メッセージ - 20180808のエントリ

主の恵みと助けが再び流れ始出すための鍵:自分の罪を認め、悔い改めの告白をする事(ヨブ記42:1-6)
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ついにヨブ記の最終章である。
3章からずっと続いた詩文体の形式は、この42:6節で終わり、以降、再び通常の散文体に戻る。
この詩文体の形式は、ヨブが生まれた日を呪う所から始まった。
そしてこの最終章では、彼の罪の悔い改めによって閉じられる。

42:1 そこでヨブは主に答えて言った、
42:2 「わたしは知ります、/あなたはすべての事をなすことができ、/またいかなるおぼしめしでも、/あなたにできないことはないことを。

彼は、神には全てが出来る事を悟った。

主はご自身の全能の力を示し、ヨブもまた、造られたものの一つにすぎない事を示された
それでヨブは、納得するのである。
結局、神は、ヨブの疑問質問には一切答えなかった。
しかしヨブは、「神には全てが出来る」事を悟ったので、それで満足したのだ。

人は全て、「神には全てが出来る」事を悟ると、それでどんな疑問があっても、満足する。
クリスチャンになる前は、神について、聖書について、色々と「理不尽」と思えるような、あるいは矛盾だと感じられるような疑問を、クリスチャンや牧師にぶつけて困らせてやろう、という、ヨブのようなスタンスのような人があったとしても、彼が神に出会うと、そのような疑問は、どうでも良くなる。
たとえその疑問に対して、具体的な回答がなされないにしても。

それは、その人が、神のご性質を悟るからだ。
神は良いお方であり、全てを益に導いて下さり、最善以外の事は、なされないお方である、と。
神は愛であり、公平であり、真実であり、圧倒的な力強さとその絶対的な権威でもって、一人ひとりにとって最善を為して下さる、だから大丈夫だ、と。

42:3 『無知をもって神の計りごとをおおう/この者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、/みずから知らない、測り難い事を述べました。

ここに、ヨブによる「主の言葉の引用」と、それに対する自分の側の応答がある。
すなわち、自分は自ら悟らない事を言い、自分で知らない計り難い事を、知ったかぶりして語ってしまった、という告白が。
これは、ヨブの第一回目の応答(40:4-5)には、見られなかった事である。

御言葉を読み、それを引用しそれに応答する。これを神との対話と言う。
私達が神の言葉に対してアーメン(それは真実です)の応答をして行くなら、さらに神との交わりが親密になって行く。
神の言葉に不義申し立てするなら、いつまでも神の沈黙と、打ち叩かれる事がつきまとう。
神はヨブとの対話の中で、ご自分の全能の力を示し、ヨブは造られたものにすぎない事を示された。
さらには、ヨブが自分で知らない計り難い事を、知ったかぶりして語っていた事、そして、ヨブの中の「高慢」という罪を指摘された。

42:4 『聞け、わたしは語ろう、/わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
42:5 わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、/今はわたしの目であなたを拝見いたします。

ヨブは今まで、主について知っていたのは、単なる噂話を聞いていたような、浅はかなものだった、しかし今回の主との交わりを通して、はっきりと目で見たかのような経験をした。
目が見えない人が、「あなたの服装はなっていない」と言うのは、全くあさってな事であるが、同じように、ヨブは神について見てもいなかったのに、知りえない事を知ったかぶりして大胆に語り、実にあさってな事をしていた、と、心底思い知ったのだ。

42:6 それでわたしはみずから恨み、/ちり灰の中で悔います」。

ヨブはついに、自らを悔いた。
長かった。実に。ここにたどり着くまで。
それまで何と、長く、神の沈黙と、彼に対する「打ちたたき」が続いた事だろう。

ヨブのように、病、貧困、悪霊などに悩まされ、祈っても祈ってもそれらにつきまとわれ続ける、という事はないだろうか。
主に祈っても願っても、全然聞かれない、何か天が塞がれてしまっているような、神がずっと沈黙しておられるような、あるいはただ神から叱責ばかりされ続けているような気がする。そのような場合、自分の「咎」「不義」が、神との間の隔てを構築してしまっているのだ。

イザヤ59:1 見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
59:2 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。

ヨブの場合、自己義と高慢が隔てとなって、神に叫んでも祈っても聞かれないような状態が長続きした。

イザヤ書は57章から59章中盤までは、人の中にある罪の指摘と叱責がひたすら続いている。しかし、59章の後半から62章に至るまでは、主の慰めと祝福の預言が為されている。
この、呪いから祝福へと変わるターニングポイントが、59章12-15節の「罪の告白」と「悔い改め」である。

イザヤ59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。
59:13 われわれは、そむいて主をいなみ、退いて、われわれの神に従わず、しえたげと、そむきとを語り、偽りの言葉を心にはらんで、それを言いあらわす。
59:14 公平はうしろに退けられ、正義ははるかに立つ。それは、真実は広場に倒れ、正直は、はいることができないからである。
59:15 真実は欠けてなく、悪を離れる者はかすめ奪われる。主はこれを見て、公平がなかったことを喜ばれなかった。

もし自分の罪を認めず、自分を義とし続けるなら、その人は偽りをしている者であり、いつまでもその追求が続いてしまう(1ヨハネ1:8-10)。
アダムとエバは、自分が何をしたのか告白するべき場面で、人や状況のせいにした結果、楽園を追放され、労苦と痛みと死の呪いに、つきまとわれてしまった。
呪いにつきまとわれるコツ、いつまでもそこから脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。
結局、自分の過ちを認め、それを告白し、悔い改め(方向転換)をする事。それこそ、今まで塞がれていた主の恵みと助けが、再び流れ始めるための鍵である。

1ヨハネ1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
1:4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。
1:5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
1:6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。

御父と、御子イエス・キリストとの、後ろ暗さの無い、光の交わり。
それは、告白すべき罪を告白しつくし、御子イエスの血によって清められる所から始まる。
しかし、罪の告白と悔い改めなき交わりは、神との間を分厚い壁で隔てたままの、空虚な交わりなのだ。

ヨブはようやく、自分がいかに神の御旨を暗くしその道を遮ってきたかを、具体的に告白し、自分を低くして灰の中で悔いた。
これをもって、彼に再び恵みが流れ出して行く鍵が開けられ、神との正常な交わりが回復し、彼の後の人生は、段違いな祝福へと変わって行く。

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