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金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
物事がはっきりと見えるようになるために(エペソ1:17-23)
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心に黒雲がかかっているような時は無いだろうか。
人と話している時に、話している言葉が理解できなかったり、あさってな事をしてしまって、人に指摘されてしまったり、注意された事が心に残らず、また同じ事をしてしまったり、心にもやがかかっていて現実感が無い。

特に、聖書は霊的書物である。ある人は、読んでみるとものすごく心が引き込まれたり、ある人が読むと、まったくもって理解できなかったり、ある人はとても不愉快になったり。
聖書は剣であり、闇と光を切り分け、信じる人には永遠のいのちへの道だが、信じない人には、裁きに両断される剣となる。
特に、この聖書を読む時、理解できなくて、曲解し、あさってな理解をしてしまう。
かつての使徒パウロがそうだった。パリサイ人として聖書を曲解して理解し、神の御子キリストにある人達を迫害してしまった。目と心に、覆いがかかっていたのである。

2コリント3:12-18、心に黒くもがかかってしまっている場面がある。
 3:12 こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、
 3:13 そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
 3:14 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
 3:15 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。

ここの状況は、ユダヤ人が、覆いがかかっていて、状況が理解できない状況である。
何によってそれは取り除かれるのか。それは、キリストによって、と書いてある。キリストが鍵なのである。
16節に、どうすれば心の覆いが取り除かれるかが書いてある。

 3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。

主に向くなら、その覆いが取り除かれる。
だから私達の側が、自由意志を用いて、主に心を向ける、という選択を取って、そう行動する。
そこまでするなら、その覆いは取り除かれるのだ。キリストによって。
さらに書いてある。

 3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
 3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

つまり、私達の側が、自由意志を用いて、主に心を向ける、という選択を取って、そう行動する時、働くのは御霊である。私達が主に向く時、その覆いを除いてくださるのは、キリストであり、そしてその働きをするのは、御霊である。

覆いが取りのけられる時、主の栄光がクリアになって、主の栄光の光を見ることが出来る。
主に向くなら、主の栄光を反射させ、人々に主の栄光を届ける事ができるのだ。
そのためには、まず私達が主に向く。そして、心の覆いを取り除く事だ。

そういうわけで、私達は、御霊によって心が晴れやかになるための祈りが必要である。
それが、エペソ1章17節からの祈りが有効なのである。
 1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ(神の認識をもたらす知恵と啓示の御霊)、

黒雲を取り除かれるのは御霊であるが、この、知恵と啓示の御霊が与えラえっるように。
知恵と啓示の御霊が無い状況であるなら、とんちんかんな事をする。覆いに覆われて、自分の中に閉じこもっているから。
ミズを犯してしまう時、自分に黒雲がかかっていないかチェックすべき。その時、17-19節の祈りをする時である。

神様に対する正しい認識ができない人は、あさってな神様像をもって、霊的あさってな事をしてしまう。

 1:18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
 1:19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

確かに、心の目がはっきり見えるようになったら、ビジネスや人間関係がうまく行くようになる。
しかし最も大事なことは、
「神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるか」
つまり、神に対する認識がはっきり見えるように、という事をこそ、真っ先に求めるべきである。
そして、神様の認識で、物事を見なさい、という事である。

知恵と啓示の御霊は、なぜ必要か。それが与えられたら、神の認識で人を見、事を判断でき、そうして、人がなぜその事をするのか、どういう弱さ、傷、本質をもって、そうするのかがわかる様になっていくから。

私達の目がはっきり見えるようにならなければ、霊的な事柄が一切できない。だから、働き人には必須の祈りである。
ただ、人の状態がわかる、までは良いかもしれがいが、ではその人をどう導いて行けば良いかわからない、という所が、問題である。
確かに人の心がわかるとか、ビジネスがうまくいくための知恵と啓示の霊を求める事も重要だが、なにより、”キリストの認識”が与えられるように求める事が、より本質である。

マタイ7:3-5
 7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
 7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

病や悪霊、過去の傷にとらわれている人、その人達の状況はある程度わかるかもしれない。
ただ、分かったとしても、対処の仕方が分からないとするなら、頭ごなしに叱ったり、根拠のない慰め言葉で塗りつぶしたり、あさってな対応をしてしまう。
まず、自分自身の目の中に、梁がある、それを取り除くなら、兄弟姉妹をいやす事ができるのだ。
だから、まず自分自身を改善させる事が必要である。
それはどうやって取り除かれるものか。
それは、キリストによって取り除かれるものである。だからこそ、エペソ1章の、知恵と啓示の御霊を祈り求める事が重要なのだ。
イエス様の認識をもって、兄弟姉妹の目のちりを取り除く、病、悪霊を追い出す事ができるのだ。

そして、それが与えられたなら、人をいやし改善できるのみならず、自分自身がどのような立ち位置にあるのか、どれほど素晴らしい立ち位置で、イエス様がどれほど素晴らしいお方か、それを知り、感動し、健全になっていくのだ。

主が私達を通して働かれる力が、どれほど偉大であるのか、続く箇所に書いてある。
日本にもアメリカにも、色々な国に、色々な権威がある。しかし、それら全てを凌駕してあまりある力強い権威が、なんと、私達の内にいますキリストにあるのだ。

 1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
 1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

キリストの御名は、内閣権威、大統領権威よりもはるかに上の権威である。
安倍首相のハンコが押された文書は、どの省庁でも、通るが、私達は、なんと、イエス様の名前を用いてハンコを押すのと同じように、その御方の御名によって祈る特権が、与えられているのだ。
ただし、私達がその与えられた御名を、みだりに用いてはならない。イエス様の御名は、神の働きのために行使していくべきものである。
イエス様の御名は、肉欲のためでなく、公務のために、悪霊を追い出し、奇跡を行ったりするべきもので、決して、それらできるゆえに有名になろうとしたり、お金持ちになろうとしたり、するとするなら、それは公務員の公費横領のように、霊的横領になってしまう。
この与えられた特権と力は、御国の公務のために用いるべきなのだ。
かの日、イエス様に、あなたの名によって悪霊を追い出し、奇跡を行ったではありませんか、と言っても、わたしはあなたを知らない、不法をなす者、わたしから離れよ、と言われてしまう。
だから神の国の公務員として、アンバサダーとして、イエス様の御名を用いるべきで,天国の公務に則った動機によってイエス様の御名を用いる時にこそ、この莫大な力が働くのだ。

 1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
 1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

北朝鮮最高指導者の権威は、たとえこの地上のあの領域で権威が通ったとしても、来るべき天国では通らないが、キリストの権威は、この地上でも、かの世でも、いっさいの上にその権威が通るのである。
そしてさらに。

 1:23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

教会はキリストのからだである。そして、その上にキリストがおられるから、イエス様の権威を持つことができる。
逆に、イエス様の認識を持たないなら、キリストのからだとしての機能は無いのだ。
信仰の先人たちは、イエス様の認識を持っていた、ために、それぞれ与えられた賜物を駆使して、キリストのからだの建て上げをした。
ある人は、イエス様の認識に沿って、お金持ちになって、教会の働きを助けた。
ある人は、大いなる政治家となって奴隷解放をした。

だから私達は、もしイエス様の認識がなければ、私達はイエス様のからだにはなれない。
知恵と啓示の御霊はなぜ必要か。それは、イエス様の認識を持つために必要。かしらなるイエス様の認識を持った
このイエス様の認識をもって動く、という事なら、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満たして下さるのだ!ありえない事である。
キリストの権威を帯びて、キリストの御旨をなすために、キリストの御名を用いて宣言するなら、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたの権威において、それが行使されるのだ!それが、教会、エクレシアに与えられているのだ!

エクレシア、それは召し出された者たち。人々。その私達が、キリストのからだであり、ある人には同じ御霊から預言が、ある人には同じ御霊から、施しのできるお金が、与えられ、それぞれが同じキリストの認識に沿って行動する時、それぞれの賜物を行使して、それぞれがキリストの事業、この国を神の国へと変えていく事業に参加するのだ。

エデンにおいて、
まだ人が罪を犯す前、神様から与えられた事業、すなわち、エデンをメンテナンスするという働きを、忠実に行っていた。その時、いっさいのものを、いっさいのものによって満たす方の満ちておられる共同体の中で、健全に、アダムとエバは働いていた。
しかし、神から独立した、神のようになれるという”善悪を知る種”が、彼らの内に埋め込まれてしまった。その時から、神の国の事業に参加する参加者という立ち位置から脱退し、おのおのが独立した、”リトル神”になって、身勝手な善悪判断によって、おのおのが独立的に身勝手な事をし初めた。
だから、被造物はめちゃくちゃになってしまったのだ。
だから、私達が再び本来の人間の状態になるためには、エクレシアである教会につながり、もはや自分の善悪判断によって「リトル神」である事を捨て去って、まことの神にあって教会に参加し、共に与えられた賜物に応じて、おのおのの仕事をする時に、教会はキリストのからだとなって、いっさいのものを、いっさいのものによって満たす方の満ちておられるところのパワーをもって、行使できるのである。
それが、教会に与えられた特権なのだ。

 1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
 1:23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

私達の内にいますキリストが、どれほど偉大なお方であり、どれほど素晴らしい事業に参加しているのか、認識できますように。

いっさいのものをキリストの足の下に!
まだ罪を犯していない人類に対して与えられた祝福は、
 1:28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

この、支配せよ、治めよ、とは「足の下で踏む」という意味もある。
だからもし、サタン、ヘビが足の下に、ニョロニョロと来たなら、足の下で踏む!という事を、私達がしなければならない。もしそれをしないで、サタンとの会話にはまってしまったら、エデンがめちゃくちゃにされたあげく、追い出されてしまう。
踏まないとするなら、キリストの認識に無い事になってしまう。
キリストは今も、踏み続けているのだ。神にさからうものは踏み続け、キリストの体で有り続けるべきなのだ。

私達に与えられている特権がどれほど素晴らしいものか。全てにまさる名である。この世でも、かの世でも。
私達がその御国の事業に参加する時、イエス様の御名によって権威を行使しようとするなら、それは受理されて天に届けられる。
しかしもし、身勝手な肉欲の善悪判断に基いてイエス様の御名を行使しようとするなら、受理されない。
だから、御国の事業に参加する、神の国の全権大使として、神の国から遣わされた戦士として、それをなしていくべきである。
もし兵士が、力づくで弱い人からお金を巻き上げるような事をするなら、そのような者は解雇されてしまう。
バプテスマのヨハネが同じ事を言っていた。兵士に対しても、取税人に対しても。
自分の役割を悪用して、奪い取るということを止める、それをすることが、自分の目から梁を取り除く事。
もしそれをしないなら、自分と同じ罪をしている人から、目のちりを取り除く事が出来ない。

梁とははるかに回数を重ねてたくさん過ちをした人。罪を増し加えて、太くなった。
梁は、家をささえる頑丈な横木。それを取り除いていない状態で、私達は、神の認識に立つことはできない。
罪の性質によって自分を支えている梁を、取り除かなくてはならない。

まとめ。今日のメインは、17節から19節の祈り。
1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
 1:18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
 1:19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

この祈りをメインの祈りとするべき。
目がはっきり見えるようになるために、梁が取り除かれ、人をいやすのみならず、まず自分自身が癒され、神がいかに素晴らしいお方であるのかをますます認識し、神の認識に立って、神の国の事業に参加し、イエス様の御名を行使する時、その力が発揮され、みなさんの人生が変えられ、人の人生をキリストにあって変える事のできる主の働き人となっていくみなさんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

邪悪な世代を断ち滅ぼし、主の教育を受けた世代を新しく創られる主(2歴代誌22章)
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22:1 エルサレムの民はヨラムの末の子アハジヤを彼の代りに王とした。かつてアラビヤびとと一緒に陣営に攻めてきた一隊の者が上の子たちをことごとく殺したので、ユダの王ヨラムの子アハジヤが王となったのである。
22:2 アハジヤは王となった時四十二歳で、エルサレムで一年の間世を治めた。その母はオムリの娘で名をアタリヤといった。
22:3 アハジヤもまたアハブの家の道に歩んだ。その母が彼の相談相手となって悪を行わせたからである。
22:4 彼はまたアハブの家がしたように主の目の前に悪を行った。すなわちその父が死んだ後、アハブの家の者がその相談役となったので、彼はついに自分を滅ぼすに至った。

イスラエルの神、主を捨てたヨラムは、主に呪われた死に方をし、その子アハズヤが王になる。
彼もまた悪い王として記されているが、それは、彼の母アタリヤが助言していたからである。
アタリヤはイスラエル最悪の王、アハブとイゼベルとの間に生まれた娘である。
こうしてアタリヤは、南ユダ王国に入ってしまった悪い種として、その邪悪な実りを結ばせていくようになってしまった。

22:5 アハジヤはまた彼らの勧めに従って、イスラエルの王アハブの子ヨラムと共にラモテ・ギレアデへ行き、スリヤの王ハザエルと戦ったが、スリヤびとはヨラムに傷を負わせた。
22:6 そこでヨラムはスリヤの王ハザエルと戦った時、ラマで負ったその傷をいやすためにエズレルに帰った。ユダの王ヨラムの子アハジヤはアハブの子ヨラムが病気なのでエズレルに下ってこれを見舞った。
22:7 アハジヤがヨラムを見舞に行ったことによって滅びに至ったのは神によって定められたことである。すなわち彼がそこに着いた時、ヨラムと一緒に出て、ニムシの子エヒウを迎えた。エヒウは主がアハブの家を断ち滅ぼすために油を注がれた者である。
22:8 エヒウはアハブの家を罰するにあたって、ユダのつかさたち、およびアハジヤの兄弟たちの子らがアハジヤに仕えているのを見たので、彼らをも殺した。
22:9 アハジヤはサマリヤに隠れていたが、エヒウが彼を捜し求めたので、人々は彼を捕え、エヒウのもとに引いてきて、彼を殺した。ただし「彼は心をつくして主を求めたヨシャパテの子である」と人々は言ったのでこれを葬った。こうしてアハジヤの家には国を統べ治めうる者がなくなった。

アハズヤの王権は、わずか一年で終わってしまった。
アハズヤがエフーによって殺された次第は、第二列王記9章に詳しく記されている。
主を敬わない世代がはびこりその勢いを増し加えようとするなら、主が許されない。なぜなら、主は主を敬わず偶像に走る者には呪いを3第4代に、しかし主を恐れ敬う者には恵みを千代に施されるお方だからである。

22:10 アハジヤの母アタリヤは自分の子の死んだのを見て、立ってユダの家の王子をことごとく滅ぼしたが、

アタリヤの子は殺されてしまった。
もしダビデの血筋の誰かが、主の道に歩む政治を行うとするなら、自分の身が危うい、という事だったのかもしれない。
彼女は、ユダの家の王子をことごとく滅ぼしてしまった。

当時の時代、主を敬う事を貫く人がいたなら、彼は絶望しただろう。
ダビデの血筋に、アハブの汚れた血が混じってしまい、ヨシャパテの子達は殺されてしまったのみならず、王族の血筋がみな断たれてしまった、と。
しかし神は、敢えて、この事を許されたのだ。
人の目から、いかに絶望に見えるような状況でも、主はそれを用いて、最善へとひっくり返す事がおできになる方である。

22:11 王の娘エホシバはアハジヤの子ヨアシを王の子たちの殺される者のうちから盗み取り、彼とそのうばを寝室においた。こうしてエホシバがヨアシをアタリヤから隠したので、アタリヤはヨアシを殺さなかった。エホシバはヨラム王の娘、またアハジヤの妹で、祭司エホヤダの妻である。
22:12 こうしてヨアシは神の宮に隠れて彼らと共におること六年、その間アタリヤが国を治めた。

主は、次々と殺されていくダビデの血筋の中から、一人の赤ちゃんを保護し、彼を備えられる。
その赤ちゃんは、悪が増大している中、神殿の中に隠され、神殿の中で祭司に育てられていく。
いかに人の悪が増大し、もはや神を敬う人が断たれてしまったかのように見えるような現状でも、主は、全く新しく、主の教育を受けた新しい世代を立てられる。。。
ノアの時代がまさにそうだった。

創世記6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。
6:8 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。

主は、ただ悪にのみ染まりきってしまった世界全体から、主を敬うノアの家族を取り分け、残し、古い悪の世代は全部洗い流して、新しい主を敬う世代を通して、世界を救おうとされた。
歴代誌の時代においても、主の方法は、全くそうであった。

こうして、邪悪な母が邪悪な教育をする王宮の中、もはや立ち直れなくなってしまったユダ王国に、ひとりのみどりごを備え、古いものを過ぎ去らせ、全く新しく、神をおそれ敬う全く世代へと導いてくださる。
それは、イエス・キリストにおいても、全くそうである。

イザヤ10:33 見よ、主、万軍の主は、恐ろしい力をもって枝を切りおろされる。たけの高いものも切り落され、そびえ立つものは低くされる。
10:34 主はおのをもって茂りあう林を切られる。みごとな木の茂るレバノンも倒される。
11:1 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、
11:2 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。

主は、悪で巨大化した”ネフィリム”を、伐採される。
その代わりに、ひとりのみどりごを備え、彼を通して全人類を救いへと導いていく。
こうして主は、邪悪な世代を断ち滅ぼし、主の教育を受けた世代を新しく創られる。
私達も、汚れた性質、汚れた価値観というパン種を除き去り、バプテスマの水で古いものを洗い流し、全く新しく創り変えられて新しく歩み続け、またそのように新しい世代に教育して行く者であるべきだ。

イスラエルに致命的な災いをもたらしていたヨシャパテ(2歴代誌21章)
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2歴代誌21:1 ヨシャパテは先祖たちと共に眠り、先祖たちと共にダビデの町に葬られ、その子ヨラムが代って王となった。

ヨシャパテという善王の信仰の行いについて、あるいは犯してしまった過ちについて、歴代誌は4章にわたって記して来たが、いよいよ代交代となる。
ヨシャパテは良い王として記録されたものの、この21章を見ると、ヨシャパテは実はイスラエルに最悪な事をしてしまっていた事を知る事となる。
最悪な事とは、忌むべき女を息子の嫁としてしまった事だ。

21:2 ヨシャパテの子であるその兄弟たちはアザリヤ、エヒエル、ゼカリヤ、アザリヤ、ミカエルおよびシパテヤで、皆ユダの王ヨシャパテの子たちであった。
21:3 その父は彼らに金、銀、宝物の賜物を多く与え、またユダの要害の町々を与えたが、ヨラムは長子なので、国はヨラムに与えた。
21:4 ヨラムはその父の位に登って強くなった時、その兄弟たちをことごとくつるぎにかけて殺し、またユダのつかさたち数人を殺した。

なんと、せっかくヨシャパテに生まれた多くの息子達は、その長男ヨラムの手によって全員殺されてしまった。
その動機は、次の箇所を見れば大体想像できる。

21:5 ヨラムは位についた時三十二歳で、エルサレムで八年の間世を治めた。
21:6 彼はアハブの家がしたようにイスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘を妻としたからである。このように彼は主の目の前に悪をおこなったが、
21:7 主はさきにダビデと結ばれた契約のゆえに、また彼とその子孫とにながく、ともしびを与えると約束されたことによって、ダビデの家を滅ぼすことを好まれなかった。

ヨラムはなぜ兄弟を殺したのか。それは、ヨラムの妻となったアタルヤのそそのかしであろう。
彼女の父は北イスラエル王国最悪の王アハブ、彼女の母は夫アハブを尻に敷いてイスラエルに偶像礼拝と姦淫を持ち込んだ、イゼベルであった。
このアハブ・イゼベルの間に生まれた娘、ヨラムの妻、アタルヤは、自分の王権を保つために身内の者を殺し、自分が南ユダ王国の王にさえのし上がった女である。(2歴代誌22:10-12)
ヨシャパテが自分の子ヨラムにこの女を結婚させた名目は政略結婚だったであろう。それで自分は、北と南を和解させた、と思っていたかもしれない。
しかし、結婚は軽んじるべきではない。
彼はこの結婚により、とんでもない女をイスラエルに持ち込んでしまい、また、王国の血筋に、災いの根となるものを持ち込んでしまったのだ。

21:11 彼はまたユダの山地に高き所を造って、エルサレムの民に姦淫を行わせ、ユダを惑わした。

アハブはイゼベルに尻に敷かれてイスラエルに偶像礼拝と姦淫を導入したのと全く同じように、ヨラムはアタルヤに尻に敷かれてしまったのだろう。
1コリント15:33 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。
15:34 目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。

神の民の間で、このような事がいつまでも続くはずがない。

21:12 その時預言者エリヤから次のような一通の手紙がヨラムのもとに来た、「あなたの先祖ダビデの神、主はこう仰せられる、『あなたは父ヨシャパテの道に歩まず、またユダの王アサの道に歩まないで、
21:13 イスラエルの王たちの道に歩み、ユダとエルサレムの民に、かのアハブの家がイスラエルに姦淫を行わせたように、姦淫を行わせ、またあなたの父の家の者で、あなたにまさっているあなたの兄弟たちを殺したゆえ、
21:14 主は大いなる災をもってあなたの民と子供と妻たちと、すべての所有を撃たれる。

ヨラムの弟達は、ヨラムよりもまさっていた、とエリヤは言った。
しかし、ヨラムが長男であったので彼を王にしてしまい、それ故に彼よりも優れた王子たちは殺され、ヨシャパテはせっかく産んだ子達は絶やされてしまった。

1ヨハネ3:12 カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。

邪悪な者は、自分よりも正しい人を憎み、傷つけ、殺すものである。
自分のわざが悪く、相手のほうが正しいなら、相手が何をしていなくても葬り去りたくなるのは、サタンの衝動だからである。

21:15 あなたはまた内臓の病気にかかって大病になり、それが日に日に重くなって、ついに内臓が出るようになる』」。

エリヤは彼に、災いを預言した。
主は悔い改めて立ち返る人には憐れみを施して下さるが、ヨラムはどうだったか。

21:16 その時、主はヨラムに対してエチオピヤびとの近くに住んでいるペリシテびととアラビヤびとの霊を振り起されたので、
21:17 彼らはユダに攻め上って、これを侵し、王の家にある貨財をことごとく奪い去り、またヨラムの子供と妻たちをも奪い去ったので、末の子エホアハズのほかには、ひとりも残った者がなかった。
21:18 このもろもろの事の後、主は彼を撃って内臓にいえがたい病気を起させられた。
21:19 時がたって、二年の終りになり、その内臓が病気のために出て、重い病苦によって死んだ。民は彼の先祖のために香をたいたように、彼のために香をたかなかった。
21:20 ヨラムはその位についた時三十二歳で、八年の間エルサレムで世を治め、ついに死んだ。ひとりも彼を惜しむ者がなかった。人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓にではなかった。

ヨラムは結局、立ち返る事なく、王国にただ災いを残して、はなはだ痛み苦しみならが死んで行き、誰も彼をいたみ悲しむ者がいなかった。
まさに、箴言5章の通りである。

5:1 わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、わたしの悟りに耳をかたむけよ。
5:2 これは、あなたが慎みを守り、あなたのくちびるに知識を保つためである。
5:3 遊女(他国)のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
5:4 しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
5:5 その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
5:6 彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。
5:7 子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。
5:8 あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
5:9 おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
5:10 おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
5:11 そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
5:12 言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
5:13 教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
5:14 集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

ヨラムはあまりにひどい事をイスラエルに導入し、あまりにひどい死に方をした。
それはこの箴言にある通り、異邦の女にとりことなり、主の道に歩まず、その道を捨て去ったからだ。
神の子達が、異邦の女が美しいという事で妻に迎える結果、何が起こるか、創世記6章に書いてある。

創世記6:1 人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、
6:2 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。
6:3 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。
6:4 そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。
6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

異邦の女が、美しいという事で、神の子が結婚し、御言葉を捨て去った子育てをするなら、寿命は縮められ、ネフィリムという化物が生まれ、いつも悪辣な事に傾く者達が子々孫々に増え広がり、ついにはその子孫は全滅させられてしまうのだ。

そのような者を伴侶とするくらいなら、独身を貫いたほうがまだ良い。
ヨシャパテは息子を、全員失ってしまったようなものだからだ。

私達はアブラハムのように、子供の結婚においてはよく吟味し、素晴らしい嫁を探し入れるべきである。

創世記24:1 アブラハムは年が進んで老人となった。主はすべての事にアブラハムを恵まれた。
24:2 さてアブラハムは所有のすべてを管理させていた家の年長のしもべに言った、「あなたの手をわたしのももの下に入れなさい。
24:3 わたしはあなたに天地の神、主をさして誓わせる。あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。
24:4 あなたはわたしの国へ行き、親族の所へ行って、わたしの子イサクのために妻をめとらなければならない」。

イサクは40歳になってようやく結婚できた。世の人は、それを遅いと言い、さっさと目の前にいる女と結婚すれば良いのに、というかもしれない。
しかし、もしアブラハムが結婚を焦って、目の前に沢山いるカナンの女の一人と結婚させていたら、その子孫が空の星のように広がる祝福は得られなかっただろう。

私達は結婚相手を、御言葉に従う人として定めて選ぶべきだ。

ヨシャパテの大勝利と、その後の失敗(2歴代誌20:20-37)
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おびただしい大軍がヨシャパテ王の南ユダ王国に攻め込んできた時、ヨシャパテは世の何者かに頼る事なく、ただ一心に主に求めた結果、主は預言者を送り、彼らに「これはあなたがたの戦いではなく、主の戦い」である事を示された。
そこでヨシャパテ王とその民は、大いに主を喜んで賛美を捧げた。
御言葉が与えられたからには、彼らは、その御言葉の通りを行うべき責任が生じる。

20:20 彼らは朝早く起きてテコアの野に出て行った。その出て行くとき、ヨシャパテは立って言った、「ユダの人々およびエルサレムの民よ、わたしに聞きなさい。あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。主の預言者を信じなさい。そうすればあなたがたは成功するでしょう」。
20:21 彼はまた民と相談して人々を任命し、聖なる飾りを着けて軍勢の前に進ませ、主に向かって歌をうたい、かつさんびさせ、/「主に感謝せよ、/そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」/と言わせた。

彼らはなんと、その大軍と自軍との間に、全く武装をしていない、聖なる飾り物をつけた聖歌隊を配備したのだ。
戦術的には全くナンセンスな布陣である。
神を知らない人々は思うかもしれない。地を覆うような敵軍を前に、この聖歌隊は、どれ程の意味があるというだろう、と。
しかしそれは、主の前に何よりも尊かった。
彼らは、この戦いは主が100%戦って下さる、という事を確信した故に、この行動に出たのだ。
主の導きは時に、世の常識から見れば時にナンセンスに見えるかもしれない。しかし、御言葉が示されているなら、その御言葉の通り行う時、世の常識では到底考えられない奇跡を、主は起こされる。

20:22 そして彼らが歌をうたい、さんびし始めた時、主は伏兵を設け、かのユダに攻めてきたアンモン、モアブ、セイル山の人々に向かわせられたので、彼らは打ち敗られた。

一体この伏兵はどこに属し、どのような出で立ちであったのかは、分からない。ただ、それは主が送られた、という事以外は。
伏兵とは、思わぬ所に兵を配備し、敵の意表を突くものだが、主の助けは、私達の思いもしなかった隠れた所から現れ、私達と敵との間に立ちはだかって、戦って下さるのだ。

20:23 すなわちアンモンとモアブの人々は立ち上がって、セイル山の民に敵し、彼らを殺して全く滅ぼしたが、セイルの民を殺し尽すに及んで、彼らもおのおの互に助けて滅ぼしあった。

主は、大軍をもって神の民を飲みつくそうとする者達には、混乱を送られ、悪が、悪同士で共に結託できないようにし(創世記11章)、互いに滅ぼし合うように仕向けられる事は、常套手段である。(士師記7章、1サムエル記14章エゼキエル38章)

20:24 ユダの人々は野の物見やぐらへ行って、かの群衆を見たが、地に倒れた死体だけであって、ひとりものがれた者はなかった。
20:25 それでヨシャパテとその民は彼らの物を奪うために来て見ると、多数の家畜、財宝、衣服および宝石などおびただしくあったので、おのおのそれをはぎ取ったが、運びきれないほどたくさんで、かすめ取るに三日もかかった。それほど物が多かったのである。

一人が一つの死体から分捕るのに多く見積もって1時間かかるとし、それを1日9時間働いたとするなら、3日で27体分の死体から分捕った事になる。
その計算とするなら、敵は、少なくとも自軍の27倍はいた事になる。
それ程多くの敵であっても、主にあって、恐れる必要は一切無いというのは、神の民にとってどれほど素晴らしい特権であろうか。

もちろん、敵を前にしたら戦わずに賛美するというのを、そのままマネしたら必ず勝てるという訳ではない。
一人一人に与えられた戦いと神の救いの方法は違う。しかし、心を尽くしてイエスキリストの名によって祈るなら、人知を超えた平安が与えられ、人の方法ではない救いが来る。(ピリピ4:6-7)

20:26 四日目に彼らはベラカの谷に集まり、その所で主を祝福した。それでその所の名を今日までベラカの谷と呼んでいる。
20:27 そしてユダとエルサレムの人々は皆ヨシャパテを先に立て、喜んでエルサレムに帰ってきた。主が彼らにその敵のことによって喜びを与えられたからである。
20:28 すなわち彼らは立琴、琴およびラッパをもってエルサレムの主の宮に来た。

主を褒め称え喜ぶ事は、私達の力である。(ネヘミヤ記8:10)
彼らの喜びは、敵に勝利したからでなく、分捕りができたからでもない。彼らの喜びは、戦う前からあった。
敵がまさに目の前に迫り来る最中にも、彼らの口には喜びの賛美があった。
それで彼らの主を喜ぶ事が、主の力となって、彼らを救ったのである。

20:29 そしてもろもろの国の民は主がイスラエルの敵と戦われたことを聞いて神を恐れた。
20:30 こうして神が四方に安息を賜わったので、ヨシャパテの国は穏やかであった。

主に信頼し、主ご自身が戦って下さるなら、大いに分捕りができ、周りはそれを見て恐れる。
彼らのように主に信頼して進みゆくなら、主が働かれ、そうして、主により頼むという事がどんなに素晴らしい事かを人々は知り、その主の素晴らしさを味わい尽くして行くものである。

20:31 このようにヨシャパテはユダを治めた。彼は三十五歳の時、王となり、二十五年の間エルサレムで世を治めた。彼の母の名はアズバといってシルヒの娘である。
20:32 ヨシャパテは父アサの道を歩んでそれを離れず、主の目に正しいと見られることを行った。
20:33 しかし高き所は除かず、また民はその先祖の神に心を傾けなかった。
20:34 ヨシャパテのその他の始終の行為は、ハナニの子エヒウの書にしるされ、イスラエルの列王の書に載せられてある。

ヨシャパテの人生はその後、安泰であった事が記されているが、しかしその後、残念な事が記されている。

20:35 この後ユダの王ヨシャパテはイスラエルの王アハジヤと相結んだ。アハジヤは悪を行った。
KJV: And after this did Jehoshaphat king of Judah join himself with Ahaziah king of Israel, who did very wickedly:

20:36 ヨシャパテはタルシシへ行く船を造るためにアハジヤと相結び、エジオン・ゲベルで一緒に船数隻を造った。
20:37 その時マレシャのドダワの子エリエゼルはヨシャパテに向かって預言し、「あなたはアハジヤと相結んだので、主はあなたの造った物をこわされます」と言ったが、その船は難破して、タルシシへ行くことができなかった。

ヨシャパテはなぜ、アハズヤの悪に「join」したのか。
1列王記22:48を見ると、タルシュシュの金を得る事が目的であったと書いてある。
せっかく主の方法で富んだ者、栄誉ある者として周囲から恐れられていたのに、またもや悪しき者と結託してしまい、その尊厳を失ってしまった。
私達は成功した時、富んだ時こそ、心して主から離れないように、高慢になって罪を犯さないように気をつけるべきである。

「理にかなった祈り」とは(2歴代誌20:1-19章)
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ヨシャパテは主に忌み嫌われる事ばかりしていたアハブ王を助けようとした故に災いが下る事が預言されていたが、はたしてその通りになった。

20:1 この後モアブびと、アンモンびとおよびメウニびとらがヨシャパテと戦おうと攻めてきた。
20:2 その時ある人がきて、ヨシャパテに告げて言った、「海のかなたのエドムから大軍があなたに攻めて来ます。見よ、彼らはハザゾン・タマル(すなわちエンゲデ)にいます」。
20:3 そこでヨシャパテは恐れ、主に顔を向けて助けを求め、ユダ全国に断食をふれさせた。
20:4 それでユダはこぞって集まり、主の助けを求めた。すなわちユダのすべての町から人々が来て主を求めた。

ヨシャパテ王は、自分にはとうてい、どうにも出来ない敵を前に、恐れた。
私達の人生も、自分の力ではどうにもならない、私達を攻めたてる敵が来る時がある。
その敵は誰か人間であったり、あるいは病であったり、不足であったりするが、ヨシャパテは敵が来た時、ただ主に向けて助けを求め、人々にも祈りに専念するよう要請した。

20:5 そこでヨシャパテは主の宮の新しい庭の前で、ユダとエルサレムの会衆の中に立って、
20:6 言った、「われわれの先祖の神、主よ、あなたは天にいます神ではありませんか。異邦人のすべての国を治められるではありませんか。あなたの手には力があり、勢いがあって、あなたに逆らいうる者はありません。

6節から12節がヨシャパテ王の祈りであるのだが、その祈りの内容は、非常に理にかなった祈りである。
理にかなった祈りとは、御言葉に基づいた祈りである。
異邦人の祈りは、願い事を並べ立てて、ただ何度も繰り返し繰り返しているようなものだが、それには、祈りがかなえられる根拠は無い。
しかし、永遠に変わらない神様の御言葉を根拠としている祈りは、背骨が通ったかのようにしっかりしている。

私達は祈る時は、大抵まず自分の願いを述べるものだが、ヨシャパテ王はまず、主がどういうお方であるかを信仰によって告白し(6節)、主は天におられ全ての異邦の王国、全世界を統べ治めるお方であり、対抗できる者は無い、と、信仰によって宣言した。
主の祈りも、真っ先に「天にましますわれらの父よ」と、どのようなお方に向かって祈るのかを明確にしている。

20:7 われわれの神よ、あなたはこの国の民をあなたの民イスラエルの前から追い払って、あなたの友アブラハムの子孫に、これを永遠に与えられたではありませんか。

続いてに彼は、彼の先祖アブラハムに永遠にこの地を与えて下さったという約束を持ち出し、アブラハムの子孫である自分達がそこから追い出されるのはおかしい、と、告白した。

20:8 彼らはここに住み、あなたの名のためにここに聖所を建てて言いました、
20:9 『つるぎ、審判、疫病、ききんなどの災がわれわれに臨む時、われわれはこの宮の前に立って、あなたの前におり、その悩みの中であなたに呼ばわります。すると、あなたは聞いて助けられます。あなたの名はこの宮にあるからです』と。

これもまた、主の約束の御言葉である。
ソロモンが神殿の奉献の祈りをした時の祈りのことばであるが、主はその時、天から火を降していけにえを焼きつくし、確かにその祈りの通りにしよう、と、答えてくださった。(2歴代誌6章)
主が答えて下さった約束を持ちだされたからには、主はその祈りを成就させてくださる。

20:10 今アンモン、モアブ、およびセイル山の人々をごらんなさい。昔イスラエルがエジプトの国から出てきた時、あなたはイスラエルに彼らを侵すことをゆるされなかったので、イスラエルは彼らを離れて、滅ぼしませんでした。

ヨシャパテはさらに、この今攻めてくる者達が何者であり、そして主はそんな彼らについて、かつてどのように言われか、という事を盾にとった。
主は、アンモン、モアブ、およびセイル山の人々に手出ししてはならないと、申命記2:4-19で命じておられた。つまり彼らが生かされているのは主の憐れみであり、当時、彼らを滅ぼす力がイスラエルにあったにもかかわらず、主がイスラエルに命じられた故、彼らは生かされたのだ。

20:11 彼らがわれわれに報いるところをごらんください。彼らは来て、あなたがわれわれに賜わったあなたの領地からわれわれを追い払おうとしています。

ヨシャパテは、自分達は主の約束ゆえに彼らを生かし、彼らの領土に一切触れる事なく、自分達は主が与えて下さった地に平穏に生きているというのに、このアンモン、モアブ、およびセイル山の人々が、主に対して恩を仇で返してきた事を主に訴えている。

20:12 われわれの神よ、あなたは彼らをさばかれないのですか。われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです」。

ヨシャパテは最後に、自分達の願いを持ってきた。
私達も、御言葉にはこう書いてあります、だから主よ、この事を起こして下さい、と祈るべきであり、決して異邦人のように同じ願い言葉を、何度も何度も唱えるべきでない。
イエス様もまた、まず父なる神様の御心がなる事をまず祈ってから、その上で、日毎の必要や罪の赦し、悪からの救いを祈るようにと、祈る方法を示された。(マタイ6:9-13)

御言葉を盾に取り、主の御旨に適った方法で祈るなら、主は必ず答えてくださる。

20:14 その時主の霊が会衆の中でアサフの子孫であるレビびとヤハジエルに臨んだ。ヤハジエルはゼカリヤの子、ゼカリヤはベナヤの子、ベナヤはエイエルの子、エイエルはマッタニヤの子である。
20:15 ヤハジエルは言った、「ユダの人々、エルサレムの住民、およびヨシャパテ王よ、聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられる、『この大軍のために恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである。

主はヤハジエルを通して、御旨を示された。
すなわち、これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだ、という事である。
そうである。アンモン、モアブ、およびセイル山の人々が主の示された憐れみを無視し、彼らが攻め入ってはならない領域すなわちイスラエルの民に与えられた地に攻め入り、そして、イスラエルの民が御言葉を盾に取った方法で祈るなら、この戦いは、イスラエルと彼らの戦いではなく、主と彼らとの戦いである、というのは、理に適った事である。

20:16 あす、彼らの所へ攻め下りなさい。見よ、彼らはヂヅの坂から上って来る。あなたがたはエルエルの野の東、谷の端でこれに会うであろう。
20:17 この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。ユダおよびエルサレムよ、あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。恐れてはならない。おののいてはならない。あす、彼らの所に攻めて行きなさい。主はあなたがたと共におられるからである』」。

主は具体的に取るべき行動を示されたが、主がどのように救いを与えて下さるかは示されなかった。
それでいいのである。人は、主から示された行動を取るべきであり、その手段を知る必要は無いのだ。人はただ、主が共にいて下さるという事、これに満足して、主が勧めと言われるなら進み、主が留まれというなら留まるのみである。

20:18 ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダの人々およびエルサレムの民も主の前に伏して、主を拝した。
20:19 その時コハテびとの子孫、およびコラびとの子孫であるレビびとが立ち上がり、大声をあげてイスラエルの神、主をさんびした。

こうしてヨシャパテとイスラエルの民は、救いの確信を得て賛美が溢れた。
人は、主に心を注いで祈り続ける時、主が聞いて下さった、という平安と確信を得る事がある。
ハンナはまさにそうだった。彼女は主に心を注いで祈った結果、確信を得て、もはや悲しい顔をしなかった。(1サムエル記1:12-18)

私達も、ヨシャパテのように恐れる時、ハンナのようにいらだちで塞がれた時、心を主に注ぎ出し、御言葉を楯に祈るべきである。
そうするならやがて、「主は聞いて下さった」という、もはや問題や状況に左右されない平安に満ち溢れるようになるからだ。

悦び笑わせてくださる主(創世記18:9-15)
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賛美集会音声
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週報/メッセージ(説教)概要

 今年は「ベエル・シェバは私達のもの」という言葉で始まった。主が導かれる広々とした地・安心して産んで増えて行ける地、ベエル・シェバを受け継いだのは、イサクだった。今回は、彼の出生の秘話を見たい。
イツァク( יִצְחָק )の意味は「彼は笑う」、その元の言葉ツァハァク(צָחַק )は「笑う、戯れる、からかう」などの意味がある。本日の箇所で何度も「笑う」というキーワードが出てくるが、今回の場面はイサクが産まれる一年前、母サラは89歳、アブラハムは99歳、ちょうど神様から新しい名が与えられ、「来年の今頃男の子が与えられる」という約束を受けた直後だった。神は「エル・シャダイ(全能の神)」として現れて下さったが、アブラハムは、100歳の自分と90歳のサラの間に、どうして子供を産まれようか、と、心の中で笑った。
遡る事13年前、サラは自分を決定的に貶める事を、自らしてしまっていた。自分に中々子供が産まれず、神様の約束が果たされないのを待ちきれず、世の流儀に従い、奴隷女ハガルをアブラハムにあてがって代理で子を生ませたのだが、彼女に待っていたのは、途方も無い惨めさだった。ハガルはすぐに子ができてしまったからだ。それ以降、アブラハムと彼の集団の注目は、ハガルの子供に集中し、サラは軽んじられ、どんどん立場を失って行った。サラはハガルに、「女性としての力」のあらゆる面で負けていた。
若さや産む力、人を惹き付ける力など。サラは子供ができないまま閉経し、この体、この人生ではもう手遅れだ、自分だけ喜びの外に出されてしまった、と、「あきらめ」が分厚い層を成して彼女の心を覆っていた。
そこで主は、サラの心に手を加えるために現れて下さる。『彼らはアブラハムに言った「あなたの妻サラはどこにおられますか」。』(9節) ここはサラは驚いて良い場面である。初対面の旅人のはずの彼らが、神様に与えられた新しい名を知っており、しかも神様の約束をそのまま言っているのだから。しかしサラは現実感が無い。長い間、蔑まれ、軽んじられていると、防衛本能が働いて、喜びや笑い、怒りや悲しみなどの感覚が、すっぽり無くなってしまうのだ。主はそんな彼女を、母として整えるため、急激に取り扱って行かれる。
主は彼女の卑屈なあきらめ心に手を加えられる。『サラは心の中で”笑って(ツァハァク)”言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに”楽しみ(エデン)”などありえようか」。主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って”笑った”のか。
主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは”笑い”ません」。主は言われた、「いや、あなたは”笑いました”」。』(12-15節)
サラはようやく目が覚めた。空想から現実に引き戻されたのではなく、現実から真実へと引き戻されたのだ。
真実とは、何か。神の言葉、それが、真実である。世の人は言うかもしれない。そんな歳で一体何が出来るの、現実を見なさい、と。しかしキリスト者は言うべきだ。現実ではなく、真理である御言葉を信じなさい、と。
主がサラの心に手を加えられ、サラが真理の御言葉の約束を見るようになって以降、多くの変化が起こる。
まず、「女としての力」がよみがえって来た。サラは生理が途絶えて久しくなっていたが、それが復活した。
さらにその後、サラは、ペリシテの王アビメレクに略奪結婚されてしまう(20章)。その理由はなんと、サラがあまりに美しいために、夫アブラハムは「自分は殺されて妻サラが奪われてしまわないか」と恐れたからだ。
90歳の女性が、美貌ゆえに略奪されてしまう程、女としての力が戻る。私達は、エル・シャダイ(全能なる神)に、もっと希望を持つべきだ!18章では諦め切っていたサラの心に手が加えられたが、20章は、子供が生まれる事を「神の栄光」とするために、それまでの「兄妹」とい偽りの立場を正さなくてはならなかった。
100歳と90歳の「夫婦」の間に子供が生まれるのは、神の栄光である。しかし100歳と90歳の「兄と妹」の間に子供が生まれるとするなら、ケダモノである。だからまず彼らの偽りの口癖を取り扱う必要があったのだ。
そうして整えられ、いよいよ21章、サラに待望の子供が与えられる。『そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。』(21:6) サラはかつて、老いぼれてしまった私に何の喜び(エデン)があるだろうか、と言った。しかし神の御旨は、人を喜ばせる事(エデン)だ。
主は、人を創られると同時にエデンへ置き、喜びの夫婦関係、喜びの自然世界との関係を築かせようと、あらかじめエデンを設けておられたのだ。いつも喜んでいる事こそ、主が私達に望んでおられる事である。
90歳の女性が美くなって略奪される程になり、赤ちゃんを産んで乳を飲ませる。まさに笑いがこみ上げて来るものだ。主は気落ちしている人を笑うようにさせて下さり、聞いた人も、一緒に笑うようにさせて下さる。
真理の御言葉により、女としての力・男としての力が戻され、喜びの笑いに溢れる皆様でありますように!

ベエル・シェバを受け継いだイサク出生の秘密(創世記18章9-15)
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18:9 彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。
18:10 そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。
18:11 さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。
18:13 主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。
18:14 主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。
18:15 サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。

<祈り>
私達に笑いを与えて下さる主を誉め称えます。いかに恐れまどいがあろうとも、また、現実の問題の山に押しつぶされそうでも、それでもあなたは私達を笑いへと導き、喜びのエデンへと導いて下さる事を感謝します。
この時間も私達にまことの笑いへと導いてくださるように。世の笑いでなく真の笑いへ、決して廃れる事の無い喜びへと導いてください。語るしもべ、聞く一人ひとりを整え、主の語られる事を余す所なく受け止めるこの時でありますように。これからの全てを期待し、我らの主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

<メッセージ>
ベエル・シェバという事で今年は始まった。ベエル・シェバを受け継いだのはイサクだった。
イサクの名前の意味は、「彼は笑う」。イツァハクという発音だが、その元となる言葉はツァハァク、「笑い」
ツァディ、ヘット、クフ、の3文字。冷笑とか苦笑い、嘲り笑いなどの意味がある。真理ではない側の笑い。
そんなのありえないよ、というような笑いである。

サラは、笑った、とある。
ここは、どういう場面か。その時サラは89歳、アブラハムは99歳。
来年のいまごろ、サラには男の子が生まれている、という約束を、この場面の少し前にいただいていた。
17章では、アブラムが99歳の時、神が「全能の神(エル・シャダイ)」として現れて、あなたを大いなる国民とする、そして、あなたの名を「アブラハム(多くの人々の父)」とする、と変えられ、また、サライも「サラ」と名前が変わった。

 17:15 神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。
 17:16 わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。
 17:17 アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。

なんとアブラハムも当初、笑った。100歳の者に、90歳の者に、子供が生まれようか、と。
しかし神は「エル・シャダイ」、全能の神として現れて下さった。全能なのである。100歳の者に、90歳の者に、子供が生まれる?人間の常識からすれば、笑い、ツァハァクしか生まれない。ありえない、と。
しかし神は、本気で、サラから男の子を生まれさせよう、とはるか前から決めている。

その13年前、サラは自分を決定的に貶める事を自らしてしまう。
アブラハムは、妻の声に従って、奴隷女ハガルをあてがわれ、男の子を産んだことにしよう、と。神様の約束がなかなか果たされないのを、待ちきれず、自分の考えや世の流儀に従って行った結果、サラに待っていたのは、とてつもない惨めさ、であった。
確かにハガルを通してすぐに男の子が生まれた。自分は何十年も生まれなかったのに、ハガルとくっつけたら、すぐさま生まれ、致命的な恥を被った。それ以降、アブラハムの家の中での注目は、ハガルとの間に生まれたイシュマエルへと移り、サラはどんどん家の中で軽んじられるようになって行った。
だから既にこの時、虚しさしかなかった。自分には子供がいないまま、女の道も閉ざされてしまった。その現実、自分は取り残され、この体では、この人生ではもう手遅れとなって久しい。そして彼女の心は、もう自分の人生には、何の喜びもない、という、ぼんやりとした倦怠感から来る、「あきらめ」が分厚い層をなして覆っていた。

そこで18章、主は、サラのあきらめによって覆われた心に手を加えるため、3人の人として現れる。
アブラハムはこの3人を見ると、すぐに接待した。彼らが主とその御使いだとは知らずに。
しかし途中から、この3人は只者ではない、という事が分かってくる。

18:9 彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。

彼ら、初対面の旅人だったはずだし、サラという名前も、ついこの間、神様によって変えられたばかりだった。
それを知っているこの3人は何者か、と、びっくりしただろう。サラも、この3人がなぜ新しい神様から与えられた名前を知っている、何者だろう、と、びっくりしていい所ではあるが、しかし彼女は「どうでもいい感」がある。心が倦怠感やあきらめで満ちているなら、あまりびっくりしない。

あきらめに閉じ込められてしまって現実を生きていない人の特徴。
ぼんやりしている人を驚かせようとするのは、難しい。場の皆が、ある事で笑いこけたり、あるいは悲しんだりしている場面でも、ぼーっとして、自分の思い込みに自分の全部が行ってしまっているので、目の前の現場で起きている事が全然分からない。
サラは、傷ついていた。ハガルの事で。イシュマエルが生まれてから、葛藤もすごかった。だから、サラ自身、現実の世界を見ないで、どうでも良いという事で行きていたかもしれない。
だから、主が手を加えずをえなかった。そんなサラの心の状態で、イサクを与えるわけにはいかなかった。
現実感が無いまま、母の役割を与えるわけにはいかなかった。だから、主がいざ、約束していたものを与えようとする直前に、人の側が整えられていなかったら、主は急激にその人に手を加え、活を入れる。
現実感がない人を笑わせるのは、至難の業である。

思いが何か捕らえられていると、面白いこと、悲しいことに、なかなか心が震えない。あまりに蔑まれる事、軽んじられる事が続いていると、防衛本能が働いて、喜びとか笑い、怒り、悲しみが、なくなってしまう。サラにはそういう所があったのかもしれない。
只者ではない3人が現れるのだが、サラは、あまり現実感が無い。

再三の主から約束を思い出させられても、心のあきらめを払拭させないサラ。
18:10 そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。
18:11 さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。

ここの笑いが、ツァハァク。そして、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」サラは、心の中で笑うしかなかった。自分の名前を知っていて、神様の約束、来年の今頃、男の子が生まれる、という事を、なんとこの人達は知っている、と。
ああ、不思議な人達ですね、神様から遣わされた人達なのかしら、くらいの気持ちでいて、でも、その内容に対してはツァハァクした。
彼女は、約束した言葉が、なかなか信じられなかった。17章からこの場面に至るまでも、神様は、何度も「サラが」「サラが」と繰り返し言っているのに、彼女の心の中は、惨めな現実で塗りつぶされた13年のゆえに、神様の言葉に全く現実感を持てなかった。神様は、アブラハムには約束された、すると、ハガルを通して得た、でもわたしはその喜びの範囲外だ、と。

女の力が衰えてしまったというサラの「現実」から、「真実」へとサラを引きずり出す主。
サラは、ハガルに、何もかも負かされていた。若さにしても、産む力にしても、人を惹き付ける力にしても、そうした「女力」のあらゆる面で。自分はただ衰退して行くという現実、それに対するあきらめに、埋もれつくされてしまった心に、主は手を加えられる。

18:12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。

サラが、この言葉を心に思ったとたん。彼女は、現実から、真実へと引きずり出される。
空想から現実に引きずり出されるというのはあるかもしれないが、主がなさるのは、現実から真実へと引きずり出される。

18:13 主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。
18:14 主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。

まことに主ははっきりと、サラに、男の子ができる、とはっきりと宣言している。

18:15 サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。

ここでやっとサラは、信じた。だから、恐ろしくなったのだ。なぜ恐ろしいか、相手は、与える、と言っているのに、自分は、ありえない、と笑ったから。彼女、自分が心につぶやいた事、彼らの見えない後ろの物陰で密かに笑った事も、全部、筒抜けであった主に対し、恐れを抱いた。彼らは、叱っている。。。
一瞬にして、目の前におられるお方は主だと本当に分かって、今までぼんやりと主の前に失礼な事を心でつぶやき、笑うという失礼な事を行って来た、主がそれにいかって、もう、与えると言っておられた事を差し止めてしまったらどうしよう、と、恐れたのかもしれない。

ここにおいて「笑う」という言葉が何度も出てくる。前の章でも、アブラハムがサラに男の子が生まれると聴いて笑った。え、あの妻サラが?と。サラは、ぱっとしない存在になってから久しかったのだろう。
けれども主の御旨は前からずっと、アブラハムとサラの夫婦だったのだ。サラから生まれる、という事こそが、肝心だった。

だから主は、サラが母になるために、整えをしておられたのだ。
今まで90年ちかく、子供がいない女性として生きてきた。サラはずっと子供が生まれない状態で生きてきた、諦めていた、そのところを、主は、真実へと彼女を引きずり込んできた。
真実とは何か。神の言葉、それが、真実である。
現実とは、神の言葉ではない、廃れるべき、目の前で展開されている物事の映像であり、聞こえてくるものである。
しかし主は、決して廃れる事の無い御言葉、真実へと引きずり込まれる。
そして永遠に廃れる事のない御言葉とは、私達への約束であり、あの時のアブラハムとサラ夫婦に対する約束とは、彼らには子供が生まれて、産んで増えて地に満ち、砂粒ほどの、空の星々ほどの数へと増えていく。
それがあの時の主の約束であり、主はサラを現実から真実へと引きずり込み、たとえ90歳であろうと子供が確かに生まれるという確約へと彼女の心を持って行った。

主がサラの心に手を加えられ、サラが現実でなく真実を見るようになって以降、多くの変化が起こる。
まず、女としての力が戻ってくる。
サラには生理が途絶えていたが、それが止まって久しくなっていたのが、再び通うようになったのだろう。
さらにその後、ペリシテの王アビメレクとの事件が起こる。(20章)
このアビメレクの所にアブラハム・サラの夫婦が行った所、サラがあまりに美しいゆえに、夫であるアブラハムは殺されて妻サラが奪われてしまわないか、と、恐れた程、サラは美しくなったのだ。
美しさも取り戻した。あらゆる女としての力を、取り戻して行ったのだ。
現実に目を奪われていた頃は、家の中で疎んじられるぱっとしない女だったのが、ぱっとする女どころか、女としての力がどんどん増し加わっていったのだ。
20:2を見ると、アビメレクが自らサラを召し入れてしまっている。真理に目覚めるなら、女としての力が戻ってくる。よその王様が見初めてしまうほど。90歳近くの女性が、美しいゆえに、略奪結婚されてしまう程。

母親になるためには、さらに整えられなくてはならなかった。
18章では、諦めきっていた心に手が加えられたが、20章では、子供が生まれる事が、神の栄光になるために、彼らのそれまでの立場、「兄妹」という「偽りの表明」が正されなくてはならなかった。
100歳と90歳の夫婦の間に子供が生まれる、これは神の栄光になる。しかし、100歳と90歳の兄と妹との間に子供が生まれる、これは、ケモノにしか聞こえない。
だからまず、その嘘偽りの口癖を、取り扱う必要があった。夫婦だった、その夫婦の間に子供が生まれた、となれば、主はまことに素晴らしい、という証が成り立つ。だから、イサクが生まれるまでの間、主が色々な整えをされたのだ。
主の約束が与えられてからの一年間、色々な主の取り扱いを通して、サラの母としての整えと、神の民としての整えが成されて行き、ついに21章、子供が生まれる。

 21:1 主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。
 21:2 サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
 21:3 アブラハムは生れた子、サラが産んだ男の子の名をイサクと名づけた。
 21:4 アブラハムは神が命じられたように八日目にその子イサクに割礼を施した。
 21:5 アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった。
 21:6 そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。
 21:7 また言った、「サラが子に乳を飲ませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それなのに、わたしは彼が年とってから、子を産んだ」。

サラの心が平安な喜びと笑いで満ちているのがわかる。
彼女は子供を産んだのみならず、乳をあげた。色々な面で、彼女に女としての力が戻ってきたのだ。
だからこそ、現実が絶望へと導こうと襲いかかってくる時、現実逃避へと逃げ込むのではなく、真理の御言葉を取るべきなのだ。そうするなら、女としての力、男としての力も、戻ってくる。
主が、喜び、笑い、をもたらして下さる。

主の御旨は、喜ぶこと。いつも

1テサロニケ5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

神は元々、人を喜ばせたい。神は人を喜ばせたいから、人を創られる前にエデンを造った。
実はヘブライ語を見ると、創世記18:12に、エデンが出て来る。

創世記18:12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。

この「楽しみ」が、エデンである。
サラは、老いぼれてしまった私に何のエデンがあるだろうか、と言ったが、しかし神の御旨は、人をエデンへ置く事。だから主は人を創られると、人をエデンへと置かれたのだ。
エデンで喜びの夫婦関係を築かせ、喜びの自然環境との関係を築かせるために、エデンすなわち喜びの園を、あらかじめ設けておられたのだ。
サラは、エデンがなくなってしまっている、何のエデンがあるだろうか、と思っていたが、主は彼女に、エデンをつくってくださった。憐れみである。ただ神様の約束があったゆえに、サラは喜びが帰ってきた。

だから私達は、神に望みを置くべき。
そして、現実と真実が互いに対立する時、真実のほうを取るべき。
時に、現実があまりにひどすぎて、心の中がどんより曇ってしまう時、垢が溜まってしまったかのような時は、サラにして下さったように、主が手を加えて、真理へと引き戻してくださる事がある。
それを、私にも下さい!と祈るのだ。あまりに蔑まれる事が続いて、現実逃避が続き、どんより曇ってしまったこの心に、主よ、手を加えて、私にイサクを取り戻してください、エデンへと導いてください、と。

ヘブライ語で、ツァハァクと言うが、そこにヘブライ語の文字ユッドが加えられると、イツァハァク、イサクへとなる。ヘブライ語のユッドは、手の意味がある。つまり、嘲り笑い、冷笑のツァハァクに、主の手が加えられると、イサクへと変わり、それは決して奪われる事のない、真理の笑いとなった。
今、インターネット上では、嘲笑で満ちているが、そこに主が手を加えられるなら、決して廃れることのない真実の笑いへとなる。だから、真理の御言葉を取るべきなのだ。

21:6 そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。
ここは、KJVから訳すと、神はわたしを、笑うようにさせてくださいました、聞く者は、わたしとともに笑うでしょう。

神は、人を、笑うようにさせてくださり、聞く人は一緒に笑うようにさせて下さる。
89歳の女性に、生理が再び戻って来て、美しくなって、実際美しさゆえに略奪結婚される程になり、そして90歳になって子供を産んだ。乳が出るようになって、赤ちゃんに飲ませた。90歳になって、女としての力が戻ってきた。これは、喜びの笑いがこみ上げてくるものだ。まさしく主はそうだ、私達をも、笑うようにさせてくださる。

1テサロニケ5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

喜ぶ事を、神様は望んでおられる。それ故神様は、人をエデンへと置かれた。
サラはエデンから離れてしまっていた。自分勝手にしてしまったあの事この事のゆえに。エバもそうだった。
だから真理の言葉、神の言葉へ従っていくべきなのだ。そうするなら、神は、笑いへと導いて下さる。


喜びから外されてしまうコツは、神の言葉から離れる事。
詩篇126篇もそうである。
都もうでの歌
詩篇126:1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。
126:2 その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民の中にあった。
126:3 主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。
126:4 主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。
126:5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

なぜシオンは囚われ人になったか。それはイスラエルの側が、神の言葉から離れ、好き勝手な事をしていたゆえに、バビロン捕囚の憂き目に遭っていた。それで笑いが取り除かれ、エデンから追い出されてバビロンへと連行されていた。そこを、主が憐れみを施してくださり、帰してくださった。真理の言葉に返るからだ。

126:5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

真理の中へと入っていくという、努力の種をまいていくべきなのだ。
そうするなら、喜びの刈り取りが待っている。
現実を見るに、まことに絶望しか見えない、希望が見えない、お金や食べ物がない、そのような所から、主は人を喜びへと帰してくださる。
種を巻いていくなら、束をかかえて喜びながら帰ってくる。

真理に、御言葉に、種を蒔いて行く。するなら、主は笑いで、喜びで満たしてくださる。
だからこの一年、御言葉に種を蒔こう。真理に種を蒔こう。真理と現実が対決する時、真理のほうを取るなら、やがて喜び笑いで満ち溢れながら大いに刈り取りができる。
種まきの収穫で喜び溢れながらこれからを過ごしていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

悪者に加担する事に懲りて、正しくさばく事を推し進めたヨシャパテ(2歴代誌19章)
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ヨシャパテはアハブ王を助けようとした結果、散々な目にあった。
参加しても何の益ももたらさない、アハブ王の欲望にまみれた戦争に参加させられ、正しい預言者の言葉に一緒くたになって逆らったり、戦いでは、なかば「おとり」にさせられてしまったりもしたが、ヨシャパテが本当に危ない目にあって主に助けを求めた時、主は彼を助けてくださった。
彼には、主の前に善行を積んだ”貯金”があったからだ。

2歴代誌19:1 ユダの王ヨシャパテは、つつがなくエルサレムの自分の家に帰った。

アハブは主の”憐れみ”という貯金を使い果たし、ついには彼に災いが追いついてしまったが、ヨシャパテは、なんとか無事に家に帰る事ができた。

19:2 そのとき、先見者ハナニの子エヒウが出てヨシャパテを迎えて言った、「あなたは悪人を助け、主を憎む者を愛してよいのですか。それゆえ怒りが主の前から出て、あなたの上に臨みます。
19:3 しかしあなたには、なお良い事もあります。あなたはアシラ像を国の中から除き、心を傾けて神を求められました」。

ハナニの子エフーはヨシャパテに警告を与える。
彼がアハブ王に対し「わたしはあなたと一つです、わたしの民はあなたの民と一つです。」と言ってしまった言葉は、なお、呪いのように彼につきまとってしまっているのだ。
エフーの父ハナニは、ヨシャパテの父アサに警告の預言をした結果、アサはハナニに足かせをかけ、それが元でアサは足の病にかかり、死んでしまった。
しかしヨシャパテはエフーの警告を謙虚に受け止め、彼は再び内政を充実させるように、特に、悪を除き去る行動に出る。

19:4 ヨシャパテはエルサレムに住んでいたが、また出て、ベエルシバからエフライムの山地まで民の中を巡り、先祖たちの神、主に彼らを導き返した。

ヨシャパテは自国の中を行きめぐり、主を敬うように指導した。

19:5 彼はまたユダの国中、すべての堅固な町ごとに裁判人を置いた。
19:6 そして裁判人たちに言った、「あなたがたは自分のする事に気をつけなさい。あなたがたは人のために裁判するのではなく、主のためにするのです。あなたがたが裁判する時には、主はあなたがたと共におられます。

ヨシャパテは特に、裁判制度の充実をはかった。
彼自身、アハブ王と結託してしまい、その結果、散々な目に遭ったためかもしれない。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。・・・だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(2コリント6:14-18)

19:7 だからあなたがたは主を恐れ、慎んで行いなさい。われわれの神、主には不義がなく、人をかたより見ることなく、まいないを取ることもないからです」。
19:8 ヨシャパテはまたレビびと、祭司、およびイスラエルの氏族の長たちを選んでエルサレムに置き、主のために裁判を行い、争議の解決に当らせた。彼らはエルサレムに居住した。

ヨシャパテは裁判官としてレビ人や祭司を採用したのは、律法に適った事であり、レビ人や祭司は律法に通じているゆえ、彼らがさばきをする時、御言葉にかなった正しいさばきができるからである。
もし主の御言葉を知らないものを裁判官に任命するとするなら、主の目に叶わない事を押し通してしまったり、主の目に適う事を否定してしまったり、助けるべき人を助けなかったり、助けてはならない者を助けてしまったりしてしまう。

19:9 ヨシャパテは彼らに命じて言った、「あなたがたは主を恐れ、真実と真心とをもって行わなければならない。
19:10 すべてその町々に住んでいるあなたがたの兄弟たちから、血を流した事または律法と戒め、定めとおきてなどの事について訴えてきたならば、彼らをさとして、主の前に罪を犯させず、怒りがあなたがたと、あなたがたの兄弟たちに臨まないようにしなさい。そのようにすれば、あなたがたは罪を犯すことがないでしょう。

ヨシャパテが「彼らをさとして、主の前に罪を犯させず、怒りがあなたがたと、あなたがたの兄弟たちに臨まないようにしなさい。」と言ったように、間違った者をイスラエルの民の中でのさばらせてしまったら、イスラエルという集い全体が主の怒りがのぞむものとなってしまう。
主はヨシュアの時代言われた。
ヨシュア 7:10 主はヨシュアに言われた、「立ちなさい。あなたはどうして、そのようにひれ伏しているのか。
7:11 イスラエルは罪を犯し、わたしが彼らに命じておいた契約を破った。彼らは奉納物を取り、盗み、かつ偽って、それを自分の所有物のうちに入れた。
7:12 それでイスラエルの人々は敵に当ることができず、敵に背をむけた。彼らも滅ぼされるべきものとなったからである。あなたがたが、その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたとは共にいないであろう。
7:13 立って、民を清めて言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすのために備えなさい。イスラエルの神、主はこう仰せられる、「イスラエルよ、あなたがたのうちに、滅ぼされるべきものがある。その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから除き去るまでは、敵に当ることはできないであろう」。

19:11 見よ、祭司長アマリヤは、あなたがたの上にいて、主の事をすべてつかさどり、イシマエルの子、ユダの家のつかさゼバデヤは王の事をすべてつかさどり、またレビびとはあなたがたの前にあって役人となります。雄々しく行動しなさい。主は正直な人と共におられます」。

このようにヨシャパテは再び内政を充実させ、有用な事をした。
ヨシャパテがアハブ王に加担した事は全く無益どころか、かえって、損ばかりをして命の危険にさえ遭った。
悪人に加担するよりは、主を恐れ敬う事を人に教え、主の民を正しく養うような、有益な事にこそ、心血を注ぐべきである。

イザヤ 55:1 「さあ、かわいている者は/みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。
 55:2 なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。
 55:3 耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。

真の預言者と偽預言者(2歴代誌18:9-34)
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2歴代誌18:9 さてイスラエルの王およびユダの王ヨシャパテは王の衣を着て、サマリヤの門の入口の広場におのおのその玉座に座し、預言者たちは皆その前で預言していた。

アハブおかかえの400人もの預言者たちは、こぞってアハブ王に「良い」預言をしていた。
さらに、パフォーマンスをする者も現れる。

2歴代誌18:10 ケナアナの子ゼデキヤは鉄の角を造って言った、「主はこう仰せられます、『あなたはこれらの角をもってスリヤびとを突いて滅ぼし尽しなさい』」。
18:11 預言者たちは皆そのように預言して言った、「ラモテ・ギレアデに上っていって勝利を得なさい。主はそれを王の手にわたされるでしょう」。

アハブはさぞかし気分が良かっただろうが、その実はどうだったか。
アハブがこの戦いに行った結果、アハブは戦いに負け、そして命を落とす事になる。

彼らは、主エホバの御名を用い、勝利の「預言」してはいるが、それは真実ではない。
このような預言は「偽預言」というが、なぜ偽預言者が現れるのか。
そして偽預言には、どんな特徴があるのか。

偽預言の特徴は、やたら「平安」を乱発し、耳ざわりの良い、人受けし易い言葉を多様する事だ。
『万軍の主はこう言われる、「あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、主の口から出たのでない、自分の心の黙示を語るのである。彼らは主の言葉を軽んじる者に向かって絶えず、『あなたがたは平安を得る』と言い、また自分の強情な心にしたがって歩むすべての人に向かって、『あなたがたに災はこない』と言う」。』(エレミヤ23:16)

偽預言者の目的は、自分の思いついた言葉に、主の御名を付けることによって権威付けし、自分に注目を集めさせ、自分が利益を得る事である。
アハブの所にいた400人は、アハブから利益を得たいがために、大勢で彼に取り巻き、耳障りの良い事を言って、彼を気分良くさせ、そうしてアハブから食い扶持を得ているのだ。
それはちょうど、ホステスに大金をつぎ込む男性と、ホステスとの関係に、良く似ている。
偽預言を囲う側は「自分を持ち上げてもらいたい」「心地良い言葉をもらいたい」という心がある故に、また、偽預言者の側は、お金や食を得たいが為に、需要供給関係が成り立ち、相ともに集まるのだが、そこには、真実も主を敬う心も何も無い。
まさに、パウロがテモテに警告している通りである。
『人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。』(2テモテ4:3-4)

さらにエレミヤは語っている。

エレミヤ23:18 彼らのうちだれか主の議会に立って、その言葉を見聞きした者があろうか。だれか耳を傾けてその言葉を聞いた者があろうか。
23:19 見よ、主の暴風がくる。憤りと、つむじ風が出て、悪人のこうべをうつ。
23:20 主の怒りは、み心に思い定められたことを/なし遂げられるまで退くことはない。末の日にあなたがたはそれを明らかに悟る。
23:21 預言者たちはわたしがつかわさなかったのに、彼らは走った。わたしが、彼らに告げなかったのに、彼らは預言した。
23:22 もし彼らがわたしの議会に立ったのであれば、わたしの民にわが言葉を告げ示して、その悪い道と悪い行いから、離れさせたであろうに。

エレミヤが言ったように、主の議会というものがある。
それは実際、この後のミカヤの預言から分かる。

エレミヤ23:23 「主は言われる、わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか。
23:24 主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。

主はまさに天にも地にも満ちておられ、個室で話したひとりごとさえも、また、心の内に企んでいる事も、主は全てお見通しなのだ。

2歴代誌18:12 さてミカヤを呼びに行った使者は彼に言った、「預言者たちは一致して王に良い事を言いました。どうぞ、あなたの言葉も、彼らのひとりの言葉のようにし、良い事を言ってください」。

この使者の言葉の中に、現代キリスト教会にある問題の根源を見る事が出来る。
問題とは、主の言葉をそのまま伝えるべき者が、人に気に入られる事を求め、主の言葉をそのまま伝えるのをせずに、人に「良い」事を言うようになってしまう事だ。
主の言葉を伝える人は、主を恐れる事を促すために、主の言葉をそのまま伝えるべき者だ。

2歴代誌18:13 ミカヤは言った、「主は生きておられる。わが神の言われることをわたしは申します」。

主が言われる事を、そのまま伝える。このミカヤの姿勢こそ、まことの預言者であり宣教者が取るべき姿勢である。

2歴代誌18:14 彼が王の所へ行くと、王は彼に言った、「ミカヤよ、われわれはラモテ・ギレアデに戦いに行くべきか、あるいは控えるべきか」。彼は言った、「上って行って勝利を得なさい。彼らはあなたの手にわたされるでしょう」。

ミカヤの言葉は、どうもそれは真剣味に欠けたような、むしろ蔑みを含んだ口調や表情で言ったものと思われる。
なぜならアハブは、ミカヤに次のように答えるからだ。

18:15 しかし王は彼に言った、「幾たびあなたを誓わせたら、あなたは主の名をもって、ただ真実のみをわたしに告げるだろうか」。

それでミカヤは、彼の望む通り、主の御心そのものを告げる。
それは、アハブが戦いに行くべきか行かないべきかの問題とは、全く別次元の内容であった。

18:16 彼は言った、「わたしはイスラエルが皆牧者のない羊のように山に散っているのを見ました。すると主は『これらの者は主人をもっていない。彼らをそれぞれ安らかに、その家に帰らせよ』と言われました」。

これが主の御心である。
イスラエルが、羊飼いのいない羊のようだ。彼らを安らかにさせなくては。

主は、神の民が散らされている様を見て、深くうめき、憐れまれる主である。
『イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。』(マタイ9:35-36)
ここの「深くあわれまれた」のギリシア語は「スプランキニゾマイ」、原意は「はらわたがちぎれる思い」で、心の痛みを伴って「ああ、かわいそうに!」と叫ぶ時の思いである。
主は、人々が羊飼いがいないような有様で弱り果てて倒れている様を、そのような思いでご覧になられる。
しかしアハブに、そんな主のうめきは届かず、自分の気に入る・気に入らないで答える。

18:17 イスラエルの王はヨシャパテに言った、「わたしはあなたに、彼はわたしについて良い事を預言せず、ただ悪い事だけを預言すると告げたではありませんか」。

彼は、自分がイスラエルの良き羊飼いである、とでも思い込んでいたのかもしれない。しかし、主のイスラエルに対する評価は、「羊飼いがいない」であった。
さらにミカヤは、主から示された事をさらに告げる。

18:18 ミカヤは言った、「それだから主の言葉を聞きなさい。わたしは主がその玉座に座し、天の万軍がその右左に立っているのを見たが、
18:19 主は、『だれがイスラエルの王アハブをいざなって、ラモテ・ギレアデに上らせ、彼を倒れさせるであろうか』と言われた。するとひとりは、こうしようと言い、ひとりは、ああしようと言った。
18:20 その時一つの霊が進み出て、主の前に立ち、『わたしが彼をいざないましょう』と言ったので、主は彼に『何をもってするか』と言われた。
18:21 彼は『わたしが出て行って、偽りを言う霊となって、すべての預言者の口に宿りましょう』と言った。そこで主は『おまえは彼をいざなって、それをなし遂げるであろう。出て行って、そうしなさい』と言われた。

ミカヤは、主の議会でやり取り為された内容を主に示され、災いが来る事を預言した。
驚く事に、ミカヤが見た天の議会の議題は、アハブを倒れさせるために如何にすれば良いか、という事である。一体、作戦会議で、会議の内容を敵に全部明かす者はいるだろうか。しかし主は、その内容を堂々とミカヤを通して公開したのだ。

18:22 それゆえ、主は偽りを言う霊をこの預言者たちの口に入れ、また主はあなたについて災を告げられたのです」。

こうしてアハブの望み通り、主の御旨が、あますところなく伝えられた。
彼らはどう答えたか。

18:23 するとケナアナの子ゼデキヤが近寄ってミカヤのほおを打って言った、「主の霊がどの道からわたしを離れて行って、あなたに語りましたか」。
18:24 ミカヤは言った、「あなたが奥の間にはいって身を隠す日に見るでしょう」。

ゼデキヤは、鉄の角まで作って預言しアピールした事とは全く逆の事をミカヤが言ったので、彼を殴った。
もしゼデキヤが、主の言葉をそのまま伝えるなら、反する事を言われたとしも、ゼデキヤが侮辱されたのではないから、何も殴る必要は無いはずである。実際、ミカヤは憤慨しなかった。
結局、ゼデキヤがミカヤを殴った行為は、彼は、主から受けた事を語ったのではなく、ゼデキヤ自身から出たアイデアをアピールしていたのだという事を表している。

18:25 イスラエルの王は言った、「ミカヤを捕え、町のつかさアモンと王の子ヨアシの所へ引いて行って、
18:26 言いなさい、『王はこう言う、この者を獄屋に入れ、少しばかりのパンと水をもって彼を養い、わたしが勝利を得て帰ってくるのを待て』と」。
18:27 ミカヤは言った、「あなたがもし勝利を得て帰るならば、主はわたしによって語られなかったのです」。また彼は言った、「あなたがたすべての民よ、聞きなさい」。

結局アハブも、その取り巻きの預言者達も、このミカヤに与えられた内容を、「失礼な戯言」として受け取った。
しかも、ヨシャパテまで、この言葉を聞いたにもかかわらず、アハブと共に行ってしまう。
それによって、ヨシャパテも、大きな災難を通る事になる。

18:28 こうしてイスラエルの王とユダの王ヨシャパテは、ラモテ・ギレアデに上った。
18:29 イスラエルの王はヨシャパテに言った、「わたしは姿を変えて戦いに行きましょう。しかしあなたは王の衣を着けなさい」。イスラエルの王は姿を変えて戦いに行った。

アハブは、厚顔無恥にも、善意で助けに来てくれたヨシャパテひとりにリスクを負わせ、自分だけが安全になろうとした。
『悪しき者は物を借りて返すことをしない。しかし正しい人は寛大で、施し与える。主に祝福された者は国を継ぎ、主にのろわれた者は断ち滅ぼされる。』(詩篇37:21-22)

18:30 さて、スリヤの王は、その戦車隊長たちに命じて言った、「あなたがたは小さい者とも、大きい者とも戦ってはならない。ただイスラエルの王とのみ戦いなさい」。

シリヤの王のこの命令は、ヨシャパテにはますますピンチ、アハブにはますます有利、と思われるかもしれないが、結果的に、その真逆となる。

18:31 戦車隊長らはヨシャパテを見たとき、これはきっとイスラエルの王だと思ったので、身を巡らしてこれと戦おうとした。しかしヨシャパテが呼ばわったので、主はこれを助けられた。すなわち神は敵を彼から離れさせられた。

シリヤの戦車隊が、王服をまとったヨシャパテ王に迫った時、この者がイスラエルの王アハブではないと判断した材料は、彼がとっさに「主エホバを呼び求めた」事だった。シリヤの間では、アハブは主エホバを求めるような者ではない、と、有名だったのかもしれない。
ともかくヨシャパテはこうして、主に助けを呼び求めた事により、また、あらかじめシリヤ王が発していた命令のおかげで、危ない所で命が救われた。

18:32 戦車隊長らは彼がイスラエルの王でないのを見たので、彼を追うことをやめて引き返した。
18:33 しかし、ひとりの人が、なにごころなく弓を引いて、イスラエルの王の胸当と、くさずりの間を射たので、彼はその車の御者に言った、「わたしは傷を受けたから、車をめぐらして、わたしを軍中から運び出せ」。
18:34 その日戦いは激しくなった。イスラエルの王は車の中に自分をささえて立ち、夕暮までスリヤびとに向かっていたが、日の入るころになって死んだ。

誰かが何気なく放った矢が、見事、戦車で激しく動いているアハブの、それも胸当てと草摺の間にヒットし、彼を死に至らしめたのだ。絶妙のコントロール、と言いたい所だが、結局、主には全ての事がお出来になるのだ。
主は、少年ダビデの手を用いても、神の民をなぶったゴリヤテを「絶妙なコントロール」で倒した。
結局、汚い手段を使う者、姑息な手を使ってでも万全を期して臨んだのであろうが、そのような小賢しい知恵や努力も、主の「為す」と定められた災いを防ぐ事は出来ない。

ヨシャパテはこの度、悪しき者同士の、欲深い領土争いに足を突っ込んでしまって、とんだとばっちりを受けたが、主は、そのような罠に陥ってしまった主の民を悪人同士の争いの中から引き上げ、救い出す事がお出来になるお方である。
この戦いには、ヨシャパテの南ユダの兵士達も混ざっており、悪しき者と善き者とが混在状態ではあったものの、シリヤ王があの命令を下してくれたおかげで、ヨシャパテ側の兵士達から犠牲者が多く出る事からも守られたのだ。
どんなに、善き人に対不利な戦局が展開されようとも、主はその人を助け出される事が可能であり、そして、悪しき者がいかに二重三重の防護策を講じようとも、その者が主の裁きから免れられる事は無い。
ヨシャパテは主を呼び求めた故に、かろうじて助けられたが、この後彼は、アハブと縁結びをした故に、さらに災いに巻き込まれて行く事になる。

汚れた者と共にくびきを負ってしまったヨシャパテ(2歴代誌18:1-8)
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2歴代誌18:1 ヨシャパテは大いなる富と誉とをもち、アハブと縁を結んだ。

アハブは、イスラエル史上、最悪の王とされている。
ヨシャパテはせっかく自国を霊的に清め、主から祝福を受けたのに、よりによってアハブと縁を結んでしまった。
これがきっかけで、ヨシャパテは諸々の災いの中に突入して行く事になる。

18:2 彼は数年の後、サマリヤに下って、アハブをおとずれた。アハブは彼と彼に従ってきた民のために羊と牛を多くほふり、ラモテ・ギレアデに一緒に攻め上ることを彼にすすめた。

アハブは豪勢なごちそうの接待でヨシャパテを迎え、一緒にラモテ・ギルアデ、すなわちシリアに、一緒に戦いを仕掛けよう、とすすめた。
実はその少し前、シリヤは圧倒的な大軍を率いてアハブの国に攻めて来た事が、二度あったにもかかわらず、二度とも、主の一方的な憐れみ故に勝利できた。
それなのにアハブは主に感謝せず、主に聞こうともせず、勝手にシリヤと契約を結び、みすみす王を逃してしまった経緯がある。(1列王記20章)

それ以来、シリヤはイスラエルに攻めてくる事はしなかったが、シリヤは、イスラエルに返還すると約束していた町々を返さないまま年月が過ぎた。
アハブはシリヤと「契約」を結んだのだから、本来、外交的に使者を遣わして申し出るのが筋であるはずだが、いきなり「奪い返す」という暴力手段に訴えようとしている。
それも、ヨシャパテ王が、友好的な関係を結ぼうとして来たタイミングで。
アハブはヨシャパテをごちそう攻めにして、彼を利用して戦争しようとしたのだ。

2歴代誌18:3 イスラエルの王アハブはユダの王ヨシャパテに言った、「あなたはわたしと一緒にラモテ・ギレアデに攻めて行きますか」。ヨシャパテは答えた、「わたしはあなたと一つです、わたしの民はあなたの民と一つです。わたしはあなたと一緒に戦いに臨みましょう」。

ヨシャパテは「わたしはあなたと一つです、わたしの民はあなたの民と一つ」などと答えてしまった。
どれ程本気で言ったのかは分からないが、しかし発せられた言葉は、力を持ってしまう。
私達はこの口から出る言葉を、よく注意し管理するべきだ。良い言葉すなわち神の御言葉を信仰じて発するなら、良き主人が良い実を落として下さる。しかし悪い事を言ったら、空中の悪い主人が悪い実を振り落とさせてくる。
『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。』(箴言18:20)

ヨシャパテはアハブと一緒になり、アハブの汚れた欲望を満たす道具となってしまい、欺瞞に満ちた争いごとに加担してしまった故、その報いを受ける事になって行く。
主は、悪い交わりとは関わりを持ってはならない、と戒められる。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(2コリント6:14-18)

主は、私達の内に住まわれる故、私達の内に汚れたものがあるとするなら、聖であられる主は、共にいてくださらない。
だから、汚れた行いや汚れた交友関係からは出ていくべきであり、もし既に出ているのであれば、悪者同士が裏切りあったり騙しあったり、争いあったりする中へと入っていってはならないのだ。

私達は、イエス様くびきを共にすべきである。
イエス様は、わたしのくびきを負いなさい、と言っている。

マタイ11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
 11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

では、キリスト者と言われている者の中で、汚れた事をする者についてはどうすればいいか。パウロは書いている。
1コリント5:9 わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、
5:10 それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。
5:11 しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。
5:12 外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。
5:13 その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。

パウロは言った。キリストにあってひと度救われた人の中で、なおも汚れた事を止めない、その汚れた事をしてしまう自分を悲しまないで、堂々として、兄弟姉妹を悲しませ、聖なる集いを汚すような者とは、交際してはならない、食事さえ、一緒にしてはならない、と。
確かに汚れた事をする者一人が、聖なる食卓を汚すものである。
「その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。」(1コリント5:13)と書いてある。

2歴代誌18:4 ヨシャパテはまたイスラエルの王に言った、「まず主の言葉を求めなさい」。

アハブは自分が戦いを起こす事について、主に聞いていなかった。
しかしヨシャパテが南ユダ王国の良い王として数えられたのは、主に聞くたしなみがあったからだった。

2歴代誌18:5 そこでイスラエルの王は預言者四百人を集めて彼らに言った、「われわれはラモテ・ギレアデに、戦いに行くべきか、あるいは控えるべきか」。彼らは言った、「上って行きなさい。神はそれを王の手にわたされるでしょう」。

アハブには、400人ほどの預言者がいた。
エリヤは、バアルの預言者400人と、アシェラの預言者450人と戦ったが、アハブは、預言者をたくさん集めるのが好きなようである。
しかし、預言者は、頭数が多ければ良いというものではない事はエリヤの時に証明されたはずだ。
神の国の運営は、多数決の原理ではない。60%の預言者がイエスで、40%がノーなら、60%で行こう、というようなものでは決して無い。
主はただ、100%間違いの無い、真実な御言葉によって示されるものであるからだ。

パウロは言う。
『神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。』(2テモテ4:1-4)
アハブはまさに、「健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれて」いる状態だ。

これらの大勢の預言者達は、「神はそれを王の手にわたされるでしょう」と口をそろえて言っているが、この”神”は、エホバではない。どの神かも分からない。
ヨシャパテ王は、400人皆が皆こぞってアハブに都合の良い事を告げるのを見て、何か非常に胡散臭いものを感じたのだろう。

18:6 ヨシャパテは言った、「ほかにわれわれが問うべき主の預言者はここにいませんか」。
18:7 イスラエルの王はヨシャパテに言った、「ほかになおひとりいます。われわれはこの人によって主に問うことができますが、彼はわたしについて良い事を預言したことがなく、常に悪いことだけを預言するので、わたしは彼を憎みます。その者はイムラの子ミカヤです」。ヨシャパテは言った、「王よ、そうは言わないでください」。
18:8 そこでイスラエルの王はひとりの役人を呼んで、「イムラの子ミカヤを急いで連れてきなさい」と言った。

アハブは、主エホバの御心を伺うことのできる預言者が、いる、と答えた。
いたのに、その預言者はそこには呼ばず、彼以外の、しかも主エホバの御心を伺う事をしない400人を連れてきて、こぞってアハブに都合の良い事を言わせ続けていた。
アハブはその預言者を憎んでいるとヨシャパテに言ったが、その憎んでいる理由は、彼はアハブに良い事を預言せず、悪いことばかり預言するからだ、と言った。
自分が気に入る・気に入らないの基準で、主の言葉を伝える人を受け入れたり拒否したりする。
そのような人は、アハブの道、滅んでしまう人の道を歩んでいるのだ。

ヨシャパテは、アハブと縁を結んでしまった事がきっかけで、諸々の災いの中に突入して行く事になる。
私達はそのような汚れた
私達は汚れた者とは最初から付き合う事をせず、ましてやくびきを共にする事なく、ただイエス様と共にくびきを負って歩み、災い知らずの歩みを主と共にして行きたい。
 

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