メッセージ - 最新エントリー

30日(木)以前: 通常スケジュールです。

31日(金): 22:30より翌1,2時頃まで年末年始礼拝を行います。

1日(土): 休み

2日(日): 主日礼拝

3日(月)〜5日(水): 通常スケジュールですが、パスター林と川合勧士は純福音富士教会出張奉仕のため不在です。それに伴い、早天・水曜礼拝のメッセージアップはありません。

6日以後: 通常スケジュールです。

礼拝説教メッセージ音声:剣を取るか、御心を取るか(マルコ14:43-52):韓国語通訳あり(右クリックで保存)

イエス様が捕縛される場面では、大勢の群集によって力ずくで捕らえられたというより、イエス様が主導権を取って自ら捕らえられに行ったようである。
イエス様は大勢の武器を持った群集に囲まれた時、「わたしはある」と言い、群集は言葉の権威に圧倒され倒れ(ヨハネ19:6)、イエス様は「私を求めているならこの人々は行かせてやりなさい」と指図までした。(8節)
大勢に力ずくでねじ伏せられ捕らえられたのではなく、御父が与えて下さった杯を真正面から受けるために、自らの主導で捕らえれて行ったのである。

ペテロは威勢良く剣で打ちかかり、大祭司の僕マルホスの右の耳を切り落とした。
人の望みは、力づくで打ち負かす事である。彼らは暴徒達を力で打ち負かす事を望んで打ちかかったのであろうが、主の御心は逆で、なんと、弟子が切り落とした耳を癒すのである。
12軍団以上の御使いに命じて自分を守らせる事のできる主は、あえて抵抗せず、弟子達が一人も捕われないようにし、見事に自分だけが捕らえられて行くのである。
弟子達は最初は威勢が良かったが、イエス様が自主的に、あまりにあっさり捕らえられてしまうと、一人残らず逃げてしまい、ある青年は裸にされてでも逃げた。

インターネット上でAとBのクリスチャンがおり、二人とも言葉で攻撃されるのを私は見た。
Aは膨大な言葉や御言葉の剣で打ち、呪いで返したが、Bの場合は赦し、愛し、攻撃した者を祝福した。
事の行方はまだ決していないが、どちらに主の御心があり、神様の分があるのか、一目瞭然である。

確かにクリスチャンには御使いが陣を張ってあらゆる敵から守られるが、私達が取るべき道は必ず守られる安泰な道ではなく、イエス様の道、すなわち「父の御心を選ぶ」道である。
その道は一時、悲しみや裏切り、敗北の道に見えるが、主は後に偉大な栄光を受けたように、勝ち得て余りあるのである。
人間には先の事は分からず、一時的に敗北や悲しみを通らされるかもしれないが、最終的に大いなる栄光、大勝利、永遠の命を勝ち取るのである。
主の御心を選び、大いなる勝利の道を選ぶみなさんでありますように、イエスの名で祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:悲しみをくぐり抜けて示された愛(マルコ14:32-42):韓国語通訳あり(右クリックで保存)

ゲツセマネは油絞りという意味があり、イエスは文字通り圧搾され、涙と血の滴りのような汗を絞られた。

彼は十字架と死を恐れて祈っていたのではなく、死ぬほど悲しみながら(マルコ14:34)である。
彼は世は始まる以前から御父と片時も離れる事無く、愛の内に親しく交わっておられたが、その御父から、十字架上で完全に見捨てられるのである。(マルコ15:34)
だから死ぬほど「悲しく」、3回も祈ったのだ。
死ぬほどの苦しみの時、最も近くに居て欲しい時に、完全に断絶されるのだ。私達にそのような絶望的な痛みと断絶が提示されるとしたら、耐えられるであろうか。
本来、私達が罪を犯したため、その罰を受け、断絶され、十字架で磔にされるべきなのであるが、しかし、彼が私達の身代わりとなって下さった。

神様は全能だから、イエス様にこんな苦しい悲しい目に遭わせず人類を救う事ができたであろう。
人は思う。なぜラクな方法を取らず、こんなに回りくどく、究極的に割りに合わない方法を取られたのだろうか。
そのような痛みと苦しみを通して、それほど人を愛しておられる事を、私達に示すためである。

しかし人は御心を知らず、弟子達は3回も眠ってしまった。
イエス様は神様なのに、なぜ女々しく命乞いをしたのだろうか、という議論があるが、もし、肉親が自分を助けるために、命がけで身を挺して傷を負ったとしたら、私達は「親なのだから助けて当然」と思って良いだろうか?
命がけで守ってくれた親に対して「大人だから傷の痛みに涙を流すのはおかしいのではないか?」などと、第3者のように思うだろうか?
神なのだから命がけで痛みを負うのはおかしい、あるいは、神は痛まないし悲しまない、と、人は思う程、神について知らないのだ。
神も痛むし、悲しむ。
女は苦しんで子を産んで、その子を見て満足するように、イエス様は、自分の苦しみの跡を見て満足する。(イザヤ53:11)
母親が子を見るように「私の痛みを通じて産まれてきた愛する子、私の血といのちを分けた、尊い私の子」、そのように、私達を見て満足されるのである。

イエスの愛の広さ、高さ、深さをさらに知る皆さんでありますように、イエス様の名前で祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

 

礼拝説教メッセージ音声:裏切る者を取り成す大祭司(マルコ14:26-31):韓国語通訳あり

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主は皆が彼を見捨てて出て行く事を予告した。
ペテロはひどく力んで「たとえご一緒に死ななければならないとしてもあなたを見捨てたりはしません」と言ったし他の弟子達も、少なくともその時はそのつもりであっただろうが、彼らはその日の内にイエス様を見捨ててしまった。
この時、サタンが弟子達をふるいにかけ、神の前に聞き届けられた。(ルカ22:31)
人が力を込めて言う言葉は人の弱さの前には役に立たず、死の覚悟もサタンの前には無力である。
ここで分かる事は、サタンは全能者の許しを得なければ何も成しえず、たといそうであっても、イエス様は私達のために信仰が失せないよう取り成して下さる。
また、私達の見えない世界・天においてはこのような駆け引きが行われており、人はそれに支配され逆らう事はできないが、しかし、大祭司なるイエス様が天において取り成しておられる、という事が分かる。
サタンは私達のふがいなさを攻め立てるが、大祭司なる主は取り成し、汚れた服を脱がせ、きよいターバンを被せてくださる。(ゼカリヤ3章)
私達が信仰において立っているのは、私達の力でも、まして意地でもなく、私達のためにとりなし祈っておられるお方のお陰である。
主は、私達の弱さを共に苦しむ事ができないお方ではない。(ヘブル4:14-16、岩波訳)
私達は弱いので苦しむが、大祭司なる主はその時、私達と一緒に苦しんで下さるのだ。
嘆くが、共に嘆いて下さるのだ。
だから、彼は私達の全てを委ね切るる事ができる大祭司なのであり、私達は大胆に恵みの座へと進み出て、時に適った恵みをいただく事ができるのである。

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

 

 

礼拝音声:預言者と家族を養うには(1列王記17:8-16)
週報/メッセージ(説教)概要

世の中は不況の嵐が吹き荒れており、経済的・社会的状況はますます厳しくなるであろう。
天においても地においても人の間においても、終末のしるしが現れ、明らかに艱難の時代に突入している。
にもかかわらず、私達は行き詰まる事無く守られており、とうの昔に倒れてもおかしくない者が不思議な導きによって守られ、ある者は事業が祝福され、当教会の活動も昨年に比べ遥かに活発に祝福されている。
鄭先生が滞在最後の早天礼拝で、不況の時代に打ち勝つ信仰と題して、エリヤとやもめの話をされたが、この1年、私達はエリヤとやもめのように、粉も油も尽きず、養われてきた。
2010年締めくくりの主日として、この個所からメッセージしたい。

困難な時代になったのは、国の指導者たちの誤った舵取りのせいだと100%言い切れるものではなく、一人一人の選択と行動の集大成であり、それぞれの罪の結果である。
政治が悪くなるのは、選挙権を軽んじて政治に参加しない者達によるのであり、日本人の全体的な品性が欠落して来たのも「これだから日本人は」と日本人自身を貶めている者達の意識の集大成による。
エリヤの時代のイスラエルも同じ状況で、アハブ王はシドン人の王の娘イゼベルを妻に迎え、異教の神バアルに仕えた事によって、イスラエルの進むべき道から外れ、誤った判断と行動をし、そのため「数年の間、露も降りず雨も降らないであろう。」という御言葉が成った。

王の過ちによって、イスラエルだけではなく周辺の国シドンまでも雨が降らず旱魃となり、アハブ王一人のためにあおりを食らっているかのように見えるが、必ずしも彼一人のせいとは言い切れない。
イスラエルの民はどっちつかずによろめいており、エリヤにどちらの神につくかはっきりするように言われても何も答えられない状況だった(1列王記18:21)。
また、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされず、イゼベルを生み出したシドンの国サレプタのやもめの元にだけ遣わされた(ルカ4:25)。
それは、実に、イスラエルの中には預言者を敬う者もその素養がある者も、一人もいなかったからである。
サレプタのやもめはエリヤに声をかけられた時「あなたの神、主は生きておられます。」と言ったのは、イスラエルの神を認め、敬い、預言者を敬う素養があったからであり、その素養に神が目を留めたのである。

神は「一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」と言ったが、果たして彼女はそのような自覚はあっただろうか? 彼女がエリヤに神が言われた通りの事を成したのは、主から与えられた信仰によるのであり、神は私達の内に働いて御心のままに望ませ、行わせておられる。(ピリピ2:13)

最後の食料を「まず私に与えなさい」と言うのは、非常識で過酷な要求であるが、御言葉という根拠がある。
「主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」(17:14)という御言葉に彼女は信仰によって応じたため、彼女だけでなく、預言者も、家族の者も、それによって養われた。
非常識で過酷な要求をする預言者には要注意だが、非常識で過酷な御言葉に従うのは大いにトクである。

働き人は、赤貧の者よりも金持ちに、人数の少ない所よりも多い所に、カッコ悪い所よりもカッコイイ所に遣わされたいと思うかもしれないが、主の選びは、主を知らない物持ちでは決して無く、信仰を持つ者である。
例え、持ち物が一握りの粉とわずかな油であっても、自分自身と預言者、家族を養うことができるのである。
この一年、この教会が守られたのは、一人一人が御言葉を聞いて、信じてその通り行ったからであり、預言者など誰か一人特別な者のおかげではない。
家族や預言者を長きに渡って養うコツは、信じて行う事であり、召し出された者達一人一人がその召しに応じて働く事である。
自身と働き人を末永く養う、油も粉も尽きない皆さんでありますように、主イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝音声:


 第1部: 天声教会の聖徒一人一人による聖句と賛美のささげもの
第2部: メッセージ:民全体に与えられる大きな喜び(ルカ2:8-20)
礼拝次第/メッセージ(説教)概要

キリストの誕生は、天においても地においても歴史を転換するほどの一大事である。
西暦のBC(BeforeChrist)はキリスト生まれる前、AD(アンノドミニ)は主の恵みの日々という意味であり、キリストを知らない人と言えども彼の影響は確かに日々受けている。
この大いなる出来事の日、天の使者が使わされた場所は人が好き好んで行かないようなベツレヘム近辺の野原であり、告げ知らされた人々は、住民登録時に住民としてカウントされもしないような、羊の群れを見守っていた羊飼い達であった。

御使いは「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」と言った。
喜びの知らせの対象は、民全体に、である。
それならば、現代で言う所の国会や大統領執務室などから、テレビ局や新聞社のような人々に告げれば良いものを、なんと無名で、臭く汚い、信用度の低い、少数の羊飼い達にのみ、知らされたのである。
ここに、主がどのような者を選び、大事にされるのか、という価値基準が示されている。
有名な者にではなく無名な者に、力ある者にではなく弱い者に、パブリックではなくプライベートに、主は関わるのである。
そのやり方は人の目には愚かに写るかもしれないが、神はあえて、弱く貧しい人間の、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのである。(1コリント1:21)
「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1コリント1:26-29)

そんな弱く無名な者達に、主はどのように現れて下さるのであろうか。
それは、天の大軍勢によってである。御使いとは、立派な男が死ぬほど恐れ震え上がるほど恐ろしい。
それが、そこの羊飼い達や羊達よりもはるかに多い軍勢を成し、彼らに現れたのである。
御使いはまず「恐れる事はありません」と声をかけてくださった。主に繫がっている私達は、恐ろしい威厳にではなく、御使い達の大祝会に近づいているのだ。
それは何のおかげか。ひとえに新しい契約の仲介者イエスの血、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血によってである(ヘブル12:21-24)。
主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、助け出される(詩篇34:7)。
実は、この教会にいる私達よりも、はるかに多くの御使い達が取り囲んで、私達を見守っているのだ。

御使いは私達に、何を告げ知らせるのであろうか。
それは大きな喜び、すなわち救い主の誕生である。
「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」(ルカ2:12)
聖なる御使いが言うには、私達の救い主はなんと、馬の餌箱の中で見つける、と言うのである。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にし、僕の身分になり、人間と同じ者になられ、へりくだって十字架の死に至るまで従順だったため、神はキリストを高く上げた。それは天上、地上、地下のものが全てイエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのである。(ピリピ2:6-11) 
世の始まる前からおられ、人の近づく事にできない聖なる光の内に住まわれるお方が、卑しい者達の間に、それも、汚い馬の餌箱の中に宿られた。これは大いなる驚きであると共に、私達にとっては大いなる救い、喜びでもある。
救い主の生誕を祝うこの日、私達に届くほど低くへりくだられた主を覚え、感謝したい。

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:聖餐(マルコ14:22-26):韓国語通訳あり (右クリックで保存)

主はまずパンを祝福して弟子達に渡され、弟子達はパンを裂いては回した。
パンは裂かれるイエス様の体の記念であり、パンを裂く度に、裂かれるイエス様の体を覚えるものである。(1コリ11:23,24)
杯はイエス様の流される血であり、新しい契約のしるしである。
過ぎ越しの羊の血はそれを囲む人達のために身代わりとなって流されるが、イエスの流される血は、多くの人の罪の為に流される血である。
新しい契約とは、エレミヤ31:31-34に記されており、石の板にではなく胸の中に刻まれる掟であり、その掟と人とはひとつとなる。
文字によって知識を悟るものではなく、主の霊が息吹かれて霊によって悟るものであるため、互いに「主を知れ」と言って教えあう必要は無い。
イエスは律法を破棄するために来られたのではなく律法を成就するために来られた。
人間には守ることの出来なかった古い契約を、イエスキリストを信じる私達の内に、成就して下さった彼が生きて下さる事によって、私達も律法を成就する者とされるのである。

イエスの裂かれた肉、流された血を覚える事は、イエスのうめきや痛みを思い起こす事である。
ただ「救われてよかったね」「ラッキーだね」と言った喜びだけで終わるのでは、片手落ちであり、喜びだけではなく苦しみも共にする事によって、さらに主と深いつながりを得ることができる。
救いは痛みも伴うものであり、私達も時には痛みを伴いつつ、主を告げ知らせる者でありたい。
横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:裏切る自由(マルコ14:17-21):韓国語通訳あり (右クリックで保存)

主が弟子の一人の裏切りを予告した時、弟子達はそれぞれ「まさかこの私では」と言って確認した。
ユダ以外はその時まで裏切りなど心にも無かったはずであったが、自分の弱さも知っていたので、確認したと思われる。
ユダが「この私では」と問うた時、主は「それはあなたの言った事だ」(新共同訳、岩波訳 マタイ26:25)と言って直接回答を避け、ユダ自身に判断を委ねた。

ヨハネ13章においては更に詳しくやり取りが書かれている。
主は最後の晩餐の食事の時、ご自分を引き渡そうとする者がいる叫ばずにはおれないほど霊の激情にとらわれた。
主はパン切れを浸して与える者がそれだ、と言われたが、パン切れを浸すというのは、特別な好意の表現であり(ルツ2:14)、イエスは実際パン切れをユダに渡すのだが、弟子達はまさかユダが裏切ろうとしているとは気付かいほど、主のその好意を示す振る舞いは愛情深く、自然であった。
主の示しによって、主に立ち返るか、そのままサタンに行くかの選択を示したが、ユダはサタンが入る事を許してしまった。

主は人の自由を尊重され、どれほど尊重されるかというと、サタンが入ってしまったユダのしようとしている事を、するようにと促すほどである。
神は人に善悪知識の木といのちの木を選ばせ、いのちを取って欲しかった。
祝福とのろいを選ばせ、祝福を取って欲しかった。
しかし人は善悪知識を選び、のろいを選び、ユダはサタンを選んでしまった結果、主を十字架につける事になってしまった。
主としては立ち返って欲しい、その機会を何度も示したのに立ち返らず裏切ってしまったユダに、主はどれほど悲しまれた事だろう。

全宇宙を管理している全能の神が、あえて手をつけない領域は人間の自由意思であり、それは裏切られ裂かれ刺し貫かれるリスクさえ負うものであった。
それほどまでにして与えられている自由を、肉の働く機会として用いず、主の喜ばれることを選ぶ私達でありたい。
横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:闇を照らす光であるイエス(ヨハネ1:9-14,イザヤ9:1-8)국어예배 (右クリックで保存)

イエスは世を照らす真理の光である。
太陽は人間だけでなく全ての生物に必要不可欠なものであるが、まことの太陽であるイエス様はどんなにか人に良きものを提供しているだろうか。
世はこのお方によって創造されたのに、人はこのお方を受け入れなかった。
この世界を少しでもじっくり観察する時、あるいは真剣に生きようと思う時、神を意識し、神に思いを馳せずにはおれない。
自分が神でいたい者はキリストを否定するが、このお方を信じた者には、全く新しい神の子としてのいのちが生まれ、その特権が与えられる。
この世が苦しみに満ちているのは、神を認めない者達によって支配されているからである。

イザヤ9章において、暗闇、苦しみ、はずかしめの内に歩んでいる者達に、イエス様の大いなる光が来る事が預言されている。
ゼブルンとナフタリの地とはイエス様が御言葉を語り始めた地域だが、私達という領域の中にイエス様が御言葉を語り始めると、暗く闇に沈んでいた私達の中に暖かい光が灯るのである。
イエス様はある時ベツレヘムという場所に、みどりごとしてこの地上に来られたが、私達が御言葉を受け入れその名を信じる時、いつであってもどこであっても、私達の内にイエス様が誕生するのである。
このお方は、不思議な助言者(ワンダフルカウンセラー)、力ある神(全能の神)、永遠の乳(いつまでも生きておられ私達を養い育て守る真の父親)、平和の君(争いや恐怖ではなく平和をもたらす)と呼ばれる。
イエス様はいずれ永遠の王座に着かれるが、今、まさに私達の内に生きておられ、支配し、私達を通して神の聖なるご性質を表されるのである。
それは私達の力ではなく、万軍の主の熱心が成し遂げる。

主の熱心な統治が為され、神様のご性質を豊かに表す皆さんでありますように!
横浜天声キリスト教会 copyright 2010

 

礼拝説教メッセージ音声:過越しの子羊(マルコ14:12-17)국어예배 (右クリックで保存)

過越し祭の子羊を屠る日にイエスは十字架につけられた。
過越し祭はユダヤの中では最も重要な祭りで、その起源は神がユダヤ民族発端の初期、奴隷の国エジプトから脱出させたその大いなる日を記念するために定められた。(出12章)
この祭りにはさらに大きな意味があり、屠られる傷無き子羊はイエスキリストを予め表している。
屠った時に流された血は家の柱に塗られ、滅ぼす者が過ぎこす印となる。
印の外では災いの叫びが起こっている中、屠った肉を家の者達は子羊を食べながら自分達が救われている事をかみ締めた。
イエス様はまことの子羊として来られ、イエスの血は救いの印となり、救われている事を噛み締めつつその肉に与るのである。
またその日は、エジプトから大いなる脱出の日でもあり、キリストが身代わりとなって死なれた私達にとっても罪や死の奴隷からの開放、神の裁きからの開放を意味する。
イスラエル民族は何百年もの間、キリストを表現してきたわけである。

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