メッセージ - pastorさんのエントリ

ヨブが神に捨てられ人からも捨てられたと思った時に求めた、神と人との間に立つ仲保者(ヨブ記16章)
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16-17章は、ヨブによるエリファズへの回答なのだが、といっても、彼の友人に向けられた言葉はわずかで、多くの言葉は、主に向けられている。

16:1 そこでヨブは答えて言った、
16:2 「わたしはこのような事を数多く聞いた。あなたがたは皆人を慰めようとして、/かえって人を煩わす者だ。
16:3 むなしき言葉に、はてしがあろうか。あなたは何に激して答をするのか。

ヨブは、エリファズの15章の1節から35節にわたっての論説を、わずかな言葉でばっさり切った。
状況を見極めず、ただ自分の思い込みによって相手を計り、その誤った動機から発せられた格言が、立派であればあるほど、また長々としていればいるほど、煩わしいものだ。

16:4 わたしもあなたがたのように語ることができる。もしあなたがたがわたしと代ったならば、/わたしは言葉を練って、あなたがたを攻め、/あなたがたに向かって頭を振ることができる。
16:5 また口をもって、あなたがたを強くし、/くちびるの慰めをもって、あなたがたの苦しみを/和らげることができる。

ヨブは、もし自分と友人達の立場が逆転したら、言葉を練って友人達を攻め、友人達に向かって頭を振る(すなわち、あざけりばかにする)事が出来、そして言葉でもってあなた方を強くし、苦しみを和らげる事が出来る、と、批判とも嫌味とも取れる事を言ったが、いずれにしてもヨブは、人も神からも何の助けを得られない事を嘆いている。

16:6 たといわたしは語っても、/わたしの苦しみは和らげられない。たといわたしは忍んでも、/どれほどそれがわたしを去るであろうか。

ヨブは、以上の言葉をもって、友人達への言葉は終わりにし、そして7節以降の言葉は、再び神に向けられる。
彼は再び吐露し始める。友人達から、そして神から、自分が苦しめられている事を。

16:7 まことに神は今わたしを疲れさせた。彼はわたしのやからをことごとく荒した。
16:8 彼はわたしを、しわ寄らせた。これがわたしに対する証拠である。またわたしのやせ衰えた姿が立って、わたしを攻め、/わたしの顔にむかって証明する。

彼は、自分に今ありありと現れている、このやつれ果てた自分の外見が、その証拠だ、と主に申し上げる。

16:9 彼は怒ってわたしをかき裂き、わたしを憎み、/わたしに向かって歯をかみ鳴らした。わたしの敵は目を鋭くして、わたしを攻める。
16:10 人々はわたしに向かって口を張り、/侮ってわたしのほおを打ち、/ともに集まってわたしを攻める。
16:11 神はわたしをよこしまな者に渡し、/悪人の手に投げいれられる。
16:12 わたしは安らかであったのに、/彼はわたしを切り裂き、/首を捕えて、わたしを打ち砕き、/わたしを立てて的とされた。
16:13 その射手はわたしを囲む。彼は無慈悲にもわたしの腰を射通し、/わたしの肝を地に流れ出させられる。
16:14 彼はわたしを打ち破って、破れに破れを加え、/勇士のようにわたしに、はせかかられる。
16:15 わたしは荒布を膚に縫いつけ、/わたしの角をちりに伏せた。
16:16 わたしの顔は泣いて赤くなり、/わたしのまぶたには深いやみがある。

ヨブは、神から敵対され、友人達から敵対され、もはや自分には何の助けも見いだせない事を告白し、絶望の暗闇に閉じ込められた心情を神に吐露している。
それでもヨブは、自分の潔白を主張する。

16:17 しかし、わたしの手には暴虐がなく、/わたしの祈は清い。
16:18 地よ、わたしの血をおおってくれるな。わたしの叫びに、休む所を得させるな。

血は、叫ぶ。義人アベルの血が神に叫んだように。
ヨブは、たとえ自分が死んだとしても、その血が覆われる事がないように、すなわち、自分の血がずっと潔白を叫び続けるように、と願う。

このように、神から捨てられ、人から捨てられ、ただ絶望しかない状況に追い込まれた、と感じているヨブは、驚くべき告白をする。

16:19 見よ、今でもわたしの証人(エド:証人、記録者)は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある。
16:20 わたしの友はわたしをあざける、/しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。
16:21 どうか彼が人のために神と弁論し、/人とその友との間をさばいてくれるように。

ヨブは、彼を見ておられ、彼を記録し、彼を保証しておられるお方の存在を告白しており、そしてその方が、自分と神との間に立って弁論してくださるように、と願っている。
さらに彼は、17:3においても、「どうか、あなた自ら保証となられるように。ほかにだれがわたしのために保証となってくれる者があろうか。」と言っている。

神と人との間に仲保者は、唯一、キリストであるが、ヨブはキリストを知らないはずである。
一体どうして、彼は、このような仲保者の存在をはっきりと告白し、願う事が出来たのだろう。

旧約において、アブラハムは自分達を導いて下さる御使いがいた事を意識しており(創世記24:7)、ダビデも、自分の前にはいつも主がおられた事を意識しており、それ故彼は揺るがず、心は楽しみ、望みがある事を喜んだ。
使徒2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。

モーセも、荒野で、彼らについて来た岩、すなわちキリストを意識し(1コリント10:4)、モーセの後に現れる指導者を預言した。
イザヤも、とりなして下さるキリストを預言した。(イザヤ53:12)
このように、旧約の信仰者達は、聖霊によってキリストを知り、意識し、預言したのである。

ヨブがはっきりと自分の保証となって下さるお方を告白しているからには、彼もまた、霊的に、そのお方の存在をさとったのかもしれない。
いずれにせよ、今、はっきりしている事は、私達には確かに、おられるのだ!
私達を神の御前で弁護し、保証して下さる御方、イエス・キリストが。

ローマ8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。

私達の身代わりに死んで下さった方、そして、よみがえって下さった方・キリストが、私達のために、とりなして下さる。
のみならず、聖霊も言いようのない深いうめきによって、とりなしておられる。
ローマ8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

このように私達は、御子にとりなされ、御霊にとりなされ、そうして父なる神のみ前に大胆に進み出る事が出来、さばきにあう事がなく、永遠に生きるのである。
そして、キリストに繋がれたその”つながり”は、世の何者も奪う事が出来ない。

8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

ヨブは、神から捨てられ人から捨てられたように思えた時、自分をとりなし弁論して下さるお方を叫んだが、私達にはいつでも仲保者キリストに助けを求める事が出来る。
私達が彼と共に歩むなら、彼があらゆる悪魔サタンの訴えから弁護し、私達の罪は覆われ、そのように救われた状態・祝福の状態のうちに、この世の旅路を歩んで行けるのである。

エリファズによる二回目の弁論 - 本質を外した格言の押し売り(ヨブ記15章)
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15:1 そこでテマンびとエリパズは答えて言った、

テマン人エリファズの第二回目の論議である。
第一回目はまだ理性的であったが、しかしこの度の彼の言葉は、幾分ヒートアップしている。
自分達は知恵の言葉を披露した、その披露に対し、聞いた者は、ありがたさと尊敬をもっていただくものだ、と、期待していたのに、ヨブはそうではなかった。
その事のいらだちが、言葉の節々に現れ始める。

15:2 「知者はむなしき知識をもって答えるであろうか。東風をもってその腹を満たすであろうか。
15:3 役に立たない談話をもって論じるであろうか。無益な言葉をもって争うであろうか。

エリファズは、自分達は知恵がある者達である、それなのに、その私達の言葉を、あたかも作物を干からびさせる東風のようにあなたは見做すのか、と、彼をたしなめる。

15:4 ところがあなたは神を恐れることを捨て、/神の前に祈る事をやめている。

ヨブは祈っていなかったのだろうか?
いや、直前の13章後半から14章まではずっと神に対しての祈りだった。
ヨブは神を恐れていなかったのだろうか?
いや、祈りのはじまりである13章後半は、神に対する恐れだった。

エリファズにとって「祈り」は、理性的に、良い言葉だけを並べ立てる事だという決めつけがあったのかもしれない。
それだから、ヨブの、あまりに自由な、そして獣のような勢いで御前に言葉をぶちまけるものは、祈りではなく、神に対する暴言だと見えたのかもしれない。

いずれにせよ、エリファズは、ヨブの言葉の内容を結局聞いておらず、ヨブの状況を理解しておらず、ただ、ヨブの「激しさ」だけを見て、彼は神に逆らったのだ、罪を犯したのだ、と思い込み、そして、その思い込みの偏見がかかったまま、ヨブを諭す言葉を始める。
つまり、この15章のエリファズの諭しもまた、偏見というフィルターがかかった状態での言葉なので、ヨブに対しては全く空虚なことわざになってしまった。

15:5 あなたの罪はあなたの口を教え、/あなたは悪賢い人の舌を選び用いる。
15:6 あなたの口みずからあなたの罪を定める、/わたしではない。あなたのくちびるがあなたに逆らって証明する。

ヨブに対し、あなたはかなり偉そうで知恵があるかのように振舞っているが、私達もまたそれに引きを取らない者だぞ、と主張をする。

15:7 あなたは最初に生れた人であるのか。山よりも先に生れたのか。
15:8 あなたは神の会議にあずかったのか。あなたは知恵を独占しているのか。
15:9 あなたが知るものは/われわれも知るではないか。あなたが悟るものは/われわれも悟るではないか。
15:10 われわれの中にはしらがの人も、/年老いた人もあって、/あなたの父よりも年上だ。
15:11 神の慰めおよびあなたに対するやさしい言葉も、/あなたにとって、あまりに小さいというのか。

つまり、エリファズにとっての優れた知恵とは、先祖伝来の知恵であり、また白髪の年老いた人であればあるほど、その知恵に長けているものだ、というものである。
ひいてはヨブ、あなたはどれほどの知恵があるというのか、自分達はあなたよりも年上の者がいるではないか、と主張し、その上で、どうしてあなたの心は激しく波打って逆らうのか、と聞く。

15:12 どうしてあなたの心は狂うのか。どうしてあなたの目はしばたたくのか。
15:13 あなたが神にむかって気をいらだて、/このような言葉をあなたの口から出すのはなぜか。
15:14 人はいかなる者か、どうしてこれは清くありえよう。女から生れた者は、どうして正しくありえよう。
15:15 見よ、神はその聖なる者にすら信を置かれない、/もろもろの天も彼の目には清くない。
15:16 まして憎むべき汚れた者、/また不義を水のように飲む人においては。

この言葉の内容は、4:17-19とほぼ同じである。
このように、ヨブを悪者、罪有る者に仕立て、彼が前に言ったのと全く同じように、悪者の行く道がどのようなものかを、くどくどと説き聞かせていく。

15:17 わたしはあなたに語ろう、聞くがよい。わたしは自分の見た事を述べよう。
15:18 これは知者たちがその先祖からうけて、/隠す所なく語り伝えたものである。

人の言葉を聞いていない人から「聞け」と言われても、ますます耳を塞ぎたくなるものであり、自分が知者の知恵を語るものだ、と言われても、相手の状態を正しく理解していない者がひけらかす知恵は、ただ人をうんざりさせるものでしかない。

15:19 彼らにのみこの地は授けられて、/他国人はその中に行き来したことがなかった。
15:20 悪しき人は一生の間、もだえ苦しむ。残酷な人には年の数が定められている。
15:21 その耳には恐ろしい音が聞え、/繁栄の時にも滅ぼす者が彼に臨む。
15:22 彼は、暗やみから帰りうるとは信ぜず、/つるぎにねらわれる。

エリファズは、悪人の道はこうだ、という論議を展開しているからには、暗に、ヨブ、あなたは悪者だと指摘しているのだ。


15:27 また彼は脂肪をもってその顔をおおい、/その腰には脂肪の肉を集め、
15:28 滅ぼされた町々に住み、/人の住まない家、荒塚となる所におるからだ。
15:29 彼は富める者とならず、その富はながく続かない、/また地に根を張ることはない。
15:30 彼は暗やみからのがれることができない。炎はその若枝を枯らし、/その花は風に吹き去られる。
15:31 彼をしてみずから欺いて、/むなしい事にたよらせてはならない。その報いはむなしいからだ。
15:32 彼の時のこない前にその事がなし遂げられ、/彼の枝は緑とならないであろう。
15:33 彼はぶどうの木のように、/その熟さない実をふり落すであろう。またオリブの木のように、その花を落すであろう。
15:34 神を信じない者のやからは子なく、/まいないによる天幕は火で焼き滅ぼされるからだ。
15:35 彼らは害悪をはらみ、不義を生み、/その腹は偽りをつくる」。

このように、状況を見極めないで、自分の思い込みによって相手を計り、その誤った計りによって格言と箴言を調合し、相手に無理やり飲ませようとする時、私達もただ相手を苦しめ、病状をもっと悪化させてしまうことになる。

 

買い戻しの権利のあるお方(ゴエル)の衣の内に入って行け(ルツ記3:6-11)
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ルツ記3:6 こうして彼女は打ち場に下り、すべてしゅうとめが命じたとおりにした。
3:7 ボアズは飲み食いして、心をたのしませたあとで、麦を積んである場所のかたわらへ行って寝た。そこで彼女はひそかに行き、ボアズの足の所をまくって、そこに寝た。
3:8 夜中になって、その人は驚き、起きかえって見ると、ひとりの女が足のところに寝ていたので、
3:9 「あなたはだれですか」と言うと、彼女は答えた、「わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは最も近い親戚です」。
3:10 ボアズは言った、「娘よ、どうぞ、主があなたを祝福されるように。あなたは貧富にかかわらず若い人に従い行くことはせず、あなたが最後に示したこの親切は、さきに示した親切にまさっています。
3:11 それで、娘よ、あなたは恐れるにおよびません。あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう。わたしの町の人々は皆、あなたがりっぱな女であることを知っているからです。

ルカ10:39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。

ヨハネ15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

イザヤ41:10 恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。
41:11 見よ、あなたにむかって怒る者はみな、はじて、あわてふためき、あなたと争う者は滅びて無に帰する。
41:12 あなたは、あなたと争う者を尋ねても見いださず、あなたと戦う者は全く消えうせる。
41:13 あなたの神、主なるわたしは/あなたの右の手をとってあなたに言う、「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。
41:14 主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。

ヘブル4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

大祭司のしるし - 人には模造すら出来ない死からの復活(民数記17:1-10)
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主日のメッセージにおいて、契約の箱(アーク)の中には十戒の石版、マナの入った壺、アロンの杖の3つが入っていた事を学んだが、今回はアロンの杖がどのようにして成り立ったのかを見、祭司のしるしとは何かを見ていきたい。

まず、アロンの杖がどうしてしるしとして必要となったのか、前の章を見る必要がある。
16章ではコラの起こした事件が記されている。コラは人々を扇動し、モーセとアロンが人々の上に立って特別な地位にある事に不満を持ち、有力者250人と共にモーセ達に逆らった。
あなた方だけが特別に立っているのはおかしい、神は主の民全てを聖なる者としたではないか、と、権威に挑戦したのだが、神がそんな彼らに返したのは、誰が見ても恐ろしい、はっきりとしたさばきであった。
地面がぱっくりと口を空け、コラも、その天幕もろとも、地面へと飲み込まれて行ったのだ。
そして一緒に逆らった250人は、主の元から火が来て、彼らは焼きつくされたのだ。
それでも人々は、モーセとアロンに不平不満をぶちまけた故に、その時の神罰では、一万四千七百人が死んだ。

こうして、主が立てた権威に逆らう事がいかに恐ろしいかが示されたのだが、主は、もはやこのような事が無いように、と、アロンが大祭司であると誰もが文句言えないような「しるし」を与えられる。それが、17章である。

民数記17:1 主はモーセに言われた、
17:2 「イスラエルの人々に告げて、彼らのうちから、おのおのの父祖の家にしたがって、つえ一本ずつを取りなさい。すなわち、そのすべてのつかさたちから、父祖の家にしたがって、つえ十二本を取り、その人々の名を、おのおのそのつえに書きしるし、
17:3 レビのつえにはアロンの名を書きしるしなさい。父祖の家のかしらは、おのおののつえ一本を出すのだからである。
17:4 そして、これらのつえを、わたしがあなたがたに会う会見の幕屋の中の、あかしの箱の前に置きなさい。
17:5 わたしの選んだ人のつえには、芽が出るであろう。こうして、わたしはイスラエルの人々が、あなたがたにむかって、つぶやくのをやめさせるであろう」。

杖は、生物的な木としては死んだ物である。それが生き返る。
この、「死からの復活」を「しるし」とし、アロンこそ、神が直接任命した大祭司である事を人々に示すのだ。
死からの復活こそ、まさしく、「神がした」という権威のしるしである。

17:6 モーセが、このようにイスラエルの人々に語ったので、つかさたちはみな、その父祖の家にしたがって、おのおの、つえ一本ずつを彼に渡した。そのつえは合わせて十二本。アロンのつえも、そのつえのうちにあった。
17:7 モーセは、それらのつえを、あかしの幕屋の中の、主の前に置いた。
17:8 その翌日、モーセが、あかしの幕屋にはいって見ると、レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた。

果たして、モーセとアロンが一晩掛けて、精巧に、本物のアーモンドそっくりの模造品をこしらえたのだろうか?
偽の命は、すぐにばれてしまう。生命の模造は、現代の技術をもってしても、出来ない。
人は、いのちを造り出す事はできないし、模造すらも出来ないのだから、まして人は、死んだいのちをよみがえらせる事など、できないのだ。
古くから人類はそれを願い、研究し、努力して来たが、未だにそれには至っていない。

いのち。
それは、まごうことなき神の作品であり、死からの復活こそ、神の認証のあかしである。

神が最も顕著に示した「死と復活のしるし」は、イエス・キリストの十字架である。
彼は、十字架という木の死から復活した。
そういう訳で、彼キリストこそ、まごう事なきまことの大祭司であると、神は示された。
そのしるしを見せられても、なお否定する者には、弁解の余地なくさばきが待っている。
ちょうど荒野の民が、この17章のしるしを見てもなお逆らい、逆らった者達が、ことごとく倒れていったように。

アーモンドはヘブライ語でシャケィド、「見張る(シャケァド)」と同じ子音である。
エレミヤ書においても、主は、預言者エレミヤに「アーモンドの杖(マケル・シャケィド)」を幻で見せた。

エレミヤ1:11  主の言葉がまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「あめんどうの枝(マケル・シャケィド:アーモンドの杖)を見ます」。
1:12  主はわたしに言われた、「あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っている(シャケァド)のだ」。

主は、アーモンドであるアロンの杖を通して、示しておられる。
主は私達を見張っておられ、そして、主ご自身が、御言葉を行おうと、見張っておられるという事を。
主の御言葉の成就は、イエス・キリストの十字架と復活を通して行われた。
そして、この死と復活の木、十字架を仰ぎ見、彼こそまことの大祭司とする者は全て、キリストが復活したように復活し、それでも彼を否む者は、荒野の民のように滅んで行くのだ。

旧約では開示されていなかった、人の死んだ後の有り方(ヨブ記14章)
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14:1 女から生れる人は/日が短く、悩みに満ちている。
14:2 彼は花のように咲き出て枯れ、/影のように飛び去って、とどまらない。
14:3 あなたはこのような者にさえ目を開き、/あなたの前に引き出して、さばかれるであろうか。

ヨブはさらに、神に向かって疑問と願いを投げかける。
こんな花のようなはかない自分にさえ目を留めて徹底してさばかれるのですか、と。

14:4 だれが汚れたもののうちから清いものを/出すことができようか、ひとりもない。

イザヤも告白している。自分はくちびるの汚れた民の間に住んでおり、くちびるの汚れた者だ、と。
そしてヨブ自身、自分が汚れた者であり、どう考えても、どう転んでも、自分の中から良いものをひねり出す事は出来ない。
今まで多大な努力をしたけれども出来なかった、と。
ヨブのような義人でさえ、そうなのだ。人間、誰もが、どう転んでも罪の中にある。
しかし神は、この時ヨブが考えているような、すなわち、人間の罪を事細かにつまんで、裁いて、苦しみのまま放置されるようなお方ではない。
神は実に、その、人の罪と死という問題を扱うために、ひとり子キリストをお与えになる程の愛をもって愛し、創世記3章から黙示録20章までの膨大な贖いと救いのご計画を発動されたのだ。
それは、信じる者が誰一人として滅びる事なく、永遠のいのちを持ってほしいと、願っておられるからである。

14:5 その日は定められ、/その月の数もあなたと共にあり、/あなたがその限りを定めて、/越えることのできないようにされたのだから、
14:6 彼から目をはなし、手をひいてください。そうすれば彼は雇人のように、/その日を楽しむことができるでしょう。

ヨブは願っている。限り有る人生、死んだらおしまいなのだから、せめて、罪有る人間にそんなに目を留めず、手を引いて下さい、かまわないでください、そうすれば、人はそのはかない人生の中、はかない楽しみができるでしょう、と。
あいにく聖書は、そのようなはかない現世利得を提供して、せいぜい生きている間は楽しみなさい、というようなものではない。
ヨブは、私から目をそらして下さい、かまわないでください、と言ったが、とんでもない。
イエス様の十字架の場面で、二人の強盗も刑罰を受けていたが、その内の一人の言葉に注目したい。

ルカ23:40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
23:41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

この強盗の人生は、ヨブに比べ、圧倒的に義人とは遠い生き方をして来た、にもかかわらず、彼はその日、イエス様と共にパラダイスに行った。なぜだろうか。
それは、強盗はイエス様に「御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言った。
そう、「わたしを思い出してください」と、関わりを求めて行ったから、彼はパラダイスに行けたのだ。
ヨブは義人であったが「かまわないでください」と言って、苦しみが続いた。
しかし強盗は、自分の罪ゆえの刑罰から来る痛みの中でも、自分の罪を認め、自分には到底及ばない御国の王位に着かれるイエス様に「思い出してくださ」と関わりを求めたからこそ、彼はパラダイスに行けたのだ。

14:7 木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、/その若枝は絶えることがない。
14:8 たといその根が地の中に老い、/その幹が土の中に枯れても、
14:9 なお水の潤いにあえば芽をふき、/若木のように枝を出す。
14:10 しかし人は死ねば消えうせる。息が絶えれば、どこにおるか。
14:11 水が湖から消え、/川がかれて、かわくように、
14:12 人は伏して寝、また起きず、/天のつきるまで、目ざめず、/その眠りからさまされない。
14:13 どうぞ、わたしを陰府にかくし、/あなたの怒りのやむまで、潜ませ、/わたしのために時を定めて、/わたしを覚えてください。
14:14 人がもし死ねば、また生きるでしょうか。わたしはわが服役の諸日の間、/わが解放の来るまで待つでしょう。

ヨブの哲学は、人はひと度死んでしまったら、もう生き返らない、というものだった。
旧約においては死んだ後の概念が新約ほどはっきりしたものではなかった。
最高の知恵が与えられたソロモンでさえ、次のように言った。

伝道者の書3:20 みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
3:21 だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
3:22 それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。

こういうわけで、旧約は、死後の概念があいまいで、地上で生きている限りの幸いこそ全てだと思われていた所もあり、死人の復活を信じないサドカイ派もあれば、復活を信じるパリサイ派もあった。
しかし主は、新約において、死後どのようになるのかを、はっきりさせて下さった。

黙示録20:11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

このように、死後、必ずよみがえらされ、おのおの「しわざ」に応じてのさばきがあり、そして、死も、よみも、火の池へと投げ込まれる。
善人も悪人も同じところに行く、というのは、誰もが訪れる「第一の死」においては、そうだろう。
しかしその後にさばきがあり、主の前に悪と見られた人は、永遠の死、「第二の死」に入るのだ。

2コリント5:1-10
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

私達には、キリストにあってさばきを免れ、永遠のいのちに至る望みがある。

ヨハネ5:25 よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。
5:26 それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。
5:27 そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。
5:28 このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。

ある人は、さばきのためによみがえらされ、ある人は、生命を受けるためによみがえらされる。
その分岐点は、キリストの御声を聞いて善をおこなうか、それとも悪をおこなうか、である。

母が子供に対して出来る最高の事(出エジプト記2:1-9)
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週報/メッセージ(説教)概要

 今日は母の日である。母はうめきつつ、いのちを産み、はぐくみ育て、日々労を負っている。現代は、子を健全に育てるのに困難な時代と言える。子供を誘惑するものが多い中、いかに子を健全に守り育てて行くべきか。本日、男の赤ちゃんが生まれたらナイル川に投げ込まなくてはならないという過酷な時代の中、子を守り、立派な指導者モーセの母となったヨケベデから学び、私達もこの時代、いかにゲームやインターネットなど子を飲み込もうとする危険な「ナイル川」から守り、健全に育てあげるべきか、その術を得たい。

『さて、レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。』(2:1) 時代が悪く絶望的だと、人は結婚や子を産む事を躊躇し、少子化が進むものだが、ユダヤ人達はそれでも新たな家庭を築いて、増えて行く。
『女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。』(2節) 赤ちゃんは、神様から預けられたいのちである。母はそのいのちの輝きを見て、身勝手な世の王の要求を飲んだりして奪ってはならない、と、かくまった。母とは、子のため、いのちのため、うめきつつ守るものである。
ちょうど箴言31章の、マサの王レムエルの母が、子供に「何を言おうか」と、悩みに悩んだように。
この母の有様は、聖霊の私達に対する有様に良く似ている。創世記1章2節において、創造後の地球が闇の混沌状態にあった時、神の「霊(女性名詞)」は、水の上を「舞いかけて(女性動詞)」いた。それはちょうど、めんどりがひなを翼でかばっているのと同じ状態である。聖霊は母のようにうめきつつ執り成すのだ。
イスラエルでは赤ちゃんが生まれたら、ハトラーという、御言葉が刺繍された布でくるむ。女性は子供を宿したと知った瞬間から、ハトラーの刺繍を始める。お腹の子に向かい、トラー(御言葉)をテフィリンしながら。
彼女達は子が胎内で形作られる時から御言葉で覆い、生まれた後も御言葉の包みの中で守ってあげようとする。まさに創世記1:2の状態だ。母が子供に対してできる最高の事は、御言葉によって守る事なのだ。

ヨケベデは子をなんとかして守ろうとしたが、『もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかご(英: ark)を取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。』(3節) この「かご(ark)」は、ノアの「方舟(ark)」と同じ言葉であり、「契約の箱」も、arkである。
彼女がこの小さな方舟に、瀝青と樹脂を塗って、その中に子を入れたのは、ちょうどノアが方舟をつくって瀝青を塗り、その中にいのち達を入れ、新しい時代へといのちを継がせたのと同じである。
契約の箱という”アーク”の中には、契約の石の板と、アロンの杖と、マナの壺が入っている(ヘブル9:4)。
律法の石版は、神の指で記された御言葉であり、アロンの杖は、植物としては死んだ杖が生き返ってアーモンドの花と実がふいた復活の象徴であり、祭司の証拠である。マナは、神が直接的に命をやしなって下さった証拠物である。私達も、残酷な時代では、子を御言葉に委ね、復活を信じ、いのちの養いの望みをかけるため、子をアークに入れるのだ。現代、私達が入れるべきアークとは何か。それは、ユダヤ人がしているように、自分自身の口の御言葉宣言により、あるいは子供自身の口から御言葉を宣言させる事によって、子を御言葉で囲う事である。母親が子供にしてあげられる最上の事は、御言葉で囲ってあげる事だ。

彼女は子供をアークにかくまって、あとは全てを神様に委ねた。親がいのちのために出来る限りの事をし、自分の力ではどうにもならない所まで来たなら、子供をアークに入れ、あとは全部、神様に委ねる時である。
神はその子をパロの娘の所へ導き、彼女の心にその子を憐れむ心を与え、そうして、合法的に、しかも報酬つきで、母は自分の乳でその子を養えるようになった。
主は、神様から託されたいのちを守ろうと努力する人には、限りなくフォローして下さるのだ。
当時、多くの赤ちゃん達が、時代がそうだからといって、ナイルへ沈められて行った。どのような時代でも、いのちは主のものであり、主は御心のままに、男女の所へ新しいいのちを送り、そのいのちを養うために必要な物も、力も、全て備えて下さる。そして、いのちを大切にする人をさらに祝福し、徹底して守られる。
私達は子供を、時代がそうだからと言って、ナイルに沈めてはいけない。子供にゲームやスマホを与えていれば大人しくなる、ラクだと、と思って放置していたら、子供はどんどん仮想世界へと沈んでしまう。
私達はむしろ子供を真理の御言葉で囲い、神様と私達とのいのちの交わりをし、そうして主ご自身から全て必要な養いをいただき、家庭が喜びと笑いで、そしていのちで満ち溢れて行く皆さんでありますように!

神と論じ合う(ヨブ記13章)
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ヨブは友人達に対し、さらに語る事を止めない。

ヨブ記13:1  見よ、わたしの目は、これをことごとく見た。わたしの耳はこれを聞いて悟った。
ヨブ記13:2  あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。わたしはあなたがたに劣らない。
ヨブ記13:3  しかしわたしは全能者に物を言おう、わたしは神と論ずることを望む。

ヨブは、友人達のあまりに的を外した心なしの格言に飽々して怒り、ついに、神に挑戦したい事を表明する。
彼は今まで、ここまではっきりと「神と論ずる事を望む」と言い切った事は無かった。いわば友人達の心なしの格言の応酬が、ヨブをそのように引き出したのだ。
友人達からすれば、なんと恐れ多い言葉を神に発してしまったのか、と思う所かもしれないが、実を言うと、「神と向き合って論じあおう」としたその時点が、その人にとっての重要な転換点となる。

神と論じ合おうとする事は、とても重要である。
イザヤ1:18  主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
イザヤ1:19  もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
イザヤ1:20  しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。

イザヤ書では、主が「互いに論じよう」と言っており、それによって、緋のような罪が白く、紅のような赤い罪が羊の毛のようにされていく、というのだ。
人にとって、創造主と一緒になって密接に関わる事こそ、最も大事である。それがたとえ、喧嘩腰であったとしても。

旧約の偉人・エノク、ノア、アブラハムに共通しているキーワードは、神と共に「歩む(ハーラフ)」である。(創世記5:22-24, 6:9,12:1-2)
彼らは、罪深い時代・罪深い人々の中に住んでは居ても、周囲の愚かさや思想とは一つにならなかった。それは主と共に歩み、主の御言葉を守り行い、そうして「全き者」(創世記17:1)となって行ったからだ。

神と共に「歩む(ハーラフ)」、それは神の民の必須条件であり、祝福に必要不可欠な行動である。
主はエデンの園を「歩き回られた(ハーラフ)」(創世記3:8 )。 私達も、主と共に歩きまわるなら、そこはエデン(「歓喜の場所」という意味」)であり、たとい死の陰の谷を「歩む」としても、主と共に歩んでいるなら、そこには慰めがあり、敵の前で宴を設けられ、杯は溢れ、恵みといつくしみが追って来るのだ。(詩篇23編)
そして、呪われるための近道は、祝福の源なる神との密接な関わりと解く事、神から離れる事である。ちょうどカインのように。

ヨブはこの時点、主に対して怒っていたものの、主に対して激しく論じて行き、そして主は彼と激しく論じて下さり、そうして後、倍の恵みを施して下さった。
ちょうどヤコブが、神と取っ組み合いの相撲を取り、その後に祝福が与えられ、新しい名イスラエルが与えられたように。
私達も進んで、神と関わり合うべきである。

ヨブ記の結論は、ヤコブ5:11である。
ヤコブ5:11  忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

多くの人々は、ヨブ記を、なんにも悪い事をしていない正しい人に、なぜ災いが起きるのか、という「神の不条理」を扱った文献と思っているが、その解釈は、中途の災いにしかフォーカスしていない人間の解釈である。
ヨブ記の結論、それはヤコブ書に書いてある通り、「忍耐した人は幸いである」「主はいかに慈愛とあわれみとに富んだ方か」という事だ。
実際ヨブ記を全部読んでみると、ヨブが災いに遭っていた日々に比べ、祝福と幸いに満ちた年数の方が、圧倒的に多いではないか。

ただ、このヨブ記13章という時点では、彼は激しく怒っており、神と論じ合あおうという勢いだが、その前に彼は友人達をこてんぱんにこき下ろす。

ヨブ記13:4  あなたがたは偽りをもってうわべを繕う者、皆、無用の医師だ。
ヨブ記13:5  どうか、あなたがたは全く沈黙するように。これがあなたがたの知恵であろう。
ヨブ記13:6  今、わたしの論ずることを聞くがよい。わたしの口で言い争うことに耳を傾けるがよい。

ここまで言われてしまっては、友人達もさらにヒートアップせざるを得ない。

ヨブ記13:7  あなたがたは神のために不義を言おうとするのか。また彼のために偽りを述べるのか。
ヨブ記13:8  あなたがたは彼にひいきしようとするのか。神のために争おうとするのか。
ヨブ記13:9  神があなたがたを調べられるとき、あなたがたは無事だろうか。あなたがたは人を欺くように彼を欺くことができるか。
ヨブ記13:10  あなたがたがもし、ひそかにひいきするならば、彼は必ずあなたがたを責められる。
ヨブ記13:11  その威厳はあなたがたを恐れさせないであろうか。彼をおそれる恐れがあなたがたに臨まないであろうか。

ヨブは、彼らが自分達を教え諭す者、「高い者」として位置づけ、「低められているヨブ」「間違っているヨブ」を教え諭し、正しい方向に導こうとして、実際は的を外した格言を並べ立てている事を、ヨブは、「神に成り代わっている」「傲慢だ」と非難し、神がそんなあなた方に現れるならあなた方は耐えられるのか、とまで言っている。

ヨブ記13:12  あなたがたの格言は灰のことわざだ。あなたがたの盾は土の盾だ。
ヨブ記13:13  黙して、わたしにかかわるな、わたしは話そう。何事でもわたしに来るなら、来るがよい。

彼はもはや、友人達には黙っていてほしい、自分はただ、神と関わりたい、という願いを叫びの中で打ち明けた。
人は、人生の中でどうしようも超えられない苦難や悲しみに直面した時、何かの慰めや解決を求めて、誰か「人」に行くなら、大体、もっと失望するものだ。
苦難や悲しみの度合いが深ければ深い程、なお、そうである。
そのような時、ヨブのように、人にではなく、神に向かうべきなのだ。

ヨブ記13:14  わたしはわが肉をわが歯に取り、わが命をわが手のうちに置く。
ヨブ記13:15  見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。
ヨブ記13:16  これこそわたしの救となる。神を信じない者は、神の前に出ることができないからだ。
ヨブ記13:17  あなたがたはよくわたしの言葉を聞き、わたしの述べる所を耳に入れよ。
ヨブ記13:18  見よ、わたしはすでにわたしの立ち場を言い並べた。わたしは義とされることをみずから知っている。
ヨブ記13:19  だれかわたしと言い争う事のできる者があろうか。もしあるならば、わたしは黙して死ぬであろう。

ヨブは何もかも失い、瞬間瞬間、ひどい”かゆみ”に悩まされ、さらには、友人達にも悩まされている状態である。
もう自分は失う者は無い、どころか、瞬間瞬間ただ苦痛だ、もうどうなってもいい、ともかく、ここまでなったからには神と論じ合いたい、と求めるようになった。
それで20節以降、神との論議に入るのだが、しかし最初の論調は、友人達に示したような凛々しく激しい態度ではなく、まずは、恐る恐るのお願いから始まる。

ヨブ記13:20  ただわたしに二つの事を許してください。そうすれば、わたしはあなたの顔をさけて隠れることはないでしょう。
ヨブ記13:21  あなたの手をわたしから離してください。あなたの恐るべき事をもってわたしを恐れさせないでください。
ヨブ記13:22  そしてお呼びください、わたしは答えます。わたしに物を言わせて、あなたご自身、わたしにお答えください。

つまり、神の圧倒的な力と圧倒的な正しさでわたしを圧迫しないで下さい、この痛手を取り除いてください、そして、わたしが話せるように、お膳立てして下さい、というのだ。
神に論じ合いたい!と激しく迫っておきながら、神に憐れみを求めているのである。
なんと調子の良い、と思えるかもしれないが、私達も神にお願いする時、調子よくお願いするものである。
ヨブはさらに、調子の良い申し出をする。

ヨブ記13:23  わたしのよこしまと、わたしの罪がどれほどあるか。わたしのとがと罪とをわたしに知らせてください。
ヨブ記13:24  なにゆえ、あなたはみ顔をかくし、わたしをあなたの敵とされるのか。
ヨブ記13:25  あなたは吹き回される木の葉をおどし、干あがったもみがらを追われるのか。
ヨブ記13:26  あなたはわたしについて苦き事どもを書きしるし、わたしに若い時の罪を継がせ、

ヨブは、自分が罪を犯した者であると自覚している。
そして、自分が若き時に犯した罪は、ほんの木の葉ほどだ、そんな小さな一つ一つの罪さえも詳細に記録して、ご覧になられるのか、と、申し上げている。

ヨブ記13:27  わたしの足を足かせにはめ、わたしのすべての道をうかがい、わたしの足の周囲に限りをつけられる。
ヨブ記13:28  このような人は腐れた物のように朽ち果て、虫に食われた衣服のようにすたれる。

昔、奴隷を持っていた主人は、奴隷の足型を取るか、あるいは足の裏に焼き印を押す。それは万一奴隷が逃げたとしても、その足あとから、どの奴隷が、どこに逃げたのかを特定するためだった。
ヨブは神に対し、自分の足あとの記録を、良しも悪しもつぶさに記録し、その一つ一つを入念に調べつくされているような気がしたのだ。
現在インターネット上で、人々がネット上で行った物事が全部、ウェブログ上に記録されているように。
ヨブは、神よ、あなたはそんな足あとの一つ一つも記録しておられるのですか、そんな事をしたら、誰も彼も、腐れた物のように朽ち果て、虫に食われた衣服のようにすたれてしまいますよ、と申し上げている。
そう、そんな事をされたら、人は、ひとたまりもない、と思う。しかし神は、ウェブログよりもさらに詳細に一人一人の記録をしておられ、それによって終わりの日、裁かれる事になる。

人は人生の内で、一体いくつ、主に打たれても仕方がない罪を犯して来ただろうか。ヨブでさえ、そうなのだ。
一体なぜ人は、主の御前に死罪に値するような事を何遍も犯しているのに、主に打たれずに、こうして生きながらえているのか。

それは、「神の恵み」故である。
私達は今、恵みの中で生かされている。
神は、悪は即処罰と機械的に処断するお方ではなく、情状酌量して下さるお方であり、私達はこの恵みの日、救いの日の内に、キリストの十字架の贖いの覆いへと、飛び込んでいくべきである。救われるために。
神と積極的に関わっていくべきである。
ダビデは積極的に、神に情状酌量を求めて祈った。

詩篇25:6  主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。
詩篇25:7  わたしの若き時の罪と、とがとを思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。
詩篇25:8  主は恵みふかく、かつ正しくいらせられる。それゆえ、主は道を罪びとに教え、
詩篇25:9  へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。
詩篇25:10  主のすべての道はその契約とあかしとを守る者にはいつくしみであり、まことである。
詩篇25:11  主よ、み名のために、わたしの罪をおゆるしください。わたしの罪は大きいのです。

積極的に神と関わり、時にはヨブのように神と論じ合い、時にはヤコブのように神と相撲を取り合い、神と仲良く共に歩みつつ、造り変えられ続け、祝福の実りを豊かに実らせていく皆様の人生でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ヨブの応答 - 善悪判断の応酬という不毛な牢獄へ落ち込んで行くヨブ達(ヨブ記12章)
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ナアマ人ツォファルの言葉に対してヨブが答えるが、その答えは、ツォファルへの返答というより3人の友人達の論説に対するヨブの辛辣な総評となり、さらには、神と論じ合いたい(13:3)とまで、論調がエスカレートして行ってしまう。

12:1 そこでヨブは答えて言った、
12:2 「まことに、あなたがたのみ、人である、/知恵はあなたがたと共に死ぬであろう。

ヨブは、あなた方が広げた知恵は人の知恵、死ねば一緒に無くなる息のような知恵だという酷評から始まる。
ツォファルは、ヨブを口達者なおしゃべりで、それもそのおしゃべりの内容は、「むなしい(バド:うそ)」、「あざけり」だと決めつけてかかって来た(11:3)が、ヨブはまさに売り言葉に買い言葉で返し、自分も知恵ある者だ、と主張する。

12:3 しかしわたしも、あなたがたと同様に悟りをもつ。わたしはあなたがたに劣らない。だれがこのような事を知らないだろうか。
12:4 わたしは神に呼ばわって、聞かれた者であるのに、/その友の物笑いとなっている。正しく全き人は物笑いとなる。

ヨブ自身、自らを悟りある者、あなた方に劣らない者である、わたしは神を呼んで神に聞かれた者である、それなのにあなた方ときたら、わたしを物笑いにしている、と批判し、あなた方が開帳したそんな知恵など、知らない者があろうか、と、こきおろす。
感情が高ぶって発せられた言葉とはいえ、一応、ヨブを思いやって訪ねて来た友人達である。傲慢な言葉であるが、以下に続く言葉は、もっと論調がヒートアップして行く。

12:5 安らかな者の思いには、/不幸な者に対する侮りがあって、/足のすべる者を待っている。
12:6 かすめ奪う者の天幕は栄え、/神を怒らす者は安らかである。自分の手に神を携えている者も同様だ。

ヨブは、友人達が、自分達は安泰な者、不幸に落ちぶれたヨブを、高い位置にある自分達が教え導かなければならない、というような立場にしている、と指摘し、しかも、「かすめ奪う者」「神を怒らす者」「自分の手に神を携えている者」という言葉を発したからには、暗に、ヨブの友人達はそのような者だ、と批判しているのだろう。

義人ヨブ。なぜここまでねじ曲がってしまったのか。
パウロは言う。

1コリント3:18 だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。
3:19 なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」と書いてあり、
3:20 更にまた、「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある。

ヨブと友人達は、自分をこの世の知者だと思っており、それを曲げずにいるが、ヨブのように大いに苦しんでいる友人と相対した時には、むしろ自分の知者である事を降ろし、愚かになるべきだ。
もし自分をあくまで知者だと貫くなら、「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある通りである。

もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていないのである。(1コリント8:2)
知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てるからだ。(同1節)
むしろ、「自分は正しい」という思い込みは、ヨブのような義人さえも腐らせてしまうのだ。

ヨブはさらに言う。
12:7 しかし獣に問うてみよ、/それはあなたに教える。空の鳥に問うてみよ、/それはあなたに告げる。
12:8 あるいは地の草や木に問うてみよ、/彼らはあなたに教える。海の魚もまたあなたに示す。
12:9 これらすべてのもののうち、いずれか/主の手がこれをなしたことを知らぬ者があろうか。
12:10 すべての生き物の命、/およびすべての人の息は彼の手のうちにある。

全ての生き物のいのち(ネフェシュ:生物的な命)も、神の似姿である人間の息(ルアッハ:神の霊)も、全て神の御手が下さるものである。
そのような事は、何も、あなた方が言わなくても、獣でも、鳥でも、地も、海の生き物さえ、みんな知っている事だ、とヨブは言う。
ちなみに、ヨブ記3章から37章の、詩文体の討論の中で、唯一、主エホバの御名があるのは、この12章9節のヨブの言葉のみである。
それ程、この討論には、主エホバの御名の無い、人間の知恵、人間の正しさばかりがはびこっている、不毛なものなのだ。

12:11 口が食物を味わうように、/耳は言葉をわきまえないであろうか。
12:12 老いた者には知恵があり、/命の長い者には悟りがある。
12:13 知恵と力は神と共にあり、/深慮と悟りも彼のものである。

友人達の言葉は、ヨブには全く響かなかった。味わいが無かった。
知恵は、人が年を取れば自動的に身につけるものではない、神が下さるものである、それに引き換えあなた方の知恵は人間由来で、死んでしまえば無くなるものだ、とヨブは主張している。

友人達は、因果応報的な神観を打ち出したが、続く14節以降から読み取れるヨブの神観は、神は何か専制君主のように、思いのままに人を高くし、あるいは引きずり下ろす圧制者のようなお方であるかのような感じが、にじみ出ている。
それはねじ曲がった神観であるが、ヨブをそのようにしてしまったのは、結局、ヨブと友人達の「自分は正しい」という、頑として曲げない前提条件と、「自分は知者だ」という驕り高ぶりである。
自分は善、あれは悪。
そのような善悪判断こそ、全てのものに死をもたらす毒薬である。

創世記2:16  主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
2:17  しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

ヨブと友人達を、主エホバの御名の無い、不毛な人間の議論という「死」へと導いてしまったものは、飽くなき善悪主張なのだ。
結局、この12章から学ぶべき言葉、この不毛な善悪応酬の牢獄から解放される鍵は、以下の御言葉であろう。

ローマ12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
12:16 互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。

ツォファルによる最初の弁論 - 数多の言葉から言葉尻を捕らえて議論する事の無意味さ(ヨブ記11章)
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11章は、ナアマ人ツォファルによるヨブへの最初の答弁である。

11:1 そこでナアマびとゾパルは答えて言った、
11:2 「言葉が多ければ、答なしにすまされるだろうか。口の達者な人は義とされるだろうか。
11:3 あなたのむなしい言葉は人を沈黙させるだろうか。あなたがあざけるとき、/人はあなたを恥じさせないだろうか。

ツォファルが最初の答弁をする頃になると大分議論が白熱化しヨブが多くの言葉をすでに発したが、それ故にツォファルはヨブを口達者なおしゃべりで、それもそのおしゃべりの内容は、「むなしい(バド:うそ)」、「あざけり」だと決めつけてかかっている。

11:4 あなたは言う、『わたしの教は正しい、/わたしは神の目に潔い』と。

確かにヨブの怒涛のような分量の言葉の中には、そのように言った言葉もあった。(10:7)
しかし怒涛のような言葉を言わなければならない情状があったわけであり、決して彼は理由なく怒涛のような言葉で「うそ」や「あざけり」を言ったつもりは無い。
そこで、この言葉ゆえにますますヨブを苛立たせ、さらにあさってな議論のぶつけあいが白熱化してしまう。

11:5 どうぞ神が言葉を出し、/あなたにむかってくちびるを開き、
11:6 知恵の秘密をあなたに示されるように。神はさまざまの知識をもたれるからである。それであなたは知るがよい、神はあなたの罪よりも/軽くあなたを罰せられることを。
11:7 あなたは神の深い事を窮めることができるか。全能者の限界を窮めることができるか。
11:8 それは天よりも高い、あなたは何をなしうるか。それは陰府よりも深い、あなたは何を知りうるか。
11:9 その量は地よりも長く、海よりも広い。

ツォファルがヨブを、うそとあざけりを口達者にべらべらしゃべっているという思い込みから話している限り、いかに神の素晴らしさを並べようとも、それは苛立たしい羽音に過ぎない。
相手をよく見ない・聞かない伝道は、まさにそのようなものでしかない。

11:12 しかし野ろばの子が人として生れるとき、/愚かな者も悟りを得るであろう。

聖書注解を見ると、彼がこの「ことわざ」を持ちだした理由も、その意味も難解とされているが、いずれにせよヨブが御し難い野ろば、愚か者、と揶揄している事は確かだろう。
相手がどうしてそんなに饒舌になるのか。どうしてそんなに、傍からみれば愚か者のような有様になってしまっているのか。それをまず見て、聞き出す必要がある。
よく聞いてこそ、突かれた人を癒やす舌が与えられるからだ。
イザヤ50:4 主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。

いずれにせよ、ヨブ自身が言葉数を多くしてしまい、その言葉の中に、愚か者と見做されて仕方ないような言葉もあった事は確かである。

箴言10:19 言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある。
伝道者の書5:1 神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。
5:2 神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。
5:3 夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。

ヨブは言葉数を多くして、愚かな声となってしまった。
口から怒涛のように文句を述べたい時は、どうすれば良いか。

ハンナは、ペニンナから礼拝のたびに子供がないという点を突かれてハンナを苛立たせた。
ハンナはペニンナに対し、あるいは夫に対し、怒涛のように愚痴をこぼしても仕方がなさそうな状況であったにもかかわらず、その言葉は一切、言葉の振動として空中に発さず、ただ神にのみ、言葉にならない祈りを捧げた。
彼女は全部、神に持って行った。それゆえ、神は彼女の祈りに答えられ、神に捧げられた子、サムエルという、偉大な預言者を生むに至った。

私達のこのくちびるは汚れており、また、汚れたくちびるの民の間に住んでいる故、私達はそのままでは神の御前に出る事は出来ない。(イザヤ6章)
だからこそ、ただ、神に持っていくべきである。憂い、悲しみ、叫びを。
ヨブは苦難を受けた後、確かにくちびるで罪を犯さなかったが、しかし募る憂いを神に向かって吐き出す事がないままに、友人たちへの言葉のぶちまけに入り、そうして、この段々と白熱化して行く無味な議論へと突入して行ってしまった。

私達はただ、人にではなく、まず神に向かうべきである。

父・子・御霊なる神が3方向から私達を愛で取り囲み守っておられ、トーブ(善)へと導いて下さる(ローマ8:26-39)
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御父は、私達のために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されたほど、私達を愛してくださった。
8:32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。

御子キリストは、私達の代わりに死んで身代わりの犠牲になって下さる程に私達を愛し、よみがえり、神の右の座に着き、私達のためにとりなしていてくださる。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。

御霊は弱い私達を助け、言いようのない深いうめきによって私達のためにとりなして下さる。
8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

このように、父、子、聖霊なる神が、3方向から私たちを愛の囲いで取り囲み、執り成し守っていて下さる。

そういう訳で、世のいかなる者が私達に敵対し、悪を企んでも、主はそれを益(アガトン:善=トーブ)へと創り変えて下さるのである。
8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益(アガトン)となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。

ヨセフの兄たちはヨセフに悪を企んで奴隷として売り飛ばそうとしたが、神はその絶対的な悪を、ヤコブ家族70人を救うための善に変えてくださった。
彼は正直で、柔和で、怒らず、つぶやかず、何事も神を第一にし、自分を低くする性質だったので、神に愛され、どんな人がどんな不当に扱おうと、彼は神の特別扱いを受け、結局彼がする事は全て祝福された。

『あなた方はわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを「良きに変らせて(ハシャバ・レトバー)」、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。』(創世記50:20)
ここが創世記の結論であり、全歴史の結論である。
ここのハシャブは「織り込む、染み込む」の意味で、トーブは「良し」という意味である。たとえ何者かが私達の人生に悪を企み、罪の奴隷や絶望の牢へ投げ込もうとも、神のトーブがそこに織り込まれ染み込まれる。
ヨセフの兄達が弟ヨセフを奴隷に売った事は、ひどい悪である。しかし神はその悪を用い、売った兄や、父さえエジプトのゴシェンの地で養い、一つの国家へと仕立てて行くという、絶大なトーブに変えてくださった。
神の名は「有りて在る」であり、創造の6日に6回トーブを宣言された方だ。いかにサタンの企みにより、奴隷にさせられても、そこにトーブを「在らせ」、織り込ませ、癒やし、忘れさせ、引き上げ、栄えさせて下さる。

そうであるからには、世の何者が私達に敵対できるだろうか。
世の何者も、この愛から引き離す者は、無い。

8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

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