メッセージ - pastorさんのエントリ

わずか5年でダビデ・ソロモンの蓄えた富を台無しにしてしまったレハブアム(2歴代誌12章)
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レハブアムは主の御声に従い、3年間、主に従い祝福されたが、4年目以降、そうでなかった。

2歴代誌12:1 レハベアムはその国が堅く立ち、強くなるに及んで、主のおきてを捨てた。イスラエルも皆彼にならった。
12:2 彼らがこのように主に向かって罪を犯したので、レハベアム王の五年にエジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上ってきた。

「主に向かって罪を犯した(マアール)」、このマアールの元々の意味は「覆いかぶせる」、主な意味は、罪だと知りながらにして罪を犯す、である。覆い隠しは、それが罪だと「知って」いないならしない行為である。
レハブアムは、罪だと知りながらにして犯した。それに対する主の側の回答は「災い」という形で早く訪れた。

12:3 その戦車は一千二百、騎兵は六万、また彼に従ってエジプトから来た民、すなわちリビアびと、スキびと、エチオピヤびとは無数であった。
12:4 シシャクはユダの要害の町々を取り、エルサレムに迫って来た。

前回の箇所でせっかくレハブアムが固めた防備の町々は、いともあっさりと攻め落とされ、しかもエルサレムという堅固な町までも迫って来られてしまった。
神の民は、兵器や力を蓄える事には、救いは無い。主に従う事こそ、最も堅固な防備となるのだ。
詩篇127:1 主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
 127:2 あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。

12:5 そこで預言者シマヤは、レハベアムおよびシシャクのゆえに、エルサレムに集まったユダのつかさたちのもとにきて言った、「主はこう仰せられる、『あなたがたはわたしを捨てたので、わたしもあなたがたを捨ててシシャクにわたした』と」。
12:6 そこでイスラエルのつかさたち、および王はへりくだって、「主は正しい」と言った。

自らの罪ゆえに災いを被った時、最も賢明な対応は、主の前にへりくだる事、悔い改める事である。
彼は、それをした。
それに対する主の側の回答もまた、早い。

12:7 主は彼らのへりくだるのを見られたので、主の言葉がシマヤにのぞんで言った、「彼らがへりくだったから、わたしは彼らを滅ぼさないで、間もなく救を施す。わたしはシシャクの手によって、怒りをエルサレムに注ぐことをしない。
12:8 しかし彼らはシシャクのしもべになる。これは彼らがわたしに仕えることと、国々の王たちに仕えることとの相違を知るためである」。

人は、主の前に悔い改めて立ち返るなら、確かに主はその罪を赦してくださるが、その、本人が犯した罪の刈り取りは本人自身がしなくてはならない。
それも、主に仕える事と、人間の王に仕える事との違いを、思い知るためである。

12:9 エジプトの王シシャクはエルサレムに攻めのぼって、主の宮の宝物と、王の家の宝物とを奪い去った。すなわちそれらをことごとく奪い去り、またソロモンの造った金の盾をも奪い去った。
12:10 それでレハベアム王は、その代りに青銅の盾を造って、王の家の門を守る侍衛長たちの手に渡した。
12:11 王が主の宮にはいるごとに侍衛は来て、これを負い、またこれを侍衛のへやへ持って帰った。

こうして、ソロモンがせっかく南方貿易をして、年月と多くの苦労をして蓄えた多くの金は、わずか5年にしてあっさりエジプトに奪い去られてしまった。

12:12 レハベアムがへりくだったので主の怒りは彼を離れ、彼をことごとく滅ぼそうとはされなかった。またユダの事情もよくなった。
12:13 レハベアム王はエルサレムで自分の地位を確立し、世を治めた。すなわちレハベアムは四十一歳のとき位につき、十七年の間エルサレムで世を治めた。エルサレムは主がその名を置くためにイスラエルのすべての部族のうちから選ばれた町である。彼の母はアンモンの女で、名をナアマといった。

レハブアムの母は、アンモン人である、と記されている。
ソロモンがイスラエルで王であった期間は四十年、その子レハブアムは四十一歳で王になった、という事は、ソロモンは王になって間もない時期にアモン人の妻をめとり、レハブアムが産まれたという事であろう。もしかすると、長男だったのかもしれない。
しかし、アモン人は主の集会に加わってはならない、と定められている。(申命記23:3)
ダビデの曾祖母はモアブ人ルツだったが、それとは全く趣きが違う。ルツはイスラエルの神、主を自分の神として、何もかも捨ててイスラエルに来たのだが、ソロモンは、ただ女を快楽の対象として、信仰の動機は一切なかった。
どうして、よりによって、アモン人との間に生まれた者を、王として継がせなくてはならなかったったのか、それは書いていないが、ソロモンが「わなのような女は死よりも苦い」(伝道者の書7:26)事を書いており、また、自分の財産を後に来る者に継がせなくてはならない事を絶望している(伝道者の書2:18-21)事からすると、もしかしたら彼は、アモン人の女に何かしらの形で心縛られ、その子供に王権を継がせなくてはならなくなってしまったのかもしれない。
ソロモン自身、異邦の女について、以下のように箴言で勧告している。

箴言5:3 遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
5:4 しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
5:5 その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
5:6 彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。
5:7 子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。
5:8 あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
5:9 おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
5:10 おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
5:11 そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
5:12 言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
5:13 教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
5:14 集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

皮肉にもソロモンは、まさに、この箴言の通りになってしまった。

12:14 レハベアムは主を求めることに心を傾けないで、悪い事を行った。
12:15 レハベアムの始終の行為は、預言者シマヤおよび先見者イドの書にしるされているではないか。レハベアムとヤラベアムとの間には絶えず戦争があった。
12:16 レハベアムはその先祖たちと共に眠って、ダビデの町に葬られ、その子アビヤが彼に代って王となった。

レハブアムは、ダビデの孫である。
ダビデからわずか3代目で、こんなにも早く、こんなにも落ちぶれてしまうものか、と思うかもしれない。
そうである。
親がいかに、信仰において優れていても、その子が主を敬わず、主の忌み嫌われる事を続けるなら、あっという間にその人の財は奪われ、落ちぶれてしまうのだ。
だから、御言葉教育が大事なのである。
いかにダビデのような信仰者であれ、御言葉教育をしないと、たった3代で一族が落ちぶれてしまうのは、現代のクリスチャン界を見れば一目瞭然である。

主は、子供に御言葉教育を伝授して行く事を命じておられる。
『努めてこれをあなたの子らに教え(シャナン:シャープにする、研ぎ石などで鋭くする、コツコツと刺激を与える)、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない(ダバール:論じ合う)。またあなたはこれをあなたの手につけて(カシャール、結合、連盟、同盟する)印とし、あなたの目の間に置いて(ハヤー)覚えとし』(申命記6:7-8)
主の御旨は、神のいのちを持った神の子が、生んで増えて満ちて行く事である。だからこれらの事を命じられたのだ。
こうしていつも御言葉に浸され、馴染んでいる内に、御言葉と一体化して行く事で、天地を創造した神の言葉による再創造が、その人の中に構築されて生き、神のかたちが出来上がっていくのだ。
 

主に聞き従ったレハブアムの統治の初期(2歴代誌11章)
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2歴代誌11:1 レハベアムはエルサレムに来て、ユダとベニヤミンの家の者、すなわち、えり抜きの軍人十八万人を集め、国を取りもどすためにイスラエルと戦おうとしたが、

レハブアムは、新しく王となった時、荒々しく威張り散らした故に、人々から見限られ、イスラエル10部族が、彼の元を離れて行ってしまったが、それに対して取った行動は、軍隊を招集して、離れて行った彼らを、さらに強制力をもって従えようとした事だった。
それは、神の民がする事ではない。愛なる神は、愛をもって人を従えようとされる。
主は彼の行動にストップをかける。

11:2 主の言葉が神の人シマヤに臨んで言った、
11:3 「ソロモンの子、ユダの王レハベアムおよびユダとベニヤミンにいるすべてのイスラエルの人々に言いなさい、
11:4 『主はこう仰せられる、あなたがたは上ってはならない。あなたがたの兄弟と戦ってはならない。おのおの自分の家に帰りなさい。この事はわたしから出たのである』」。それで人々は主の言葉を聞き、ヤラベアムを攻めに行くのをやめて帰った。

レハブアムは、この時、預言者を通した主の御言葉に従った。
動き出した18万の軍隊を途中で止め、それぞれ帰らせるのは並々ならない事だ。
その、主の御言葉に従った事によって、彼は祝福を受ける。

11:5 レハベアムはエルサレムに住んで、ユダに防衛の町々を建てた。
11:6 すなわちベツレヘム、エタム、テコア、
11:7 ベテズル、ソコ、アドラム、
11:8 ガテ、マレシャ、ジフ、
11:9 アドライム、ラキシ、アゼカ、
11:10 ゾラ、アヤロン、およびヘブロン。これらはユダとベニヤミンにあって要害の町々である。
11:11 彼はその要害を堅固にし、これに軍長を置き、糧食と油とぶどう酒をたくわえ、
11:12 またそのすべての町に盾とやりを備えて、これを非常に強化し、そしてユダとベニヤミンを確保した。

これらの町々は北との境目付近ではないので、国全体を引き締める効果があっただろう。
こうして軍事面においては強固になったが、それは主の言葉に従った故だ。
従わなくなってしまうなら、いかに軍事面を強化しても無駄である。

11:13 イスラエルの全地の祭司とレビびとは四方の境から来てレハベアムに身を寄せた。
11:14 すなわちレビびとは自分の放牧地と領地を離れてユダとエルサレムに来た。これはヤラベアムとその子らが彼らを排斥して、主の前に祭司の務をさせなかったためである。
11:15 ヤラベアムは高き所と、みだらな神と、自分で造った子牛のために自分の祭司を立てた。

さらに祭司やレビ人が集まって来るのだが、それは北のヤロブアムが主から離れたゆえである。
ヤロブアムがなぜそうしてしまったのか、列王記に詳しく記されている。

『しかしヤラベアムはその心のうちに言った、「国は今ダビデの家にもどるであろう。もしこの民がエルサレムにある主の宮に犠牲をささげるために上るならば、この民の心はユダの王である彼らの主君レハベアムに帰り、わたしを殺して、ユダの王レハベアムに帰るであろう」。』(1列王記12:26-27)

彼は恐れたが、その恐れは、的外れである。なぜなら、主は彼に預言者を通し、彼の家はダビデのように長く続く事が約束されているからだ。
ただし、彼が主の道に歩むならば、である。
だから、彼が為すべきは、ダビデにならい、主の道に歩みつつ統治する事であるのに、彼はこの後、身勝手な「自分を救う方法」を編み出し、主の御旨に反する事をするようになってしまう。
『彼はまた高き所に家を造り、レビの子孫でない一般の民を祭司に任命した。またヤラベアムはユダで行う祭と同じ祭を八月の十五日に定め、そして祭壇に上った。彼はベテルでそのように行い、彼が造った子牛に犠牲をささげた。また自分の造った高き所の祭司をベテルに立てた。こうして彼はベテルに造った祭壇に八月の十五日に上った。これは彼が自分で勝手に考えついた月であった。そして彼はイスラエルの人々のために祭を定め、祭壇に上って香をたいた。』(1列王記12:31-33)

現代風に言うなら、勝手に新しい教義を編み出し、その中ではイエス・キリストを救い主の座から引き降ろし、自分が造った偶像を「救い主」として拝ませ、牧師としての召命も訓練も無い人を任命して、主日でない別の日を礼拝する日にしてしまったようなものである。
それも、自分自身の「保身」のために。
「保身」とは元々、何か脅威がある時に自分の立場を守るために為すものであるが、ただ、彼の頭の中に「恐れ」があっただけで、そもそも脅威など実存していなかったのだ。
私達は、御言葉よりも心の恐れのほうを優先させてはならない。それでは逆に呪われて、恐れていた事が実現してしまう事になってしまう。

11:16 またイスラエルのすべての部族のうちで、すべてその心を傾けて、イスラエルの神、主を求める者は先祖の神、主に犠牲をささげるために、レビびとに従ってエルサレムに来た。
11:17 このように彼らはユダの国を堅くし、ソロモンの子レハベアムを三年の間強くした。彼らは三年の間ダビデとソロモンの道に歩んだからである。

こうして南のレハブアムは、当初、主に従う幸いな期間がしばし続いたが、しかし三年しか続かなかった。
三年の後、レハブアムは主から離れてしまったからである。

11:18 レハベアムはダビデの子エレモテの娘マハラテを妻にめとった。マハラテはエッサイの子エリアブの娘アビハイルが産んだ者である。
11:19 彼女はエウシ、シマリヤおよびザハムの三子を産んだ。
11:20 彼はまた彼女の後にアブサロムの娘マアカをめとった。マアカはアビヤ、アッタイ、ジザおよびシロミテを産んだ。
11:21 レハベアムはアブサロムの娘マアカをすべての妻とそばめにまさって愛した。彼は妻十八人、そばめ六十人をめとって、男の子二十八人と女の子六十人をもうけた。
11:22 レハベアムはマアカの子アビヤを立ててかしらとし、その兄弟の長とした。彼はアビヤを王にしようと思ったからである。
11:23 それで王は賢くとり行い、そのむすこたちをことごとく、ユダとベニヤミンの全地方にあるすべての要害の町に散在させ、彼らに糧食を多く与え、また多くの妻を得させた。

彼はソロモンほどではなかったが、妻を多くした。
聖書で、多くの妻を持って、その一家が平穏だったケースは見いだせない。

妻と子は多くなり、彼らを賢く扱い、こうして、内政においても軍事においても充実して行くも、こうして祝福されて強くなった時こそ、気をつける事が必要である。
それは、これから後のレハブアムの歩みを見れば分かる。

エレミヤ書 講解説教メッセージ
エレミヤの召命(エレミヤ1:4-19)
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イスラエル王国分断という重大事件と、そのまことにくだらなかった発端(2歴代誌10:3-19)
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今回の箇所で、イスラエルは大きな暗転を迎える。
現代も、今回の箇所の影響が、ずっと続いている。
その暗転とは、イスラエル王国の分裂であり、そのきっかけは、まことにくだらないものであった。

10:3 人々は人をつかわして彼を招いた。そこでヤラベアムとすべてのイスラエルは来て、レハベアムに言った、
10:4 「あなたの父は、われわれのくびきを重くしましたが、今あなたの父のきびしい使役と、あなたの父が、われわれに負わせた重いくびきを軽くしてください。そうすればわたしたちはあなたに仕えましょう」。
10:5 レハベアムは彼らに答えた、「三日の後、またわたしの所に来なさい」。それで民は去った。

ソロモンは、その統治の前半すなわち主に聞き従っていた間は、とても祝福されていた。
1列王記4:20 ユダとイスラエルの人々は多くて、海べの砂のようであったが、彼らは飲み食いして楽しんだ。
4:21 ソロモンはユフラテ川からペリシテびとの地と、エジプトの境に至るまでの諸国を治めたので、皆みつぎ物を携えてきて、ソロモンの一生のあいだ仕えた。
4:22 さてソロモンの一日の食物は細かい麦粉三十コル、荒い麦粉六十コル、
4:23 肥えた牛十頭、牧場の牛二十頭、羊百頭で、そのほかに雄じか、かもしか、こじか、および肥えた鳥があった。
4:24 これはソロモンがユフラテ川の西の地方をテフサからガザまで、ことごとく治めたからである。すなわち彼はユフラテ川の西の諸王をことごとく治め、周囲至る所に平安を得た。

王宮で1日で費やされる食料は膨大なものだが、しかしそれでもなお国民は潤い豊かだったので、王宮に貢ぐ税金は膨大であったとしても、全然問題にならなかった。
しかしソロモンの人生の後半、彼は主に聞き従わなくなり、当然、産物はとれなくなり、しかし重税だけは変わらず、そうして民は、重税にあえいでいたのだ。
それで、人望の厚いヤロブアムを通して、人々はその税金を下げてもらおうと思って来たのだ。

10:6 レハベアム王は父ソロモンの存命中ソロモンに仕えた長老たちに相談して言った、「あなたがたはこの民にどう返答すればよいと思いますか」。

レハブアムはまず、ソロモンの存命中にソロモンに使えていた長老たちに聞いた。
この後のレハブアムの記述を見るとわかるが、彼は色々と問題のある者だった。なぜ彼が王になってしまったのか。おそらく、ソロモンが亡くなったのがキュウで、彼が王として選ばれたのも、慌ただしかったのかもしれない。あるいは、ソロモンに沢山いたであろう子供達の中で、彼がもっともまともだったのかもしれない。
ともかく、偶像礼拝に走ってしまったソロモンは、多くの災いを国にもたらしてしまった。

10:7 彼らはレハベアムに言った、「あなたがもしこの民を親切にあつかい、彼らを喜ばせ、ねんごろに語られるならば彼らは長くあなたのしもべとなるでしょう」。

列王記の並行箇所では、長老たちはレハブアムに、「民のしもべとなって彼らに仕えるなら、彼らは永遠にあなたのしもべとなる」と助言している。(1列王記12:5-7)
この長老たちの助言は、非常に正しい。なぜならイエス様も同じ事を言っているからだ。

『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。』(マルコ10:42-45)
暴力や荒々しい言葉で人を威圧し制するのは、異邦人の手法である。神の民の王たる者は、みなに仕える姿勢であるべきなのだ。
しかしレハブアムは、それ良しとはしなかった。

10:8 しかし彼は長老たちが与えた勧めをすてて、自分と一緒に大きくなって自分に仕えている若者たちに相談して、
10:9 彼らに言った、「あなたがたは、この民がわたしに向かって、『あなたの父上が、われわれに負わせたくびきを軽くしてください』と言うのに、われわれはなんと返答すればよいと思いますか」。
10:10 彼と一緒に大きくなった若者たちは彼に言った、「あなたに向かって、『あなたの父は、われわれのくびきを重くしたが、あなたは、それをわれわれのために軽くしてください』と言ったこの民に、こう言いなさい、『わたしの小指は父の腰よりも太い、
10:11 父はあなたがたに重いくびきを負わせたが、わたしはさらに、あなたがたのくびきを重くしよう。父はむちであなたがたを懲らしたが、わたしはさそりであなたがたを懲らそう』」。

「わたしの小指は父の腰よりも太い」とは、自分は父なんかよりもっと大いなる者だ、という事である。
「若者たち(イェラーディーム)」は子供達、ボーイ、といった意味で、ようするに未熟者である。レハブアムは長老達の言葉を退け、彼らに相談した。
彼らはこの言葉から分かる通り、思慮も知恵も無い、ただノリと勢いだけの直情的な者達であった。レハブアムとしては、彼らと話すほうが楽しかったのだろう。
レハブアムが彼らの意見のほうを採用する、という事は、レハブアムの気質もまた彼らと同じなのである。

10:12 さてヤラベアムと民は皆、王が「三日目にわたしのところに来なさい」と言ったとおりに、三日目にレハベアムのところへ行った。
10:13 王は荒々しく彼らに答えた。すなわちレハベアム王は長老たちの勧めをすて、
10:14 若者たちの勧めに従い、彼らに告げて言った、「父はあなたがたのくびきを重くしたが、わたしは更にこれを重くしよう。父はむちであなたがたを懲らしたが、わたしはさそりであなたがたを懲らそう」。

彼は、新しい王として、荒々しく大上段から言い放った瞬間は、さぞやスカッとしただろう。
しかし、その一瞬のスカッとする爽快感の代償は、とてつもなく大きなものだった。

荒々しい暴言のたった一言が、長年築き上げて来た信頼関係を壊し、家庭を壊し、国を壊してしまう。
ヤロブアムの、このたった一言が、イスラエルを二分し、現代も、彼のこの言葉の影響ゆえに、イスラエルは今なお失われた10部族がどこにいるのか分からない状態にある。

10:15 このように王は民の言うことを聞きいれなかった。これは主が、かつてシロびとアヒヤによって、ネバテの子ヤラベアムに言われた言葉を成就するために、神がなされたのであった。

主は、無意味に人の心を操作して国を分断したりはしない。そのような事を主は望んでおられない。
ただ、主に立ち返らないダビデの家を懲らしめ、主に立ち返るようにするために、あえてこの事を起こされたのだ。
ただ、人が欲望を遂げるために、人を何とも思わないような人間に対し、また、忠告を何度しても聞かないような人に対して、主はさらに良くない思いへと引き渡し、自滅して行くに任せられるのだ(ローマ1:28-31)。

10:16 イスラエルの人々は皆、王が自分たちの言うことを聞きいれないのを見たので、民は王に答えて言った、/「われわれはダビデのうちに何の分があろうか。われわれはエッサイの子のうちに嗣業がない。イスラエルよ、めいめいの天幕に帰れ。ダビデよ、今あなたの家を見よ」。そしてイスラエルは皆彼らの天幕へ去って行った。
10:17 しかしレハベアムはユダの町々に住んでいるイスラエルの人々を治めた。
10:18 レハベアム王は徴募人の監督であったアドラムをつかわしたが、イスラエルの人々が石で彼を撃ち殺したので、レハベアム王は急いで車に乗り、エルサレムに逃げた。
10:19 こうしてイスラエルはダビデの家にそむいて今日に至った。

今日に至った、と記されているが、その今日はエズラの時代のみならず、エズラの時代からさらに2000年以上経った今さえも、そうである。
その発端は、状況だけを見るなら実にくだらない事であったが、その根底には、主に従わないソロモンの頑なさ、欲望への執着が元だった。

私達は御言葉に従う者、仕える者の姿勢を取って、さいわいな、祝福された人生を歩む者でありたい。

ベエル・シェバを見えなくさせるもの(創世記21:14-21)

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年明け瞬間からの礼拝、ベエル・シェバというキーワードが出てきた。
ベエル・シェバとはどういうものか、少し見たが、そのベエル・シェバが聖書で最初に登場した場面が、この箇所。ここにおいては、ハガル、アブラハムの女奴隷が関係している。
14節だけを見ると、ただならぬ事が起きているようである。

21:14 そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。

ベエル・シェバ、七つの井戸(泉)という意味である。水はあるはずであるが、また、町のある所である、というのに、彼女はわざわざ荒野の方面を歩いて行った。
感情的になって、自暴自棄となり、わざわざ荒野へ行かせることがある。

21:15 やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、
21:16 「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。

この場面だけを見ると、非常に涙をさそう場面である。
アブラハムはなぜひどいことをするのか、と思うだろうか。しかし、この状況だけを見て神様はひどい、アブラハムはひどいとするのは、早計である。
そもそもなぜハガルは追い出されたのか。その理由がある。
実は前にも、追い出された事があり、今回の追い出された事は、彼女たちにとって二度目である。創世記16章において、この時、まだアブラハムも子供が生まれていなかった。ハガルもみごもっていて、まだイシュマエルが生まれていなかった。
なぜこの時、ハガルが追い出されるという事件があったのか。それは、高慢になったからだ。
ハガルの女主人サライがずっとみごもらない、けれど、ハガルがアブラハムと関係を持ったとたんに身籠った。
そのとたんに、女奴隷という身分でありながら、女主人サライを軽んじた。だから、追い出されたのだ。

16:7 主の使は荒野にある泉のほとり、すなわちシュルの道にある泉のほとりで、彼女に会い、

女奴隷ハガルにも御使が現れた。という事は、彼女とその子は、神様の特別保護下にある、という事だ。
なぜなら彼女もアブラハムの子を身籠ったのだから。
そして、アブラハムが自分の子供についても祈っただろう、どうぞ守られるように、どうぞ、大いに増え広がりますように。

ハガルは、身を低くしていなかった。女主人に対して驕り高ぶった態度をとった、だから追い出されて逃げていった。しかしそこに御使いが現れて、言う。

16:8 そして言った、「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。彼女は言った、「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。

御使いは、わざわざハガルの立場を言う。
「サライのつかえめハガルよ」
御使いは、彼女が、女奴隷である、という身分を強調している。女奴隷であるからには、元々主人の元で見を低くしているなら、何も追い出される事はなかった。
それを、わたしのほうが上だ、と、驕り高ぶったり、女主人を蔑んだ目で見たり態度をしたり。そういう事をしたから、追い出された。
立場を思い起こさせた。すると、ハガルも答える。
「わたしは”女主人サライ”の顔を避けて逃げているのです」。
彼女は、正しい立ち位置を表明した。
こうして正当な立場表明をしたなら、御使いは、
16:9 主の使は彼女に言った、「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」。

直訳するなら、彼女の手の内で、身を低くしなさい、という事である。
女主人の手の望むままに、しっかり仕えなさい、と。
こうしてハガルは再び戻る事ができて、イシュマエルを生み、アブラハムの家で育つのだが、今一度追い出されてしまった。
しかし、主はハガルに、素晴らしい約束を与えられる。

16:10 主の使はまた彼女に言った、「わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くしましょう」。

これほど心強い約束が与えあっれたなら、もはや恐れる必要はなかった。そして、自分の女奴隷という立場をずっと続けていくべきだった。

そして女主人サラに、イサクが生まれたのだが、そのイサクの事を、ハガルの子イシュマエルが、「からかっている(ツァハァク:蔑み笑う)」のを、女主人サラに見られてしまった。
ハガルは女主人の元で、身を低くしているべきだった。まして女主人に子供イサクが生まれたからには、彼の前にも身を低くしているべきだった、のに、それをしなかった。
イシュマエルがからかっているのを見て、ハガルもある種、もっといじめてやれ、という思いがあったかもしれない。ともかく、イシュマエルのからかいを止めなかった。そしてそれを見られてしまったために、追い出されたのだ。
身を低くしているべき時にしないで、高ぶってしまうと、追い出されてしまう原因となってしまう。
アブラハムも、相当悩んだだろう。しかし、主はアブラハムに、かつてハガルに対して言われた事とまったく同じことを言われる。

21:12 神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。
21:13 しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。

主はこの少年まで、大きな国民としよう、と言われた。ハガルも16:10で、全く同じことを約束された事は、アブラハムも当然知っていた事だろう。
だから安心して、彼女とイシュマエルを送り出す事ができたのだ。
アブラハムは確かに最初、悩んだ末に祈った、祈った結果、主が答えられた、その答えは、あなたの子イシュマエルも、ひとつの国民にしよう、という力強いものだった、だから、アブラハムは送り出すことができたのだ。
アブラハムは「追い出した」のではない。神様の約束つきで「送り出した」のだ。だから、そもそもこの場面、アブラハムが酷いことをした、というのは、早計なのだ。

ところがハガルのほうが自暴自棄になったのだろう、ああ自分は追い出されたのだ、という思い、悲しみ、ひがみ、誇大妄想によって、彼女はわざわざ、ベエル・シェバの「荒野」のほうへ歩いて行く。
ベエル・シェバは「7つの泉(井戸)」という意味で、泉があり、町がある所だ。だから普通に道沿いに行けば、普通に町に出るはずなのに。
実際彼女がさまよい歩いていた荒野、イシュマエルを一人置きざりにして離れた、その場所のすぐそばにも、井戸があった。それなのに、見えなかった。

ベエル・シェバの泉が見えなくなってしまうコツ、それは、感情に目が塞がれてしまっている事。
感情で目が塞がれてしまっていると、せっかくベエル・シェバの土地が与えられても、しかし肝心の泉が、水が見えなくなってしまう。
自分はかわいそうだ、(約束付きで送り出されたのに)追い出されたのだ、と、マイナスに撮って、人の善意を悪意に受け止めるなら、泉が見えなくなってしまう。
心の中が不平不満でいっぱいになるなら、誰でもわかるしるしがあっても、それが見えなくなってしまう。

ベエル・シェバ、その場所は、心が争っている人、不平不満、鬱憤がある人には、泉が見えない。

彼女の場合、感情が高ぶって「自分がかわいそう」「あの人が悪い」「みんな悪い」「なんでわたしだけ」という思いで満たされて、そして、神様の約束を忘れており、感謝を忘れている。
自分の立場を忘れている、となると、ベエル・シェバ、という場所にたとえ行ったとしても、見えなくなってしまう。

彼女には、約束が与えられていた。あなたの子孫は、大いに増やすので、数え切れないほどになる、と、主ご自身から与えられ、しかも、主は聞かれた、という事で「イシュマエル」という名前さえつけた。
イシュマエルの名前の意味は、神は聞かれる、という意味だ。
神は聞かれる、といわれる子供を、手放して、自分は矢の届くほどの距離に離れて、自分は泣いている。
神様の約束を手放し、神は聞かれると言われる子供を手放し、自分かわいそうモードで泣いている、それは、自分で自分を滅ぼしてしまう人の性質。
彼女は「神は聞かれる」という子供を自ら手放してしまった。神様の言葉を聞くべきである。神様の約束を握りしめているべきである。


21:17 神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。

神様は、声を上げて泣いたハガルの声ではなく、少年の声を聞かれた。
この少年は泣いていたかは分からないが、天からハガルを呼ばれた。

21:18 立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。

神は約束を思い起こさせた。少年の声を聞かれた故である。少年のゆえに、ハガルは助かったのだ。

21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし、わらべに飲ませた。
21:20 神はわらべと共にいまし、わらべは成長した。彼は荒野に住んで弓を射る者となった。

このように、神は彼女の目を開かれて、すぐそばにあった井戸を見つけさせて下さった。
感情が高ぶって、自分の思い込みで頭がいっぱいであるなら、見えないという事がある。
自分が迷子になった、どうしよう、と、標識が目の前にあるのに、それを読むことさえしない。
しかし神はハガルの目を開いてくださった。
このベエル・シェバの泉が見えなくなってしまう、、、感情で塞がれ、それを神様が開いてくださる。

神様が目を開いてくださる場面は、聖書でいくつかある。

そういう場面、人は、何かによって目が塞がれ、祝福も見えず、滅びの道も見えないという事がある。

民数記22章においても、主が目を開かれた場面がある。

民数記22:31-32
22:31 このとき主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使が手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。
22:32 主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。

ここでも、バラムという預言者、目が覆われていた。何によってか。カネに対する欲望によって、である。
それで、主が抜き身の剣をもって目の前に立ちふさがっているというのに、当代の著名な預言者バラムは、それが見えなかった。むしろ、彼が乗っているロバが、御使いの抜き身の剣を見て、その場にうずくまって、行かないようにしたが、バラムは、「進め、進め、なんで思い通りに行かないのだ」と、そのロバを打った。
欲望。自分がこうしたい、あれを手に入れたい、という思い突っ走り、目が覆われて、結局、その先に行けば剣で両断されてしまう、というのに。けれどもロバがそれを見て留まり、彼は命拾いした。
欲望。それは目を見えなくさせ、滅びの道に歩んでいるという事も見えなくさせ、主の道とは反対方向へ突き進んで主が敵対している事も見えない。
世の中の金銀を追い求めるゆえに、主日礼拝が軽んじられる、という事がある。


主がバラムの目を開いてくださったのは何故か。それは、ロバのおかげである。
ロバの信仰がバラムを救った。情けない話であるが、欲望で目がくらむと、見えなくなってしまうのだ。
 

新しくされ続けていくために(コロサイ3:1-17)
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週報/メッセージ(説教)概要

 古い年は過ぎ、新しい年へ移って行く。2017年はイザヤ65:17-18の御言葉によって始まった。すなわち、主は新しい創造をする、それを楽しみ喜べ、と。皆様の2017年は、その新創造を楽しみ喜べただろうか。
今回は、いかにすればこの新しい創造が私達の生活へと適用されて行くのか、コロサイ3章から学びたい。
『このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。』(コロサイ3:1) 「よみがえり」を経験するには、まず「死ぬ」というステップが必要だ。すなわち、御言葉でない、古い生来の生き方や考え方を、死へと投げ込むのだ。
そして、キリストが座を占めている「上」を求め続ける事が命じられている。地上のものを見ても、箸にも棒にもかからないような、むしろ、誘惑されてしまうようなもので溢れている。だからキリストを見続けていくべきだ。

キリストと共に死んだ人は、どのような立場か。『あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。』(3節) 私達の心臓は相変わらず動いている。
それなのに「既に死んだ」と書いてあるのは、どういう事か。私達がキリストと共によみがえらされたなら、世の事柄、肉の事柄、罪の事柄に対しては真理上は既に「死んで」おり、そうであると見做さなくてはならない。
『このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、「認む:ロギゾマイ」べきである。』(ローマ6:11) この「認むべき(ロギゾマイ)」は、会計用語の「仕分け」をせよ、という意味である。会計上、罪と死の借金は、キリストが立て替えて「支払い済み」なのだ。
会計の仕分けは、素人が間違った書き方をして申告すると、業務差し止めを命じられる事もある。たとえ健全な経営であっても。しかし優れた会計士に仕分けてもらうなら、たとえ破産寸前でも持ち直す事がある。
私達自身も、「自分は相変わらず罪まみれ」、「サタンに支配されたままだ」と「仕分け」するなら、人生必ず破産する。しかし、いかに人生破産寸前であったとしても、「罪に対しては死んだもの」、「神に対してはキリストにあって生かされたもの」と仕分ける時、私達の中に、どんどん新しい人が創り上げられていく。

『キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。』(エペソ2:6)
これが私達の立ち位置である。キリストにあって新しく創られた私達のいのちは、もはや心臓や脳にあるのではなく、キリストと共に神に隠されている。そこはもはや、サタンも人も、病も貧しさも触れる事は出来ない。
キリストにあって生き始めた瞬間に、ホームレスから王子様へと変わった以上の「立場替え」が起きたのだ。
私達はもはや、王子・王女らしからぬ事は、してはならない。『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝に他ならない。…今は、これら一切の事を捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。』(コロサイ3:5-8節) 
人はどう英知を結集しても、科学を発達させても、自分で自分を変革できなかった。しかし私達はキリストにあって、本質が、いのちそのものが変革した。だから、以前の罪深い古い生き方は、変えられるのだ。

『互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て』(9節)
ここでの「うそ」とは、何か。それは5-8節でリストアップされている「捨て去るべき事柄」を、捨てられません、と言う事。それが「うそ」である。「わたしはお酒を止められません」「わたしは同性愛を止められません」など、全て、御言葉で「止めなさい」と言われている事を、「やめられない」と言う事は、偽りである。
確かに世の方法では、無理だったろう。しかしキリストは、私達のいのちを転換させて下さった!
ホームレスは、そのままではダンボールの家を捨てる事はできないが、王子様に立場替えしたのなら、王子として生き続ける事で捨てるのは可能である。同じように、永遠に生きる神の子へといのちが転換したのだから、以前の捨て去るべき罪の事柄は、キリストにあって歩み続ける事で、捨て去るのは、たやすい事だ。
ご存知だろうか、主イエスを信じ、御言葉に従順し続けている人は、日々、新しく創り変えられている事を。
『そして新しい人を着なさい。上から新しくされ続けている人は、自分を創造したお方のかたちに従い、真の知識へ至ります。』(コロサイ3:10 白畑司 逐語訳) 世に属する全てのものは古びて行き、造り変える事は不可能だが、私達はキリストにあって、上から新しくされ続けている。新しい年は、ますます古いものを捨て去り、そして年を重ねる毎に、ますます新しくされて行くみなさんでありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
新創造を自動化する方法(イザヤ65:17-18)
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イザヤ65:17-18
65:17 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。
65:18 しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。

2017年はこの御言葉で始まった。
生来の喜びは、すたれてしまうもの。だが、キリストにあって新しくつくられた喜び、新創造ゆえの喜びは、いついつまでも続くもの。
主の創造するもの、は、全て善きものだが、それを人間が、台無しにしてしまった。
不従順は、死を招き、呪いをまねく。人がみずから、不従順により、死を招くようになってしまった。
だから、その死や呪いから逃れるための唯一の手段は、御言葉に対する従順である。
いのちの源であり、創造主の御言葉に従うなら、新創造が働き、その新創造が、その人自身を引っ張っていくようになる。
私達は、いかにすれば新創造になるか、それは、人の力では不可能。死、貧しさ、飢え、という死から逃れるために、人は、奪ったり、騙したり、きたない手段も使う。そうした罪の立ち居振る舞いでは、結局、ますます死を積み立てることにしかならない。
唯一逃れる事ができるのは、神の言葉に対する従順。

コロサイ3章
3:9 互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
3:10 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。

新しい人を着た、現在形受動態だから、ずっと、され続ける事。すなわち、リニューアルされ続ける事である。
世の中のものごとは、どんどん古びていく。服も、建物も、肉体も、どんどん老いていく。
しかし、キリストにある人は、新しい人を、着た。そしてその新しい人とは、古びていく様とは逆行する。
宇宙はエントロピー増大の法則下にあり、秩序あるものは、どんどん無秩序へと崩壊していく方向性がある。
しかし、それに唯一逆らっているのが、いのち。このイエス・キリストが、世界の創造主である。
なぜ、エントロピー増大するのか。それは、人間が鍵。人間が、神の荷姿として作られたのに、神の御言葉に逆らった時、エントロピー増大がはじまり、人は死ぬ存在となり、全被造物も、宇宙全体も、やがて崩壊しなくてはならなくなった。
主が来るとき、全宇宙の粒子は、全部焼け落ちるが、その後に新天新地、すなわち、永遠の神の王国があらわれる。その、神の王国に入るためには、神の御言葉に従う、という事である。

どうやったら、この新しい人を着れる状態になるのか。
それは、キリストを信じ続け、御言葉の通り歩み続けている状態なら、キリストを着続けている状態になる。

3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

よみがえりを経験するには、一度、死ななくてはならないというステップがある。古い自分を、自らを、死へと投げなくてはならない。
それが、前提条件である。

そして、上のものを求め続けていく、という事がスタンダードであるべき。
地上の右左を見るなら、誘惑されたり、霊的に箸にも棒にもかからないようなことばかり追求するものであるが、私達が目を向けるべきは「上」であり、そこにはキリストが座しておれれる。

3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。

私達のいのちは、心臓や脳にはなく、神の内に隠されている。
だから、もし強盗がピストルを向けて「お前の命を奪うぞ」と言っても、あさってな事を言っている。確かに彼らは、心臓を止めることはできても、いのちは神の内に隠されているのであって、既に、死んでいるのだ。

3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

キリストが、私達のいのちであり、私達のいのちは、キリストである。
私達はそのまま単体で永遠は生きることはできないが、私達のいのちがキリスト、だから、私達は永遠に生きることができる。

私達はもっと、自分の立ち位置を理解するべきである。
いのちは、既に、天の所に隠されているのだ。
エペソ2:6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
これが、私達の立ち位置。サタンは既に踏みにじられている。もし私達がキリストにあり続けるなら、サタンは、下の存在なのだ。

3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
私達は、天にあるからには、もう、それにそぐわない事はしてはならない、と言うことである。
ホームレスが王子様になったなら、もう王子様はダンボールハウスには住まない。だから、以前のそのような以前の「くせ」は、脱ぎ去ってしまいなさい、と言うことである。なかなか昔の生活の呪縛から抜けないでいるかもしれないが、もう、真理の上では、キリストと共に蘇らされて、天の所に座しているのだから、あたかも、罪の奴隷であるかのような生活は、もう脱ぎ捨てなさい、と言われているのだ。

3:7 あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。
3:8 しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。

本質が、いのちが変わったのだから、そのような以前の生き方はしてはならない。
以前のホームレス的な考えは、捨ててしまい、止めてしまい、新しい生き方で歩みなさい、神の子らしく、王子らしく歩みなさい、という事だ。

3:9 互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、

「うそ」とは何か。
「いや、わたしは古いことは止められません」と言う人があるとするなら、それが、うそである。
わたしは女性だけれど、男として生きていきます、それも、うそ。そんな生き方は、創造主の前に、存在しない。
あたかも、情欲のほうが真理よりも上であるかのようにうそぶいて、真理を覆い隠す事を、偽りという。
聖書の言葉のほうがうそだ、という口のほうが、うそを言っている。
真理でない事をもって真理を覆い隠すような、偽りを言ってはならないのだ。
主は、私達を、ご自身に似せられて、最も尊いものだと言っておられるのに、そんなことないよ、と言う言葉が、偽りである。
それを、いかに声高に叫んで、装った所で、そんなものは続きはしない。
女が女で生まれて女として生きる事は、生きやすいこと。男が男で生まれて男として生きる事は、生きやすい。
それをいかに振りをした所で、無理矢理感の重圧に潰されて行ってしまう。

3:9 互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
3:10 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。

古い人は、5節や8節にある。
地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲。
怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉。
以前、そのように歩んできた人々は、それ以外にできなかったし考えられなかったから、やめるのは不可能だったかもしれない。しかしこれらは、キリストにあって生まれ変わった人にとっては、もはや止められる事柄。

「いや、わたしは、この情欲を決して捨てられません」、これが、偽り。
「いや、わたしは礼拝中の居眠りが、やめられません」
「いや、わたしは**が、やめられません」
それ、全部、うそ。だから、9節につながる。

3:9 互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
リニューアルされ続けて、いる。
だから、その真理の内に歩み続けてなさい、という事。
神の子として生まれた人は、神の子として、生きていく。その人は、どんどん日毎新しくされ続けていく。

3:11 そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

国民は関係ない。ユダヤ人は律法を持ち、ギリシヤ人は、知恵を追求する。すくて野人は野蛮人の代名詞であるが、関係ない。キリストにあって、キリストが、全てとなる。

以前のものは、もはや、関係なくなる。
以前のものが、やめられません、それは、うそ。

もし10年前、キリストを受け入れて生まれ変わったはずなのに、相変わらず10年以上前の悪どい汚れた性質を手放さないでいるとしたら、ずっとその日々、キリストにあって過ごしていなかった事の証左にすぎない。
キリストにあって歩み続けているなら、もはや、汚れたものは投げ捨てずにはいられなくなるもの。
怒り、汚い手癖、恥ずかしてく、自分に嫌になっていくのが、正常な反応であり、イエス様に助けを求め続けていく。本当にキリストにあって歩んでいるなら、
でも相変わらずそうした汚れた事を、痛まず、臆面もなく、むしろ楽しんでしているなら、ただ口先だけで仕えるものであって、心はキリストから離れた人である。
神と人とに対して痛みを覚えないとするなら、それはとても問題な事である。

12節以降に、勧めがある。
3:12 だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。

3:12 だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
3:14 これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。
3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。
3:16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
3:17 そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。

これが、キリストにあって新しく生まれ変わった人の標準である。
以前のものを脱ぎ捨てた人であり、イエス様に引っ張られて、愛という標準に乗っかって、進んでいく。

主は、新しい創造をされる。その新創造の中で、進み行くべきだ。
それを喜び楽しみなさい、という事で、進んできた。
私達はどれほど、この一年で新しくされて行っただろう。
肉的な世的な標準はますます捨て去り、ますます新しくされ続けて行くこれからの年月でありますように。
 

イスラエルを分断するために主から用いられたヤロブアム(2歴代誌10:1-2)
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10:1 レハベアムはシケムへ行った。すべてのイスラエルびとが彼を王にしようとシケムへ行ったからである。
10:2 ネバテの子ヤラベアムは、ソロモンを避けてエジプトにのがれていたが、これを聞いてエジプトから帰ったので、

王権はソロモンからその子レハブアムへ移った。
この、レハブアムの時代にイスラエルは重大な転換点を迎える。すなわち、南北王国への分断である。
そのために主に用いられた重要な器が、ネバテの子ヤロブアムである。
今回はこのヤロブアムについて見ていきたい。

彼がどういうわけで用いられたのかについては、列王記のほうに記されている。


『ゼレダのエフライムびとネバテの子ヤラベアムはソロモンの家来であったが、その母の名はゼルヤといって寡婦であった。彼もまたその手をあげて王に敵した。彼が手をあげて、王に敵した事情はこうである。ソロモンはミロを築き、父ダビデの町の破れ口をふさいでいた。ヤラベアムは非常に手腕のある人であったが、ソロモンはこの若者がよく働くのを見て、彼にヨセフの家のすべての強制労働の監督をさせた。』(1列王記11:26-28)

エフライムは、イスラエルが特に祝福したヨセフの子孫であり、北イスラエル王国の代表的な民族であるが、そのヨセフ一族の監督として立てられたヤロブアムを、主は、イスラエルを分断する者として用いるため、預言者アヒヤを彼に遣わされた。
彼は「手腕家」と記されている。政治的にも、人望的にも優れた人だったのだろう、だからこそ人々から選ばれたのだ。
そして彼に、主は、ダビデに並べて語っているからには、きっと彼は主に聞き従って大成するポテンシャルを持った人であったのだろう、それで主に選ばれたのだ。

『そのころ、ヤラベアムがエルサレムを出たとき、シロびとである預言者アヒヤが道で彼に会った。アヒヤは新しい着物を着ていた。そして彼らふたりだけが野にいた。』(1列王記11:29)
彼らは野原で二人だけの状況で、誰も彼らの会話を聞いていないが、アヒヤはそこで、象徴的な言葉を与える。

『アヒヤは着ている着物をつかんで、それを十二切れに裂き、ヤラベアムに言った、「あなたは十切れを取りなさい。イスラエルの神、主はこう言われる、『見よ、わたしは国をソロモンの手から裂き離して、あなたに十部族を与えよう。(ただし彼はわたしのしもべダビデのために、またわたしがイスラエルのすべての部族のうちから選んだ町エルサレムのために、一つの部族をもつであろう)。』(1列王記11:30-32)

外套を引き裂く事は、王権が引き裂かれる事を暗示する。
かつて、サウル王が主の御言葉を二度目に退けた時、サムエルはサウルに愛想を尽かし、出て行こうとしたが、その時サウルはサムエルを引き留めようとして上着のすそを掴んで、引き裂いたが、その時、サムエルは言った。
「主はきょう、あなたからイスラエルの王国を裂き、もっと良いあなたの隣人に与えられた。」(1サムエル15:28)
結局、王権はサウルの元を離れ、ダビデのものとなった。(1サムエル記24:4)

主に特別な油注がれた人が、主から警告が与えられてもそれを退け、御心にそぐわない事をあくまで続けるなら、その人はちょうどサウルやソロモンのような事が起こってしまう。
すなわち、与えられている支配権は主によって取り上げられ、別の人がそれを得るのだ。

『それは彼がわたしを捨てて、シドンびとの女神アシタロテと、モアブの神ケモシと、アンモンの人々の神ミルコムを拝み、父ダビデのように、わたしの道に歩んで、わたしの目にかなう事を行い、わたしの定めと、おきてを守ることをしなかったからである。』(1列王記11:33)

モアブの神ケモシュは、自分の子供を火で焼いて捧げるような邪教の偶像神である。
ソロモンはそのような神々に平伏すような愚かな事を行い、二度の警告にも聞き従わず、その道を進んでしまった。

『しかし、わたしは国をことごとくは彼の手から取らない。わたしが選んだ、わたしのしもべダビデが、わたしの命令と定めとを守ったので、わたしは彼のためにソロモンを一生の間、君としよう。そして、わたしはその子の手から国を取って、その十部族をあなたに与える。その子には一つの部族を与えて、わたしの名を置くために選んだ町エルサレムで、わたしのしもべダビデに、わたしの前に常に一つのともしびを保たせるであろう。』(1列王記11:34-36)

彼が生きている間にその分断が起きなかったのは、決してソロモンに何か良い分がかったからではない。
ソロモンは、サウルの場合と違い、彼の父・ダビデが示した忠実の故に、また、主の御名が置かれたエルサレムの故に、生きている間は王権は取り上げられなかったのだ。

主はヤロブアムに、王として統治するに、自由裁量を与えられる。
『わたしがあなたを選び、「あなたはすべて心の望むところを治めて(KJV: thou shalt reign according to all that thy soul desireth)」、イスラエルの上に王となるであろう。』(1列王記11:37)

このように、主が特別な任に召しだされる人に、主は、それを遂行するに必要な能力(賜物)と、全て必要な手はずの整えと、そして「自由裁量」が与えられ、それに従って、御旨を遂行していくものだ。
しかし、その自由裁量の中で、与えられた能力や手はずを、主のためではなく、自分の欲望を満たすためにのみ用いて事を為し続けるなら、主から特別扱いされているだけに、ペナルティもまた大きい。それは、ヤロブアムがこの後、どう歩み、どうなってしまうのかを見て行くと、よくわかる。

続く言葉は、驚くべき言葉である。
『もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。わたしはこのためにダビデの子孫を苦しめる。しかし永久にではない』」。』(1列王記11:38-39)
なんと主は、このヤロブアムに、ダビデのように、長く続く堅固な家を立てる、と、ダビデに準じるような約束を与えられている。

ヤロブアムには、これ程の約束が与えられている、というのに、彼の名を知らないクリスチャンは、多いと思う。
なぜなら、彼の家は、たったの二代で断たれてしまったからだ。
なぜなら彼は、祝福の条件である次の言葉、「もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば」、という点を全く守らず、警告を受けても改めなかったからだ。
もしヤロブアムが主の命令に聞き従い、主の目にかなう事を行っていたのなら、ヤロブアムの名は、ダビデに次ぐ栄光の名前になっていた可能性も有り得たわけであり、もし、ダビデが戒めを受けてもなお心頑なにし罪を犯し続けていたなら、彼の名はここまで大きくはならなかったのだ。
彼にしても、ソロモンにしても、そしてダビデにしても、主を恐れ敬い、主の御言葉に従って歩むという「祝福の条件」を満たす人に、主は大いに報いて祝福を下さるが、もしその逆の道を歩むなら、その人には約束の祝福は成就しないばかりか、悲惨な目に遭ってしまう。

私達にも全く同様である。
主から素晴らしい祝福の約束をいただき、預言の御言葉をいただいているにもかかわらず、主を軽んじ、御言葉に反して身勝手な道を歩み続けるなら、主はそのことについて警告を与えられる。
それでも聞かないなら、与えようとしていた祝福は取り上げられ、それでも悔い改めないなら、聖書の中でそのように歩んだ人達と、同じ末路になってしまう。
一体、幾人の人達が、主から素晴らしい召命をいただいておきながら、不従順によって、その特別な地位を奪われ、歴史の闇へと消えて行ってしまったのだろう。

『ソロモンはヤラベアムを殺そうとしたが、ヤラベアムは立ってエジプトにのがれ、エジプト王シシャクのところへ行って、ソロモンの死ぬまでエジプトにいた。』(1列王記11:40)
ソロモンは、主に対して不実だった自分を悔い改める事なく、また、その結果もたらされた「新展開」を素直に受け入れず、ヤロブアムを抹殺しようとしたのだ。
しかし、彼の計らいは叶わなかった。

主の御旨に従わない悪い王が、主の御旨に適う新しい王が誕生したのを聞いた時、悪い王は、その新しい王をあらゆる権力を行使して殺そうとするも叶わず、彼にはエジプトへ逃げられてしまう。
どこかで聞いたことのある話である。
そう、イエス様が誕生された時、ちょうど同じ事が起きた。

当時、ユダヤを治めていた悪い王・ヘロデは、ユダヤの新しい王が誕生したうわさを聞いた時、その赤子を殺害しようとしたが、主はその子をエジプトへ逃れさせ、ヘロデ王が死ぬまで、エジプトでかくまわれた。(マタイ2章)
ソロモンがヘロデ王と同じ行動を取ったのは、情けない話であるが、主がひと度「成す」と定められた事には、いかに強い王が権力を駆使して抹殺しようとしても、無駄なのだ。

これを境に、イスラエルの歴史は暗転する。
王国は北と南に分裂し、悪い王と良い王の交錯する混乱した時代へと突入する。
そして、その中で一貫して貫かれている法則は、主に従う王は栄え、主に従わない王は災いに満ちている、という点だ。

人はみな、罪があり、間違った方向へ行く事もある。
そんな自分の罪を悲しみ、悔い改めて主に立ち返る人に対して、主は憐れみ深く赦して下さるが、指摘された自分の罪を悲しまずに、むしろ楽しみ、主から戒められても、なお改めないなら、災いに満ちてしまう。

私達はダビデのように、素直に悔い改める性質でありたい。
彼はそのような性質だったからこそ、大いなる栄誉が与えられたのだ。

力、女、金 vs 御言葉 - 王たる者が求めてははらぬものと求めるべきもの(2歴代誌9:13-31)
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前回の箇所では、シェバの女王が来訪し、ソロモンに与えられた知恵と栄誉、イスラエル栄えている有様を目の当たりにして息をのんだ。
今回の箇所でも、ソロモンがいかに栄華を極めていたかが記されている。

9:13 さて一年の間にソロモンの所にはいって来た金の目方は六百六十六タラントであった。
9:14 このほかに貿易商および商人の携えて来たものがあった。またアラビヤのすべての王たちおよび国の代官たちも金銀をソロモンに携えてきた。
9:15 ソロモン王は延金の大盾二百を造った。その大盾にはおのおの六百シケルの延金を用いた。
9:16 また延金の小盾三百を造った。小盾にはおのおの三百シケルの金を用いた。王はこれらをレバノンの森の家に置いた。

毎年、外国から膨大な金がもたらされ、ソロモンはそれを用いて宮殿をきらびやかに飾る。
盾は武具であるが、純金は重く、また金属として柔らかいので、戦闘では役に立たない。
だから、これらは武器庫にではなく、宮殿のきらびやかさを示す「飾り」として置かれた。

9:17 王はまた大きな象牙の玉座を造り、純金でこれをおおった。

象牙は今も貴重であるが、それが純金で覆われた王座にソロモンは座して執務を行った。

9:18 その玉座には六つの段があり、また金の足台があって共に玉座につらなり、その座する所の両方に、ひじかけがあって、ひじかけのわきに二つのししが立っていた。
9:19 また十二のししが六つの段のおのおのの両側に立っていた。このような物はどこの国でも造られたことがなかった。
9:20 ソロモン王が飲むときに用いた器はみな金であった。またレバノンの森の家の器もみな純金であって、銀はソロモンの世には尊ばれなかった。
9:21 これは王の船がヒラムのしもべたちを乗せてタルシシへ行き、三年ごとに一度、そのタルシシの船が金、銀、象牙、さる、くじゃくを載せて来たからである。

ソロモンの時代、いかに金が、国々の珍しい動物が集められて来たか、いかに栄光ある時代であったかが伺える。
かつてどの国にも造られた事の無かったような贅を凝らした王座に座し、金の器物が惜しみなく大量に使用された宮殿に住み、どの国も、かつてなかった程のごちそうが毎日宮殿で振る舞われ、そのような豪勢な暮らしをしていた。

9:22 このようにソロモン王は富と知恵において、地のすべての王にまさっていたので、
9:23 地のすべての王は神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとしてソロモンに謁見を求めた。
9:24 人々はおのおの贈り物を携えてきた。すなわち銀の器、金の器、衣服、没薬、香料、馬、騾馬など年々定まっていた。

国々の王達が、全世界より、陸路からも海路からも栄光を携え上って来る。。。まさに啓示録22章のような有りさまではある。確かに主の道を歩む者に、神はそのような祝福を与えて下さるが、結局それは彼の信仰が正しい形で貫き通されたからではなく、父ダビデの信仰の「七光り」であった。

神の国とその義とをまず第一に求めれば、必要なものは、加えて、全て与えられ、自然と富も栄光も追いかけてくるのだが、しかし彼は、途中からそれが逆転してしまった。
すなわち彼はいつしか、富や栄光を優先して追いかけるようになり、神の国とその義を追い求める道を捨て去ってしまった。
そのような者は、富や栄光を追いかけても、それらに逃げられてしまうようになる。
彼は人生の後半、贅沢な暮らしを続けるために、人々に重税を課した。(2歴代誌10:4)
統治の初期は、食料も富もふんだんに追いかけてきたイスラエルだったのに、いつしかソロモンが信仰を離れてから、それらは途絶えてしまったのだ。

9:25 ソロモンは馬と戦車のために馬屋四千と騎兵一万二千を持ち、これを戦車の町に置き、またエルサレムの王のもとに置いた。
9:26 彼はユフラテ川からペリシテびとの地と、エジプトの境に至るまでのすべての王を治めた。
9:27 王はまた銀を石のようにエルサレムに多くし、香柏を平野のいちじく桑のように多くした。
9:28 また人々はエジプトおよび諸国から馬をソロモンのために輸入した。

ソロモンはエジプトから馬を大量に輸入した。
モーセは、神をおそれる国の王たるものが、してはならない事を、3つ示している。

申命記17:16 王となる人は「自分のために(KJV: to himself)」馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。
17:17 また妻を(KJV: to himself)多く持って心を、迷わしてはならない。また「自分のために(KJV: to himself)」金銀を多くたくわえてはならない。

王たる者が集めてはならないものは、すなわち、力と、女と、金である。
馬は、戦争で用いる動物であり、当時の軍事力の指標であるが、神は馬の力を喜ばれない。
なぜ馬を多く得るために「再び」「エジプトへの道を帰ってはならない」と主は言われたのか。

エジプトはかつて、イスラエルの子・ヨセフによって、世界一の強国となったにもかかわらず、後には、イスラエルの民を奴隷として搾取し、それによって得た富をイスラエルには還元せず、ただ自分のために蓄えた。
エジプトは、馬や戦車などの軍事的強制力でもって他人を抑え、奴隷として搾取し、さらには、イスラエルの民が増えて脅威となったならもっと過酷な労働を課して減らそうとし、それでもだめなら、男子が生まれたらナイル川に捨ててまで、減らそうとした国である。

そのように、馬を増やして強制力を強くする事や、自分のために金銀を増やす事は、エジプトの流儀であり、そのような流儀に「戻って」はならないのだ。
これは、クリスチャンも同じである。
人々を強制力で縛り、搾取し、自分のために富を蓄える事は「世のやり方に戻る事」であり、そこに戻るとするなら、主がエジプトを撃って神の民を救われたように、主は、そのような事をする者達を撃ち、搾取されてあえいで苦しんできた人々を、救って下さるのだ。
だから「その道に帰ってはならない」と言われたのだ。

神を主とする国の王たる者は、軍事力を積み上げる事に、やっきになってはならない。
ダビデも自国の兵力を数えるという罪を犯し、イスラエルに災いを招いてしまった。力を頼みとする者は、おごり高ぶったり、神をないがしろにしかねないのだ。

また、してはならない事の二つ目は、妻を多く持つ事である。
それによって心迷うからであり、また、主は元々、人を男と女とに創造され、「ふたりは一体となる」と言われた通り、多くの伴侶を持つのは、本来あるべき姿ではないのだ。
実際、聖書を見ると、多くの妻を持っている家庭は必ずと言っていい程、争いがあり、子育てに失敗している。

してはならない事の三つ目は、金銀を多く蓄える事である。
『金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。』(1テモテ6:9-10)

力、女、金。それらを追求するのは、世の男の常であり、多く持つ事がステータスであるが、しかし、神の民は、それらを第一に追求するものではない。
神の民は、御言葉をこそ追い求めるものであり、神の国とその義を求めるなら、それらのものは、ついてくるものである。
モーセは、王たる者が求めてはならない三つのものを示した後、求めるべきものを以下のように示した。

申命記17:18 彼が国の王位につくようになったら、レビびとである祭司の保管する書物から、この律法の写しを一つの書物に書きしるさせ、
17:19 世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない。
17:20 そうすれば彼の心が同胞を見くだして、高ぶることなく、また戒めを離れて、右にも左にも曲ることなく、その子孫と共にイスラエルにおいて、長くその位にとどまることができるであろう。

そう、王たる者は、御言葉をこそ第一に目を留め、そこから右にも左にも離れること無く統治して行くべきなのだ。

9:29 ソロモンのそのほかの始終の行為は、預言者ナタンの書と、シロびとアヒヤの預言と、先見者イドがネバテの子ヤラベアムについて述べた黙示のなかに、しるされているではないか。
9:30 ソロモンはエルサレムで四十年の間イスラエルの全地を治めた。
9:31 ソロモンはその先祖たちと共に眠って、父ダビデの町に葬られ、その子レハベアムが代って王となった。

こうして、ソロモンの統治は、40年で終わった。
もし彼が主の道に歩んでいたなら、その日数は増し加えられていたのに、そうではなかったのは、彼の本心が、主から離れてしまったからだ。

『このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。』(1列王記11:11:9-11)

主はソロモンに立ち返るようにと、2回、現れた。
王国の分裂を止めるために、神はたった2回しか現れなかったのか、と思う人がいるかもしれないが、主は「これがあなたの本心」と言われた。そう、主は本心をご存知であるので、ある人には10回でも20回でも現れてその人が滅びに向かうのを止めることはあるだろう。
しかしソロモンの「本心」は、2回でも20回でも変わらないものだと主はご存知だったのだ。

私達は、ソロモンの道に歩むべきではない。
彼は、してはならないと言われていた事を止めず、戒められても、もう改心する余地が心の中に残っていなかった。
私達はソロモンのように、力や異性、お金を第一に追いかけるものではなく、王族の祭司らしく神の国とその義を第一に求めるべきであり、そして御言葉にのみこそ目をとどめ続けるべきだ。
そしてもし、道を誤っている事が主から示されたなら、ダビデのようにすぐに悔い改め、方向性を御言葉へと修正するべきだ。
そうするなら、必要なものは全て「加えて」与えられ、

シバの女王の来訪(2歴代誌9:1-12)
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9:1 シバの女王はソロモンの名声を聞いたので、難問をもってソロモンを試みようと、非常に多くの従者を連れ、香料と非常にたくさんの金と宝石とをらくだに負わせて、エルサレムのソロモンのもとに来て、その心にあることをことごとく彼に告げた。
9:2 ソロモンは彼女のすべての問に答えた。ソロモンが知らないで彼女に説明のできないことは一つもなかった。

シバの女王の来訪の場面は多くの芸術家が題材にした。
栄華を極めたソロモンに、南の女王が栄光を携え来て、栄華を競う様には華やかさを感じるものであるが、大事なお方は、主を敬う人々に栄華を与える事のできるお方、主である。
いかにダビデの子として愛され、主に約束され、栄華を極めた者であっても、全ての祝福の源である主に背き、他の神々に向かってしまうとするなら、その転落もまた早い。

9:3 シバの女王はソロモンの知恵と、彼が建てた家を見、
9:4 またその食卓の食物と、列座の家来たちと、その侍臣たちの伺候振りと彼らの服装、および彼の給仕たちとその服装、ならびに彼が主の宮でささげる燔祭を見て、全く気を奪われてしまった。

私達もソロモンのように祝福され、主を知らない人が祝福されている様を見て主を誉め称える事を目指すべきである。
息子や娘の服装や言葉遣い、立ち居振る舞いにおいても、そして、私達が礼拝するその礼拝においても、主の栄光が豊かにあらわれ、そうして世の人々に対し大いに証ができるようになるために、自らを整え、御言葉をもって歩み、子供達を御言葉によって教育するのだ。

マタイ5:14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

9:5 彼女は王に言った、「わたしが国であなたの事と、あなたの知恵について聞いたうわさは真実でした。
9:6 しかしわたしは来て目に見るまでは、そのうわさを信じませんでしたが、今見ると、あなたの知恵の大いなることはその半分もわたしに知らされませんでした。あなたはわたしの聞いたうわさにまさっています。
9:7 あなたの奥方たちはさいわいです。常にあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くこのあなたの家来たちはさいわいです。
9:8 あなたの神、主はほむべきかな。主はあなたを喜び、あなたをその位につかせ、あなたの神、主のために王とされました。あなたの神はイスラエルを愛して、とこしえにこれを堅くするために、あなたをその王とされ、公道と正義を行われるのです」。

彼女は「あなたの神、主はほむべきかな」と、主の御名を褒め称えるに至った。
まことに、主に祝福された人は、その祝福された様を通して、主を知らない人が、主に立ち返るのだ。

9:9 そして彼女は金百二十タラント、および非常に多くの香料と宝石とを王に贈った。シバの女王がソロモンに贈ったような香料は、いまだかつてなかった。
9:10 オフルから金を携えて来たヒラムのしもべたちとソロモンのしもべたちはまた、びゃくだんの木と宝石をも携えて来た。
9:11 王はそのびゃくだんの木で、主の宮と王の家とに階段を造り、また歌うたう者のために琴と立琴を造った。このようなものはかつてユダの地で見たことがなかった。
9:12 ソロモン王は、シェバの女王が贈った物に報いたほかに、彼女の望みにまかせて、すべてその求めるものを贈った。そして彼女はその家来たちと共に自分の国へ帰って行った。

彼女はソロモンと多くの贈り物を交換し、そして多くの知恵を得て、満足の内に帰って行ったであろう。
彼女が持ち帰った、何より素晴らしい知識は、主の栄光である。

彼女は、「あなたの奥方たちはさいわいです。常にあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くこのあなたの家来たちはさいわいです。」と言ったが、永遠の観点から見て、果たして幸いなのは、ソロモンだろうか。それとも彼女だろうか。
彼女のほうである。
イエス様は彼女について言及している。

ルカ11:31 南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果からはるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。

彼女は、知恵を聞くために遠くから旅して来た者であるので、さばきの日、イエス様の言葉を聞いて信じなかった者達をさばく側にまわる、とイエス様は言われた。
聞いて信じる者は、幸いであるが、引き換えソロモンは、後半人生、ただただ空しいという言葉が口癖になってしまった事が、伝道者の書から伺える。

伝道者の書1:1 ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
1:2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
1:3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

この世界観は、世界の多くの宗教や哲学に通じるものであるが、これがまさに、まことの神抜きに知恵だけを膨張させた者が行き着く先なのだ。
なんでソロモンは、そうなってしまったのか。

伝道者の書2:3 わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。

つまり、主から与えられた知恵だけでは飽き足らず、愚かさも身につけようとしたのだ。
彼は、欲望や富を追求する事に対してのみならず、知恵を追求するにおいて貪欲でありすぎた故、その「貪欲」に飲み込まれてしまったのだ。

いかに人類最もIQが高いソロモンと言えども、貪欲に妥協してそれを追求してしまったら、その誘惑に勝つことは出来なかった。とするなら、ましてや、私達などが貪欲を追求したりするら、勝てるわけが無いのだ。
だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲は、私達の内に生かして置く事なく、殺してしまうに限る。

新約でソロモンについてもう一箇所、言及されているのは、「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」という所である。(マタイ6:29、ルカ12:27)
結局大事なのは、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、ソロモンよりも美しく装わせて下さる主であり、ソロモンよりもさらに優れた御方、主イエス様を信じる事である。

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