メッセージ - 最新エントリー

令和の御言葉(イザヤ60:17-22)

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イザヤ60:17 わたしは青銅の代りに黄金を携え、くろがねの代りにしろがねを携え、木の代りに青銅を、石の代りに鉄を携えてきて、あなたのまつりごとを平和にし、あなたのつかさびとを正しくする。
60:18 暴虐は、もはやあなたの地に聞かれず、荒廃と滅亡は、もはやあなたの境のうちに聞かれず、あなたはその城壁を「救」ととなえ、その門を「誉」ととなえる。
60:19 昼は、もはや太陽があなたの光とならず、夜も月が輝いてあなたを照さず、主はとこしえにあなたの光となり、あなたの神はあなたの栄えとなられる。
60:20 あなたの太陽は再び没せず、あなたの月はかけることがない。主がとこしえにあなたの光となり、あなたの悲しみの日が終るからである。
60:21 あなたの民はことごとく正しい者となって、とこしえに地を所有する。彼らはわたしの植えた若枝、わが手のわざ、わが栄光をあらわすものとなる。
60:22 その最も小さい者は氏族となり、その最も弱い者は強い国となる。わたしは主である。その時がくるならば、すみやかにこの事をなす。

決して無駄にならない主にある労苦(2テサロニケ2:13-17)

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2テサロニケ2:13 しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、
 
エペソ1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
 
2テサロニケ2:14 そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるからである。
2:15 そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。
2:16 どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神とが、
2:17 あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。
 
1コリント15:58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

 エルサレム崩壊の日 - 守られた人々と滅んだ人々(エレミヤ39章)

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エレミヤ39章
詩篇91篇
詩篇146篇
 

 主にある夫婦は、同じ御言葉の養いを受ける兄弟姉妹のよう、しかし性的魅力も失わずに(雅歌書8:1-7)

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いよいよ最後の章で、この夫婦はすでに諸々のところを通って、成熟してきている。
危ない時期もあった。花嫁が花婿を締め出して厳しく戒められる場面もあったが、戒められて、自分は本当に花婿を主人とするものであり、自分は、ただあの方のものです、と言うようになった。
そして7章では、「あの方は私のもの」と言う言葉も、もはや抜け去って、ただ100%、「私はあの方のものです」と言う、花嫁としては究極的に進化した形態に至った。
1節について新改訳Son 8:1  ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても、だれも私をさげすまないでしょうに。口語訳Son 8:1  どうか、あなたは、わが母の乳ぶさを吸ったわが兄弟のようになってください。わたしがそとであなたに会うとき、あなたに口づけしても、だれもわたしをいやしめないでしょう。
新改訳は、仮定法のように訳されているが、ヘブライ語は「ああ」「ください(ナタン)」という言葉で始まるので、口語訳のように、願望として訳すほうが、より真意に近いと言える。
主にあって同じ乳を吸った、兄弟のようになってほしい、と願っている。夫婦は成熟していくと、恋人同士、というよりも、どんどん親密な兄弟、姉妹のようになっていく。
Son 8:2  私はあなたを導き、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませてあげましょう。
夫を、自分が育った家に連れてきて、そこで、自分が母から仕入れた女性として培ったたしなみを用いて、自分の家の最も良い産物やご馳走、ぶどう酒を飲ませてあげたい、自分の全てを捧げたいと、いう心になっている。
 
口語訳8:3 どうか、彼の左の手がわたしの頭の下にあり、右の手がわたしを抱いてくれるように。
NKJV8:3 His left hand is under my head,And his right hand embraces me.
3節は、2章6節と同じ表現だが、NKJVは、既に男性は、左腕を腕枕にして、右手で覆ってくれている。
つまり、親密さとしては兄妹のように成熟していっても、いつまでもこの、男性の心臓近くで抱かれているという「ホームポジション」を望んでいるのだろう。
4節
8:4 エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起す(עוּר ウールwake)ことも、さます(עוּר ウールwake)こともしないように。
この文句も、かつて2章7節と、3章5節で出てきたが、この8:4は、過去のそれらとは違うところがある。
日本語の聖書で読むと、違いがわからないが、ヘブライ語は、8:4は疑問形に変わっている。
「なぜあなたは、ゆり起こしたり、愛をかき立てたり、しなければならないのですか?」と。
かつての2回は、普通に揺り動かしたりたりかき立てたりしないでください、と言った、しかしここのでは、ゆり動かしたりかきたてたりしないことが、当たり前の前提となっている。
自分は今まで、愛をかき立てた経験をした事もあった。けれどもそれは、しない方がいい、という事は、もう経験済みだ、だから、エルサレムの若い娘たち、無理矢理、惚れた腫れたを、揺り動かしたりかき立てたりするものではありません、と。愛と言うものは、揺り動かしたりかき立てたりするものでないよ、ほわほわした、夢見心地をかき立てたりするものではないよ、そうしたら、かつての私みたいに失敗するよ、そのような思いは、自然に沸き起こって来るのに任せるものが一番ですよと。
これは主と私達との関係も同じである。
集会などで扇情的に感情を掻き立てたりするよりも、むしろ日常の、自然なふるまいの中で、主との交わりをし、もしそのような感情が自然に出てくるなら、自然に任せるのが、一番なのだ。
掻き立てられた状態が正常な状態、そうでないなら、なまぬるい愛だ、などと吹き込まれてしまうと、平静な時に「果たしてこれでいいのだろうか」「自分は熱くないのでは」などと、焦ったり心配する事になってしまう。世の中の男女は、惚れた腫れたが高じると、相手が自分の願望と何か違うことがあると、ねたんだり、所有物化したり、偶像化してしまったりといった、間違いを起こしてしまう。
しかし、天の御国における男女のカップルとは、1節にあるとおり、兄弟姉妹のような姿が、望ましい。
主にある姉妹姉妹が、同じ御言葉の乳を吸って、2節にある通り、同じ家、同じ教会の庭から、同じ食物、同じぶどう酒をいただき、同じイエス様の血潮に預かっているのが、良い関係である。このような夫婦は「ガラスのような美しくも脆い」というものではなく、絆が強い。
 
さらに5節では、男女がますます親密に、一体になっていく様がある。
Son 8:5a  自分の愛する者によりかかって、荒野から上って来る者はだれですか。
ここは、花婿でも花嫁でもなく、第三者の質問である。
彼女は、自分の愛する者に寄りかかって、荒野から登ってきている。
3章の6節でも、「没薬、乳香など、商人のもろもろの香料をもって、かおりを放ち、煙の柱のように、荒野から上って来るものは何か。」とあった。その3章では、新郎が結婚式の時にお迎えに来るみこしに乗ってきて、その時は互いに1人であったが、8:5では、もはや彼女は一人ではない。自分の愛する方によりかかって、愛する男性といつも行動を共にしている。
Son 8:5b りんごの木の下で、わたしはあなたを呼びさました(עוּר ウールwake)。あなたの母上は、かしこで、あなたのために産みの苦しみをなし、あなたの産んだ者が、かしこで産みの苦しみをした。
ここで、りんごの木の下であなたの目をさまさせたとある。
2章3節では、私は愛する方をりんごの木に見立てて、私はその、りんごの木の下に座りたい、その陰に覆われたい、と切に望んだ。その味は私に甘い、と。
ところが8章では、彼女の念願のりんごの木に覆われ、すなわち、男性にくるまれている状態で、その愛する方の目を覚まさせた、とある。
そこは、「あなたの母が産みの苦しみをしたところ」と言っている。
どういう状況か。
彼女は、りんごの木の下、すなわち、男性に覆われた状況。
「呼び覚ました」のヘブライ語はעוּר ウール、立つ、興奮する、の、ピエル態(Piel):強意(断じて*する)・使役(*させる)。
彼をふるい立たせたそこは、母が、産みの苦しみをする所。そこは、いのちを生み出す場所。
まとめると、女性は男性に男性に覆われている中、彼女は男性を奮い立たせた。女性が、いのちを生み出す場所の中で。
章を追うごとに、雅歌書の夫婦の関係がどんどん成熟していく。世の中では、結婚した日が1番てっぺんで、それからは、坂道を下っていくが如く、のような言い方があるが、神の国においては、その逆である。
男女関係を、何か、夢見心地の、ほわほわしたものとしている限りでは、成熟はない。むしろ、落ち着きがなく、ジェットコースターのように上行繰り返すものである。
夢の世界の王子様のように、わたしが寝ている間に帰ってきて起こしたりはしない、怒ったり厳しい事を言ったりしない、といった幻想を求めていたら、いつまでも成長はしない。
しかし彼女は、ある時、兄弟姉妹のように、戒められ、それを受け入れた時、それがきっかけで、さらに関係が深まった。主にある兄弟姉妹としての関係であるなら、互いが、同じ御言葉の乳を味わい、同じ教会という庭から取れる、同じ霊の食物をいただいて、同じ命を共有する。
世の中の夫婦でも、同じ趣味、同じ価値観を持っている夫婦は絆が強いが、最も強い絆は、同じ御言葉、同じ霊の食物、同じイエスの血潮というぶどう酒、それを共有することこそ、最強の結びの帯となる。
6節と7節。
Son 8:6 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
Son 8:7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。
男女の愛は激しい時、洪水も流すことができないほど強い時は、あるかもしれない。しかし、完全ではない。時間が経って、色々飽きてしまうと、ちょっとしたさざ波が来るだけで、崩れてしまう。
しかし主の愛は何よりも強い。
私を封印のように、愛する方の心臓の上につけてください。それは、全て女性にとっての願いであろう。仕事場でも、どこでも、あなたの心に、いつでも私が刻まれた状態でありますように、と。
世の中の男性は、それが完璧にはできないかもしれない。
しかし、私たちのまことの夫であるイエス・キリストは、それをまさに、して下さった。
イエス様は私たちを、手のひらに刻み付けた。
イザヤ49章14節から16節。
49:14 しかしシオンは言った、「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。
49:15 「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
49:16 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。
イエス様は、たとえ女が子を忘れようとも、決して忘れない。なぜなら今、イエス様の手のひらには、私達が刻まれているから。そのふところに、脇のところにも、私達が刻みつけられている。
世の女性が、自分の赤ちゃんを忘れようとも、私は決してあなたを忘れない、なぜなら私には、あなたが刻まれているからだ、とイエス様は言っている。
そのイエス様の愛は、洪水も、すなわち、死のさばきの水も、押し流すことができない。
Rom 8:38  わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、Rom 8:39  高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
人が愛を得ようとして財産をことごとくなげうっても、さげすみしか得られない。愛とは、そういうものである。
魔術師シモンは、手をおけばだれでも聖霊が与えられる力を、ペテロに金を出して買おうとしたが(使徒8:9-24)、しかし神の子としての特権は、お金でやり取りするものではなく、愛の関係に入るかどうかの問題である。
彼のように、力だけがほしい、その力を行使して人々をびっくりさせたい、といった、不純な動機からは、ただのさげすみしか得られないのだ。
世の中の宗教では、お金を払えばより高度のお祓いとか、守りとか、繁盛を買った気になれるが、神の国はお金のやり取りではなく、愛をささげるかどうかである。
確かに天において私たちはキリストと顔と顔と交えて愛の関係に入るようになるが、この地上での歩は、その成熟に至るための訓練である。ある人は、どんどんイエスとの愛の関係が深まっていくが、別の人は、全然イエス様と親密になっていけない、と言う違いは、確かに起こる。
イエス様が好きな性質を、身につける、イエス様が嫌いなことを排除する事は、唯一、この地上でのみできる。この地上は、キリストのために、キリストの好む者となるために、整えるための時間が与えられた、唯一の場所である。
イエス様との関係は、御言葉によって構築していくもので、ドラマのような男女のほわほわした感覚で進めていく関係ではない。自分の気分いかんで、ほわほわとして、今日は気分が乗っているから愛して、今日は愛する気が無くて、と言ったような「気分」による関係ではない。
御言葉から本当に私は戒められた、御言葉がこうだから、こうしなさいというのがわかった、といったように、ホワホワの有る無しにかかわらず、意思決定によって御言葉の基準に歩む道を選び続ける歩み方なのだ。
自分の気分いかんによって愛したり朝なかったり、しなさいと言われることを守り行ったり行ったり、と言うことでは、家様との愛の関係は成り立たない。これは夫婦関係もそうであるし、イエス様との関係もそうだ。
夫との約束、イエス様との約束、すなわち「契約」だから、私はこれを選ぶ、と言う歩みをし続けていくなら、ほんとにこの雅歌書のように成熟した、麗しい関係となっていく。
未熟な男女は、ほわほわした気持ちが湧き起こったら、好きになって、ご馳走作ったり、言うことを聞いたり、でもふわふわした気持ちがなくなったら、気持ちも冷めて、ご馳走も作らない、ということになりがちである。
エロースの愛は、エゴイスティックな愛である。
愛する人を独占するために、なめらかな言葉を話したり、可愛らしい仕草をしたり、好きなものを作ったりして、チャンスを得ようとするが、それは自分の利益のためにしてるのであって、家庭を建て上げて行こうという、責任を伴った愛が、無い。エロースの愛は、そういった「責任」を、面倒くさいという。だから、性関係を持っても、子供ができたら、堕ろそう、という事になる。
イエス様との愛の関係は、たとえ気分が良くても悪くても、主がするなと言う事はしない、しなさいと言う事は、気分が悪くてもする、それによって正しい関係が成り立つ。
そしてイエス様の側の愛は、決して変わらない、完璧な愛。
主にあるまことの夫婦関係は、御言葉の乳に養われ、イエス様の血潮で清められ、御言葉にこうあるから、守り服従していこう、という、決して揺るがされない土台に建てられた関係である。
それをするなら、どんどん親密になり、大水が来ても、決して流されることがなくなっていく。
岩なるキリストの愛にしっかりと根ざし、雅歌の夫婦のように、相手との愛の関係も、キリストとの愛の関係も、さらに熱く、深く、強くなっていく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

主からの悪い力が送られてしまう人のパターン(2テサロニケ2:11-12)

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2テサロニケ2:11 そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、
2:12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。
 
主が悪い霊を送られる、という事例が聖書に三つある。
ギデオンの子アビメレク、サウル王、イスラエル最悪の王・アハブである。
アハブは主から送られた偽りを言う霊によって戦いに出させ、それによって、彼は滅んだ。(1列王記22章)
主から悪い霊が送られる者に共通する事は、神から遣わされた預言者を何度も退け、自分の好む事を言ってくれる人を周りにはべらし、それにうつつを抜かして、健全な御言葉に耳を傾けない事だ。

 エルサレムの問題 - エレミヤ書の9つのGolden Key 8/9(エレミヤ39:1)

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ユダの王ゼデキヤの第九年、その第十の月に、バビロンの王ネブカデレザルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻めて来て、これを包囲した。
 
新約に至る全ての年月までの、神の御旨が成就には、必ず、エルサレムの問題がある。
主が来られるその日まで、世界情勢の中心的な存在である。
イエス様が来るまで私達はエルサレムを注視しなくてはならない。
 
名前由来
エルサレム:イェル シャラィム、すなわち、平和の土台という意味。
イェル:「ヤラー」置かれる、基礎。
シャライム:「シャレム」平和。
 
歴史
エルサレムは、元々はカナンの都市国家だった。ダビデが取って、イスラエルの首都になった。
そしてダビデ以降、今日のこのエレミヤ書の箇所に至るまで、ずっとダビデ王家の町としてあったが、この時、崩壊する事になった。
 
その後、世界歴史の主役は、バビロン、メディア、ペルシア、ギリシア、ローマの支配と転々とし、ユダヤ人はそこに住む事は出来ても土地の権利はずっと得ていない状態だった。
そしてイエス様の時代、エルサレムにイエス様が入ってくるが、この都はイエス様を拒否し、AD70年、ディアスポラになった。
マタイ23
23:37 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
23:38 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。
23:39 わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。
 
エルサレムは、イエス様がエルサレムに入城された日に、「主の御名によってきたる者に、祝福あれ」と言って迎えたが、しかしそれは一日しか続かなかった。
その1週間後には、「十字架につけろ」となってしまった。
エルサレムは、キリストが主人であり、王である。花嫁が花婿なしでは機能不全であるように、キリストなきエルサレムは、機能不全状態で、キリストを排除してしまったエルサレムは、その後、ユダヤ戦争によってばらばらに散らされ、ディアスポラになってしまう。イエス様は、石の上に石が積まれるものがない、とまでに言った。
彼らは、散らされながらでも礼拝を捧げ、いのちのように大切にしていたトーラーを持って行った。モーセ五書を持って出ていった。トラーの模造品をもって。
 
それ以降、イスラエルは1900年代までは散らばっていたが、第一次世界大戦以降、イスラエル帰還運動が起きた。
そして1948年5月14日、独立宣言がなされ、今のイスラエルになった。
しかし元々住んでいたパレスチナ人は追い出された。相変わらず所有権を主張している。
 
エルサレムの平和がすなわち世界の平和である。詩篇122篇。
私達の祈りは、アブラハムの子孫に対する祈り、エルサレムに対する祈りの二つが欠かせない。
アブラハムへの祝福は祝福につながり、エルサレムの平和は私達の平和につながるから。
イエス様もエルサレムのために泣いた。
シオニズムは、関係ない。エルサレムに対して関心を持つべき?関係ない。聖書が命じ、イエス様が愛されたから。
 
現在の情勢
エルサレム、2018年5月から変わった。2018/5/14、アメリカはトランプ大統領の指示により、在イスラエル大使館をエルサレムに移転した。
また、色々の国の大使館もエルサレムへの移転を検討しているので、アラブはうかつに攻められなくなった。
イスラエルがこれを歓迎する一方で、パレスチナ人は激怒している。
 
エルサレムはやがてどうなるのか
エルサレムは、再び神の民が集まって来る。 エレミヤ31章。
しかしその後、サタンの勢力である敵に囲まれるが、しかし天から火が降ってきて、その者達を主は滅ぼす。黙示録20章7-10
 
その後、新しい天と地が開け、聖なる都、新しいエルサレムが、静かな海のほとりに建っている。この新しい聖なる都は、夫のために飾られた花嫁のように整えられ、神の御元から下ってくる。(黙21:1-2)
 
この都は、誰のために、花嫁のように飾られたのか?
それは、一度、この都の外で殺されたが、よみがえり、いつまでも生きておられる真の王、イエスキリストのためである。この新しいエルサレムこそ、キリストの花嫁、すなわち教会(エペソ6:22-24)であり、教会とは建物ではなく私達、すなわち、キリストを信じ、世から神の元へ「召しだされた者たち」である。
彼らは、小羊の血で洗った白い衣を着、しゅろの葉を手に持って、まことの花婿キリストを迎え、永遠の王とする。それゆえ主は彼らの上におおう陰となり、彼らが永遠に苦しむ事も、悲しむ事も、機能不全に陥ることもなく、永遠にキリストを王として生きるのである。

 

主の言葉と絡められた人生そのものこそ、主への何よりの捧げ物(雅歌書7章)

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7:1 女王のような娘よ、あなたの足は、くつの中にあって、なんと麗しいことであろう。あなたのももは、まろやかで、玉のごとく、名人の手のわざのようだ。
7:2 あなたのほぞは、混ぜたぶどう酒を欠くことのない丸い杯のごとく、あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた山盛りの麦のようだ。
7:3 あなたの両乳ぶさは、かもしかの二子である二匹の子じかのようだ。
7:4 あなたの首は象牙のやぐらのごとく、あなたの目は、バテラビムの門のほとりにある/ヘシボンの池のごとく、あなたの鼻は、ダマスコを見おろす/レバノンのやぐらのようだ。
 
雅歌書は章を進めていくごとに、夫婦の関係がより成熟し、深まりを見せていく様がある。夫婦は、互いが共に過ごす時間を積み重ね、生活を共にしてゆく過程で、いろいろな経験をし、失敗もする事はあるが、それを共に乗り越えてゆくうちに、関係はどんどん成熟したものになっていく。
出会った当初は、みずみずしく初々しい喜びで満ちていたが、その関係はまだまだ浅く、軽いものだった。
乙女の、現実感のないふわふわした、夢見心地的な嬉しさはあったが、それは裏打ちが無い夢のように、こわれやすいものである。
彼女はある日、夜遅く帰ってきた夫を身勝手に締め出してしまい、その現実感のない心の持ち方が打ち叩かれ、高慢が剥ぎ取られ、現実的に夫を愛するべき段階へと、引き出されたのが、5章だった。
こうして彼女は、現実的に愛し、共に生きるべき夫に対する、正しい立ち位置を知って、そこに立った時、彼女の幸いは、もはや、夢のようなふわふわした現実感のないものではなく、彼女の、夫を喜ばせる性質という、裏打ちのある、実体がともなう幸いへと変化していく。
若い女性は、不安になりやすい。自分は果たして相手に喜ばれる存在なのだろうか、いつか嫌われてしまうのでは、と。しかし、相手の男性の喜びとなる術を知り、それを実践して行くうちに、自分がそれを「行っている」という事に裏打ちされた安定感を得て行く。
 
7章は、花婿が花嫁を褒めそやす言葉で始まるが、その内容は、今度は、彼女の足元から上に向かって体の各部分を褒めそやしている。おそらく夫の前にいる彼女は、何も覆っているものがない状態なのだろう。
成熟した夫婦になればなるほど、恥ずかしいものが何一つない関係になっていく。エデンの園において、また何も罪を犯していなかった時、互いが裸であっても何の恥ずかしい思いをしなかったように。
イエス様との関係も、そうである。イエス様の素晴らしさは、彼と「おつきあい」して行く内に、徐々に徐々に、あらわにされていく。
もし私達の側が、イエス様を軽んじていたり罪を犯していたりする間は、イエス様の事が全然あらわにされていない。もし私たちの側が、イエス様に対し覆い隠しているところがあるとするなら、親密さが全然ない状況である。
しかし私たちの側が、イエス様にあらゆる面で明け渡していくと、その明け渡して行った所をイエス様が取扱い、そしてイエス様にあって清められたその所を、褒めてくださるのだ。しかしその所を隠しているなら、そこは癒やされずそのままである。
 
彼女はなぜ、この男性の心を、ここまでつかんだのか。
それは前回学んだように、彼女の謙虚さと従順さである。それがあるなら、互いの関係がますます成熟していく。
 
7:6 愛する者よ、快活なおとめよ、あなたはなんと美しく愛すべき者であろう。
7:7 あなたはなつめやしの木のように威厳があり、あなたの乳ぶさはそのふさのようだ。
7:8 わたしは言う、「このなつめやしの木にのぼり、その枝に取りつこう。どうか、あなたの乳ぶさが、ぶどうのふさのごとく、あなたの息のにおいがりんごのごとく、
7:9 あなたの口づけが、なめらかに流れ下る良きぶどう酒のごとく、くちびると歯の上をすべるように」と。
 
 
9節に、あなたの言葉は良いぶどう酒のようだとある。
何が夫の虜にしたか。それは、言葉である。口の言葉が私を酔わせ甘くさせるのだ。
なぜ愛が慰めに満ちているのか?
愛とは、肉体によってではなく、言葉によって、表現するものである。
花嫁が花婿を酔わせるものは、外見的なボディーや美しさより、むしろ言葉であり、内面的なものこそ、男性を甘くさせ、虜にするものなのだ。
 
美人は3日で飽きると言う言葉がある。しかし、外見的な美しさ、肉体的な美しさよりも、むしろ、言葉が素晴らしい女性にこそ、男性はとりこになって行くのだ。
夫婦の間の言葉が麗しく、唇から流れている言葉が、ぶどう酒のようになめらかで甘いものであるなら、2人はますます1つになって行きたい、という気持ちが深まっていく。
ぶどう酒とは、よく熟成されたものである。だから口から発せられる言葉が、御言葉がその人の心や行いとよく混ざり合って、熟成された上で、醸し出されて行くならば、それは、よく熟成された良い葡萄酒のような言葉である。
ぶどう酒は、正しく管理する必要がある飲み物である。暑すぎず、寒すぎず、一定の温度に保たれたところで貯蔵しなければ、酸いぶどう酒になってしまう。もし、1日でも直射日光のあたる暑いところに置きつづけてしまうと、その1日で、だめになってしまう。
同様に夫婦も、せっかくそれまで一定の温度を保っていたとしても、一度カッとなって熱くなって暑苦しい言葉を浴びせると、その事が傷になってしまいがちなものである。
 
この花婿の言葉に対して、10節以降、花嫁の側の応答がある。
7:10 わたしはわが愛する人のもの、彼はわたしを恋い慕う。
 
10節で、私は私の愛する方のものと言っている。
2:16の段階では、真っ先に「あの方は私のもの」と言っていたが、それが6章以降では、私は私の愛する方のもの、自分の全ては、ご主人様のものです、と言うまでに成熟していた。
1コリント7:4 妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である。
自分が発する言葉も、自分の体も、全て、自分の愛する方の慰めになる、という事であるなら、私自身、この心も、体も、唇の言葉も、全てが、愛する方の喜びになって行くよう努めていこう、という気持ちになっていくのだ。
 
11節には、
7:11 さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。
7:12 私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。
彼女は積極的に、自分の愛する方を誘っている。夜、香のする場所で共に過ごし、翌朝日一緒に働いて、一緒に花が咲いたかどうか、成熟したかどうかを見にいきましょう、と。
夫婦には、共に過ごし合って、愛を確かめあう特別な場所があるように、イエス様との関係においても、そのような特別な関係を持つ場所や時間を、それぞれが持つなら、イエス様との関係はますます麗しいものとなっていく。
朝早い時間や、1人になった時など、御言葉を開いて、イエス様と特別な関係を持つ時間を持つのだ。
 
そして13節では、
私の門のそばには、新しいのも古いのも、すべて最上のものである。これが全部あなたのために蓄えてものですよと、何もかもあなたのために、新しいものも古いものは蓄えたと言っている。自分の、身も心も、全てが愛する旦那さんへのプレゼントですよ、愛するあなたに、最上のものがいただけるように、蓄えました、と。
これは確かに、新婦の、新郎に対する愛の告白ではあるが、これは、私たちの、イエス様に対する愛の告白となるべきである。
 
マタイ13章52節
13:52 そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。
 
私達が、愛する花婿のために蓄えるものは、旧約と新約の御言葉であり、すなわち、新旧約からテフィリンして、あの方のために御言葉をたくわえていくのである。
 
そうして蓄えた御言葉は、私達の人生の軌跡となっていく。
私たちがかつてのあの時この時に開いた御言葉、人生の若い時、年老いた時、それぞれの時々において、信仰を混ぜ合わせて来た御言葉が、人生に織り込まれ、それがイエス様への喜びとなる。
 
御言葉をしっかり自分の心に頭に絡め、ただ主のために蓄えて、新しいもの古いものをすぐに取り出せる状態であるならば、それが、イエス様の喜びとなることができるのだ。
 
7:8 私は言った。「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。
7:9 あなたのことばは、良いぶどう酒のようだ。私の愛に対して、なめらかに流れる。眠っている者のくちびるを流れる。」
 
私たち自身が、愛する夫であるキリストに対して、果樹園、園となり、そこに主をお招きして、新しいものでも、古いものでも、どうぞ取ってください、と言えるような私たちとなるべきである。
 
新郎が、愛する花嫁の、首に抱きつきたい、乳房に手を伸ばしたい、と思うのと同じように、イエス様も、私達が蓄えたあの言葉この言葉を、とって、抱きつきたい、手をのばしたいとなっていくように、私達自身も、身も心もイエス様の喜びとなるために、御言葉を自分の人生に、練り込んで行くべきである。
イエス様との関係において、あるいは代の夫婦関係においてこのような幸いな関係を実受けていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!アーメン。

夫をとりこにする妻の姿勢:「わたしは、わたしの愛する方のもの」(雅歌書6章)

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雅歌6:1 女のうちの最も美しい者よ、あなたの愛する者はどこへ行ったか。あなたの愛する者はどこへおもむいたか。わたしたちはあなたと一緒にたずねよう。
 
雅歌書は、男女が愛し合い、互いに呼びかけあう形で進められていく。
愛し合う男女が結婚し、夫婦の生活を営み、夫は外に仕事をし、妻が家を守る生活が始まった。
そしてある時、旦那さんが夜遅く帰ってきて、夜露に濡れ、妻に開けてくれ、と言うのに、妻は、私はもう足を洗ってしまったと言って旦那さんを外に締め出してしまったのが、前の章であった。
結局彼女は最後、旦那さんのために戸を開けたのだが、旦那さんは一言、厳しい言葉を言って去ってしまい、彼女は旦那さんを探しに行くのだが、夜回りに見つかり、打たれて、はぎとられてしまった。
そうして彼女はひとつ成長し、夫の素晴らしさをさらに深く知り、特に、その唇からの言葉を慕い求めるようになった。
それでイスラエルの娘たちに、あなたの愛する人はどんなお方ですかと聞かれるまでになり、彼女が夫をほめそやすと、彼女たちも、自分たちもあなたと一緒にさがしましょう、と言った。
 
そこで2節。
雅歌6:2 わが愛する者は園の中で、群れを飼い、またゆりの花を取るために自分の園に下り、かんばしい花の床へ行きました。
 
彼女は、夫がどういう人で、どこでどういう仕事をしているのかを知らせた。
さらに3節で、とても素晴らしい告白をしている。
 
雅歌6:3 わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのものです。彼はゆりの花の中で、その群れを飼っています。
 
妻たちは、自分の夫について、誇りを持って言うことができるだろうか。
わたしは誰々の女です、自分は私の愛する方のものです、自分の主人は、これこれの仕事をしています、と、誇りを持って言えるだろうか?
 
これはイエス様と私たちの関係を現している。
私たちはキリストの花嫁、キリストのものである。
イエス様はどういう仕事をしているのか。
雅歌書の中で、主人は、百合の花を育て、熟したときに集めておられる。
そして、百合の花の麗しい香りの間で、羊たちを養い育てている。
私たちも、イエス様の羊たちであり、彼によって養われている者たちである。
 
この女性は、懲らしめを受けてから、その関係がより成熟した。
 
6章3節と2章16節とは、似ているが、少し違う。
 
雅歌2:16 私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。
 
6章3節と、2章16節は、どう違うだろうか。
順番が違う。
 
2章16節では、「私」が主人公で、あの方は私のもの、というように、「わたし」主体だった。
しかし6章3節では、私は、私の愛する方のもの、となって、愛する方が主体となっている。
結婚前は、あの素敵な男性は私のもの、とロマンスを抱いて、頭の中がお花畑状態で、あの素敵な男性は、あたかも自分の素敵な付属品のような感じだった。
素敵な言葉で褒めそやしてくれる、自分の高級オプション品のような。
しかしそれが高慢につながった。
夜遅く寝ているときに、あの方が戸を叩いているのを、煩わしいな、私のオプションのくせに、のような感じの高慢が彼女に現れ、それで彼女は懲らしめを受けた。
それで、その高慢が取り除かれ、よりいっそう正当な関係になり、わたしは主人のもの、私は、愛する方のものだ、という考えに変わった。
 
聖書の立場では、夫は妻の頭であるから、妻は夫に従いなさい、と、エペソ5章に書いてある。
彼女は、懲らしめによって、正当な関係へ、夫が自分の頭だ、と言う関係に戻ったのだ。
彼女がその立場に立った結果、夫の、妻に対する見方が、がらっと変わってくる。
 
6章4節から10節までが、夫の側の、妻を褒めそやす言葉なのだが、その褒める内容は、以前よりももっと深くなっている。
 
4節
6:4 わが愛する者よ、あなたは美しいことテルザのごとく、麗しいことエルサレムのごとく、恐るべきこと旗を立てた軍勢のようだ。
6:5 あなたの目はわたしを恐れさせるゆえ、わたしからそむけてください。あなたの髪はギレアデの山を下る/やぎの群れのようだ。
6:6 あなたの歯は洗い場から上ってきた/雌羊の群れのようだ。みな二子を産んで、一匹も子のないものはない。
6:7 あなたのほおは顔おおいのうしろにあって、ざくろの片われのようだ。
6:8 王妃は六十人、そばめは八十人、また数しれぬおとめがいる。
6:9 わがはと、わが全き者はただひとり、彼女は母のひとり子、彼女を産んだ者の最愛の者だ。おとめたちは彼女を見て、さいわいな者ととなえ、王妃たち、そばめたちもまた、彼女を見て、ほめた。
6:10 「このしののめのように見え、月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか」。
 
彼は、この女性の目が恐ろしい、なぜなら私を惹きつけるから、私を虜にしてしまうから、と言っている。
以前は単に、彼女の目は鳩のようだ、と言っていた。
しかし彼女が、わたしは私の愛する方のものです、と言って夫に従う成熟した妻となった時、男性にとってはおそろしいほど虜になってしまう女性となる。
そして夫が、そのような心で妻を養う時、妻はますます夫のとりことなって行く。
 
8節を見ると王妃は六十人、そばめは八十人、おとめたちは数知れない、と書いてあり、もうすでにこの時、ソロモンの女性はたくさんいたのだが、その中でも私の愛する鳩はただひとりだ、と褒めそやしている。
 
エステルも、たくさんいる妻や妾の間で、特別に彼女が王の寵愛を受けたのは、エステルが何より主人の好みとなり、主人の気分を害さず、主人の後について従順に歩むたしなみがあったからだ。
女性が、わたしはあなたのものです、と言って、その瞳でじっと見つめられると、夫はティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしく、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいと感じるのだ。
 
エステルが、王妃の衣装を着て、命をかけて王の前に出て行った、そのエステルの目は、どれほどアハシュエロス王の目に美しく、愛らしく、そして、恐ろしく見えただろ。
そしてどれほど、彼女のために何かしてやりたいという心を起こさせただろう。
それで王は、エステルに、王国の半分でもやろうと言ったのだ。
 
夫が、愛する妻に対する見方も変わり、褒めそやし方も変わった結果、妻は、ますます幸いになっていく。
11節12節に花嫁の応答が書いてある。
 
6:11 わたしは谷の花を見、ぶどうが芽ざしたか、ざくろの花が咲いたかを見ようと、くるみの園へ下っていった。
6:12 わたしの知らないうちに、わたしの思いは、わたしを車の中のわが君のかたわらにおらせた。
 
彼女は、夫がしている仕事のところに、見に行くようになった。
なお12節は、KJVでは、私の魂は、あたかも、高貴な方の車に乗せているような心地でした(My soul had made me As the chariots of my noble people.The Beloved and His Friends)、である。
 
夫に対し、私はあなたのものです、あなたが主人です、あなたが主体です、と言う時に、夫の妻を見る目は変わり、ますますこの女性を愛するようになり、その結果、この女性は、夫の職場にいる間も、あたかも高貴な人々と共に高級車に乗せられているような心地になっていた。
そして人々は、13節の言葉を言う。
 
6:13 帰れ、帰れ、シュラムの女よ、帰れ、帰れ、わたしたちはあなたを見たいものだ。あなたがたはどうしてマハナイムの踊りを見るように/シュラムの女を見たいのか。
 
人々はぜひシュラムの女を見たいと願った。
女性は、どうして私のことが見たいの?あたかも「2つの陣営の舞(原文:マハナイムの舞)」を見たい、と言うかのように?
 
マハナイムと言えば、ヤコブがエサウを騙して、故郷から逃げて、20年間ラパンのところで過ごした後、故郷へ帰る途上で、マハナイム言うところを通ったのだが、そこでは、地上に自分たちの陣営があり、ほかに、天の軍勢がそこにあるのを見た。
天の軍勢が共にいる、と言うことで、2つの陣営と言う名前がついた。
 
ヤコブがこのマハナイムを通過したすぐ後、ペヌエルの神との格闘があり、そして兄エサウとの20年来の確執が和解され、命を救われる、と言う経験をした。
 
だからマハナイムな、和解の象徴のような所だろう。
彼女は、以前は、自分主体で夢見る乙女のように、夫を何か、自分の飾りの1つであるかのような見方であったのを辞め、夫を主体とし、自分を低くした結果、和解し、より素晴らしい夫婦関係と発展していった。
雅歌書は確かに、夫婦関係、男女関係の秘訣の書ではあるが、男女の愛の書にとどまることなく、私たちとキリストとの関係を表している書である。
 
私たちもイエス様のことを、何か願い事を言えばすぐに叶えてくれるオプション品のような、そういう便利な道具として見ていなかっただろうか。
自分の都合いかんで、イエス様が戸を叩いているのに、彼を締め出してしまっていないだろうか。
自分主体である限りは、冷たい言葉を浴びせられたり、打ち叩かれたり、剥ぎ取られてしまったり、と言う目に遭ってしまう。
しかし、主体が自分からイエス様へと移り、私はイエス様のもの、イエス様がわたしの主人です、と言う関係へと心底入る時、イエス様の私に対する見方や、扱い方は、変わってくる。
 
彼女が、それまで、自分の家にひきこもっていたのが、夫の働いている場所へついて行ったように、私たちも、自分からイエス様の働いておられるところへと出て行き、その主の働きに参加するのだ。
そして、愛する方に仕え、愛する方と一緒に働いていくうちに、以前の、ただ守られちやほやされていた時よりも、より深い喜び、やりがいを味わうことができるようになっていく。
 
彼女は、高貴なお方の車にいつの間にか乗せられていた心地がしたように、私たちもイエス様を主人とするうちに、何か高級車に乗せられ、大いなる方のもてなしを受けているかのような感覚へと陥っていく。
 
以前のような、自分の気分如何でイエスを締め出すようなことがないように、イエス様付属品であるかのような考え方を捨て、いつもイエスを先んじ、そしてますますイエス様との交わりが深く、甘く、うるわしくなり、高貴な方の車に乗せられ、さらに素晴らしい所へと連れて行かれる私たちでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
 

 

必ず現れる不法の人と、その裁き(2テサロニケ2:5-10)

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2テサロニケ2:5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
2Th 2:6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
2Th 2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
 
黙示録20:1 また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
Rev 20:2 彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、
Rev 20:3 底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
 
黙示録20:7 しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
Rev 20:8 地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
Rev 20:9 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
Rev 20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
 
2テサロニケ2:8 その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
 
黙示録19:20 すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。
Rev 19:21 残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。
 
2テサロニケ2:9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
 
黙示録13:1 (12:18) (そして、彼は海ベの砂の上に立った。) また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。
Rev 13:2 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。
 
2テサロニケ2:10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
 
黙示録13:3 その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、
Rev 13:4 そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。
Rev 13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。
Rev 13:6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。
Rev 13:7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
Rev 13:8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
 
ヨハネ
Joh 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
Joh 3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
Joh 3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
Joh 3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
Joh 3:21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 

イスラエルが滅ぼされた時代 - どっちつかずの王の時代(エレミヤ38章)

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エレミヤ38:1 さて、マタンの子シェファテヤと、パシュフルの子ゲダルヤと、シェレムヤの子ユカルと、マルキヤの子パシュフルは、すべての民にエレミヤが次のように告げていることばを聞いた。
Jer 38:2 「主はこう仰せられる。『この町にとどまる者は、剣とききんと疫病で死ぬが、カルデヤ人のところに出て行く者は生きる。』そのいのちは彼の分捕り物として彼のものになり、彼は生きる。』
Jer 38:3 主はこう仰せられる。『この町は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」
Jer 38:4 そこで、首長たちは王に言った。「どうぞ、あの男を殺してください。彼はこのように、こんなことばをみなに語り、この町に残っている戦士や、民全体の士気をくじいているからです。あの男は、この民のために平安を求めず、かえってわざわいを求めているからです。」
Jer 38:5 するとゼデキヤ王は言った。「今、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。」
Jer 38:6 そこで彼らはエレミヤを捕え、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。彼らはエレミヤを綱で降ろしたが、穴の中には水がなくて泥があったので、エレミヤは泥の中に沈んだ。
Jer 38:7 王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクは、エレミヤが穴に入れられたこと、また王がベニヤミンの門にすわっていることを聞いた。
Jer 38:8 そこでエベデ・メレクは、王宮から出て行き、王に告げて言った。
Jer 38:9 「王さま。あの人たちが預言者エレミヤにしたことは、みな悪いことばかりです。彼らはあの方を穴に投げ込みました。もう町にパンはありませんので、あの方は、下で、飢え死にするでしょう。」
Jer 38:10 すると、王は、クシュ人エベデ・メレクに命じて言った。「あなたはここから三十人を連れて行き、預言者エレミヤを、まだ死なないうちに、その穴から引き上げなさい。」
Jer 38:11 エベデ・メレクは人々を率いて、王宮の宝物倉の下に行き、そこから着ふるした着物やぼろ切れを取り、それらを綱で穴の中のエレミヤのところに降ろした。
Jer 38:12 クシュ人エベデ・メレクはエレミヤに、「さあ、ふる着やぼろ切れをあなたのわきの下にはさんで、綱を当てなさい。」と言ったので、エレミヤがそのとおりにすると、
Jer 38:13 彼らはエレミヤを綱で穴から引き上げた。こうして、エレミヤは監視の庭にすわっていた。
Jer 38:14 ゼデキヤ王は人をやって、預言者エレミヤを自分のところ、主の宮の第三の入口に召し寄せた。王がエレミヤに、「私はあなたに一言尋ねる。私に何事も隠してはならない。」と言うと、
Jer 38:15 エレミヤはゼデキヤに言った。「もし私があなたに告げれば、あなたは必ず、私を殺すではありませんか。私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞きません。」
Jer 38:16 そこで、ゼデキヤ王は、ひそかにエレミヤに誓って言った。「私たちのこのいのちを造られた主は生きておられる。私は決してあなたを殺さない。また、あなたのいのちをねらうあの人々の手に、あなたを渡すことも絶対にしない。」
Jer 38:17 するとエレミヤはゼデキヤに言った。「イスラエルの神、万軍の神、主は、こう仰せられる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる。
Jer 38:18 あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この町はカルデヤ人の手に渡され、彼らはこれを火で焼き、あなたも彼らの手からのがれることができない。』」
Jer 38:19 しかし、ゼデキヤ王はエレミヤに言った。「私は、カルデヤ人に投降したユダヤ人たちを恐れる。カルデヤ人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするかもしれない。」
Jer 38:20 エレミヤは言った。「彼らはあなたを渡しません。どうぞ、主の声、私があなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたのいのちは助かるのです。
Jer 38:21 しかし、もしあなたが降伏するのを拒むなら、これが、主の私に示されたみことばです。
Jer 38:22 『見よ。ユダの王の家に残された女たちはみな、バビロンの王の首長たちのところに引き出される。聞け。彼女らは言う。・・あなたの親友たちが、あなたをそそのかし、あなたに勝った。彼らはあなたの足を泥の中に沈ませ、背を向けてしまった。
Jer 38:23 あなたの妻たちや、子どもたちはみな、カルデヤ人のところに引き出され、あなたも彼らの手からのがれることができずに、バビロンの王の手に捕えられ、この町も火で焼かれる。』」
Jer 38:24 ゼデキヤはエレミヤに言った。「だれにも、これらのことを知らせてはならない。そうすれば、あなたは殺されることはない。
Jer 38:25 もし、あの首長たちが、私があなたと話したことを聞いて、あなたのところに行き、あなたに『さあ、何を王と話したのか、教えてくれ。私たちに隠すな。あなたを殺しはしない。王はあなたに何を話したのだ。』と言っても、
Jer 38:26 あなたは彼らに、『私をヨナタンの家に返してそこで私が死ぬことがないようにしてくださいと、王の前に嘆願していた。』と言いなさい。」
Jer 38:27 首長たちがみなエレミヤのところに来て、彼に尋ねたとき、彼は、王が命じたことばのとおりに、彼らに告げたので、彼らは黙ってしまった。あのことはだれにも聞かれなかったからである。
Jer 38:28 エレミヤは、エルサレムが攻め取られる日まで、監視の庭にとどまっていた。彼はエルサレムが攻め取られたときも、そこにいた。
 
マルコ15:7 たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢にはいっていた。
Mar 15:8 それで、群衆は進んで行って、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。
Mar 15:9 そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか。」と言った。
Mar 15:10 ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。
Mar 15:11 しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。
Mar 15:12 そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか。」と言った。
Mar 15:13 すると彼らはまたも「十字架につけろ。」と叫んだ。
Mar 15:14 だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪いことをしたというのか。」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫んだ。
Mar 15:15 それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
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