メッセージ - 20180810のエントリ

詩篇概要(詩篇1:1)
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本日より、詩篇の講解説教に入る。

詩篇は、ユダヤ的な分類では、ヨブ記と同様「諸書(ケトゥビーム)」に、また異邦人の分類では「詩歌・文学」に当たる。
ヘブライ語ではテヒリーム、すなわち、テヒラー(賛美)の複数形で、「賛美たち」がその意味する所である。

実際、イスラエルでは、ダビデの時代より、礼拝が捧げられる時には、色々な種類の楽器によるオーケストラと聖歌隊で成る賛美チームが編成され、詩篇の歌詞を色々な”調べ(メロディ)”に合わせて、栄光の主へと賛美が捧げられた。
詩篇の中に、「セラ」「マスキール」「ミクタム」など、音楽の指示をする言葉であろう特有の語が登場し、また、「ゆりの花のしらべ」(詩篇45篇)や、「マハラテのしらべ」(詩篇53篇)、「遠き所におる音をたてぬ鳩のしらべ」(詩篇56篇)など、歌詞は残っていても現在は失われてしまっているメロディも表記されていて、当時は一体どんな演奏でどんなメロディで賛美が捧げられていたのだろうと、興味をそそられるものがある。
しかし、それらがどのようなものであったのかを調べたり、「その通りしなくては」とこだわる必要は無い。なぜなら詩篇には、何度も「新しい歌を主に向かって歌え」と記されており、実際に現代、多くの新しい歌が作られ、礼拝の都度、主に捧げられているからである。

詩篇は、現在の形へと編纂し終わるまで、1000年以上はかかっている。
最も古い記者はモーセ(詩篇90篇)で、新しい所では、バビロン捕囚の時代にユダヤ人がバビロンの川のほとりで作った嘆きの詩もある(詩篇137篇)。
表題の中で、作者の名前が明記されている所では、ダビデが73回、アサフが12回、コラの子たちが11回、ソロモンが2回、エズラフ人ヘマンが1回、エズラフ人エタンが1回、モーセが1回である。
色々な時代の、神とともに歩んだ信仰の先輩たちの信仰の表明をあらわした詩集が、この詩篇なのだ。


詩篇の構造は、モーセ五書(トーラー)と同じく、五巻から成り立っていて、ヘブライ思考的に見るなら、詩篇は「トーラーの注釈」とも言える。
すなわち、第1巻(1‐41篇)は、創造と人のコンセプトが記されており、ここを読むと創世記が分かる。
第2巻(42‐72篇)は、解放と贖いについての言葉があり、トーラーの出エジプト記の内容に相当する。
第3巻(73‐89篇)は、聖所と礼拝に関する事が記されており、レビ記の内容に相当する。
第4巻(90‐106篇)は、さまよいと苦難が記されており、まさに民数記の内容である。
第5巻(107‐150篇)は、律法と賛美が記されており、申命記の内容である。
このように詩篇は、テーマに沿った分類によって並んでいるため、時系列で並んでいるものではない。

トーラー、すなわちモーセ五書は、ユダヤ人の礼拝・生活法規が記されているが、それを個人個人の生活の場面場面で適用して行くために、それぞれが個人的な祈りをもって神と親密な交わりをするために編纂された形式である。
すなわち詩篇は、トーラーを生活へとエンバディング(具現化、体現化)するものであり、色々な時代の信仰の先人たちが、それぞれ困難な状況で、あるいは喜びの状況の中で、どのような心境で神と交わりを持ち、いかなる言葉で神と関わってきたかを示している。
それだから、現代を生きる私達も、これを神との関わり方のモデル、祈りのモデルとし、あるいは賛美のモデル、神との関わり方のモデルとするために、大いに用いるべきである。


詩篇の直前の書・ヨブ記も、詩篇と同様に詩歌文学に分類され、3章から最終章まで詩文体によって記されているが、ヨブ記の詩文形式の議論を、そのまま自分の祈りの言葉にしている人は、ほぼいないだろう。
詩篇はギリシア語で「プサルモイ」、すなわち「心を動かすもの」であるのに対し、ヨブ記の詩文形式で記された議論は、人を感動させないどころか、うんざりさせる事が多い内容だ。
なぜなら、その中身がどんなに崇高に見えたとしても、所詮は人の知恵や哲学に基づく議論であり、そして何より、そこには主エホバの御名が一切無いからだ。実際ヨブ記3章から37章の長い議論の中で、唯一、主エホバの御名が出てくるのは、12章9節のヨブの言葉の、たった1回なのだ。
主の御名の無き人間同士の議論は、人をうんざりさせるものだ。

ヨブはしかも、創造主に対し、詩文体を用いて”崇高に”文句を言い、自分が正しくて、主のほうが間違っている、と、延々と主張しているのだ。
もしヨブのような祈り、すなわち「わたしは悪くない、創造主が悪い」という祈りを延々とする人がいるとするなら、その人はヨブのように、どんどん怒り心頭して行き、最後には、圧倒的な主の取り扱いを受け、砕かれる。そうして悔い改めてから、ようやく幸いを得るのである。

ユダヤ人は詩篇を好んで暗唱(テフィリン)し、暗唱した御言葉に、自分の信仰を混ぜ込んで宣言し、それをすなわち祈り(テフィラー)としているため、彼らは多くの祝福を得ているのだ。
もし人が、ヨブのように、自己義を主に向かって主張する祈りをするなら、打ち砕かれる事が待っている。しかし詩篇で祈っていくなら、ユダヤ人のような知恵の祝福、富の祝福、繁栄の祝福が待っている。


詩篇をギリシア思考的に分類するなら、次のようになる。
〇身と尊崇の歌 共同体の嘆きの歌 2Δ了輅咫´じ朕佑涼欧の歌 ジ朕妖な感謝の歌 神の国に関する詩篇 Т脅佞販蘿劼了輅咫´┣い改めの詩篇 知恵と律法を称賛する詩篇 とりなしの詩篇 のろいと報復の詩篇 (実用聖書注解より)

しかし私達は、詩篇を読む時、単なる、遠い国の、古代の詩歌文学として読むのではなく、今この時代、私達もこの詩篇の言葉をもって賛美し、礼拝の場面で主に向かって感謝と喜びの賛美をささげるなら、あの時代に起きたごとく、主は偉大な栄光を表して下さる。
もし、詩篇のある箇所に記されているような困難な状況にあって、その時、この詩篇の言葉をもって祈り、また、主に在る兄弟姉妹と心を合わせて共に互いに祈りあうなら、主はあの時代、あの聖徒たちに大いなる助けの御手を差し伸ばしてくださったように、私達も主の偉大な御腕によって助けられる経験をする。
もし自ら罪を犯してしまい、それによって苦々しい困難な状況に陥ってしまった場合、いかに祈り、対処し、いかに主との関係を取り戻せば良いか、という道が示されている。
その他にも、この詩篇の言葉をもって、今の時代の王や権威者のため、国のために執り成し祈る事もできるし、いのちを阻害する神の敵に対し、呪いを宣言するする事もできる。
このように、150篇という膨大な量の祈りの言葉、賛美の言葉、執り成しの言葉、感謝の言葉は、私達信仰者にとって、実に色々な場面に適用できる祈りのガイドであり、主との関わり方のガイド、人生のガイドとして、大いに役立てる事が出来るのだ。

そして詩篇と関わる上で、忘れてはならない事は、イエス様が言われた次の言葉である。

ルカ24:44 「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。
24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

すなわち、詩篇も、トーラーも、預言書も、全てイエス・キリストについて書かれているのだ。
実際、詩篇2篇では世の指導者や王たちがともに集って「油注がれた者(ヘブライ語:メシヤハ、ギリシア語:キリスト)」に逆らう事が記されており、詩篇22篇はまさしく十字架のイエス様の場面が正確に記されている。
ダビデもまた、イエス様について言っている。

使徒2:24 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。
2:25 ダビデはイエスについてこう言っている、/『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、/わたしの右にいて下さるからである。
2:26 それゆえ、わたしの心は楽しみ、/わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、/あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない/であろう。
2:28 あなたは、いのちの道をわたしに示し、/み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであ/ろう』。

ダビデは、将来来るべきメシヤ、すなわちキリストをほめたたえ、詩篇を幾つも書いた。

マタイ22:42 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。
22:43 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。
22:44 すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。
22:45 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。

私達が心と知性と力を尽くして、詩篇の内容で主に祈り、賛美して行く時、御言葉が私達の生活へと具現化(エンバディング)して行く。
そうして神との関係がますます濃厚になり、そして私達も知恵の祝福、富の祝福、繁栄の祝福が与えられて行く。

まさに詩篇1篇にある通りである。

詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

詩篇は、最初のヘブライ語は「アシュレイ・ハ・イシュ」、訳すと「幸いな人」である。
幸いな人の道、何をしても栄える道を歩むために、詩篇のことばを豊かに心に住まわせ、いつも口ずさむ皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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