の時にも滅ぼす者が彼に臨む。
15:22 彼は、暗やみから帰りうるとは信ぜず、/つるぎにねらわれる。

エリファズは、悪人の道はこうだ、という論議を展開しているからには、暗に、ヨブ、あなたは悪者だと指摘しているのだ。


15:27 また彼は脂肪をもってその顔をおおい、/その腰には脂肪の肉を集め、
15:28 滅ぼされた町々に住み、/人の住まない家、荒塚となる所におるからだ。
15:29 彼は富める者とならず、その富はながく続かない、/また地に根を張ることはない。
15:30 彼は暗やみからのがれることができない。炎はその若枝を枯らし、/その花は風に吹き去られる。
15:31 彼をしてみずから欺いて、/むなしい事にたよらせてはならない。その報いはむなしいからだ。
15:32 彼の時のこない前にその事がなし遂げられ、/彼の枝は緑とならないであろう。
15:33 彼はぶどうの木のように、/その熟さない実をふり落すであろう。またオリブの木のように、その花を落すであろう。
15:34 神を信じない者のやからは子なく、/まいないによる天幕は火で焼き滅ぼされるからだ。
15:35 彼らは害悪をはらみ、不義を生み、/その腹は偽りをつくる」。

このように、状況を見極めないで、自分の思い込みによって相手を計り、その誤った計りによって格言と箴言を調合し、相手に無理やり飲ませようとする時、私達もただ相手を苦しめ、病状をもっと悪化させてしまうことになる。

 

買い戻しの権利のあるお方(ゴエル)の衣の内に入って行け(ルツ記3:6-11)
Youtube動画
メッセージ音声

______________ .sun
ルツ記3:6 こうして彼女は打ち場に下り、すべてしゅうとめが命じたとおりにした。
3:7 ボアズは飲み食いして、心をたのしませたあとで、麦を積んである場所のかたわらへ行って寝た。そこで彼女はひそかに行き、ボアズの足の所をまくって、そこに寝た。
3:8 夜中になって、その人は驚き、起きかえって見ると、ひとりの女が足のところに寝ていたので、
3:9 「あなたはだれですか」と言うと、彼女は答えた、「わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは最も近い親戚です」。
3:10 ボアズは言った、「娘よ、どうぞ、主があなたを祝福されるように。あなたは貧富にかかわらず若い人に従い行くことはせず、あなたが最後に示したこの親切は、さきに示した親切にまさっています。
3:11 それで、娘よ、あなたは恐れるにおよびません。あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう。わたしの町の人々は皆、あなたがりっぱな女であることを知っているからです。

ルカ10:39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。

ヨハネ15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

イザヤ41:10 恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。
41:11 見よ、あなたにむかって怒る者はみな、はじて、あわてふためき、あなたと争う者は滅びて無に帰する。
41:12 あなたは、あなたと争う者を尋ねても見いださず、あなたと戦う者は全く消えうせる。
41:13 あなたの神、主なるわたしは/あなたの右の手をとってあなたに言う、「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。
41:14 主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。

ヘブル4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

大祭司のしるし - 人には模造すら出来ない死からの復活(民数記17:1-10)
Youtube動画
メッセージ音声

______________ .

主日のメッセージにおいて、契約の箱(アーク)の中には十戒の石版、マナの入った壺、アロンの杖の3つが入っていた事を学んだが、今回はアロンの杖がどのようにして成り立ったのかを見、祭司のしるしとは何かを見ていきたい。

まず、アロンの杖がどうしてしるしとして必要となったのか、前の章を見る必要がある。
16章ではコラの起こした事件が記されている。コラは人々を扇動し、モーセとアロンが人々の上に立って特別な地位にある事に不満を持ち、有力者250人と共にモーセ達に逆らった。
あなた方だけが特別に立っているのはおかしい、神は主の民全てを聖なる者としたではないか、と、権威に挑戦したのだが、神がそんな彼らに返したのは、誰が見ても恐ろしい、はっきりとしたさばきであった。
地面がぱっくりと口を空け、コラも、その天幕もろとも、地面へと飲み込まれて行ったのだ。
そして一緒に逆らった250人は、主の元から火が来て、彼らは焼きつくされたのだ。
それでも人々は、モーセとアロンに不平不満をぶちまけた故に、その時の神罰では、一万四千七百人が死んだ。

こうして、主が立てた権威に逆らう事がいかに恐ろしいかが示されたのだが、主は、もはやこのような事が無いように、と、アロンが大祭司であると誰もが文句言えないような「しるし」を与えられる。それが、17章である。

民数記17:1 主はモーセに言われた、
17:2 「イスラエルの人々に告げて、彼らのうちから、おのおのの父祖の家にしたがって、つえ一本ずつを取りなさい。すなわち、そのすべてのつかさたちから、父祖の家にしたがって、つえ十二本を取り、その人々の名を、おのおのそのつえに書きしるし、
17:3 レビのつえにはアロンの名を書きしるしなさい。父祖の家のかしらは、おのおののつえ一本を出すのだからである。
17:4 そして、これらのつえを、わたしがあなたがたに会う会見の幕屋の中の、あかしの箱の前に置きなさい。
17:5 わたしの選んだ人のつえには、芽が出るであろう。こうして、わたしはイスラエルの人々が、あなたがたにむかって、つぶやくのをやめさせるであろう」。

杖は、生物的な木としては死んだ物である。それが生き返る。
この、「死からの復活」を「しるし」とし、アロンこそ、神が直接任命した大祭司である事を人々に示すのだ。
死からの復活こそ、まさしく、「神がした」という権威のしるしである。

17:6 モーセが、このようにイスラエルの人々に語ったので、つかさたちはみな、その父祖の家にしたがって、おのおの、つえ一本ずつを彼に渡した。そのつえは合わせて十二本。アロンのつえも、そのつえのうちにあった。
17:7 モーセは、それらのつえを、あかしの幕屋の中の、主の前に置いた。
17:8 その翌日、モーセが、あかしの幕屋にはいって見ると、レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた。

果たして、モーセとアロンが一晩掛けて、精巧に、本物のアーモンドそっくりの模造品をこしらえたのだろうか?
偽の命は、すぐにばれてしまう。生命の模造は、現代の技術をもってしても、出来ない。
人は、いのちを造り出す事はできないし、模造すらも出来ないのだから、まして人は、死んだいのちをよみがえらせる事など、できないのだ。
古くから人類はそれを願い、研究し、努力して来たが、未だにそれには至っていない。

いのち。
それは、まごうことなき神の作品であり、死からの復活こそ、神の認証のあかしである。

神が最も顕著に示した「死と復活のしるし」は、イエス・キリストの十字架である。
彼は、十字架という木の死から復活した。
そういう訳で、彼キリストこそ、まごう事なきまことの大祭司であると、神は示された。
そのしるしを見せられても、なお否定する者には、弁解の余地なくさばきが待っている。
ちょうど荒野の民が、この17章のしるしを見てもなお逆らい、逆らった者達が、ことごとく倒れていったように。

アーモンドはヘブライ語でシャケィド、「見張る(シャケァド)」と同じ子音である。
エレミヤ書においても、主は、預言者エレミヤに「アーモンドの杖(マケル・シャケィド)」を幻で見せた。

エレミヤ1:11  主の言葉がまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「あめんどうの枝(マケル・シャケィド:アーモンドの杖)を見ます」。
1:12  主はわたしに言われた、「あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っている(シャケァド)のだ」。

主は、アーモンドであるアロンの杖を通して、示しておられる。
主は私達を見張っておられ、そして、主ご自身が、御言葉を行おうと、見張っておられるという事を。
主の御言葉の成就は、イエス・キリストの十字架と復活を通して行われた。
そして、この死と復活の木、十字架を仰ぎ見、彼こそまことの大祭司とする者は全て、キリストが復活したように復活し、それでも彼を否む者は、荒野の民のように滅んで行くのだ。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
Twitter
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2016/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

天声モバイルサイト!

検索
Copyright ©横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2010 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest