メッセージ - 201809のエントリ

新生と更新との洗いをし、悪しき者を追い出して下さる聖霊(ローマ8:1-15)
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ローマ8:1 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

ネヘミヤ13:4 これより先、われわれの神の宮のへやをつかさどっていた祭司エリアシブは、トビヤと縁組したので、
13:5 トビヤのために大きなへやを備えた。そのへやはもと、素祭の物、乳香、器物および規定によってレビびと、歌うたう者および門を守る者たちに与える穀物、ぶどう酒、油の十分の一、ならびに祭司のためのささげ物を置いた所である。
13:6 その当時、わたしはエルサレムにいなかった。わたしはバビロンの王アルタシャスタの三十二年に王の所へ行ったが、しばらくたって王にいとまを請い、
13:7 エルサレムに来て、エリアシブがトビヤのためにした悪事、すなわち彼のために神の宮の庭に一つのへやを備えたことを発見した。
13:8 わたしは非常に怒り、トビヤの家の器物をことごとくそのへやから投げだし、
13:9 命じて、すべてのへやを清めさせ、そして神の宮の器物および素祭、乳香などを再びそこに携え入れた。

ローマ8:3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。
8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

ガラテヤ3:21 では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。
3:22 しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。

ローマ8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。

エペソ6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
6:13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

使徒10:38 神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。

マタイ12:28 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

ローマ8:9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
8:10 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。

テトス3:4 ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、
3:5 わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。
3:6 この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。
3:7 これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。

8:12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。
8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。

エペソ5:22 妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。
5:23 キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。
5:24 そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。

ルカ11:9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
11:10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
・・・
11:13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
 

神との出会いがいつまでも続き、神の宮に留まり続けられる人の性質(詩篇15篇)
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15篇もダビデが作った詩篇であり、彼の問いかけから始まる。

ダビデの歌
15:1 主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。

神の幕屋は、モーセの時代において神と出会う場所、すなわち、礼拝をする場所であり、聖なる山は、ダビデが神殿を建てようとしていた山である。
神の宮にずっと留まり続けられる人、あるいは神との出会いがいつまでも続く人の性質が、以降の箇所に書いてある。

15:2 直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、

2節には「歩み「行い」「語る」の3つの動詞が出てくるが、いずれも、現在の状態を継続する形である。
すなわち、過去のある時点でそうだったとしても、現在それを止めてしまっているとしたら、神への正常な礼拝や交わりが出来ないのだ。

直ぐな歩みとは、神とともに歩む歩みである。
旧約の偉人・エノク、ノア、アブラハムに共通しているキーワードは、「神と共に歩む(ハーラフ)」であった。(創世記5:22-24, 6:9,12:1-2)
彼らは、罪深い時代・罪深い人々の中に住んでは居ても、周囲の愚かさや邪悪な思想とは一つにならなかった。
それは、彼らは主と共に歩み、主の御言葉を守り行い、そうして「全き者」(創世記17:1)となって行ったからだ。
もし、神との密接な関わり解くとするなら、祝福の源なるお方から遠ざかる事になるので、祝福が遠ざかってしまう。
ましてや、神を捨て去り牙をむくなら、カインやイスカリオテのユダのように呪われた者になってしまう。

義を行い、心の真実を語るためには、当然、心の中に真実が存在しなければならない。
そのためにこそ、日々、御言葉を口ずさむ事(テフィリン)が必要なのである。

15:3a その舌をもってそしらず、隣り人に対するそしりを取りあげず

「そしる」と訳されたヘブライ語はラーガル、これは「歩む」という意味もあるが、それは舌先で歩きまわって人を傷つける意味での「歩き回り」である。
人と人との間を歩き回って、Aの所に行ってはBの悪口を言い、Bの所に行ってはAの悪口を言うような。
この「そしり」の行為は、サタンの性質である。

黙示録12:10 その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。

だから、訴えるに早い唇、人をそしる事に心地よさを覚えるような唇こそ、切って捨てるべきだ。
そうでないと、サタンと同じそしりを受け、唇だけでなく体全体がゲヘナに投げ込まれてしまうから。

15:4 その目は神に捨てられた者を卑しめ、主を恐れる者を尊び、誓った事は自分の損害になっても変えることなく、

「神に捨てられた者」と訳されているこの箇所は、原文には「神に」「者」という単語は無い。
原語通りに言葉を並べるなら「軽蔑させる、目で、捨て去られるべきを」となる。
だからここは「捨てられるべき性質や物、事全般を、自分の目をして軽蔑させ、蔑ませる」と、もっと広い意味に訳せる。

神に軽蔑され捨て去られてしまう性質が、エレミヤ書6章に書いてある。
6:28 彼らはみな、強情な反逆者であって、歩きまわって人をそしる。彼らは青銅や鉄であって、みな卑しいことを行う。
6:29 ふいごは激しく吹き、鉛は火にとけて尽き、精錬はいたずらに進む。悪しき者がまだ除かれないからである。
6:30 主が彼らを捨てられた(マアス)ので、彼らは捨てられた銀と呼ばれる」。

ここにも「歩き回ってそしる人」が出てくる。ここに出てくる者は、御言葉に対しての強情な反逆者であり、また、あらゆる人や事をそしってやめない性質が、鉄板化してしまったような者である。
そのような者は、聖徒の集いや礼拝には長く留まれない。
彼らは汚れた者なので、きよい交わりときよい場には、到底居れないからだ。

神に受け入れられない性質を持っているなら、その人は火の試練を通らされる。
しかし、通らされたとしても、なおその性質が除かれないとするなら、そのような者は、神の宮に住まうことはできない。
その人は、主から捨てられてしまう。

15:4b 主を恐れる者を「尊び(カバド)」

サムエルも同じことを言っている。
1サムエル記2:30 わたしを尊ぶ者(カバド)を、わたしは尊び(カバド)、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。

15:4c 誓った事は自分の損害になっても変えることなく、

一度約束した事は、たとえ後になってからその約束が損のように思えたとしても、それを変えない。
そういう人は、一時的には損をしたとしても、神と人から信頼され、将来必ず栄える。
逆に、約束した事をいとも簡単に変えてしまう人は、信頼されないため、高い地位に行く事は無い。

15:5a 利息をとって金銭を貸すことなく、まいないを取って/罪のない者の不利をはかることをしない人である。これらの事を行う者は/とこしえに動かされることはない。

主は、貧しい人、罪のない人を不当に圧迫する者に立ち向かわれる。
出エジプト記22:25 あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。
22:26 もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。
22:27 これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。

申命記16:19 あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたより見てはならない。また賄賂を取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらまし、正しい者の事件を曲げるからである。
16:20 ただ公義をのみ求めなければならない。そうすればあなたは生きながらえて、あなたの神、主が賜わる地を所有するにいたるであろう。

15:5b これらの事を行う者は/とこしえに動かされることはない。

この詩篇15篇で示されたように正しく立つ人、悪の道を歩まない人こそ、神との出会いがいつまでも続き、神の宮に留まり続けられる人である。
神の幕屋も、神殿も、その至聖所は「立方体」で、これは天国の形でもある。(黙示録21:16)
人となられた神であられるイエス・キリストを信じ、彼と共に歩む人こそ、真の至聖所である天国に入れる人なのだ。

聖なる神の宮に俗悪な者の私物を置くなかれ(ネヘミヤ記13:1-14)
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週報/メッセージ(説教)概要

 前回、城壁再建後のエルサレムの霊的再建をさせたネヘミヤの記事から、私達の霊的城壁を再建させて下さる聖霊の働きを学んだ。エズラやネヘミヤの働きによって御言葉へと心向けられた人々は、悔い改めの涙を流し、御言葉を守ってゆく事の決心を新たにした。しかし13章へと読み進めていくと、ネヘミヤが不在の間に、その決心が早くも破られてしまっていた事が分かる。ネヘミヤが戻って早速建て直しの働きに入るのだが、その手法は少々、手厳しい。聖霊も同じである。ひと度救われた人が、聖なる生活をして行く事を決心したにも関わらず、霊的怠慢で再び以前の生活に戻ってしてしまう時、確かに聖霊は取り扱って下さるが、その手法もネヘミヤ同様、少々手厳しい。今回もネヘミヤ記から聖霊の働きを見て行きたい。

時の大祭司エルヤシブは、アモン人トビヤと縁組しており、彼のために、神殿の大きな部屋をあてがっていた(5節)。アモン人は主の民に敵対してきたので神の集会から排除すべき(1-3節)であり、しかもトビヤは、かつて城壁再建の仕事を嘲り、次の言葉を放った者である。「彼らの築いている城壁は、狐一匹が上っても崩れるであろう」(4:3) このような者に、神殿の部屋を提供する。それは相当深い関わりがあっての事だ。
『そのへやはもと、素祭の物、乳香、器物および規定によってレビびと、歌うたう者および門を守る者たちに与える穀物、ぶどう酒、油の十分の一、ならびに祭司のためのささげ物を置いた所である。』(5節) 
この事は、先週の箇所で、主の前に誓った内容であったが(10:39)、早速なおざりにされてしまったのだ。
本来主の働きをする働き人に提供されるべき十分の一の捧げものが置かれる部屋に、トビヤの私物が置かれ、主への捧げ物が閉め出されている。ここに、現在の私達が気をつけるべき点がある。私達キリスト者は、神の御霊が住まわれる神の宮(1コリ3:16)であり、神に捧げられた「生きた供え物」である。(ロマ12:1)
本来、尊い神の言葉で満たすべき私達の心と思いが、汚れた享楽や淫らで異邦的な思案に占拠され、人生再建のわざをあざけり、気落ちさせる者に場所を提供し、聖霊を締め出してしまっていないだろうか。
『わたしは非常に怒り、トビヤの家の器物をことごとくそのへやから投げだし、命じて、すべてのへやを清めさせ、そして神の宮の器物および素祭、乳香などを再びそこに携え入れた。』(8-9節) ネヘミヤは憤って強制力を発動し、きよめを遂行した。本来、祈りの家を見張るべき指導者が、世と妥協し、宮が汚されるままに任せるなら、主イエス様も憤られ、聖霊も憤られ、宮きよめを行使するために、強制力を発動される。
私達も、自分自身という宮を見張る事を怠り、トビヤの私物を自分の中にのさばらせているなら、少々手厳しい扱いを受け、ものずごく恥ずかしい思いをするかもしれないし、何か大きな損失を被るかもしれない。

そもそも、主への捧げ物で満たされるべき部屋が空疎になり、トビヤの私物が占拠してしまった根本原因は、主への捧げ物がなおざりになっていた事である。『わたしはまたレビびとがその受くべき分を与えられていなかったことを知った。これがためにその務をなすレビ人および歌うたう者達は、各々自分の畑に逃げ帰った。』(10節) 捧げ物(献金)が、なおざりになると、神の働き(人)が、なくなる。日本は特にそうである。
『それでわたしはつかさたちを「責めて(リーブ)」言った、「なぜ神の宮を捨てさせたのか」。そしてレビびとを招き集めて、その持ち場に復帰させた。』(11節) ここのリーブは法廷用語として「争う」の意味があり、互いの立場から論じ合うことを意味する。ネヘミヤの強行な働きに反対者が立って争いがあったのかもしれないが、ネヘミヤは見事勝利し、レビ人を復帰させ、十分の一を回復させた。私達も、異邦的な快楽に浸っていたいという「肉」があって争う時、私達が御霊の法則に乗るのであるなら、肉は御霊によって殺され、私達は生きる(ローマ8:1-15)。しかし、もし御霊を無視するなら、相変わらず奴隷の恐怖のままである。

ネヘミヤはさらに、神の宮の部屋を「忠実な(アーマン)者と認められていた」人達に守らせた(13節)。
ここのアーマンは「支持する、確認する、信頼する」の再帰態(させられるの意)で、このアーマンが元となってアーメンが派生する。アブラハムは神を信じた(アーマン)故に、それによって彼は義とされた。(創15:6)
聖霊が私達の内側を宮をきよめした後、信仰によって守らせる。もはや以前の汚れが入って来ないように。
強制力によってきよめを受けた場合、少々痛いかもしれないが、しかしそれは幸いである。その後さらに神と親しい、きよく聖なる生活へと入って行けるからだ。一番良いのは、最初の決心から離れず、聖なる生活をキープし続けて行く事だ。聖なる生活を続け、災いから遠い日々を送っていく皆さんでありますように!

ベエル・シェバを獲得するまで(創世記21:9-34)
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創世記21:22 そのころアビメレクとその軍勢の長ピコルはアブラハムに言った、「あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる。
21:23 それゆえ、今ここでわたしをも、わたしの子をも、孫をも欺かないと、神をさしてわたしに誓ってください。わたしがあなたに親切にしたように、あなたもわたしと、このあなたの寄留の地とに、しなければなりません」。
21:24 アブラハムは言った、「わたしは誓います」。
21:25 アブラハムはアビメレクの家来たちが、水の井戸を奪い取ったことについてアビメルクを責めた。
21:26 しかしアビメレクは言った、「だれがこの事をしたかわたしは知りません。あなたもわたしに告げたことはなく、わたしもきょうまで聞きませんでした」。
21:27 そこでアブラハムは羊と牛とを取ってアビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。
21:28 アブラハムが雌の小羊七頭を分けて置いたところ、
21:29 アビメレクはアブラハムに言った、「あなたがこれらの雌の小羊七頭を分けて置いたのは、なんのためですか」。
21:30 アブラハムは言った、「あなたはわたしの手からこれらの雌の小羊七頭を受け取って、わたしがこの井戸を掘ったことの証拠としてください」。
21:31 これによってその所をベエルシバと名づけた。彼らがふたりそこで誓いをしたからである。
21:32 このように彼らはベエルシバで契約を結び、アビメレクとその軍勢の長ピコルは立ってペリシテの地に帰った。
21:33 アブラハムはベエルシバに一本のぎょりゅうの木を植え、その所で永遠の神、主の名を呼んだ。
21:34 こうしてアブラハムは長い間ペリシテびとの地にとどまった。

26:22 イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテと名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」。
26:23 彼はそこからベエルシバに上った。
26:24 その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。
26:25 それで彼はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った。またイサクのしもべたちはそこに一つの井戸を掘った。

21:9 サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、
21:10 アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。
21:11 この事で、アブラハムはその子のために非常に心配した。
21:12 神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。
21:13 しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。
21:14 そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。
21:15 やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、
21:16 「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。
21:17 神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。
21:18 立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。
21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし、わらべに飲ませた。
21:20 神はわらべと共にいまし、わらべは成長した。彼は荒野に住んで弓を射る者となった。
21:21 彼はパランの荒野に住んだ。母は彼のためにエジプトの国から妻を迎えた。

詩篇23:1 ダビデの歌 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
23:2 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
23:3 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
23:4 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
23:6 わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

「神はいない」と言う者は「腐れ果てている」(詩篇14篇)
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 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
14:1 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。

詩篇10:4にも書いてある通り、悪人や愚かな者の人生の根底に流れている価値観は、「神はいない」である。
クリスチャンは神を恐れ敬っているので、極端に悪と見られる事はできないのに対し、悪人や愚か者は、平気で破滅の海原へと飛び込む事ができる。
それは、勇気ではないし強さでもない。愚かさと無知の故だ。

「神はいない」と言う者は「腐れ果てている」と書いてある。これは真理である。
神から離れれば離れるほど、また、御言葉から離れれば離れるほど、霊的な死が進行し、腐敗が進行して悪臭を放ち、悪霊という蝿がたかり、うじが沸き、臭い言動や臭い立ち居振る舞いをばらまいて、神と人とをうんざりさせる。

しかし私達が「神はある」とし、神ご自身であられる御言葉を信じて宣言する間、その進行して行く死は止められ、いのちへと向かっていく。
その人は日々、力を受け、わしのように若々しくなって行く。
だから、御言葉を昼も夜も口ずさむテフィリンが重要なのだ。

その人は「腐れ」とは逆方向へと進んで行き、生き生きと、新鮮な者となって行き、その人が行く所はどこでも人々を喜ばせ、被造物も喜んでその人に祝福の実りで答える。
それに対し、「神はいない」と言う人が行く所はどこでも人々をうんざりさせ、また被造物は萎えて行く。
その証拠に、「神はいない」という共産主義国、まことの神を無視する偶像礼拝国の土地は、やせ細り、動物や魚もその近辺にあまり寄り付かないため、中々獲れない。
被造物は、神はいないとする者達を毛嫌いするからだ。

14:2 主は天から人の子らを見おろして、賢い者、神をたずね求める者が/あるかないかを見られた。

主は全地を見渡される。
最近都会では監視カメラがいたる所にあるが、それは人の心は見抜けない。
神は全地を見渡し、人の外見のみならず、心をも見ておられ、神をたずね求める者は「賢い者」のあるかないかを見られる。

ダビデがまだ羊飼いの少年だった頃、彼は誰にも認められなかった。父エッサイも、彼の兄たちも彼をさげすみ、羊飼いの用事を言いつけて数にも数えられていなかった。
しかし主は、その時から彼の心を見ておられ、「私はエッサイの子に王を見つけた」とサムエルに言われた。
神は全地を見渡し、そして外見ではなく心を見られるお方である。

この神をたずね求める者こそ、「賢い者」である。
箴言28:5 悪人は正しいことを悟らない、主を求める者はこれをことごとく悟る。

なぜ主を求める者は、ことごとくを悟るのか。
それは、ことごとくを悟っておられるお方に求めるからだ。
主こそ全ていのちを創られ、人を設計されたお方。一人一人の最善を知っておられ、全被造物を創造し、管理しておられるお方である。
この御方に聞く人は、全てを悟ったようなものであるが、この御方を「いない」とする者は、何事にも、あてずっぽうの偶然に頼って生きる者、設計図なしに人生設計する者である。

14:3 彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない。

ダビデは繰り返し言った。「神はいない」とする者は、ひとしく腐れている、と。
アダム以来、神から離れた者の中で、善を行う者は、ひとりもいないのだ。

14:4 すべて悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物食うようにわが民をくらい、また主を呼ぶことをしない。

一見すると、悪を行う者が正直に生きている人々を食い物にし、大いに栄えているように見える。
そして、正直な人や悪を避けている人が、とても損な生き方をしているかのように見える時がある。
しかし、それは真理ではない。

14:5 その時、彼らは大いに恐れた。神は正しい者のやからと共におられるからである。
最終的には、神をなしとする者達は、神を畏れる人を、恐れるのだ。
アブラハム、イサク、ヤコブ、みんな周囲の異教徒たちは恐れた。周囲に比べ、彼らは圧倒的に人数が少ないにもかかわらず、である。

創世記35:1 ときに神はヤコブに言われた、「あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい」。
35:2 ヤコブは、その家族および共にいるすべての者に言った、「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて着物を着替えなさい。
35:3 われわれは立ってベテルに上り、その所でわたしの苦難の日にわたしにこたえ、かつわたしの行く道で共におられた神に祭壇を造ろう」。
35:4 そこで彼らは持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与えたので、ヤコブはこれをシケムのほとりにあるテレビンの木の下に埋めた。
35:5 そして彼らは、いで立ったが、大いなる恐れが周囲の町々に起ったので、ヤコブの子らのあとを追う者はなかった。

周囲から一目置かれる人とは、主の言葉どおり行い、主を礼拝する者、主を差し置いて拠り所とするような一切のものを捨て去り、汚れたものを捨て去った者である。
そのような人が進み行く時、周りの人々は彼を恐れ、何の手出しもできないのだ。

14:6 あなたがたは貧しい者の計画を/はずかしめようとする。しかし主は彼の避け所である。

主を避け所とする人は、恐れる必要はない。
主は全ての人を知っておられ、いのちを支配しておられるからだ。

マタイ10:26 だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。
10:28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
10:29 二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
10:30 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
10:31 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。

私達は自分の事を知らない。髪の毛の数も、自分の具合の良し悪しも。しかし主は知っておられる。

マタイ10:32 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。
10:33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。

ここにも、「神はおられる」とする人と、「神はいない」とする人との違いが記されている。
主は生きておられ、やがて全ての人は白いさばきの座において、さばかれるのだ。

14:7 どうか、シオンからイスラエルの救が出るように。主がその民の繁栄を回復されるとき、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむであろう。

シオンとは「要害」という意味である。ダビデは主を要害とし、とりでとした。
そしてシオンは神殿が立てられた場所、礼拝をするべき所である。全ての救いは、主を礼拝する所から来るのだ。
そして、イスラエルとは誰か。それは、十字架の死と復活を経て、新しく造られた法則に従って進む私達である。

ガラテヤ6:14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。
 6:15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
 6:16 この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。
 

主を愛する者に与えられる特別な恩恵(ヨシュア記6:22-25)
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ヨシュア記6:22 その時ヨシュアは、この地を探ったふたりの人に言った、「あの遊女の家にはいって、その女と彼女に属するすべてのものを連れ出し、彼女に誓ったようにしなさい」。
6:23 斥候となったその若い人たちははいって、ラハブとその父母、兄弟、そのほか彼女に属するすべてのものを連れ出し、その親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外に置いた。
6:24 そして火で町とその中のすべてのものを焼いた。ただ、銀と金、青銅と鉄の器は、主の家の倉に納めた。
6:25 しかし、遊女ラハブとその父の家の一族と彼女に属するすべてのものとは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブは今日までイスラエルのうちに住んでいる。これはヨシュアがエリコを探らせるためにつかわした使者たちをかくまったためである。

ルカ7:36 あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、
7:38 泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。
7:40 そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。
7:41 イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。
7:42 ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。
7:43 シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。
7:44 それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。
7:45 あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。
7:46 あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。
7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
7:48 そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。
7:49 すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。
7:50 しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

マタイ1:5 サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、
1:6 エッサイはダビデ王の父であった。

ルツ記2:1 さてナオミには、夫エリメレクの一族で、非常に裕福なひとりの親戚があって、その名をボアズといった。
2:2 モアブの女ルツはナオミに言った、「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。だれか親切な人が見当るならば、わたしはその方のあとについて落ち穂を拾います」。ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言ったので、
2:3 ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。
2:4 その時ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。

士師記6:36 ギデオンは神に言った、「あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルを救おうとされるならば、
6:37 わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。これによってわたしは、あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルをお救いになることを知るでしょう」。
6:38 すなわちそのようになった。彼が翌朝早く起きて、羊の毛をかき寄せ、その毛から露を絞ると、鉢に満ちるほどの水が出た。
6:39 ギデオンは神に言った、「わたしをお怒りにならないように願います。わたしにもう一度だけ言わせてください。どうぞ、もう一度だけ羊の毛をもってためさせてください。どうぞ、羊の毛だけをかわかして、地にはことごとく露があるようにしてください」。
6:40 神はその夜、そうされた。すなわち羊の毛だけかわいて、地にはすべて露があった。

御言葉と告白の交互宣言(ネヘミヤ記9-10章)
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「演歌の祈り」と「下さいの祈り」、そして「ダビデの祈り」(詩篇13篇)
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表題: 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

詩篇13篇もダビデの賛歌で、彼に悩みがある時の祈りである。
短い祈りではあるが、三つの段階があって、段を進んで行くごとに、成熟した祈りへと発展して行く。

13:1 主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。
13:2 いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に/悲しみをいだかなければならないのですか。いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。

まず、第一段階目の祈りは、主に対する感情的な訴えで始まる。
そしてこの段階では、「いつまでですか」という訴えが四回出てくる。

最初の訴えは、「とこしえにわたしをお忘れになるのですか」というものだが、主は、主の民を決して忘れたり見捨てたりする事の無いお方であると書いてあるので、それは真理ではない。
ただこの時、ダビデは主から「とこしえに」忘れられているかのような気分になっているのだ。

2つ目の訴えは、「み顔をわたしに隠されるのですか」である。
もし主が御顔を隠される、とするなら、主の恵みと平安が、全く無い状態である。

民数記6:25 願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。
 6:26 願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安を賜わるように」』。

ダビデは、主があたかも御顔を隠していて、恵みも平安も一切無いかのように思えている状態なのだ。

以上のように、1つ目と2つ目の訴えは、真実に基づいていない訴えであるが、それらの原因は、以下の3つ目の訴えから見出す事が出来る。

13:2 いつまで、わたしは魂に「痛み(アツァー:アドバイス、カウンセル、プラン)」を負い、ひねもす心に/悲しみをいだかなければならないのですか。
ここは、KJVでは「How long shall I take counsel in my soul」、すなわち言い換えてみるなら、この3つ目の訴えは、私はいつまで、自分で自分の魂にカウンセリングをし続けなければならないのですか、というものである。
つまり彼は、心の中でぐるぐると思い巡らせている状態なのだ。
井の中の蛙大海を知らず、ということわざがあるが、ダビデはこの時、悩みの井戸の中でぐるぐると周り、自分で自分にマイナスのカウンセリングをひたすらし続けていて、主の恵みの大海には全く目を向けていない状態だ。

4つ目の「いつまでですか」の訴えは、敵が彼の上にあがめられている状態を訴えるものである。
自分の思いの中でぐるぐるとマイナス感情を巡らせていると、敵が大きく見えてしまうものである。

クリスチャンの中に、この、2節までの祈りで終わらせてしまう人がいるが、これはただ自己悲哀の「演歌の祈り」である。
捨てられた、どうして、いつまで、という悲哀にどっぷりと浸って酔っていて、信仰を奮い立たせる気色が全く無いとするなら、逆に主のほうから「いつまで」と訴えられてしまう。

しかし3節以降、ダビデの祈りが変わる。

13:3 わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、わたしの目を明らかにしてください。さもないと、わたしは死の眠りに陥り、
13:4 わたしの敵は「わたしは敵に勝った」と言い、わたしのあだは、わたしの動かされることによって/喜ぶでしょう。

ダビデはここで、わたしに目を注いで答えて下さい、死の眠りに陥ってしまう前に、わたしの目を明らかにして(輝かせて)ください、と、願い求めている。
私達はどうする時、目が輝くか。

1サムエル記14:29 ヨナタンは言った、「父は国を悩ませました。ごらんなさい。この蜜をすこしなめたばかりで、わたしの目がこんなに、はっきりしたではありませんか。

ヨナタンは、蜜を少しなめただけで、目がはっきり輝いた。
まことの蜜は御言葉であり、もし御言葉に対する完成が曇っているなら、死の眠りへと陥ってしまう。
父サウル王は目が曇っており、本来、力を蓄えて戦うべき時に断食を布告してしまうような、かなりの「死の眠り」に陥ってしまっていた。

1サムエル記14:24 しかしその日イスラエルの人々は苦しんだ。これはサウルが民に誓わせて「夕方まで、わたしが敵にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言ったからである。それゆえ民のうちには、ひとりも食物を口にしたものはなかった。
14:25 ところで、民がみな森の中にはいると、地のおもてに蜜があった。
14:26 民は森にはいった時、蜜のしたたっているのを見た。しかしだれもそれを手に取って口につけるものがなかった。民が誓いを恐れたからである。
14:27 しかしヨナタンは、父が民に誓わせたことを聞かなかったので、手を伸べてつえの先を蜜ばちの巣に浸し、手に取って口につけた。すると彼は目がはっきりした。
14:28 その時、民のひとりが言った、「あなたの父は、かたく民に誓わせて『きょう、食物を食べる者は、のろわれる』と言われました。それで民は疲れているのです」。
14:29 ヨナタンは言った、「父は国を悩ませました。ごらんなさい。この蜜をすこしなめたばかりで、わたしの目がこんなに、はっきりしたではありませんか。
14:30 まして、民がきょう敵からぶんどった物を、じゅうぶん食べていたならば、さらに多くのペリシテびとを殺していたでしょうに」。

サウル王が、時でない時に無駄な断食布告をしてしまったのは、主に聞かず、人や状況だけを見て右往左往し続けたから、目の輝きを失い、霊的に曇らされて、このような迷走を続けたのだ。
それはやがて、死の眠りへと、陰府(シェオル)へと、落ち込んで行ってしまう。
サウルとシェオルは、ヘブライ語で同じスペルであり、それは、もし私達もサウルの道をたどるなら、シェオル(陰府)へと落ち込んでしまう、という警告である。

私達は御言葉を求めるべきである。
それこそあらゆる物事に対して目が開かれ、為すべき事と為してはならぬ事の見分けがつき、的を射た歩みが出来るのだ。

ダビデは3-4節において、何々して下さい、という「くださいの祈り」をした。
クリスチャンの多くはこの「下さいの祈り」で終わってしまい、信仰告白や感謝、賛美へと至っていない場合が多い。
しかしダビデは5節以降、さらに進んで、信仰告白と賛美と感謝の祈りをする。

13:5 しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。
13:6 主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、わたしは主にむかって歌います。

ダビデは主に信頼し、主の救いを喜び、主に感謝の賛美を捧げた。
いつまでも悲しんでいてはならない。なぜなら、主を喜ぶ事こそ、力の源なのだから。

ネヘミヤ記8:10  そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。

ダビデは祈る時、決して演歌節で終る事なく、あるいは「下さい」の祈りで終る事もなく、いつも、感謝と賛美を捧げる所までしている。
たとえ最初はいかに演歌節であったとしても、最後は賛美と信仰告白で終る祈りこそ「ダビデの祈り」であり、「上等の祈り」である。

詩篇を読んでいると、ダビデはいつも弱気で悩んでいるかのように見えるが、サムエル記のダビデはいつも連戦連勝で、勇者としての輝かしい実績が記されている。
ダビデの連戦連勝の影には、彼の心に抱えていた悩みや不安、恐れを、全部神様に持っていき、そして御言葉宣言と信仰告白という、「上等の祈り」があったのだ。
それで彼は、信じたとおりになったのだ。

イザヤ55:10 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。
55:11 このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。

2節までの演歌の祈りで終わる人は、小さい悩みの井戸の中を、いつもぐるぐる廻る生活をしている。
4節までの「下さい下さい」の祈りで止まっている人は、感謝、賛美へと至らない不完全燃焼の祈りであり、あまり実を結ばせない人生である。
しかし「ダビデの祈り」、感謝、賛美へと至る「上等な祈り」をする人は、多くの実を結び、信じた通りになり、信仰においても実際の生活においても連戦連勝の有意義な人生を送るのだ。

霊的城壁を再建するネヘミヤと聖霊(ネヘミヤ記7-10章)
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賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 前回、ネヘミヤが城壁を再建させた記事から、私達を建て直して下さる聖霊のご性質を学んだ。続く箇所は、霊的に安定した生活を定着させるよう奮闘した記事が記されている。いかに城壁が回復し、生活水準が上がっても、御言葉に従わず霊的に堕落した生活を続けているなら、城壁は再び壊されてしまうからだ。今回、ネヘミヤ記7章以降より、私達の霊的生活を回復させて下さる聖霊のご性質を学びたい。

城壁が再建されて後、ネヘミヤが真っ先にした事は、適切な指導者を任命した事で、その基準は「忠信な(エメス:堅実な、真実な)、神を恐れる者」(7:2)である。ネヘミヤの前任者は、兄弟姉妹から搾取したり奴隷にするような、神を恐れない人だったため (5章)、その者達は外し、神の基準に立った正しい統治をさせたのだ。さらに神は、ネヘミヤの心に、指導者や代表者の「系図」を調べる思いを入れられた。(7:5)
それは、系図によって出所の裏付けが取れた、正しい人が働きをするようにするためである。
自分自身のアイデンティティである系図を失っていた者は、祭司職から外された(7:64)。聖霊が教会において働かれる時も、同じように、霊的に正しい人を奉仕の任に就かせ、そうでない者は降ろす働きをされる。
聖霊は私達の中の異邦的な価値観を取り除き、思いを清め、人生の采配が正しくできるようにして下さる。

8章では、人々が自ら進んでエズラに御言葉を求めた記事が記されている。『彼らはその書、すなわち神の律法を明瞭に読み、その意味を解き明かしてその読むところを悟らせた。』(8:8) 聖霊もまた人の心に、御言葉への飢え渇きを起こし、御言葉が自分に言わんとする所を、理解させる。(エペソ3:16-19)
人々が御言葉を理解した時、彼らが最初に示した反応は「悲しみ」だった(7:9)。エズラがその時宣言したのはモーセ五書であり、そこには祝福と呪いの法則があり、それに照らすなら、今まで自分達が歩んできた道がまさに「呪われる道」に一致していた事を、御言葉から知ったのだ。千年以上前に書かれた御言葉に、まさに今の自分達の事が書かれてあり、今この呪われている理由が、実に的確に記されていたのだ。
聖霊は私達に、自分の罪の現状を思い知らせ、悲しみと悔い改めの心を起こさせる。(ゼカリヤ12:10)
しかし、ネヘミヤ(慰め主)はこの時言う。悲しんではならない、今は喜びなさい、と。『彼らに言った、「あなた方は去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのない者には分けてやりなさい。この日は我々の主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶ事はあなた方の力です」。』(ネヘミヤ8:10)
御言葉を知った当初、罪の悲しみが起きるが、聖霊は畳み掛けるように責める事はなさらず、まず、良いものを食べ飲みなさい、憂うのではなく、主を喜びとしなさい。それこそあなたの力だから、と言われる。
  『こうして民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。』(8:12) この時、御言葉に従って行った仮庵祭は、非常に大きな喜びであった。(8:13‐18) 聖霊は罪を示し、悲しませるが、御言葉を行う事の喜びで、大いに喜ばせて下さる。

こうして大きな喜びの中で仮庵祭を祝ったが、祭りが終わった二日後、彼らは悔い改めの集会を開いた。
これは、エズラやネヘミヤに促されてでなく、自発的に行ったのだ。祭りの間は喜ぶべき時であって、悔い改めの断食をすべきではない。しかし彼らは、祭りの間も、罪に対するけじめをきっちりつけなければ収まりがつかなかったのだろう。9章は、御言葉に基づいた背信の告白と、悔い改めの内容が記されている。
聖霊もまた、良いものを食べさせて元気づいたなら、悔い改めるべき事のけじめをつけるように導かれる。
今までの呪われる性質に、きっちりけじめをつけなければ、またすぐに城壁や生活が破壊されてしまうのだ。
9章は、ただ自分達が主に罪を犯して来た事と、それ故今自分達は苦しみの中にいる告白で終わり、「つきましては救って下さい」という願いは無い。ただ、この事は決して忘れません、と告白する。(10:29-30) 
それで彼らは決心する。今後異邦人と結婚しない事(10:30)、主の安息を守り(31)、礼拝を守る事(32‐39)を。
聖霊もまた、私達に、霊的で清い生活をして行くよう、決心を促す。もはや異邦的な考えに混じり合う事なく、主への安息を守り、礼拝する事を途絶えさせないように、と。
このような「霊的な城壁」の再建なくしては、物理的な城壁は全く意味を為さない。主が共におられるのでなければ、城壁を見張るのも空しく、早く起きて遅く休んで仕事をするのも空しいのだ。しっかりと霊的城壁を築き、安息と主の備えが豊かにされる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

なくなる食物のためでなく「わたしはある」なるお方のために(ヨハネ6:16-27)
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6:16 夕方になったとき、弟子たちは海ベに下り、
6:17 舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。
6:18 その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。
6:19 四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。
6:20 すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ(エゴ・エイミー=わたしはある)、恐れることはない」。

出エジプト記3:13 モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
3:14 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

ヨハネ6:21 そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。

コロサイ1:13 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。
1:14 わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。

ヨハネ6:22 その翌日、海の向こう岸に立っていた群衆は、そこに小舟が一そうしかなく、またイエスは弟子たちと一緒に小舟にお乗りにならず、ただ弟子たちだけが船出したのを見た。
6:23 しかし、数そうの小舟がテベリヤからきて、主が感謝されたのちパンを人々に食べさせた場所に近づいた。
6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知って、それらの小舟に乗り、イエスをたずねてカペナウムに行った。
6:25 そして、海の向こう岸でイエスに出会ったので言った、「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」。
6:26 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。
6:27 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。

コロサイ1:15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
1:17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
1:18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
1:19 神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、
1:20 そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。

ヨハネ6:66 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。
6:67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。
6:68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。
6:69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。

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