第一コリントの最後で、パウロは非常に簡潔な勧めを書いております。
すなわち、目を覚ましている事、かたく信仰に立つ事、そして男らしく強くあるという事。
そして、それらを愛をもって行いなさい、という事です。(13,14節)
このコリントという町は道徳的に退廃しており、偶像崇拝の盛んな街ですから、色々と目を奪う物も多くあり、誘惑も多いからですが、何より大切なのは、全てを愛をもって行いなさい、という事です。
愛がなくては、どんな信仰も、身を捧げるような献身も、意味がありません。
13章でも愛は全ての賜物より優れている事を語っておりますし、愛は結びの帯として完全である事をコロサイ3:14でも語っております。
15節に登場するステファナは、アカヤ地方の初穂で、聖徒たちのために熱心に奉仕をしてくださいました。
16節で「どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。」と勧めておりますが、ステファナは最初に救われて信仰暦が長い、だから服従しなさい、という事ではなく、聖徒たちのために熱心に奉仕をしているから、そのような人に服従しなさい、という事です。
主と聖徒達のために労をし、多くを捧げておられる聖徒達を、私達もねぎらい、尊敬し、助るべきです。
「すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。」(20節)
当時、聖徒達の挨拶として、口づけをする習慣が、ありました。
しかしいつしか、聖職者の階級づけがなされればなされるほど、このような親密な挨拶はどんどん縁遠くなって行きました。
現代日本を生きる私達は、口付けはしないにしても、聖徒たちの間の交わりにおいて、親密さを忘れないようにしたいと思います。
21節以降は、パウロが直筆で手紙を書いております。
パウロが真っ先に書いた事は、22節「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。」です。
極めてストレートに、きつい事を言っているかのように見えます。
しかし主が、私達をどんなに良くして下さったか、主がどんな思いで私達を愛して下さったのかを、知れば知るほど、その主を愛さないような者は、呪われるが良い、と思うものです。
22節の「愛」という言葉は、アガペーの完全な愛ではなく、フィレオの親密で親しい愛です。
主は私達を、命を捨ててまで愛して下さいました。
その主を、完全な愛ではないにしても、親う感情すら無い者は、誰でも呪われよ、と、パウロは極めて正直な告白をしているわけです。
主を愛する人達には大きな祝福がありますが、主から離れる者には呪いが待っているという法則を、パウロは誰よりも知っていました。
たとい厳しい口調で嫌われてしまったとしても、たといその人が呪われる事になっても、最終的に主に立ち返るのであれば、その一時的な呪いは、永遠の祝福に変わるのです。
第一コリントの最後は、主イエスにあって大きな愛でコリントの人達を愛している、という、パウロの愛の告白によって、手紙は終わります。
パウロは一貫して、この、本当にどうしようもないようなコリントの人達を、愛していたのです。
結局、私達はキリストイエスにあって、愛するしかありません。
パウロは時にはきつく、時には優しく語りましたが、愛とはそのように、真剣なものです。
第2コリントの手紙を見ると、コリントの人たちの中には悔い改めた者もいましたが、相変わらず悔い改めない者もおりました。
福音を伝える事において、ある人からは多くの喜びと実を得ますが、別の人からは落胆と失望ばかり受けてしまうような事も、ありえる事です。
それでも、キリストイエスにあって落胆せずに、いのちの働きをし続けるしかありません。
いつも落胆せずに、忍耐を持って主の働きをする皆さんでありますように。
イエス。キリストの御名によって、祝福いたします。
アーメン。
いよいよ第一コリント最終章に入り、パウロはこれからの予定と、諸々の指示を書いております。
「わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。」(2節)
募金を用意しておくようにと促しておりますが、この時点でエルサレムに経済的な困難が生じていたからです。
コリント人にとっては、エルサレムという地は海の向こうの遠い国かもしれませんが、そこにいる聖徒達は、同じ主イエスキリストにある尊い兄弟姉妹である事には変わりありません。
パウロはこの指示の直前に、死者の復活や、また、その死を乗り越えられた、主イエスキリストの話をしておりました。
死者の復活や永遠は、日常生活を営む上ではあまり実感が湧きませんが、永遠の視点から今置かれている状況を見ると、日常の一日一日が非常に大切だと、昨日も学んだ通りです。
天の御国においては、もはや何の不足も、貧しさも、病や死も、ありません。
だからこそ、兄弟姉妹のために献金したり、援助したり、という尊い奉仕は、今、この地上においてしか、することができないのです。
5節以降にパウロはこれからの予定を述べておりますが、「主がお許しになるなら」という条件付きです。
パウロの伝道旅行は全て、主の導かれるままでした。
第二次伝道旅行の時、アジア州を伝道して回ろうとしても、あっちに行っては聖霊に阻まれ、こっちに行ってはイエスの霊がそれを許さなかったりして、自分達の望んだとおりの働きが出来ず、さんざん1000km以上もさ迷って後、やっと次の伝道地であるマケドニアが示された、という事がありました。
主の働きは、人の願いやビジョンによってではなく、主の御心に従って動くものです。
働きの門は、大いに開いてるように見えるけれども、ある日突然、反対者によって強制的に別の地に行かなくてはならなかった、という事を、パウロは何度も経験しているのです。
私達も、明日はどうなるか分かりませんし、願い通りに行かないかもしれません。
しかし、主の御心はこれだ、と示されたのであれば、私の側の願いは降ろし、主の御心を選択しなくてはなりません。
どうか、いつでも主の御心に従える準備をし、主の忠実な僕として、御業を建て上げていく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって、祝福いたします。
アーメン。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(54,55節)
今日の箇所は、葬儀の時によく開かれる箇所です。
私たちが身にまとっているこの血肉の体は、朽ちていくものであり、神の国を相続できるものではありません。
朽ちるものは必ず、朽ちないものを着なければなりません。
キリスト者にとっての死は、朽ちてゆく肉体の命が終わり、永遠に朽ちない体が着せられる時まで、眠りにつくものです。
ですからキリスト者にとって、死は忌むべき敗北に終わるものではなく、勝利と復活の希望が持てるものです。
第一の人、アダムから脈々と続く人類の子孫は、呪いの内にあり、罪と死に支配される人生でした。
人は、死から逃れるため、食料を得、病と闘い、時には他人を蹴落としつつ、日々労苦して「死」から逃れる作業をしております。
イエス様はそんな人の有様を救うために、第二のアダムとして来られ、死に勝利する者の先駆けとして、ご自身のからだを人類の罪の身代わりとして死に明け渡し、三日目によみがえり、死に対して勝利されました。
世は、死によって支配されておりますが、しかし、主イエスの愛の命が洪水のように押し寄せて、圧倒的に死を飲み込んでしまい、全てに勝利するのです。
キリストにあって後の世に移された時、もはや死も、涙も、苦労する事も、一切なくなります。
だからこそ今、もしキリストにあって苦労をしているのであれば、それは、永遠に朽ちることの無い栄誉を勝ち取るチャンスであり、またとなく尊い体験をしているわけです。
この人生でさえ、昔を思い起こしてみて、苦労したり涙したりした日々を思いかえすならば、それは良い思い出であり、また、誇りなのではないでしょうか。
なぜなら、そこを通ったからこそ、今の、より成長した、より誇りの持てる自分がいるからです。
ですから今、もしキリストにあって、悲しんだり、悩んだり、貧しかったり、蔑まれたりしているのであれば、幸いです。
永遠に残る栄誉、すなわち、キリストにある苦労の思い出づくりは、今しか出来ないからです。
今、キリストにあって、貧しく、弱く、罵られたり、苦労に満ちているのであれば、それを誇りに思ってください。
今生かされている命を、大切に生き、キリストのため神の国のために大いに働き、永久に朽ちない栄誉を勝ち取る皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。
ある人の家が、火事になってしまったとします。
その家の主人が奥さんに、私はこの家の焼けてしまった灰と炭を利用して、前よりさらに優れた家を作ろう、と言うとしたら、愚かに思うのではないでしょうか。
家が焼けて灰になったなら、全く新しい素材で家を建てるのが当然なように、復活とは、今までの肉体の延長ではありませんし、この体は一度死んで滅びなくては、栄光に満ちた体は与えられません。
私達の体は、植物の種粒のようなもので、種粒は土に蒔かれて死ぬ事がなければ、新しい命を息吹いて成長する事はできないように、私達も、一度死んでこのからだが破壊されなければ、復活の体は与えられません。
成長した植物が、その種より遥かに素晴らしいように、復活の体は、現在私達が持っている体よりも、遥かに素晴らしいものです。
生まれながらの人間は、アダムに似たものです。
アダムは土で作られ、罪を犯し、汗水流して働かなくては生きていけず、いずれ死んでしまうのと全く同じように、私たちの肉体の構成成分は土と同じですし、罪を犯しますし、汗水流して働かなくてはなりませんし、いずれは死んでしまいます。
しかし、最後のアダム(キリスト)は命を与える霊となった、とある通り、キリストに繋がるなら、このお方に似る者となるのです。
キリストは罪がないように、私達も罪なき者に似ていきますし、彼は死ぬ事がないように、私達も死ぬ事がなくなりますし、彼が栄光に満ちているように、私達も栄光に満ちていくようになります。
もし科学が発達して、死ぬことが出来ない体になったとしたら、第二のアダムが現れたのを見た時、死ぬ事が出来ない人は、きっとそれを後悔するでしょう。
なぜなら、一度死んで復活したキリストに似た栄光の体は、今私達が生きている肉体の体より、はるかに優れたものだからです。
復活の体は、今生きている世界一美しい人よりも遥かに優れた栄光を持ち、また、どんなに鍛え上げられたアスリートよりも、遥かに優れた特性を持っているからです。(41-43節)
私達の体が日々衰えるとしても、主にあって希望があります。
やがて過ごす永遠の視点から今を考えれば、この地上をいかに過ごすかという事を、もっと大切に思う事でしょう。
この地上において、肉に蒔くなら滅びを刈り取り、霊に蒔くならいのちを刈り取ります。
畑で収穫を得たい人は、望む収穫物の種を蒔くように、私達も天で栄光の体を受けたいなら、地上では霊に蒔き続ければ良いのです。
どうか日々、御霊に蒔く者となり、かの日には、より優れた栄光ある体を獲得する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。
サドカイ派は、当時の特権階級から成る人達で、現世的な地位や富、快楽などを追求し、復活は無いと言っている人たちです。
イエス様は、「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と、サドカイ派の人たちに迫りました。(マタイ22:32)
神についての正しくない知識を持つ事は、神について何も知らないよりも、はるかに悪い事です。
死者の復活がないといった正しくない知識は、正常な信仰を混乱させます。
この世の利得や栄えが好きな人たちは、復活を否定するもので、「明日は死ぬのだ、さあ飲み食いしようではないか」という価値観によって、無意味な人生を生きてしまう事になります。
そのような人たちを友人として常に交わっていると、現世的な価値観が染み付いてしまい、キリスト者としての品性や良い習慣が損なわれてしまいます。(33節)
キリストに仕え復活を望みつつ送る人生は、「明日は死ぬのだから飲み食いしようではないか」と言っている人たちの人生よりも、遥かに良く充実した人生です。
キリストは、死を乗り越え、死に勝利しました。
もしキリストのよみがえりが無いならば、使徒達のあのようなダイナミックな変化は、説明がつきません。
パウロもキリストを信じたゆえに、毎日が死の連続だと言っておりますが(31節)、殉教を目前に控えた時、私は勇敢に闘い、走るべき道のりを走り終えた、あとは義の栄冠が待っているだけだ、と告白し、誰よりも誇り高く、充実した人生を送った事を思い返しております。(2テモテ4章)
「だれが、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。私たちは、キリストの故に一日中死に定められているかのようですが、それら全ての中において、圧倒的な勝利者となっているのです。」(ローマ8:35-39)
死に勝利された主、イエス様の愛から、私達を引き離すものは、何もありません。
私達は永遠の誉れある役目へと、任じられました。
どうか、その聖なる勤めにふさわしい働き人として、今日も一日を歩む皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
万物はすべて、権威構造によって成り立っております。
例えば、犯罪人を逮捕する権威を得るためには、警察に属さなくてはならず、警察で高い地位につくためには、その警察の権威に服従し続けていなくてはならず、そして、従順に服従し続けていけば、巡査部長、署長というようにより権威が増し加えられ、より大きな事が任されるようになっていきます。
同じように、神に属する者となって、神の権威に服従すればするほど大きな権威を帯びるようになり、多くのものが任せられるようになっていきます。
天地を創られた神の権威に、最も服従されたお方がキリストで、彼は従順によって全ての権威が与えられました。
対してサタンは、上に立つ権威をあざけり逆らったため地に投げ落とされ、やがて永遠の滅びに渡されてしまいます。
キリストは十字架の死に至るまで忠実に御父に従われ、身をもって私たちに、服従の見本を示して下さいました。
そして「キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。」(24節)
その支配は、全ての敵をその足の下に置くまで、と定められており、全ての敵がその足の下置かれた時、キリストは全ての権威を御父に引き渡され、そして父なる神は、全てにおいて、全てとなられるのです。(28節)
神の権威に従うか従わないかによって、永遠の生死が分かれ、永遠の祝福と呪いが分かれてしまいます。
そもそも人類に死が入ったのもの、一人の人、アダムの不従順を通してでした。
しかし第2のアダム、イエスキリストお一人の従順を通して、人類に死からの解放がもたらされたのです。(ローマ5:17-19)
一つの違反によって、全ての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によって、全ての人が義と認められて、命を与えられるのです。
恵みの場合は違反と違い、一つの義の行為によって多くの違反が義と認められるわけです。
アダムの子孫である私たちは、具体的にアダムのような違反はしませんでしたが、私達がまだアダムの腰の中にいた時、アダムと一緒に違反を犯したことになり、そうして私達の内に権威に逆らう遺伝子が組み込まれてしまったのです。
しかし、神である主は私達を救うために、信仰によって義とされる法則を私達に示して下さいました。
どうすれば、その法則が自分に適用されるのでしょうか。
それは、信仰の法則に従う事によって、すなわち、キリストを信じれば救われるという、実にシンプルな決まりごとを、単純に信じて守り行う事によって、です。
この救いの法則に従順になれば、いのちの御霊の法則によって支配され、もはや罪と死の法則からは解放されるのです。(ローマ8:1-2)
最後の敵である死も、滅ぼされます。(26節)
この世界はエントロピー増大の法則に、すなわち、物事はより無秩序の方向へ、より死の方向へと向かっていく法則に縛られております。
この世で唯一「いのち」だけが、その法則に逆らうものですが、秩序の神であり、いのちの神であられるお方は、その最後の敵である死も滅ぼされ、全てはいのちに飲み込まれるようになるのです。
ますます忠実に権威に従い、更に多くを任せられる皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。
もしイエス様が、よみがえられなかったとしたら・・・。
イエス様を見殺しにしてしまった弟子たちは、イエス様が葬られて3日目、勇気を振り絞って、閉じこもっていた部屋から出てきて、墓を守る兵士達を何らかの手段で気絶させ、頑強な封印を解いて重い石をころがし、イエス様の遺体を盗み出して秘密の場所に持って行き、そして至る所で「イエス様は蘇った」と流言した、のでしょうか。
また、ペテロやヨハネ他、数人の弟子達は、昔の職業である漁師に一旦戻ったものの、モチベーションを喚起させて再び宣教者に戻り、
「美しの門」の物乞いを買収し、「生まれつきの足萎えだったけれども、十字架につけられたイエスの名によって癒された」と吹聴させ、
そうこうしているうちに逮捕され、大祭司一族や議員などの有力者達が大勢いる前に連れて行かされ、
そうなっても威厳を取り繕い、「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によって」彼は癒された、と、有力者達も驚くほどの大胆さと、誰も言い返せないほどの知恵で、既に死んで腐臭を発しているイエスを、あたかも生きているかのように、推し出した。というのでしょうか。
果たして、みすみす見殺しにしたような弟子達が、既に死んでしまった師匠を「よみがえった」と言って、命がけで吹聴するメリットは、一体どこにあるというのでしょうか。
あらゆる反対者にとって残念な事に、キリストは実際に復活し、多くの人に現れて下さったいました。
だからこそ、三度もイエス様を知らないといったあのペテロさえ、そこまで大胆に造り変えられ、漁師の網を完全に捨てて人間をとる漁師へと戻ったのです。
父の御許に戻られ、約束の助け主を与えて下さったからこそ、彼らは逮捕されても、大勢の権力者達の前で堂々と、イエス・キリストは死者の中からよみがえられた、と語る事ができたのです。
イエス様が蘇られて、その莫大なる復活の力を体験した人たちは、実際に大勢おりました。
だからこそ、ユダヤ教のナザレ派という、漁師や取税人、遊女といった社会的弱者から構成される、まとまりがなく、お金も知恵も力もない弱小集団が、世界に冠たるローマ帝国を席巻し、後には帝国そのものをキリスト教国にしてしまったのです。
それなのにコリントのある人達は、死者の復活は無い、と言っていたようでした。(12節)
確かに「死者の復活」は、良識ある人間には、ばかげた事、大真面目に主張すれば、気が違っていると思われても、仕方のない事です。
高等教育を受けたパウロですから、そんな事は百も承知でした。
しかしそれでも彼は、愚直なまでに、アテネの公議会でも、フェストやアグリッパ王の前でも、死者の復活を大真面目に宣べ伝えたのです。
使徒行伝26章、23節から29節までを見ますと、一見、パウロが王や高官たちの前で宣教している場面のように見えますが、前後を読んでみますと、なんとこの場面は、彼が捕縛されている理由を王が問い正すため、彼に申し開きをするよう命じ、パウロはその許しを得て申し開きをしている、という場面です。
弁明次第では保釈されるし、一歩間違えれば、死刑にされるかもしれない、という場面で、なんと、キリストの事と、死者の復活がある事を、大胆に伝えたのでした。
フェストは、パウロが死者の復活を述べた時、気が狂っているぞ、と言いましたが、このような反応は当然でしょう。
世の中人にとって、死者の復活を伝えれば当然、フェストやアテネの住人のような反応は、目に見えています。
そのような先回の心配をして、愛や赦しといった人受けする事だけ語って、人に受け入れ難い死者の復活や死後の裁きを語らない教会も、世の中にはあります。
しかし、パウロは愚直なまでに十字架の福音や、死者の復活を語り、結果、多くの人が救われ、力に満ちた伝道となりました。
イエスを信じた者は罪赦され、死者はよみがえるのです。
天国があるように地獄もあり、死後の裁きも、確かにあるのです。
御言葉はそのまま伝えるべきで、人間の小さな考え方によって、隠したり操作すべきではないのです。
キリストは確かによみがえられ、今、天の御座に座しておられます。
その天の御座から、私達のために、とりなしの祈りをしておられるのです。
どうか、この復活のキリストの偉大な力にあずかり、このお方を大胆に、まっすぐに宣べ伝える皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
福音、すなわちエヴァンゲリオンとは、勝利の喜ばしい知らせという意味で、その勝利は、死からの勝利であり、罪からの勝利であり、もろもろ私たちを縛っている呪いからの勝利です。
15章では、この最も大切な事として、死者の復活の事を、コリントの人達に伝えております。
おそらく歴史上、死から蘇生した人は大勢いるでしょうが、イエス様の死と復活は、それとは根本的に違う性質のものです。
人が死ぬのは、単にその人の生きるべき分が尽きたからに過ぎず、たとい死から蘇生したとしても、必ず、また死にます。
イエス様が死なれたのは、「聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ」のです。(3節)
そして、葬られ、全能なる神の御力によって、三日後に蘇られました。
「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」(詩篇16:10)
主は「死そのもの」に勝利され、今も後も、永遠に生きておられます。
そして彼を救い主として信じて、彼につづく者は、罪が赦され、義とされ、永遠のいのちをいただけるのです。
主がよみがえられた事の証人は、大勢います。
ケパに現れ、12弟子に現れ、500人以上の兄弟たちに同時に現れました。
パウロがコリント人への手紙を書いた時点でも、そのキリストを見たという証人たちが大勢生き残っておりました。
これだけ、多くの生き証人がいるわけですから、キリストは紛れもなく、肉体をもってよみがえられたのです。
そしてキリストは、最後にパウロにも現れてくださいました。
パウロがまだキリストに出会っていなかった時、神に仕えるという名目の元、多くの聖徒達を牢にぶち込んだり、死刑に立ち会ったりして来ましたが、彼のように、本来使徒になるべきでない者が、使徒にされたのは、真に、神の恵みによるものです。
イエス様は、多くの罪を赦された者は多く愛する、と言われましたが、パウロは多く赦されましたので、彼は他の全ての使徒たちよりも、より多く働きました。
「しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(15:10)
パウロは確かに、他の人達に比べて多く働きましたが、それ自体は他の人に誇ることはできませんでした。
なぜならそれは、彼自ら出たことではなく、神からの一方的な恵みによるものだからです。
パウロ自身、石打ちや鞭打ちなどの迫害に遭う度に、自分のしてきたことを思い出したでしょう。
他の人達では耐えられないような鞭打ちや石打ちを、パウロが耐えることが出来たのは、主からいただいてきた恵みを、思い起こしたからです。
皆さんの中にも、自分はキリストの弟子たりえない、つまらない者だと思っている人がいるでしょうか。
自分の犯して来た罪に、穢れにまみれてしまった自分に、思い悩む人もいるかもしれませんが、キリストが赦す事の出来ない罪は無く、除けない穢れはありません。
なぜならキリストの救いの方法は、死と復活だからです。
古い自分は、一度死に、復活して新しく生きなおせる、という救いの方法です。
そして、多くを赦された者は、より多く愛するのです。
もはや、以前の古い自分は、十字架の向こう側へと、逝きました。
これからは、新しい、キリストと共なる命を、生きることができるのです。
どうか、復活の領域にあって、キリストのための働きをする皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって、祝福いたします。
アーメン。
「あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。」(26節)
当時の賛美は、詩篇の歌の他、即興で神様から詩とメロディーが与えられる霊的な賛美もしていたそうです。
ダビデは賛美によって悪い霊を去らせたように、賛美は霊的なものです。
賛美によって霊が活性化され、教えが与えられ、隠されていることが明らかにされ、異言や解き明かしが与えられ、そうして集会全体が互いに徳を高めあって行った事でしょう。
パウロがこの章で勧めているように、異言を話す時は順番に行い、そして同時に解き明かしもするべきで、もし解き明かしできる者がいなければ黙っているよう勧めております。(27節)
また、預言する際も二人か三人が語り、他の者が吟味する事を勧めております。(29節)
私達の神は、無秩序の神ではなく、平和の神であり、暗闇に「光よあれ」と言って混沌に秩序をもたらされたお方です(33節)。
預言をする者、異言を話す者に与えられた御霊は、それぞれ、賜物を与えられた者に服従する霊であり、霊がその人を支配して止められないような事はありません。
また、礼拝は一人で捧げるべきものではなく、賜物を持った兄弟姉妹が互いにフォローし合いつつ行うべきであり、そして秩序正しく平和であるべき事が分かります。
預言の言葉はそのまま鵜呑みにするのではなく、その内容を吟味しなさいと、書いてあります。(29節)
預言など、与えられている賜物の霊を吟味するには、どうすれば良いでしょうか。
まず、私達に与えられている御霊は、イエスキリストを証し、栄光化する霊です。(ヨハネ15:26)
また黙示録において、御使いがヨハネに黙示を与えた時、ヨハネは御使いを拝もうとしましたが、御使いは「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」と言いました。(黙示録19章10節)
「イエスの証しは預言の霊」と言われている通り、預言の霊は、イエスを証するものです。
御使いも私達も、同じ主イエス・キリストに仕える「僕」である事をわきまえるべきで、主にではなく自分に栄光を返す事など、もっての他です。
33節の後半から35節では、婦人たちは教会において秩序を守るよう、再び勧めております。
パウロは34節で、教会では妻たちは黙っているように、何か聞きたい事があるなら家で夫に聞きなさい、と命じていますが、果たしてパウロは、女性が教会で語る事を、一切禁じているのでしょうか?
他の箇所では、婦人達が祈ったり、預言したりする時は、かぶりものをするようにと勧ていますので、女性達が預言したり祈ったりする事は、禁じてはおりません。(11章5節)
という事は、礼拝という場においては、祈りや預言など、御霊に由来する事は、女性もどんどん為すべきだけれども、肉的な詮索やおしゃべりなどは慎むべきだ、という事ではないでしょうか。
当時のそのような礼拝中の質問やおしゃべりは女性に多かったようですが、それは当然、男性も慎むべき事です。
そして、御霊による賛美や教え、祈りや預言は、ますます為すべきです。
異言にしても預言にしても、婦人が活躍する事にしても、神から出たものであれば当然、秩序があるはずであり、全て与えられた賜物は、同じ主に由来するものです。
もし、教会の秩序を乱したり、あるいはイエスを証するのではなく人間にだけ栄光を与えるようなものは、その根拠を問いただすべきです。
「こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。」(39節)
すべての賜物を教会の徳を高めるため、秩序正しく適切に用いる皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
パウロが再三、異言について注意を与えている所を見ますと、コリントの教会では、異言に何か華々しさやステータスのようなものを感じていたのでしょう。
異言を語る人は、霊が何かを言わせているようだけれど、何を言っているかは分からない。
何だか良く分からないけれど、とにかくすごい事が起きているぞ、と。
しかし、もし初心の方が教会に来てみて、列席者が全員、意味の分からない他国の言葉や御使いの言葉で一斉に祈っているのを見たなら、当然、彼らが気が変になっていると見なしてしまいます。
パウロは20節で、ものの考え方において子供であってはならない、と戒めていますが、コリントの人たちは、一般人に自分達がどう写るかも考えられない程、考え方において子供だったのです。
異言とは、信じる者のためのしるしではなく、信じていない者のためのしるしです。(22節)
パウロはそれを説明するために、21節でイザヤの御言葉を引用しています。
その引用元、イザヤの28章の11節から13節までを見てください。
「確かに、主はどもる唇と異国の言葉で、この民に語られる。主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。しかし、彼らは聞こうとはしなかった。」
イザヤの時代、イスラエルが不従順で頑なになった時、主は、異国人(アッシリア)を使って、主に立ち返るようにされました。
しかし残念ながら、イスラエルの民は異国の唇をもってしても、頑なな心をさらに頑なにし、不信仰をさらに不信仰にして、悔い改めることをしなかったため、彼らは預言どおり、後ろざまに倒れることになってしまいました。
イザヤ書においては、この「異国の言葉」すなわちアッシリヤが、イスラエルの不信者たちへのしるしとなったわけです。
心頑なな人には、たとえ同国語のわかる言葉で説明したとしても、その人の心には届かず、結局、外国のよくわからない言葉と同じになってしまうのです。
イエス様も、パリサイ人や律法学者の人たちにたとえ話をするのですが、彼らはたとえ話を理解せず、せっかくイエス様が話した言葉も、異国の言葉になってしまったわけです。
彼らには霊的な耳がないため、真理を聞いても悟る事はできませんが、弟子たちは幸いなことに、イエス様から解き明かしを聞く事ができます。(マタイ13:10-17)
このように、異言は、信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。
そのため、コリントの人たちが朗々と自慢げに異言を語っているのは意味が無いと、パウロは言っているわけです。
異言は、神に話し本人自身の徳を高めるため、一人で行う分には大いに結構ですが、イエス様が弟子達にたとえを解き明かしたように、解き明かしの出来る人がそこにいなければ、他の人には無意味です。
教会では、秩序正しく異言や預言や解き明かしがなされるべきです。
どうか、秩序をもって礼拝を守り、さらに、徳を高めあっていく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。