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病室の天使

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礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-4-19 23:10

病院へお見舞いに行きましたが、なんと同じ病室にクリスチャンの女性(しかも近くの教会の長老)がおられ、いのちの交わりが出来、御言葉の分かち合いが出来、共に祈る事が出来ました。

その方は15日に手術を受けられたのですが、その時与えられた御言葉は詩篇23編で、私が18日の手術の直前に宣言した御言葉と同じでした!

主のいのちが院内感染しますようにと祈った祈りに応えて下さり、敵の面前で宴会を設けて下さった主を褒め称えます!

手術中

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礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-4-18 23:50

実は今、昨日報告したの方の入っている病院から更新しています。

実は急遽手術する事となり、今まさに手術中です。

手術前、執刀医達も交えて祈ることが出来、敵の前でも宴を設ける事が出来ました。

全ての備えは主から来ますし、神のお許し無しには雀の一羽も、髪の毛一筋すら地に落ちることは無い。

術中も術後も一切が守られ、主の栄光へと用いられ、後の状態はさらに良いものとなりますように。

礼拝説教メッセージ音声:ペテロの報告(使徒11:1-18):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

異邦人も神の言葉を受け入れたという事がエルサレムの教会の耳に入り、ペテロはそこに帰って報告した。
ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりする事は、律法で禁じられているため、使徒ペテロといえども、当然その事を追求された。
ペテロとしても同胞達からの非難は予測したろうし、行動する前の段階から彼自身に躊躇があった。
だからこそ、事前に再三の幻が示されたわけである。

ペテロは教会にて、事の次第を順序正しく説明した。
まず、ヨッパの家で見た、あらゆる動物が入った入れ物が下りて来て、屠って食べなさいと言われる幻。
この幻で命じられた事も、ペテロ自身に多くの躊躇があったはずだが、ここで神が示されたのは、「神が清めたものを、あなたが不浄なものとしてはならない」という事。
そして幻を見た直後、カイサリヤから3人が来て、霊がすぐに「ためらわずに行きなさい」と指示をした。
このように、主があまりにリアルに、ヨッパという「現場」で働かれていたからこそ、ペテロも、彼に同行した6人の兄弟達も、ためらわずに異邦人の家に向かったのだ。

「ヨッパに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。」(13節)
「あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。」(14節)
ペテロの説明中、上記13節は確かにコルネリウスへ御使いから示されていたが、14節の内容はその時示されていなかったはずである。
その時点では、コルネリオスは14節の内容、すなわち、神の意図は分からなかったし、ペテロにしても自分が異邦人の家で救いの言葉を語るなど思っても見なかった事だろう。
その時は分からなくても、後になって、神の意図していた事が、関係者全員に分かったのである。
私達も、神様は何故このように導かれるのか分からなくても、その通り実行すると、神様があの時示されたのはこれこれの意味があったのか、と、後になって主の深遠なご計画が分かる事がある。

17節「私達に与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、私のような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」
あそこまで不思議な導きによってペテロとコルネリウスを引き合わせ、明確に聖霊まで与えてくださったのに、握り締めている自分の価値観に執着して、水のバプテスマを授けないなどというのは、神を妨げる行為なのである。
私たちも、培ってきた価値観や常識を超える道が示される事があるが、主が示して下さった道を行かないと、神を妨げる者となってしまうのである。

「会議室」にいる者達は、「現場」で起きている事を中々理解できないものである。
しかしエルサレムの教会の人達は、ペテロの報告を聞いて、なお自分の価値観に固執したり反抗したりする事はせず「神を褒め称えた」(18節)。
彼らは、主が秩序正しく導いておられる事を素直に受け入れ、神を褒め称えたからこそ、教会はますます発展して行ったのである。

聖霊が与えられ、神の示しが明確に与えられているなら、忠実に従うべきである。
主によく聞き、信頼し、忠実に従う皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

訪問祈祷

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礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
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pastor 2011-4-17 23:00

昨日は複数の方から、救急車で運ばれた聖徒のためにお祈りいただいたとのご連絡がありました。主にあって感謝します!

今日も礼拝後、その家を訪問して礼拝して祈ってきました。

ちょっと辛そうでしたが、御言葉を宣言して祈っているうちに熱くなっていき、汗をかいていました。

一人になっても、彼女の口で宣言した主イエスの癒しと守りがありますように。
 

礼拝説教メッセージ音声:救いの置き所(マタイ21:6-11)
第一礼拝(日本語)礼拝音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)メッセージのみ:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日4/17は、教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」にあたり、次週日曜日 のイースター(復活祭) 前日の土曜日までの1週間を「受難週(Passion Week)」 としている。
「しゅろの聖日」の名前の由来はイエス様がろばに乗ってエルサレムに入城された時、人々は各々の衣服や、しゅろの葉を置いて「ホサナ」と叫びつつ歓迎した事から呼ばれている。(マタイ21:6-11)
この日、群集は諸手を挙げてイエスを歓迎したのだが、その1週間後、彼らはこぞってイエスを「十字架につけろ」と叫び、つばをかけ、十字架を引き摺って歩くイエスを罵った。この落差は一体何だろうか??

ホサナ という言葉は、現代キリスト教では神を褒め称える礼典的な響きを持つ言葉となっているが、元々はヘブライ語で「ホシア・ナ」、これは「おお!救って下さい」という意味である。
群集の叫びの動機は、褒め称えるというより「救って下さい」のニュアンスが濃かったかもしれない。
人々はそれぞれの身勝手なメシヤ像を思い描き、ローマの支配から力強く救ってくれる者、パンをいつでも提供してくれる者、病気や悪霊を追い出してくれる者、といった幻想を、イエスに抱いていた。

人とは身勝手なもので、奇跡によってパンを増やしてくれると期待していたメシヤがパンをくれず、「わたしがまことのパンです」と言い出すと、皆去って行った。
清純派で売っていたアイドルが実は不純だったとスクープされるや、ファンが手の平を返し、こき下ろすように、力でローマを屈服してくれると期待していたメシヤが、だらしなくパリサイ人に乱暴され、ローマ兵に引きずり回されているのを見ると、群集は手の平返して、乱暴する側に回るのだ。
このように人々は、力強い救世主を求めるものの、その力が自分の願いを満たす方向性とは関係が無く、自分に罪があると示されたり、悔い改めを要求されると知ると、そのようなメシヤなぞいらない、となるのだ。

イエスの十字架の道は、人々の期待に応える道ではない。
人を愛する事と、人の期待に応える事は別物だし、人を救う事と人の期待に応える事もイコールではない。
人の期待に応える事、人の歓心を買う事で「支持者が増えた」「集会が盛り上がった」といった幻想を抱き、気がついたら御心とは全然違う方向へと振り回されて行った、というような過ちを、教会はしがちである。
十字架の道とは、自分の握り締めている期待、握り締めている自我を、十字架に磔にし、主の期待、主の御心に委ねる道だ。
自分の思い・意思・感情をホサナ(救いたまえ)と思う者は、それを失うが、主イエスのために自分の思い・意思・感情を失う者は、それを得るのである。(マタイ10:38、16:25)
主はゲツセマネで「私の思いではなく御心が成りますように」と祈られた。私たちもそれに習うべきである。
救いの源は、どこに置けば良いのか。黙示録に登場する、しゅろの葉を持った聖徒達からヒントを得たい。

「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」(黙示7:10)
救いとは、自分由来の何かを救う事ではなく、「私達の神と子羊を救いとする」事だ。
長老達は自分達の栄光の印である冠を御座の前に投げ出し、天使達も「賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように」と栄光を捧げ尽して、アーメンと平伏した。
この聖徒達の告白、長老達の態度、天使達の賛美こそ私たちが見習うべき姿勢である。
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙示7:14)
人々は好き勝手な「ホサナ(おお救いたまえ)」を叫び、「いちじくの葉」の進化形である好き勝手な衣服をイエスの敷物にしたが、私たちが纏うべきは、子羊の血で洗った白い衣である。
それがまことの「しゅろの日」であり、私たちが主を迎えるべき姿勢である。

子羊の血によって白くした衣を纏い、勝利のしゅろの葉を持って、イエスを迎える皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:祭司の任命(ヘブル5:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

祭司とは、神の前に立つことがらについて任命を受けた者である。(ヘブル5:1)
それは神の側から選び出された者であり、誰もが好き勝手になれるものではない。
4節「この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。」

ちなみに私は、この御言葉がパスターになるきっかけの御言葉だった。
社会人として働いていた時、バイブルカレッジの通信講座を受けていたものの、それは牧師になるためでなく、御言葉を掘れば掘るほど宝がざくざく出てきて、それが楽しくて仕方なかったからだ。
元々牧師になるような性格ではなく、牧師達のしていることを見ると、とんでもない、あんな事出来っこないと思い、働きながら主に仕えて行くものと信じて疑いもしなかったある日、ある預言の賜物を持った姉妹と出会った。
彼女と話しているうちに、なぜ牧師にならないの?と言われ、しかも、牧師にならなければ災いだとまで言われた。
私は理系人間なので、論理的根拠も無く断定される事にカチンと来て、暫くの間彼女とケンカになったものの、心の中には引っかかるものがあった。
そして天声教会で御言葉の奉仕をしていくうちに、心に引っかかっていたものは次第に燃え立たされて行き、
ある日、電車の中で「もし私がその務めに相応しいのであれば、はっきり分かる形で示して下さい。」と祈った。
その時、たまたま聖書を開いていたのだが、祈り終わった直後聖書に目を注いだその箇所が、ちょうどこのヘブル5:4だった。
私はとても驚いた。なにしろ、祈って一秒後に答えが示されたのだから。
その栄誉ある勤めは誰も自分で得るのではなく、神に召され、頂く物。
自分の何かではなく、神様が任命し召されるのだから、その勤めに与れるのだと知り、心がラクになった。
その言葉に促され、結構な覚悟はあったものの世の仕事を辞め、御言葉の勤めに与るようになった次第である。

神が任命されたまことの祭司イエス様を不服とする者達は、どうなるのだろうか。
モーセの時代も、コラと仲間達が、神様に任命された祭司に逆らった。(民数記16章1-5)
コラと仲間達の言い分は、イスラエル共同体全体が聖なるもので、主がその中におられるというのに、なぜお前達(モーセとアロン)は上に立とうとするのか、
あなたも私も聖なるもの、だったら俺達も祭司になって良いのでは、というものである。
モーセやアロンは好きで民の指導者や祭司になったのではなく、むしろ元々嫌々だった所を、主から召されたのである。

コラ達にとっては、エジプトのような所、すなわち色々な産物や世的な享楽に満ちている所が、彼らの「約束の土地」観であった。(民数記16:13)
つまり自分勝手に約束の土地のビジョンを思い描き、モーセとアロンは我々の思い描いたとおり動かない、だから反逆しよう、という考えであり、
自分の考え・自分のやりたい事を「神から示された事」として、祭司職を自己実現の道具として好き勝手したいのである。

結局彼らの立っていた地面の下が裂けて、家族もろとも大地に飲み込まれ、生きたまま黄泉に落とされる事となった。
自分勝手に聖なる職務に就きたいと願って、自分を指導者、神の立場に立ちたいとする者には、誰もが「天罰」と分かる恐ろしい裁きが襲うのである。

この時代、自称「祭司」が多く起こされ、キリストを通さなくても誰でも天国だとか、神は間から地獄なぞ無いとか、聖書の御言葉から人々を引き離し、人々に耳障りの良い事を神の言葉として惑わしている。
私達はそのようなニセ祭司、ニセ預言者達に対しては、コラとその仲間のように、誰もが「天罰」と分かる恐ろしい裁きが襲うよう、願うべきである。
それは決して行き過ぎではない。
主は「この小さなもののうち一人でも躓かせる者は、ろばの引く石臼に結わえられて海に投げ込まれるほうがましだ」と言われた。
人は自分勝手に、神の祭司、支配の座を分捕って指導者になるべきではない。
神の立てたまことの指導者、すなわちキリストに従うべきである。

神様の立てたこの指導者であるイエス様に、ますます繋がって付いて行く皆さんでありますように。
終わりの時代に出てきた、間違った指導者に付いて行く事が無いように。
イエス様の名前によって祝福します!

今日は急病の信徒の家に行き、癒しのために祈り、救急車に便乗して病院へ同伴し、診ていただいた後タクシーで帰ってきました。

回復のためにお祈りいただければ幸いです。

礼拝説教メッセージ音声:隔ての壁を打ち壊すお方(使徒10:44-48):右クリックで保存
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異邦人が聖霊を受けると、ユダヤ人たちは非常に驚いた。
聖霊は神の民ユダヤ人にしか与えられないという固定概念があったからである。
しかし神の最終的な御心は、ユダヤ人も異邦人も、人類全体が救いに至る事である。

律法ではユダヤ人は異邦人と一線を画すよう促されている。
しかし異邦人には、主の名を愛し、仕え、教えを守るなばら、神に受け入れられるという預言がある。(イザヤ56:1-7)
コルネリウスに関しては祈りと施しを忠実に為し、まさにイザヤ56章の言葉を守っていたため、主は異邦人という区別をされず、御言葉どおり省みて下さったのである。

ユダヤ人と異邦人という二つの隔ての壁を打ち壊すお方が、イエスキリストである。
異邦人は、割礼を受けている人々からは無割礼の者と呼ばれ、神から遠く離れているとされていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となった。(エペソ2:11-13)
そしてキリストは、ユダヤ人と異邦人の敵意の壁を打ち壊し、平和をもたらし、双方を一つの新しい人、すなわちキリストの花嫁として造り上げた。(14-16節)
もはや外国人や寄留者ではなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、かなめ石キリストにおいて聖なる神殿として建て上げられ、聖霊によって神の住まいとなるのである。(19-22節)

それ故、異邦人がペテロの御言葉を信仰を持って聞いた時、聖霊が与えられたのであり、キリストにあって異邦人もユダヤ人も何の隔ても無いのである。
異邦の習慣により男性器が切り取られてしまった宦官であったとしても、そうである。(使徒8:26-40)
「なぜなら、主はこう言われる、宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら
わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」(イザヤ56:4,5)
例え心や体に、主の嫌われる異邦の習慣による印や、異教的な儀式による印を受けてしまっていたとしても、悔い改めてイエスを主とするなら救われるのだ。
イエスこそ、全ての肉体的・霊的束縛を解き放つ主である。

コルネリウス他、異邦人に聖霊が下ったのは、ペテロがイエスキリストを語り始めたからである。
「イエスのあかしは預言の霊」であると御使いは言う。(黙示録19:10)
預言など聖霊のしるしについてはキリスト教会で色々と議論されているが、異言よりも、預言よりも、その大元である「イエスのあかし」が大切である。
イエスを心で信じて受け入れるなら救われ、義とされ、賜物(贈り物)として聖霊が与えられるのだ。

以前は邪悪な者であった私達は、驚くばかりの恵みによって救われた。
その恵みをいつも感謝し、喜び、聖霊によって守られる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

最近はメッセージを聞きながら忠実にテキスト起こしをしていたため、文書が冗長になってしまう節があり、また私自身も負担となって配信までの時間が長くなってしまうきらいもありました。

これからはなるべく簡潔に、要点をまとめるよう努めています。

そのように出来るよう、お祈りいただければ幸いです。

礼拝説教メッセージ音声:証人としての当事者(使徒10:34-43):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

コルネリウスが
「今私たちは皆神の御前に出て、主があなたに命じられたことを一つ残らずうかがおうとしているのです」(33節)
と言ってペテロに託された言葉を待ち望み、ペテロが口を開いて伝えたのは、イエスキリストが救い主である事だった。
神が御使いを通じ、コルネリオスにもペテロにも奇跡的かつ的確な方法で出会わせたのは、イエスへと導くためである。
福音を伝えたい者と、救いを切望している者とは、この二人のように奇跡的な方法で、細やかで的確なお膳立てして下さるのだ。

ペテロが伝えたのは真っ先にイエスの事である。
コルネリオスはこのイエスについて、相反する2つの噂、すなわち良い噂と悪い噂とを聞いていたであろう。
ところが、熱心に神に使えていたコルネリオスに御使いを通して指示されたのは「ペテロと会って話を聞く事」であり、ペテロが伝えたのは、イエスこそメシヤであるという事である。
神は、もろもろの規定や割礼を伝えるためにペテロを召したのではないし、コルネリオスと出会うための細やかなお膳立てをしたのも、祭司長や律法学者の教えを伝えるためではない。
実に、イエスというお方を伝えるためである。

ペテロはイエスの「証人」であると自称している(39〜42節)し、43節では、預言者もそのように証言している、と証している。
事実、旧約聖書すなわちモーセの律法と、預言者たちと、詩篇に書かれてある事とは、イエスについて証している。(ルカ24:44〜49)
イエスがペテロなど弟子達に解き明かされたのは、天使からの新しい徴ではなく、御言葉であった。
神はなぜ、私たち一人ひとりを召されたか。
それは、御言葉と聖霊を元に、イエスの証人とするためである。

御使いがコルネリオスに使わされた時、御使いは一言も「イエス」「キリスト」の言葉を出さず、単に、海沿いの皮なめしシモンの家を訪ね、シモンペテロから話を聞くようにと、指導しただけだった。

神はなぜ、御使いの口から直接イエスを伝えないのだろう。
御使いを通じてダイレクトにキリストを宣教するほうが誤解や間違いもなく伝わるだろうし、人々は恐れて確かに信じる、と思われるかもしれない。
しかし神は、イエスと出会った私たちに、イエスが主である事の証言者としての役割をお委ねになったのである。
他の誰でもない。御使いでもない。私たち一人ひとりが、当事者である。

あの人に福音を示すために、御使いを遣わして下さい、不思議な夢や幻をあの人に見させてください、では、ない。
今日の箇所からすれば、たといその人の夢に御使いが現れるにしても、**の所に行って話を聞け、と示すのではなかろうか。

だから私たち自身、いつでもイエスを伝える準備をしているべきである。
準備が出来ているなら、主はいつでもお膳立てし、福音を必要としている人の所に遣わして下さるだろう。

主からお膳立てされるほど豊かに用いられる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

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