メッセージ - 最新エントリー

礼拝説教メッセージ音声:大きすぎて理解できない恵み(ヘブル2:1-4):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

太陽は地球に比べるとはるかに大きく、恒星は太陽に比べると遥かに大きい。
また、地球から恒星までの距離は、1秒で地球を7周半するほど速い光が行くにしても、何百年もかかる。
詩篇8編によると、月や星などの天は指のわざと書かれてあるが、星を見るに、私達人間がいかにちっぽけであり、宇宙がいかに壮大であるか想像すらできないほどである。
しかし、宇宙広しといえども、御子を使わされたのはちっぽけな地球の、ちっぽけな人間に対してであり、神の似姿として創られたのも、宇宙のどの種族でもなく、地球の人間のみである。
私達の身代わりとなって血を流された御子は、万物を創り、万物はその方のために存在し、万物はそのお方によって成り立っているほどのお方である。
考えれば考えるほど大きな救いであるが、私達は大きな事よりも小さい事にやっきになりがちである。

主は大いなるお方であるのに対し、我々人間は蟻よりも小さな存在に過ぎない。
にもかかわらず、主はへりくだり、高き所から降りてこられ、蟻のような人間となって共に生活し、人間のために命を投げ差された。
私達が主に仕えるこの勤めは、いかに尊厳に満ちたものであろう。
それ故、救いの福音は注意して聞くべきであり無頓着であってはならない。

しかしながら、人は実に小さくどうでも良い事に心捕らわれがちである。

ここ関内近辺の道路は一方通行が多く、道も狭いため、車を運転する者にとっては非常にやりづらい。
路面はどこも駐車禁止で、少しでも車を路駐するとすぐに見回りが来てしまうし、駐車料金も高いため、車を停めにも一苦労である。
道路の世界で運転する者は道路での規律を、会社で働く者は会社が望む事を、当たり前のように意識するものだ。
道路の罰金は細かく気にするが、この世と来るべき世に関する法や、その時払うべき罰金、この世もあの世も創られた方の望む事を意識する事は、実に稀である。

契約書に自分と相手の名前を書いて判子を押した紙は、効力と威厳がある。
御言葉は世を創られた主の息吹が込められており、福音の言葉には主の血による判子が押してある。
どんなに尊い契約書であろうか。
しかし、私達はこの大いなる救いに対して、無頓着なものである。
なぜか。
それは、罰則を受ける人や、罰金を払っている人は巷でよく見るが、永遠の罰を受けている者はこの世において見る事が無いからである。
それは、主が大いなる恵みによって、私達の罪を見逃しておられ、立ち返る事を待っておられるからである。
しかし、私達がこの世で好き放題できなくなり、この世を取り締まる者はいずれ来る。
福音をないがしろにしたまま空き放題やっていたとしても、生きている間にその故に罰せられる事は無いが、捕まってしまう日はいずれ来る。
その時の罰はいかなるものであろうか。

天地万物の源であり作られた方が、その血をもって買い取って下さった証文が、聖書であり福音である。
世の人はあたかも神様がいないかのように生活しているが、キリスト者は、人生のある場面で主と出会った。
キリストの証文の効力に与かった我々は、この世における保障だけでなく、来るべき世の保障も与えられている。
そして、罪の赦しという免罪と、永遠のいのちという特典をいただける福音を、委ねられている。

神様から特別扱いを受けた私達は、日々、その尊い福音をないがしろにしないようにするべきである。

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝説教メッセージ音声:信じる者になりなさい(ヨハネ20:24-29):右クリックで保存
한국어예배 韓国語通訳有

主イエス様が蘇られ、弟子達の所に現れた時、トマスだけが、何かしらの用事でそこにおらず、トマスが帰って来た時、弟子達は「私達は主を見た」とトマスに言った。
主がリアルに現れ、「シャローム」と言われ、息を吹きかけられた次第を、きっと彼に話した事だろう。

もし、兄弟姉妹の交わりから離れて何か用事をしている間に主が現れ、すばらしい事をなされた、と、兄弟姉妹から言われたとしたら、私達はどう思うだろうか。
強烈な「置いてけぼり感」、「取り残された感」にとらわれるだろう。

トマスは、指をイエス様の手に突っ込み、脇腹に入れてみない限り信じない、と言った。
他の10人も、女達も「見た」と言っているのに、自分だけ決定的なその場にいなかった。
きっとトマスは、ああ言ったものの、実はうすうす信じていたのではなかろうか。

次の主日、トマスもその場にいる時、イエス様が現れ、全く同じようにシャローム(あなた方に平和)と言われた。
8日後と書いてあるが、当時ユダヤでは該当日も含めてカウントするため、正確には7日後の主日である。
私達は日曜、主日に礼拝しているが、主が蘇られた日、主が現れた日を記念して集まるのだ。
トマスはこの時、その場に立ち会う事が出来た。

トマスが1週間前「信じない」と言った時、その場に主はいなかったはずなのに、なぜか主は、トマスの言った言葉を知っていて、覚えていた。
主は、私達が不信仰な言葉を言った時も、主はいないかのように感じたり、取り残されたように感じる時も、ちゃんと共におられて、私達のその時の言葉を聴き、私達の感じたその時の感じも、全て知っておられるのだ。

トマスはイエス様の手や脇腹に指を突き刺してみなければ信じないと言った。
言ってみれば、再びイエス様を刺し貫くかのような言葉を言ったのである。
私達も「置いてけぼり感」から思わずイエス様を突き刺すかのような言葉を口走ってしまうが、「あなたの指をここに入れなさい」と言って手や脇腹を示されるのである。
肉と骨を持ったイエス様が実際に目の前に迫って来て、しかも穴の開いた手を差し伸べて「入れてごらん」と言ったら、私達はそのような事が出来るだろうか。
頑なな自分を悔い、主の愛に涙しつつ「私の主、私の神」と言う他無い。

「信じないままでいるのでなく、信じる者になりなさい」

信じない者とは、イエス様を突き刺す者である。
それでも、信じない人の前に現れ、傷のある手を差し伸べ、
「信じないのか?
指を突き刺して信じるのなら、そうしてごらん」
と言って下さるのである。
復活の後のイエス様の現れ方は、繊細に、強制的ではなく、愛によって、繊細な行いによって、私達の頑なな心を溶かして下さり、私達はその愛によって降参するしかないのだ。

十字架の後の時代を生きている私達は、イエス様を見てはいないが、信じている。
私達も、当時の弟子達のように、イエス様を見てみたいだろうか?
当時の弟子達よりも私達は幸いである。なぜなら、見ないで信じているからである。
世にあっては艱難があり、目に見えるもの、手でさわれるものに頼りたいものだが、そのような場合でも目に見えないイエス様に頼る事は、天において非常に栄誉のある事であり、見えなくても信じる信仰は、朽ちてゆく金よりも尊いのだ。(1ペテロ1:6-9)

信じない者ではなく、信じる皆さんでありますように、
主に喜ばれ、顔と顔を合わせて主とまみえる日、主から「よくやった」と栄誉を頂ける皆さんでありますように、
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

聖書の学び会音声

カテゴリ : 
その他音声
執筆 : 
pastor 2011-1-28 4:02

豊川兄弟による聖書の学び会

第6回音声

礼拝説教メッセージ音声:世のものならぬ平和(ヨハネ20:19-23,マルコ16:14):右クリックで保存
한국어예배 韓国語通訳有

復活の主イエス様が弟子達の所に現れた場面は、マルコ、ルカにおいては弟子達の心の頑なさをまずお叱りになられた。
そしてご自分の手と足の傷跡を示され、肉と骨がある事、霊ではない事をはっきり示し、魚を皆の面前で食された。
これによってイエスの復活は、霊的な形の無い体ではなく、肉や骨のある肉体のよみがえりである事が分かる。
イエスは復活の初穂であるので、それに続く私達も、時間や空間、死に束縛されない、栄光の体をいただく事が出来るのである。

ヨハネの並行箇所では、叱りの言葉は記していないが、一致しているのは主の第一声が「あなたがたに平和」という点である。
イエス様は確かに叱られたかもしれないが、ヨハネにとってはそれは恐い叱り言葉ではなく、愛の篭った言葉として印象に残ったのだろう。
主は、閉ざした部屋の中に、また、恐れや不安、疑いによって閉ざしてしまった私達の心の内に入って来て下さり「平和があるように」「なぜ疑うのか」と愛を込めて言って下さる。
そして息を吹きかけ、聖霊を与えてくださり、その聖霊を受けた者は世ならぬ平安が与えられるばかりでなく、天においても地においても権威が与えられる。

主は予め、聖霊を与えて下さる事を約束されていた。
「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:26-27)

世においては恐れや不安、納得できない疑問もあるかもしれないが、私達が主から息を吹きかけられ、聖霊が与えられる時、主が話されたことばを、また、主のご性質を思い起こさせてくださる。
恐れや不安や疑問は主に委ねれば良いのであり、委ねる時、助け主聖霊が与えられ、世のものでない平和に包まれるのである。
弟子達が戸を閉ざしていた時、とても平和とは程遠い状況であったが、それでも主は中に入って来て「平和があるように」と声をかけて下さり、不安を息吹によって吹き飛ばして下さった。
世の平安は、目に見える、あるいは手で触れるような後ろ盾がなければならないものだが、主の平安は、たとえ後ろ盾は見えずとも、決して揺るがされるものでも、なくなるようなものでもない。

世においては艱難があるが、主は世に打ち勝った。(16:33)
扉を一歩外に出れば危険があったかもしれないが、主は扉の外においてもセキュリティも確保して下さるのである。

心の内に、不安や恐れ、疑いがあるのであれば、主にゆだねれば良い。
主ご自身から息を吹きかけていただいて、世のものではない平安が与えられる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ:復活の後の主の現れ(ルカ24:13-35、マルコ16:9-13):右クリックで保存
한국어예배 韓国語通訳有

主イエス様は復活の後、マグダラのマリヤに現れ、女性達に現れ、エマオに向かっている途中の二人の弟子達にも現れた。
主ご自身がこの二人に現れ、彼らは長らく一緒に歩いていたのに、なんと、ずっと彼だとは気付かなかったのだ。

イエス様の復活以降、弟子達や主の挙動に、不思議に思える事が色々ある。
主は突然現れたり、消えたりされる。
また、イエス様がいるのにイエス様だと気付かない弟子達が実に多い。
また、ご自身を直接的な言葉で言い表す事はなさらず、そのご性質をそっと示し、気付くまで待たれるという、遠回りのような事をされる。

実は、復活以降のイエス様の現れの記述は、現代を生きる私達に対する主の現れ方と、全く同じである。
復活以降のイエス様は、遠くの場所へ一瞬で移動したり、鍵の閉まった部屋に突然現れたりしているが、二人でも三人でもイエスの名の元に集まる所へ、どんなに鍵がかかっ

ていても、どんなに遠くにいても、そこに主は来られる。
それは現代も同じであり、我々も体験している所である。

さて、エマオの途上の二人である。彼らはエルサレムから約11.5キロの道のりを歩いていた。
道すがら主ご自身が近づかれるのだが、彼らには目が塞がれていて、主だと分からなかった。

現代の我々も同じ経験をする。
主ご自身が近づいてきているのに、彼はもしかしたら、あまりに目を惹かない姿形であったり、もしかしたら小さかったり、くさい臭いを発している事さえあるかもしれない


私達が日々の心配事や、宗教的な話をしている所に近づいて来て、加わってくるかもしれない。
その時あれこれと自分の見解を申し述べたりするが、主は「ああ、頭の悪い心の鈍い者らよ」と言って諭し、聖書からご自身について解き明かしをなさるかもしれない。

かの二人は、仲間の女達が御使いと出会った次第や、御体が無かった次第を伝えると、主ご自身がお叱りになった。
弟子達はびっくりしただろう。なにしろ、今までは”我々が”教える立場だったのに、突然叱って、彼が教える立場になったのだから。
この二人に「私がイエスだ」と言えばカンタンに済むはずなのに、なぜ、そんなに遠回りな事をされたのだろうか。

私達が拠りすがるべきは、もはや目に見え手に触れる人間イエスではなく「聖書」である事を、示されていたのである。
ここで彼が語った内容は、「モーセおよび全ての預言者から始まって、全聖書の中で自分自身について書かれてあること」である。(27節)
主の復活の後、私達が寄りすがるべきは、目で見たり手で触れたりできる人間ではなく、イエス様ご自身たる御言葉である。

弟子達は目的地に近づいたが、主はその先へ行こうとしていた。
そこで彼らは強いて一緒にいるようにと押し留めた。それは、このお方の語る聖書に、心が燃えていたからである。
エルサレムにおいて、あるいは目の前の現実においては騒動があっても、聖書を詳しく説かれる私達は、心が燃えるのだ。

食事の席に着いた時、主ご自身がパンを裂いた。
この場合、ホストである弟子達がパンを裂くはずだったが、パンを取り、祝福して裂き、手渡して下さったのは、主である。
その時彼らはハッとしたに違いない。
この経験、かつてあった。
5千人以上の前で、4千人以上の前で、十字架の前の晩において、パンを取り、祝福して裂き、手渡してくださったのは、主であった。
パンを取り、祝福して裂き、手渡して下さるのは、主のご性質であった。。。
この時、彼こそ主イエス様だと分かったのである。

私達も、福音書を読み、御言葉を読んで、主のご性質は知っている。
主は腹の必要を満たすパンだけでなく、物質的・金銭的・精神的な必要を満たすパンを取り、祝福して裂き、私達に手渡してくださる。
そして渡された時、主が確かにそこにおられた、と気付くのである。
主は、御言葉を説き証し、沈黙の行動によって、静かにご性質を示されるのだ。

聖書が解き明かされる時、私達の心は内側で燃やされていき、主ご自身が確かにこの旅路に共にいてくださったと知るのである。
この弟子達は主だと知って、夜で疲れていたにもかかわらず、歩いてきた11.5キロの道を戻って弟子達に起きた出来事を伝えた。
疲れていても、夜であっても、主の良きお方である事を伝えずにはおれないのだ。

日常の内に隠れているイエス様に気付き、彼によって御言葉を解き明かされ、豊かに養われ、パンを受け取り、確かに主が共におられたのだと分かり、彼を伝えずにはおれな

い皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

祈祷会に、初めての方がおいでになりました。

彼は長らく色々な教会に行っていたのですが、イエス様を主としているかどうか、彼自身が良く分からないようでした。

私が「あなたの人生は、自分で支配したいですか?それともイエス様に支配していただきたいですか?」と聞きましたところ、

「イエス様に支配して欲しいと思う」という事でしたので、

「それならイエス様を主としている」と言いました所、

とても晴れやかな顔をしていました。

「今まで色々な教会に行ったけれど、そこまで分かりやすく教えてもらった事はなかった」

と言っていたので、びっくりしました。

イエスを主とするとはどういう事か。

もしかしたら「灯台元暗し」すぎて、皆、確認していなかったのかもしれません。

※本日は不備がありましたため、音声配信は無く、テキスト配信のみとなります。申し訳ございません。

メッセージ:女達への密かな顕現(マルコ16:1-8)

イエス様の復活の後、4人の福音書記者は、実にバラエティに富んだ違った表現でイエス様の表れを記している。
私達、復活の後の時代を生きる者も、バラエティに富んだ表現で自由に復活の主を伝える事ができる。

聖書は、一つの完全に整合性の取れた文章として与えられたものではなく、多くの人達に現れた神のご性質を、それぞれの人が書き記した集大成である。
神が福音を「宣教」という愚かさのうちに伝えられる方法をあえて取って下さったため、実に色々な人間によるバリエーションに富んだ印象と表現で、イエスというお方を見、知る事が出来ているのである。
もし神様が完全に整合性の取れた一連のことばを示されたのであれば、ここまで色々な面から見る事はできなかったであろうし、伝道方法も1か0かといった実に堅苦しいものとなった事だろう。
一人一人が主と出会った仕方も、主から頂いた印象も、導かれ方も、それぞれ違う。
しかし、主が”良きお方”である事は皆が一致している事である。
私達はその主を、それぞれ頂いた環境において、それぞれ頂いた賜物において、自由にイエスというお方の良きご性質を伝えていくべきである。

今日は主の復活の後、女性達へひそかにご自身を現した次第を、色々な角度から見ていきたい。

マタイ28:8-10
この女性達は復活の知らせを受けた後、弟子達の所に行った。
彼女達はイエス様と出会った時の主の第一声は「おはよう」(直訳:喜びあれ)である。
復活の第1声が日常の最も一般的な挨拶言葉である事は興味深い。
もし私達が死んで蘇った時、親しい人に初めて声をかけるとしたなら、どんな言葉をかけるであろうか。
しかし主にとって、復活とは日常の当然の事であったのだ。

ルカ24:9-12
ルカにおいては、彼女達は引き返して弟子達に話したものの、弟子達は信じず、ペテロが墓に走って行った所までは簡潔に書いている。

ヨハネ20:1-18
ヨハネにおいては、女性が墓に行って帰ってきた次第は簡潔に書いており、ペテロとヨハネが墓に行って帰ってきた次第を詳細に書いている。
ペテロよりヨハネのほうが早く走ったとか、ヨハネは躊躇して入れずペテロは堂々と入ったとか、理系のルカにとってはどうでも良いような場面も生き生きと表現している。
弟子達はイエスがいないのを確認し、そのまま帰ってしまうが、マグダラのマリヤは主と親しく出会う事が出来た。

主は女性達に密かに出会い、弟子達には現れなかった。
マグダラのマリヤとの対面においても、彼女は最初イエスだとは分からず、庭師だと思ったほどに、イエスの様子はごく普通の人であった。
復活とは劇的な場面ではあるが、その復活のイエス様はあまりに普通であったので、気付かなかったようである。

女性達は、主が十字架を背負ってゴルゴダの丘に行った時も十字架を負う手伝いもできず、イエスの仲間だと言われて捕らえられる事さえもされず、ただ一緒に泣いてついて行き、十字架と死の場面も何も出来ず、ただそこにいただけであった。
彼女達が内密に、ひそやかにイエス様と対面できたのは、いかなる場面においてもイエス様と”一緒”におり、イエス様の名前を否まなかったからである。
この終わりの時代においても、イエス様と密やかに対面できるのは、ただ泣いてついていく事しかできなくても、いつでもイエス様と”一緒”におり、イエス様の名前を否まない者である。

イエス様の名を最後まで否まず、いつも彼と一緒におり、彼と密やかに出会う事の出来るみなさんでありますように、イエスの名前で祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:爆発的ないのちのパワー(マルコ16:1-8):右クリックで保存
한국어예배 韓国語通訳有

安息日が明けて日曜日、すなわち主日の朝、女達が埋葬されたイエスの体に香油を塗るために墓へ行った。

香油は準備したものの、イエス様と自分達の間を邪魔している、大きな石と封印とローマ兵をどうすれば良いかと心配していた。
しかし、その全ての心配は実にちっぽけで、全く以って無用であった。
兵士達は御使いを見て恐ろしさのあまり死人のようになり、封印は破られ、石は転がされており、そもそも、イエス様は蘇られ、そこにはいなかったのだ。

ある考古学者の発見によると、その封印とは、石が動かないようにする鉄のくさびだったのだが、一瞬にして大きな衝撃が加わった不自然な折れ方をしていたという。

何トンものトラックが何十キロものスピードで衝突したかのような、当時としてはありえない折れ方である。

御使いが封印を打ち破って石を転がしたのは、女達の小さな心配の種を取り除くためではなく、イエスの大いなる復活を示すためである。

イエス様は生きたお方であり、死人というカテゴリの中から探し出す事は、間違いである。
死はイエス様を束縛できないのと同様、信じる我々も、束縛する事はできず死人というカテゴリの中にあるものではない。

イエス様は罪人の手に渡され、死んで3日目に起こされ、ガリラヤへ先んじて行く事は、確かに、予め弟子たちへ伝えられていた。
しかし、女達も弟子達も、彼らの中の一人でも「3日目だから蘇っただろうか」と思うものはなかった。

それだけイエス様は十字架上で、立派に、明確に死に尽したのである。

ヨハネやマリヤたちの目の前ではっきりと死に、槍で突かれ、葬られたのだ。
祭司長達や律法学者達は勝ち誇り、弟子達は敗北し、恐れ、隠れていたのである。

弟子達の誰の目にも絶望的な状況において、御使い達の知らせはありえない出来事だったが、御使いたちは確かに、イエス様が予め言われていた信じがたい事を語った。
十字架の復活を信じる私達も、大きな恐れと喜びと共に、ありえない復活にあずかり、逆転勝利者の側に立てるのである。
それは信じがたいかもしれないが、予め聖書に書かれてある通りである。

状況的には敗北であり死であるようなときも、イエス様が与えてくださった新しいいのちを経験し、永遠の勝利者の側に立つ事ができる。

一方、兵士達は起こった出来事を祭司長達や律法学者達に報告しに行ったが、協議の上、彼らに金を握らせて偽のうわさを流させた。(マタイ28:11-15)

この事から、彼らは「イエス様が蘇った」事を、その時信じた事がうかがえる。
もし信じていなかったら、弟子達が女の言う事をたわごととして追い返したように、兵士達の言う事をたわごととして取り上げなかったはずである。
弟子達は蘇りを信じなかったのに、祭司長達や律法学者達が信じた、というのは不思議だが、実は彼らもイエスがメシヤである事にうすうす勘付いていたのであり、その上で、彼らはイエスを十字架につけたのだ。

彼らは協議して金を掴ませ、偽りで塗りつぶそうとしたが、復活のいのちは押し留められるものでは無い。
イエスの敵は、協議と権力と金と偽りとで、いのちを押し潰そうとするかもしれないが、春になったら生えてくる草や花を人が留められないように、復活の朝のいのちの広がりは、サタンも人ももみ消そうとしても消えるものではない。

その復活のパワーといのちを体験し、いのちに溢れたみなさんでありますように、イエスの名前で祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

交わり。。。

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-1-23 23:50
今日は礼拝の後、教会の皆と静岡から新幹線で来られた姉妹を交え、遅くまで楽しいひと時を過ごしました。

ファミレスにドリンク飲み放題で3,4時間は粘ったかも。
こんなに幸いな交わりの日々が続いて良いのかと、たまに思います。

礼拝音声:愛で満たす主(ヨハネ21章)
週報/メッセージ(説教)概要

イエス様は、5つのパンと2匹の魚によって彼を慕ってきた5千人以上の腹を満たしたように、圧倒的な御技でもって主を慕う者を養い、働き人も養って下さった御力がある事を先週見た。
主はそればかりでなく、たとえ彼を慕う者が間違いを犯し、裏切ったとしても、悔い改めて立ち帰るなら赦し、愛による万全のサポートをもって癒し、霊肉魂の全面において満たして下さるお方である。
今日はそのような主のご性質を見ていきたい。

イエス様が十字架に架けられ、死んで、3日目に甦った後、弟子達は主から与えられていた働きから離れ、以前の生活に戻ろうとした事があった。(ヨハネ21章)
元漁師だった弟子達が主の弟子となった原点は、主の言葉どおりに深みに漕ぎ出して網を下ろし、その結果、船が沈みそうになるほど大漁に捕れた経験と、
「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)という招きの言葉である。
弟子達は主の圧倒的な御技を見、自分が罪深い人間であり、とてもこの聖なるお方に近づくには相応しくないにもかかわらず、人間をとる漁師として任命して下さった、主の懐の深すぎる愛に打ちのめされたから、イエスと共に働くようになったのである。

主は十字架に至るまで忠実であり、決して見捨てるが無く、愛に富んでおられた。
それなのに、弟子達は主を見捨てて逃げ、裏切り、ペテロはイエスを「知らない」と3度言った。
主は3日目に甦えり、弟子達に現れたものの、いつも弟子達と共にいるという訳ではなく、聖霊が力ある形で現れていなかったため、弟子達はなんとなく以前の職業に戻ろうとしていたのである。
そこで彼らはある晩、一晩中漁をしたのだが、魚は全く捕れなかった。
夜明け頃、「右側に網を下ろしなさい」と言う者があり、弟子達がその言葉どおりにすると、舟に引き上げられないほど大漁に魚が取れ、その時、弟子達はその者が主だと気付いた。
主は陸に上がろうとする弟子達のために、炭火をおこし、その上に魚とパンをのせて用意されていた。
イエスはパンを取って弟子達に与え、魚も同じようにされた。
「私がイエスだ」「魚を取るのではなく人間を取る漁師になれ」と、言葉で言えば話が早いのに、そうはせず、偉大なご性質を静かに示し、早朝のささやかな食卓を整え、優しいく繊細なご性質を示された。

ペテロは、主を知らないと3度言った手前、心にわだかまりがあったままであったが、主はそれを面と向かって責める事はなさらず「わたしを"完全に愛し尽して"(アガパオー)いるか?」と聞かれた。
ペテロは自分の愛がいかに危うく、いいかげんであるか嫌というほど知っていたため
「私があなたを親っている事をあなたは知っています」と答えるしか無かった。
主は同じ事を2度言われ、ペテロも同じ答えを2度したが、3度目に主は「わたしを親っているか?」と、ペテロの不完全な愛のレベルに降りて来られた。
主は3度目にそのように聞いて来られたので、彼の思いやり、彼の愛の深さにいたたまれなくなり、ただ「あなたは何もかもご存知です」と答えるしか無かった。

私達に出来る事は、私達の弱さ、愛の無さを、ただ主に知って頂く事だけである。
主は、私達が完全な愛を持っていない事は知っていて下さり、いつでも満たして余らせる事が出来る事を無言で示され、弱さに泣く私達を繊細な愛で溶かし、満たした上で、働きのために送り出して下さるのだ。

全てを満たして余らせて下さる主から、愛と慰めをいただき、潤され、愛で溢れ、その溢れた愛を持って世の中に出て行き、主の愛を伝える皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
Twitter
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2016/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

天声モバイルサイト!

検索
Copyright ©横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2010 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest