メッセージ - 201810のエントリ

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テフィリンとは(出エジプト記13:1-10,11-16,申命記6:4-9,11:13-21)
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詩篇23篇に隠された主の御名 - ジェホバ・ロイ、ジェホバ・イルエ(詩篇23:1)
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詩篇23篇は、ダビデが創った詩篇の中でも、珠玉のような詩篇として、キリスト教・ユダヤ教両者から愛されている。
一般の映画や文学でも多く引用され、教会に行った事が無い人でも詩篇23篇のフレーズを聞いた事がある人は多いだろう。
この詩篇23篇は、ダビデ自身の「主はどのようなお方であるのか」という信仰告白が詰まっていて、彼はこの23篇の中に、8種類の「主の呼び名」を秘めた。

聖書の中には多くの主の呼び名が出てくる。ジェホバ・イルエや、ジェホバ・シャンマ、ジェホバ・ニシなど。
それぞれ、主の呼び名はそれぞれの主のご性質をあらわしているが、詩篇23篇にダビデが秘めた主の御名の宝を、これから何度かに渡って掘り起こして行きたい。
なお、国や訳によっては「ジェホバ」が「アドナイ」または「ヤーウェ」に、また、たとえば「イルエ」が「エレ」または「ジレ」等と発音するが、いずれも、呼び名や発音が違うだけで、意味は同じである。

ダビデが真っ先に告白した主のご性質は、「主はわたしの牧者(ジェホバ・ロイ)であって、わたしには乏しいことがない。」(1節)であった。
詩篇23篇に真っ先に登場する主の呼び名は、ジェホバ・ロイ、すなわち「主はわたしの牧者」である。
「ロイ」には、羊を飼う、食べさせる、牧草地へ導く、保護する、一緒に伴う、などの意味が含まれている。

ダビデは少年の頃、父の羊を飼っていたので、羊の性質をよく知っている。
彼の人生で、彼自身が歩んできた道を振り返ってみると、主がいつも共におられた。
そしてその主について、彼が真っ先に表現したそのご性質は「羊飼い」である。

羊は愚かで弱く、羊飼いがいなければ、何もできない。
しかしながら、羊はいつでも羊飼いが守っている故に、全て、必要なものが備えられる。
豚には羊飼いは必要ないが、いつも自分の身を怪我し、無作為に汚れたものを食べている。
それに引き換え、羊はいつも羊飼いに導かれる故、新鮮な、良い牧草へと導かれ、良い水の所に導かれ、いつも良いものを得ている。

羊が安全に暮らすためには、力あるかないか、個性があるか無いかは関係ない。
ただ、羊飼いの声を聞き、その後について行くだけである。それでこそ、彼らは生きながらえる事ができる。
羊飼いがいないなら、いかに能力がある羊であっても、所詮は羊である。彼らは弱り果てる以外には無い。

ダビデは、主こそ、自分の「羊飼い」だと呼んだ。
彼は人生の中、色々な敵が立ちふさがった。色々な困難があった。
強大な敵が何度も立ちふさがったし、親しい人からの裏切りもあったが、ダビデは、その都度、主に避け、主を拠り所とした
自分自身の中から湧き出て来る罪という最大の敵に打ち負かされてしまった時も、躊躇なく主に帰り、自分の罪を告白した。
主に全てをうちあける事こそ、救いを引き出すために必須の手続きである。主は、そんなダビデの羊飼いとなってくださった。

「わたしには乏しいことがない。」(1節b)
この節後半には、さらに、「ジェホバ・イルエ」、すなわち「備え主」の御名が練り込められている。
この「ジェホバ・イルエ」の御名が登場する場面は、アブラハムがイサクを捧げる場面である(創世記22章)。

彼が主の命令によりイサクを捧げようとした、まさにその時、主は制止した。彼の主に対する従順が、行いによって証明されたのだ。
それで主は、イサクに代わる犠牲として、角をやぶにひっかけた羊を備え、アブラハムは羊を身代わりに捧げた。
それでアブラハムは、主が備えて下さった故に、そこをジェホバ・イルエと名付けた。

さて、ジェホバ・イルエの言葉は「主の山には備えあり」の言葉と共に「備え主」という意味として定着しているが、実は、ジェホバ・イルエの正しい意味は、別にある。
この言葉は、分解すると、「ジェホバ(主)+ラアー(見つめる)」、そして「ラアー」は未完成形なので、原意は「主はずっと見つめ続けておられる」であり、英語のKJVが正しい訳出をしている( In the mount of the LORD it shall be seen.)

アブラハムは、イサクを捧げた時、気づいたのだ。
主はずっと、自分の信仰が、このイサクを捧げるという「行い」によって「完成」されるのを、今か、今かとずっと見続けておられたのだ、と。
そういうわけで、ヤコブは次のように書いている。

ヤコブ2:21 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
2:22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、
2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

アブラハムがジェホバ・イルエと名付けたモリヤの山には、後の時代、ソロモン神殿が建ち、バビロン捕囚の時に破壊された。
しかし主は、今なお、そこを見つめ続け、待っておられる。
アブラハムの子孫達が、茨の冠を頭にひっかけた「まことの小羊キリスト」を身代わりの犠牲として捧げるのを。

主はアブラハムが信仰の完成をするために必要な、イサクの身代わりとなる羊を備えて下さったように、私達が信仰の完成を成就するために、私達の身代わりとなってくださった、まことの小羊キリストを備えて下さった。
主はずっと私達を見続けておられ、そして私達の信仰が行いを通して完成するのを、待っておられるのだ。

低くされた後、高くされ、栄光を受けるまでの道のり(詩篇22:22-31)
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詩篇22篇の前半は、受難の叫びで満ちていたのに対し、22節以降の後半は、賛美で溢れている。
それは、この詩篇の作者であるダビデが、苦難の中で低くされた後に栄光が与えられた事をあらわしていると同時に、イエス様の受難と死、そして復活と栄光化を正確にあらわす預言である。

ダビデは最初、主は祈りに答えてくださらない、という思いに満たされていた(2節)。
それで主にずっと叫び続け、祈り続けて行く内に、主が答えて下さったという感覚を得られ、ついには、主は彼の声に聞いて下さった、という確信を得られた。(24節)

22:22 わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえる(ハラル)でしょう。

ダビデの、それまでの苦悩に満ちた祈りは、聞かれた事の確信ゆえに、主への賛美(ハラル)へと切り替わった。
ハラルはハレルヤの元であり、それには、(主を)誇りに思う、高める、重きを置く事の意味がある。
ダビデは、祈って得た確信と喜びゆえに、今度は人々に、主をハラルする事を勧めて行く。

22:23 主を恐れる者よ、主をほめたたえよ(ハラル)。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ(カバド)。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ(グル)。

カバドは「重んじる」「栄光を帰す」意味があり、その意味においてハラルと重なる。
主を喜び、ほめ讃える事は良い事だが、それは、主へのおそれ(グル)を伴っていなければならない。
主へのおそれが無ければ、主の言葉を軽んじ、主の約束を平気で破ってしまうからであり、主をおそれ敬う心が無い賛美は、ただの「盛り上がり」を求める世の歌と変わりがないからだ。

22:24 主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。

主は聞かれた…ダビデはその確信を得た。それで彼は、心からの喜び、嬉しさが湧き上がり、主をハラルしたい、と心底願ったのである。

主をハラルするに至るまでには、幾つかのステップが必要である。
まずは、主の御言葉を、よく思い巡らし、咀嚼し、黙想する事(ハガー)が最初である。
その御言葉の土台の上に、祈り(テフィラー)を積み重ねるのだ。御言葉をハガーするという「土台」が無い祈りは、単なる、身勝手な願望の並べ立てに過ぎなくなってしまう。
御言葉に基づいた祈りを口ずさむ事(シイハー)を続けて行く内、諸々の感情が段々と湧いてくる。愛情や喜びや平安、あるいは、うめきや悲しみなど。
この「口ずさみ」に、それらの感情を乗せたメロディや、あるいは体を使った表現が加わると、それがすなわち「賛美(テヒラー)」である。
テヒラー(תְּהִלָּה)は賛美、賛美歌、賞賛、名声などの意味で、テフィラー(תְּפִלָּה)は祈り、あるいは祈りの賛美の意味である。いずれにも、hymn(賛美歌)の意味が含まれている。

ダビデは3節で「イスラエルの「さんび(テヒラー)」の上に「座して(ヤーシャブ:住む)」おられる/あなたは聖なるおかたです。」と言っていた。
そうである。私達の主を賛美する時、喜び踊るような嬉しい感情、あるいは、誰かを執り成しうめく感情など、それらを乗せた賛美(テヒラー)の内に、主は、住まわれるのである。

そうして、遂には、主をほめ讃える(バラク)段階、あるいは主を誇りに思って高める「ハラル」の段階になって行く。
こそ段階に至るまで、ダビデは、苦しみうめき祈ったのが、詩篇22篇前半である。
ダビデはその段階の時、主は「お答えにならない」ような気もしていたが(2節)、それでも御言葉を黙想し、祈り続けた結果、「主は聞いて下さった」という確信を得て(21節)、主を喜び歌う段階に入る事が出来た。

22:25 大いなる会衆の中で、わたしのさんび(テヒラー)はあなたから出るのです。わたしは主を恐れる者の前で、わたしの誓いを果します。

ダビデは「わたしのさんび(テヒラー)はあなたから出るのです」と言った。
そう、心から主を喜ぶテヒラーは、主が下さる。
そして私達の分は、主に向かって祈る事である。
ダビデは主を喜ぶあまり、喜び踊った。妻のミカルから蔑まれるほど。彼はそれだけ主を求め続けたからだ。

22:26 「貧しい者(アーナブ)」は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえる(ハラル)でしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。

アーナブは「へりくだった者」「低くされた者」の意味であり、KJVでは「meek」と訳されている。
へりくだった心こそ、食べ飽く事が出来る人の性質なのだ。

22:27 地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝むでしょう。

ダビデは仰ぎ見ていた。地の果ての人々さえも、主に帰り、主に伏し拝む事を。
まさに、イエス様が十字架につけられ、死んで葬られ、よみがえり、天に昇られて以降、全世界の人々がイエス・キリストに帰り、彼を伏し拝んでいる。

続く節では、十字架につけられ低くされたイエス様が、今度は高められる事が記されている。

22:28 国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます。
22:29 地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。
22:30 子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、
22:31 主がなされたその救を/後に生れる民にのべ伝えるでしょう。

30節の「子孫(ゼラ)」は、原文は単数形であり、その単数形の「子孫」はすなわちイエス・キリストをあらわす。

イザヤ書53章も詩篇22篇同様、前半はキリストの受難が、すなわち、彼が低くされる事が記されており、そしてその後、彼は高くされ、その支配は永遠に続く事が記されている。

イザヤ53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫(ゼラの単数形)を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。

父なる神様が、彼の子であるイエス様を砕く事は、御心だった。
それは、彼が砕かれて後、栄光を受け、その「命をながく」、すなわち、彼に永遠の王権が与えられ、永遠に栄えるためにである。

53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

イザヤ53章でも、詩篇22篇でも、油注がれた神の御子キリストは、受難を受け、低くされ、あざけられ、ののしられ、罰せられ、死ぬ事が示され、そしてその後に復活し、高くされ、栄光が与えられる事が示されている。
イエス様はまさに、旧約聖書の随所にある預言の通りに歩まれ、そして今、世界中の、彼によって救われた人々から、あがめられ、栄光を受けているのである。

ルカによる福音書 講解説教 水曜夕礼拝
イエス様を3度知らないと言うペテロ(ルカ22:56-71)
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エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
御声に聞き従わず、民を圧制で苦しめる王の末路(エレミヤ22:13-30)
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早天礼拝
人の罪の刈り取りと、公正と恵みに満ちた神の裁断(2サムエル記12:15-31)
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早天礼拝
神の天国経営のマニフェスト(出エジプト記5:19-6_8)
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主イエス様の受難を的確にあらわした詩(詩篇22:1-21)
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詩篇22篇 聖歌隊の指揮者によってあけぼののめじかのしらべにあわせてうたわせたダビデの歌

この詩は、ダビデの受難の時の詩であるが、まさしく新約のイエス・キリストの受難をあらわしている。

22:1 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。

これはまさしく、イエス様が十字架の上で叫ばれた言葉だ。

マタイ27:45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
詩篇22:2 わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。

夜、イエス様はゲツセマネの園で、血の滴りのような汗を注ぎだして父なる神に祈ったが、祈りは聞かれなかった。
昼、十字架の上でイエス様は父なる神に呼ばわったが、何の助けもこなかった、どころか、闇が全地を覆った。
まことに彼は、十字架の上で、神に、捨てられ尽くしたのだ。

詩篇22:3 しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる/あなたは聖なるおかたです。

主は、賛美を住まいとしておられる。
イエス様は、十字架の上では父なる神から答えられなかったが、私達は、苦しみの中で賛美する時、主はそこに住んでおられ、私達の声を聞いておられるのだ。

詩篇22:4 われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。
22:5 彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。

ダビデも、主に見捨てられたような気がして、昼も夜も主に叫び求め、それでも答えが無いという所を通らされた。
信仰にあって生きる私達も、そのような所を通らされるときがある。
主に救いを求めても、求めた直後にすぐ来ない事のほうが多い。しかし、主の助けは、遅くなる事は無い。
ダビデは結局、助けが遅れる事なく、あらゆる敵から、困難から、彼の人生で何度も助け出された。彼の人生の終わり方は、敵に囲まれてみじめに死んでいくものではなく、大勢の臣下の前で、偉大な王として人生を全うし、葬られた。

それなのに、イエス様は。
彼は助けを呼び求めても、答えはないまま、十字架の上で、敵に囲まれてみじめに死んで行った。
本来、私達こそ、それに値するのに、イエス様が、代わりを引き受けて下さったからだ。

詩篇22:6 しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。

ここで使われている「虫」という言葉は、ヘブライ語でトラー、ことさら「ミミズ」をあらわす語で、あるいは、ミミズの色である「紅」をあらわす。

イザヤ書1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。「紅(トラー)」のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

主はイザヤを通して、あなたの罪が、ミミズのように醜く汚らわしく、そして赤くても、雪のように、羊の毛のようになる、と言って下さった。
なぜなら、イエス様が、私達の身代わりとして人間以下に、虫けらのようになって、私達の罪と刑罰を一身に負ってくださったからだ。

イザヤ41:14 主は言われる、「「虫(トラー)」にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。

なぜ虫にも等しいイスラエルの人々、すなわち、私達(ガラテヤ6:16)は、恐れなくても良いのか。
それは、イエス様が私達の身代わりに、虫に等しくなって、助けてくださったからだ。

詩篇22:7 すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
22:8 「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。

これと同じののしりを、イエス様は十字架の上で受けた。

マタイ27:43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
27:44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。

詩篇22:11 わたしを遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです。
22:12 多くの雄牛はわたしを取り巻き、バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、
22:13 かき裂き、ほえたけるししのように、わたしにむかって口を開く。

ダビデは度々、敵意の人々に取り囲まれた。力強い牛のような、あるいは、吠えたけるししのような強き者達から。
イエス様も、悪意の者達から取り囲まれた。それもイエス様は、取り囲む彼らよりも圧倒的に強いにもかかわらず。
イエス様があえて、その者達に対しては無抵抗で「わざと」取り囲まれたのは、まさに、イエス様に悪をたくらむ彼らの罪の身代わりに、十字架にかかるためだった。

詩篇22:14 わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。

イエス様は、ゲツセマネで血の滴りのような汗を注ぎだした。
そして十字架の上で、イエス様の骨ははずされた。
十字架上では、釘打たれた手と足に全体重がかかり、体の重みで両肩の関節がはずれ、それによって、胸が広がらなくなり肺が圧迫され、呼吸が苦しくなるという。

詩篇22:15 わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。

イエス様は十字架上で言われた。

ヨハネ19:28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。

しかし、渇いた彼に人が飲ませたのは、酸いぶどう酒だった。
主は、イスラエルを乳と蜜の流れる地に「甘いぶどう」として植え、よく育つための必要な全てを整え、よく手入れし、甘く良い実を結ばせる事を期待した。しかし、彼らが神に対して結んだ実は、酸いぶどうだった。(イザヤ5:1-2)

ヨハネ19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

イエス様は、酸いぶどうとなってしまった人間性を、全部飲み干し尽くされ、「完了した(テテレスタイ:完成した、支払い尽くした)」と言われた。
人が本来受けるべき処罰を、一身に受け、全人類の罪の借金を、支払い尽くして下さったのだ。

詩篇22:16 まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。
22:17 わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。
22:18 彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。

イエス様の十字架の場面で、まさにこの事も成就した。

ルカ23:34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
23:35 民衆は立って見ていた。

イエス様の、この偉大な執り成し故に、全人類は救われた。
しかし、この偉大な執り成しの最中、人々がした事といえば、イエス様の着物を、くじで分けた事だった。

詩篇22:19 しかし主よ、遠く離れないでください。わが力よ、速く来てわたしをお助けください。
22:20 わたしの魂をつるぎから、わたしのいのちを犬の力から助け出してください。
22:21 わたしをししの口から、苦しむわが魂を野牛の角から救い出してください。

ダビデは、この祈りによって助け出され、救い出された。
しかしイエス様は、十字架の上で助け出されなかった。

私達全て、この、十字架に身代わりにつけられて下さった主イエス様の御名によって呼び求めるなら、助けを得るのである。
私達はただイエス様の前に感謝し賛美を捧げる以外には無い。

主の上げ膳・据え膳(出エジプト記5章)
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週報/メッセージ(説教)概要
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成田エクレシア礼拝 音声

 聖書の中で、エジプトは神の民を奴隷にする「奴隷の家」と表現されている。そこから神が解放して下さった記述が出エジプト記であり、主は「わたしはあなた方を奴隷の家から贖い出した、あなたの神、主である」と何度も語られた。主は私達をも、「世」というエジプトから、そして「サタン」というエジプトの王パロから、救い出して下さる。今回も先週に続き、奴隷を強いる者および「奴隷根性」から脱出する術を学びたい。

モーセはかつてエジプトにひどい目に遭わされ、恐れていたが、神の言葉によって奮い立ってエジプトに戻り、パロと対峙する。『パロに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭をさせなさい』と」。』(出エジプト記5:1) 日本では、横暴な支配者からの要求を最優先にさせられ、礼拝がままならない事が多いため、この種の真理を貫く戦いが頻繁に行われるかもしれないが、この種の戦いは、神の言葉を正確に宣言する所から始まる。モーセはまずそれに成功した。
『パロは言った、「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」。』(2節) パロの答えは、実に想定内だった。ただし、こう言えばこう返ってくる、と想定して、諦めて何も伝えないのは、100%の敗北である。
兎にも角にも主の言葉を宣言する事が、勝利の第一歩である。モーセはこのパロの迫力に飲まれてしまう。
『彼らは言った、「ヘブルびとの神がわたしたちに現れました。どうか(「ナア」:お願いですから)、わたしたちを三日の道のりほど荒野に行かせ、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、わたしたちを悩まされるからです」。』(3節) 神は果たして、礼拝が出来ずに悲しむ民を、疫病か剣をもって悩まされるだろうか?真逆である!4:22-23を見ると、神の子である彼らに礼拝させるのを拒むなら、神は「パロの長子を殺す」と言っておられた。モーセの言葉は、優しさでも謙遜でもなく「卑屈」であり、サタンは、卑屈な言葉に対して、もっと調子に乗って無理難題を吹きかけてくる。
御言葉をアタマで覚えていたとしても、いざ偉い人の前で、ここぞという時に宣言しようとすると、頭が真っ白になったり、せっかく蓄えた御言葉が出なかったり、あるいは、間違って言ってしまったりする事がある。
御言葉は本来、心の中に「存在(ハヤー)」させ、その存在があふれるばかりにさせなければいけないのに(申命記6:6)、それをしていない状態だと、このようになってしまうのだ。サタンは、御言葉の存在があやふやな状態の人には、調子に乗って、御言葉とは真逆の事を要求して来る。エバの時もまさにそうだった。
『エジプトの王は彼らに言った、「モーセとアロンよ、あなたがたは、なぜ民に働きをやめさせようとするのか。自分の労役につくがよい」』(4節) パロはモーセの怖気づいた様に力を得、ますます神の民を虐げる。
パロはさらに調子づいて、そんな事を言うなら、もうレンガ造りの材料は与えないが、徹夜残業してでも元々のノルマは達成せよ、と突きつける。日本はまさにそういう霊が働いている。主日に礼拝に行く人を「なまけもの」と呼び、無私で働く事が美徳であるかのようにして、家庭を、いのちの営みを、貶める。
主にあって王であり、祭司であるキリスト者が、パロの「自分の労役につくがよい」という言葉に「はい」と言ってひれ伏し、王かつ祭司の務めを放棄してパロの労役に勤しむとするなら、何と本末転倒な事だろう。
しかし残念ながら、実に多くのキリスト者が、本来の務めを放棄し、パロが命じる苦役に奔走しているのだ。

モーセは長年、奴隷のような縛りを受けて気弱になり、口下手になってしまっていたため、最初の会合は、いわば「失敗」に終わったかもしれないが、主はそんな人間の弱さをちゃんとご存知で、フォローして下さる。
ちょうど、子供のたった一度の失敗をもって、親が子供を永遠に見放すなどという事は、あり得ないように。
モーセは、この最初のパロとの会合で、主の言葉どおりの「しるし」を行う事が出来なかったが、7章8-10節を見ると、主は、パロの口を通して「しるしを行って見せよ」と言わせ、杖をへびにするしるしを披露できた。
主は、私達の弱さ故に御言葉をその通り宣言できないとしても、しるしを行う機会を逃してしまったとしても、敵の思考や唇をも支配して、お膳立てし、私達に御言葉を語らせ、しるしを行わさせてくださるのだ!
 主が私達の弱さを知り、主の御言葉を伝え、御業を成そうとする者には、敵を支配してでも、私達が成功するまで、そう下さる。そうであるからには、何度でもチャレンジするべきである。最も良くないのは、主の「上げ膳据え膳」に乗らず、あきらめて何もしない事、元の奴隷に戻って、口を開かない事である。自信をもって御言葉を伝え、御業を為していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
御言葉であられるイエス様を有り有りと存在させ、溢れさせるためには(ヨハネ6:52-59)
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