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なんでも主に持って行って、主から可愛がられたダビデ(詩篇28篇)
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詩篇28篇 ダビデの歌
28:1 主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。わが岩よ、わたしにむかって/耳しいとならないでください。もしあなたが黙っておられるならば、おそらく、わたしは墓に下る者と等しくなるでしょう。

詩篇28篇も27篇同様、ダビデが敵によって苦しめられ、主に向かって祈る祈りである。
ダビデはどんな事でも、「主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。」と、主になんでも持って行くのが、彼のトレードマークである。
親としては、どんな事でもいつでも親に持ってくる子供が、持って行かない子供よりも、かわいいのではなかろうか。
ダビデは、何事につけても、主に向かって持って行った。だから主の目には、彼は、かなりかわいかったのではないだろうか。
それで主は彼を高めて下さった。

28:2 わたしがあなたにむかって助けを求め、あなたの至聖所にむかって手をあげるとき、わたしの願いの声を聞いてください。

ダビデは悩みの時、主の至聖所に向かって手を上げた。その手は、祈りの手である。

28:3 悪しき者および悪を行う者らと共に/わたしを引き行かないでください。彼らはその隣り人とむつまじく語るけれども、その心には害悪をいだく者です。

ダビデは悪を行う者を、主に訴えている。
その彼らの性質は、彼らは表面的には仲良さそうに来るが、心には害悪を抱いている、というものだ、と。

28:4 どうぞ、そのわざにしたがい、その悪しき行いにしたがって彼らに報い、その手のわざにしたがって彼らに報い、その受くべき罰を彼らに与えてください。
28:5 彼らは主のもろもろのみわざと、み手のわざとを顧みないゆえに、主は彼らを倒して、再び建てられることはない。

この詩篇28篇には、3種類の「手」が登場する。
すなわち、自分の手と、敵の手と、そして主の御手である。
敵の手は、悪しきわざを行うが、その手が迫ってくる時こそ、私達が主に向かってきよい手を挙げて祈る時である。
パウロは以下のように勧めている。

1テモテ2:8 男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。

またモーセも60万のつぶやきやすい群衆を40年間荒野で導いた時、彼自身が怒り心頭になりそうな時は幾度もあったが、その時モーセ自身はいつでも主にひれ伏して執り成し、祈った。
彼やダビデのように、問題も怒りも全てを主に持っていく人こそ、主の御業が働く人である。

この世界は、主の良きわざによって、6日に渡って創造されたが、主は、ご自身の創造のわざを見て、6度「よし」と言われた。
人の手のわざは、悪を行う事に傾きやすく、悪い事ばかりである。
だから私達は、主の「良き」わざを成す主の御手へと、持っていくべきである。

28:6 主はほむべきかな。主はわたしの願いの声を聞かれた。
28:7 主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む。わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる。

この詩篇の後半は、早速祈りが答えられ主を喜び褒め称えている箇所へと、早速移っている。
主を呼び求める人に、主が速やかに答えて下さる事例は、聖書には事欠かない。

ハンナも主に求めた時、主が答えてくださり、ダビデ同様の感謝の歌を主に捧げている。
ハンナはペニンナから嫌味といじめを受けたが、そのつのる憂いを彼女は誰にもぶつけず、全部、主へと持って行った。
主は、彼女の祈りに聞かれ、彼女もダビデのように、主をほめ歌った。

1サムエル記2:1 ハンナは祈って言った、/「わたしの心は主によって喜び、/わたしの力は主によって強められた、/わたしの口は敵をあざ笑う、/あなたの救によってわたしは楽しむからである。
2:2 主のように聖なるものはない、/あなたのほかには、だれもない、/われわれの神のような岩はない。
2:3 あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、/たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、/もろもろのおこないは主によって量られる。
2:4 勇士の弓は折れ、/弱き者は力を帯びる。
2:5 飽き足りた者は食のために雇われ、/飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、/多くの子をもつ女は孤独となる。
2:6 主は殺し、また生かし、/陰府にくだし、また上げられる。
2:7 主は貧しくし、また富ませ、/低くし、また高くされる。
2:8 貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、/乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、/王侯と共にすわらせ、/栄誉の位を継がせられる。地の柱は主のものであって、/その柱の上に、世界をすえられたからである。
2:9 主はその聖徒たちの足を守られる、/しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。人は力をもって勝つことができないからである。
2:10 主と争うものは粉々に砕かれるであろう、/主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、/地のはてまでもさばき、/王に力を与え、/油そそがれた者の力を強くされるであろう」。

マリヤも、同様の祈りを祈った。

1:46 するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、
1:47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
1:48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
1:49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、
1:50 そのあわれみは、代々限りなく/主をかしこみ恐れる者に及びます。
1:51 主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、
1:53 飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
1:54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、
1:55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

これらはいずれも、自分の力によらず、自分で仕返しせず、ただ主の救いにより頼んだ人々による、感謝の祈りである。
主は彼らのような、主の御声に100%従順する人を通して、世に良き介入をする機会を得て、彼らを通して大きな事をして下さった。
まことに世は、主に従順な人を通してこそ、世に介入されるのである。
しかし、御声に聞き従わない人、驕り高ぶる者、悪を行う者は、廃れていく。

28:8 主はその民の力、その油そそがれた者の救のとりでである。
28:9 どうぞ、あなたの民を救い、あなたの嗣業を恵み、彼らの牧者となって、とこしえに彼らをいだき導いてください。

ダビデは確かにイスラエルを導く羊飼いであったが、それ以上に、主こそ、まことの羊飼いである。
パスターも牧師も「羊飼い」という意味であるが、真の羊飼いは、イエス様である。
だからパスターも牧師も、人々を、まことの羊飼いへと導く「羊飼いのしもべ」である。

私達も、ダビデのように祈るべきである。
どうぞ、あなたの民を救い、あなたの嗣業を恵み、彼らの牧者となって、とこしえに彼らを抱いて導いてください、と。
まことの大牧者よ、来て支配して下さい、と。

主との交わりの甘く麗しい感覚を慕い求めて(詩篇27篇)
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詩篇27篇 ダビデの歌
27:1 主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。
27:2 わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが、襲ってきて、わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。
27:3 たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。

27篇は、ダビデが敵を前にした時、ダビデの主に対する思いと姿勢がよく現れた詩篇である。
彼は「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしの命のとりでだ」と、信仰をもって宣言した。
主を救いとする時、恐れは取り除かれ、そして主の御言葉を信仰を混ぜて宣言する時、その救いは実体として現れていく。
それで彼の人生、戦いにおいて、敗北は無かったのだ。

主を助け、主を拠り所とする人は、確かに守られ、匿われる。(詩篇91篇)
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので

信仰をもって主の約束の御言葉を宣言し、主に助けを求めて行く時、主はその信仰を実体化させて下さるが、この主の守りに囲われる時、甘く麗しい感覚が沸き起こる。

27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
27:5 それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。

女性が愛する男性の腕にくるまれる時、甘い安心感を覚えるように、ダビデも主に対して、そうだった。
だから彼は主の宮を慕い求め、生涯、そこに住む事を求めた。
この、主と主の宮をうるわしいと感じる感覚は、クリスチャンがイエス様に対して覚えるべき感覚である。
麗しい主を慕い求め、探し、門を叩き続ける人こそ、主を見出し、奥の間で主と麗しい愛の交わりにあずかれる人である。

雅歌3:1 わたしは夜、床の上で、わが魂の愛する者をたずねた。わたしは彼をたずねたが、見つからなかった。わたしは彼を呼んだが、答がなかった。
3:2 「わたしは今起きて、町をまわり歩き、街路や広場で、わが魂の愛する者をたずねよう」と、彼をたずねたが、見つからなかった。
3:3 町をまわり歩く夜回りたちに出会ったので、「あなたがたは、わが魂の愛する者を見ましたか」と尋ねた。
3:4 わたしが彼らと別れて行くとすぐ、わが魂の愛する者に出会った。わたしは彼を引き留めて行かせず、ついにわが母の家につれて行き、わたしを産んだ者のへやにはいった。

この、主との麗しい交わりに入った人は、たとえ敵が目の前にいたとしても、真理の上では主の守りの御手で囲まれているゆえに、大胆に、自信満々になる事ができる。

27:6 今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。それゆえ、わたしは主の幕屋で/喜びの声をあげて、いけにえをささげ、歌って、主をほめたたえるであろう。

ダビデは主の守りを信じ、宣言し、それが実体化になった。
だからダビデは、あらゆる戦いで勝利を得続けたのである。

27:7 主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
27:8 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。

「わが顔をたずね求めよ」、これは父なる神の、私達に対して願っておられる事であるが、ダビデはその心を熟知していた故に、それを先取りして宣言した。
もし子供がお父さんに向かって、『僕はお父さんの心を知っているよ。だからお父さんに代わって言います。「わたしの顔をたずね求めよ」』と言ったとしたら、その子供はとてもかわいいのではなかろうか。
主の目に、ダビデは、どれほどかわいく映っただろう。それ故主はダビデを特別に扱って下さった。
私達も、主からの特別待遇をいただきたいなら、心して御心を先取りし、御言葉を宣言するべきである。

27:9 み顔をわたしに隠さないでください。怒ってあなたのしもべを退けないでください。あなたはわたしの助けです。わが救の神よ、わたしを追い出し、わたしを捨てないでください。

主は、決して捨てない、と言っておられるのだけれど、この、主に捨てられてしまうのではないか、という気持はたまに沸き起こってくる。
罪を犯した時、自分が相応しくないと感じる時など。
その時、悪魔、サタンがその人を絶望させ主から引き離すためにその感覚を用いるが、私達はそれを信仰をもって制さなくてはならない。

しかし少なくとも、主に捨てられて欲しくないという思いがあるのは、健全な思いであり、主を敬わない人には、沸き起こらない感覚である。
第一サムエル記において、大祭司エリは、息子たちが御前で大きな罪を犯し続けた故に、主から捨てられる、と、幼子サムエルを通して警告を受けた時、「主の御旨がなりますように」などと、信心深そうな事を言ったが、もしダビデだったどうだっただろうか。
一刻でも早く主の御まえに走って行って、赦しを乞い、悔い改めたのではなかろうか。
つまりエリの中には、主を敬う心、主を愛し親しむ心は、無かったのだ。

私達は、人の前に信心深そうに装う事よりも、ダビデのように、なりふり構わず主を愛し、主に慕い求め、罪を犯した時でも、主に食いついて行って、赦しを求めるべきである。

27:10 たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。

世の親は、その娘や息子を、捨てるかもしれない。
しかし、たとい親が私達を見捨てたとしても、主は決して見捨てないし、忘れない。
なぜなら主は、十字架上で、手のひらに私達を刻みつけられたからである。

「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、
わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。
あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(イザヤ49:14-16)

27:11 主よ、あなたの道をわたしに教え、わたしのあだのゆえに、わたしを平らかな道に導いてください。
27:12 わたしのあだの望むがままに、わたしを引き渡さないでください。偽りのあかしをする者がわたしに逆らって起り、暴言を吐くからです。

平時の時さえも、ただ主の麗しさを仰ぎ見ようと求め続けている者こそ、有事の時にも真に主により頼む者である。

27:13 わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。
27:14 主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。

私達もダビデのように、いつでも主に求め、主を待ち望み、おりにかなった助けを得る者でありたい。

アンテオケ教会が栄えて行った秘訣(使徒11:19-30)
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11:19 さて、ステパノのことで起った迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、だれにも御言を語っていなかった。

それまでの経緯において、主の御胸は、異邦人にも福音を伝える事だと示されたのだが、相変わらずユダヤ人以外に御言葉を語っていなかった。
しかし、異邦人にも語った人達もいた。

11:20 ところが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってからギリシヤ人にも呼びかけ、主イエスを宣べ伝えていた。
11:21 そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった。

ギリシヤ人に、すなわち、異邦人にも福音を伝え始めた時、主の御手が彼らと共にあった、とある。
主の御胸の通りに行って行き、立てられた教会が、アンテオケ教会である。
そこには、今までの考えに囚われず、主の御胸を為していこうという人々が集まって、活気があった。。

11:22 このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。
11:23 彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。
11:24 彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。

このアンテオケ教会について、13章には次のように書いてある。
13:1 さて、アンテオケにある教会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や教師がいた。
13:2 一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。
13:3 そこで一同は、断食と祈とをして、手をふたりの上においた後、出発させた。

色々な国語、民族、色々な肌の色の人が、そこにいて、そして彼らは共に礼拝を捧げ、断食と祈りに専念していた。
そのような彼らは、これからますます発展して行く。
使徒行伝の前半は、ユダヤ人12弟子が主体であったが、後半はパウロを中心とする異邦人宣教者に主役の座をゆずり、エルサレムのユダヤ人教会はどんどん廃れていく。事実、エルサレム教会はAD70年に崩壊してしまい、エクレシア達の活躍のステージはヨーロッパへ移行して行く。

11:25 そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、
11:26 彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。

クリスチャンという言葉、元々は「キリストきちがい」と、揶揄するような言葉で呼ばれていたが、しかし彼らはキリストきちがいであると呼ばれる事をむしろ喜び、自称クリスチャンと呼ぶようになって行った。
アンテオケの教会が、最初にクリスチャンと呼ばれる栄誉に預かったのは、彼らが今までの既定の考えに固執せず、主が「これが道だ」と言われる道に速やかに入る人々で満ちていたからであり、そして彼らは、礼拝と祈りに専念し、また、ユダヤ人とギリシヤ人の違いを超え、また、言語や肌の色が違いを超えて、共々、キリストにある交わりに専念していたからだ。
そのような交わりを、主は大いに祝福される。

11:27 そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケにくだってきた。
11:28 その中のひとりであるアガボという者が立って、世界中に大ききんが起るだろうと、御霊によって預言したところ、果してそれがクラウデオ帝の時に起った。
11:29 そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた。
11:30 そして、それをバルナバとサウロとの手に託して、長老たちに送りとどけた。

アンテオケの教会は、世界中にききんが襲った時代でも、エルサレムの教会を物資援助する程に、物質面でも富んでいた。
しかしエルサレム教会は、既定の考えに囚われ、自分達の交わりから出ることをせずにいたため、どんどん廃れてしまった。

私達もアンテオケ教会のように、自分の既定の考えにとらわれず、主の御胸に忠実に歩み、国や言語、文化の違いを超えてキリストにあって一致し、大胆に福音を語る者達でありたい。

主の前に心わだかまり無く大胆に出られる人のたしなみ(詩篇26篇)
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ダビデの歌
26:1 主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。

詩篇26篇は、ダビデの人生の中で、いつの時期に書かれたのかという手がかりは無いが、その内容から、彼が悪しき者を前に攻められる所があった時に、主に祈ったものと思われる。

26:2 主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。
26:3 あなたのいつくしみはわたしの目の前にあり、わたしはあなたのまことによって歩みました。

ここを読むと、ダビデはよくもそこまで自信たっぷりに主に告白できるものだ、と思うかもしれない。
むしろ、その逆の告白をしたい人が、多いのではなかろうか。
主よ、わたしをさばいかないでください。わたしは誠実に歩んでおらず、迷い、主に信頼していません、主よ、わたしをためさないで下さい、わたしを試みないで下さい、わたしの心と思いに今触れないでください、と。

ダビデはなぜここまで大胆に、主に告白できたのか。
それは彼が主の前に、一切、やましい所が無かったからだ。
ダビデは、主の前に「やましさ」無く歩む事の達人だったが、どうすれば、主の前にやましさが無くなるのか。
詩篇32篇を見たい。

32:1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
32:2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。

人は誰しも罪を犯す。ダビデとて、そうだ。一体どうしたら、その罪が主の前に覆われ消されるのか。

32:3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
32:4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ
32:5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ

ダビデは、自分の罪を言い表さなかった時は、苦しみ、うめき、骨は衰えた。昼も夜も、主の御手が重くのしかかったからだ。
しかし、主の御前に罪を告白し、悔い改めたなら、主は彼の罪を赦してくださった。

人は、特に災い続きでなかったり、あるいは特段に責められる所が無い限りでは、意識に登っていない罪を、わざわざほじくり返して探す必要は無い。
もし心責められる所がある時には、主の言葉を前に自分を降ろし、罪を告白して悔い改めるべきである。
自分のしたい事と、御言葉とが競合するなら、自分を降ろし、御言葉のほうを優先させる人は、主に対して誠実な人であり、そのように、主に対して誠実な人は、いつも心にわだかまり無く、神との関係を健全に保ちつづける事ができる。

26篇を記した時のダビデは、まさにそのようなやましさが無い状態だったから、ここまで大胆になれたのである。

26:4 わたしは偽る人々と共にすわらず、偽善者と交わらず、
26:5 悪を行う者のつどいを憎み、悪しき者と共にすわることをしません。

キリストにあって歩む人は、ますます罪の交わりが耐えられなくなって行くものである。
以前は罪の飲み食いを楽しみ、人を陥れる噂話や下品な冗談に大いに盛り上がっていたとしても、キリストを信じた時以来、そうした物事の中にいる事に、やましさを感じるようになってくるものであるが、そうではなく、相変わらずキリストを受け入れる以前の状態、罪の飲み食いを平然と行っているとするなら、その信仰には問題がある。

1コリント15:33 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。
15:34 目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。

私達もまた、自らをきよく保つために、そのような悪い交わりに迎合するべきでなく、むしろ一線を置き、そして彼らを十字架の「こちら側」へと引き込むために福音を伝えべきだ。
6節以降は、ダビデの積極的な表明がある。

26:6 主よ、わたしは手を洗って、罪のないことを示し、あなたの祭壇をめぐって、
26:7 感謝の歌を声高くうたい、あなたのくすしきみわざをことごとくのべ伝えます。
26:8 主よ、わたしはあなたの住まわれる家と、あなたの栄光のとどまる所とを愛します。

祭壇は自分の罪のだめに犠牲が捧げられ、その香りが御まえに立ち上っていく所だが、彼はまことに主を慕い求め、祭壇の周りをゆっり歩きつつ感謝を主に捧げたいと思っていた。
彼は主の中に麗しさ、慰めを見出し、主の宮にいる一日が千日にもまさる思いであった。
このような主との親しさも、ダビデが御前に大胆に進み出られる理由のひとつであった。主もまた、主に親しい聖徒がご自身の所に慕い求めて来る事を望んでおられる。

26:9 どうか、わたしを罪びとと共に、わたしのいのちを、血を流す人々と共に、取り去らないでください。
26:10 彼らの手には悪い企てがあり、彼らの右の手は、まいないで満ちています。

ダビデは、罪人が受ける災いをその者達と一緒に受ける事が無いように、と願った。
確かに強盗団のアジトに一緒にいたら、その者達が受けるべき災いを一緒に受けてしまう。

彼らは、悪いことを悪い事と知りながら、敢えてそれを行っているのである。

ヘブル10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。

私達は、罪を犯す人達の交わりから出たなら、もはや、その者達の報いを受けないように、そして、主にある聖徒の交わりの中で、共に主からの報いを得られるよう、求めるべきである。

26:11 しかしわたしは誠実に歩みます。わたしをあがない、わたしをあわれんでください。
26:12 わたしの足は平らかな所に立っています。わたしは会衆のなかで主をたたえましょう。

ダビデは告白した。誠実に歩みます、と。
結局、主に対して誠実な人こそ、主に対して心責められる所無く、やましさがなく、健全に神との関係を保ちつづける事ができるのだ。

全ての問題解決を神に求める行動パターンを根付かせるための詩篇(詩篇25篇)
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詩篇25篇は、アルファベットの詩篇であり、1-22節の最初が、ヘブライ語のアルファベット(アレフ、ベート、ギメル、、、タウに至るまで)で開始される。
アルファベット順に並んでいるのは、単なる語呂遊びではない。覚えやすくなっているから覚えなさい、という事である。
いつも飢えている人には、飢えては魚を与え、飢えては魚を与え、を繰り返すより、魚釣りの方法を教える事のほうが恒久的な解決であるかのように、この詩篇を覚える事は、人生のどんな問題に対しても解決の糸口を見いだせる「釣り道具」を得たかのようである。

この詩篇には、敵が立ちはだかった時、道に迷った時、罪の問題に悩まされる時、苦しみが大きくなった時、それぞれの時々に祈るべき、祈りのし方が示されている。
ギリシア思考で歩む人は、このような問題が目の前にある毎に、誰か、他の人間に解決の糸口を見出そうとする。
しかし、この詩篇を暗唱したユダヤ人は、おのおの神に直接問題を持っていき、祈りによって、また神との交わりによって慰めを得、そして神ご自身から直接解決をいただく。
私達も、この詩篇を、暗唱とまでは行かなくても、いつも身近に置いて口ずさむ祈りとするべきである。

詩篇25篇 ダビデの歌
25:1 主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。
25:2 わが神よ、わたしはあなたに信頼します。どうか、わたしをはずかしめず、わたしの敵を勝ち誇らせないでください。
25:3 すべてあなたを待ち望む者をはずかしめず、みだりに信義にそむく者をはずかしめてください。

ダビデはまず、自分は主に対してどのようなスタンスであるのか、という宣言から始めている。
自分は「主」を仰ぎ望み、主に信頼する者だ、その主から直接、問題の解決を得る者だ、と。
そして、敵と相対する時、恥を見ることが無いようにと、まず祈っている。

25:4 主よ、あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください。
25:5 あなたのまことをもって、わたしを導き、わたしを教えてください。あなたはわが救の神です。わたしはひねもすあなたを待ち望みます。

彼はさらに、主の大路、主の道、そこにおける導きを求めている。ここに共通するキーワードは、「道」「導き」である。
私達も大なり小なり、常に歩むべき道の選択に直面しているが、迷った時、常に主に向かって祈り求めるべきである。
それによって主は、歩むべき道を教えてくださる。
たとえ、すぐには実体としての答がないように見えても、祈った時は平安を得られる。
そして、長い目で見たら、主は確かにあの時、私達の知り得なかった所で道を備えておられたのだ、と分かる。

続く祈りは、罪の問題についてである。

25:6 主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを/思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。
25:7 わたしの若き時の罪と、とがとを/思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。

若い時は、激情の強さゆえに、あるいは、無知と軽率さゆえに罪を犯してしまう事がある。
そのように犯してしまった罪を、「思い出さないでください」とは、まことに都合の良い祈りのように見えるが、そのように求める事ができる根拠は、「あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって」である。

25:8 主は恵みふかく、かつ正しくいらせられる。それゆえ、主は道を罪びとに教え、
25:9 へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。
25:10 主のすべての道はその契約とあかしとを守る者には/いつくしみであり、まことである。
25:11 主よ、み名のために、わたしの罪をおゆるしください。わたしの罪は大きいのです。

子供が親に、まことに都合の良いお願いをして、親はそれを聞いてやるのは、子供が不完全で弱い事を知っているからである。
それだからこそ、子供は成長できる。
同じように、父なる神は私達の弱さをご存知であり、なにか罪や過ちを犯してしまった時は、速やかに親に戻って赦しを乞い願う事を、求めておられる。
ダビデはまことに、父なる神と、親子のような親しい関係にあるからこそ、大胆に「都合の良い」祈りで求める事が出来たのだ。
ペテロも、イスカリオテのユダも、共に湯を裏切ったが、イスカリオテのユダは自ら命を絶って、永遠に神との関係を絶ってしまった。しかしペテロは、恥を忍んでも主との関係を保ったゆえに、聖霊を受け、力強い主の働き人へとつくりかえられて行った。

続く箇所では、主を恐れ敬う人に主はどうしてくださるのかが示されている。

25:12 主を恐れる人はだれか。主はその選ぶべき道をその人に教えられる。
25:13 彼はみずからさいわいに住まい、そのすえは地を継ぐであろう。
25:14 主の親しみは主をおそれる者のためにあり、主はその契約を彼らに知らせられる。
25:15 わたしの目は常に主に向かっている。主はわたしの足を網から取り出されるからである。

主を恐れ敬う人に、主は、道を示して下さる。
主は、一人一人に、道をあらかじめ用意しておられる。

自分の願望や考えで頭の中がいっぱいな人は、目が曇らされて主の道を見ることができない。
しかしそれらを降ろして、主を主とする人、主の言葉に自らを従わせる人には、主の用意して下さった最良の道を見る事が出来、そこを歩む幸いを得る事ができ、そのような人こそが、あらゆる悪意ある罠から救われ、主の安全な道を歩む事ができるのだ。

続く箇所は、主に対する、ダビデの祈りである。

25:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれんでください。わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです。
25:17 わたしの心の悩みをゆるめ、わたしを苦しみから引き出してください。
25:18 わたしの苦しみ悩みをかえりみ、わたしのすべての罪をおゆるしください。
25:19 わたしの敵がいかに多く、かつ激しい憎しみをもって/わたしを憎んでいるかをごらんください。
25:20 わたしの魂を守り、わたしをお助けください。わたしをはずかしめないでください。わたしはあなたに寄り頼んでいます。
25:21 どうか、誠実と潔白とが、わたしを守ってくれるように。わたしはあなたを待ち望んでいます。
25:22 神よ、イスラエルをあがない、すべての悩みから救いだしてください。

ダビデはいつも主に目を向け、心を向けている。
そのような人は、いつも主から直接、助けを引き出す事ができる。

この祈りを暗唱しているユダヤ人は、なにかある毎に、この詩篇の通り、すぐにダイレクトに主に向かい、祈り、主から直接的な助けを得ている。
私達はなにかある毎に、主を除外した思考でもって、誰かから何かの助けを、物を、お金を引き出そうとするが、それは一時的に解決を得たと思ってもすぐにまた別の問題に取り囲まれてしまう。
この詩篇の通りに、いつでも主に向かう思考パターン、行動パターンとなる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
 

主を礼拝する者のあり方(詩篇24篇)
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詩篇24篇 ダビデの歌
24:1 地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。
24:2 主はその基を大海のうえにすえ、大川のうえに定められた。

詩篇24篇には、主はいかなるお方であるのかと、主を礼拝する神の民のあり方が記されている。
まずダビデは、主は、この世のすべてのものは、主のものであると宣言した。
そうである。
ヨハネ1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
・・・
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

この、全てを創られ、全てを存続させておられるお方を受け入れる者は、神の子とされる特権が与えられる。
それだから、このお方に対し、大いに「耳」や「目」、「心」という門を開いて受け入れる人は、幸いである。

24:3 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。

私達は、主の山に登るだけでなく、立たなければならない。
立つ事は、敬意を表する行為であり、そのためには、モーセのように、履き物を脱ぐ必要がある。
それまでの、自分の”くせ”で生きて来た生き方、やり慣れた方法でなく、御言葉が示された「主の方法」「主の手段」によって、礼拝するべきだ。

24:4 手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。
24:5 このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。

ここは、礼拝を捧げる人の姿が記されている。

主の山には、だれでもが登れるものではなく、礼拝するために選ばれた人、主が指名した人が、登る事ができる。
美容師の中で、指名される人とは、腕がいい人、接客態度がいい人であるのと同じように、私達も、主からの指名を受けるために、常日頃から主を敬う態度を示し、日ごと御言葉を口ずさみ、主の道を歩み続けるべきである。
人の側が常日頃、「最上の礼拝を捧げたい」という志を持つなら、主の側も「この人から礼拝を捧げられたい」「この人の捧げる香りをかぎたい」と、聖なる主の山へと召して下さるのだ。

24:6 これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。〔セラ

イスラエルがヤコブだった時、彼は主と相撲を取り、もものつがいが外れる経験をした。
それ以降、ヤコブは、びっこを引いて歩くようになり、最後には、つえに寄りかかって主を礼拝した。
私達も、祈りによって主と相撲を取るべきである。
真剣に主の前に立つ時、主は、私達のそれまでの悪いクセをへし折って下さり、それまで平気でしていた悪い事をできなくしてくださる。
そして、主により掛かかって生きるようになって行き、そうして、霊的イスラエルへと創り変えられて行く。

24:7 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:8 栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。

戦いに力ある主、とダビデは告白した。
私達は、この世を歩み続ける上で、諸々の戦いがあるが、もし私達の中の御言葉が的確であるなら、主は、戦いに力ある主として、諸々の問題に戦って下さり、解決と勝利を与えて下さる。

24:9 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:10 この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。〔セラ

私達も、主に対しての門を、すなわち耳を、目を、この口を、主に向かって大いに開いて、主を受け入れるのだ。
もし御言葉が来る時、うつむいていたなら、門は閉じた状態のままで、それは王なるお方を迎え入れる姿勢ではない。
主を迎える時は、うつむくのではなく、頭を下げるのではなく、れっきとして、迎えます!どうぞ!という姿勢を示すべきだ。
顔を伏せるのは、主を敬っていない「カインの礼拝」である。

4:5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
4:6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
4:7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

私達はアベルの礼拝を捧げるべきである。

4:4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。

彼は、主を普段から敬い、初物と最良のものを捧げた。
私達も、祈りにおいてしっかり声を出して祈るべきであり、賛美の捧げ物において、心の底からの感謝と喜びを捧げるべきなのだ。

詩篇講解説教
詩篇23篇の最後を信仰告白で飾ったダビデ(詩篇23:6)
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『わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしは
とこしえに主の宮に住むでしょう。』(詩篇23:6)

ダビデは最後の6節を、自分の主に対する信仰告白で飾った。
聖書の最後も、聖徒の信仰告白で飾られている。

信仰は、表現されなければならない。
内に閉じこめているものは、信仰とは言わない。もし信仰があるというなら、表現しなくてはならない。
ヤコブ2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。

ダビデは5節までは、自分が信じている神のご性質を表現して来たが、この6節で彼は彼自身の信仰を告白し、この神に対し、自分はこれからどうして行きたいのかを表明した。
「Surely goodness and mercy shall follow me All the days of my life・・・」
わたしの人生の全体に、と、ダビデは、告白した。
一生の間、主の「いつくしみ」と「恵み」が追いかけてくるだろう、と。
恵みといつくしみは、英語ではgoodness and mercy、ヘブライ語ではトーブ טוב と ヘセド ד ח ד סד である。

「 טוב トーブ」は「良し」という意味であり、創世記1章にて主が創造の御業を行った都度、それについて評価した言葉である。
主の創造の御業は常にトーブであり、主と共に歩むなら私達もいつもこの主のトーブを獲得できる。

このトーブには、
1,Perfect! パーフェクト!
2,Beautiful! ビューティフル!
3,Good! グッド!
の意味がある。

続く「恵み ד סד  ヘセド」は、恵み、慈悲、憐れみ、いつくしみ深い、の意味である。

主の御業は、つねにパーフェクト、ビューティフル、グッドであるが、人間がその主の言葉に対して返した、御言葉に対する反逆の結果は、ことごとくその逆、すなわち、不完全であり、醜悪であり、バッドであった。
その結果もたらされた呪い、病、死の中にうめきつつ生きなくてはならなくなってしまったが、その状態の中にある人間に、救いの手が差し伸べられて、主の再創造の良きわざが与えられること、それがすなわち「恵み(ヘセド)」である。
例えば、堕落した生活ゆえに病になってしまった時、主の癒やしが行われたなら、その癒やしが、恵みである。

恵みは、主の創造のトーブに対し、人間がしてしまった罪による破壊、その破壊ゆえに人には病や死が入ってきてしまった、この破壊、死、病に対し、主の側が、一方的に再建を、いのちを、癒やしを与えて下さった事である。
恵みとは一方的に与えられるものであり、それは一切人間のわざではなく、ただ一方的に天から与えられる良きわざである。

主の家に住まう事、それはすなわち、トーブとヘセードを、両腕にかかえて生きる人である。
共にいます主の創造のトーブのわざがいつも共にあり、もし主から離れて、罪ゆえの破壊が起きてしまったとしても、主に立ち返るなら、主のヘセドがそれを癒やしてくださる。
ダビデはいつも、そのトーブとヘセドに囲まれた人生であった。
それで彼は告白したのだ。
トーブとヘセードがずっとわたしを追いかけてくるから、生涯、わたしは主の家に住もう、と。

男女関係においても、告白が無いなら、関係は成立しない。
その点、雅歌書は愛の告白で満ちているからこそ、愛の甘さ酸っぱさの感覚で溢れている。

雅歌2:3 私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。
2:4 あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。
2:5 干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。
2:6 ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。

雅歌書の男女は、相手がいかなる方であるのか、自分は相手にどうして欲しいのかという告白で満ちているから、この関係が甘く麗しい関係である事が分かる。
私達も、主がいかなるお方であるお方であるか、どのようにして欲しいのかを常に告白するべきである。
そうすれば、主との関係がどんどん甘く麗しいものになって行く。

トーブとヘセドを送ってくださる主。
わたしを緑の牧場へと導いて下さった主、死の陰の谷も守り導いて下さった主。
敵の前で宴を設けて下さった主。

わたしを愛して下さった、わたしの愛する主の家に住む。それは何と甘くうれしい日々、エデンの園で過ごすかのような幸いな日々だろう。
私たちもダビデのように告白し、トーブとヘセドを私達の人生に結びつけたい。

イエス・キリストという門(ヨハネ10:7-16)
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ヨハネ10:7 そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

黙示録4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。

黙示録3:7 ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。
3:8 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
3:9 見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
3:10 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。
3:11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。
3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。
3:13 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

聖別する主 ジェホバ・メカディシケム(詩篇23:5)
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23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。

5節には8つ目の主の御名のご性質、Jehovah Mekaddishkem(ジェホバ・メカディシケム)が込められておいる。
それは「わたしのこうべに油をそそがれる」の所であり、ジェホバ・メカディシケムの意味する所は「聖別する主」である。

主は、油を注いで聖別し、任職して下さる。それも、敵の面前で。
主を敬わない敵と、主を敬う主の民を、主がご覧になる時、主は、主を敬う側に御顔を向け、彼らを、敵の面前で食宴を設け、そして油を注いで下さる。

この幸いを呼びこむために必要な事は「主を羊飼いとすること、主を敬う事」だ。
ちょうど主が、アベルの捧げものに目を留め、アベルとその捧げものに対して敬意を表した(NKJV: Respect)のと同じように。
それに対しカインとその捧げ物に対しては、主は目もくれず、一切のリスペクトを表さなかった。それは彼が、主への敬いも、主への正しい態度もなしに、ただ捧げものをポンと持ってきたからだ。

「ジェホバ・メカディシケム」という主の御名が出てくる箇所は、出エジプト記である。
『「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしが「あなたがたを聖別する主(ジェホバ・メカディシケム)」であることを、知らせるためのものである。』(出エジプト記31:13)

ジェホバ・メカディシケムが現れるためのキーワードは、「安息日」である。
ジェホバ・メカディシケム。それは、安息日を守る人、すなわち、主を礼拝すべき日に、世の諸々の事を止め、しっかり礼拝する人をこそ、主は聖別して下さる。
そうであるからには、私達自身が主に喜ばれる礼拝者である事の努力をし続けるべきである。
カインの性質を捨て、アベルのように最良のものを、最良の形で捧げようと、主を愛する心を持っている人にこそ、主は、目を留めて下さるのだ。主は、全地を見渡し、その心が全く主とひとつになっている人を探しておられるからである。

また、出エジプト記の続く節には、次のように記されている。

『それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。』(出エジプト記31:14 )
ずいぶん恐ろしい事が書かれてある、と思うかもしれない。
しかし私達には、永遠の安息の地、天国が備えられている。だから、天を覚えて日々生きるべきだ。そうでなく、世のことばかりに捕われて、礼拝するべき日を軽んじ、主を覚えないなら、どうして天国に相応しい者になれるだろう。
主が「聖とせよ」「安息せよ」と命じられたのに、聖とせず、安息せずに、世の仕事、世の飲み食いを好んで続けるとするなら、その限りでは、主の聖、主の安息には、入れてもらえない。
私達は天国人である、からには、それにふさわしく生きるべきだ。

また、この言葉が与えられる直前の所では、主はある人々に、特別な使命を名指しで与えている。
『主はモーセに言われた、「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。』(出エジプト記31:1-5)

主は人に知恵を与え、匠の技を与え、指導力や金銀、その他、主を礼拝する建物や集いを構築するために、全て必要なものを備えて下さる。
その特別な知恵が与えられた人には、「これをつくって欲しい」と言われた時、頭の中で「これとこれが必要だ」「ここにはこの材料を使おう」「ここはこのように組み立てよう」と、瞬時にイメージが組み上がり、精巧に手を動かすわざも与えられるのだ。
その理由は、共に「キリストのからだを建て上げるため」であり、まさに、主が特別な油注ぎを与える故である。ちょうど、ベザレルとアホリアブに、主を礼拝する所、幕屋建造のために知恵と啓示の霊を与えられたように。

現在は、教会が礼拝の集いである。その教会の立てあげのために、主は聖霊の油を注いで下さる。
『さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるためにおのおのに御霊の現われが与えられているのです。
ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、
からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。』(1コリント12:4-12)
『こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』(エペソ4:11)

大祭司アロンには、特別に「聖」とされたしるしが与えられた。
『あなたはまた純金の板を造り、印の彫刻のように、その上に『主に聖なる者』と刻み、これを青ひもで帽子に付け、それが帽子の前の方に来るようにしなければならない。これはアロンの額にあり、そしてアロンはイスラエルの人々がささげる聖なる物、すなわち彼らのもろもろの聖なる供え物についての罪の責めを負うであろう。これは主の前にそれらの受けいれられるため、常にアロンの額になければならない。』(出エジプト記28:36-38)

主が、特別に任命されたからには、自らを聖とするのが、主に呼び出された者の分である。
もし、牧会者が「聖」という立ち位置に立っているなら、聖徒は祝福される。
だから私達は、「神よ、この病人に手を置けば癒やされますように」という事を願うよりも、むしろ「わたしが聖化されたものである」という事を追求するべきなのだ。

神が用いられる器は、きよい器である。きよくなければ、聖霊は働かない。
祭司がきよければ、その祈りは聞かれる。だから、きよくなるために、たゆまず努力する。

罪は、悔い改め、常習犯的な罪を、今、やめる、それを続けて行く事の繰り返しをして行くなら、主はますます尊い事へと用いられる。
自らをきよくし、ますます聖霊の油が注がれ、主の働きへと大いに用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

共におられる主 ジェホバ・シャンマ(詩篇23:4b)
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「あなたがわたしと共におられるからです。」(詩篇23:4b)

主が共におられる、それは聖書のいたる所に見られる主のご性質である。
特に「共にいます主・Jehovah Shammah(ジェホバ・シャンマ)という名は、エゼキエル書の最後に登場する。
『町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。』(エゼキエル48:35)
これはエゼキエル書の最終章・最終節であるが、そこは、主が示して下さった新しい神殿の寸法を測り終え、いのちを生かす水が川となって流れ出て、その川の両岸を潤し、その町にはイスラエル十二部族への配分が割り当てられた、という箇所である。
黙示録の最後も同様に、天から降ってくる新しいエルサレムの記述があり、その町の門はイスラエル十二部族の名がつけられ、いのちの水が流れる。
その新しいエルサレムの特徴は「神が共にいます」という言葉につきる。

「主が共におられる」という言葉は、聖書の至る所に登場する。
例えば、心細い旅をしていたイスラエルの父祖・ヤコブに対して、主は「ともにいる」という事を強調するために、夢に現れた。

『さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。』(創世記28:10-11)
この場面は、イスラエル民族の父祖ヤコブが、兄エサウの祝福をだまし取ったゆえに、兄から命を狙われる事となり、たった一人、おじのラバンの所へ逃避行する途中の旅路である。

『時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。』(創世記28:12-15)

ここの主の言葉、わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る、と言っておられる。ここも、ジェホバ・シャンマのご性質が良く表れている場面である。
わたしがともにいる、だから、恐れる事はない、と。

ダビデも告白した。
ヤコブも、イザヤも、またそのほか信仰の先人たちは皆、主が共にいるから恐れない、と告白した。
それは現代の私達も同じである。
インマヌエル(主が共におられる)であられる主イエス様がおられ、導いて下さる。
イエス様は、このヤコブの場面と同じ事を言った。

『また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。』(ヨハネ1:51 )

このはしごは、天から地に向けてかけられている。
イエス様、すなわちインマヌエルなる主は、天から降りてこられ、私達が天に上れるように、はしごをかけて下さった。
私達は、イエス様という「狭い門」を通してのみ、天国に行ける。
救いの門は、イエス様のみ。そういう意味では狭いかもしれないが、しかしその門を通った先の道は広々としていて、かぐわしい花が咲き乱れた道、贖われた者だけが通る道、一切の愚かな者や滅ぼす者が迷い込む事の無い道である。(イザヤ35章)

『ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。』(創世記28:16-19)

ヤコブは兄から命を狙われ、そこから逃げる旅路で心細くあるヤコブ自身、主がともにおられる、という事で、その地をベテル(神の家)と呼んだ。
この体験が、ヤコブにとって、信仰のはじまりだった。
『ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。』(創世記28:20-22)

ずっと後、彼がベテルで礼拝を捧げた時、彼は一人ではなく、二人の妻と二人の妾、そして12人の子供たちが彼とともにあった。
彼は確かに主から祝福を受け、日毎のパンや着物に困る事が全くないほどまでに富ませ、無事に帰らせてくださったにもかかわらず、すぐに礼拝をささげなかったゆえに、娘ディナに不幸な事が起きたり、息子達がとんでもない事をしたりした。
そうした色々紆余曲折があったものの、主からの促しにより、このベテルに戻って礼拝を捧げた時、諸国の間で、彼に対する恐れが芽生えた。(創世記35章)

主が共におられる、その場所を離れてしまうなら、良くない事が起きる。
しかし、一人ひとりにとっての「主が共におられる」場所にとどまるなら、そこは天の御国となる。
そこは、いのちの水の川が流れ、いのちの木が茂る場所である。
エゼキエル書のジェホバ・シャンマと呼ばれた町も、黙示録に出てきた天国も、いのちの水の川が流れ、いのちの木が茂った。
ダビデも、共におられる主、羊飼いなる主にともなわれ、いこいの水のほとりへ、緑の牧場へと導かれて行った。
信仰の先輩たちはみな、地上の歩みにおいてジェホバ・シャンマを経験したのだ。

ヨハネ10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。

イエス様こそ、天からかけられたはしご、唯一、天と地を結び、唯一、人を天国へと至らせる門である。
その門の向こう側は、祝福の道であり、ジェホバシャンマなる主がいつも共におられる道である。

私達もこの人生において、ジェホバシャンマなる主と共に歩み、また自分の家族や仕事に対して、祝福を宣言するものでありたい。

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