メッセージ - pastorさんのエントリ

朝明けの祈り(詩篇5篇)
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聖歌隊の指揮者によって笛にあわせてうたわせたダビデの歌
5:1 主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、み心をとめてください。
5:2 わが王、わが神よ、わたしの叫びの声をお聞きください。わたしはあなたに祈っています。
5:3 主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。わたしは朝ごとにあなたのために/いけにえを備えて待ち望みます。

詩篇5篇は、朝明けの祈り(Dawn Prayer)と言われている。
夜番をする羊飼いにとって、夜明けの時は、待ち遠しいものである。
元々羊飼いだったダビデはは、その時から夜明け前に御前で祈る習慣を持っていたのだろう。

3節の「いけにえを備えて(アーラフ)」は、「準備する」の意味、「待ち望みます(ツァーファー)」は「前方に向く」「じっと見つめる」の意味である。
すなわちダビデは、一日の一番最初の時を主に捧げるために自分を整え、主をじっと待ち望んだのだ。
彼はこの時、彼を憎み、悪をたくらむ者によって、脅かされていた。

5:4 あなたは悪しき事を喜ばれる神ではない。悪人はあなたのもとに身を寄せることはできない。
5:5 高ぶる者はあなたの目の前に立つことはできない。あなたはすべて悪を行う者を憎まれる。

悪を行う者は、聖徒の集いに、そして神の御前に、立つ事ができない。
しかし主の民は、いつも御前を歩むようにと主から命じられている。

創世記17:1 アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、/「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。

「主と共に歩む」事、これこそ、御前において全き者である。それは何も、罪を犯さない状態を続ける事ではない。
たとえ肉の情欲に飲まれ、まさに罪を犯しそうな瞬間でも、あるいは、犯してしまっている真っ最中であったとしても、心を主へと向け、神に喜ばれない罪を犯さざるを得ない自分を悲しみ、御前に憐れみを請い求める人こそ「主と共に歩む人」である。詩篇51篇は、ダビデがまさに罪を犯した時でも主と共に歩んだ結果生まれた詩篇と言える。
神と共なる歩みを積み上げれば積み上げるほどに、主はその人をますますきよい霊によってきよめ、喜んで仕える霊を送って、その人を支えて下さる。

逆に、いかに悪い事を「していない」状態が続いたとしても、あるいは、どんなに素晴らしい善行をしているとしても、心を主に向けない人は「主と共に歩まない人」、すなわち、義とはされない人である。

5:6 あなたは偽りを言う者を滅ぼされる。主は血を流す者と、人をだます者を忌みきらわれる。
5:7 しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみ(ヘセド)によって、あなたの家に入り、聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます。

ダビデが宮に出て礼拝を捧げられるのは、まさに、神の豊かなヘセド(恵み、憐れみ、慈悲)によってである。
なぜなら、ダビデ自身も、人間である事には変わりなく、すなわち、罪人である事には変わりはないからだ。

5:8 主よ、わたしのあだのゆえに、あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください。
5:9 彼らの口には真実がなく、彼らの心には滅びがあり、そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言うのです。
5:10 神よ、どうか彼らにその罪を負わせ、そのはかりごとによって、みずから倒れさせ、その多くのとがのゆえに彼らを追いだしてください。彼らはあなたにそむいたからです。

ダビデはこの時、彼に悪をたくらむ人によって脅かされている状態で、その彼らに「その罪を負わせ、そのはかりごとによって、みずから倒れさせ、その多くのとがのゆえに彼らを追いだしてください」と祈っている。
それは決して高潔な祈りとは言えないかもしれないが、ダビデはいつもこのように、心の内を御前に正直に注ぎだしたからこそ、ダビデは敵を前に、実際的には高潔に振る舞う事が出来たのだ。

ダビデのいのちを追い回してきたサウルに対しても、善を悪で返したナバルに対しても、また、ダビデがアブシャロムの前から逃げていた時、盛んに呪いの言葉を吐きながら石を投げてきたシムイに対しても、ダビデは彼らを殺そうとする部下達を制し、彼らのいのちを助けてやった。

ダビデは、怒りをそのまま人にぶつけるのではなく、その気持ちをそのまま神へと持って行き、全てを神の正しいさばきを委ねたのだ。
もし相手が、ダビデがかけた「憐れみ」にふさわしいなら、主が憐れんで下さるが、しかし最終的には、サウルも、ナバルも、アブシャロムも、主ご自身が正しく裁かれた。

5:11 しかし、すべてあなたに寄り頼む者を喜ばせ、とこしえに喜び呼ばわらせてください。また、み名を愛する者があなたによって/喜びを得るように、彼らをお守りください。
5:12 主よ、あなたは正しい者を祝福し、盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます。

主の喜びに預かれる者は、主と共に歩む者、主により頼む者、主の御名を愛する者である。
ダビデは最後、全て主に寄り頼む者を喜ばせて下さい、正しい者を祝福して下さい、と祈っている。

しかし元来、正しい者も、義人も、ひとりもいない。

ローマ3:10 次のように書いてある、/「義人はいない、ひとりもいない。
 3:11 悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。
 3:12 すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、/ひとりもいない。
 3:13 彼らののどは、開いた墓であり、/彼らは、その舌で人を欺き、/彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
 3:14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
 3:15 彼らの足は、血を流すのに速く、
 3:16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
 3:17 そして、彼らは平和の道を知らない。
 3:18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。

人間の中には、義人はひとりもいない。
ダビデは、彼に災いをもたらす者を「そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言う」と言ったが、実は、ダビデ自身もそうだったのだ。
それでは、ダビデはどうして自分を「正しい」と言うことができるのか。ロマ書には、次のようにも書いてある。

ローマ10:8 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
 10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
 10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
 10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

いかに人の口が「開いた墓」のようであったとしても、御言葉を口にして、信仰告白を口から出すなら、その口の告白によって救われるのだ。
信仰を混ぜ込んだ御言葉のテフィリンによって、人はどんどん清められていく。

ダビデは主により頼むと告白し、朝の明ける前から主と交わっているので、彼はあらゆる願いを祈る事ができたのだ。
私達も、イエス・キリストにあって常に神と交わりを持っているなら、いつでも大胆に御前に進み出て、時期を得た助けを願い出る事ができるのだ。

ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

私達が結びつけるべき赤い印(ヨシュア記2:17-21)
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ラハブが不従順な者達と一緒に滅びる事を免れた理由は、信仰の故だった。
彼女は、イスラエルの神・主の救いを得る事の素晴らしさを、そのうわさを聞いていた時からあこがれ、いざ、その神の民が二人、彼女の前に現れた時、死を賭すリスクを犯す事さえものともせず二人をかくまい、イスラエルの神こそ天において地において絶対なる神であられる事を告白し、自分と自分の家族を救ってくれるよう、憐れみを求めた。
普通なら、憐れみを乞い求めるべきは、周囲は敵だけのこの二人の斥候の側に見える。
しかし彼女は、真理の面から見て、自分こそが、神に対し、そして神の民に対して憐れみを求めるべき者だ、という認識があったのだ。
それは、信仰によってである。

ヨシュア記2:17 ふたりの人は彼女に言った、「あなたがわれわれに誓わせたこの誓いについて、われわれは罪を犯しません。
2:18 われわれがこの地に討ち入る時、わたしたちをつりおろした窓に、この赤い糸のひもを結びつけ、またあなたの父母、兄弟、およびあなたの父の家族をみなあなたの家に集めなさい。
2:19 ひとりでも家の戸口から外へ出て、血を流されることがあれば、その責めはその人自身のこうべに帰すでしょう。われわれに罪はありません。しかしあなたの家の中にいる人に手をかけて血を流すことがあれば、その責めはわれわれのこうべに帰すでしょう。
2:20 またあなたが、われわれのこのことを他に漏らすならば、あなたがわれわれに誓わせた誓いについては、われわれに罪はありません」。
2:21 ラハブは言った、「あなたがたの仰せのとおりにいたしましょう」。こうして彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は赤いひもを窓に結んだ。

彼女は、赤い印を早速結びつけた。
これは古今東西、現代の私達にも、等しく、救いのしるしである。

出エジプト記12:3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。
12:4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。
12:5 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。
12:6 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、
12:7 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。
12:8 そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。
・・・
12:12 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。
12:13 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
12:14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。

赤い印を結ぶのは、裁きの日の前日でも、滅びのラッパが吹き鳴らされる直前でも別にいいのだが、彼女は、彼らから教えられてすぐに結んだ。
「あなたの仰せのとおりに」。これこそ、苦もなく救われる人に特徴的な、主に対してよく発する言葉である。

大いなる裁きの日、赤い印を結んだ状態で、かつ、その中にいる事。それが救いの条件である。
赤い印を結びつけるか、それをしないか。それは昔も今も、救われるか、滅ぼされるかの分かれ道なのだ。

今や、キリストの血が、私達にとって救いのしるしである。

ヘブル9:14 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。

イエス様の血は、私達の邪悪な良心をきよめ、死んだ行いを取り除き、生ける神に仕える者としてくださる。
イスラエルの民は小羊の血潮を扉のかもいと門柱に塗り、ラハブは窓に赤いひもを結びつけたが、私達はどうやったら、この赤い印を結びつける事ができるのか。

ヘブル11:30 信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。
11:31 信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。

私達が、イエス様が十字架で流された血潮を、自分に結びつけるコツ、それは、信仰である。
信仰(ビヒド)の元来の意味は、to band(結びつける)、to unite(連合する、ユニットを組む)。

4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、「信仰によって結びつけ」られなかったからである。
4:3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。

あの時イエス様が流された血潮こそ、自分を清め、救いへと導くものだ、という言葉と意味を自分自身へと混ぜ合わせ(結びつけ)、自分はイエス様の血潮とユニットを組んだ者だとみなしつつ、日々歩んでいくのである。
それこそ、ラハブが赤いひもを窓に結んだのと同じ行動である。
ラハブは、すぐにした。同じように私達も、すぐにでも、いつでも、結び続けるべきである。
信じたなら、安息に入るのだ。

ヘブル3:12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
3:15 それについて、こう言われている、/「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
3:16 すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。
3:17 また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。
3:18 また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。
3:19 こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
ヘブル4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
4:3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。

一度、十字架の血潮を自分自身へと結びつけたなら、それをほどいてはならない。
救いの条件は、大いなる裁きの日、赤い印を結んだ状態で、かつ、その中にいる事だった。
そこから迷い出る事なく、しっかり毎日結んだ状態をキープし、安息をキープし続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

「キリスト」の役割と、血潮の効力(ヘブル9:11-28)
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安らかな眠りにつくために(詩篇4篇)
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詩篇4篇は、ユダヤでは夜、寝る前に捧げるテピラー(תפלה:祈り)である。
これもまたダビデが作者であり、おそらく、3篇の祈りを捧げた後に平安が与えられ、その時に祈った祈りだと思われる。

4:1 聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌 わたしの義を助け守られる神よ、わたしが呼ばわる時、お答えください。あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。

ダビデは少年の時も、青年の時も、壮年の時も、今までの人生で何度も主が助けて下さり、ゆとりを与えて下さった事を経験をして来ただろう。
まだ羊を飼っている少年で、王になるとは思ってもみなかった時からも、彼は、獅子や熊から守られた。彼が命の危険も顧みず、自分の羊を守ろうとする性質だったから、主は、彼を王として見出したのだ。

ダビデは、苦しみの時にゆとりが与えられた事を告白している。
きっと、3篇の状況が少し改善したか、あるいは改善しないままでありながらも、主からゆとりが与えられたのだろう。

4:2 人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。いつまでむなしい言葉を愛し、偽りを慕い求めるのか。〔セラ

人の子達、すなわち人間達は、ダビデの栄誉を辱めている。
なぜわざわざ「人の子達」という呼び方をしたのか。
それは、どんなに勇士でも、強者でも、知恵者であっても、ダビデが救いの根拠を置いている主の前には所詮、何者でもなく「人から生まれた者達」だという事だ。

彼らは、むなしい言葉を愛し、偽りを慕い求めている。
たぬきが人を化かして、枯葉をお金に見せて、化かされた人は、お金持ちになったと喜び沸き立つが、目が覚めてみるとそれはお金ではなく、枯葉だった、という話があるが、サタンのやり口も同じである。
価値あるものに見せかけて、掴ませ、それで滅びへと導くのだ。
むなしい言葉を愛し、偽りを慕い求める時、その者は実はむなしい道、滅びの道へ向かっているのだ。

そこでダビデは、この1節と2節の状況は、危機的な状況に「セラ」を宣言し、ムードチェンジする。
4節と5節は、2つの「セラ」にサンドイッチされており、キアズム構造上、ここがサンドイッチの中身部分、最も味わうべき中心部分である。

4:3 しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために「聖別(פָּלָהパーラー:区別、特別扱い)」されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。

主は、神を敬う人を、ご自分のために「聖別(פָּלָהパーラー:区別、特別扱い)」して下さる。
主から特別扱いされる民とは、何と幸いな事だろうか。
しかし、その特別扱いされるためには、それなりの条件がある。そしてそれは、シンプルである。

申命記26:16 きょう、あなたの神、主はこれらの定めと、おきてとを行うことをあなたに命じられる。それゆえ、あなたは心をつくし、精神をつくしてそれを守り行わなければならない。
 26:17 きょう、あなたは主をあなたの神とし、かつその道に歩み、定めと、戒めと、おきてとを守り、その声に聞き従うことを明言した。
 26:18 そして、主は先に約束されたように、きょう、あなたを自分の宝の民とされること、また、あなたがそのすべての命令を守るべきことを明言された。
 26:19 主は誉と良き名と栄えとをあなたに与えて、主の造られたすべての国民にまさるものとされるであろう。あなたは主が言われたように、あなたの神、主の聖なる民となるであろう」。

ここに、「主の宝の民」となる事と、また主から誉れと良き名と栄えとが与えられて、全ての国民に勝るものとされる、という素晴らしい約束がある。
まさに主からの特別扱いであるが、そうなるための条件が前後に挟まれている。
すなわち、主の御声に聞き従い、心をつくし、精神をつくして御言葉を守り行う事である。

シンプルに言えば、主は、主の御言葉を特別扱いする人をこそ、特別扱いされるのだ!

4:4 あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。〔セラ
4:5 義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい。

ダビデは、怒り狂ってダビデに反逆する者を諭す。
怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい、と。
むしろ、主に義のいけにえを捧げ、主により頼みなさい、と。

エペソ4:26 怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。
 4:27 また、悪魔に機会を与えてはいけない。

闇の時間に入る前に、しっかり心を整えておくべきである。
そうでないと、夜、床の上で怒りや憎しみ、恨みを思い巡らせながら悶え過ごす「眠れぬ夜」を過ごす事になってしまう。
平安に安らかな眠りに入れる人とは、7節のこころざしを持って祈る人で、その人が8節の安らかな眠りに入れるのだ。

4:6 多くの人は言う、「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。主よ、どうか、み顔の光を/わたしたちの上に照されるように」と。
4:7 あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びに/まさるものでした。

多くの人々は、求めている。誰が私に良い目を見させてくれるだろうか、と。しかし、私達が求めるべきは、主が、御顔の光を私達へと照らして下さる事。
それは、豊かに穀物やぶどう酒があり、お金がふんだんにある事をはるかに凌ぐ祝福である。

民数記 6:24 『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
 6:25 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
 6:26 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
 6:27 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」

主が大祭司にこの祝福で祈るようにと命じられた祈りには、モノやカネが豊かになるように、などという、異邦人がよく祈るような祈りは、一切無い。
この「主の御顔の光こそ、モノやお金が大量にあるより、はるかに勝る祝福だ」という感性を持っている人こそ、幸いな人である。

私達は日々、その幸いに、ときめいているだろうか。
主のことばによって心に平安が与えられ、その喜びが、穀物とぶどう酒の豊かな時の喜びにまさる、という感性を、失ってはいないだろうか。

ルカ24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

イエス様が御言葉を解き明かして下さる時、あらゆる危機が迫っている中でも決して奪われることのない喜びにときめくのである。
ときめきを忘れた夫婦にならないように、とはよく言われるが、私達は、ときめきを忘れないイエス様との関係、ときめきを忘れない御言葉との関係でありたい。

この、世の何者にもまさる御言葉からくる平安に満たされた人にこそ、安らかな眠りが与えられるのだ。

4:8 わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。

この何者にも奪われない平安がいつでも与えられ、安らかな眠りに就いている皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

罪をきよめる御霊の働き(ヘブル10:1-25)
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週報/メッセージ(説教)概要

 人は、たとえクリスチャンになったとしても、どうにも、罪を犯してしまう。それは、人の生まれつきの体(肉)には、罪のとげが刺さっていて、それはどんな努力や修行でも引っこ抜きようがないからだ。本日、この、人にはどうする事も出来ない罪に唯一対抗できる「聖霊の働き」と、それにあやかる術を身につけたい。

まずは、人の罪が清められる手順を知る必要がある。レビ記16章には大贖罪日の儀式の手順が記されていて、その全手順が成功すれば、その一年間の神との障壁は取り除かれ、神との交わりが保証される。
しかしこれは、根本的に罪を取り除く事は出来ず、むしろ、毎年捧げられる事によって、罪が思い起こされてしまう(ヘブル10:1-4)。結局律法は、来るべき真の事柄の影に過ぎず、人を完全にする事は出来ない。
そこで、書いてある。『キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、「からだ」を備えて下さった。』(5-7節) ここは詩篇40篇からの引用であるが、ヘブル書で「からだ」と書いてある所は、詩篇では「耳」と書いてある。
正常な耳を持っている人は、話を正常に聞き、理解できるが、正常な耳を持っていない人は、聞こえないか、聞こえても理解できない。それであさってな事をしてしまう。耳は人生をつくっていく上で、大事なのだ。
神はいけにえより、むしろ耳で聞いて従う事を、喜ばれる。聞き従う事は、牛や羊のいけにえよりも大事だ。
聖霊がひらいて下さる耳によればこそ、聖書は、今の「わたし」について記されている事を悟る(6-7節)。
聖書は、あの時代の人々に対してのみならず、今、読んでいる「私達」にこそ、語っているのだ。
『ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従って捧げられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。』(8-9節) 人間の大祭司が毎年、同じいけにえを捧げても、罪を除くことはできない(11節)。では現代の私達は、どうすれば良いか。
『ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである・・・彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。』(10,14節) イエス様は、ただ一度捧げられた事で、完結したのだ!それで私達は、何度もいけにえを捧げる必要は無くなったのだ。

『聖霊もまた、わたしたちに証をして、「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いの内に書きつけよう」』(16-17節) 
ここで聖霊が証している。新契約は、石の板にではなく、私達の心の板に直接、刻みつけられる、と(エレミヤ31章)。今、私達の心に刻みつけられるのは、キリスト・イエスによる「いのちの御霊の法則」である。
『なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放した』(ロマ8:2) 
この、心に刻まれた御霊の法則に従って歩んでいく時、律法の要求は全て全うされている。こうして、主イエスに罪赦され、御霊によって歩む者は、『「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出す事はしない」と述べている。』(17節) 御霊に従って歩んでいる者は、罪に定められる事は決して無いのだ!(ロマ8:1)

では私達は、悔い改めはもう必要ないのか?否。悔い改めは、聖霊が思い起こさせて下さる都度するべきである。心がそわそわしたり、何かが詰まっている感覚など、聖霊に示された範囲で罪を告白し、悔い改め、あるいは賠償するのだ。『隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされた事は長く我々と我々の子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。』(申命記29:29)
キリストがただ一度、完全なるいけにえとして捧げられ、もはや罪は思い出さない、と言っておられる以上、出所不明の悔い改めの乱発は、そもそも必要無く、大胆に恵みの御座に近づく事が出来るのだ。
イエス様が彼の肉体を裂いて下さった故、私達は主が開いて下さったその生ける道を通って、大胆にまことの聖所へ入る事が出来るのだ。邪悪な良心が清められ、からだも清い水で洗われた故に。(18-22節)
約束をして下さった方は忠実な方である。
だから私達は、この望みが決して動かされる事なく、しっかりと持ち続け、愛と善行とを励むよう互いに努め、また、互いに集まる事を止めたりせず、互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうして行く皆さんでありますように(23-25節)!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
御国の働きをするしもべの報い(詩篇2:6-9篇)
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「セラ」の名人ダビデ(詩篇3篇)
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詩篇3篇の表題は「ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌」である。
聖書で、詩篇の中の「表題」部分は、節として数えられない訳は多い。しかし元々、ユダヤ人の聖書の詩篇には、表題もそのまま記載されている。
章節に分けたり、節にも数えずに表題として分類したりするのは、異邦人的な分類なのだ。ユダヤ人は聖書を全て「そのまま」受け入れる。

3:1 主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、

詩篇3篇の最初の2節は、内容からして、暗くなる状況である。
何しろ、ダビデは、その子であるアブシャロムにクーデターを起こされ、彼に同調する敵対者が多く起こり、ダビデは王座から降りてエルサレムから逃げている状況だ。
ある者は、落ちぶれて都落ちして行くダビデにつきまとい、呪いの言葉をかけながら石を投げてついて来た。(2サムエル記16:5-14)

しかしダビデは、それを甘じて受け入れている。
なぜなら、アブシャロムの謀反も、ダビデの罪の結果であり、身から出た錆だからだ。
16:11 ダビデはまたアビシャイと自分のすべての家来とに言った、「わたしの身から出たわが子がわたしの命を求めている。今、このベニヤミンびととしてはなおさらだ。彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。
16:12 主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない」。

ダビデがこの時味わっている苦痛の大本は、ダビデ自身の罪だった。
彼がウリヤの妻に手を出し、身ごもらせ、彼女の夫であるウリヤをわざと激戦区に送って剣で死なせたために、彼には性的な呪い、すなわち「いのちの呪い」と、剣の呪いとに、つきまとわれてしまう事になる。(2サムエル記12:7-12)

しかし彼は自分の犯した罪ゆえに日夜涙を流して自分の犯した罪を悲しみ(詩篇6篇)、神に悔い改めの祈りを祈った。(詩篇51篇)
自分が犯した罪を認め、悔い改める人を、主は、赦して下さる。
確かに、主は赦して下さる。しかしながら、その本人が犯した罪の刈り取りは、しなくてはならない。
その刈り取りが、この度の災いなのである。ダビデはそれを、身に甘んじて受けた。

3:2 「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。〔セラ

この時の多くの人々の、ダビデに対する評価は、ダビデはもうだめだ、彼からは神の助けは去った、というものだった。
しかし、悔い改めたダビデは、この告白をした後、「セラ」を宣言する。

セラ(סֶלָה)。
それは、当時のオーケストラにおいて特定の指示をするサインで、詩篇には何度も出てくる言葉であり、以下の3つの意味がある。
1,Stop and Listen。止めて、聞きなさい
2,Change Tone。トーンを上げなさい、転調しなさい
3,Change the Mood。雰囲気を変えなさい

確かにダビデはこの時、絶望的状況で、多くの人々は彼に「救いが無い」と判断している。
しかしダビデはここに、セラを入れる。

心に渦巻く心配事やつぶやきはストップし、神の言葉に聞きなさい!
暗く低い声は、トーンを上げなさい!
ムードチェンジしなさい!
と。

彼はこの最初の「セラ」で、暗澹とした状況告白から、信仰告白へと転調する。

3:3 しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。

ダビデは雰囲気を変えた。
不利な状況を見つめて思い巡らす事を止め、主に心を向けた。今までダビデを何度も救って下さった、彼の主へと。
ダビデは、若かりし頃から何度でも、主こそわが盾、わがやぐら、と告白した。
その都度、主は彼を守ってくださった。

3:4 わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。〔セラ

ダビデは「聖なる山」から、と言っている。
彼はこの時、聖なる山、すなわち、神の箱がある礼拝する場から逃げて離れていく途中だった。
彼は信じていたのである。
自分は今、やむを得ず、聖なる山から離れて行く。
しかし主は、必ず自分をあの山に戻して下さり、そして再び、自分はあそこで礼拝ができるのだ、と。
『アビヤタルも上ってきた。見よ、ザドクおよび彼と共にいるすべてのレビびともまた、神の契約の箱をかいてきた。彼らは神の箱をおろして、民がことごとく町を出てしまうのを待った。そこで王はザドクに言った、「神の箱を町にかきもどすがよい。もしわたしが主の前に恵みを得るならば、主はわたしを連れ帰って、わたしにその箱とそのすまいとを見させてくださるであろう。』(2サムエル記15:24-25)

彼はいつでも礼拝を慕い求める人だった。
礼拝の場から、聖なる交わりから遠ざかっている時、私達もダビデのように告白すべきである。
彼は後に、見事エルサレムに戻り、礼拝を捧げ、再び王座についた。
ダビデは、信仰告白により、変わったのだ。

3:5 わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。
3:6 わたしを囲んで立ち構える/ちよろずの民をもわたしは恐れない。

4節の二回目のセラ以降、再びダビデの心に変化が起きている。
5節のふす、眠る、目を覚ます、これら3つの動詞は、いずれも完了形である。
完了形とはすなわち、「これはもう成った」という信仰告白であり、そして実際、彼はあの状況下であっても、安息して眠り、快く起きる事ができるようになったのだ。
彼は自分の心配から解放され、その後はむしろ、彼に敵対している彼の息子アブシャロムのほうを心配している。

この詩篇3篇は、ユダヤ人の中では、朝祈る祈りとされている。
こんな状況下でも、安息して眠り、平安の内に起き上がったダビデのようになりたいと、彼らは朝の祈りにしたのだろう。

ダビデはまさにムードチェンジのプロである。
彼のデビュー戦であるゴリヤテとの戦いでも、彼の信仰告白を境に、それまで40日も無割礼の者にいたぶられていたイスラエルの雰囲気を、がらりと変えてしまった。(1サムエル記17章)

ダビデは最後に、自身の願いを祈っている。

3:7 主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。

私達は何かと、自分の願いを先に祈りたいと思いがちだが、しかし私達もダビデにならい、まずムードチェンジを自分自身に命じるべきである。
暗いムードをそのままめぐらしてチェンジする事なく、ひたすら暗い願い事ばかりつらつら申し述べても、何も変わる事はない。
その「暗い思い巡らし」はストップし、ムードチェンジのために信仰告白をし、安息の実体を得る。それがまず先決なのだ。

3:8 救は主のものです。どうかあなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ

この8節の言葉は、さすがダビデ、偉大な王だ、と思える言葉である。

この時ダビデは王座を追われ、もう王ではない、王はアブシャロムだ、と人々から思われている時であるが、ダビデはこんな時に、民のため、執り成し祈っているのである。
この執り成しの相手には、当然、敵対して来る息子アブシャロムも入っている。
ダビデは、この圧倒的不利な情勢でも、彼の部下には、息子アブシャロムはやさしく扱うよう命じている。
ダビデは今までの戦いの経験から、主に告白し、平安が与えられたなら、こちらがどんなに不利に見える戦いでも、必ず勝つとわかっていたからだ。

自分を殺そうとする敵のため、そして自分を捨てた民のためにさえ、執り成し祈る。まさに王の中の王の性質である。
クーデターを起こしたアブシャロムのほうは、結局、ダビデの元に帰らぬ人となってしまった。

ダビデは最後、再びセラの言葉で詩篇3篇を閉じている。
祈って信仰告白した後は、世へと出て行って、実際にその働きをしなくてはならないからだ。
私達は祈りだけで一日を過ごすものではない。そんな事をしていたら、仕事が出来ない。
御言葉を宣言し、信仰を告白したなら、立って出て行き、神の国のわざを為して行かなくてはならない。
だからムードチェンジして、行きなさい、という事で、最後にセラを入れたのだろう。

私達も世においては、色々な戦いがある。ダビデほどではないにしても、敵に取り囲まれる事もある。
しかし、今まで諸々の事がお起きる都度、守って来られた主に心を向け、信仰告白する時、心は代わり、状況も変わっていく。
私達もダビデのように、ムードチェンジのプロとなり、信仰告白のプロとなり、そして敵のためにさえ執り成すものとなりたい。

御子であられるメシヤの詩篇(詩篇2篇)
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詩篇1篇は、幸いな人と、そうでない者の両方の道が示されたが、2篇も同じである。
この2篇は、王でありメシヤであられる御子キリストが預言されている。
作者は記されていないが、使徒4:25によるとダビデが作者である事が分かる。
すなわちダビデが、聖霊によってメシヤであられるキリストを見せられ、書いたものである。

2:1 なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。
2:2 地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う、
2:3 「われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう」と。

ここに「油そそがれた者」はヘブライ語ではמָשִׁיחַマーシーハ(メシア)、ギリシア語ではキリストである。
すなわち、メシヤ宣言節である。
しかしメシヤはなんと、国々や王達から相共に逆らわれる事が、予め記されている。
事実、ユダヤ人の指導者達やポンテオ・ピラト、ヘロデは、相共に集って油注がれたお方の「かせ」をこわし、「きずな」を解き捨てようと、油注がれたお方イエス・キリストに逆らい、彼を十字架につけた。

2:4 天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう。
2:5 そして主は憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる、
2:6 「わたしはわが王を聖なる山シオンに立てた」と。

父なる神は、人が共に集って油注がれたお方に逆らうのを、あざけられる。
そして彼らに恐れを臨ませ、メシア・イエス・キリストこそ王であると宣言される。

2:7 わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。

この7節は、イエス様がヨハネからバプテスマを受けられた時、父なる神が宣言された言葉である。

マルコ1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
 1:10 そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。
 1:11 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

この場面は、いわばイエス・キリストの「戴冠式」と言って良い。
この時、父・御子・聖霊が、共に意見一致し、御子キリストこそ、父なる神と聖霊が認証された「御子」であると宣言した。
まさに、次の御言葉のとおりである。

1ヨハネ5:7(永井訳) そは天に於て證をなし給ふ者は、父と言と聖靈と三つなればなり。また此等三つの者は一におはします。
5:8 また地に在りて證をなす者は、靈と水と血との三つなり。されど三つの者は一のためなり。
(ネストレ・アーラントを底本としている多くの聖書は、ここの父子聖霊の一致の記述が、除外されてしまっている。ステファヌス・テキストを底本とする永井訳や、テクストゥス・レセプトゥスを底本とするKJV、NKJVはそうではない。私はNKJV翻訳を監修したゲイリー・コーヘン博士の設立したコーエン・ユニバーシティで学び、また私を導いて下さった聖霊の促しもあるため、テクストゥス・レセプトゥス底本を支持する。)

その時、「天が裂けて(スキゾー)」とある。スキゾーは、イエス様が十字架上で息を引き取られる時、聖所と至聖所とを仕切る幕に対しても起きた。
至聖所、その立方体の空間は、地上において唯一、神の臨在がある「天国」だ。黙示録において示される天国は、縦横長さが1万2千スタディオンの立方体である。
父なる神が天を裂いて、イエス・キリストを通して、天国への道を開いて下さったのだ。

2:8 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を/嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。
2:9 おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを/打ち砕くであろう」と。

御子キリストは今、愛と憐れみ、赦しに富みたもう、優しいお方として現れている。(イザヤ42:1-5)
しかし、あくまで逆らう事を止めなかった者達に対しては、力強い裁き主として来られ、鉄の杖で彼らを粉々に砕かれる。(黙示録2:27、黙示録19:15)

2:10 それゆえ、もろもろの王よ、賢くあれ、地のつかさらよ、戒めをうけよ。
2:11 恐れをもって主に仕え、おののきをもって
2:12 その足に(原文に「足に」は無い)口づけせよ。さもないと主は怒って、あなたがたを道で滅ぼされるであろう、その憤りがすみやかに燃えるからである。すべて主に寄り頼む者はさいわいである。

幸いな人とは、恐れおののきつつ、御子キリストに「口づけ」する者である。
「口づけ」は、ヘブライ語でナシャク、口づけする他に(武器などを)装着する意味もある。
つまり御子キリストに口づけする人、御子キリストへと装着される人こそ、幸いな人である。

以降、「幸いな人」のスタンスに立つ者が受ける詩篇2篇の恵みを見ていきたい。

2:1 なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事を「たくらむ(הָגָהハガー)」のか。

幸いな人は、この逆を行く。
すなわち、むなしい事を「つぶやく(ハガー)」事を、しない。幸いな人はむしろ、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえ(トーラー)を口ずさむ(ハガー)。(詩篇1:2)

御子キリストに従う者は、しもべの姿を持つ。
その人は聖霊に導かれて志を立てられ、それに従い、御心のままに事を行って行く。

ピリピ2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
2:14 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。

災いな者、鉄の杖で粉々に砕かれる者とは、主に向かって立ち構え、共に主と油そそがれた者とに逆らって「われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう」と言う。
幸いな人は、その逆である。イエス様は言われた。

マタイ11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

幸いな人とは、喜んでイエス様のくびきを共にする人。
その人は、あらゆる重荷を負う労苦の中でも、安息を得、魂に休みが与えられる。

2:7 わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。

御子キリストは、全能の父なる神の御子として来られ、王として就任されたが、地上においての彼の生き様は、「しもべ」の有様であった。
イエス様はポンテオ・ピラトに対して言われた。

ヨハネ18:36 「わたしの国はこの世のものではない・・・事実、わたしの国はこの世のものではない」。

私達は、この地上での王となって好き放題にする事を求めるのではない。
キリストが歩まれたのに習い、本質においては父なる神の子であり、王でながら、しかし地上においては「しもべ」の姿で歩むべきなのだ。
だから使徒たちは祈る時、「しもべ」という言葉を多用したのだ。

使徒4:24 一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。
 4:25 あなたは、わたしたちの先祖、「あなたの僕ダビデ」の口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、/『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、/もろもろの民は、むなしいことを図り、
 4:26 地上の王たちは、立ちかまえ、/支配者たちは、党を組んで、/主とそのキリストとに逆らったのか』。
 4:27 まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた「聖なる僕」イエスに逆らい、
 4:28 み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。
 4:29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、「僕たち」に、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。
 4:30 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、「聖なる僕イエス」の名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。
 4:31 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。

しもべイエス様の姿にならい、しもべとして聖霊を求め、しるしと奇跡を求める時、聖霊に満たされ、しるしと奇跡をもって、キリストのわざを為す事を得られるのである。
さらに、しもべとして歩む人には、次の特権も与えられる。

2:8 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を/嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。
2:9 おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを/打ち砕くであろう」と。

世の中の王や権力者達は、自分の欲するままに支配し、権力を振るうが、私達はそうではない。
自分の欲するままにではなく、キリストのしもべに与えられる聖霊のおもむくままに、与えられる土地において、与えられる権威の座において支配し、悪魔サタンのわざを鉄の杖で粉々に砕き、病や悪霊を追い出すのである。

幸いな人とは、キリストに口づけし、しもべとなって、世にキリストの統治をもたらす者であり、災いな人とは、キリストのくびきを投げ捨て、自分の欲するままに生きようとする者である。

ルカによる福音書 講解説教メッセージ
自ら顧みの時を捨て去ってしまったユダヤの指導者たち(ルカ19:41-20:8)
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エレミヤ書 講解説教メッセージ
祭壇の角すなわち贖いの十字架さえも傷つける者(エレミヤ17:1-18)
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