メッセージ - pastorさんのエントリ

万軍の主の熱心が凝縮された「ひとりのみどりご」(イザヤ9:1-7)
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週報/メッセージ(説教)概要

 処女がみごもってインマヌエル(主が共におられる)という男の子を生む預言は、アハズ王の時代に与えられた。彼は預言者イザヤから「静かに主を信頼しなさい」と言われていたのに、余計な右往左往して、アッシリアに助けを求め、しかもその出先から偶像の設計図を取り寄せ、イスラエルで偶像を建ててしまった。
主に頼る道を捨て、アッシリアという暴力的な力強さに頼る者は、暴力に悩まされ、頑固になまでに御言葉に聞き従わない姿勢を貫き通す者には、頑固なまでに災いが離れない事が、前回のイザヤ8章あった。
人に災いがつきまとう場合、必ず最初に人の側の罪があり、罪が彼を責め立てる口実を得たのである。
しかし主は人がいつまでも災いに苦しんでいる様を黙っておられない。それが今回の箇所で示されている。

『しかし、苦しみにあった地にも、闇がなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。』(イザヤ9:1)
ゼブルンとナフタリは、主を礼拝する所から離れていた故、真っ先に異邦人と和合し、罪に染まり、罪由来の災いを真っ先に受けてしまった。私達も御言葉から遠く離れているなら、真っ先に異邦の拝むものや異邦の価値観に感染し染まってしまう。だから、礼拝と聖徒の交わりから離れないように気をつけるべきだ。
『あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。』(3節) 「獲物」とは、勝利した側が敵から分捕るものだが、サタンという敵が不当占拠していたあらゆる良きもの、囚われていた人々を分捕り返し喜び楽しむ様が、ここにある。
『これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。』(4節) 御言葉に背く先には必ず汗と労苦があり、罪由来のむちと杖による刑罰が必ずともなう。しかし、悔い改めて主に立ち返るなら、彼らを打っていたむちと杖は粉々に砕かれる。
『すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。』(5節)
罪の飲み食いをし、罪の取引をする内、人の血を流して返り血を浴びたり、あるいは罪に強い者から血を流されたりする。そうして血に汚れた服や靴は、ひとりのみどりごが来る時、火のえじきとなって清められる。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。』(6節)
長らく全世界を覆っていた、分厚くしつこい闇と死。その漆黒の世の海に、唯一の光、ひとりのみどりごであられるイエス様が投じられた時、前章までの全ての頑固な闇は、解消される。このお方は、どういう方か。

『まつりごと(government)はその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士(Wonderful Counsellor )、大能の神( The mighty God )、とこしえの父(Everlasting Father)、平和の君(The Prince of Peace)ととなえられる。』
「まつりごと」とは、政治である。日本の政府は国会議事堂や内閣府に置かれているが、神の国の政治はイエス様の肩に置かれている。大祭司はイスラエル十二部族の名を肩に負って主の御前でつとめを果たすように(出エジプト記28:9-12)、イエス様は私達の名を負って神の御前で執り成しのつとめを為される。
主は、どんなにしつこい悩みや問題も、解決不能な事さえも解決へと導いてくださるワンダフル・カウンセラーであり、力ある神である。日本の政治のように、月曜から金曜の9時から17時まで、などという限定は無いし、何々の書類を整えなければ受理しない事も無く、ただ「イエス・キリストの名によって」いつでも、どこでも「永遠の父」に申請する事が出来、それをするなら、素晴らしい助言が与えられ、力ある神の権力が行使され、平和の君であられる、それらのあらゆる善き性質を、いつでも求める事ができるのだ。
『万軍の主の熱心”がこれをなされるのである。』(7節) 聖書の中で「主の熱心」が現れる時はいつも、人が悔い改め、自分の罪を離れる時、主がその人を助け、救おうとする場面だ。(イザヤ9:7、37:32、59:17)
熱心。それは無感情の逆であり、主は激情をもって人を愛し、人を救おうとされる。万軍の主の熱心が、究極的に形を取ったのが、ひとりのみどりごである。イエス様は、命を捨てる「passion」(使徒1:3)をもって、私達を救おうとし、十字架という実体を伴った行動をもって、その愛をあらわしてくださった。
私達には、2つの道がある。ゼブルンやナフタリのように、ずっと立ち返らないで、自分の好むことをやり続け、ひたすら強い者から奪われ、搾取され、奴隷とされ続けるか、それとも、イエス様の愛の情熱を受け入れ、永遠にイエス様の政治とカウンセルと力の主権の中で歩んでいくか。イエス様の道を選び、そのとこしえの祝福の内に生きる皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!

神の民をさばきの火で精錬し、残された宝の民を喜び楽しんで下さる主(ゼパニヤ書)
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ゼパニヤ書といえば、3章後半の慰めに満ちた言葉が有名であろう。
しかしゼパニヤ書の前半は、表向きは礼拝者でありながらその実は主を主とせず別物を彼らの主としている者達へのさばきが示されており(1章)、また、主を知らない異邦の者達で主の民を脅かし圧迫する者達へのさばきが示されており(2章)、主に聞かず反逆と暴力に満ちた者達へのさばきが示されている(3章前半)。

主の民といっても、良い麦と毒麦が混合されたような状況であるが、主は、必ず良い人には良い報いを、悪人には悪い報いを、報いてくださる。
その中で、さばきを免れる人は、1章では7節、2章では3節、3章では7−8節の行いをする人達だろう。

ゼパニヤ1:7 主なる神の前に沈黙せよ。主の日は近づき、主はすでに犠牲を備え、その招いた者を聖別されたからである。
ゼパニヤ2:3 すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。
ゼパニヤ3:7 わたしは言った、『これは必ずわたしを恐れ、懲らしめを受ける。これはわたしが命じたすべての事を見失わない』と。しかし彼らはしきりに自分の行状を乱した」。
3:8 主は言われる、「それゆえ、あなたがたは、わたしが立って、証言する日を待て。わたしの決意は諸国民をよせ集め、もろもろの国を集めて、わが憤り、わが激しい怒りを/ことごとくその上に注ぐことであって、全地は、ねたむわたしの怒りの火に/焼き滅ぼされるからである。
 

その事を経て、火の中をくぐって助け出されたような人達に対する、慰めに満ちた預言が、次の言葉なのだ。

ゼパニヤ3:11 その日には、あなたはわたしにそむいたすべてのわざのゆえに、はずかしめられることはない。その時わたしはあなたのうちから、高ぶって誇る者どもを除くゆえ、あなたは重ねてわが聖なる山で、高ぶることはない。
3:12 わたしは柔和にしてへりくだる民を、あなたのうちに残す。彼らは主の名を避け所とする。
3:13 イスラエルの残りの者は不義を行わず、偽りを言わず、その口には欺きの舌を見ない。それゆえ、彼らは食を得て伏し、彼らをおびやかす者はいない」。
3:14 シオンの娘よ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び呼ばわれ。エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。
3:15 主はあなたを訴える者を取り去り、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はあなたのうちにいます。あなたはもはや災を恐れることはない。
3:16 その日、人々はエルサレムに向かって言う、「シオンよ、恐れるな。あなたの手を弱々しくたれるな。
3:17 あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。
3:18 「わたしはあなたから悩みを取り去る。あなたは恥を受けることはない。
3:19 見よ、その時あなたをしえたげる者を/わたしはことごとく処分し、足なえを救い、追いやられた者を集め、彼らの恥を誉にかえ、全地にほめられるようにする。
3:20 その時、わたしはあなたがたを連れかえる。わたしがあなたがたを集めるとき、わたしがあなたがたの目の前に、あなたがたの幸福を回復するとき、地のすべての民の中で、あなたがたに名を得させ、誉を得させる」と/主は言われる。
 

ベツレヘム - パンの家(ルカ2:15-16)
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ルカ2:15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。

この羊飼い達は、ただの羊飼いではなかった。
御使いは、

ルカ2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。

と言ったのである。ダビデの町といえばエルサレムなのだが、しかし救い主がお生まれになる所は、預言書ミカに記されている通り、ダビデの生まれ故郷、ベツレヘムである。

ミカ5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから/わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。

羊飼い達は、御言葉にいつもなじみ、御言葉を理解していた。そして、忠実だった。忠実に羊達を守り、忠実に御使いから告げられた事をすぐさま実行し、急いで行ったのだ。
それに引き換え、エルサレムにいた人達、ヘロデの王宮にいた人達はどうであったか。
王宮の中の人達は、祭司や学者以外、ミカ書を知らなかったし、メシヤであられるお方がどこでお生まれになるのか、知りもしなかったし、知ったとしても恐れ惑い、あるいは殺そうとした。
ヘロデ王は下心をもって博士たちに調べて報告するよう言ったが、結局そのたくらみは主がご存知であり、博士たちにスルーされ、幼子にもスルーされ、怒ってその地方の赤ちゃんを大勢殺すような暴挙に出たが、そのすぐ後に死んだ。

このように、御言葉を常に慕い求め、主から語られた事をすぐに実行する人は、彼らが赤ちゃんであるイエス様と出会い、その胸に抱っこして、胸の中にお迎えする事ができたように、イエス様と出会い、イエス様が胸の内に宿るという幸いに与る事が出来る。

ベツレヘム、その名前の意味は、パンの家であり、パンといえば、御言葉である。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉による、と書いてある。
そして、まことのパンは、イエス様である。(ヨハネ6章)
この、パンの家を求めて行く人は、御言葉なるイエス様と出会う事が出来る。
しかし、このパンの家から離れていった人には、ろくな事が起きなかった。(士師記17:8、士師記19:1、ルツ記1:1-5)

異邦の国を離れ、御言葉のパンの家ベツレヘムへと入ったルツは、ボアズの畑へ導かれ、多くのパンを得たのみならず、王の王たる家系へと嫁ぐ幸いにあずかった。
私達も、御言葉のパンがたくさんある”ベツレヘム”、すなわち御言葉を求め、行くなら、羊飼いのように、博士のように、ルツのように、王の王であられるイエス様を胸に収める恵みにあずかる事が出来るのだ。

きよくある事が要求される祭司のつとめ(2歴代誌4:1-22)
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ついで、ソロモンが神殿において主の前で祭司たちが諸々のつとめをするためのものを造らせた記事が記されている。

4:1 ソロモンはまた青銅の祭壇を造った。その長さ二十キュビト、幅二十キュビト、高さ十キュビトである。

祭壇もまた、モーセの時代の寸法と比べると、さらに大きくなっている。(出エジプト記27章)
あの時代よりも、さらにイスラエルの人々の数が多くなったため、彼らが主に捧げる祭壇のサイズも、かつてのサイズでは間に合わないのだろう。
実際、これからこの祭壇で、おびただしい数のいけにえが捧げられて行く。

4:2 彼はまた海を鋳て造った。縁から縁まで十キュビトであって、周囲は円形をなし、高さ五キュビトで、その周囲は綱をもって測ると三十キュビトあった。
4:3 海の下には三十キュビトの周囲をめぐるひさごの形があって、海の周囲を囲んでいた。そのひさごは二並びで、海を鋳る時に鋳たものである。
4:4 その海は十二の牛の上に置かれ、その三つは北に向かい、三つは西に向かい、三つは南に向かい、三つは東に向かっていた。海はその上に置かれ、牛のうしろはみな内に向かっていた。
4:5 海の厚さは手の幅で、その縁は杯の縁のように、ゆりの花に似せて造られた。海には水を三千バテ入れることができた。

「海」という器の高さは五キュビト、180cmの成人男性がばんざいした程の高さで、厚さは、手のひらほど。
また1バテは23リットルなので、46000リットルの水がその「海」に入ったという事は、20000リットルのタンクローリー3台以上分である。
これは全部、青銅製である。青銅の器としては、かなりの大きさだ。
これら、神殿の調度品のために用いられた青銅の分量は、はなはだ多かったため、ソロモンは分量を計らなかったし、ずっと後、エルサレムがバビロンによって陥落した時、神殿の柱や「海」をカルデヤ人は破壊してバビロンへ運び去ったが、その青銅の分量はあまりに膨大だったため、彼らも計る事をしなかった。(2列王記25:13-16)
4:6 彼はまた物を洗うために洗盤十個を造って、五個を南側に、五個を北側に置いた。その中で燔祭に用いるものを洗った。しかし海は祭司がその中で身を洗うためであった。

旋盤はいけにえを洗うため、そして海は祭司がその中で身を洗うためのものだった。

主がモーセに幕屋建設を命じた時、祭司が聖なる所で務めに入る前には、水で洗いきよめるよう命じており、そのために、洗盤を造るよう指示されている。
『あなたはまた洗うために洗盤と、その台を青銅で造り、それを会見の幕屋と祭壇との間に置いて、その中に水を入れ、アロンとその子たちは、それで手と足とを洗わなければならない。彼らは会見の幕屋にはいる時、水で洗って、死なないようにしなければならない。また祭壇に近づいて、その務をなし、火祭を主にささげる時にも、そうしなければならない。すなわち、その手、その足を洗って、死なないようにしなければならない。これは彼とその子孫の代々にわたる永久の定めでなければならない」。』(出エジプト記30:18-21)
祭司が祭壇での務めをする前に、手足を水で洗い浄める事は、「永遠のおきて」として定められている。
だからソロモンも、祭司たちのために、これらのものを造らせたのだ。

祭司たちが務めの前に水で洗い浄める理由は、「死なないため」だと主は言っている。
祭壇や幕屋での奉仕は、それ程までに聖なる務めであり、清めないまま聖なる奉仕をする事は、主の怒りを招く事である。

今、私達も、主の務めを為すにあたって、かの祭司たちのように、清められた状態であるべきである。
1コリント6:9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
6:10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
6:11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。

私達がキリストに繋がっていないのなら、主の御前に何も出来ないし、しようとしてはならない。
だから信仰が無い人が、いくら楽器の演奏が巧みだからと言って奏楽奉仕に任じてはならないし、会計やマネジメント力があるからと言って、教会運営を任せたりしてはならない。
正しい信仰、すなわち、いつもイエス様を前に畏れ敬ってへりくだり、自らをきよくしようと志す者であるべきであり、そうしない者、世の汚れをきよい所へ持ち込む者は、死の危険がつきまとう。

詩篇24:3 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。
24:4 手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。
24:5 このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。
24:6 これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。〔セラ

さらに聖所には諸々の祭具が置かれる。

4:19 こうしてソロモンは神の宮のすべての器物を造った。すなわち金の祭壇と、供えのパンを載せる机、
4:20 また定めのように本殿の前で火をともす純金の燭台と、そのともしび皿を造った。
4:21 その花、ともしび皿、心かきは精金であった。
4:22 また心切りばさみ、鉢、香の杯、心取り皿は純金であった。また宮の戸、すなわち至聖所の内部の戸および拝殿の戸のひじつぼは金であった。

主の前にはいつもパンが備えられ、ともしびが灯され続けるべき事が記されている。

現代の私達も、常に、自分自身を神に受け入れられる、きよい、生きた備えものとして捧げる者であり、いつも御言葉のパンを備え、いつも祈りのともしびを、聖霊の油をもってともし続ける者である。
そして御前に出る時には、かつての祭司たちが、汚れた状態で出たら死ぬかもしれないという恐れをもって出たように、私達も恐れ敬う心をもって御前に進み出るべきである。

敵の手を通して広い所へ導いておられた主(創世記26章)
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26:1 アブラハムの時にあった初めのききんのほか、またききんがその国にあったので、イサクはゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った。
26:2 その時、主は彼に現れて言われた、「エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに示す地にとどまりなさい。
26:3 あなたがこの地にとどまるなら、わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し、これらの国をことごとくあなたと、あなたの子孫とに与え、わたしがあなたの父アブラハムに誓った誓いを果そう。

イサクの場合、アブラハムと逆で、父の家に「とどまる」事が、祝福の約束だった。
アブラハムの場合は、偶像礼拝と汚れに満ちた父の家から離れる事が神の領域へと進み行く事だったが、そのような信仰の父の家で生まれたイサクの場合は、信仰の家にとどまる事が祝福の源であるからだ。

26:4 またわたしはあなたの子孫を増して天の星のようにし、あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫によって祝福をえるであろう。
26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

イサクは、父アブラハムによって、祭壇の上で捧げられた時、父の信仰に同意し、既に自分を捧げていたのだ。
その時、父アブラハムはおよそ125歳、イサクはおよそ25歳、腕力では当然父をしのいでいたはずなのに、父に縛られるままに縛られ、父が刀を振り上げた時さえ、抵抗しなかったからである。

26:6 こうしてイサクはゲラルに住んだ。
26:7 その所の人々が彼の妻のことを尋ねたとき、「彼女はわたしの妹です」と彼は言った。リベカは美しかったので、その所の人々がリベカのゆえに自分を殺すかもしれないと思って、「わたしの妻です」と言うのを恐れたからである。

イサクはこの時、世の中の権威者と罪深い者の力を恐れ、このように偽った行動を取ってしまったが、主は、弱い信仰者をフォローし、その誤った道から正して下さるお方である。
主がフォローしてくださってもなお正しい道に戻らない事を続けるなら、列王記に記されている歴代の王達のように、災いにつぐ災いにまみれてしまう。

26:12 イサクはその地に種をまいて、その年に百倍の収穫を得た。このように主が彼を祝福されたので、
26:13 彼は富み、またますます栄えて非常に裕福になり、
26:14 羊の群れ、牛の群れ及び多くのしもべを持つようになったので、ペリシテびとは彼をねたんだ。

ペリシテ人からすれば、この、たまたま異国から流れてきたイサクの一家が、それまで自分が味わったことのない祝福、種を蒔けば100倍の実りを結ぶような有様を見て、妬みの心に満たされたのだ。そこで、嫌がらせをする。

26:15 またペリシテびとは彼の父アブラハムの時に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸をふさぎ、土で埋めた。
26:16 アビメレクはイサクに言った、「あなたはわれわれよりも、はるかに強くなられたから、われわれの所を去ってください」。

水の少ないこの地方では、井戸はいのちそのものである。
それを、わざわざ重労働をして、ふさぐ。
神の民がする事はただいのちのわざであるが、主を知らない者がする事は、ただ、破壊である。

26:17 イサクはそこを去り、ゲラルの谷に天幕を張ってその所に住んだ。
26:18 そしてイサクは父アブラハムの時に人々の掘った水の井戸を再び掘った。アブラハムの死後、ペリシテびとがふさいだからである。イサクは父がつけた名にしたがってそれらに名をつけた。
26:19 しかしイサクのしもべたちが谷の中を掘って、そこにわき出る水の井戸を見つけたとき、
26:20 ゲラルの羊飼たちは、「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼たちと争ったので、イサクはその井戸の名をエセクと名づけた。彼らが彼と争ったからである。

彼は、ペリシテ人から祝福を妬まれて、父アブラハムが掘った井戸を塞がれ、アビメレクからも「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」と言われ、事実上、追い出されてしまった。(16節)
アビメレクは父アブラハムと平和条約を交わしたが、それに対する明らかな違反をしたのであり、イサクは、その強くなった武力をもって争っても、あるいは法的弁論によっても争う事が出来、そしていずれの方法を取ったにしても、勝てたはずである。
しかし彼は、そういう事は一切せず、大人しくその場所から移ってしまう。

26:21 彼らはまた一つの井戸を掘ったが、これをも争ったので、名をシテナ(敵意)と名づけた。

一度ならず二度も争いを仕掛けられた、となれば、明確な敵意があったと言えるだろう。
しかし彼は、手荒な事はせず、下手な争いごとに巻き込まれるような事を避けて、それらの井戸はくれてやり、黙って立ち去った。
これは、弱さとは言わない。
真に強い人とは、こちらに力があり、相手の方が弱いにもかかわらず、あえて武力や弁論などに頼らず、ただ神の御言葉ゆえに、相手にゆずってやる事のできる御言葉への従順と心の広さを持っている人の事である。

26:22 イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテ(広い場所)と名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」。

やる事なす事があまりに祝福されるイサクに、ついに敵の側も恐れたのだ。それでイサクと争う事をあきらめ、ついには敵の側からイサクに平和条約を結びに来る。(26-31節)
真に怖い人とは、柔和な人である。
しょっちゅう怒っている人は、ある程度、ここまでしたら相手はこの声色で、この強面で来る、というのが想像できるが、柔和な人は、それが想像できないために、かえって恐れを抱かれるものであるし、何より柔和な人は、神様に祝福され、そして彼に良くない事をするなら、いつも神様が仕返しをして、彼は何をしても栄えるからである。

26:23 彼はそこからベエルシバに上った。
26:24 その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。
26:25 それで彼はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った。またイサクのしもべたちはそこに一つの井戸を掘った。

イサクは、広々とした所へと導かれた。
一見すると、敵の手によっていいようにされたかのように見えていても、実は主は、彼にもっと広い所を相続させ、そこに住むようにと、敢えてイサクが奪われるままにして導かれた、と言える。

ダビデもまた、主が「広い所」へと導かれた事を、詩篇18篇で詠んでいる。
「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。
彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり、わたしを”広い所”に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。」(詩篇18:17-21)

この詩篇18篇は、彼がサウル王から救われた時に詠んだ詩篇であるが、彼は、自分のいのちを付け狙うサウル王を、自らの手で殺せるチャンスが2回も訪れたのに、自分の手でなす事はせず、正しく裁いて下さる主に全てお委ねした。
彼もイサクのように柔和な対処をしたため、主が彼の敵を裁いてくださり、結局枯れは王位を受け継ぎ、祝福され、栄えたのだ。

まさにイエス様が言われた通りである。
「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)

万軍の主の熱心(イザヤ9:6-7)
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「万軍の主の熱心」は、人の救いへと向けられている。

イザヤ9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
 9:7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。”万軍の主の熱心”がこれをなされるのである。

熱心。それは無感情の逆であり、主は激情をもって、人を愛し、人を救おうとされるが、その究極形が、ひとりのみどりご・キリストである。

イザヤ37:30 あなたに与えるしるしはこれである。すなわち、ことしは落ち穂から生えた物を食べ、二年目には、またその落ち穂から生えた物を食べ、三年目には種をまき、刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。
 37:31 ユダの家の、のがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶ。
 37:32 すなわち残る者はエルサレムから出、のがれる物はシオンの山から出る。万軍の主の熱心がこれをなし遂げられる。

この箇所は、ヒゼキヤが、主に熱心に救いを求めた結果、主が答えて下さった場面である。
主は、熱心に「救って下さい」と主に呼びかける人に対しては、熱心をもって答えてくださる。

イザヤ59:16 主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれをささえられた。
 59:17 主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。

イザヤ59章は、主の前に罪を犯して歩んで来た者が、自分の罪を告白して悔い改めた人に対する、主の熱心が表れている。

 59:18 主は彼らの行いにしたがって報いをなし、あだにむかって怒り、敵にむかって報いをなし、海沿いの国々にむかって報いをされる。
 59:19 こうして、人々は西の方から主の名を恐れ、日の出る方からその栄光を恐れる。主は、せき止めた川を、そのいぶきで押し流すように、こられるからである。
 59:20 主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。

「とがを離れる者に」という所が鍵である。
自分の罪、とがを悔い改めて、そこから離れようとする人に、主は熱心をもって現れ、救わせてくださる。

新約において主の熱心はどこに現れるか。
それはまさにイエス様の十字架であり、十字架の場面全体が、主の熱心そのものである。

使徒1:3 イエスは苦難(KJV: passion)を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。

イエス様は、命がけのpassionをもって、私達を救おうとされ、そして、十字架という実体を伴った行動をもって、その愛をあらわしてくださった。

そうであるからには、私達も主に対して熱心であるべきである。
主に対しては熱く、罪やサタンに対しては冷酷に。そうではない生ぬるい信仰であるなら、主の口から吐き出されてしまう。(黙示録3:15-16)

主よ、来てください(イザヤ8:17-9:7)
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第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 アドベントの元々の意味は、主の「ご到来(ラテン語:アドベントゥス)」を待ち望む事である。『主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。』(イザヤ8:17) 
この世はなぜ、闇に満ちていて、あたかも主が御顔を隠しておられるような状態なのか。
主は元々、人を愛し、救いたくて仕方ないのだけれど、人の悔い改めない心が「隔ての壁」となり、神様に救えなくしているのだ。19節に、人々が死人に伺いを立てている有様が記されているが、神を度外視したこの世の知恵は、全て、死にゆく人々の知恵であり「死人伺い」と変わりが無い。主こそ唯一救って下さるお方なのに、その主に呼び求めない所に、救いが無い状態からいつまでも脱却できない原因がある。だから続く20節で、「ただ教えとあかしとに求めよ。」と促しているのだ。「教え(トラー)」は御言葉である。
御言葉は、書かれてあるだけでは単なる文字列に過ぎないが、それを信仰をもって私達の内に入れる時、それは命となり、力となり、神が実際的にこの世で働くきっかけとなり、そうして私達が、主が働かれる中で生きている時、それを見る人々にとっては、主が生きておられるという「あかし」になる。
この「教えとあかし」に尋ねないなら、「夜明けがな」く、闇から抜け出せない。その闇は、どれほどの闇であったのか、21節以降にある。すなわち、飢えて放浪し、飢えて怒りに身を委ね、上を仰いでは王と神を呪い、苦難と闇、苦悩の暗闇、暗黒、追放された者しか見えない。それでも希望を掴もうとしてもがき、でも、掴んだと思っては、それは希望ではなかったと知って悲しむ。あのサマリヤの女のように、異性や結婚、あるいはお金や地位など、世のものに潤いを求めるが、それを飲めば飲むほど、渇いて行く。(ヨハネ4章)

『しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。』(9:1)
人には絶望しか無くても、主には「希望の”しかし”」がある。ゼブルンの地とナフタリの地は、イザヤの時代、アッシリアに占領され、「はずかしめ」を受けた。アッシリアは栄えたが、衰退し、その後にはバビロン帝国が支配した。その後もなお、辱められっぱなしであった。バビロンが栄え、衰退し、後にはメディア・ペルシャが興ったが、その時もそうだった。その後、ギリシア帝国が起きた時も、ずっとそうだった。相変わらず悔い改めず、主に立ち返らず、「死人伺い」と変わらないものに求めていたからだ。
しかしローマ帝国の時代になり、皇帝アウグストゥスが住民登録せよという勅令を出した時、「異邦人のガリラヤ」から、ある貧しい夫婦が、ダビデの町ベツレヘムへと上って来た。彼らがベツレヘムで男の子を産んだその時、長年かなえられていなかった、その慰めの預言が、ようやく成就した。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。』(9:6)

かのサマリヤの女は、かつて5人の夫があったが、今一緒にいる男は夫ではない、とイエス様に指摘された。同様に、この地も、かつて5つの帝国に辱められ、支配を受けてきたが、真の王は、なかった。しかしローマ帝国の時代、イエス様がひとりのみどりごとしてお生まれになった時、イスラエルは真の王を得たのだ。この「ゼブルンの地、ナフタリの地」は、イエス様が宣教を開始された地である。当時のイスラエルはイエス様を迫害し、排除した。しかし、彼を主とし、王として受け入れる人には、素晴らしい特権が与えられる。
『主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』(6-7節)

イエス様こそ、人となって来られた「御言葉」なるお方であり(ヨハネ1章)、それも、人が抱っこできる赤ちゃんとして来られた。赤ちゃんは小さくて、壊れやすくて、大切に扱わなくてはならない。しかし、このイエス様を胸の中に抱いて迎え入れ、内に宿らせるなら、私達の中に光が宿る。このイエス様に聞くなら、イエス様は私達の内でどんどん大きくなり、ダビデの王座につき、平和の花咲く永遠の国を建てて下さる。
苦しみのあった所に闇がなくなり、辱められていた者は慰めを受け、やがては永遠の国において、流して来た涙は拭われ、慰められ、死もなく、悲しみもそしりも無い、永遠の天国へ、イエス様は導いて下さる。
このアドベントの時、御言葉とあかしを束ね、闇に沈んでいる人々に、イエス様を届ける者でありたい。

神殿の構成(2歴代誌3:1-17)
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メッセージ音声

ソロモンはいよいよ神殿の建設に着手するが、その場所が興味深い。

3:1 ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた。そこは父ダビデに主が現れられた所、すなわちエブスびとオルナンの打ち場にダビデが備えた所である。

主の宮が立てられた山は、モリアの山であると書かれてある。そこはすなわち、彼らの大先祖であるアブラハムが、彼の息子イサクを捧げた、あのモリヤ山である。(創世記22:2)
すなわち全イスラエルは、イサクの腰の中にいた時、このモリヤの山で、既に捧げられたのである。
そして時代が降り、そこが神の民が主に礼拝を捧げる所となるのである。

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)
礼拝はすなわち自分自身を捧げる事であり、そして、神と交わりを持つ場が、神殿であるが、今、私達自身が神殿であり、ゆくゆくは天国という永遠の礼拝の場の前身なのだ。

3:2 ソロモンが宮を建て始めたのは、その治世の四年の二月であった。
3:3 ソロモンの建てた神の宮の基の寸法は次のとおりである。すなわち昔の尺度によれば長さ六十キュビト、幅二十キュビト、
3:4 宮の前の廊は宮の幅に従って長さ二十キュビト高さ百二十キュビトで、その内部は純金でおおった。
3:5 またその拝殿はいとすぎの板で張り、精金をもってこれをおおい、その上にしゅろと鎖の形を施した。
3:6 また宝石をはめ込んで宮を飾った。その金はパルワイムの金であった。

神殿は尊い杉材で張られ、純金で覆われた。とても豪華絢爛であるが、その材料はほぼ、異邦の国からもたらされたものである。
現代、キリストにある私達異邦人は、生ける神の神殿であり、そして永遠の神殿である天国もまた、色々な国から集められた、誰にも数えきれないほどの大勢の群衆によって構成されている。
主は、ユダヤ人のみならず異邦人の手を通しても、栄光を表され、神の家を建て上げさせて下さるのだ。

3:7 彼はまた金をもってその宮、すなわち、梁、敷居、壁および戸をおおい、壁の上にケルビムを彫りつけた。
3:8 彼はまた至聖所を造った。その長さは宮の長さにしたがって二十キュビト、幅も二十キュビトである。彼は精金六百タラントをもってこれをおおった。

至聖所、すなわち神と人とが出会う場、地上に降りてきた天国は、20キュビト四方の立方体である。
以前モーセの時代に立てられた幕屋の至聖所は、その2分の1の10キュビト四方の立方体(出エジプト記26:15-37)であったが、黙示録に現れる新エルサレムにいたっては、12000スタディオンの立方体(1スタディオン=185m、1辺が約2400km)であり、その中には神殿はなく、都そのものが、主の栄光と臨在に満ちた至聖所である。(黙示録21章)
主のご計画が成就して行くごとに、隠されていた物事が露わにされて行き、全ての時が満ち、全てが成就した時、神の栄光は誰の目にも明らかなほど巨大に、公にあらわれるのである。

3:10 彼は至聖所に木を刻んだケルビムの像を二つ造り、これを金でおおった。
3:11 ケルビムの翼の長さは合わせて二十キュビトあった。すなわち一つのケルブの一つの翼は五キュビトで、宮の壁に届き、ほかの翼も五キュビトで、他のケルブの翼に届き、
3:12 他のケルブの一つの翼も五キュビトで、宮の壁に届き、ほかの翼も五キュビトで、先のケルブの翼に接していた。
3:13 これらのケルビムの翼は広げると二十キュビトあった。かれらは共に足で立ち、その顔は拝殿に向かっていた。
3:14 ソロモンはまた青糸、紫糸、緋糸および亜麻糸で垂幕を造り、その上にケルビムの縫い取りを施した。

至聖所の中にはケルビムがあり、翼でもって契約の箱を覆っている。
アダムとエバの堕落以降、人はエデンの園への道がケルビムと回る炎の剣によって遮られてしまったが、至聖所への道も、ケルビムの織物によって遮られている。
しかしキリストが十字架でさばかれた時、この幕は真っ二つに裂かれ、もはや聖所と至聖所を隔てる壁は打ち壊された。

『あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。』(エペソ2:13-16)

3:15 彼は宮の前に柱を二本造った。その高さは三十五キュビト、おのおのの柱の頂に五キュビトの柱頭を造った。
3:16 彼は首飾のような鎖を造って、柱の頂につけ、ざくろ百を造ってその鎖の上につけた。
3:17 彼はこの柱を神殿の前に、一本を南の方に、一本を北の方に立て、南の方のをヤキンと名づけ、北の方のをボアズと名づけた。

ヤキンは「主が設立する」、ボアズは「力のうちに」の意味がある。
これら、特別な名前がつけられた柱は、神殿を支える重要な部分だった。

教会にも、柱と見られる人がいる。使徒パウロは言っている。
『そして、かの「重だった人たち」からは――彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから――事実、かの「重だった人たち」は、わたしに何も加えることをしなかった。・・・”柱”として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。』(ガラテヤ2:6-9)

初代教会では、イエス様の12弟子だったヤコブやケパ(シモン・ペテロ)、ヨハネが「柱」として重んじられていたが、しかし「ヤキンとボアズ」の二本だけでは神殿を支えられず、他の柱も必要であるように、人とは完全なものではなく、柱となっている彼らを支える人もまた、必要だ。
パウロは、柱とされていたケパが非難すべき事をした時は、叱責によって彼を支えた。(同11-14節)

私達も、”聖所における柱”になれる事が黙示録に書いてある。
『勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:12)

勝利を得る者、聖所の柱となって新しい名が記される人とは、どのような人か。それはすぐ直前に書いてある。

『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。・・・忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(黙示録3:8-10)

主の言葉を忍耐して守り、主の御名を否まない人、そのような人は、勝利し、聖所の柱として用いられ、主の御そば近くから離れる事なく仕える事が出来、そして、世に来るべき試練の時に、主によって守られるのだ。

主を恐れ敬う国の莫大な祝福(2歴代誌2:1-18)
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メッセージ音声

2:3 ソロモンはまずツロのヒラムに人をつかわして言わせた、「あなたはわたしの父ダビデに、その住むべき家を建てるために香柏を送られました。どうぞ彼にされたように、わたしにもして下さい。

ユダヤ人が異邦人に対して誇っていたソロモン神殿の建材は全て、異邦に由来するものだった。
その建材の輸入をツロのヒラム王に依頼する時のソロモンの言葉には、主の御名がふんだんにあった。

2:4 見よ、わたしはわが神、主の名のために一つの家を建て、これを聖別して彼にささげ、彼の前にこうばしい香をたき、常供のパンを供え、また燔祭を安息日、新月、およびわれらの神、主の定めの祭に朝夕ささげ、これをイスラエルのながく守るべき定めにしようとしています。

私達も、イエス様を知らない人と一緒に仕事をする時、あの時のソロモンのように、立派に主をあかしする者になりたい。
立派なあかしをするためには、まず、私達が主にあって祝福されたものになるなら、人々はたやすく主は栄光あるお方であると納得できるだろうが、もし私達が主に祝福されていない状態であるなら、それはできない。
主に祝福されるには、主の御言葉を単に信じるだけでなく、それに記されている事を「守り行う」事である。
行いという「実体」が伴っていない信仰には、祝福も「実体」を伴って降りて来ない。

2:5 またわたしの建てる家は大きな家です。われらの神はすべての神よりも大いなる神だからです。
2:6 しかし、天も、諸天の天も彼を入れることができないのに、だれが彼のために家を建てることができましょうか。わたしは何者ですか、彼のために家を建てるというのも、ただ彼の前に香をたく所に、ほかならないのです。

この時のソロモンの信仰はとても健全であった事が分かる。
ソロモンは正しく主を伝えている。まさに主は「すべての神よりも大いなる神」であり、「天も、諸天の天も彼を入れることができない」、「彼のために家を建てるというのも、ただ彼の前に香をたく所に、ほかならない」のは、その通りである。
このように、正しい信仰の国に、主は、大いに祝福を注いで下さる。
アメリカは建国されてわずか200年ほどで世界一の大国に成長したのは、まさに信仰ゆえであった。
建国当初、ピューリタンの精神によって開拓され、礼拝第一の生活をし、学校では、子供達の口を通して主の祈りが捧げられていた。
その「古き良きアメリカ」の「良き」時代は、健全な信仰に基づいた生活をしていたからに他ならない。
どうして良き時代ではなくなってしまったのか。それは、信仰を離れたからに他ならない。

2:7 それで、どうぞ金、銀、青銅、鉄の細工および紫糸、緋糸、青糸の織物にくわしく、また彫刻の術に巧みな工人ひとりをわたしに送って、父ダビデが備えておいたユダとエルサレムのわたしの工人たちと一緒に働かせてください。
2:8 またどうぞレバノンから香柏、いとすぎ、びゃくだんを送ってください。わたしはあなたのしもべたちがレバノンで木を切ることをよくわきまえているのを知っています。わたしのしもべたちも、あなたのしもべたちと一緒に働かせ、
2:9 わたしのためにたくさんの材木を備えさせてください。わたしの建てる家は非常に広大なものですから。

栄光の主が祝福して下さった事を伝えた後、ソロモンは具体的な仕事の話に入る。

2:10 わたしは木を切るあなたのしもべたちに砕いた小麦二万コル、大麦二万コル、ぶどう酒二万バテ、油二万バテを与えます」。

1コルは約220リットルである。だからツロに輸出する量はかなり膨大であるが、いとも簡単にそれを輸出できる程、ソロモンの時代はふんだんに作物がとれたのだ。
列王記には、ソロモンの時代の初期はどれほど祝福された時代であるかを伺い知る事が出来る。

『ユダとイスラエルの人々は多くて、海べの砂のようであったが、彼らは飲み食いして楽しんだ。』(1列王記4:20)
ダビデ王の時代、彼がイスラエルの人口を数えようとした所、ヨアブから「どうぞあなたの神、主が、民を今よりも百倍に増してくださいますように。」と戒められたが(2サムエル記24:3)今や、その数は数えきれないほどに多くなり、それでかつ、地の産物も豊かに採れたので、食料の心配をする事なく繁栄を楽しんだ。

繁栄は、神の祝福である。
主の御声に聞き従うなら、主がそのような大きな繁栄と祝福を与えて下さる事は、主がモーセの時から示して下さった約束である。

1列王記4:20 ユダとイスラエルの人々は多くて、海べの砂のようであったが、彼らは飲み食いして楽しんだ。
・・・
 4:22 さてソロモンの一日の食物は細かい麦粉三十コル、荒い麦粉六十コル、
 4:23 肥えた牛十頭、牧場の牛二十頭、羊百頭で、そのほかに雄じか、かもしか、こじか、および肥えた鳥があった。
・・・
 4:25 ソロモンの一生の間、ユダとイスラエルはダンからベエルシバに至るまで、安らかにおのおの自分たちのぶどうの木の下と、いちじくの木の下に住んだ。

ソロモンの家で消費される小麦や牛、羊は莫大な量であったが、しかしそれでも民は重税で苦しんだのではなく、それだけ貢を収めてなお平和に飲み食いして楽しんだのだ。
民が重い取り立てで苦しみ、王だけがふんだんに飲み食いするとするなら、ただの暴君であるが、ソロモンが健全な信仰に留まっていた時は、民も王も主の祝福で豊かに潤っていたのだ。
こうして主が賜った有り余った富みによって、異邦の杉材を輸入し、そうして神殿が建てられていった。

『もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。』(申命記28:1-6)
祝福される条件は、「主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば」である。
そうするなら、次の祝福が待っている。

2:11 そこでツロの王ヒラムは手紙をソロモンに送って答えた、「主はその民を愛するゆえに、あなたを彼らの王とされました」。
2:12 ヒラムはまた言った、「天地を造られたイスラエルの神、主はほむべきかな。彼はダビデ王に賢い子を与え、これに分別と知恵を授けて、主のために宮を建て、また自分のために、王宮を建てることをさせられた。

ソロモンの申し出に、異邦の王ヒラムは喜び、主(エホバ)の御名を誉め称えた。
これは、ソロモンが主を正しくあかしした故だ。
私達も正しく主の御力と栄光と、そして主が為してくださったあらゆる良き事を人々にあかしする時、人々は喜びをもって、私達と交わりを持ちたいと願うようになるのだ。

2:13 いまわたしは達人ヒラムという知恵のある工人をつかわします。
2:14 彼はダンの子孫である女を母とし、ツロの人を父とし、金銀、青銅、鉄、石、木の細工および紫糸、青糸、亜麻糸、緋糸の織物にくわしく、またよくもろもろの彫刻をし、意匠を凝らしてもろもろの工作をします。彼を用いてあなたの工人およびあなたの父、わが主ダビデの工人と一緒に働かせなさい。

神殿の建材は全て、異邦に由来するもので、その匠の技もまた、異邦人とユダヤ人のハーフの手によって提供された。
元々、神殿も救いもユダヤ人だけのものではなく、異邦人にも及んでいくべきものだった。
ダビデの子ソロモンを通して、全世界にイスラエルの神が高められ、救いが全世界に入っていくはずだった。
しかしソロモンの人生の後半、彼は主に逆らってしまい、それが果たされなかった。

2:17 そこでソロモンはその父ダビデが数えたようにイスラエルの国にいるすべての他国人を数えたが、合わせて十五万三千六百人あった。
2:18 彼はその七万人を荷を負う者とし、八万人を山で木や石を切る者とし、三千六百人を民を働かせる監督者とした。

異邦人が重労働に徴用されているが、1列王記5章を見ると、その労働条件はなんと、3ヶ月ローテーションの中で1ヶ月だけ働き、後の2ヶ月は休む、という素晴らしい労働条件だ。
日本では、「年間休日数」として120日という数字はよく見るが、当時のイスラエルは、異邦人の労働条件さえもそれが逆転し、「年間労働日数」が120日くらいなのだ。
それだけ働いても充分労働者の生活が賄われるほどの報酬が払われていたのだろう。
労働条件までも、祝福につぐ祝福である。

異邦人たちは、イスラエルの民が、主に祝福されている有様を見、彼らを祝福してくださった主を誉めたたえ、共に主の事業に参加した。
こうして主に祝福された神の民イスラエルの富は、世界へと流し出され、こうして、全世界に主の栄光と富が、主のおしえと救いが、さらに流れて行くはずだった。
ところがソロモンは途中から主から離れ、女達にそそのかされ、偶像礼拝へと落ちて行ってしまい、主の人類救済のご計画が果たされるのは、もっと後押しになってしまった。
人は何度、主を残念がらせただろう。

元々、ソロモンに祝福が与えられたきっかけは、彼が「聞き従う(シェマー)」心を求めたからだった。
私達は常に主に聞き従う心をキープし、ますます祝福されて行く者でありたい。

雪よりも白くなるために(イザヤ1:2-20)
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1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
1:19 もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
1:20 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。

この有名な促しを、主がなされたそもそもの原因は、イスラエルの中の罪に、特に、イスラエルの「恩知らずさ」の指摘から、イザヤ書は始まった。

1:2 天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主が次のように語られたから、「わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。
1:3 牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない」。
1:4 ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖者をあなどり、これをうとんじ遠ざかった。

牛やろばさえも、主人への恩を知っている、というのに、神の民は、主への恩をすっかり忘れてしまって、主への感謝もなく、ただ、主から与えられた食物を食べるだけで、主を敬わない。
牛やろば以下になってしまった神の民に対し、主は4節で「ああ」と嘆いている。

1:11 主は言われる、「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。
1:12 あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。
1:13 あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること――わたしは不義と聖会とに耐えられない。

主を敬う心もなく恩を知らない者が礼拝に来るのは、単に礼拝の場を踏みにじっているにすぎない。
そこで、主の前に喜ばれるものになるために、言われた。

キリスト教といえば、赦しの宗教だと何となく知られている。
確かに、罪の赦しがキリスト教にはあるが、それは無条件のものではない。主の元に行く、という事が必要だ。
「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。」まずは主と論じあう事から、罪の赦しが始まる。
その論じ合いとは、まず、自分の側に罪があるのを主の御前に認める事と、それを隠さず主に申し上げる事から始まる。

ダビデは罪を指摘された時、正しく告白した。
詩篇51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
 51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
 51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
 51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

人は、罪を犯す。
けれども、もし犯したとしても、主の前に低くなる心を持ち、自分の罪を悲しんで、主に立ち返ろうとして「主と共に歩む」人こそ、主の民なのだ。

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