メッセージ - 201811のエントリ

聖別する主 ジェホバ・メカディシケム(詩篇23:5)
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23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。

5節には8つ目の主の御名のご性質、Jehovah Mekaddishkem(ジェホバ・メカディシケム)が込められておいる。
それは「わたしのこうべに油をそそがれる」の所であり、ジェホバ・メカディシケムの意味する所は「聖別する主」である。

主は、油を注いで聖別し、任職して下さる。それも、敵の面前で。
主を敬わない敵と、主を敬う主の民を、主がご覧になる時、主は、主を敬う側に御顔を向け、彼らを、敵の面前で食宴を設け、そして油を注いで下さる。

この幸いを呼びこむために必要な事は「主を羊飼いとすること、主を敬う事」だ。
ちょうど主が、アベルの捧げものに目を留め、アベルとその捧げものに対して敬意を表した(NKJV: Respect)のと同じように。
それに対しカインとその捧げ物に対しては、主は目もくれず、一切のリスペクトを表さなかった。それは彼が、主への敬いも、主への正しい態度もなしに、ただ捧げものをポンと持ってきたからだ。

「ジェホバ・メカディシケム」という主の御名が出てくる箇所は、出エジプト記である。
『「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしが「あなたがたを聖別する主(ジェホバ・メカディシケム)」であることを、知らせるためのものである。』(出エジプト記31:13)

ジェホバ・メカディシケムが現れるためのキーワードは、「安息日」である。
ジェホバ・メカディシケム。それは、安息日を守る人、すなわち、主を礼拝すべき日に、世の諸々の事を止め、しっかり礼拝する人をこそ、主は聖別して下さる。
そうであるからには、私達自身が主に喜ばれる礼拝者である事の努力をし続けるべきである。
カインの性質を捨て、アベルのように最良のものを、最良の形で捧げようと、主を愛する心を持っている人にこそ、主は、目を留めて下さるのだ。主は、全地を見渡し、その心が全く主とひとつになっている人を探しておられるからである。

また、出エジプト記の続く節には、次のように記されている。

『それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。』(出エジプト記31:14 )
ずいぶん恐ろしい事が書かれてある、と思うかもしれない。
しかし私達には、永遠の安息の地、天国が備えられている。だから、天を覚えて日々生きるべきだ。そうでなく、世のことばかりに捕われて、礼拝するべき日を軽んじ、主を覚えないなら、どうして天国に相応しい者になれるだろう。
主が「聖とせよ」「安息せよ」と命じられたのに、聖とせず、安息せずに、世の仕事、世の飲み食いを好んで続けるとするなら、その限りでは、主の聖、主の安息には、入れてもらえない。
私達は天国人である、からには、それにふさわしく生きるべきだ。

また、この言葉が与えられる直前の所では、主はある人々に、特別な使命を名指しで与えている。
『主はモーセに言われた、「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。』(出エジプト記31:1-5)

主は人に知恵を与え、匠の技を与え、指導力や金銀、その他、主を礼拝する建物や集いを構築するために、全て必要なものを備えて下さる。
その特別な知恵が与えられた人には、「これをつくって欲しい」と言われた時、頭の中で「これとこれが必要だ」「ここにはこの材料を使おう」「ここはこのように組み立てよう」と、瞬時にイメージが組み上がり、精巧に手を動かすわざも与えられるのだ。
その理由は、共に「キリストのからだを建て上げるため」であり、まさに、主が特別な油注ぎを与える故である。ちょうど、ベザレルとアホリアブに、主を礼拝する所、幕屋建造のために知恵と啓示の霊を与えられたように。

現在は、教会が礼拝の集いである。その教会の立てあげのために、主は聖霊の油を注いで下さる。
『さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるためにおのおのに御霊の現われが与えられているのです。
ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、
からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。』(1コリント12:4-12)
『こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』(エペソ4:11)

大祭司アロンには、特別に「聖」とされたしるしが与えられた。
『あなたはまた純金の板を造り、印の彫刻のように、その上に『主に聖なる者』と刻み、これを青ひもで帽子に付け、それが帽子の前の方に来るようにしなければならない。これはアロンの額にあり、そしてアロンはイスラエルの人々がささげる聖なる物、すなわち彼らのもろもろの聖なる供え物についての罪の責めを負うであろう。これは主の前にそれらの受けいれられるため、常にアロンの額になければならない。』(出エジプト記28:36-38)

主が、特別に任命されたからには、自らを聖とするのが、主に呼び出された者の分である。
もし、牧会者が「聖」という立ち位置に立っているなら、聖徒は祝福される。
だから私達は、「神よ、この病人に手を置けば癒やされますように」という事を願うよりも、むしろ「わたしが聖化されたものである」という事を追求するべきなのだ。

神が用いられる器は、きよい器である。きよくなければ、聖霊は働かない。
祭司がきよければ、その祈りは聞かれる。だから、きよくなるために、たゆまず努力する。

罪は、悔い改め、常習犯的な罪を、今、やめる、それを続けて行く事の繰り返しをして行くなら、主はますます尊い事へと用いられる。
自らをきよくし、ますます聖霊の油が注がれ、主の働きへと大いに用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝


主が愛する者に与える信仰の訓練 (1サムエル記23:1-13)


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 先週の日本コーエンは、朝から夜までみっちりと学んだ1週間だった。1サムエル記から、またエリヤとエリシャの時代について1列王記から、そして、夜は聖書に基づいた東洋医学を学んだ。多岐に渡る恵みを頂いたが、今日特に分かち合いたいのは、主がダビデを偉大な王とならせた「主の訓練」についてである。
 サウルは王になるまで訓練を受けていなかったため、シェオル(地獄)になってしまったが、ダビデは油を注がれてから王になるまで10年以上の訓練を受け、偉大な王となった。私達も、訓練は受けるべきなのだ。
 
 彼はサウル王から命を狙われるようになってから、人が続々と集まって来た。といっても、集まって来たのは、問題を抱えている人(マツォク)、借金を負って逃げてきた人(ナシャ)、心傷ついて苦々しい人(ネフェシュ・マラ)だった。ただでさえ王に追い回されて、助けが必要なのに、問題を抱えた人ばかり集まって来た。
そんな彼らの面倒をみるために、日々、食料を調達し、また諸々のいざこざを解決しなくてはならない。
 
 私達は思うかもしれない。今すぐ目の前の困難が取り除かれてほしい、少しでも多くのお金が必要だ、少しでも能力ある人が来て、助けてほしい、と。しかし主の助けは、優れた物資や人を送る事ばかりではない。
 実は、この困難な状況で彼らの面倒を見る事が、主から送られた「助け」であり、同時に「訓練」だったのだ。
 
 そんなダビデの元に、さらに一報が届く。ケイラというイスラエルの町が、ペリシテに攻められている、と。
本来国を守るのはサウル王の仕事のはずだが、サウルはそっちのけで、無実のダビデを追い回している。
 ダビデは毎日、危険と窮乏にさらされ、やっとその日を生きているので、誰かを助けている場合ではない。
けれども、ほうっておけないのが、ダビデの王であるゆえんだ。彼は主に伺った。助けるべきでしょうか、と。
 主の答えは、「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」であった(2節)。しかしダビデの部下は非常に常識的な意見をする。今は人の助けをしている場合ではない、むしろ自分達の身を案じるべきだ、と。
 
 私達は信仰生活を送る上で、このようなジレンマに陥る事がある。主の御心は「行け」なのに、自分の状況を、常識的に判断したり、人から「行くな」と言われたりし、その狭間で揺れる事が。
 主の助けの方法は、世の方法とは全く違う。世は、親も学校も、神なしの生き方・思考パターンを教育し、自分の英知と力で問題を解決するよう教えるが、その思考からは、全能なる神が、全く除外されている。
この思考(ギリシア思考)で塗られた世は、神に伺おう、とか、祈りで解決しよう、とかが、全く理解できない。
 聖書は、神中心の生き方(ヘブライ思考)で歩む信仰者が、神の方法によって生きる術が記されている。
その方法は、世の考え方ではあまりに無意味な、愚かな方法に見えるが、しかし、神を信じ、従順して行く時、実体として勝利が、祝福がもたらされる。ここに、世を取るか、神の言葉を取るかが試される戦いがある。
 
 ダビデは、神の言葉と人間の声との狭間で揺れ動いた時、もう一度主に伺った。『主は彼に答えて言われた、「立って、ケイラへ下りなさい。わたしはペリシテびとをあなたの手に渡します」。
 ダビデとその従者たちはケイラへ行って、ペリシテびとと戦い、彼らの家畜を奪いとり、彼らを多く撃ち殺した。こうしてダビデはケイラの住民を救った。』(4-5節) 
 人の思いとしては「止めたほうがいい」と見える事でも、主の言葉どおりにした所、圧倒的に勝利し、敵の家畜や食料も分捕り、戦わない場合よりも、遥かに良い結果となった。
 こうして一気に物持ちになったダビデ達。ところがサウル王は、ダビデがケイラを救ったと聞いて、ダビデもろともケイラを滅ぼそうと、大軍を率いて向かって来た。それを聞いたダビデは、再び主に伺う。
 ダビデはこれ以降、「主に伺う」事が、彼の人生の基本路線となり、そして主に伺わず行動したら、必ず失敗した。
 主の答えは、サウルは来る、そしてケイラの住民は、無情にも、ダビデをサウルに渡す、というものだった。
 本来ケイラが襲われた時、救うべきは、サウルだったはずなのに、国王から追われているダビデが救った。
それなのにサウルは、国敵ペリシテは放置し、国を救ったほうのダビデを追い、しかも、自国の町ケイラを襲ってまで、ダビデを滅ぼそうとしている。
 ダビデとしては、どうして自分は良い事をしているのに、報われず、サウルも、ケイラも、善を悪で返すのだろう、と思えた事だろう。しかし主は見ておられ、人も見ている。
 人はことごとくダビデがした良い事に、悪で返したが、主は常にダビデの味方であり盾であった。ダビデはこのような訓練をしっかり受けたからこそ、今も偉大な王と尊敬されているのだ。
 
 私達も、訓練を受けている時は悲しく思えるが、これによって訓練された人は、後には決して揺るがされない平安な義の実を結ばせるようになる(ヘブル12:1-11)。
 
 いつも失望せず耐え忍び、大いに用いられる皆さんでありますように!

 

主日礼拝
テフィリン - 神の民とは(出エジプト記13:1-10)
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 神の民は、エジプトで430年もの間、奴隷状態だったが、神がエジプトに10の災いを降して彼らを解放したのが、出エジプト記12章までの箇所だった。その次の13章で、神は重要な命令をされた。それが、テフィリンの命令である。ユダヤ人は今も、御言葉の入った箱を手に結びつけ、目の間に記念として置いている。その「紐付きの箱」が「テフィリン」と言われるものである。本日、この「テフィリン」について学びたい。
テフィリンの箱の中は、4つの部屋に区切られていて、それぞれの部屋には、御言葉が記された小さな羊皮紙が入っている。その内の最初の箇所が、この出エジプト記13:1-10の箇所である。『その日、あなたの子に告げて言いなさい、「これはわたしがエジプトから出る時に、主がわたしになされた事のためである」。そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念とし、主の律法をあなたの口に置かなければならない。主が強い手をもって、あなたをエジプトから導き出されるからである。』(13:8-9)
テフィリンの4つの御言葉に共通している命令が、「これを手につけてしるしとし、目の間に置いて記念とする」「子ども達によく教え込む」事である。敬虔なユダヤ人は、朝明けの祈りと共にテフィリンを手と額に結びつけ、日没までそれを身につけている。このように、御言葉を自分自身に縛り付け、昼も夜もそれを口ずさみ、思い巡らし、行い、子供を教育する。この「御言葉を体質化」する一連の教育がテフィリン教育である。
彼らがテフィリンの箱に入れた4つの箇所は、何について記されているのか?それは、神の民とはいかなる者であるかを示す重要な箇所であり、私達神の民のアイデンティティでもある。一つ一つを見ていきたい。

1番目の箇所は、出エジプト記13:1-10で、ここは、神の民とは「贖われた者達」である事を示している。
ユダヤ人は、自分達は神によって特別に救われた者である、という意識を強く持っている。事実「ヘブル人(エブリー)」の元々の意味は、「川を渡って来た者達」「境を超えて来た者達」の意味である。私達も、キリストにあって贖われた者達、水のバプテスマを通って、世を乗り超えて来た者達、買い戻された者達である。
2番目の箇所は、出エジプト記13:11-16であり、ここは、神の民は「捧げる者達」あるいは「捧げられた者達」である事を示している。神によって贖われた。だから、自分達・神の民は主に礼拝を「捧げ」、与えられたものの初物や十分の一を捧げる事を子供に教えている(14-15節)。ユダヤ人達は、赤ちゃんの時から徹底して捧げる「くせ」がついている故に、神が彼らに押入れ揺すり入れして与えられるのだ。(ルカ6:38)
3番目の箇所は、申命記6:4-9で、神の民は「神に従順し、服従して歩む民」である事を示している。
『イスラエルよ聞け(シェマー イスラエル)。われわれの神、主は唯一の主である。』(6:4) これはユダヤ人にとって最も大事な戒めで、イエス様も「最も大切な命令」だと言った。そして6-8節の中には「心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛する」(5節)ための、具体的方法が4つ伝授されている。
1つ目は心に「刻みなさい(ハヤー:存在を表すBE動詞)」(6節)で、すなわち神の言葉を心に存在させ、その御言葉の存在が、溢れ出るようにせよ、という事である。2つ目は「子どもたちによく教え込み(シャナン:刻む)なさい」、3番目の言葉は『これについて「語らなければならない(ダバル:話す)」』である。ユダヤ人は、互いに議論して分かち合う「ハブルタ(友達という意味)」の教育法で、御言葉について互いに議論し合うくせがついている。4番目が「手に結びつけ」「額に結びつけなさい」という「テフィリン」の命令である。
4番目の箇所は、申命記11:13-21で、ここは、上記3つを守り行った神の民が、その結果受けるべき大きな祝福の約束が記されている。『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(13-15節)
主は創世当初、人を、そのように祝福された存在として創造した。生んで増えて、地を支配するように、何不足なく満ち足りて生きるように、と。創世当初、人には罪がなく、神の御言葉に100%従順する存在だったので、エデンにおいて当然のごとく祝福を享受していたが、人が善悪を知り、各自の善悪判断で動いて神の御胸に逆らい始めたため、その祝福は途絶え、エデンの外で労苦して生きねばならなくなってしまった。
神の創造の本分から外れた、本来的でない歩みをする人で満ちてしまったのが「世」である。私達はキリストの贖いによって神の民とされ、神に捧げられた者となり、神の言葉に従順し、そして本来受けるべき祝福を受け、世の人々とは格段に違う、世と罪とは分離した「神の民」として生きる皆さんでありますように!

共におられる主 ジェホバ・シャンマ(詩篇23:4b)
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「あなたがわたしと共におられるからです。」(詩篇23:4b)

主が共におられる、それは聖書のいたる所に見られる主のご性質である。
特に「共にいます主・Jehovah Shammah(ジェホバ・シャンマ)という名は、エゼキエル書の最後に登場する。
『町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。』(エゼキエル48:35)
これはエゼキエル書の最終章・最終節であるが、そこは、主が示して下さった新しい神殿の寸法を測り終え、いのちを生かす水が川となって流れ出て、その川の両岸を潤し、その町にはイスラエル十二部族への配分が割り当てられた、という箇所である。
黙示録の最後も同様に、天から降ってくる新しいエルサレムの記述があり、その町の門はイスラエル十二部族の名がつけられ、いのちの水が流れる。
その新しいエルサレムの特徴は「神が共にいます」という言葉につきる。

「主が共におられる」という言葉は、聖書の至る所に登場する。
例えば、心細い旅をしていたイスラエルの父祖・ヤコブに対して、主は「ともにいる」という事を強調するために、夢に現れた。

『さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。』(創世記28:10-11)
この場面は、イスラエル民族の父祖ヤコブが、兄エサウの祝福をだまし取ったゆえに、兄から命を狙われる事となり、たった一人、おじのラバンの所へ逃避行する途中の旅路である。

『時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。』(創世記28:12-15)

ここの主の言葉、わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る、と言っておられる。ここも、ジェホバ・シャンマのご性質が良く表れている場面である。
わたしがともにいる、だから、恐れる事はない、と。

ダビデも告白した。
ヤコブも、イザヤも、またそのほか信仰の先人たちは皆、主が共にいるから恐れない、と告白した。
それは現代の私達も同じである。
インマヌエル(主が共におられる)であられる主イエス様がおられ、導いて下さる。
イエス様は、このヤコブの場面と同じ事を言った。

『また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。』(ヨハネ1:51 )

このはしごは、天から地に向けてかけられている。
イエス様、すなわちインマヌエルなる主は、天から降りてこられ、私達が天に上れるように、はしごをかけて下さった。
私達は、イエス様という「狭い門」を通してのみ、天国に行ける。
救いの門は、イエス様のみ。そういう意味では狭いかもしれないが、しかしその門を通った先の道は広々としていて、かぐわしい花が咲き乱れた道、贖われた者だけが通る道、一切の愚かな者や滅ぼす者が迷い込む事の無い道である。(イザヤ35章)

『ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。』(創世記28:16-19)

ヤコブは兄から命を狙われ、そこから逃げる旅路で心細くあるヤコブ自身、主がともにおられる、という事で、その地をベテル(神の家)と呼んだ。
この体験が、ヤコブにとって、信仰のはじまりだった。
『ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。』(創世記28:20-22)

ずっと後、彼がベテルで礼拝を捧げた時、彼は一人ではなく、二人の妻と二人の妾、そして12人の子供たちが彼とともにあった。
彼は確かに主から祝福を受け、日毎のパンや着物に困る事が全くないほどまでに富ませ、無事に帰らせてくださったにもかかわらず、すぐに礼拝をささげなかったゆえに、娘ディナに不幸な事が起きたり、息子達がとんでもない事をしたりした。
そうした色々紆余曲折があったものの、主からの促しにより、このベテルに戻って礼拝を捧げた時、諸国の間で、彼に対する恐れが芽生えた。(創世記35章)

主が共におられる、その場所を離れてしまうなら、良くない事が起きる。
しかし、一人ひとりにとっての「主が共におられる」場所にとどまるなら、そこは天の御国となる。
そこは、いのちの水の川が流れ、いのちの木が茂る場所である。
エゼキエル書のジェホバ・シャンマと呼ばれた町も、黙示録に出てきた天国も、いのちの水の川が流れ、いのちの木が茂った。
ダビデも、共におられる主、羊飼いなる主にともなわれ、いこいの水のほとりへ、緑の牧場へと導かれて行った。
信仰の先輩たちはみな、地上の歩みにおいてジェホバ・シャンマを経験したのだ。

ヨハネ10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。

イエス様こそ、天からかけられたはしご、唯一、天と地を結び、唯一、人を天国へと至らせる門である。
その門の向こう側は、祝福の道であり、ジェホバシャンマなる主がいつも共におられる道である。

私達もこの人生において、ジェホバシャンマなる主と共に歩み、また自分の家族や仕事に対して、祝福を宣言するものでありたい。

早天礼拝
信じようとしない人達とイエス様について行こうとする人達(ヨハネ6:60-71)
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ヨハネ6:60 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。
6:61 しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。
6:62 それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。
6:63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
6:64 しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。
6:65 そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。

エペソ2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
2:9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。

6:66 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。
6:67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。
6:68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。
6:69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。
6:70 イエスは彼らに答えられた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」。
6:71 これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである。このユダは、十二弟子のひとりでありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

2テモテ2:23 愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。
2:24 主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、
2:25 反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、
2:26 一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。

ルカによる福音書 講解説教 水曜夕礼拝
人の行先を象徴的に示す十字架の場面(ルカ23:32-48)
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エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
偽預言者達に対して(エレミヤ23:9-24)
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 エレミヤ23:9-24

2歴代誌18:12-27

2テモテ4:1-5

悪しき者の企みを見破る知恵と啓示の霊を求めよ(1列王記2:13-25)
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1列王記2:13 さて、ハギテの子アドニヤがソロモンの母バテシバのところへきたので、バテシバは言った、「あなたは穏やかな事のためにきたのですか」。彼は言った、「穏やかな事のためです」。
2:14 彼はまた言った、「あなたに申しあげる事があります」。バテシバは言った、「言いなさい」。
2:15 彼は言った、「ごぞんじのように、国はわたしのもので、イスラエルの人は皆わたしが王になるものと期待していました。しかし国は転じて、わたしの兄弟のものとなりました。彼のものとなったのは、主から出たことです。

箴言16:17 悪を離れることは正しい人の道である、自分の道を守る者はその魂を守る。
16:18 高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。

1列王記2:16 今わたしはあなたに一つのお願いがあります。断らないでください」。バテシバは彼に言った、「言いなさい」。
2:17 彼は言った、「どうかソロモン王に請うて、――王はあなたに断るようなことはないでしょうから――シュナミびとアビシャグをわたしに与えて妻にさせてください」。
2:18 バテシバは言った、「よろしい。わたしはあなたのために王に話しましょう」。
2:19 バテシバはアドニヤのためにソロモン王に話すため、王のもとへ行った。王は立って迎え、彼女を拝して王座に着き、王母のために座を設けさせたので、彼女は王の右に座した。
2:20 そこでバテシバは言った、「あなたに一つの小さいお願いがあります。お断りにならないでください」。王は彼女に言った、「母上よ、あなたの願いを言ってください。わたしは断らないでしょう」。
2:21 彼女は言った、「どうぞ、シュナミびとアビシャグをあなたの兄弟アドニヤに与えて、妻にさせてください」。
2:22 ソロモン王は答えて母に言った、「どうしてアドニヤのためにシュナミびとアビシャグを求められるのですか。彼のためには国をも求めなさい。彼はわたしの兄で、彼の味方には祭司アビヤタルとゼルヤの子ヨアブがいるのですから」。
2:23 そしてソロモン王は主をさして誓って言った、「もしアドニヤがこの言葉によって自分の命を失うのでなければ、どんなにでもわたしを罰してください。
2:24 わたしを立てて、父ダビデの位にのぼらせ、主が約束されたように、わたしに一家を与えてくださった主は生きておられる。アドニヤはきょう殺されなければならない」。
2:25 ソロモン王はエホヤダの子ベナヤをつかわしたので、彼はアドニヤを撃って殺した。

ヘブル4:12 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
4:13 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。

エペソ1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
1:18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
1:19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。
 

早天礼拝
祝福に帰るための「のろいの明細」(申命記28章)
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死の陰の谷を歩むとも災いを恐れない - ジェホバ・ニシ(主はわが旗)(詩篇23:4a)
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「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」(詩篇23:4a)

この有名な言葉の中には、主の御名「ジェホバ・ニシ(Jehovah Nissi:主はわが旗)」のご性質が現れている。
このジェホバ・ニシという主の御名が登場する箇所は、出エジプト記17:15 で、そこは、イスラエルが奴隷の国エジプトを脱出した直後、主から示された約束の地・カナンへ移動する途中、アマレクが襲いかかってきた時のことである。

アマレクは、イスラエルの中で行軍に疲れ、弱って後方にいた人達を狙いうちにして、襲ってきた。
彼らの性質を一言で言うなら、「弱い者いじめ」である。主はそのような者は、断ち切られる。(申命記25:17-19)

『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)

モーセが丘の上で手をあげたのは、背後で祈り、実戦部隊として戦うヨシュア達を祝福するためである。
私達の戦う武器は、鉄のものではなく「霊による剣、すなわち御言葉」であり、その手段は、肉弾戦ではなく「祈り」である事が、エペソ6章に記されている。
モーセは、祈りの重要性をよく認識していた。
だからアマレクが襲って来た時、主から特に指示される前に、祈りの手を上げたのだ。

『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11)
モーセが背後で祝福の手を上げて祈る、その手が、戦いを左右した。
事実、祈る教会と、祈らない教会とは、大きな違いが出てくる。
教会と世の組織との違いは、祈りがあるか、ないか、と言って良い。
世の人は、ただ肉弾戦で戦おうとするが、しかし教会は、主の御名によって祈る事によって、天の扉を開けたり閉めたりする権威が与えられているのである。

祝福の手を挙げる事は、どれほど重要か。
アロンとフルは、その重要性に気づき、石を取ってモーセが座れるようにし、さらに二人は両脇からモーセの手を支えた。
それで彼の手は日没までしっかり挙げられたままだった。ヨシュアはアマレクの軍を打ち敗った。
そしてヨシュアは、丘の上で手を上げているモーセを背後に、安心して戦う事が出来た。
この経験が元で、ヨシュアは後に、積極的に祈って勝利へと導く指導者となる。
彼が指導者になった時、彼はアイの町を攻撃する際に、槍をずっとその町に向かって上げ、イスラエルが勝利するまで手を引っ込めなかった(ヨシュア8:26)。
また彼は、祈りによって太陽と月を一日停めて、イスラエルの敵が滅ぼされるまで、太陽と月は沈まなかった。(10:12)

手を上げて祈る事は、すなわち、主の旗を掲げる事である。
『主はモーセに言われた、「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう」。モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。そしてモーセは言った、「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる」。』(出エジプト記17:14-16)
ここに「主はわが旗(ジェホバ・ニシ)」という主の御名が出てきた。
それは『主の御座の上の手』のことであると書いてある。
つまり私達が手を上げて祈る時、その手が主の旗となり、そこに神の国の影響が、神の統治が、その場所に及ぶようになる、という事なのだ。
手を上げて祈る事が、いかに大事だろう。
戦いに勝利した時や、未開の土地に初めて踏み入れた時など、そこに、自分たちの旗を立てて、「ここは自分たちのもの、自分達の統治が及ぶ所」、と内外に宣言するように、祈りの手を挙げる事も、そうである。
自分の子供や家族のために、会社のために祈る時、あるいは、邪悪な領域に足を踏み入れて伝道する時に、祈りの手を挙げるのである。
そうする事で、そこに神の国の統治権を呼び起こす事が出来るのだ。

ただし、手を挙げれば誰でも祈りが聞かれるわけではない。
その祈る手は、神に従う「きよい手」でなくてはならない。
『ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。』(1テモテ2:8)
『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』(ヤコブ4:8)

モーセやヨシュアのように、指導する立場にある人は、きよい手を挙げて祈る事が大事であり、祈る立場の人が煩いなく祈りに専念できるように、助ける人も重要であり、もちろん実際に働く人も大事である。
このように、モーセ、アロン、フル、ヨシュア、それぞれに役割があったように、教会の牧会の現場も、手を上げて祈る人、祈りに専念できるように支える人、実戦部隊として戦う人、それぞれ役割があるのだ。

新約の教会、エクレシアの中において、私達はそれぞれの役割を果たし、主の愛の旗印の下で勝利の歩みをして行く集いでありたい。

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