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礼拝音声:満たし余らせる主(マルコ6:30-44)
週報/メッセージ(説教)概要

主は、より頼む者の必要を満たし、たとえ艱難の時代にあっても助けてくださる。
「地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。」(黙3:10)
この約束を私達のものとするため、御言葉を忍耐して守り、イエス様の名を「知っている」と言うべきである。
以上が主から最近重ねて示されているテーマだが、今日はその裏づけとして、わずか5つのパンと2匹の魚で5千人以上を満たした主の奇跡を見てみたい。

弟子達が伝道旅行から帰ってきて、食事する暇も無いほど働き通しだった状況である。
イエス様が「人里離れた所へ行ってしばらく休む」よう指示し、弟子達は船に乗って人里離れた所へ行ったところ、なんと、大勢の群集が徒歩で既に先回りし、湖の向こう側のその場所へ行っていた。
男だけで5千人ほどである。当時は女子供は人数に数えなかったから、1万人以上いたのではなかろうか。
それほどの群集が人里離れた場所に、弁当の用意も忘れて行くのである。主の魅力はどれほどであろう。

イエス様は、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、色々と教えられ、霊的なパンをまず満たした。
日も傾き、弟子達も早く休みたいと思っていた所だったので、人々を解散させて各々で宿なり食事なり探させるよう主に頼むものの、主はなんと「あなたがたが準備しなさい」と、無理を言われる。

尚、ヨハネ福音書6:5-9によると、「ピリポを試みた」とあり、ピリポは現実的に必要な分を計算した。
1デナリを1万円に換算するなら、200デナリは200万円、そこにいるのが1万人だとするなら、一人頭200円、パン菓子2つ分。それでも「足りない」と彼は結論する。
アンデレは群集の中を探していて、少年が持っていたのを見つけたが「何の役にも立たない」と結論する。
考えを絞っても自分達の持ち物ではとうてい足り無いという場面こそ、イエス様の出番である。
私達は何も出来ない、足りないという事を認め、それをイエス様の所に持っていくなら、主は働かれる。
イエス様はそのような無い無いづくしの状況なのに群集を座らせ、食事の体制をするようにし、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
するとそこにいた群集全員を満たしたばかりでなく、働き人の分も十分に満たすほど、満たされたのである。
少年は「5千人」の中にカウントすらされていなかったし、そのささやかな食料は、人からは見向きもされないようなわずかなものだったかもしれないが、その捧げ物を、主は大いに用いてくださった。
たとえ自分自身がどんなにつまらなく、小さい者であったとしても、イエス様に一旦捧げ、イエス様が祝福して下さったものは、大勢の人々を満足させ、働き人の分まで籠いっぱいにするのである。

働き人は、イエス様が祝福しその手で裂いたパンを携えて、人々の中に出て行くべきである。
そのパンは、物質的なものかもしれないし、物質のものでなく霊的なものかもしれない。
それらは見た目少なく、足りなく、どうしようも無いように見えるかもしれない。
「この期に及んでまだ働かなければならないのか」と言いたい状況かもしれないし、持っている物はとても足りない、無理と思えるかもしれない。
しかし、私達はただ主から渡されたものを届けるだけで良く、後を祝福して下さるのは主である。

人はどうしても、霊を満たすパンよりも、体や生活を満たすパンのほうを心配するものである。
注意すべきはファリサイ派とヘロデのパン種(マルコ8:14-21,マタイ16:5-12)、すなわち、人間の教えによるやりくりや、世に対する妥協であり、私達はこれらよりも御言葉を優先させるべきである。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)この主の言葉を信頼する時、全ては「加えて」与えられるのである。
全てを満たして余らせて下さる主から全てをいただき、満たされ、溢れさせ、その溢れた分で周囲をも満たす皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

※今回の祈祷会音声にはプライベートな内容が含まれたため、音声配信は行いません。代わりに、概要を投稿します。

神は高ぶる者を退けられる。
当然、人を人とも思わず平気で心を踏みにじるような者の願いをいちいち叶えていたら世の中は混乱する。
私達は他人の願いを聞いて「それは身勝手だ」と量ったりするものだが、実は、自分自身がそのように身勝手な願いをしている事には、なかなか気付かない。

もちろん、正当な願いはあり、その願いを神様は聞いて下さる。
神様がすぐに願いを叶えてくださらない時は焦るかもしれないが、後になって見れば、より有意義な事が自分の身に起きていた事がわかるものだ。
人は自分の最善が何かすら知らないものであり、神様は人の願いを全部が全部そのまんま叶えて下さるわけではない。
しかしもっと後になってから、あの時それで良かったと分かる。
神様は唯一、私達の最善をご存知だからである。

詩篇23編「あなたのむちとあなたの杖が私の慰めです。」
羊は目が見えず、一寸先は見えないものだが、私達も一寸先は闇であり、危ないところへも突進するような事もあるが、主はそのような私達を守り、例え私達の愚かさゆえに崖から落ちても降りてきて助けて下さる。
主を羊飼いとしていれば、決して乏しい事は無い。
死の陰の谷のような危ない所を通らされる事もあるが、守られる。
さらに主は、敵の前で宴を設けて下さり、頭に油を注いで装って下さり、恵みと慈しみとが、私達を追って来る。
しかし主を羊飼いとしていなければ、恵みと慈しみは逃げて行く。

美しくて素敵な若い女性はたくさんいるが、素敵なおばあちゃんは、真珠のように尊く珍しい。
彼女はその日その日を尊く生きてきたから、そのようになったのである。
日々、主を羊飼いとし、尊い歩みをし、美しく歳を重ねていくみなさんでありますように!
 

礼拝説教メッセージ音声:クレネ人シモンと女達(マルコ15:21):右クリックで保存
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十字架刑の場所であるゴルゴダの丘までの間、イエス様は十字架を背負って最後まで歩く事ができなかった。
その前日、ピラトの前で鞭打たれ、大量の血を流していたからである。
当時の鞭には石や釘が仕込んであり、鞭打たれる度に血と肉が飛び散ったため、イエス様の背中は酷い状態であった。
そこで、たまたま通りかかったキュレネ人シモンが徴用されたわけである。
彼は「アレクサンドロスとルフォスとの父」とあり、またローマ16:13の記述から推測するに、キリスト者の集まりでは有名人物だった可能性が大きい。
つまり、十字架を背負った時点では、イエス様とは全く面識がなかったものの、共に十字架を負う内にイエス様のご人格に触れ、後にはキリスト者の集まりに加わったと思われる。

彼はたまたまその場に居合わせ、ずいぶん血に汚れた死刑囚が苦労しているな、ぐらいに野次馬のように見ていただけだったかもしれないが、そこを突然徴用されたわけである。
見ず知らずの犯罪人の十字架を背負わされるなんてとんだとばっちりだと思ったかもしれない。
ところがこの十字架を背負わされている死刑囚は、どうも邪悪ではなさそうだ。
それどころか、大勢の女達が泣きながら彼に従っている。

その女性達は、この事が起きるよりも前にイエス様と出会い、信じ、彼の良さを十分知っていたので、きっと「もし自分が力ある男性だったら自分から進んで十字架を背負う事を手伝いたい」と思っていた事だろう。
ところが、唯一彼の手伝いが出来たのは、外国出身の、初対面のこの男であった。
彼のように、ある日突然イエス様と出会い、半ば暴力的にイエス様の十字架を背負う役割を負わされたようなキリスト者もいるし、イエス様と共に働くうちに、イエス様というお方に触れていき、その魅力にどんどん取り付かれて行く事もある。

彼は、後ろにいる女性達にも感謝の声をかけられた事だろう。
「本当は私達が、あなたの役割を果たしたかった。でも、力が無いので出来なかった。本当によく助けてくれた。」
そう言われただろう。
イエス様のお役に立ちたい、彼のためにこれこれの働きをしたいけれど、力が無いので出来ない。そんな彼女達の代わりに、イエス様の事を全く知らない人が、はじめは嫌々ながらその役割につく。
イエス様との出会いの仕方、働きの分与のされ方、主の配剤の仕方は、本当に不思議である。
女性達は力なく、「お前達もイエスの仲間か」と捕らえられる事すらされない程、取るに足らない存在。
ただ泣いてついていくしか出来ない彼女達であったが、そうする事によって、一緒に十字架を背負ったわけである。
そしてクレネ人シモンは実際にイエス様の十字架を背負う助けをした。
ゴルゴダの刑場に至るまで、このような男性女性がイエス様の十字架と共に歩んだのである。

クレネ人シモンは、いずれ十字架を肩から下ろす時が来る。
背負うべき十字架の分はあるが、大勢の人の身代わりとなって十字架にかかるのは、イエス様しか出来ない分である。
しかし、私達に背負う事の出来る十字架は、確かにある。
イエス様と共に十字架を背負い、各々しか果たせない御国の働きをするみなさんでありますように。

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:十字架前のイエスを取り巻く「私達」(マルコ15:15-20):右クリックで保存
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ピラトは結局、群集を満足させようとしてバラバを釈放し、イエスを引き渡した。
彼が満足させようとした群集とは、大祭司達などイエス様を憎み殺そうとした群集達である。
ローマの兵士達は、イエスを引き渡されて彼を嘲弄し、茨の冠を被せたりした。

イエス様を裏切ったり見捨てたり、侮辱して傷つけた人達を見ると、憤るだろうか。
しかし私達は、これら一連の登場人物達の一人に、いつでもなり得るのである。

私達はいつでも、イエスを売り渡したユダにも、3度知らないと言ったペテロにも、イエスに本質を突かれて殺意を覚えた祭司長達にも、扇動されて「十字架につけろ」と言う群集の一人にも、茨の冠を被せた兵士にも、手を洗って「私には関係無い」と言ったポンテオ・ピラトにも、いつでもなり得る。
彼ら一人一人がイエスを苦しめた張本人であり、その張本人の一人が実に私達なのである。

使徒信条に引用されているポンテオ・ピラトは、総督としてイエスを十字架につける権限もあれば、十字架から守る権限もあったが、私達もイエスを知る者として、信仰告白する者として、ポンテオ・ピラトと同様の立場にある。

イエス様を最初から否定し、否定して終わるような者達には、主は目を留めておられないが、主に目を向けようとする者達にこそ主は目を留められ、特別に扱われるのだ。
イエス様が十字架上で息を引き取った場面においては、それを見て悔やんだ少数の者がおり、その中の百人隊長は神をあがめた。
その時点、ペテロ達は「イエスを知らない」と言って隠れたままであり、そこで聖書が終わるならそのままであったが、彼らはイエスの名の集まりにいたからこそ後に大いに変えられ、栄光のために用いられた。
イエスの名のある交わりに集まり続けるなら、ユダも、祭司長も、ピラトさえも、後に変えられたはずである。

私達が学ぶべきは、歴史上の人物達を第3者的にどうこう批評する事ではなく、私達の内のユダやペテロ、祭司長達、群集、兵士、ポンテオ・ピラトをどうするかであり、いかにイエスの名を否まず、彼を主とし続けられるかである。
それによって、人生を「後悔」で塗りつぶすか、御国の為に用いられる充実感で塗り替えるかが決まる。

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝説教メッセージ音声:イエスを前に分かれる人々(ヨハネ19:12-15):右クリックで保存
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人はイエス様の前に、色々なタイプに分かれる。

ピラトは何とかしてイエスを解放しようとし、イエスについて「ユダヤ人の王」という言葉にこだわった。
彼は確かにユダヤ人の王と認めるのだが、周りの人や空気に負けて、この王を死に定め、人殺しを解放してしまった。

ユダヤ人は、イエスがどういうお方であるのかを見、彼が自由に行動されるのを嫌がり、歯軋りし、その者の死を声高に叫ぶ。
彼らは「自分を王とする者は皇帝に逆らう」(ヨハネ19:12)と言った。
自分が自分の王座を下りる、という所までは聖書的であるが、その王座に座っていただく者が問題である。
座っていただく者がこの世の王であると、ユダヤ人達がそうであったように、その王に搾取された挙句、滅ぼされてしまうのである。

またヘロデ・アンティパスはイエスに出会って大いに喜んだが、それは彼が徴を成す事で有名で、興味があったからである。(ルカ23:6-12)
ヘロデは色々と興味本位で質問したり促したりするが、それに対するイエス様の応答は、何もせず黙っている、というものであった。
結局ヘロデがイエスに成した行動は、兵士達と一緒に侮り、なぶり、けばけばしい衣を羽織らせて放り出す事だった。
イエス様を単に興味本位で質問し、はでに飾り立てたり、面白おかしくなぶりものにする者たちに対しては、イエス様は何の反応もされず一言も発しないのである。

イエスはこの場面においては弱々しくみっともなく、誰も「この人の仲間です」と言いたくないような状況であるが、イエスは王の王、主の主、誰も近づく事のできない光の中に住まわれるお方であり、このお方を主とする者は力を得、勝利を得る。
弟子達はこの時点、逃げ隠れして震えていたが、十字架後のイエスによって大胆にイエスを証し、力を得た。(使徒4章)

私達が留まるべきは、イエスの名の内である。
十字架の言葉に留まる者は一時敗北のように見えるが、十字架の向こうには復活と勝利、栄光がある。
イエスの名によって癒しと徴と奇跡を行い、大胆に神の言葉を語るみなさんでありますように。

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:ポンティオ・ピラトの前で証するイエス(1テモテ6:13-16、ヨハネ18、19章):右クリックで保存
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ポンティオ・ピラトの前でのイエスは、口を開かず、辱められ、弱さの極みであったが、イエスキリストは唯一の権力者で王の王、主の主、不死なるお方であり、近づくことのできない光の中に住んでおられる力強い主である。(1テモテ6:13-16)
万物に命をお与えになったお方が、ポンティオ・ピラトの面前で証しをなさったのだ。(13節)

彼のポンティオ・ピラトの前での告白を見て行きたい。(ヨハネ18:33-38)

ピラトが最初に見たイエスは、大勢の悪意の群集に囲まれ、祭司長達に罵られ、犯罪人として縛られて引っ立てられている様子であった。
そのような状況の33歳の若造なら、本来、絶望と恐怖に満ち、卑屈に総督の前に出ているべきなのに、平安と清らかな佇まいに満たされていた彼の様子を見て、ピラトはただ者ではないと悟った。

彼がイエスと会話を交わしていくうちに、イエスが地上にいるどんな人間とも違い、全てを越えた聖なる王の性質に触れていく。
イエスの前には、総督であろうと奴隷であろうと、イエス様を王とするか、しないかの、2つに一つしかない。
そしてそれは、イエス様が輝く天の王座に座っていようとも、犯罪人のように捕縛され打ち傷に満たされた状態であろうとも、である。

「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:37)

この部分を本の字面を追って読むだけなら「何を突拍子も無い事を」と思うかもしれないが、その場面の状況として、究極的に弱い立場の筈のイエスが、いつでも御使い達に命じて守らせる事の出来る余裕と、清らかで平安に満ちた佇まいの内にこの言葉を発したのだから、ピラトはますます、このお方は何かしらの王たるに相応しい者であると確信する。

ピラトは確かにイエスを釈放する権限も、十字架につける権限もあるのだが、ピラトも上から権力を与えられなければ何もできない事を言われ、なんとかして釈放したいと思うようになっていった。

ピラトはイエスの無罪を宣言しても、群集はバラバ釈放を要求し、あくまでイエスの十字架を要求した。
祭司長達が本来王とすべきは、唯一の神であるはずなのに、皇帝陛下の他に王は無いと言ってみたり(15節)、異邦人に支配されるのは嫌いなはずなのに、その異邦人の権力に取り入って利用してイエス様を十字架につけようとする。
外見だけの宗教者はこのように、自分の王を好き勝手に摩り替えたり、聖なるお方を罪に定めたり、邪悪なバラバを釈放したりするのである。

ピラトは「見よ、この人だ」と叫び、この聖なるお方をお前達は十字架につけていいのか?と促すが、結局ピラトはイエスを引き渡してしまうのである。
人間とは悟りが無ければ、とことん弱く愚かなのである。

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝説教メッセージ音声:私達の内にいるポンテオ・ピラト(マルコ15:1-15):右クリックで保存
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使徒信条で出てくる人名は、マリヤとポンテオ・ピラトの二人である。
ピラトはイエスを庇おうという意図が見られるため、ピラトの前に苦しみを受け、というより祭司長や群集の前に苦しみを受け、のほうがいいのではないか。
マリヤが出てくるのは分かるが、なぜピラトなのか。詳しく見て行きたい。

当時のユダヤでは死刑確定の権限は無く、ローマにあったため、イエス様はまず総督であるピラトの前に連れて行かれた。
ピラトは総督に登りつめた人間であるため、彼らが妬みの故にイエスを連れてきた事は察知していた。
また彼の妻も「この義人には関わらないで」と伝えていたため、彼としてはあまり関わりたくない案件であった。
そこで、誰の目にも明らかに悪人であるバラバ・イエスを釈放するか、それともキリスト・イエスを釈放するかの2択を迫り、まさかバラバを釈放するわけはないと思った訳だが、群集が選んだのは、バラバであった。

ピラトはイエスが死刑にならないよう色々手を尽したが、最終的に、彼が死刑を”許可”してしまう。
群集はキリストがどんな悪事を働いたのかという問には答えず、いっそう激しく「十字架につけろ」と叫んだだけであった。
ピラトは群集の前で水を取って手を洗ったが、それは自分にはこの事については責任が無い、という象徴的行為である。

ここまで見ると、ピラトは結構良い人で、同情の余地もあるのでは、と思うかもしれないが、しかし彼は主を死刑に定めた。
私たち自身も、ピラトのような性質を持っている。
イエスを助けたいという思はあるのだが、結局は周りの大声に負け、私達の内で沈黙の眼差しを向けているイエスを拘束し、死刑宣告し、そしてバラバを開放してしまう事がある。
私達の人生の選択の場面において、「この事はしょうがない」と言って手を洗い、イエス様を、私というポンテオピラトの元で苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、、、という使徒信条の下りを、演じてしまうのである。

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礼拝音声:あなたの行いを知っている(黙示録3:7-13)
週報/メッセージ(説教)概要

ここ最近、特に示されている事は、神が徹底的に守られるのは、主に拠り頼むしかない者である事である。

昨年最後の主日メッセージにサレプタのやもめの話をしたが、図らずも、同じ日に韓国の鄭先生からいただいたメッセージも全く同じ箇所(1列王記17:8-16)で、主は特にこの箇所を示されている事が分かった。
かの時代、3年半の間全く雨が降らない旱魃の時代となったのは国の指導者の罪の故で、そのお陰で国民全体ばかりでなく周辺の国にさえも災いが及んでいたが、その時代において唯一エリヤが遣わされたのは、シドンの国サレプタのやもめであった。
それは彼女が異邦人であるのに「あなたの神、主は生きておられます。」と告白し、イスラエルの神を認め、敬い、預言者を敬う素養があったからであり、その素養を神が「知って」いたからである。
彼女は一時の自分の腹の満たしよりも、主の言葉を第一として、信仰を行いによって示したからこそ、旱魃の時代に不信仰な者達と共に滅びる事から守られたのである。

後の時代、イエスは大勢の金持ちが沢山金を入れる様子を見ておられた時、唯一目を留めたのは、一人の貧しいやもめであった。彼女が捧げたのは神殿に捧げられる最低金額である2レプタだったが、彼女が乏しい中からすべてを主のために捧げた事をイエスはちゃんと「知って」いて、彼女を評価されたのである。

世界中に訪れる苦難の時、貧しさの中において守られる者達とはどういう者達であろうか。
黙示録2,3章には7つの色々な教会が出てくるが、その中で叱責が無い教会は、スミルナの教会と、フィラデルフィアの教会である。

スミルナの意味はギリシャ語の"myrrh"(=没薬)に派生し、聖書においては苦しみや苦難を意味している。
この教会には苦難や貧しさがある事を主は「知って」いて、しかし本当は豊かである、と言われた。(2:9)
「誰よりも捧げた」と主に評価される者、貧しいようでも天の視点からは「豊か」とされる者とは、2レプタ捧げた女性のように、貧しさの中においても、自分ではなく主を第一とする者である。
また、この教会には苦難だけでなく牢や死も暗示されているが、苦しみはいつまでも続くものではなく、「10日の間」とある通り定められた期間があり、その後には命の冠、すなわち、栄光の復活が約束されている。
その事は、「一度死んだがまた生きた方」(2:8)が約束しているのである。

フィラデルフィアとは兄弟愛という意味である。
ここでもイエスは「わたしはあなたの行いを知っている」(黙示録3:8)とまず呼びかけており、やもめの物質的貧しさと霊的豊かさを主が知っておられたように、忠実に従い通す者を主は「知って」おられるのだ。
この教会も力は弱かったが、力のあるなしは全く関係無い。主の兄弟姉妹の最も小さい者さえも主に対してするように心からする者を、主は愛されるのである。
この教会の前に、誰も閉じる事の出来ない道が開かれたのは「わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないとは言わなかった」からである。
兄弟姉妹に見せかけて実はサタンに属する者達には、足元にひれ伏すようにさせ、主が徹底的に愛しておられる事を彼らに知らせると、約束されている。
「地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。」
この約束が与えられたのは「忍耐についてのわたしの言葉を守った」からである。(3:10)

主の御名を否まず、自分の事よりも主の言葉を守る者こそ、終わりの時代に守られる者である。
その者達を主は特別に愛されている事を、主ご自身があらゆる手段によって世に示される。
そのようなみなさんでありますように、主イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:イエスの名を否んでも(マルコ14:66-72) :右クリックで保存
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人はその場の空気に支配され、口先では心と違った事を言う傾向がある。
イエス様が尋問されていた時、ペテロが中庭に行ったのはイエス様を思う気持ちからだったが、女中に指摘された時、彼は単に場の空気に順応したかっただけで、「言葉ではイエス様を否んでしまったが心はイエス様に使えているのだ」とさえ思わなかった程に無意識、反射的だったかもしれない。
しかし彼は事実「イエスを知らない」と3度言うのであり、鶏は鳴くのである。

ペテロはその少し前、力を込めて「死んでもイエス様を知らないとは言わない」と言っていたが、その夜が明ける前に、力を込めて、しかも誓って「イエス様を知らない」と言ってしまった。
主に従いつくせるかどうかは、力のある無しは全く関係ない。
主のことばを守り、主の名を知らないと言わない教会こそ、大艱難の時にに守られる教会である(黙示録3:7-10)が、それは人の力では出来ない。
最後までイエス様を愛し尽す力は人には無いが、主は私達の信仰が無くならないように執り成しておられる。

ペテロとイスカリオテ・ユダの違いは、イエス様の名の元に集まる事を止めなかったか、止めたかである。
死してお詫び申し上げる、など、主の前には美学でも何でもなく、究極の自慰行為である。
たとえ主の名を否んでも、生き恥を晒しても、主の集まりから決して離れない事を、主は望んでおられるのだ。

ペテロはこの後、再びイエスの名のために大勢の前で尋問される時が来るが、その時彼は大胆にイエスを告白し、それを聞いた権力者達は何も答える事ができなかった。(使徒4:5-14)
この力の源は聖霊に満たされていたからであり(使徒4:8)、聖霊に満たされるコツは、主の集まりから離れない事。
無学な普通の人である事は何の問題も無く、大切なのは、イエスと一緒にいる者である、という事だ。(使徒4:13)

困難な時代において守られる者とは、イエスの名を否まない者であるが、イエスの名を否まない事は人間の力では出来ない。
しかし聖霊に満たされるなら、このお方を否まないどころか、大胆にイエスを伝える事が出来る。
聖霊に満たされる者とは、イエス様の名の元から離れない者である。

イエスニム イルムロ チュッポク パドゥル チヨダ!
(イエスの名によって祝福されよ!)

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

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