メッセージ - pastorさんのエントリ

ハイルな(尊厳ある)男・ボアズの性質(ルツ記4:9-12)
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ルツ記4:9 ボアズは長老たちとすべての民に言った、「あなたがたは、きょう、わたしがエリメレクのすべての物およびキリオンとマロンのすべての物をナオミの手から買いとった事の証人です。
4:10 またわたしはマロンの妻であったモアブの女ルツをも買って、わたしの妻としました。これはあの死んだ者の名を起してその嗣業を伝え、死んだ者の名がその一族から、またその郷里の門から断絶しないようにするためです。きょうあなたがたは、その証人です」。

ヨハネ19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

ルツ記4:11 すると門にいたすべての民と長老たちは言った、「わたしたちは証人です。どうぞ、主があなたの家にはいる女を、イスラエルの家をたてたラケルとレアのふたりのようにされますよう。どうぞ、あなたがエフラタで富を得、ベツレヘムで名を揚げられますように。
4:12 どうぞ、主がこの若い女によってあなたに賜わる子供により、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレヅの家のようになりますように」。

マタイ16:24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。

イザヤ58:6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
58:7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
58:8 そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。
58:9 また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、
58:10 飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。
58:11 主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。
58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と/呼ぶようになる。

聖霊に息吹かれた初代教会の有様(使徒2:37-42)
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使徒2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
2:38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
2:39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
2:40 ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。
2:41 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。
2:42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

マルコ4:14 種まきは御言をまくのである。

1コリント5:6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

使徒4:23 ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って、祭司長たちや長老たちが言ったいっさいのことを報告した。
4:24 一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。
4:25 あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、/『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、/もろもろの民は、むなしいことを図り、
4:26 地上の王たちは、立ちかまえ、/支配者たちは、党を組んで、/主とそのキリストとに逆らったのか』。
4:27 まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、
4:28 み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。
4:29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。
4:30 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。
4:31 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。

エペソ6:17 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

神は崇高すぎて、苦しみもがく人間の願いをバーンと撥ね退けてしまうお方、か?(ヨブ記23章)
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前章において、エリファズは神の絶対性、全能性をとうとうと語り、神をなにか、無感覚・無感動な「冷たい神」であるかのように思わせられる言葉で言ったが、ヨブはこの章では、エリファズに反論しない。
むしろ、神はそういう「冷たさ」があるという神観を、彼もある程度持っており、その「冷たさ」に、どうにも我慢ならないので、なんとしても神と論じ合いたいと願っている。

23:1 そこでヨブは答えて言った、
23:2 「きょうもまた、わたしの「つぶやき(苦い祈り)」は激しく、/彼の手はわたしの嘆きにかかわらず、重い。

ヨブはエリファズの冷たい神観に共感したのか、この章では、苦々しい思いに満たされた状態である

23:3 どうか、彼を尋ねてどこで会えるかを知り、/そのみ座に至ることができるように。
23:4 わたしは彼の前にわたしの訴えをならべ、/口をきわめて論議するであろう。
23:5 わたしは、わたしに答えられるみ言葉を知り、/わたしに言われる所を悟ろう。
23:6 彼は大いなる力をもって、/わたしと争われるであろうか、/いな、かえってわたしを顧みられるであろう。
23:7 かしこでは正しい人は彼と言い争うことができる。そうすれば、わたしはわたしをさばく者から/永久に救われるであろう。

ヨブはここにおいて、神と論じあうなら、神は自分の正しさを見出してくれるだろう、という思い込みがあった。
その思い込みは後で粉々に砕かれるのだが、ここにおいてヨブは、とても重要な願いが起こされている。それは、「神と論じ合いたい」という願いだ。
神と論じ合う、すなわち、神と交わりたいという飢え渇きこそ、神の前において義とされて行くための重要な踏み出しである。

イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

私達の側に、義は一切無いが、唯一「義なるお方」である主と論じ合い、主と交わっていくうちに、人は、緋のような赤い罪も、白くされて行く事が可能なのだ。

23:8 見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。
23:9 左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない。

ヨブは、主と論じ合いたいと望んでいる。けれども、見いだせないでいる。
確かに、求めている探している段階は、何も見えずに辛いが、しかし求め続けているなら、やがて与えられる。
ヨブは主を求め続け、後にはついに、主と出会うことになる。

23:10 しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、/わたしは金のように出て来るであろう。
23:11 わたしの足は彼の歩みに堅く従った。わたしは彼の道を守って離れなかった。
23:12 わたしは彼のくちびるの命令にそむかず、/その口の言葉をわたしの胸にたくわえた。

ヨブは、もし主と論じ合うなら、神は彼を「金」のように見てくれるだろう、という思い込みがある。
彼は、自分はずっと主の道を守って離れなかった、その命令に背かず、御言葉を蓄えてきた、という自信がある事をここで告白しているからだ。
確かにヨブは、まわりと自分とを比べれば、自分のほうが遥かに正しいので、自分を、神の御前でも黄金のような自分として通用すると見たのかもしれない。
事実、神もサタンに、ヨブ以上の人物はいない、と言った。

しかし残念ながら、人は、人と比較して義となるのではなく、神の基準において義と認められなくては意味がなく、さらに残念な事に、すべて「人の義」は、神の御前においては「汚れた衣」に過ぎない。

イザヤ64:6 われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。

このイザヤ書の「汚れた衣」を直訳すると、(女の)月のもので汚れたもの、である。
人間がいくら頑張ったところで、人の義、私達の正しい行いとは、神の前ではそんなものでしかない。
そう、義人はいない、ひとりも、いないのだ。

預言者イザヤは、それを絶望して終わるのではなく、主に食らいついて行った。

イザヤ64:8 されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。
64:9 主よ、ひどくお怒りにならぬように、いつまでも不義をみこころにとめられぬように。どうぞ、われわれを顧みてください。われわれはみな、あなたの民です。

イザヤは主に申し上げた。
主よ、あなたは我々の父ですよね、そして我々は、あなたの民ですよね、と。
あなたは陶器師で、我々はあなたの御手の内で作られる粘土ですよね。そうであるからには、あなたは我々人間の弱さ、罪に傾く性質を、知っておいでになられます。
どうかそんな私達の様を知り、私達に憐れみをかけてください、と。

このように、主に食らいついていき、主と「論じ合う」事、主との交わりへ入って行く事こそ大事なのだが、ヨブは、神を「崇高すぎるお方」「言っても聞きはしないお方」だという認識で、無気力になってしまっている。
たとえ万一こんな自分の声が、神に届いたところで、神はそんな願いをバーンと撥ね退けてしまうのではないか、と。
それで、次のように告白する

ヨブ記23:13 しかし彼は変ることはない。だれが彼をひるがえすことができようか。彼はその心の欲するところを行われるのだ。
23:14 彼はわたしのために定めた事をなし遂げられる。そしてこのような事が多く彼の心にある。

結局、「みこころ」だけが成就するのだったら、祈っても、願っても、論じても無駄だ、こんなにひどい目に遭わされているのに、神は、何の答えもくださらない。
こんな目に遭っているのかという理由さえも教えてくれない、という思いで満たされている。

23:15 それゆえ、わたしは彼の前におののく。わたしは考えるとき、彼を恐れる。
23:16 神はわたしの心を弱くされた。全能者はわたしを恐れさせられた。
23:17 わたしは、やみによって閉じこめられ、/暗黒がわたしの顔をおおっている。

ヨブは、かなり弱気になっている。
19章の強気とは、打って変わって。

ヨブは、霊の中で、なんとなく悟っていたのだ。
自分の義は、結局、汚れた衣に過ぎない、と。
それではヨブは、なぜ、19章では強気になっていたのか。
それは、彼をあがなって下さるお方が生きておられる、と高らかに宣言したからだ。

結局、自分の義は、汚れた衣に過ぎない。しかし、私達を購って下さるお方を拠り所とするなら、私達は強いのである。
私達にとって、購って下さるお方、それは、私達の主、イエス・キリストである。
このお方に依り頼むなら、私達は強いのである。
全くもって義を持ちあわせていない私達が、義とされるには、私達を義として下さる主の元に行く他に無い。

自分の義は、月のもので汚れたものだ、とイザヤは言ったが、それでもイザヤは主に食らいついて行った。同じように、ペテロも主に自分の弱さを告白し、ただ「あなたがそんな弱いわたしをご存知です」、と、主にすがりに行った。

ヨハネ21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。

ペテロは、自分には主を完璧な愛で愛し尽くす愛が無い事を、イエス様の十字架と復活を通して思い知らされた。
しかし、ペテロのこの告白、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」という告白が、彼にとって転機となる。

ヨハネ21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。

ペテロはこれまで、自分の好む帯をしめ、自分の好む方へと、気ままに歩んでいた。
しかし、イエス様と交わり、関わっていくうちに、より優れた道を、主イエス様の中で見出して行った。

ペテロは後に、聖霊が与えられ、力強い大胆な主の働き人となり、そして最後には、イエス様の御名ゆえに、殉教して行く。
多くの人を、イエス・キリストにある永遠のいのちへと導きながら。
この出来事の後の彼の道は、彼の望む道ではなかった。
もっと優れた、神の国を拡大して行く道、栄光の道である。

ヨブは、自分の願いや思う事が聞き届けられないと思って、怒り、主の「みこころ」だけが成って、この圧倒的全能者を前に、自分は何を言っても無駄なのだ、と、無気力になった。

主は、聞いておられないのではない。
知っていないのではない。
私達の思い、願いを、十分に知り、そして知った上で、主が備えて下さる私達の最善・最良・最高の道へと歩ませるために、あえて、私達が願う道(罪と弱さに満ちた不完全な道)を、閉ざし、主が用意された最良の道に、取って代わらせようと、愛をもって導いておられるのだ。
それは、ヨブ記をわずか一節でまとめた、次の新約の言葉に現れている。

ヤコブ5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

結局、人は主を抜きにしては、何も分からないし、何もできない。
ただ、人を義にしてくださる事がおできになる主と、論じ合い、主に知っていただき、主と交わりながら生きていく他、ないのである。

主から用いられやすい人となるために(1コリント13章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 ここ数週間、聖霊について学ばされている。聖霊に満たされた人は、力を受け、イエス・キリストの強力な証人となり、働くべき場が、自分の生活ステージ周辺から、外へと大きく広がり、地の果てにまで至っていく。
今回、どのような人が、主から用いられやすく、働きの場が速やかに広がって行くのかを学びたい。

『また舌のようなものが炎のように分れて現れ、一人一人の上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、色々の「他国の言葉(ヘテロス・グロッサ:異なる舌)」で語り出した。』(使徒2:3-4) 
聖霊に満たされた人の最たる特徴は、「舌」が変わる事である。それまで人間同士で、肉欲に属する言葉で話していた舌が変わり、「神の国の大いなる事」を語りだすようになる(11節)。聖霊はイエス・キリストを栄光化する霊であり、聖霊に満たされた人の特徴は、神の国を拡大して行く事である。それとは反対の人、肉欲の中を生きる人や、悪魔サタンの特徴は、高慢、自己栄光化である。(イザヤ14:12-15)
そもそも、なぜ世界にはこんなにも多くの言語が存在するのか。元を辿って行けば、バベルの塔の事件に行き着く。バベルの王・ニムロデは、主の「前に(パニーム:敵対する)」「狩猟する者(ツァイード:追跡者)」であった(創世記10:9)。彼は人のいのちを追跡し、力で制圧してのし上がった最初の王である。彼がバベルの塔を建てた動機は、人を一つに束ね、名を上げ、神のように高くなる事だった(創世記11章)。
そこで神は「われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」(11:7)と、三位一体の神が彼らに敵対し、言語はバラバラになった。高慢・自己栄光化の実は、分裂・分散である。
対して、主に有用に用いられる「御霊の人」が結ぶ実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制である(ガラテヤ5:22-23)。これらの実を結んでいるかどうかで、有用な働き人かどうか分かる。
その中で最も優れた道は、愛である(第一コリント13章)。それは御霊のどんな賜物より遥かに優れている。
クリスチャンの中には、確かに「すごい」と思える人は、いる。霊的な、超自然的な力を持っている人が。
しかし、その「すごさ」を持っている事と、主に大いに用いられる器かどうかは、別の話である。賜物は無償で頂いた贈り物であって、本人自身が自慢できる事ではない。むしろ重要なのは、愛があるかどうかだ。
もし愛が無いなら、それらはやかましいどら、「うるさい(アララゾー)」シンバルである。(1コリント13:1)
アララゾーとは元々、「アララー!」と大声で叫ぶ鬨の声の擬音で、やかましく喚きちらす事の意味だ。
愛が無い人は、不寛容であり、不親切であり、よく妬む。高慢であり、自慢し、礼儀に反する事をし、自分の利益を求め、怒りに任せ、人のした悪を勘定し、不正を喜び、真理を喜ばない。いかに預言の言葉を語っても、あらゆる奥義や、あらゆる知識とに通じていたとしても、また、山を動かす程の完全な信仰を持っていたとしても、愛がないなら、それらはむしろやかましい、すぐにでも止めて欲しい騒音へと堕してしまう。

自分の言動に気をつけている人こそ、有名人になったら長続きする。同様に、寛容であろう、謙虚であろう、礼儀正しくあろう、と、努力し続ける人こそ、速やかに主に用いられる。言動に無頓着であるとするなら、すぐ人に、サタンに、責められてしまう口実を得させてしまい、活躍のステージから引き降ろされてしまう。
言動に気を配り続ける人こそ、主に用いられる事が長続きする。だから、よくよく気をつけるべきである。
ペテロはペンテコステ以前、くちびるが回りすぎて過ちを犯す人だった。変貌山においても、あの鶏が啼いた晩においても(マルコ9:6、14:29-72)。しかし聖霊の炎が留まった時、彼のくちびるは変えられた。
預言者イザヤも、そうだった。彼は主の栄光を見せられた時、特に「くちびるが汚れている」事で絶望した。
しかし彼のくちびるは祭壇の炭火によって清められ、そうして預言するに値する者となった。(イザヤ6章)

聖霊によって、くちびるが清められないなら、大いに用いられる事はない。祭司は、栄光と美を表す聖なる装束を着て、はじめて任職の油が注がれる(出エジプト記28章)。ペテロもかつてはくちびるが回り過ぎて過ちを犯してしまっていたが、聖なる炎によって清められたその日、彼の説教で3000人が救われた。
主はこの時代、くちびるがきよい人、用いられるべき器が、少ない、と、嘆いておられるのではなかろうか。
私達は「用いられますように」と祈る前に、人を傷つけたり、言ってはならない言葉を滑らせたりする口が、聖なる火によって清められるように、祈り求めるべきだ。そしてくちびるにおいても、行いにおいても、よく気をつけ、御霊の実である愛がしたたるような者となって、主から大いに用いられる皆さんでありますように!

エリファズによる三回目の弁論 - 顕わにされたヨブと友人達の貧しい神観(ヨブ記22章)
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20章は、エリファズによる三回目の、そして、最後の弁論である。
前章では、ヨブが、因果応報と悪因悪果の単純な押し着せばかりをする友人達に真っ向から反論して、現実では悪人が平然と栄えているではないかと指摘した。
そのため、それに真っ向から反対する形で答えるのだが、その答えの中に、エリファズの貧しい神観があらわにされる。

22:1 そこでテマンびとエリパズは答えて言った、
22:2 「人は神を益することができるであろうか。賢い人も、ただ自身を益するのみである。
22:3 あなたが正しくても、全能者になんの喜びがあろう。あなたが自分の道を全うしても、/彼になんの利益があろう。

エリファズは言う。
「全能者」の前に、いくらがんばったところで、何の益があるだろうか、と。

全能者(シャッダイ)という言葉がヨブ記には何度も出てくる。
神をあらわす言葉には、色々あるが、特にこの全能者(シャッダイ)という言葉は、ヨブ記の登場人物が非常に頻繁に用いている。
全能者(シャッダイ)という言葉は、旧約全体で48回用いられているが、そのうち、31回も、ヨブ記で使われている。
だから全能者(シャッダイ)という言葉は、ヨブ記における神観をあらわす特徴的な言葉であるといえる。
そして、その「全能」が強調されるあまり、人の側が何を努力しても無駄に感じるような雰囲気ある言葉だ。
もし神の「全能」な面だけを見続けて、それにひきかえての自分と比較するなら、無気力になってしまう言葉である。

エリファズは「人は神を益することができるであろうか。賢い人も、ただ自身を益するのみである。あなたが正しくても、全能者になんの喜びがあろう。あなたが自分の道を全うしても、/彼になんの利益があろう。」と言った。
実に、神と相対しようとする人を、無気力にさせる言葉である。

神は、愛である、と、聖書に書いてある。
親という存在は、子供に正しく完璧である事を求めるばかりだろうか。
完璧にできないなら、ただつっぱねるだけが親だろうか。
親は子供をかわいく思い、なんとか助けようと思うものだが、世の親子関係は、まことの父なる神と私達との、真の親子関係の、影にすぎない。

イエス様は、罪の泥沼でもがき苦しんている私達を、「かわいそう(スプランキニゾマイ:はらわたがちぎれる思い)」に見て下さる。
イエス様は、神を父と呼び、そして信じる私達を、神様との父子関係へと、招いて下さる。
イエス様は私達を友と呼び、十字架を通して兄弟姉妹の関係へと、さらには、雅歌書のように、甘い花婿と花嫁の関係へと導いて下さる。
それはひとえに、人が神と関わる事によって。神と、ともに歩む事によって成就して行く。

エリファズには、そして災いが起きる以前のヨブには、その神感がなく、ただ、シャッダイなる神の神感しか無かった。
だから、主の御名が無い彼らの議論を聞いていると、救いが無いので、どんどん心が渇いて行くのだ。
それは、因果応報・現世利益を求める世の宗教全般も同じであり、だから、ヨブ記を読むと、なにか世の宗教に似た雰囲気が流れているのだ。

ヨブ達の議論の中に、エホバなる主の御名は、ただ一度、ヨブの口から出ただけだったが、主「エホバ」の御名にこそ、救いがある。
主の御名「エホバ」はヘブライ語では「יהוה(ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘー)」である。
ヘブライ文字にはそれぞれ意味が込められているが、この4文字のそれぞれの意味は、まず「ユッド」は「手」が関係する文字であり、「ヘー」は「見よ」という意味があり、また「ヴァヴ」には「釘」の意味があり、すなわち、主の御名 ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘーは「手を見よ、釘を見よ」という意味があるのだ。
これは実に、十字架上で釘うたれるイエス様あらわしており、その御方を見よ!と語られている文字だ。
つまり、主エホバの御名が人に知らされた時以来、何百年、何千年も、主の御名が宣言される度に「あの手を見なさい、釘打たれたあの手を見なさい」と、語り続けて来たわけである。

エリファズは、全能者という神観のみで、人には崇高すぎて手がとどかないような、あるいは、無感情なお方という、不完全な神観を持っていた。
そして、前章において、ヨブが「悪人でも栄えている者がいるではないか」と反論した事を受け、やっぱりヨブは悪人を養護した、やっぱりヨブは隠れて悪の行いをしていたのか、と、勘違いしたのか、エリファズの想像上のヨブの悪行の数々を、具体的に並べ始める。

22:4 神はあなたが神を恐れることのゆえに、/あなたを責め、あなたをさばかれるであろうか。
22:5 あなたの悪は大きいではないか。あなたの罪は、はてしがない。
22:6 あなたはゆえなく兄弟のものを質にとり、/裸な者の着物をはぎ取り、
22:7 疲れた者に水を飲ませず、/飢えた者に食物を与えなかった。
22:8 力ある人は土地を得、/名ある人はそのうちに住んだ。
22:9 あなたは、やもめをむなしく去らせた。みなしごの腕は折られた。
22:10 それゆえ、わなはあなたをめぐり、/恐怖は、にわかにあなたを驚かす。
22:11 あなたの光は暗くされ、/あなたは見ることができない。大水はあなたをおおうであろう。
22:12 神は天に高くおられるではないか。見よ、いと高き星を。いかに高いことよ。

神はあまりに高くおられる。。。それがエリファズの神観だが、悪人はそれを逆用し、調子にのって悪を行う。
彼は、ヨブがそうだと決めつける。

22:13 それであなたは言う、『神は何を知っておられるか。彼は黒雲を通して、さばくことができるのか。
22:14 濃い雲が彼をおおい隠すと、/彼は見ることができない。彼は天の大空を歩まれるのだ』と。
22:15 あなたは悪しき人々が踏んだ/いにしえの道を守ろうとするのか。
22:16 彼らは時がこないうちに取り去られ、/その基は川のように押し流された。
22:17 彼らは神に言った、『われわれを離れてください』と、/また『全能者はわれわれに何をなしえようか』と。
22:18 しかし神は彼らの家を良い物で満たされた。ただし悪人の計りごとは/わたしのくみする所ではない。
22:19 正しい者はこれを見て喜び、/罪なき者は彼らをあざ笑って言う、
22:20 『まことにわれわれのあだは滅ぼされ、/その残した物は火で焼き滅ぼされた』と。

これら言葉の節々に、かつてヨブが言った事の言葉のいくつかが混じっている。
彼は言葉じりを捉えて、責めているようであるが、それは、(ヨブが)悪を捨てて、神に立ち返るように、という、次につづく言葉へつなげるためだ。

22:21 あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。
22:22 どうか、彼の口から教を受け、/その言葉をあなたの心におさめるように。
22:23 あなたがもし全能者に立ち返って、おのれを低くし、/あなたの天幕から不義を除き去り、
22:24 こがねをちりの中に置き、/オフルのこがねを谷川の石の中に置き、
22:25 全能者があなたのこがねとなり、/あなたの貴重なしろがねとなるならば、
22:26 その時、あなたは全能者を喜び、/神に向かって顔をあげることができる。
22:27 あなたが彼に祈るならば、彼はあなたに聞かれる。そしてあなたは自分の誓いを果す。
22:28 あなたが事をなそうと定めるならば、/あなたはその事を成就し、/あなたの道には光が輝く。
22:29 彼は高ぶる者を低くされるが、/へりくだる者を救われるからだ。
22:30 彼は罪のない者を救われる。あなたはその手の潔いことによって、/救われるであろう」。

確かに、それは間違いではない。
主に立ち返るなら、主は栄光を、富を、健康を返して下さる。
主に聞き従う人は、あらゆる面で祝福される。

しかし、そうした現世的な祝福が来るから、神に立ち返れ、と勧めるだけなら、それは、世のご利益宗教と何ら変わる所がない。
確かに信仰の初心者に対しては、それで良いかもしれないが、何年も信仰生活を続けた人が、ずっとそこに留まっているとするなら、何ら信仰が成長していなかった事になってしまう。

もしも、富が与えられるから神を信じなさい、と言う信仰だけだったとするなら、すぐさまサタンにやられてしまう。
そもそものヨブ記の始まりにおいて、サタンがヨブを攻める口実が、まさにそうだった。
それなら、世的な祝福それが取り上げられたなら、神を呪いながら捨て去る以外に無い。

ヨブ記1:9 サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
 1:10 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。
 1:11 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

サタンさえ誘惑してくる。
ルカ4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。

なぜヨブ記が記されたのか。
それは、全ての信仰者達を、そのような「貧しい神観」から、脱却させるためではないだろうか。

神は、単に崇高な高いだけのお方ではない。
近くにいまし、私達を知っておられるお方である。

神は、単に全能者であられるばかりではない。
愛なるお方である。

そして神は、無感情・無関係なお方では、決してない。
神は、愛の関係を求めておられるお方であり、そして私達が神と関係する事によって、義とし、ますます神に近い者へと造り変えて下さるお方である。

ヨブは、以前は、神に何か物申しても無駄だ、たちまちにその全能なる御腕で、こんな私の訴えはいとも簡単にへし折られてしまうのだ、という神観だった。(9章)
しかし神は、ヨブに災いの中を敢えて通らせ、そして、友人達の主の御名なき因果応報・ご利益宗教に、カラカラに渇きを覚え、その末に彼は、神と論じ合いたいという思いが起こされた。(13:3)
さらに彼は、神と人との間に立って下さるお方、それも、彼の保証となり、彼の弁護者となって下さるお方を、求めるに至った。(19章)
そしてヨブ記の最後、彼は、神に関する知識を深め、神との深い交わりによる祝福にあずかる事となって行く。

イザヤ書において、主は「互いに論じよう」と言っておられる。
それによって、緋のような罪が白く、紅のような赤い罪が羊の毛のようにされていくのだ。

結局、人にとって、創造主と一緒になって密接に関わる事こそ、最も大事なのだ。
それがたとえ、喧嘩腰であったとしても。

神は、因果応報・ご利益宗教の、無感覚・無感動・無関係の、マシンのような神ではない。
私達のところに降りて来てくださり、相撲を取ってでも関わる神であり、熱烈に愛し、もし別の神に浮気するなら激情に駆られて妬む神である。
雅歌書で表現されているように、花婿が花嫁を愛し慕い求めるような、甘い愛をもって慰めてくださる神である。
キリストは私達を救うために、天を押し曲げて降りて来てくださり、人となり、十字架の上で苦しみを受けるパッションの神である。
そして、罪人の一人が悔い改めるなら、天で大宴会を起こすほどの神なのだ。
この神との関わり、それこそ、人が求めるべき事である。

友人達の論議の土俵へと降りていくヨブ(ヨブ記21章)
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ツォファルに対するヨブの答えが21章であるが、今までの様相とは若干異なる。
今までは、友人に対する反論というよりも、むしろ、神様に対する叫びのような祈りのほうで、紙面が割かれていた。
しかし、今回のヨブの返答には、神様に向けられた言葉はなく、因果応報と悪因悪果の単純な押し着せばかりをする友人達の議論の土俵に降りてきて、彼らが金科玉条としているその法則が、現実では、必ずしもそんなに単純に行われていない事をつきつけており、自分の問題は、そんなに単純ではない事を友人達に分からせようとしているふしがある。

21:1 そこでヨブは答えて言った、
21:2 「あなたがたはとくと、わたしの言葉を聞き、/これをもって、あなたがたの慰めとするがよい。
21:3 まずわたしをゆるして語らせなさい。わたしが語ったのち、あざけるのもよかろう。
21:4 わたしのつぶやきは人に対してであろうか。わたしはどうして、いらだたないでいられようか。
21:5 あなたがたはわたしを見て、驚き、/手を口にあてるがよい。

ヨブにとって最も友人にしてもらいたかった事は、ヨブの話を聞いてもらう事だ。
ひどい災いを受けている、しかし、それを受けるような事をした事が、身に覚えがない。
このいらだちを理解してもらいたかった。
それなのに彼らは、こんな災を受けているヨブを、単純に悪人と決めつけ、単調に因果応報、悪因悪果のお仕着せばかりして、ヨブを苦しめるので、ついにヨブは友人の土俵に立ち、議論を仕掛ける。
はたしてそんなに因果応報、悪因悪果が単純に行われるのか、と。そして、単調に因果応報、悪因悪果ではない現実の事例を並べ、「驚き、手を口にあてるがよい」と言う。

21:6 わたしはこれを思うと恐ろしくなって、/からだがしきりに震えわななく。
21:7 なにゆえ悪しき人が生きながらえ、/老齢に達し、かつ力強くなるのか。
21:8 その子らは彼らの前に堅く立ち、/その子孫もその目の前に堅く立つ。
21:9 その家は安らかで、恐れがなく、/神のつえは彼らの上に臨むことがない。
21:10 その雄牛は種を与えて、誤ることなく、/その雌牛は子を産んで、そこなうことがない。
21:11 彼らはその小さい者どもを群れのように連れ出し、/その子らは舞い踊る。
21:12 彼らは手鼓と琴に合わせて歌い、/笛の音によって楽しみ、
21:13 その日をさいわいに過ごし、/安らかに陰府にくだる。
21:14 彼らは神に言う、『われわれを離れよ、/われわれはあなたの道を知ることを好まない。
21:15 全能者は何者なので、/われわれはこれに仕えねばならないのか。われわれはこれに祈っても、なんの益があるか』と。

神を恐れ敬わず、悪ばかりを為して、何の罰らしい罰を受けないまま栄えている者が確かにいる現実、それをどう思うのか、と、ヨブはつきつけている。
ヨブは神をないがしろにする悪人ではないが、そんなヨブが逆に、こんなにもひどい災いを受けているという、この現実はどうなのか。

21:27 見よ、わたしはあなたがたの思いを知り、/わたしを害しようとするたくらみを知る。
21:28 あなたがたは言う、『王侯の家はどこにあるか、/悪人の住む天幕はどこにあるか』と。
21:29 あなたがたは道行く人々に問わなかったか、/彼らの証言を受け入れないのか。
21:30 すなわち、災の日に悪人は免れ、/激しい怒りの日に彼は救い出される。
21:31 だれが彼に向かって、/その道を告げ知らせる者があるか、/だれが彼のした事を彼に報いる者があるか。
21:32 彼はかかれて墓に行き、/塚の上で見張りされ、
21:33 谷の土くれも彼には快く、/すべての人はそのあとに従う。彼の前に行った者も数えきれない。

友人達は、因果応報を金科玉条のごとく突きつけるが、現実を見ると、必ずしもそうではない、という事を、ヨブは突きつけた。
だから、友人達が自分に向かって突きつける因果応報ばかりを単調に突きつけるのは、「むなしいことば」だと、逆に突きつけた。

21:34 それで、あなたがたはどうしてむなしい事をもって、/わたしを慰めようとするのか。あなたがたの答は偽り以外の何ものでもない」。

ヨブは今回、神に向かずに、友人達の議論とう低レベルな土俵へと降りてゆき、彼らに、「それでは違うのだ」という”ゆとり”が出てきたのかもしれない。
それは、彼が神に向かって叫びのような祈りをし、ついに、彼のなかだちとして立って下さるお方、弁護し購って下さるお方を知るに至ったからだろう。

アサフもまた、悪人が何の災いに遭わず栄えている様を見て、心を痛めていたが、しかし彼が神の聖所へと至った時、彼らの最後を悟ることができた。
そして、それまで神に向かって叫んでいたその獣のような荒んだ心に恥じ入り、いただいた平安を感謝し、賛美するに至った。

詩篇73:21 わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
73:22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
73:23 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
73:24 あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。

私達が世の中の現実に目を向ける時、悪人の栄えている様に目を向ける時、ただ獣のようになる以外に無い。
ヨブの友人達は、ことわざや哲学ばかりを吠える獣のような有様であるが、しかし神に心を向けるなら、アサフのように、ヨブのように、物事が見えて来る。
そして後には、栄光の内に受け入れられ、平安と賛美が戻ってくるのだ。

詩篇73:25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。
73:26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。
73:27 見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。
73:28 しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。

邪悪な時代の中に輝く、尊厳ある(ハイルな)男と女(ルツ4:1-8)
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ルツ記3章は、いわばルツの「婚活」の場面であるが、その「婚活」は、現代の婚活とは、全く逆のアプローチである。
現代の婚活は、いかに自分が提示する条件に合った、自分好みの相手を見つけ、折り合いをつけ、あるいは妥協しつつ結婚するか、という、いわば自分主体の活動であるが、このルツとボアズという栄光の家系の婚活は、全くその逆で、自分好み・自分主体は一切なく、信仰の先輩のアドバイス主体、そして、御言葉主体である。

ルツは自分の好む事を退け、御言葉に適った相手であるボアズへ求婚したゆえに、ボアズから「しっかりした女(エシェット・ハイル:尊厳ある女 箴言31:10、12:4)」と言われる栄誉を受けた。
ボアズもまた、御言葉主体に歩んだゆえ、尊厳ある有力な男(イシュ・ギボル・ハイル:ルツ記2:1)として、当時、名を馳せた。

邪悪な価値観がはびこる士師記の時勢において、しっかりした信仰を育み、ダビデへと、そしてキリストへとつなぐ栄光の家系の基を築いた「エシェットな(尊厳ある)」男女、ボアズ・ルツのあり方を学びたい。

4:1 ボアズは町の門のところへ上っていって、そこにすわった。すると、さきにボアズが言った親戚の人が通り過ぎようとしたので、ボアズはその人に言った、「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください」。彼はきてすわった。

ボアズはルツの願いを叶える手続きをするために、町の門の所へ行った。
当時、町の門の所は、重要な取引や裁判などが行われる場所である。

日本語の聖書では「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください」と訳されているが、原文は、「そこの君、こちらに来て、そこに座りなさい」というように、目上の人が目下の人に指示するような感じである。
だから、ボアズはその親戚より目上で、しかも彼は町の長老10人を呼んで座らせる程の有力者だった事が伺える。

4:2 ボアズはまた町の長老十人を招いて言った、「ここにおすわりください」。彼らがすわった時、
4:3 ボアズは親戚の人に言った、「モアブの地から帰ってきたナオミは、われわれの親族エリメレクの地所を売ろうとしています。

ボアズは人々の前で、堂々と手順を踏んだ。
有力者たる人のたしなみは、正当な手順を踏みつつ、人々の前で堂々と物事を行う人である。

物事には、手順がある。集団で物事を行う手順、契約を結ぶ手順、男女関係における手順など。
そうした手順を、正当に踏んで行うなら、誰にも非難されるところは無く、人々から祝福を受けつつ人生を送るのだが、為すべき手順を面倒くさがったり、ないがしろにするような人は、いつまでも人から認められなかったり、重要な事が任せられなかったりする。

4:4 それでわたしはそのことをあなたに知らせて、ここにすわっている人々と、民の長老たちの前で、それを買いなさいと、あなたに言おうと思いました。もし、あなたが、それをあがなおうと思われるならば、あがなってください。しかし、あなたがそれをあがなわないならば、わたしにそう言って知らせてください。それをあがなう人は、あなたのほかにはなく、わたしはあなたの次ですから」。彼は言った、「わたしがあがないましょう」。

もし、このボアズよりも買い戻しの責任が重い親類、名前が無いので仮にAさんとすると、このAさんの存在をルツはもともと知らず、またAさんもルツを知らなかっただろう。
もし彼が買い戻すとなると、ルツ・ボアズ・ナオミが願っていた結果とは、かなり違ってしまう。
しかしボアズは、淡々と律法の決まり事を、そのとおり言う。

4:5 そこでボアズは言った、「あなたがナオミの手からその地所を買う時には、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買って、死んだ者の名を起してその嗣業を伝えなければなりません」。
4:6 その親戚の人は言った、「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます。あなたがわたしに代って、自分であがなってください。わたしはあがなうことができませんから」。

その人は、ルツをも買い戻さなくてはならない、と聞いた途端、及び腰になった。なぜなら、「そんなことをすれば自分の嗣業(相続地)をそこない」かねないからである。
買戻しの話とは、買戻す側にとっては、デメリットしか無いような話である。
なぜなら、落ちぶれてしまった親類の畑を買い戻す時、その畑は自分のものとはならないし、死んでしまった人の妻をめとって、その最初に生まれた男子に死んでしまった親類の名を継がせ、さらに、その買い戻した畑は、買い戻した人のものにはならずに、その子のものとなる。
そして、もし、男子が一人しか生まれないとするなら、Aさんが心配する通り、自分の相続地をそこなう事になりかねないのだ。
それで彼は、「わたしはあがなうことができませんから」と言ったのだ。

神の民の間において、すなわち、現代の私達・教会の中において、絶えてしまいそうな兄弟姉妹を支えるのは、栄誉ある働きである。
しかし、支えるためには力量や富、そして、精神的ゆとりが必要である。
それが無い人が、心に憂いを覚えつつ、やせ我慢して、本当はしたくないのだけれども、心に鞭打って、助けのわざをしようとするのは、健全ではない。
このAさんのように、より助ける力のある人へとゆずるのが、全ての人にとって、良いのである。

4:7 むかしイスラエルでは、物をあがなう事と、権利の譲渡について、万事を決定する時のならわしはこうであった。すなわち、その人は、自分のくつを脱いで、相手の人に渡した。これがイスラエルでの証明の方法であった。
4:8 そこで親戚の人がボアズにむかい「あなたが自分であがないなさい」と言って、そのくつを脱いだので、

足のくつを脱いで、相手に渡す。それは、自分が足の下に置く権利を相手に明け渡す象徴的な行為である。
Aさんは、それをボアズへと渡した。
こうして、当初の彼らの願いどおりの事が、公の門前で、成就した。

イエス様こそ、私達を真に買い戻す力のある御方である。
人間の男性は、せっかく家を支えようとして、愛をもって、家族のために心身を捧げる素晴らしい夫であるとしても、弱さや病、死によって、完全に支えきれない事がつきものである。
しかし、イエス様は、死がなく、罪もなく、完全に私達を支えて下さる、まことの大祭司である。

ヘブル7:22 このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。
7:23 かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。
7:24 しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。
7:25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。
7:26 このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。
7:27 彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。
7:28 律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。

私達はたとえ不完全な人間であったとしても、このボアズとルツのように、邪悪な時代の中にあっても尊厳ある(ハイルな)男、女となる事を目指し、キリストにあって家を建て、仕事を建て、この闇の時代において有力者となって行くものでありたい。

聖霊の力:罪について、義について、さばきについてその過ちを認めさせる(ヨハネ16:7-11)
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私達を助けてくださる「助け主」聖霊は、いかにして与えられ、いかなる助けをして下さるのか。

ヨハネ16:7 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
16:8 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。

聖霊が来る時、その人に罪について、義について、さばきについて、その三方面から、その過ちを認めさせる。
つまり、聖霊が無い人は、罪の自覚も知らず、義のあこがれも無く、地獄のさばきの恐ろしさも無いのだ。

イエス様はこれら3つについて、一つ一つ説明しておられる。

ヨハネ16:9 罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。

罪の本質、それは、イエス・キリストを信じない事である。
人は、罪有る、滅びるべき存在であるが、イエス様はそこから贖い救って下さるお方だ。

ヨハネ8:23 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。
8:24 だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」。

なぜイエス様を信じない事が、罪になるのか。
それは、罪の対極である義についての説明を見ればわかる。

ヨハネ16:10 義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。

イエス様が御父の元に行き、イエス様をもはや地上において見なくなる。なぜそれが「義」なのか。

ヘブル10:10 この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。
 10:11 こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。
 10:12 しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、
 10:13 それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。
 10:14 彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。

キリストはただ一度、御父にいけにえとして捧げられた。
全焼のいけにえは、その全身を焼き尽くして地上には何も残らず、その煙が香ばしいかおりとなって御父の元に立ち上って行くが、同じようにキリストはただ一度、御父の元に香ばしいかおりとなって昇られた。
それによって御父はなだめられ、そして今、御父の元で私達の事をとりなしておられる。
だから、イエス様が御父の元に行って、イエス様がもはや地上において見えなくなる事が、「義」とされる事なのだ。

ヨハネ16:11 さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。

さばきの本質、それは、この世を支配する者が、さばかれる事である。
この世を支配する者・サタンは、昔、エデンの園において人を支配し、神の言葉の支配から人々を奪って、サタンの罪の力・死の力によって、全ての人はサタンの支配下に入ってしまった。

ルカ 4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて
 4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
 4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
 4:8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

私達もイエス様にならい、御言葉を受け入れ、イエス様の支配下に入って行くなら、私達もイエス様とともに、サタンを踏み砕く側に入るのである。

創世記 3:14 主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。
 3:15 わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

助け主・聖霊が降るなら、罪について、義について、さばきについて、知らされる。
私達は行く先々で、人々の心を刺し、罪と死とサタンの支配から脱却させ、キリストへと導くために、聖霊に満たされて出ていく必要があるのだ。

ツォファルによる二回目の弁論 - ただ人を苛立たせるだけの「思い込み」の殻を抜け出せていない知恵(ヨブ記20章)
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20章は、ナアマ人ツォファルによる第二回目の論議であるが、その内容もまた、前回と全く同様、「悪人はこうなる」という容赦ない決めつけに基づいた攻撃である。

20:1 そこでナアマびとゾパルは答えて言った、
20:2 「これによって、わたしは答えようとの思いを起し、/これがために心中しきりに騒ぎ立つ。

ツォファルから発せられて行く言葉は、「しきりに騒ぎ立つ」思いが由来である。
そのようないらだちに由来する言葉の多くは、害しか生み出さない事のほうが多い。

20:3 わたしはわたしをはずかしめる非難を聞く、/しかし、わたしの悟りの霊がわたしに答えさせる。

ツォファルは、ヨブが、自分を侮辱する訓戒をしていると思い込んでいる。
誤解がさらに誤解を産んで、怒りを燃焼させて行っている状態だ。

彼は「わたしの悟りの霊がわたしに答えさせる」と自称しているのだが、しかしその「悟りの霊」の出処は一体どこだろう。
イエス様は言われた。

ヨハネ16:13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

真理の御霊は、人をあらゆる真理へと導くものだが、ツォファルの言葉には、主エホバの御名はなく、また、ヨブが前章で叫び求めた「あわれみ」の提供もなく、ヨブが告白した「贖うお方」についての言及もなく、ただ怒り、叫び、そしりという肉の実を結んだだけであった。

私達は、いらだちや怒りから来る衝動を「悟りの霊」にあふれていると勘違いしてはならない。
人の怒りは、神の義を実現させるものではないからだ。

20:4 あなたはこの事を知らないのか、/昔から地の上に人の置かれてよりこのかた、
20:5 悪しき人の勝ち誇はしばらくであって、/神を信じない者の楽しみは/ただつかのまであることを。

ツォファルのヨブに対する論議の前提は、結局、ヨブを「悪人」「神を信じない者」と決めつけた上でのもので、しかも、いらだちに支配された思いから発せられたものなので、彼の言葉は、ひたすらひたすら悪人が受ける報いはこうだ、という多くの言葉で塗りつぶされている。

20:6 たといその高さが天に達し、/その頭が雲におよんでも、
20:7 彼はおのれの糞のように、とこしえに滅び、/彼を見た者は言うであろう、『彼はどこにおるか』と。
20:8 彼は夢のように飛び去って、再び見ることはない。彼は夜の幻のように追い払われるであろう。
20:9 彼を見た目はかさねて彼を見ることがなく、/彼のいた所も再び彼を見ることがなかろう。
20:10 その子らは貧しい者に恵みを求め、/その手は彼の貨財を償うであろう。
20:11 その骨には若い力が満ちている、/しかしそれは彼と共にちりに伏すであろう。

確かに悪人はそのようになる。
しかし、ヨブの状況をよく知らず、ヨブの言葉を聞いた上でなおもこの事を言うのは、時宜に適っていない、的外れな事である。
その「時宜に適っていない」事が、幾度、繰り返されているだろう。

20:12 たとい悪は彼の口に甘く、/これを舌の裏にかくし、
20:13 これを惜しんで捨てることなく、/口の中に含んでいても、
20:14 その食物は彼の腹の中で変り、/彼の内で毒蛇の毒となる。
20:15 彼は貨財をのんでも、またそれを吐き出す、/神がそれを彼の腹から押し出されるからだ。
20:16 彼は毒蛇の毒を吸い、/まむしの舌は彼を殺すであろう。
20:17 彼は蜜と凝乳の流れる川々を見ることができない。
20:18 彼はほねおって獲たものを返して、/それを食うことができない。その商いによって得た利益をもって/楽しむことができない。
20:19 彼が貧しい者をしえたげ、これを捨てたからだ。彼は家を奪い取っても、/それを建てることができない。
20:20 彼の欲張りは足ることを知らぬゆえ、/その楽しむ何物をも救うことができないであろう。
20:21 彼が残して食べなかった物とては一つもない。それゆえ、その繁栄はながく続かないであろう。
20:22 その力の満ちている時、彼は窮境に陥り、/悩みの手がことごとく彼の上に臨むであろう。
20:23 彼がその腹を満たそうとすれば、/神はその激しい怒りを送って、/それを彼の上に降り注ぎ、彼の食物とされる。

あたかもヨブが、貧しい者からかすめ奪い、不当に私服を肥やした事を前提とした言葉だが、ヨブはそんな事をしていない。
怒りやあせりを持ちながら議論しだすと、相手に対する「決めつけ」が起こり、その的を外した実態の無い「決めつけ」に対する無益な攻め立てと防御の応酬に陥るものだ。

20:24 彼は鉄の武器を免れても、/青銅の矢は彼を射通すであろう。
20:25 彼がこれをその身から引き抜けば、/きらめく矢じりがその肝から出てきて、/恐れが彼の上に臨む。
20:26 もろもろの暗黒が彼の宝物のためにたくわえられ、/人が吹き起したものでない火が彼を焼きつくし、/その天幕に残っている者を滅ぼすであろう。
20:27 天は彼の罪をあらわし、/地は起って彼を攻めるであろう。
20:28 その家の財産は奪い去られ、/神の怒りの日に消えうせるであろう。
20:29 これが悪しき人の神から受ける分、/神によって定められた嗣業である」。

このように、時宜にかなわない的外れな助言は、長ければ長いほど、感情的で語尾が強ければ強いほど、また、この詩文体のように体裁が立派であればあるほど、人をうんざりさせるものである。
人間の思い込みという殻を抜け出せていない以上、人をうんざりさせる以外に無い。

ヨブ記で展開される長大な人間議論が、全て立派な「詩文体」で表現されているのは、もしかすると、主の御名も愛も除かれてしまっている人間の箴言や哲学が、どんなに無益で、うんざりさせ、ただ傷つけるものであるのかという事を示すための、長大なアイロニーなのかもしれない。

私達は、絶望の底にある人を助けるには、どうすれば良いか。
それは、人の心を探り極めるお方に聞く以外に無い。

1コリント2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
 2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
・・・
 2:15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
 2:16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

人の思いを知る者は、本人自身と、人の心を深みまで探り極める御霊以外にはありえない。
それゆえ、私達が御霊に満たされる時、真に必要で適切な言葉が与えられる。真理の御霊が来る時、それは、自分の思い込みや世の知恵で語るのではなく、その聞くところを語るからだ。

そして、最もすぐれた道は、愛である。

1コリント13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

ヨブ記の3章から今まで読んでいると、まことに立派なやかましい鐘、騒がしい鐃鉢が鳴り響いているような様である。
主エホバの御名の無い人間ことば、愛の無いことば、主の霊によるのではない人間の知恵は、みな、そうだ。

私達は御霊に満たされる事を求めるべきであり、そして、愛を身に着けるべきである。

霊の風の吹くままに(ヨハネ3:1-15)
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週報/メッセージ(説教)概要

 先週のペンテコステ礼拝につづき、今週もまた聖霊について学びたい。今回は、イエス様がニコデモと対話した場面から、御霊の私達に対する現れ方、および、私達が御霊によって生きる術を学びたい。

ニコデモは夜、イエス様の所に来た。彼はイエス様が神の元から来た教師である事を知っていたが、彼がイエス様を訪問した目的と理由をまだ言わない内に、イエス様はニコデモに言う。『よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生れなければ、神の国を「見る(エイドー:知る)ことはできない」。』(ヨハネ3:3)
イエス様は、なぜニコデモが訪ねて来たのかをご存知だった。3節と5節のイエス様の言葉に共通しているキーワードは、「神の国」である。ニコデモは、神の国について知りたくて来たのだ。彼はユダヤ人の教師でありながら、どうすれば神の国を見る事が出来るのか。どうすれば永遠のいのちを得られるのか、それを知らなかったが、イエス様は彼に言われた。神の国を見る(知る)ためには、新しく生まれなくてはならい、と。
新しく生まれる。ニコデモは母の胎に再び入って生まれ直す事かと思ったが、『イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。』(5節)
水と御霊によって生まれる。一体どういう事だろう、と人は思う。しかしイエス様の答えは、次の通りである。
『あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。「風(ニューマ:霊)」は思いのままに吹く。あなたはその「音(フォーネ:声)」を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。』(7-8節)

風は、存在するとは分かっていても見えず、ただ音が聞こえ、肌で感じ、そこにあるのだとわかる。「風の音」は「霊の声」とも訳せるが、それは耳で聞こえなくても、霊という受信体を持っている人には、理解できる。
人は、その仕組み・原理を知らないが、霊によって生まれた人は霊の声を理解し、そちらを優先して生きる。
つまりクリスチャンは、世の人には理解できない行動原理を持っており、それは霊から来るものである。
人はその行動原理を理解できないが、どういうわけだか成功するので、人々は驚く。
聖霊の風は、生来の生き方で行きていた人を造り変え、それも、色々な形で働く。ある人は見方が変わり、ある人は聞き方が変わり、ある人は心が、ある人は手足の行いが、ある人は言葉が変わる。あるいは、以前無かった従順さが現れたり、敬いが現れたり、喜べなかった事を喜べたり、感動しなかった事に感動する。
聖霊の風は、人を良い方向へと造り変えるが、「思いのままに吹く」ので、何にあらわれるのか分からない。
ただ、聖霊が流れ込んで来やすい傾向の人がいる。聖霊は、きよい霊であるので、自らをきよくする人すなわちよく悔い改める人・よくごめんなさいをする人に、よく働いて下さる。また、知恵と啓示の霊は、用いる気の無い人・流し出そうとしない人には、与えられない。聖霊は川のごとく流れ出していくもの(ヨハネ7:37-39)なので、流しだそうとしないでそのまま自分にとどめているなら、それは、死海のように腐ってしまう。
また、御霊に導かれる人は、御霊から聞くままを話す。事前に準備して話そうとしていた事は、いざその時、本人が全く準備していなかった言葉や行動が出てくるので、本人がびっくりすることがしきりにある。
『真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。』(ヨハネ16:13)
聖霊が伝えようとする時、そのことばは、私達のものではない。その時、私達が主人になってはいけない。
私達はその時スポークスマンであり、もしスポークスマンが自分で勝手に語り出したら、クビになってしまう。

ニコデモが求めていた「神の国(バシレイア・トゥ・セウ)」とは「神の支配領域」であり、神の統治が行き届く所である。それは、水と御霊によって生まれなければ、神の国を知る事も、入る事も出来ない。
永遠のいのちに入るためには、イエス様を信じる事が必要であり(15節)、御霊を受けるためには、悔い改め(メタノイア:方向転換)と、イエスの御名の中へのバプテスマ(浸し込まれ)が必要である。(使徒2:38)
イエス様は「不思議に思ってはならない」と言われた。いくら論理的に説明した所で、人の頭では理解できないからだ。パラグライダーはなぜ飛ぶのか、サーフィンはなぜ波の上を進むのか、それを楽しむ人は頭で理解しなくても、感覚で風をとらえるように、聖霊の風に乗る人も、理解から始めるのではなく、感じて体験し、体得するものだ。聖霊の風に吹かれ、御旨のままに造り変えられて行く皆さんでありますように!

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