メッセージ - pastorさんのエントリ

妻が先か?夫が先か?(エペソ5:22-33)
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5:22 妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。
5:23 キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。
5:24 そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。
5:25 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
5:28 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
5:29 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。
5:30 わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。
5:31 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。
5:32 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。
5:33 いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。
 
夫が妻 に対してなすべきは、愛すると言うこと。ここで用いられている愛は、エロスの愛でも、フィレオでもなく、アガペの愛である。
だから夫が妻を性的な愛で愛するのでもなく、あるいは単に慕うだけでもなく、捧げ尽くす愛を持って端を愛さなくてはならない。
 
女性は、愛されれば愛されるほど、輝き、おしとやかに、美しくなっていくが、愛されていない妻は、いつも角が出ている。
けれども愛されると、この角がどんどんどんどんなくなって、羊のようにおとなしくなっていく。
羊は角があったとしてもくるくる丸まっているので、突かれても怪我はしない。
28節にあるが、夫も妻を自分の体のように愛さなくてはならない。
 
自分の妻を愛するものは、自分を愛している。
どういうことかと言うと、妻 を愛するならば妻はどんどんしとやかになり、慰めがたくさん出てくるし、従順も出てくるし、そうすると男性は家に帰って妻から慰めを得られるし、勇気をつけられ、従順するようになり、すなわち妻を愛する事は自分を愛することにつながる。
 
29節、誰でも自分の身を憎んだものはいないむしろ養い育てる。。。この奥義は偉大である、キリストと教会そしてこう言っている。
これが夫婦円満の鍵であり、それはまず妻の従順があってのことである。
 
エペソのみならず、ペテロの手紙においても、妻たちを、夫のことが書いてあるが、結婚における指示はまず妻に対しての指示が先である。
だから先に、妻が夫に従うところから始まるのが、家庭が円満になるコツで ある。
 
1ペテロ3:1 同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、
3:2 あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。
3:3 あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、
3:4 かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。
3:5 むかし、神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも、このように身を飾って、その夫に仕えたのである。
3:6 たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである。
 
サラは夫アブラハムに従順した。たとえ「妻ではなく妹だと言いなさい」と、真理でない事を言われ、サラがパロへ、アビメレクへと妻として奪われて行っても、無言のふるまいにより、神が働いて、パロをおののかせ、アビメレクを恐れさせた。
そして、夫に対して書いてある。
 
1ペテロ3:7 夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである。
 
女性は時に感情の波に押し出されて動く時があり、理にかなっていない事をする時、夫の側が、女性は自分よりも弱い器だという事を認めて、怒ったりなじったりする事なく、フォローしてあげるべきである。
雅歌書にも書いてある。
 
4:6 日の涼しくなるまで、影の消えるまで、わたしは没薬の山および乳香の丘へ急ぎ行こう。
4:7 わが愛する者よ、あなたはことごとく美しく、少しのきずもない。
4:8 わが花嫁よ、レバノンからわたしと一緒にきなさい、レバノンからわたしと一緒にきなさい。アマナの頂を去り、セニルおよびヘルモンの頂を去り、ししの穴、ひょうの山を去りなさい。
 
雅歌書4:8でも、夫は妻に対し、レバノンから一緒に降りて来なさいと言っている。
レバノンは誇り高い山々で、堂々としたレバノン杉が生えている。そのプライド高いところから、一緒に降りよう、と。
 
さらに6節においては、影が消える頃までに、没薬の山、乳香の丘に行こうとある。
 
物薬と乳香と言えば、クリスマスにおいて、キリストに与えられたものであり、キリストの性質をあらわす。
だから夫たるものは、家に帰るときに身に付けるべきは、キリストの香り、キリストの性質である。
 
没薬は強い殺菌力と香りを持つもので、腐ることを防止する薬として用いられて来た。また乳香は甘い香りがし、神に薫香を捧げる時に用いられ、また王が用いるものである。
だから夫が、家に入る時、その直前に、これから没薬を、すなわち腐らない愛を身に付け、そして妻に対して甘い愛の 香りを、また王として、神に捧げる香りを身につけてから家に入るのだ。
 
だからたとえば、夫婦の間に争いがあって、お互いが「相手が謝らないと絶対に赦さない」となった時、先に降りるべきは、男性の方である。
男性が「理にかなっていない」と思っても、日が沈む前に没薬の山、乳香の丘に行き、夜、玄関前にたった時、決して腐らない愛を、また甘い愛の香りを身に着けてから玄関に入り、そして言うのである。
 
4:7 わが愛する者よ、あなたはことごとく美しく、少しのきずもない。
4:8 わが花嫁よ、レバノンからわたしと一緒にきなさい、レバノンからわたしと一緒にきなさい。アマナの頂を去り、セニルおよびヘルモンの頂を去り、ししの穴、ひょうの山を去りなさい。
 
もう、レバノンの高ぶりから「いっしょに」降りよう、ライオンの、ひょうの性質から、一緒に去ろう、と。
このように男性が家庭を平和へとリードして行くのである。
 
いずれにしても、妻が夫に従うことと、夫が妻をアガペーで愛する事は、ただキリストにあってできることである。
私達がキリストに従順し、妻も、夫も、自分の伴侶に対して整えるならば、その結婚生活はとても素晴らしいものになって行くのである。

しみやしわやそういった類の一切無い花嫁となるために(雅歌書4:1-8)
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前回は、いよいよ花嫁は花婿の豪華な車に迎えられ、花婿の家へと嫁いでいく様子が記されていた。
 
4:1 わが愛する者よ、見よ、あなたは美しい、見よ、あなたは美しい。あなたの目は、顔おおいのうしろにあって、はとのようだ。あなたの髪はギレアデの山を下る/やぎの群れのようだ。
4:2 あなたの歯は洗い場から上ってきた/毛を切られた雌羊の群れのようだ。みな二子を産んで、一匹も子のないものはない。
4:3 あなたのくちびるは紅の糸のようで、その口は愛らしい。あなたのほおは顔おおいのうしろにあって、ざくろの片われのようだ。
 
ここでは花嫁は顔おおい(ベール)をつけていた。
ベールは、自分と世とを隔てる壁であり、未婚の女性は、世のあらゆる男性に対してかけられ、そして自分の花婿となる男性に対しても、かけられた状態であった。
しかしいよいよ結婚において花婿と花嫁の誓約が成立したとき、そのベールは花婿によって取り除かれる。
そして新婚初夜の時、二人は奥の間へと入って行き、夫によってさらなるベールが取り除かれ、もはや二人には何の隔てもなくなり、一体となる。
 
このように本来、二人が一つになるまで、世と自分自身に対して、隔ての壁なすべきであり、そ してそれが、やがてきたるべき花婿のために、花婿によって取り除けられ、そしてやがては、顔と顔とを合わせて花婿と花嫁とは、奥の間において対面することになる。
 
これは、キリストと教会を表している。
私たちは今、花嫁修行中で、キリストと顔と顔と合わせて会いたいしている状態ではまだない。
しかしやがて、すべての覆いが取り除けられ、キリストご自身と、顔と顔と合わせて対面する時がやってくる。第一コリント13:12
 
その時に至るまで、花嫁が世と自分自身とを隔て、他のどんな男に対しても覆い隠すように、私たちもキリスト以外に自分を晒したり、頼りするものがあってはならない。
私たちも自分自身を覆うべきであり、私たち自身が、キリストに対して純潔を守り、時至って花婿であるイエス様に覆いを取り除けていただくのを待たなくてはならない。
 
今日本においては、結婚前までに、未来の旦那さん以外に純潔を守ると言う事は軽んじられてはいるが、結婚前に他の男に全てをさらし、大切なものを開いてしまうと言うことがあるから、今まさに結婚関係が破壊されている状態である。
夫以外に、妻以外に純潔を守ろうと言うことを軽んじる人は、必ず恋愛結婚関係で問題が起き、特に子供たちに被害が及ぶ。
 
今日の箇所では、花婿は花嫁と相対して、あらゆるところを褒めそやしている。
 
4:4 あなたの首は武器倉のために建てた/ダビデのやぐらのようだ。その上には一千の盾を掛けつらね、みな勇士の大盾である。
4:5 あなたの両乳ぶさは、かもしかの二子である二匹の子じかが、ゆりの花の中に草を食べているようだ。
 
彼女は確かに美しいかもしれないが、しかし結婚においては、相手の女性が必ず下若くて美しいものでなければならない、と言うわけでは無いし、夫も、若々しくカモシカのように力強くなくてはならないと言うわけではならない。外見や年齢や、シミやしわのあるいかんにかかわらず、素晴らしい花嫁になる方法がある。
 
 
エペソ五章に、どうしたらこの花嫁のように、シミやシワやそういった類が一切ないものになれるかが記されている。
皆さんは、傷やシミやシワのない清いものになりた いだろうか。
私たちの体は、歳をとればしみやシワが出てくる。この体のシミやシワは、どんなエステでも対処しようがないが、しかし霊的なシミやシワはキリストによって対処可能である。
キリストの御前に置いて、シミやシワのないものとなるためには、26節と27節に、その秘密が書いてある。
 
すなわち、御言葉と言う水でいつも洗い決まっているならば、どんなに歳をとっても、外見にシミがあっても、その女性は愛らしく美しい。
雅歌書のこの男性が花嫁を褒めそやしているのは、花嫁がまさに、自分自身からシミやシワを取り除くたしなみがあったからである。
 
エペソ五章22節から、花嫁が一体何を身に付けるべきかが記されている。
 
それはすなわち、妻たるもの、教会がキリストに対する立場、夫であるキリ ストに従うこと。
夫は、世の中に出て、戦って、働いて、そして家に帰ってくるが、もし家の中でも、妻との戦いや争いがあるとしたら、いったい男性はいつ、羽を休めることができるだろう。
そのような男性はますます疲れ果て、弱くなって、その弱い様を見た女はますます諍いを吹きかけて、夫は外部の何かに慰めを求めると言う、悪循環に陥っていく。
そして夫は、持ち上げてくれるプロの女性に、お金を払ってでも行くようになってしまう。それ程男性は、敬われる事に飢えているのだ。
だから、妻が夫に対してなすべきは、夫を敬うことと、従うことである。
 
ここで忘れてならないのは、キリストにあってということである。
例えば酒を買って来いとか、礼拝に行くなということにも従うのではなく、キリストにあってと従うということが大事。

主を恐れることによって人は悪を免れる(箴言3:1-12)
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箴言3:1 わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。
3:2 そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
3:3 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
3:4 そうすれば、あなたは神と人との前に/恵みと、誉とを得る。
3:5 心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
3:6 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
3:7 自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
3:8 そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。
3:9 あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。
3:10 そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる。
3:11 わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、その戒めをきらってはならない。
3:12 主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように。

箴言16:1 心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。
16:2 人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。
16:3 あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。
16:4 主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られた。
16:5 すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、確かに、彼は罰を免れない。
16:6 いつくしみとまことによって、とがはあがなわれる、主を恐れることによって、人は悪を免れる。

盲目に生まれついたのは神のわざがあらわれるため(ヨハネ9:1-7)
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ヨハネ9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神の「みわざ(エルゴン)」が、彼の上に現れるためである。
9:4 わたしたちは、わたしをつかわされたかたの「わざ(エルゴン)」を、昼の間に「しなければ(エルガゾマイ)」ならない。夜が来る。すると、だれも「働け(エルガゾマイ)」なくなる。

ヨハネ6:28 そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。
6:29 イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。

ルカ16:25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。

ヤコブ2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし「行い(エルゴン)」がなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
2:17 信仰も、それと同様に、「行い(エルゴン)」を伴わなければ、それだけでは死んだものである。

ヨハネ9:5 わたしは、この「世(コスモス)」にいる間は、「世(コスモス)」の光である」。
9:6 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、

創世記2:7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

9:7 「シロアム(「つかわされた者:アポステロー」、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。

マルコ3:13 さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。
3:14 そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教に「つかわし:アポステロー」、
3:15 また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

ローマ10:14 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15 「つかわされなくては:アポステロー」、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。

ローマ10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

神を尋ね求める者を救われる主(詩篇53篇)
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詩篇53篇表題「聖歌隊の指揮者によってマハラテのしらべにあ わせてうたわせたダビデのマスキールの歌」
53:1 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。

愚かなもの(ナバール)は、不純なこと、悪辣な事をあえてする人で、そんな彼らの根底に流れている人生観が「神はいない」である。
神を敬う人であるなら、たとえ一人でいる時でも、悪と見られる事に躊躇を覚える。
どこでも見ておられ、全てを知っておられるお方を敬っているからだが、愚かな者たちは何の呵責もなく悪を為し、利得をむさぼり、破滅の海原へと躊躇なく飛び込んでいくが、それは勇気や強さではなく、愚かさと無知の故だ。

「腐りはて」と記されている語「シャカァス」は自己破滅の状態で、まさに洪水前の世界の状態である。

創世記6:11  時に世は神の前に乱れて(シャカァス)、暴虐が地に満ちた。
6:12  神が地を見られると、それは乱れていた(シャカァス)。すべての人が地の上でその道を乱した(シャカァス)からである。
6:13  そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう(シャカァス)。

上記合計3節で4回も「シャカァス」が登場する。
すなわち人が破滅の行いをし、神の目に破滅状態で、そして世は、破滅した人によって破滅されてしまった状態であった。
これが「神はいない」の価値観を持った人間が増殖してしまった世界の、成れの果てである。

53:2 神は天から人の子を見おろして、賢い者、神を尋ね求める者があるかないかを見られた。

神は、天から、じっくりと、見ておられる。賢い者、神を尋ね求める者がいないかを。
ここで「賢いもの」と訳された語「サハール」のヒフィル(使役)態は、じっくり見る、注意を払って観察する、洞察力を持っている等の意味である。
神が私達にもとめておられることは、自らすすんでじっくりと神を尋ね求め、神を観察する事である。

ノアの時代の以前、ノアとその家族以外の全ての人々が腐れはて、憎むべき不義をおこなった。

53:3 彼らは皆そむき、みなひとしく堕落した。善を行う者はない、ひとりもない。

神は当時、目を皿のようにして地をご覧になられ、ノアを見出し、そして彼らを救って新しい世代を起こされた。

53:4 悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物(レヘム:パン)食うようにわが民を食らい、また神を呼ぶことをしない。

彼らは神の民を喰らい尽くす事において、パンを食べるがごとく、躊躇もなく、良心のとがめもない。
しかしあいにく、彼らが食う「神の民」は、パンとは違い、祈る民、神に言いつける民である。
神の民が神にむかって叫ぶ時、神が働かれる。
そこで神が彼らのために動き出し、彼らを救い、悪人にはさばきをもたらされる。

53:5 彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れた。神はよこしまな者の骨を散らされるからである。神が彼らを捨てられるので、彼らは恥をこうむるであろう。

この出来事の典型例が、ヒゼキヤ王の時代に起きた事だろう。
かの時代、アッシリアが台頭し、セナケリブ王がイスラエルへと攻めてきて、神の民と、そしてイスラエルの神である主をなじった。

2歴代誌32:10 「アッシリヤの王セナケリブはこう言っておられる。おまえたちは何に拠り頼んで、エルサレムの包囲の中でじっとしているのか。
32:11 ヒゼキヤは、『私たちの神、主は、アッシリヤの王の手から私たちを救い出される。』と言って、おまえたちをそそのかし、飢えと渇きで、おまえたちを死なせようとしているではないか。
・・・
32:15 今、おまえたちは、ヒゼキヤにごまかされるな。このようにそそのかされてはならない。彼を信じてはならない。どのような国、どのような王国のどのような神も、その民を私の手から、私の先祖たちの手から救い出すことはできない。まして、おまえたちの神は、おまえたちを私の手から救い出すことはできない。」

このように豪語した者はどうなったか。

2歴代誌32:20 そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。
32:21 すると、主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた。そこで、彼は恥じて国へ帰り、彼の神の宮にはいったが、自分の身から出た子どもたちが、その所で、彼を剣にかけて倒した。
32:22 こうして、主は、アッシリヤの王セナケリブの手、および、すべての者の手から、ヒゼキヤとエルサレムの住民とを救い、四方から彼らを守り導かれた。

まさに詩篇に記されていたとおり、彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れ、このよこしまな者たちの骨を散らされ、彼らは神をなじった故に大いに恥をこうむった。
神は確かに生きておられる。
たかだか100年ほどしか生きられない人間が、どんなに神はいないと吠えようとも、永遠に生きておられる神は、その高ぶる者たちを倒し、そして悩む民が主に呼ばわったとき、その声を聞かれ、実際に働かれたお方。

53:6 どうか、シオンからイスラエルの救が出るように。神がその民の繁栄を回復される時、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむであろう。

私達ダビデのように救いを求め、回復と繁栄を求め、全て主の民が喜び楽しむことを、イエス・キリストの御名によって求めることができる。
なぜなら私達にはイエス・キリストがおられ、おりにかなった助けを得るために大胆に恵みの御座へと近づく事ができるからだ。

悪の力でのし上がって行こうとする者、対、主により頼む者(詩篇52篇)
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詩篇52篇表題「聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデのマスキールの歌。これはエドムびとドエグがサウルにきて、「ダビデはアヒメレクの家にきた」と告げたときにダビデがよんだもの」

この表題の出来事は、1サムエル記21-22章にある。
ダビデがサウルから逃れて祭司アヒメレクのところに行った場面である。
命を狙われたダビデが、主を慕い求めるために礼拝の場に行ったのだが、そこに表題のドエグという者がいた。

『その日、その所に、サウルのしもべのひとりが、主の前に留め置かれていた。その名はドエグといい、エドムびとであって、サウルの牧者の長であった。』(1サムエル記21:7)

エドム人とは、エサウの子孫、すなわち、一杯の食物と引き換えに尊いものを売った者の子孫である。
彼は主を慕うために主の前にいたではない。何かの訳あって、そこに置かされていたのだが、彼は主を敬う心は全く無かった。

サウルは、主の御胸でないことを次々にして行く内に、どんどん悪霊に満たされ、どんどん人格が崩壊して行くが、ドエグはサウル王という権力者に気に入られるためには、通常の神の民には到底できないような物事も平気で行う。
『そこで王はドエグに言った、「あなたが身をひるがえして、祭司たちを殺しなさい」。エドムびとドエグは身をひるがえして祭司たちを撃ち、その日亜麻布のエポデを身につけている者八十五人を殺した。彼はまた、つるぎをもって祭司の町ノブを撃ち、つるぎをもって男、女、幼な子、乳飲み子、牛、ろば、羊を殺した。』(1サムエル記22:18-19)
剣で殺したのだから、返り血も浴びただろう。
エポデを着た祭司達の、血まみれの死体八十五体が累々と横たわる様を見ても全く動じず、むしろそこ(ギブア)からわざわざ祭司の町・ノブまで出向いて、祭司の妻や女子供、乳飲み子ばかりでなく、家畜までも、殺し尽くしたのだ。

このようなことをしたのが、ドエグである。
ダビデは、ドエグがした事を聞いて、この詩篇52篇を記した。

なお、この詩篇52篇もV字キアズム構造を為しており、表題(A)が9節(A')に、1節(B)は8節(B')に、2−4節(C)が6-7節(C')に、そしてV字構造の真ん中が、5節(D)である。

詩篇52:1 力ある者よ、何ゆえあなたは/神を敬う人に与えた災について誇る(ハラル)のか。あなたはひねもす人を滅ぼすことをたくらむ。
KJV: Why boastest thou thyself in mischief, O mighty man? the goodness(ヘセド) of God endureth continually.

この者は、神を敬う人に与えた災について「誇った(ハラル)」。
ヘブライ語のハラルは、有名な語「ハレルヤ」の元で「ほめたたえる」、あるいは「明確にする」「高く上げる」意味がある。
彼は、悪である事を高くあげ、狂気の王サウルにおもねる事によって、力や富を得て行った。

その者は、主を礼拝する場にいながらにして、主を求めず、むしろ暴虐を求めた。
ダビデはドエグを「力ある者」と言ったが、残虐な事や冒涜的な事を躊躇なく行う意味での「力ある者」であるが、しかし、神のgoodness(ヘセド)は、いつでも注がれ続けている。

詩篇52:2 虚偽を行う者よ、あなたの舌は鋭いかみそりのようだ。
52:3 あなたは善(トーブ)よりも悪を好み、まことを語るよりも偽りを語ることを好む。〔セラ
52:4 欺きの舌よ、あなたはすべての滅ぼす言葉を好む。

2節と4節に「舌」のキーワードが出て来る。
彼らは舌によって善人を切り刻もうとし、神のみわざの「善(トーブ)」よりも、サタンの悪というわざを好み、神に属する真理よりも、サタンに属する偽りを好んだ。
その時点で、主の御まえにおいて勝負ありである。
なぜなら神は悪魔サタンを圧倒的力で永遠の災いを降し、偽りは真理の光の前に消え去る以外にはないからだ。
そういうわけでダビデは、そのような者を呪う。

詩篇52:5 しかし神はとこしえにあなたを砕き、あなたを捕えて、その天幕から引き離し、生ける者の地から、あなたの根を絶やされる。〔セラ

私達も真理に立って、「呪うべきもの」を見た時は、真理の御言葉を盾に取って、呪うべきだ。
「呪うべきもの」とは、ドエグのように自分の強さにより頼み、卑しい利得を得るためには、正しい者を訴え、罪なき者を虐げるような、嘘・偽り・破壊活動・卑怯な事を行う悪魔サタンのわざである。
それらは、主イエスの御名によって廃れて行き、むしろ真理が、いのちのわざが、健やかさが、また弱いものが助けられる事が広がっていくよう祈り求めるのだ。

5節まではドエグのような劣悪な者に対しての宣言だったが、6節以降は、正しい者についての宣言である。

詩篇52:6 正しい者はこれを見て恐れ、彼を笑って言うであろう、
52:7 「神をおのが避け所とせず、その富の豊かなるを頼み、その宝に寄り頼む人を見よ」と。

2-4節では悪しき者が舌を用いて正しい者を陥れる者達について語られた。対して6-7節では、正しい者達はむしろそのような者達を笑う。
神を避け所とせず、富をたのみにしている者こそ、まことに滅びが近い事を知っているからだ。
そのような卑怯なものが富や権力を得ても、恐れてはならない。

詩篇49:16 人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。
49:17 彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことは/ないからである。
49:18 たとい彼が生きながらえる間、自分を幸福と思っても、またみずから幸な時に、人々から称賛されても、
49:19 彼はついにおのれの先祖の仲間に連なる。彼らは絶えて光を見ることがない。
49:20 人は栄華のうちに長くとどまることはできない。滅びうせる獣にひとしい。

そしてダビデは宣言する。

詩篇52:8 しかし、わたしは神の家にある/緑のオリブの木のようだ。わたしは世々かぎりなく神のいつくしみを頼む。

ダビデはこの時、サウル王に追われる国家的な指名手配をされているような状況だったのに、「わたしは神の家にあるオリーブの木のように茂っていく」と宣言できた根拠は、彼は「世々かぎりなく神のいつくしみを頼」んでいる事だ。
次のように書いてある。

詩篇147:7 主に感謝して歌え、琴にあわせてわれらの神をほめうたえ。
詩篇147:8 主は雲をもって天をおおい、地のために雨を備え、もろもろの山に草をはえさせ、
詩篇147:9 食物を獣に与え、また鳴く小がらすに与えられる。
詩篇147:10 主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。
詩篇147:11 主はおのれを恐れる者とそのいつくしみ(ヘセド)を望む者とをよみせられる。


人は、馬や力を得て、強制力を得て自分の欲望を満たそうとするが、そもそも、その馬に草を与えるのは主である。
主は、自分の強制力で欲望を満たそうとする者を喜ばれない。
むしろ主が喜ばれるのは、主のいつくしみ(ヘセド)を待ち望む人である。

主は、山に草を生えさせ、動物や鳥たちに食べ物を豊かに備えてくださる方。
それに引き換え、悪人は、悪辣な王に取り入ってでも、卑怯な事をしてでも富や力を得ようとし、腕力や悪賢さを鍛え、嘘偽りの力でそれを保持して行かなくてはならない。
主により頼む人達と、悪人。勝敗はどちらにつくか、明白である。

詩篇52:9 あなたがこの事をなされたので、わたしはとこしえに、あなたに感謝し、聖徒の前であなたのみ名をふれ示そう。これはよいことだからである。

ドエグはダビデをサウル王に告げ口したが、ダビデは主を褒め称え、主に感謝をささげ、ドエグを主に告げ口した。
私達は、世の強者や権力者におもねる者ではなく、全てを豊かに与えて下さる主から豊かに与えられる者として、主に賛美と感謝をささげ、主のヘセドを求め栄えていく者達である。

霊的な体内時計で時をはかったエステル(エステル記5章)
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エステル5:4 エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、きょうわたしが王のために設けた酒宴に、ハマンとご一緒にお臨みください」。
5:5 そこで王は「ハマンを速く連れてきて、エステルの言うようにせよ」と言い、やがて王とハマンはエステルの設けた酒宴に臨んだ。
5:6 酒宴の時、王はエステルに言った、「あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。
5:7 エステルは答えて言った、「わたしの求め、わたしの願いはこれです。
5:8 もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしわたしの求めを許し、わたしの願いを聞きとどけるのをよしとされるならば、ハマンとご一緒に、あすまた、わたしが設けようとする酒宴に、お臨みください。わたしはあす王のお言葉どおりにいたしましょう」。

伝道者の書3:1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。

エステル5:9 こうしてハマンはその日、心に喜び楽しんで出てきたが、ハマンはモルデカイが王の門にいて、自分にむかって立ちあがりもせず、また身動きもしないのを見たので、モルデカイに対し怒りに満たされた。
5:10 しかしハマンは耐え忍んで家に帰り、人をやってその友だちおよび妻ゼレシを呼んでこさせ、
5:11 そしてハマンはその富の栄華と、そのむすこたちの多いことと、すべて王が自分を重んじられたこと、また王の大臣および侍臣たちにまさって自分を昇進させられたことを彼らに語った。
5:12 ハマンはまた言った、「王妃エステルは酒宴を設けたが、わたしのほかはだれも王と共にこれに臨ませなかった。あすもまたわたしは王と共に王妃に招かれている。
5:13 しかしユダヤ人モルデカイが王の門に座しているのを見る間は、これらの事もわたしには楽しくない」。

詩篇49:5 わたしをしえたげる者の不義が/わたしを取り囲む悩みの日に、どうして恐れなければならないのか。
49:6 彼らはおのが富をたのみ、そのたからの多いのを誇る人々である。
49:7 まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。
49:8 とこしえに生きながらえて、墓を見ないために/そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。
詩篇49:20 人は栄華のうちに長くとどまることはできない。滅びうせる獣にひとしい。

主の日を救いとして得る「昼の人」、滅びの日としてしまう「夜の人」(1テサロニケ5:1-11)
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5:1 兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。
5:2 あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。
5:3 人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。
5:4 しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。
5:5 あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。

ヨハネ3:17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
3:18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。
3:19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
3:20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
3:21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。

5:6 だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。
5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。

箴言31:4 レムエルよ、酒を飲むのは、王のすることではない、王のすることではない、濃い酒を求めるのは君たる者のすることではない。
31:5 彼らは酒を飲んで、おきてを忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げる。
31:6 濃い酒を滅びようとしている者に与え、酒を心の苦しむ人に与えよ。
31:7 彼らは飲んで自分の貧乏を忘れ、その悩みをもはや思い出さない。

5:8 しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。
5:9 神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。
5:10 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。
5:11 だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。

正義の若枝による王族と祭司の回復(エレミヤ33章)
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人の栄光化は不幸をもたらし、主の栄光化は喜びをもたらす(雅歌3:6-11)
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今回の箇所は、ソロモン王の贅沢で華やかな有様が記してある。
最近も、セレブの豪奢な日々をつづったドラマは視聴率を得ているが、しかし世においては、そのような贅沢に暮らしている人の裏には、多くの悲しむ人達がいるものである。
ソロモンはこの時、王妃は既に六十人、そばめは八十人、おとめたちは数知れない。(雅歌6:8)
さらに後には、七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。(1列王記11:3)

このソロモンという男性の背景をみるに、気分が悪くなるような、また、彼に嫁いでいく女性たちを思うに、ある種の切なさを覚えるかもしれない。
しかし私達は、この書を、単に昔の豪華な人達の愛の歌、として読むべきではない。
聖書は、旧約も、新約も、イエスキリストを中心に記されている。
もし聖書を、人間にフォーカスを当てて読むとするなら、人の罪の有様に気分が悪くなっていくが、イエスキリストを中心に見据えてこの書を読んで行くなら、これは私達の喜びと期待、そして私達にとって希望に溢れるものとなる。


ソロモン王が花嫁を迎える有様は、とても豪勢な成り立ちであった。

3:6 没薬、乳香など、商人のもろもろの香料をもって、かおりを放ち、煙の柱のように、荒野から上って来るものは何か。
3:7 見よ、あれはソロモンの乗物で、六十人の勇士がそのまわりにいる。イスラエルの勇士で、
3:8 皆、つるぎをとり、戦いをよくし、おのおの腰に剣を帯びて、夜の危険に備えている。

7節で「乗り物」と訳されているのは、KJVではベッド、NKJVではカウチと訳されている。
つまり屈強な人々に担がれながら、ソロモンはで女性と一緒にその移動式ベッドにねそべって移動していたのだ。
ソロモンは屈強の勇士60人をかかえて来る。ダビデの時代は戦争がたくさんあったが、彼についていたのは30勇士だった。しかしソロモンは、平和の時代なのに、60人もの勇士を抱えている。
ソロモンの時代は平和であるので、夜襲に備えての屈強な勇士達は元々いらないはずだが、それでも60人も武装したボディーガードがいつもついている、という事は、ソロモン自身、後ろ暗い所があったのかもしれない。
3:9 ソロモン王はレバノンの木をもって、自分のために輿をつくった。
3:10 その柱は銀、そのうしろは金、その座は紫の布でつくった。その内部にはエルサレムの娘たちが、愛情をこめてつくった物を張りつけた。
9節にも輿と言う言葉が出てくるが、これは7節とは違う輿であり、KJVではチャリオット、すなわち戦車である。

ソロモンは、自分のために豪華な戦車をつくり、そこを飾る織物は、エルサレムの娘たちが愛情をこめてつくったものである。

3:11 シオンの娘たちよ、出てきてソロモン王を見よ。彼は婚姻の日、心の喜びの日に、その母の彼にかぶらせた冠をいただいている。

多くの娘たちの愛がこめられている戦車や、屈強な男たちに担がれた移動式カウチに乗って移動する。このような、豪華絢爛な有様で女性を迎えに来る光景は、華やかさがあり、人々の羨望の眼差しがあるかもしれないが、果たしてソロモンの周囲の人々は全員が全員、喜びにあふれていただろうか。
ソロモンは、若い頃は純粋な信仰持っていたが、周りから担がれている内に、そして女も金もふんだんに手に入って行く中、彼は、多くの女たち、エジプトの女や、いろいろな国々の女たちを抱え、彼女たちの声を聞いていくうちに、どんどん彼は霊性が汚されて行く。
列王記や歴代誌は語る。彼がイスラエルの神に背く行いをしていった結果、祝福は離れ、人々は重税に苦しみ、敵対する者が現れていった。

私たちがは、ただ御言葉に聞くべきである。異邦の女を囲うのではなく、御言葉に基づいた叱責をしてくれる人をこそ囲い込み、御言葉に基づいた歩みをしていないならば、ソロモンのようになってしまう。
この記述は、表向きはきらびやかで豪華絢爛であっても、その背後を見ると、多くの女性たちの、また多くの子供たちの悲しい思いが秘められている。

この地上では、1人の男に、複数の女性が嫁ぐなら、必ず不公平と怒り、悲しみがつきものである。聖書を見ると、その事に例外はなかった。
しかしキリストにおいては、それはない。

キリストはやがて、私達を迎えに来る。
ソロモンより遥かに多くの天の軍勢を従え、はるかに光り輝く栄光に包まれて。

1テサロニケ4:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
4:17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
私たちは、その日その時、一挙に引き上げられる。空中に引き上げられ、雲の中で、キリストと対面する。そして、まことの婚礼と導かれていく。

ソロモンの車は、エルサレムの多くの娘たちの愛情が込められた飾りで飾られていたが、私たちは今、イエス様を愛する心をもって、良い行いという飾りを作っているようなものである。
私達が御霊にあって良い行いをする時、そして愛、喜び、平安など、御霊の良い実を結んで行く時に、イエス様を美しい飾りで飾らせていくのだ。

雅歌書は、キリストを除いて読むなら、セレブの祭りに参加してる恋愛小説のようになってしまうが、その裏では、多くの涙や悲しみがあった。
ソロモンの周りでは、ドロドロの恋愛愛憎劇や、性的に汚れた有り様が展開されているかもしれない。
しかしキリストにあっては、ただ栄光に満ちた喜びしかない。

ソロモンは、多くの女性を抱えていたが、多くの女性や子供たちが涙を流し、悲しみ、叫んだ。
しかし、キリストの花嫁である教会には、世界中の多くの人々がいるが、彼ら全ての涙はすっかり拭われ、誰も悲しんだり叫んだり苦しんだりする事は無い。永遠の天国において、永遠の慰めを得るのである。

私たちの花婿キリストは、完全なるお方である。
ソロモンは女性を捨てたりする事があるかもしれないが、私たちの花婿キリストは決して見放すさず、見捨てない。

それ故、私達はキリストと言うまことの夫を意識し、まことの結婚式に向けて、自分自身を整えなくてはならない。
イエス様はよく、天の王国を、結婚にたとえた。

花婿を待ち望む10人の花嫁のたとえの中では、5人は愚かで、5人は賢かった。
花婿が迎えに来る時のために、彼女たちはともしびを整えていたが、5人は愚かで、油を用意しておかなかった。
賢い花嫁たちは、花婿がいつ来ても良いように、油も用意していた。

キリストはきっとまだ来ないだろう、と思って、ぼんやり過ごしていたりする人は多いが、ぼんやりしていてはならない。平和な時は、ぼんやりしている時ではなく、備えをすべき時である。
花婿が来られた時、どうしたら花婿が喜ぶだろうか、花婿がいつ来ても良いように備えをしよう、と、いつも考えているべきである。それをしていないなら、いざ花婿が来るときに、慌てふためくことになる。

賢い乙女と愚かな乙女の違いは、何だったか。
愚かな乙女たちは、自分の時間で動き、自分の考えで動いていた。
それに対し賢い花嫁は、花婿の時間、花婿のために動いていた。

私も、花婿を中心に考えるなら、今なすべきことがわかるはずである。どうすれば花婿が喜ぶか。花婿がいつ来るか、その間何を整えるべきか。

私達は、まことの花婿キリストを迎えるまで、しっかり御言葉に親しみ、花婿の喜ばれる飾りを身につけて、みことばの灯を掲げておくべき。
御言葉には、聖霊の油と言う燃料が必要である。聖霊によってみことばを語るのでなければ、ただの剣である。
その油は、自分をおろし主を第一にする事によって、どんどん溜まって行く。ゲッセマネは、油絞りと言う意味だが、イエス様はそこにおいて自分の心ではなく父の御心が成りますように、と祈った。
私達も、この「油絞り」の祈りによって、日々、油は貯蓄されていく。

かの日は、必ず来る。その日が来た時、慌てないように、日々しっかりと自分をおろし、祈りを捧げ、賛美を捧げ、花婿は今日にでも来るかもしれないと言う意識を持ち、そうして油を貯金して歩むべきだ。
御言葉を蓄えましょう。真心込めて口から告白する時、キリストは、ああ、また一歩花嫁として整えられた、と喜んでくださる。
イエス様の喜びは何か、どうしたら花婿を喜ばせられるか、という思いを持ちつつ、キリストの花嫁として整えられていく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
 

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