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関わってはならない争いに関わってしまった故に死んでしまったヨシヤ王(2列王記23:29-37)
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23:29 ヨシヤの世にエジプトの王パロ・ネコが、アッスリヤの王のところへ行こうと、ユフラテ川をさして上ってきたので、ヨシヤ王は彼を迎え撃とうと出て行ったが、パロ・ネコは彼を見るや、メギドにおいて彼を殺した。
23:30 その家来たちは彼の死体を車に載せ、メギドからエルサレムに運んで彼の墓に葬った。国の民はヨシヤの子エホアハズを立て、彼に油を注ぎ、王として父に代らせた。

あの、主の目に叶う事を熱心にして、最大の賛辞を受けたヨシヤ王であるが、彼の最後は実にあっけなく、突然訪れた。
第二歴代誌のほうに、その次第がより詳しく記されている。

35:20 このようにヨシヤが宮を整えた後、エジプトの王ネコはユフラテ川のほとりにあるカルケミシで戦うために上ってきたので、ヨシヤはこれを防ごうと出て行った。
35:21 しかしネコは彼に使者をつかわして言った、「ユダの王よ、われわれはお互に何のあずかるところがありますか。わたしはきょう、あなたを攻めようとして来たのではありません。わたしの敵の家を攻めようとして来たのです。神がわたしに命じて急がせています。わたしと共におられる神に逆らうことをやめなさい。そうしないと、神はあなたを滅ぼされるでしょう」。
35:22 しかしヨシヤは引き返すことを好まず、かえって彼と戦うために、姿を変え、神の口から出たネコの言葉を聞きいれず、行ってメギドの谷で戦ったが、
35:23 射手の者どもがヨシヤを射あてたので、王はその家来たちに、「わたしを助け出せ。わたしはひどく傷ついた」と言った。
35:24 そこで家来たちは彼を車から助け出し、王のもっていた第二の車に乗せてエルサレムにつれて行ったが、ついに死んだので、その先祖の墓にこれを葬った。そしてユダとエルサレムは皆ヨシヤのために悲しんだ。

つまりヨシヤ王の死んでしまった原因は、関わってはならない戦いに関わった事である。
当時アッシリヤは力衰え,新興のバビロニヤがこれを西北方へ押しやっていた.アッシリヤ王とその軍隊はバビロニヤ軍に追われ,ユーフラテス川上流のカルケミシュまで追い詰められた.このアッシリヤへの援軍を率い〈エジプトの王ネコ〉(20)が北上するという情勢の中で,それを阻止するためにヨシヤは軍を率いて〈メギドの平地〉(22)でエジプト軍に戦いを挑んだ.ネコは「ユダを攻めるのではないから,軍を引け」と忠告したが,ヨシヤは聞き入れず,この戦いで彼は戦死する(20‐24)(聖書注解)

ヨシヤ王が自分が関与すべきでない大国間の戦争に関与し、しかも神からの警告に聞かず変装までして戦いに出て、しかも結果的にはバビロンを助ける形で関わってしまったゆえ、アッシリヤとエジプトの連合軍は破れ、バビロンが盛んとなり、さらにはそれが、後のイスラエルの首を締める形になってしまった。

箴言に記されている。
箴言26:17 自分に関係のない争いにたずさわる者は、通りすぎる犬の耳をとらえる者のようだ。

また、主は言われた。
マタイ5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
 5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

あの善王ヨシヤが死んでしまった原因、それは、首を突っ込んではならない戦いに首を突っ込んでしまった事だった。
私達の戦いの武器は、肉によるものではなく、御言葉の剣、平和の福音、信仰の大盾であり、平和をもたらすべきものである。

23:31 エホアハズは王となった時二十三歳で、エルサレムで三か月の間、世を治めた。母はリブナのエレミヤの娘で、名をハムタルといった。
23:32 エホアハズは先祖たちがすべて行ったように主の目の前に悪を行ったが、
23:33 パロ・ネコは彼をハマテの地のリブラにつないで置いて、エルサレムで世を治めることができないようにした。また銀百タラントと金一タラントのみつぎを国に課した。
23:34 そしてパロ・ネコはヨシヤの子エリアキムを父ヨシヤに代って王とならせ、名をエホヤキムと改め、エホアハズをエジプトへ引いて行った。エホアハズはエジプトへ行ってそこで死んだ。
23:35 エホヤキムは金銀をパロに送った。しかし彼はパロの命に従って金を送るために国に税を課し、国の民おのおのからその課税にしたがって金銀をきびしく取り立てて、それをパロ・ネコに送った。
23:36 エホヤキムは二十五歳で王となり、エルサレムで十一年の間、世を治めた。母はルマのペダヤの娘で、名をゼビダといった。
23:37 エホヤキムは先祖たちがすべて行ったように主の目の前に悪を行った。

こうしてイスラエルは衰退の奈落へと転げ落ちていく。ヨシヤ王以降、主に聞き従う善い王は、出なかった。
ヨシヤ王は、確かに主に喜ばれる政策を行った。
23:26 けれども主はなおユダにむかって発せられた激しい大いなる怒りをやめられなかった。これはマナセがもろもろの腹だたしい行いをもって主を怒らせたためである。
マナセの犯した罪の中で、何が、主を特に怒らせたか。
それは、罪のない者の血を流す罪である。(2列王記24:3-4)
人の血を流す事は、後々まで、人の心に傷を残し、その人達が主に訴え続けるなら、主は彼らの叫びを聞かれる。

私達は血を流す者ではなく、平和の子として地を相続するものでありたい。

歴代の王達の中で最高の賞賛が与えられたヨシヤ(2列王記23:15-28)
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23:15 また、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤラベアムが造った高き所、すなわちその祭壇と高き所とを彼はこわし、その石を打ち砕いて粉とし、かつアシラ像を焼いた。

ヨシヤ王は先祖たちが造った主に忌み嫌われるものを、惜しむ事なく破壊した。たとえそれが何百年も前のものであろうとも、また、彼の父祖たちがいかに大切にしてきたものであろうとも。
それは、主の目に適った事である。なぜなら主は、彼がこの事をするのを既にヤロブアムの時代から宣言しておられたからである。

23:16 そしてヨシヤは身をめぐらして山に墓のあるのを見、人をつかわしてその墓から骨を取らせ、それをその祭壇の上で焼いて、それを汚した。昔、神の人が主の言葉としてこの事を呼ばわり告げたが、そのとおりになった。

この事を、神の人がこの事が成る事を呼ばわり告げたのは、どのくら「昔」であったか。
それは実に300年以上も昔である。

23:17 その時ヨシヤは「あそこに見える石碑は何か」と尋ねた。町の人々が彼に「あれはあなたがベテルの祭壇に対して行われたこれらの事を、ユダからきて預言した神の人の墓です」と言ったので、
23:18 彼は言った、「そのままにして置きなさい。だれもその骨を移してはならない」。それでその骨と、サマリヤからきた預言者の骨には手をつけなかった。

ヨシヤは、300年ほど前に建てられたこの石碑に目を留め、現地の人々に聞いたところ、これは「あなたが」この事を行う事を預言した人の墓です、と答えた。
300年前に何が起きたか。
それが記されているのは第一列王記13章、歴代の王達と何百何千万の人々に罪を侵させる大元となったヤロブアム王の時代に遡る。

1列王記13:1 見よ、神の人が主の命によってユダからベテルにきた。その時ヤラベアムは祭壇の上に立って香をたいていた。
 13:2 神の人は祭壇にむかい主の命によって呼ばわって言った、「祭壇よ、祭壇よ、主はこう仰せられる、『見よ、ダビデの家にひとりの子が生れる。その名をヨシヤという。彼はおまえの上で香をたく高き所の祭司らを、おまえの上にささげる。また人の骨がおまえの上で焼かれる』」。

ヨシヤが宗教改革を行ったのは紀元前622年頃と言われている。また、ヤロブアムの即位は、紀元前931年と言われている。
実に、300年前から既に主はヨシヤを名指しして、この事が行われる事を予告しておられたのだ。
その時預言者は、遠い将来に起きる事を予告しただけではない。その場でしるしを主は与えられた。

1列王記13:3 その日、彼はまた一つのしるしを示して言った、「主の言われたしるしはこれである、『見よ、祭壇は裂け、その上にある灰はこぼれ出るであろう』」。
 13:4 ヤラベアム王は、神の人がベテルにある祭壇にむかって呼ばわる言葉を聞いた時、祭壇から手を伸ばして、「彼を捕えよ」と言ったが、彼にむかって伸ばした手が枯れて、ひっ込めることができなかった。
 13:5 そして神の人が主の言葉をもって示したしるしのように祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。
 13:6 王は神の人に言った、「あなたの神、主に願い、わたしのために祈って、わたしの手をもとに返らせてください」。神の人が主に願ったので、王の手はもとに返って、前のようになった。

ヤロブアムは、この自分の祭壇に悪い事を予告した預言者を捕らえよと言って伸ばした手がしなびてしまい、ゆるしを乞い願った結果、その手を元通りにしていただいた事も、その身をもって経験した。
しかし彼は、悔い改める事をせず、自分で造ったこの祭壇を自分の手で破壊する事をしないまま、その祭壇で300年もの間、多くの人々に罪を犯させ続ける結果となってしまった。

破壊し尽くすべき罪、そのように罪をそそのかさせてしまう物は、すみやかに私達の中から除き去るべきである。
そうでないと、自分自身に災いを招くのみならず、自分の家族や多くの子々孫々さえも、災いへと導いてしまうからだ。
彼は、このように、自国内を隅々まで行き巡り、主の目に汚らわしいものを取り除ききよめた。
私達が、皿がいかに純金で出来ていようとも、汚物のついているなら用いないのと同じように、神は、きよくない者は用いず、きよい者をこそ用いてくださる。
だから私達も、自らをきよくする努力を務めるべきである。

23:21 そして王はすべての民に命じて、「あなたがたはこの契約の書にしるされているように、あなたがたの神、主に過越の祭を執り行いなさい」と言った。
23:22 さばきづかさがイスラエルをさばいた日からこのかた、またイスラエルの王たちとユダの王たちの世にも、このような過越の祭を執り行ったことはなかったが、
23:23 ヨシヤ王の第十八年に、エルサレムでこの過越の祭を主に執り行ったのである。

彼の治世の18年に、どんなに素晴らしい過越の捧げものをささげたかは、2歴代誌35章に詳しく記されている。
2歴代誌35:18 預言者サムエルの日からこのかた、イスラエルでこのような過越の祭を行ったことはなかった。またイスラエルの諸王のうちには、ヨシヤが、祭司、レビびと、ならびにそこに来たユダとイスラエルのすべての人々、およびエルサレムの住民と共に行ったような過越の祭を行った者はひとりもなかった。

預言者サムエルの時代からこのかた、である。
サムエルはサウルに油を注いでイスラエル最初の王とし、またダビデにも油を注いだキングメーカーである。
つまり、歴代の王の中で、ヨシヤは、最も優れた過越祭を捧げたのだ。

23:25 ヨシヤのように心をつくし、精神をつくし、力をつくしてモーセのすべての律法にしたがい、主に寄り頼んだ王はヨシヤの先にはなく、またその後にも彼のような者は起らなかった。

23:26 けれども主はなおユダにむかって発せられた激しい大いなる怒りをやめられなかった。これはマナセがもろもろの腹だたしい行いをもって主を怒らせたためである
23:27 それゆえ主は言われた、「わたしはイスラエルを移したように、ユダをもわたしの目の前から移し、わたしが選んだこのエルサレムの町と、わたしの名をそこに置こうと言ったこの宮とを捨てるであろう」。

結局、救いは本人自身のものである事を示している。
彼の前の王達がいかに許されない事を、主の前に行ってきたか。それは、もはや許されない所までに、審判の目盛りを満たしてしまったのだ。
しかしその直前に、ヨシヤ王は主の前に忠実に仕え、そして先祖たちの犯してきた諸々の罪の生成物を破壊し、主の預言をことごとく成就させた。

彼は、歴代の王達の中で、最もすぐれた賞賛を与えられた。
それは、彼は、御言葉が与えられた時に悔い改め、御言葉に忠実に従い、その通りに実行したからだ。
私達も、救いを実現するために、自らの中の主に忌み嫌われるものは取り除き、主に喜ばれる礼拝を捧げ、そして主から最高の賞賛が与えられる者を目指して、信仰の競争を走りぬきたい。

制御しがたい衝動を鎮めるには(2サムエル記13章)
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人の思いを超えた神の最善なる介入(ローマ1:11-15)
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週報/メッセージ(説教)概要

 ローマ人への手紙には、全ての人が罪に勝利できる方法と、聖化される方法が記されており、さらにその先の「栄化」に至る真理が詰まっている。今回、パウロがローマ書を記すきっかけとなった出来事と、背後で働く神のわざ、そして、私達は神が示される道にいかにに応じて行くべきかを見ていきたい。

『わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、「今まで妨げられてきた(εκωλυθενエコルセン)」。』(ローマ1:13)
パウロはずっとローマに行きたかったのに、妨げられていた。彼はなぜローマに行きたかったのか?
それは彼の宣教戦略が「都市宣教」だったからである。彼が宣教した都市(アテネ、コリント、エペソ、ピリピ等)は、その時代その地域の中心都市だった。そこが福音化されるなら、周辺に多大な影響を及ぼす。
ローマは当時の世界の中心であり、彼はそこを福音化し、彼自身の手で宣教センターを立てたかったのだが、どういうわけかパウロは、何度チャレンジしても、どうしても行く事が出来なかった。
「今なお妨げられている」のギリシア語「εκωλυθην(エコルセン)は、直接法アオリスト受動態が用いられており、幾度もチャレンジしたのに、鉄板のように妨げられ続け、今に至っている、という事を意味する。このように、自分がどうしてもある方向に行こうとしたのに、鉄板のように妨げられ続ける、という経験を私達もするが、神が敢えてそのようにしているからだ。ここで驚くかもしれない。パウロが世界の中心・ローマに福音を伝えに行くのは、御心でないのか?彼の戦略は理に適っているし、彼ほどの人がローマに行ったなら、どれほど多くの働きが出来るだろう?どう考えても「良い事」づくしなのに、どうして神はそれを阻むのか?
このような場合、今自分は神の意図に反した方向に動こうとしているのだと気づき、軌道修正すべきである。
このように、あからさまに神によって道を閉ざされる「神的受動態」により、神の御手の下で私達の人生は練られ、形造られて来たのであり、歴史が形造られて来たのだ。一つはっきりしている事は、もし神があの時、パウロをローマに簡単に行かせていたなら、ローマ人への手紙は存在せず、私達の聖書からは、ロマ書は抜けていた事だ。
そしてもう一つ、パウロが「行かなかった」事によって成った事がある。ローマ16章には、約50名ほどの人物の名前が記されており、そのメンバー一人一人に対してパウロは「よろしく」と挨拶を送っているが、このような素晴らしい働き人達が次々とローマ入りして教会を開拓し、彼らが教会を開拓する段階において、あるいは、教会を成長させる段階において、大きな労苦と共に犠牲を捧げ、素晴らしい信仰を、神と人との前に示し、そうして50人が、パウロ抜きでそれぞれが成長し、御業を為し、神に栄光を捧げていったのだ。

まずは16章1節、フィベという女性執事はパウロのみならず多くの人を援助し、そして彼女が多くの危険を冒してもパウロが書いたこの手紙をローマに、そして私達にも送り届けてくれた。その次に登場するのは、プリスキラとアクラ夫婦である。「彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである・・・。また、彼らの家の教会にも、よろしく。」(16:4-5) この夫婦の「家」の教会は、彼らの天幕づくりの工場であり、当時ローマ軍団に年間1000の天幕を献上する工場であったため、かなり大きかったという。
その彼らは、神の働きのためにその工場を神の国のために捧げ、さらにはパウロに「自分の首をさえ差し出した」とまで評されている。彼らは教職者ではなく「平信徒」であるが、へたな教職者よりも遥かに大きな働きをしたため、2000年ほどの歴史があるコリントの教会には、今なおパピアス、アクラ、プリスキラ、フィベのイコンがあり、現代も、彼らの働きを覚えて掲げられているという。
この富んだ夫婦が、神によってパウロと「出会わせられた(神的受動態)」事により、彼らが神の働きに参加するようになり、パウロも多くの宣教の助けを得て、そうして世界に福音が広められている。

人の目には、今自分がしている働きも出会いも「たまたまそうなった」と映るかもしれない。ルツとボアズは「たまたま」会ったが、その出会いがダビデを生み、後のイスラエルと世界の歴史を動かした。クレネ人シモンも、たまたまイエス様の十字架の場面に会ったが、その出会いが後にローマ教会牧会者を生み、そしてコンスタンティヌス大帝を生み、ローマ帝国がキリスト教国家に変わる基礎をつくった。人の人生と人の歴史の一つ一つに神は「神的受動態」によって介在し、人はそれで御旨を実行し歴史を紡いで行くのである。

父の日礼拝:逆説から見る父子の健全な関係(2サムエル13-18章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 ダビデ王は自分に反逆した彼の子アブシャロムが死んだ時、激しく悲しみ、自分が死ねばよかったのに、とまで言った。父は、不器用ながらも子を愛するものである。本日・父の日は、ダビデ王とアブシャロムの、ちぐはくな父子関係と、その悲しい結果から、親子関係の避けるべき事と健全な道を「逆説的に」学びたい。

発端となった事件は、アブシャロムの妹タマルが長兄アムノンによって暴行された事だった。彼女はその後、兄アブシャロムの家で寂しく住んだが、アムノンは責任を取らされたり懲らされたりされないままだった。
彼は王の長男という事で、何かしてしまっても大目に見られて来たようである。それが積み重なると、何をしても許されると思うようになり、妹に対する汚れた情欲さえ、制する事をしなくなってしまう。
ダビデも過去に「性的な罪」を犯した経験があるため、うまく戒められなかったかもしれないが、それならなおさら、経験者として強く戒めるべきだった。こうして問題が扱われないまま、2年の月日が過ぎていく。
アブシャロムは静かに復讐心を蓄え、ある日、事件を起こす。彼は周到な企てをもってアムノンを殺し、祖父の所へ逃げて行った。ダビデはそんなアブシャロムを、気にかけてはいたものの、放置してしまった。
父は確かに不器用な所もあるものだが、その放置した年月がさらに父の首根っこを掴んで行き、子供に対してさらに何も出来なくなり、そうしてさらに、その子と家庭全体を破滅的な方向へと導いて行く。
「放置」は積み重なると、良からぬものが沸々と育ち、やがて取り返しが付かない事になってしまう。『むちと戒めとは知恵を与える、わがまま(シャラーハ:放任する)にさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴29:15)
将軍ヨアブは、この「放置状態」は良くないと感じ、一計を案じてダビデとアブシャロムを引き合わせようとしたが、どういうわけか、ダビデもヨアブもさらにアブシャロムを放置してしまう。親が子に明らかに戒めたり諭すべき時に、放置し続けるなら、子はどう出るか。子は親に、火をつける行為に出るのだ。(2サム14:30)
アブシャロムは言う。「今わたしに王の顔を見させてください。もしわたしに罪があるなら王にわたしを殺させてください。 」(14:32) ここに息子・アブシャロムの本音と叫びがある。「放置」されるよりは罰されるほうがまだ楽なのだ。そうして、ようやく、父子の何年ぶりかの再会が実現するのだが、アブシャロムは父から、親らしい会話を何も引き出せなかった。妹がアムノンに陵辱されて感じて来た悔しさ、自分がしてしまった事の後ろめたさ、放置され続けた事の寂しさ、理解されない事の苦しさ・・・。
それを父に打ち明ける機会が無いまま再会は終わり、再び断絶されてしまった。アブシャロムはこれ以降、父ダビデに会う努力を一切しなくなり、その代わり、父ダビデに反逆しクーデターを起こす計画を入念に立て始める。子は、親への親密な交わりが絶望的だと分かると、ひたすら憎むべき相手として親を見るのだ。

ダビデは息子アブシャロムを愛していなかったのか?子を愛さない父はいない。ただ不器用だった故に息子を放置し、放置してしまった故に罪を犯させ、ついには、裁きが子に追いつき、失ってしまう事となる。
アブシャロムが父に反旗を翻した時、ダビデは何の抵抗もせず、逃げた。ダビデは圧倒的に不利でありながらも、息子アブシャロムには自分に免じて手心を加えてほしい、と、部下に願う。(2サムエル記18:5)
しかし戦いは、アブシャロムの呪われたような死、という形で決着がつく。ダビデは息子アブシャロムが無事かを案じ、無事であるという「吉報」が来るのは今か今か、と切望していた。あたかも放蕩息子の父が、息子が出て行った道を見ながら、いつ帰って来るだろうかと、待ち望んでいるかのように。(ルカ15章)
しかし、ダビデの「放蕩息子」は、二度と帰らなかった。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」(2サム18:33)
この悲痛な叫びは、悔い改めないまま「裁き」に追いつかれ、滅んで行ってしまった人達に対する、父なる神の嘆きでもある。アブシャロムはせっかく「父の平和」という良い名前がつけられたのに、放置され続けた故、名前とは全くそぐわない子となってしまい、ついに、父に反逆する罪への裁きが、追いついてしまった。
親子関係で最もしてはならないのが、「放置」である。親も子も一家総出で次の御言葉を守り行うべきだ。
『妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。』(コロサイ3:18-21)
家族が固い愛の絆で結ばれ、主にある喜びと笑いがいつも絶えない皆さんの家庭でありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
アシェル(幸いな人)の3つの法則(ヨシュア記1:5-9)
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主の前に約束し、誰よりも思い切って実行したヨシヤ王(2列王記23:1-15)
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若い時から主の道に歩もうと志し、ある時、主の律法を発見し、それに記された主の道と、それにあまりにも反した道を歩んできた先祖代々の罪とを照らしあわせた時、恐れおののいたヨシヤ王は、早速主に伺った。
主は、御言葉を前に恐れおののいた彼の代には、その災いを降されない、と、約束して下さった。
主からの災いを、自分は免れた、と思ったキリスト者が、それに安んじて、油断し、罪を犯してしまう事はままあるが、ヨシヤはどうだっただろう。

23:1 そこで王は人をつかわしてユダとエルサレムの長老たちをことごとく集めた。
23:2 そして王はユダのもろもろの人々と、エルサレムのすべての住民および祭司、預言者ならびに大小のすべての民を従えて主の宮にのぼり、主の宮で見つかった契約の書の言葉をことごとく彼らに読み聞かせた。

ヨシヤは早速行動した。しかも、大小全ての人々を集め、彼らに主の御言葉をことごとく読み聞かせた。
聞かせた、というだけで終わるのではない。霊の指導者は、ただ聞かせるだけでは十分ではない。

23:3 次いで王は柱のかたわらに立って、主の前に契約を立て、主に従って歩み、心をつくし精神をつくして、主の戒めと、あかしと、定めとを守り、この書物にしるされているこの契約の言葉を行うことを誓った。民は皆その契約に加わった。

ヨシヤ王はさらに、自分のみならず人々にも主の御前に正しく歩む事を約束した。
私達も、人々に主をすすめる時、主の前に歩むか、そうでないかを人の口から告白させる事が重要である。
ヨシヤは、律法の書に次のように書いてある事を心にとめ、それを実行したのだ。

申命記6:1 これはあなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令と、定めと、おきてであって、あなたがたは渡って行って獲る地で、これを行わなければならない。
6:2 これはあなたが子や孫と共に、あなたの生きながらえる日の間、つねにあなたの神、主を恐れて、わたしが命じるもろもろの定めと、命令とを守らせるため、またあなたが長く命を保つことのできるためである。
6:3 それゆえ、イスラエルよ、聞いて、それを守り行え。そうすれば、あなたはさいわいを得、あなたの先祖の神、主があなたに言われたように、乳と蜜の流れる国で、あなたの数は大いに増すであろう。
6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

そして彼は、約束したならら、それで満足して、何もしなかったというわけではない。
彼は、実に思い切った行動に踏み切る。

23:4 こうして王は大祭司ヒルキヤと、それに次ぐ祭司たちおよび門を守る者どもに命じて、主の神殿からバアルとアシラと天の万象とのために作ったもろもろの器を取り出させ、エルサレムの外のキデロンの野でそれを焼き、その灰をベテルに持って行かせた。

主の神殿の中に、バアルとアシラと天の万象とのために作ったもろもろの器があったのだ。
確かに彼の祖父マナセの代にそれが築きあげられたと、記されているが、それがそのまま主の宮に放置されていたのは、おどろくべき事かもしれない。
しかし読み進めていくと、もっとおどろくべき事が記されている。

23:5 また、ユダの町々とエルサレムの周囲にある高き所で香をたくためにユダの王たちが任命した祭司たちを廃し、またバアルと日と月と星宿と天の万象とに香をたく者どもをも廃した。
23:6 彼はまた主の宮からアシラ像を取り出し、エルサレムの外のキデロン川に持って行って、キデロン川でそれを焼き、それを打ち砕いて粉とし、その粉を民の墓に投げすてた。

当時のエルサレム周辺の町々には「高き所」という、太陽や月や星々や、天のもろもろを神とする神社仏閣のようなものがあり、そこに仕える祭司もいた。
彼はそれを廃止し、また、なんとアシェラ像が主の宮の中にさえあったのだが、それをも排除した。
次にはもっと驚く事が書いてある。

23:7 また主の宮にあった神殿男娼の家をこわした。そこは女たちがアシラ像のために掛け幕を織る所であった。

なんと、主の宮の中に、神殿男娼の家があったのだ。男と男が忌み嫌われるべき事をする者の家が、聖なる主を礼拝する所に、あったのだ。
御言葉に立っているキリスト者は、これを驚嘆すると同時に、震えるほど不愉快な思いになるかもしれない。しかし、御言葉を知らず、同性愛をよしとする「キリスト者」は、それをなんとも思わないかもしれない。
しかし聖書は、同性愛は、生きたまま炎に焼かれる滅びに至るような、忌むべき行為である事を示している。(創世記19章、ローマ1:26-28, レビ18:22-30, 1テモテ1:9-10, 1コリント6:9-10, 2ペテロ2:6-10、ユダ1:7)

しかし、なぜこのような忌むべき事が、この箇所に至るまで、気づかなかったのか。
それは、それが習慣化し、まかり通っていたからであり、その存在が「罪」とは思っていなかったからである。
つまり、万物の基準である御言葉が無かったからであり、指摘されるまで気づかなかったのだ。
ヨシヤは、御言葉の基準を知った時、それを取り除いたのだ。

23:8 彼はまたユダの町々から祭司をことごとく召しよせ、また祭司が香をたいたゲバからベエルシバまでの高き所を汚し、また門にある高き所をこわした。これらの高き所は町のつかさヨシュアの門の入口にあり、町の門にはいる人の左にあった。
23:9 高き所の祭司たちはエルサレムで主の祭壇にのぼることをしなかったが、その兄弟たちのうちにあって種入れぬパンを食べた。

高き所は、主を礼拝するのか、偶像を礼拝するのか、あやふやな所であるが、ひとつはっきりしている事は、律法に照らすなら主が定めた所以外で礼拝するのは違反である事である。
ヨシヤはそれをも取り除いた。

23:10 王はまた、だれもそのむすこ娘を火に焼いて、モレクにささげ物とすることのないように、ベンヒンノムの谷にあるトペテを汚した。

自分の息子や娘を火で焼いて邪教の神に捧げるという蛮行を、ヨシヤの祖父マナセは行ったが、彼はもはやそのような事が出来ないようにした。

23:11 またユダの王たちが太陽にささげて主の宮の門に置いた馬を、境内にある侍従ナタンメレクのへやのかたわらに移し、太陽の車を火で焼いた。
23:12 また王はユダの王たちがアハズの高殿の屋上に造った祭壇と、マナセが主の宮の二つの庭に造った祭壇とをこわして、それを打ち砕き、砕けたものをキデロン川に投げすてた。

ヨシヤは、彼の祖父が、そのまたさらなる祖父の代由来の諸々の偶像、すなわち、主に忌み嫌われるべきものを、思い切って破壊した。
そればかりではない。

23:13 また王はイスラエルの王ソロモンが昔シドンびとの憎むべき者アシタロテと、モアブびとの憎むべき者ケモシと、アンモンの人々の憎むべき者ミルコムのためにエルサレムの東、滅亡の山の南に築いた高き所を汚した。
23:14 またもろもろの石柱を打ち砕き、アシラ像を切り倒し、人の骨をもってその所を満たした。

なんと、ソロモンの代から存在した高き所も、ずっとあって、そこで主の目に忌み嫌われる事が行われて来たのだ。
それは数百年の昔から存在し、日本でいえば、国宝級のような史物さえも、ヨシヤは、主に忌み嫌われるものであるからには、破壊した。
まことに生半可な心持ちでは出来る事ではない。今までの王は、できなかった事を、ヨシヤは実行したのだ。

私達も、自分の人生で、あるいは家系で代々持ち続けてしまった、主に忌み嫌われる習慣や思考パタンなどは、気付かされた時には、ヨシヤのように、いさぎよく捨て去るものでありたい。

御前に出る時に用意すべきものと、脱ぎすてるべきもの(伝道者の書5:1-7)
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5:1 神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。
5:2a 神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。

ここは、KJVを直訳するなら、次のようになる。
「愚かないけにえをささげるよりも、聞く準備をせよ。悪とされないために。」

私達は主の御前に出る時、聞く耳の準備をし、そしてそれを聞いたなら守り行うという意志を持って、のぞむべきだ。
聞く準備なしに、礼拝出席するとするなら、それは愚かないけにえであり、聞く準備なしに出席するよりは、むしろ、出席しないほうがいい。
なぜなら、その聞く耳なしの存在は、御前に汚物のような存在となり、主を不愉快にさせ、他の礼拝者を不愉快にさせるからだ。

主の御前に進み出る時に、脱ぎ捨てるべきものがある。

出エジプト記3:4 主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。
 3:5 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。

主は、主の御前だと知らずに来たモーセに、ここに近づいてはならない、くつを脱げ、と命じた。
私達も、主の御前に進み出る時、脱ぎ捨てるべき二つのくつがある。

伝道者の書5:2b それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。
5:3 夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。

脱ぎ捨てるべき二つの靴の一つ目は、私達の口から出てくる言葉であり、ふたつ目は「夢」、それも、仕事の多い事によって来る夢である。
人はみずから、あれをしよう、これをしようとして色々な夢を見るが、礼拝に進み出る時にはそれを置くべきである。
夢が、主の御前に進み出る事をさまたげるものなら、その仕事や夢のほうを捨てるべきなのだ。

5:4 あなたは神に誓いをなすとき、それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。
5:5 あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。
5:6 あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。また使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない。どうして、神があなたの言葉を怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてよかろうか。

口、それは災いをもたらすものである。
ツゥムというヘブライ語は、断食を意味するが、元々の意味は、覆うこと、すなわち、口を覆う事であり、それがすなわち食べない事、断食、となった。
食べない断食をするよりも、むしろ、口からむなしい言葉を発しないという断食をこそすべきであると、イザヤ58章に記されている。

サウルは聞く耳持たずして、愚かないけにえをささげた。
1サムエル15:7 サウルはアマレクびとを撃って、ハビラからエジプトの東にあるシュルにまで及んだ。
 15:8 そしてアマレクびとの王アガグをいけどり、つるぎをもってその民をことごとく滅ぼした。
 15:9 しかしサウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。

彼は、主からの「滅ぼし尽くせ」という言葉に従わず、一部を滅ぼし、一部を惜しんで滅ぼさなかった。
それはすなわち、主の命令を破った、という事である。

 15:13 サムエルがサウルのもとへ来ると、サウルは彼に言った、「どうぞ、主があなたを祝福されますように。わたしは主の言葉を実行しました」。
彼は祝福の元である主の命令を自ら破ったのに主の祝福をいい、実行していないのに、実行しましたと言った。
まさに軽々しくおろかな唇である。

サムエルからなおも指摘されても、彼は言う。
 15:20 サウルはサムエルに言った、「わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。
 15:21 しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」。

主の言葉がそこにあるのに、その周りにたくさんの身勝手な言葉で装飾し、夢を見ると、それは愚かな言葉となる。

伝道者の書5:7 夢が多ければ空なる言葉も多い。しかし、あなたは神を恐れよ。

私達は主の御前に進み出る時、聞くべき耳を用意し、そして脱ぐべき靴である虚しい言葉をぬいで、また、虚しい夢をぬいで、主に喜ばれる礼拝者となるべきである。

ルカによる福音書 講解説教メッセージ
イエス様にあって新しくされた人と、古いままの者との互いに相容れない関係(ルカ5:27-39)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
断食とは(イザヤ58:1-5)
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