メッセージ - pastorさんのエントリ

主に従わない者に振りかかる呪いのケーススタディ(1歴代誌10:1-14)
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歴代誌は10章以降、人の名前の羅列という形での「系図」は終わり、イスラエルの歴代の王の歴史となって行く。

歴代誌だけを読む人にとっては、10章で唐突に舞台もストーリーも変わるので、驚くかもしれないが、結局、歴代誌全体の根底は「系図」である。
人が生まれ、その人生の中で主に対して何かしらの事を為し、やがて死んで、その子どもたちが主に対し何かしらの事をして行く。
10章以降も、その繰り返しである事には変わりはなく、主に対して誠実に歩んだ人は祝福を受け継ぎ、不誠実に歩んだ人は呪われる所に、例外は一切無い。
神の民の「系図」は今なお続いており、それは現代の私達も、その中に含まれている。
歴代誌はヘブライ語ではディブレー・ハッヤーミーム、「日々の出来事」ユダヤ人の「日々の出来事」であると同時に、私達にも「日々の出来事」なのだ。

この10章は、主に対して不誠実に歩んだ一人の男・サウルの、呪われた最後が記されおり、ダビデ家へと王権が移っていく事の前奏が記されている。

10:1 さてペリシテびとはイスラエルと戦ったが、イスラエルの人々がペリシテびとの前から逃げ、ギルボア山で殺されて倒れたので、
10:2 ペリシテびとはサウルとその子たちのあとを追い、サウルの子ヨナタン、アビナダブおよびマルキシュアを殺した。

9章最後に、サウルへと続くベニヤミンの系図があったが、そのサウルの子たちのうち、エシュ・バアル(サムエル記:イシュ・ボシェテ)以外は、全て殺されてしまった。
そのイシュ・ボシェテも、ダビデのご機嫌伺いをしようとする者達の手によって殺されてしまう。
それは、サウルは主を捨てて悪を行ったからである。
申命記28:20 主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行なったからである。

10:3 戦いは激しくサウルにおし迫り、射手の者どもがついにサウルを見つけたので、彼は射手の者どもに傷を負わされた。
10:4 そこでサウルはその武器を執る者に言った、「つるぎを抜き、それをもってわたしを刺せ。さもないと、これらの割礼なき者が来て、わたしをはずかしめるであろう」。しかしその武器を執る者がいたく恐れて聞きいれなかったので、サウルはつるぎをとってその上に伏した。
10:5 武器を執る者はサウルの死んだのを見て、自分もまたつるぎの上に伏して死んだ。
10:6 こうしてサウルと三人の子らおよびその家族は皆ともに死んだ。

サウルの最後は、矢傷を受けて敵が迫っているのに、介錯をしてもらえず、やむなく、自ら自害するというものだった。

なお、第二サムエル記1章には、サウルは最後の最後、まだ息があるのにひどいけいれんが起こったため、そばにいたアマレクの若者にとどめを刺してもらった、というアマレク人の証言がある。
自刃してもなお死にきれず、最後にアマレク人に止めを刺されたのか、それとも、アマレク人は褒美欲しさに「自分がとどめを刺した」とうそぶいたのか、定かではないが、いずれにせよ、アマレク人がサウルの死に関わったのは確かである。
サウルの死後、彼の王冠と腕輪はアマレク人に盗まれ、ダビデへと渡されてしまった。(2サムエル記1:10)
サウルは、聖絶せよと言われたアマレクを聖絶せずにいて、そのアマレクによって王冠が奪われ、そえれはダビデへと手渡される。実に象徴的だ。

10:7 谷にいたイスラエルの人々は皆彼らの逃げるのを見、またサウルとその子らの死んだのを見て、町々をすてて逃げたので、ペリシテびとが来てそのうちに住んだ。

サウルの周りからは、人々は逃げ離れて行ったが、それは彼から主の御手が離れたからであり、そなったのは、彼自身が主と主の言葉から離れたからだ。
彼は普段から主からの「方向修正せよ」というサインを、ことごとく無視し続けた。彼は預言者を退け、祭司を虐殺し、油注がれたダビデをも殺そうと執拗に追いかけ、ついには預言者にも祭司からも、油注がれた者からもそっぽ向かれ、そして最後には、主が忌み嫌われる口寄せに頼るという、信仰とは程遠い歩みをして、それを止めなかった。
結局彼は、長い信仰生活の間、「主により頼む」という信仰を育まず、ついには、与えられていた長い憐れみの期間を使い尽くしてしまい、リミットが来て、このような悲惨な最後になってしまったのだ。

10:8 あくる日ペリシテびとは殺された者から、はぎ取るために来て、サウルとその子らのギルボア山に倒れているのを見、
10:9 サウルをはいでその首と、よろいかぶとを取り、ペリシテびとの国の四方に人をつかわして、この良き知らせをその偶像と民に告げさせた。
10:10 そしてサウルのよろいかぶとを彼らの神の家に置き、首をダゴンの神殿にくぎづけにした。
10:11 しかしヤベシ・ギレアデの人々は皆ペリシテびとがサウルにしたことを聞いたので、
10:12 勇士たちが皆立ち上がり、サウルのからだとその子らのからだをとって、これをヤベシに持って来て、ヤベシのかしの木の下にその骨を葬り、七日の間、断食した。

ヤベシ・ギレアデは、サウルがまだ若かりし頃、王になった当初、サウルに救ってもらった町である。(1サムエル記11章)
サウルは、最初の信仰の行い故に、そのささやかな報いを受ける事ができた。

10:13 こうしてサウルは主にむかって犯した(ベマーアロ アシェル マーアル)罪のために死んだ。すなわち彼は主の言葉を守らず、また口寄せに問うことをして、
主に問うことをしなかった(リドローシュ・ヴェロ・ダラシュ)。それで主は彼を殺し、その国を移してエッサイの子ダビデに与えられた。

「マアール」と「ダラシュ」がここで繰り返されているが、マーアルは不信の罪、裏切る、不誠実の意味であり、ダラシュは求める・探す・通い続ける事である。
彼は主に信頼せず、主対し不誠実を続け、すなわち、主を裏切った。
そして彼は主を求めず、探さず、通い続けず、かえって、口寄せに解決を探し求めた。
そのように、主に対して不誠実を続けに続けた故、彼は、王から退けられてしまった。

箴言17:11 悪しき者はただ、そむく事のみを求める、それゆえ、彼に向かっては残忍な使者がつかわされる。

私達はこの書から、二通りの道を見る。
優れた王となって行くダビデの道と、御声に従わずに身勝手な自分の道を貫こうとしたサウルの道を。
この章は、身勝手な道を選んだ王の、悲惨な結末で締めくくられている。私達はここから戒めを受け、失敗の道を歩まず、ダビデのように優れた「王」となるろうと務めるべきだ。

御国の系図へと入れられる事を求めつつ読むべき歴代誌の系図(1歴代誌9:1-44)
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9章は、バビロン捕囚後の各部族、特に祭司・レビ族の主だった人々の系図が簡潔に記され、そうして10章以降のイスラエルの王族の歴史へ、すなわち、サウルから始まり、ダビデとその子孫のバビロン捕囚に至るまでの歴史へと続いていく。
9:1は、それを簡潔に記している。

9:1 このようにすべてのイスラエルびとは系図によって数えられた。これらはイスラエルの列王紀にしるされている。ユダはその不信のゆえにバビロンに捕囚となった。
バビロン捕囚後、神の定められた約束の地へ帰還した人達は、少数であった。
70年も異邦の地におり、異邦の価値観、異邦の娯楽に染まった人達はそれぞれの場所に埋まってしまうものだが、その70年の中でも、自分のアイデンティティ、すなわち、神の国の者としてのアイデンティティを保っていた人達が、なお存在した。
その人達は第一に、祭司やレビ人の、御国の奉仕をしていた人達である。

9:2 その領地の町々に最初に住んだものはイスラエルびと、祭司、レビびとおよび宮に仕えるしもべたちであった。

そして、いわゆる一般信徒もエルサレムに戻ってきた。
それは、ユダ族、ベニヤミン族、エフライム族とマナセ族である。
その主だった人の簡潔な系図が3節から9節に記されている。
また、10節から13節には、捕囚から帰ってきた、神殿奉仕をする祭司の、簡潔な系図が記されている。
14節から16節にはレビ人の奉仕者の簡潔な系図が記され、17節以降、ダビデとサムエルが定めた神殿奉仕者の職責が記されている。(9:22)

9:17 門を守るものはシャルム、アックブ、タルモン、アヒマンおよびその兄弟たちで、シャルムはその長であった。
9:18 彼は今日まで東の方にある王の門を守っている。これらはレビの子孫で営の門を守る者である。

門衛や監守人は、聖なる場所を守る者である。
現在で言う警備員であるが、これが重要な奉仕として真っ先に記されているのは、私達もその価値観によって生きるためである。
私たちという生ける神の宮(2コリント6:16)もまた、門をしっかり守るべきである。すなわち、目、耳、口という門を。
世の汚れた価値観によって汚されないようにするために、出入りすることばや情報には常に注意を配るべきなのだ。
バビロン捕囚から帰ってきた彼らは、しっかりガードしてきよい価値観を保ったから、神の定められた相続地に住む幸いにあずかる事が出来た。私達も、しっかりガードするなら、御国の相続地にあずかる事が出来るのだ。

24節以降を見ると、本当に色々な奉仕があった事が分かる。
神殿の財を守る者、門の鍵をもって朝ごとの開け閉めをする者、器物の数を調べて出し入れする者、主への捧げものを管理する者、香料を調合したり、主に捧げるパンを造ったりつかさどったりする者など。

9:33 レビびとの氏族の長であるこれらの者は歌うたう者であって、宮のもろもろの室に住み、ほかの務はしなかった。彼らは日夜自分の務に従ったからである。

私達も現在、主のために諸々の奉仕があるが、それを単なる「作業」としてでなく、永遠のいのちの書に記される尊い奉仕として、日夜、主にお捧げするべきである。

9:35 ギベオンの父エヒエルはギベオンに住んでいた。その妻の名はマアカといった。

35節から44節は、ベニヤミン族の系図となり、8:29-38と重複する内容となる。

それは10章以降、列王記のように、再びイスラエルの王族の歴史となり、それは初代の王、ベニヤミン族のサウルから始まるからであろう。

歴代誌の系図と歴史、それは現代の私達には関係ないと思われがちだが、決してそうではない。
私達も御国の系図へ、いのちの書に名が書き記され、私達がイエス様にあって為したわざが書き記されるために、日々、天の御国を求め、勝ち取っていくよう努力して行くべきであり、この御国の系図の中に入れられる事を、私達も積極的に求めていくべきなのだ。

マタイ11:12 バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。

「生まれてきてすいません」という声に対抗する圧倒的方法(ヨハネ1:1-14)
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太宰治は人間失格で「生まれてきてすいません」と書き、それがこの国で大きな反響を呼んだ。
そして彼自身は愛人を道連れに自殺した。

主は、存在そのものなるお方であるが、サタンは、真っ向から存在を否定してくる。

生きていてはならない
存在してはならない
そのように、自らの存在そのものに、漠然とした不安を抱かせ、死へと追いやる声は、闇から来る偽りである。

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

「わたしはある」と自らを表明し、そして全被造物を存在させ、存続させておられる、全き「存在」されるお方は、愛なるお方であり、世の始まる以前から、既に愛をもって私達の存在を認め、御前できよく、傷の無いものにしようと、あらかじめ定めておられた「御言葉」なるキリストである。

エペソ1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
1:6 これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。

このお方の愛の光に輝かされる時、全て、存在を否定しようとたくらむ悪魔サタンの声をかき消される。
主は、その者共を永遠に消えない火へと投げ込まれ、そしてキリストの愛に向かって歩み寄る全ての人を、永遠のいのちへと入れられる。

1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

全能者の「存在」を私達の中に在らせるために(申命記6:6-8)
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週報/メッセージ(説教)概要

 神は人を、神のかたちに創造された。ところが今、人は神を離れ、各々自分勝手な善悪判断をしつつ、罪と肉欲に従って生きている。神である主の最終目標は、人を本来あるべき「神のかたち」「神の子」へと回復する事であり、私達もそれを目指すべきだ。どうすればそれが回復するのか。それを今日見ていきたい。

『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者(イェヒエ・アシェル・イェヒエ)」。』(出エジプト記3:14)
ここの神の「イェヒエ」はハヤーの一人称単数未完了形で、ヘブライ語の未完了形は、動作が未だ終わっておらず、ずっと続いて行く事である。すなわち神の「ある」は、過去・今・未来に至る、永遠の「ある」だ。
神は、ご自身で存在されるお方であり、そして、私達を存在させるお方。イエス様もまた、ご自身を幾度も「わたしは有る(ギ:エゴ・エイミー)」と言われ、人を活かす者・いのちを有らせる者としてご自身を証された。
『もしわたしが「そういう者である(エゴエイミー)」事をあなたがたが信じなければ罪のうちに死ぬ事になる…よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前から「わたしはいる(エゴエイミー)」』(ヨハネ8:24,58)
イエス様はもとから世におられ、世はイエス様によって創られたのに、世はこのお方を知らなかった。
しかし彼を信じた人、すなわち彼の名を信じた人には、神の子とされる特権が与えられる。(ヨハネ1:12)
イエス様ははじめから、人を活かす目的で、自らが死ぬ存在として人としてこの世にお生まれになった。
そのイエス様は、世を創造されたのみならず、愛ゆえに身代わりとなり、そして命吹き込むお方として「有られる」。イエス様は「御言葉」であられ、彼は、肉の幕屋を張って私達の内に宿られた。(ヨハネ1:1,14)

この、永遠から永遠の「ハヤー(ある)」なるお方を、私達はいかにすればハヤーさせられるか。その答えが、申命記6:6である。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』
ハヤーとは、存在をあらわすBE動詞である。ハヤー。それが主の名前であり、アイデンティティである。
私達が御言葉を暗唱(テフィリン)し、心に、思いに、知性に刻みこむ事によって、この神から離れ死に陥ってしまう私達の中に、全能者なるお方が、私達の内に「存在(ハヤー)」させる事が出来るのだ。その時、全能者であり、永遠から永遠に至るまで「存在(ハヤー)」されるお方のハヤーが、その人の中に起こる。
主はテフィリンを命じておられる。『努めてこれをあなたの子らに教え(シャナン:シャープにする、研ぎ石などで鋭くする、コツコツと刺激を与える)、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない(ダバール:論じ合う)。またあなたはこれをあなたの手につけて(カシャール、結合、連盟、同盟する)印とし、あなたの目の間に置いて(ハヤー)覚えとし』(申命記6:7-8)
主の御胸は、神のいのちを持った神の子が、生んで増えて満ちて行く事である。だからこれらの事を命じられたのだ。こうしていつも御言葉に浸され、馴染んでいる内に、御言葉と一体化して行く事で、天地を創造した神の言葉による再創造が、その人の中に構築されて生き、神のかたちが出来上がっていくのだ。

クリスチャンはよく口にする。「イエス様は共におられます」と。しかしそう口にするものの、「本当かな」と揺らいでしまったり、あるいは全然実感なく機械的に「イエスサマハトモニオラレマス」と言っていないだろうか。
全世界を御言葉によって創造されたお方の「ハヤー」が無い人、すなわち、テフィリンしていない人は、その伝道には力は無く、また、何か不安な事が起きると、土台の無い家のように、心がぐらぐら揺らいでしまう。
しかし、その人の中に、御言葉の蓄えが増えれば増えるほどに、自分が存在(ハヤー)する根拠、生きる根拠、伝道の根拠が、くっきり土台づくりされて行くため、心も、人格も、ことばも、人生も、全て安定して行く。
御言葉の根拠が無い、自分に神の子としてのレベルが低いままであるなら、いくら祈っても、いくら主のミニストリーに励んでも、目が見えないまま闇雲に数を撃っているようなもので、たとえ祈りが「聞かれた」としても、数撃ってようやく当たったような、おこぼれの、憐れみ故の「聞かれ方」である。その生き方は、疲れる。
しかし、テフィリンして御言葉のハヤーがある人は、見えないけれど確実に「ハヤー」されるお方があるため、たとえ今、必要なものが目の前・現実に無いとしても、全能者のハヤーを根拠に、揺るがず、無駄な祈りを乱発せず、無駄な動きをせずに、本当に的を射た祈りと行動が出来、無駄をしないので、疲れない。
そういうわけで、私達はぜひとも、御言葉を蓄え、テフィリンするべきなのだ。自分で善悪判断する事を下ろし、御言葉なるキリストのハヤーを自分自身の内に構築し、全てに安定して行く皆さんでありますように!

ベニヤミン族の系図 - 必ず報われる誠実な者(1歴代誌8:1-40)
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歴代誌の系図で一番の主人公は王族のユダ族、その次に祭司系のレビ族であるが、その次にあたるのは、ベニヤミン族と言える。

8:1 ベニヤミンの生んだ者は長子はベラ、その次はアシベル、第三はアハラ、
8:2 第四はノハ、第五はラパ。

8章は、ベニヤミン族の系図である。
ベニヤミン族はイスラエルの末っ子であるがその子孫は戦いに長けた者が多い。
しかし士師記の時代、ベニヤミン族はその力に傲慢になったのか、ソドムにも劣るような性的にも道徳的にも堕落した者となってしまった記事が、士師記19章以降に記されている。
この堕落してしまったベニヤミン族を取り締まるために他の11部族は戦いを仕掛けるが、イスラエルのほうは甚大な被害を受けながらも、真剣に主の前にへりくだった時にようやく勝利した。
ベニヤミン族のほうは、生き残った男子600人以外は皆殺しにされ、さらに他の11部族はベニヤミン族には娘はめとらせないと誓ってしまい、一時期はベニヤミン族は滅亡の危機に陥ってしまったが、主の憐れみによってなんとか持ち直した。
それら一連の事は、歴代誌には記されていないが、しかしサウル王の時代に至るまでの系図が、いくつかの挿話と共に記されている。

8:33 ネルはキシを生み、キシはサウルを生み、サウルはヨナタン、マルキシュア、アビナダブ、エシバアルを生んだ。

サムエルの時代、人々は主の御心に逆らって王を求め、主は彼らの望み通りに王をたてた。それがサウルである。
サウルの名は「尋ねられる」「面会を求められる」という意味である。
彼は「若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民のだれよりも肩から上、背が高」かった。(1サムエル記9:1)
そればかりでなく、裕福な家出身であり、場の空気をよく読む、思いやりのある人だった。
まさに、人々から「求められる」という名前の通りの者であった。
人を思いやるのは良いことであるが、神よりも人を優先して思いやるとしたら、それは災いの性質であり、それが後の彼にとって罠となってしまう。
彼は二度、主の言葉を覆した行動をした故、彼から王権は取り上げられ、ダビデに移された。

8:34 ヨナタンの子はメリバアルで、メリバアルはミカエルを生んだ。

サウルの子ヨナタンは素晴らしい信仰の持ち主で、ダビデに対しても、そして父に対しても誠実であった。
ただ、滅びの性質を持ったサウルを父に持ってしまった故に、彼は非業の死を遂げた。
ただ、ヨナタンの子メリバアル(サムエル記ではメフィボシェテ)には、ダビデは、ヨナタンのゆえに誠実を尽くした。

サウルには他にも子孫がいたが、サウルが生前した罪のゆえに全員殺されてしまった。
ヨナタンの子メフィボシェテは、その時、うばが彼を抱いて逃げたのだが、逃げる時、彼は落ちて足なえとなってしまったのだった。

ダビデ王の子アブシャロムがダビデ王に反乱を起こし、ダビデ王が都落ちした時、国はダビデにつく者とアブシャロムにつく者とに真っ二つに分かれたが、メフィボシェテはダビデについて行こうとした。
しかし、彼は彼のしもべ・ツィバに陥れられてしまった。ツィバは後にダビデが勢力回復する事を踏んで、この危急の事態を利用し、のし上がろうとしたのだろう。
ダビデはツィバの讒言を真に受けて、メフィボシェテのものはみなあなたのものだ、と、約束してしまった。

しかしアブシャロムが死んだ後、メフィボシェテの真実が発覚する。

『サウルの子メピボセテは下ってきて王を迎えた。彼は王が去った日から安らかに帰る日まで、その足を飾らず、そのひげを整えず、またその着物を洗わなかった。』(2サムエル記19:24)
メフィボシェテは、いつとも知る事の出来ないダビデ達の帰還まで、その足を飾らず(七十人訳による補足:爪も切らず)、ひげも整えず、着物も洗わず、ダビデが苦難を受けている期間、自分自身も、身を悩ませていた。
という事は、彼の爪は、それなりに伸びていただろうし、ひげも、長期間整えていなかった有様であったろうし、着物もそれなりに汚れていた事だろう。
シムイやツィバは、美辞麗句と言葉で下心を隠して来たが、メフィボシェテは、その有様からして、ダビデを心から心配し、帰る日を待ち望んでいた事を、偽りようが無い。

ダビデがアブシャロムに追われエルサレムから落ちのびて行った時、ツィバはメフィボシェテについて偽りの報告をし、ダビデはそれを真に受け、真実を確認しない内に「見よ、メピボセテのものはことごとくあなた(ツィバ)のものです」と約束してしまった。
それ以降、ダビデはずっとメフィボシェテについて、良くない印象を抱き続けて来たのだろう。
メフィボシェテが会いに来た時、ダビデの最初の対応は、そっけなかったが(2サムエル記19:25-27)、ダビデは、彼の伸びた爪、乱雑になったひげ、長期間洗わなかった服を見て、彼の言った事こそ真相だった、と知っただったろう。

『わたしの父の全家はわが主、王の前にはみな死んだ人にすぎないのに、あなたはしもべを、あなたの食卓で食事をする人々のうちに置かれました。わたしになんの権利があって、重ねて王に訴えることができましょう」。』(2サムエル記19:28)
メフィボシェテは、自分のひげや服を見てください、などとアピールする事は一切無かった。
ダビデがそれまで自分に尽くしてくれた真実だけでも十分です、どうして尚、何かを訴える事が出来ましょうか、と、一切の判断をダビデにゆだねている。

『王は彼に言った、「あなたはどうしてなおも自分のことを言うのですか。わたしは決めました(原語:既に言っている)。あなたとヂバとはその土地を分けなさい」。』(2サムエル記19:29)

ダビデは既にツィバに約束してしまった。メフィボシェテのものは、ツィバのものだ、と。
事の真相をダビデが知ってから、それを取り消しができなかったのは、もう既に、その方面で諸々の手続きが進んでしまっていたのかもしれない。

足が不自由で、機敏に動けない事を良いことに、ツィバはメフィボシェテを貶め、騙し取るような事をしたが、それでもメフィボシェテは、一切の文句も無しに言う。
『わが主、王が安らかに家に帰られたのですから、彼にそれをみな取らせてください。』(2サムエル記19:30)

ダビデのエルサレム帰還に際し、色々な人々の思惑が交錯する中、一番真実にダビデを思い、待っていたのは、このメフィボシェテだろう。
彼は、彼のしもべの讒言と、ダビデの早まった決断のゆえに、本来自分のものだったものを、半分取られてしまったが、ダビデは彼を憐れみ、守り続けた。(21:7)

人は不完全である。
偽りを見抜けなかったり、偽りの言葉を鵜呑みにして早まった決断をし、尊いものを卑しい者に騙し取られたり、本当に憐れむべき真実な人をぞんざいに扱ってしまったりもする。
体が不自由であったり、言葉達者でなかったり、世渡り上手でない人が、健康体な人や、言葉達者な人や、世渡り上手な人に、出し抜かれてしまう事が多々あるのが、この世であり、また不完全である故に判断を誤ってしまう事もあるが、主は全てをご存知であり、全ての偽りを見抜き、そのさばきは真実である。

メフィボシェテはこの時、報われなかったかのように見えても、彼の子孫は、ベニヤミン族の中で栄えて行った事が、歴代誌の以下に続く系図から明らかである。

8:34 ヨナタンの子はメリバアルで、メリバアル(メフィボシェテ)はミカエルを生んだ。
8:35 ミカの子らはピトン、メレク、タレア、アハズである。
8:36 アハズはエホアダを生み、エホアダはアレメテ、アズマウテ、ジムリを生み、ジムリはモザを生み、
8:37 モザはビネアを生んだ。ビネアの子はラパ、ラパの子はエレアサ、エレアサの子はアゼルである。
8:38 アゼルには六人の子があり、その名はアズリカム、ボケル、イシマエル、シャリヤ、オバデヤ、ハナンで、皆アゼルの子である。
8:39 その兄弟エセクの子らは、長子はウラム、次はエウシ、第三はエリペレテである。
8:40 ウラムの子らは大勇士で、よく弓を射る者であった。彼は多くの子と孫をもち、百五十人もあった。これらは皆ベニヤミンの子孫である。

そうしてヨナタンの子・メフィボシェテの子たちは増え、栄え、ユダ族とともにイスラエルの中で永らえた。
結局、サウル王家は主に対して不誠実な王として衰退して行ったが、信仰において人に対して誠実だったヨナタン・メフィボシェテの子孫は栄え、彼らゆえに、ベニヤミン族は保たれた。
「柔和な人者は幸いである、その人は地を受け継ぐ」の御言葉の通りである。

その他の諸部族の系図 - 祝福を受け継ぐ人と、吐き出されてしまう人(1歴代誌6:48-81)
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第一歴代誌7章は、その他の部族の簡略化された系図や特記事項が記されている。
7章の系図に記されるのは、大勇士であったり、信仰において積極的に進み出る者であったり、あるいは、一方的に幸いを得たような人達である。

7:1 イッサカルの子らはトラ、プワ、ヤシュブ、シムロムの四人。
7:2 トラの子らはウジ、レパヤ、エリエル、ヤマイ、エブサム、サムエル。これは皆トラの子で、その氏族の長である。その子孫の大勇士たる者はダビデの世にはその数二万二千六百人であった。
7:3 ウジの子はイズラヒヤ、イズラヒヤの子らはミカエル、オバデヤ、ヨエル、イシアの五人で、みな長たる者であった。

このイッサカル族で、特に名が記されたのは、大勇士の長達であり、ダビデの時代にその部族から何人の軍隊を擁したか、その人数が記されている。

7:6 ベニヤミンの子らはベラ、ベケル、エデアエルの三人。
7:7 ベラの子らはエヅボン、ウジ、ウジエル、エレモテ、イリの五人で、皆その氏族の長である。その系図によって数えられた大勇士は二万二千三十四人あった。

ベニヤミン族についても、勇士たちの長の名と数が記されている。
さらにベニヤミン族は8章においてサウルに至る系図が詳細に記される。

7:13 ナフタリの子らはヤハジエル、グニ、エゼル、シャルムで皆ビルハの産んだ子である。

ナフタリ族については、わずかこの1節に記されているのみである。
1節でも記されるなら、まだいいかもしれない。ゼブルン族とダン族は、記載さえされていたいのだから。
なぜある部族は詳細に記されるのに、別の部族は1節しか、あるいは全く記されないのか。

この歴代誌全体を流れるテーマは、捕囚後のイスラエルの民がいかに歩むべきかの指標を示すものであり、そこには祝福と呪いがあり、祝福の元は、神を恐れ、神の宮を敬い、礼拝を重んじる事であるが、呪いの元はその逆、神を恐れず、神の宮を軽んじ、礼拝しない事である。
だから、信仰において大いなる事をした者、神の国に貢献した者は載せられ、あるいはその逆に、特に呪われるべき事をした者もまた、載せられている。
だから、この歴代誌における系図が簡略化されてしまった、あるいは全く載せられないという事は、そのどちらでもない、それらの部族は、熱くもなく冷たくもなく、という事だったのかもしれない。

神の国とは、そういう所である。
熱くもなく冷たくもない者は、吐き出されてしまうのである。(黙示録3:16)

7:14 マナセの子らはそのそばめであるスリヤの女の産んだアスリエル。彼女はまたギレアデの父マキルを産んだ。
7:15 マキルはホパムとシュパムの妹マアカという者を妻にめとった。二番目の子はゼロペハデという。ゼロペハデには女の子だけがあった。

マナセ系図で特記されているゼロペハデの女の子たちは、民数記において信仰ある行動を取った。
ツェロフハデには5人の娘がいたが、男の子がいなかった。それで彼女達は、男性の相続者がいないという事で、相続地がもらえなのではと憂慮し、モーセや祭司達、全会衆を前にして、以下の事を主張したのだ。
「わたしたちの父は荒野で死にました。彼は、コラの仲間となって主に逆らった者どもの仲間のうちには加わりませんでした。彼は自分の罪によって死んだのですが、男の子がありませんでした。男の子がないからといって、どうしてわたしたちの父の名がその氏族のうちから削られなければならないのでしょうか。わたしたちの父の兄弟と同じように、わたしたちにも所有地を与えてください。」(民数記27:3-4)

主は、彼女たちの訴えを「もっとも」とされた。なぜなら彼女たちの主張は、御言葉に叶っているからである。(申命記25:6)
主は、御言葉に叶った訴えは、正面から受け止めてくださる。

彼女たちのようなケースは、イスラエルの中には他に多くあっただろう。五人の子供がいる家庭で、五人全員が女の子である確率は、三十二の家庭に一つある。
イスラエルの六十万もの家庭の中で、女の子供しか生まれなかった家庭は、かなりの数あっただろうが、このツェロフハデと娘たちの名が、永遠の書物・聖書に記されたのは、彼女たちは信仰を持って進み出て、主に期待したからであり、その他多くは、期待もせず、勇気をもって訴え出もしなかったのだ。

マタイ11:12 バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。
天の御国は、積極的に奪い取る者のものとなる。だから、「主から頂けない」などと言って泣き寝入りしてはならない。
主はどうせ聞いて下さらない、主は蒔かない所から刈り取りをなさる方だなどと、ねじ曲がった神観を持ってはならない。
期待しない事、ねじまがった神観を持つ事は、罪であり、主はそのような人の持っているものを取り上げ、信仰をもって進み出る人に与えられる。(マタイ25:14-30)

7:20 エフライムの子はシュテラ、その子はベレデ、その子はタハテ、その子はエラダ、その子はタハテ、
7:21 その子はザバデ、その子はシュテラである。エゼルとエレアデはガテの土人らに殺された。これは彼らが下って行ってその家畜を奪おうとしたからである。
7:22 父エフライムが日久しくこのために悲しんだので、その兄弟たちが来て彼を慰めた。
7:23 そののち、エフライムは妻のところにはいった。妻ははらんで男の子を産み、その名をベリアと名づけた。その家に災があったからである。

ベリアは、災の中、という意味がある。
エフライムが悲しみと災の中で生まれた子供をそのように名付けたが、祈りと愛情の中育まれた子は、その子孫に、あの信仰の大勇士、ヌンの子ヨシュアが生まれている。(27節)

7:30 アセルの子らはイムナ、イシワ、エスイ、ベリアおよびその姉妹セラ。
7:31 ベリアの子らはヘベルとマルキエル。マルキエルはビルザヒテの父である。
・・・
7:40 これらは皆アセルの子孫であって、その氏族の長、えりぬきの大勇士、つかさたちのかしらであった。その系図によって数えられた者で、いくさに出てよく戦う者の数は二万六千人であった。

アシェルの名の意味は「幸せ」であり、モーセから最大の祝福を受けている。

申命記33:24 アセルについては言った、/「アセルは他の子らにまさって祝福される。彼はその兄弟たちに愛せられ、/その足を油にひたすことができるように。
33:25 あなたの貫の木は鉄と青銅、/あなたの力はあなたの年と共に続くであろう」。

アシェルは兄弟の喜びとなる。アシェルに会うと、兄弟たちが幸せになり、アシェルが来ると、色々ことがうまくすすむ。
だから、アシェルは幸せになっても、妬みを受けない。
「その足を油にひたすことができるように」これは、物質の祝福である。
カルメル山の後ろの地、レバノンの国境が見える平野で、彼が足踏んだ所全部、油が滴っていた。まさに財の祝福を受けたのだ。
「あなたの貫の木は鉄と青銅」すなわち主がアシェルのかんぬきとなっておられ、彼を害する者は誰も入ってこれない。
「あなたの力はあなたの年と共に続くであろう」、すなわち生涯の間、神の力、神の奇跡が、つきものである。

このアシェルの幸いを手に入れるためのコツが、詩篇1篇である。
詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人は「さいわい(アシェル)」である。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。

すなわち、「歩まず」「たたず」「座らない」という、3つの「しない」を旨とする人、そして、主の御言葉を昼も夜も口ずさむ人が、アシェルの幸いに入る。

歴代誌7章には、大勇士であったり、信仰において積極的に進み出る者であったり、あるいは、一方的に幸いを得たような人達が、系図に名が記された。
しかし、熱くもなく冷たくもない者は、吐き出されてしまうのである。(黙示録3:16)
私達は、神に対し、御国に対し、御言葉に対して熱く、そして、罪に対し、サタンに対し、悪霊に対しては徹底的に冷たい者であるべきだ。

ヨシュアのように、ツェロフハデの娘達のように、積極的に神の国を勝ち取り、アシェルのように祝福を勝ち取る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

どんな悪巧みの中にさえも最善を織り込ませる主(創世記50:15-21)
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週報/メッセージ(説教)概要

 天地創造から始まる創世記の終盤は、イスラエル民族の父祖ヤコブの子、ヨセフの歩みが詳細に記されている。彼はエジプトの宰相となって、父ヤコブと12人の家族を一つの国家へと成長させる重要な役割を主から任された。その全ての発端となった出来事が、彼がエジプトに奴隷として売られてしまう事件だった。
彼が父から寵愛を受けているのを、兄達は妬み、彼をエジプトへ奴隷として売るよう企んだのだ。

ヨセフは奴隷生活を経、牢の中の囚人も経たが、最終的に彼はエジプトの宰相にまで引き上げられた。
彼は正直で、柔和で、怒らず、つぶやかず、何事も神を第一にし、自分を低くする性質だったので、神に愛され、どんな人がどんな不当に扱おうと、彼は神の特別扱いを受け、結局彼がする事は全て祝福された。
それに対し兄達は、後悔と悲しさの日々を送り、一家全体は暗かった。主と共に歩んでいる人が、いかに不当な扱いを受けようとも、神がその人を癒やし、慰め、引き上げ、労苦を忘れさせてくださる。しかし怒りやねたみ、暴力など悪い力によって身を立てて来た人は、怯えながらの底辺生活を続けなくてはならない。
底辺生活を続けてきた兄達は、祝福されたヨセフと再会して以来、ずっと彼を恐れ続け、父ヤコブが死んだ時、自分達は殺されるかもしれない、と恐れた(15節)。ところがヨセフのほうは、とっくの昔に忘れていた。
兄が自分にした悪も、心の傷もトラウマも、苦労した日々さえも(41:51)。私達も、親しい誰かからひどい目に遭わされ、傷を受けるとしても、神と共に歩み続けるなら、神が私達を慰め、忘れさせ、栄えさせて下さる。

ヨセフは兄達に「わたしが神に代ることができましょうか」と言った(19節)。もしヨセフが兄達をずっと恨んでいて、父が死んだ機会に兄もその家族も殺してしまうとするなら…そのような人は世の中にごまんといて、世界史はその繰り返しだったが…、もしそのような矮小な器なら、神ははじめからヨセフを用いていない。
神のご計画は最初から、イスラエル家族をエジプトのゴシェンの地に移し、わずか70名の一家を「一国」へ成長させる事だった。この遠大なる計画を、どうして一人の人間の私怨ごときで覆す事が許されるだろう。
ところが多くの人は、自分の私怨や私利私欲ごときで、神様の遠大なるご計画を平気で覆そうとする。
だから神に用いられる器とは、ヨセフのように柔和で怒らず、自分の思いより御心を優先させる人なのだ。

『あなた方はわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを「良きに変らせて(ハシャバ・レトバー)」、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。』(20節) ここが創世記の結論であり、全歴史の結論である。
ここのハシャブは「織り込む、染み込む」の意味で、トーブは「良し」という意味である。たとえ何者かが私達の人生に悪を企み、罪の奴隷や絶望の牢へ投げ込もうとも、神のトーブがそこに織り込まれ染み込まれる。
ヨセフの兄達が弟ヨセフを奴隷に売った事は、ひどい悪である。しかし神はその悪を用い、売った兄や、父さえエジプトのゴシェンの地で養い、一つの国家へと仕立てて行くという、絶大なトーブに変えてくださった。
神の名は「有りて在る」であり、創造の6日に6回トーブを宣言された方だ。いかにサタンの企みにより、奴隷にさせられても、そこにトーブを「在らせ」、織り込ませ、癒やし、忘れさせ、引き上げ、栄えさせて下さる。
トーブはヘブライ語のテット、ヴァヴ、ヴェートの三文字だが、最初のテットは蛇の意味、次のヴァヴは釘、最後のヴェートは家の意味がある。つまり、ヘビ(サタン)によって罪の奴隷に陥らされても、イエス様の十字架の釘によって永遠の家・天国に迎え入れられる、という意味が、このヘブライ語に込められているのだ。
つまり、トーブの単語そのものの中に、神は、神を愛する人達に働いて、万事を益とし、御子のかたちにしようと永遠の計画の中にあらかじめ定めおられた、という、ローマ8:28-29の意味が込められていたのだ。
ヨセフの兄は、ヨセフに悪い事を謀ったが、神は神と共に歩む彼を通してイスラエルの全家を救いへ導いた。同じように、神は、蛇(サタン)に妬まれ、陥れられ、罪と死の牢獄状態になってしまった人をも、イエス様の十字架を通して、永遠の神の家に花嫁として迎え入れられるという「トーブ」へと塗り替えられるのだ。
私達の中にも、ヨセフのあの頃のように、不当に牢に閉じ込められ奴隷のような状況を通らされる事があるかもしれない。先が見えず、いつまでこの状況が続くのか分からないかもそれないが、忘れてはならない。
神はその中にトーブを織り込み、染み込ませ、その状況さえも働かせて益とする事がおできになる事を。
悪を悪で返さず、平和で、正直で、神を第一に歩んできたヨセフが、癒され、傷も人のした悪も忘れさせられ、大いに祝福されたように、私達もこの時代、彼のように歩み、大いに用いられる者でありたい。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
創世記と全歴史の最終結論「トーヴ」(創世記50:15-21)
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レビ人に対する割り当ての放牧地群が系図に挿入された理由(1歴代誌6:48-81)
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本日の箇所が、歴代誌系図の他の箇所と違う所は、レビ族に割り当てられた放牧地のリストによって結構な紙面が割かれている所である。
その放牧地の内訳は、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエル全土から、まんべんなく、である。
なぜ、系図ではなくレビ族に与えられた土地のリストが唐突に挿入されているのか。
それは、バビロン捕囚を経験して戻ってきたイスラエルにおいて、霊的に重要な意味を持つからである。

6:48 彼らの兄弟であるレビびとたちは、神の宮の幕屋のもろもろの務に任じられた。
6:49 アロンとその子らは燔祭の壇と香の祭壇の上にささげることをなし、また至聖所のすべてのわざをなし、かつイスラエルのためにあがないをなした。すべて神のしもべモーセの命じたとおりである。

アロンの子孫は祭司の一族として、そしてレビ族はそのサポートとして、イスラエル12部族の中で重要な役割を担っている。
特にアロン直系の大祭司の家系は、至聖所における全イスラエルの贖いのつとめを担っている。
彼らは世の仕事をする事なく、もっぱら神の宮における奉仕が、神によって割り当てられている。

6:50 アロンの子孫は次のとおりである。アロンの子はエレアザル、その子はピネハス、その子はアビシュア、
6:51 その子はブッキ、その子はウジ、その子はゼラヒヤ、
6:52 その子はメラヨテ、その子はアマリヤ、その子はアヒトブ、
6:53 その子はザドク、その子はアヒマアズである。

再びアロンの子孫が、ここに簡潔に記されている。
それはツァドクへ至る系図であり、サムエルの時代に罪を犯したホフニやピネハス、その父のエリの系図ではない。彼らは捧げものの事で罪を犯したため、除外されている。

6:54 アロンの子孫の住む所はその境のうちにある宿営によっていえば次のとおりである。まずコハテびとの氏族がくじによって得たところ、
6:55 すなわち彼らが与えられたところは、ユダの地にあるヘブロンとその周囲の放牧地である。
6:56 ただし、その町の田畑とその村々は、エフンネの子カレブに与えられた。

ヨシュア記に、カレブがヘブロンの山地を45年もあこがれて遂に彼が85歳の時に巨人たちを打ち負かして勝ち取った記事が記されている。
ヘブロンは彼らの先祖アブラハムゆかりの特別な地である。
そこの放牧地がアロンの子孫に割り当てられた。

6:57 そしてアロンの子孫に与えられたものは、のがれの町であるヘブロンおよびリブナとその放牧地、ヤッテルおよびエシテモアとその放牧地、
6:58 ヒレンとその放牧地、デビルとその放牧地、
6:59 アシャンとその放牧地、ベテシメシとその放牧地である。
6:60 またベニヤミンの部族のうちからはゲバとその放牧地、アレメテとその放牧地、アナトテとその放牧地を与えられた。彼らの町は、すべてその氏族のうちに十三あった。

以降、記されている事は、レビ族のそれぞれの子孫に対し、イスラエル12部族から、全国各地からまんべんなく放牧地が割り当てられられている事である。
レビ人が住むための町を、それぞれの部族が提供しなくてはならない事は、民数記35章に定められている。
大きい部族も、小さい部族も、必ず主の奉仕者に捧げるべきであると主は命じており、それは、富めるも貧しきも、必ず、罪のためのいけにえを捧げなくてはならないのと同じである。

レビ族には「相続地」ではなく「割り当て地」が、それも、「農地」ではなく「放牧地」が割り当てられている点に着目すべきである。
彼らは、世の仕事をするのではなく、もっぱら神の宮に関する奉仕をするよう定められており、他のイスラエルの部族が祭司やレビ族を通して主に捧げられる捧げものによって、彼らの生活は成り立っているからだ。

なぜわざわざ系図の記されている中に、レビ人への割り当て地が、詳細に挿入されたのか。
それは、レビ人や祭司は、100%、一般の会衆が主に捧げる捧げ物によって、生活が成り立っており、もし、民が捧げる事を止めてしまうと、レビ人達は主の宮を手放して、自分達の農地に逃げるしかなくなり、神の宮はおろそかにされ、民全体が祝福を受けられなくなってしまう。

ネヘミヤ記13:10 わたしはまたレビびとがその受くべき分を与えられていなかったことを知った。これがためにその務をなすレビびとおよび歌うたう者たちは、おのおの自分の畑に逃げ帰った。
13:11 それでわたしはつかさたちを責めて言った、「なぜ神の宮を捨てさせたのか」。そしてレビびとを招き集めて、その持ち場に復帰させた。
13:12 そこでユダの人々は皆、穀物、ぶどう酒、油の十分の一を倉に携えてきた。

バビロン捕囚から帰ってきた後の時代を生きたネヘミヤは、レビ人がなおざりにされて、「畑」に逃げ帰って、レビ人が世の仕事をしている事を重く受け止め、人々に叱咤し、レビ人に元の奉仕に戻らせた。
これは、現代を生きる私達に重要な示唆を示している。

日本のクリスチャンは、どういうわけか献金をタブー視し、牧師先生の中でも、世の仕事をしなくては生活が成り立たない人も多い。
また、牧師先生の中にも、献金はしなくてもいいんですよ、と、変に気を遣ってしまっている人もいるが、とんでもない。
献金は、人や組織を存続させるカンパではなく、神への捧げものである。
捧げる人には、幸いと祝福が増し加わり、捧げない人は、わずかな刈り取りしか出来ない事は、昔も今も変わりないのだ。
かつてイスラエルは、捧げものをおろそかにし、祭司やレビ人など主の働き人が世の仕事へ逃げてしまい、礼拝が衰退し、国全体が呪いの道へ突き進んで行ってしまったが、現代の私達はそれを戒めとして受け止め、主への捧げものと、主の働き人を助ける事をやめてはならない。

マラキ3:8 人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。
3:9 あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。
3:10 わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。
3:11 わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。
3:12 こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。
 

自己満足するのではなく、神と人との前に好意と聡明を得よ(箴言3:1-12)
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