メッセージ - 201808のエントリ

アシュレイ! ハ イシュ : 何と幸いな人だろう!(詩篇1:1)
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 1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

詩篇の最初の言葉は「アシュレイ・ハ・イシュ」、アシュレイは「אֶשֶׁרエシェル(祝福、幸い)」の間投詞(感嘆詞)、ハは冠詞で、イシュは「人」の意味である。
ヘブライ語で祝福と言えば「バラク」(創世記12:3、民数記6:24など)であるが、バラクは祭司が宣言する「根本的な祝福」で、エシェルのほうは、生き方の現場における祝福、すなわち、健康や富、人気といった祝福で、多くの人が、このエシェルの祝福を求める。
つまり詩篇は「何と(健康や富、人気といった面での)幸いな、祝福された人だろう!」という感嘆の言葉で始まる。
このエシェルの祝福は、「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない」という、3つの「ない」の人である。
まずは、このאשׁרという言葉が、どれ程幸いな言葉であるのかを研究し、そうして、詩篇1篇で記された幸いな人、すなわち御言葉を愛し昼も夜も口ずさむ人が、どれほどの幸いを得るかを学びたい。

אשׁרというヘブライ語からは、木の名前としてのエシェル(אֵשֶׁל)、人(部族)の名前としてのアシェル(אָשֵׁר)が派生する。
まずは、木としての「エシェルאֵשֶׁל」について。

創世記21:33  アブラハムはベエルシバに一本の「ぎょりゅうの木(אֵשֶׁלエシェル)」を植え、その所で永遠の神、主の名を呼んだ。

この箇所は、アブラハムが100歳でイサクを産んで後、大いに祝福されて行くのを見て恐れたペリシテの王アビメレクが、アブラハムに同盟を求めて来た場面である。
その時アブラハムは、アビメレクのしもべ達が奪い取った井戸の事で抗議した。
アビメレクはその井戸をアブラハムに返す際、アブラハムは雌の子羊を七頭、取り分けた。

創世記21:29  アビメレクはアブラハムに言った、「あなたがこれらの雌の小羊七頭を分けて置いたのは、なんのためですか」。
21:30  アブラハムは言った、「あなたはわたしの手からこれらの雌の小羊七頭を受け取って、わたしがこの井戸を掘ったことの証拠としてください」。
21:31  これによってその所をベエルシバと名づけた。彼らがふたりそこで誓いをしたからである。

ベエルは井戸、シェバは数字の七あるいは誓いという意味である。
それでその場所を、ベエル・シェバという名前をつけて、アブラハムはそこに、ぎょうりゅう(エシェル)の木を植えた。
このエシェルの木「ぎょりゅう(御柳)」は、水が少ない所でも育つ。
イスラエルが再建国され、入植したばかりの当時、そこは砂漠地帯だったが、彼らは先祖アブラハムにならってこの木を植えたところ、緑化に成功し、大きく成長し、今はネゲヴ沙漠最大の都市となって、『ネゲヴの首都』と呼ばれることもある。
今もそのベエル・シェバには、1000年を超えるエシェルの木があり、また1000年を超える古井戸からは、今も水が出続けている。

続いて、人(部族)の名前としてのアシェル(אָשֵׁר)について。
アシェルは、ヤコブの妾・レアの女奴隷ジルパがヤコブに二番目に産んだ男の子である。

創世記30:13 そこでレアは、「わたしは、しあわせです。娘たちはわたしをしあわせな者と言うでしょう」と言って、名をアセルと名づけた。

アシェルは女奴隷の子であったが、イスラエルの部族としては、モーセから大きな祝福を受けた。

申命記33:24  アセルについては言った、「アセルは他の子らにまさって祝福される。彼はその兄弟たちに愛せられ、その足を油にひたすことができるように。
33:25  あなたの貫の木は鉄と青銅、あなたの力はあなたの年と共に続くであろう」。

アシェルにはモーセから4つの祝福が宣言された。
1つ目は「他の子らにまさって」の祝福(バラク)、2つ目は「兄弟たちに愛せられ」る祝福である。
アシェルに会うと、兄弟たちが幸せになり、色々と事がうまく進む。彼と出会うと楽しく、彼が祝福されると、妬まれるのではなく心から「よかったね」と賞賛される。
ヨセフは兄弟から妬まれたが、アシェルの場合はそうではない。このようなアシェルの幸いは、詩篇1:2のように、御言葉を昼も夜も口ずさむ人のものである。

その逆は、悪者のはかりごとに歩み、罪人の道に立ち、あざける者の座に着く人である。
その人が行く所では、物事がうまく行かなくなり、それで人々からは嫌煙され、彼が来ると、楽しかった場が曇ってしまい、彼が栄えると、人々がうんざりする。

3つ目の祝福は、「その足を油にひたす」祝福である。油は繁栄(申命記8:8)、喜び(エレミヤ31:12)のしるしとされ,油が欠乏することは悲哀を表した(黙示録6:6)。
油はパンの素材であり、灯火用の燃料であり、王や祭司を聖別するものであり、医療用の薬であり、また化粧のために頭や皮膚に塗り、捧げ物にもなった。
その油が足に浸されるまでの祝福とは、どれほどの祝福だろうか。

4つ目の祝福は、「貫の木は鉄と青銅」という祝福、すなわち、主がアシェルの「守り」となって、サタンや泥棒など、災いをもたらす者を立ち入らせない祝福である。

これほどの幸い、すなわち、アシェルの祝福を受ける人は誰か。
それが詩篇1:1に記されている。すなわち、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった人、そして、御言葉を昼も夜も口ずさむ人、つまり御言葉暗唱(テフィリン)する人である。

ユダヤ人は好んで詩篇を暗唱し、そして彼らは、実際的な祝福を享受している。
ユダヤ人は世界人口の0.25%しかいないのに、ノーベル賞の20%を獲得している。
また彼らは、頭脳が祝福されているので、アメリカの優良大学は、ユダヤ人を制限した程だ。なぜなら制限しないと、受験で上位点数を取るのはユダヤ人なので、大学がユダヤ人しかいなくなってしまうからだ。

彼らがそこまで祝福されているのは、彼らは4歳からテフィリン教育により御言葉暗唱を始め、日々、昼も夜も口ずさみ、そうして13歳の成人式(バル・ミツバ)までには、モーセ五書を丸暗記しているからだ。
このように、御言葉を昼も夜も口ずさむ人は、他の人々にまさって祝福され、人々から妬まれずに愛され、富において祝福され、そしてあらゆる災いや敵から守られるのだ。

祝福が倍になって流れてくるための二つの鍵(ヨブ記42:1-6)
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週報/メッセージ(説教)概要

 ヨブ記の46回に渡る講解説教が終わった。以前のヨブ記のイメージは、何か知的で崇高な議論が展開されているな、でもあまり読みたくないな、というイメージがあったかもしれない。しかしこの中から多くの真理を発見し、大きな恵みを受けた方もいたと思う。ヨブ記全部のメッセージ概要はホームページに記したが、今回、ヨブ記の最初と最後のキアズムから、ヨブ記の結論と、2倍の祝福を受けるためのコツを探りたい。

ヨブは正しい人で、神を恐れ、悪から遠ざかっている人だった。彼の7人の息子達は、それぞれの誕生日ごとに集まって、飲み食いする事を常としていたが、一巡する毎に、ヨブは彼らを呼び寄せ、彼らの数に従って燔祭を捧げた。もしかしたら彼らが罪を犯し、心で神を呪ったかもしれない、と思ったからである。
それは一見、正しい事のように見られがちだが、罪を犯すかもしれない酒宴の場所で子供達を取り締まる事なく、その日を楽しませ、どんちゃん騒ぎの事後、犯したか犯していないか分からない「あやふや」な罪のいけにえを捧げる事でチャラにしようとしても、サタンの追求は免れられない。
もし「罪を犯したかもしれない」という不安要素があるなら、神が喜ぶ事と忌み嫌う事の何かを事前に教え、それをしないよう指導するべきだった。結局、ターゲット不明の悔い改めの乱発は、罪はこれでチャラになった、自分はもう義だ、という思い込みを助長させただけで、ヨブ自身にも、祈ってもらった息子達も、有害以外のものはもたらさなかった。後に分かるが、ヨブは、「自分は正しい」という思い込みを奥深くに助長し続け、ついには神よりも自分を義とし、3人の友人達を閉口させてしまう程までになってしまっていたのだ。
神はそれを取り扱うために、サタンの申し出を許可し、こうしてヨブは、一切のものを失ってしまう。
こうして、詩文体による長々としたヨブの訴えと、友人達の議論が始まるのだが、主エホバの御名が一切無い人間の議論は、ただ怒りと無秩序をもたらすのみである。しかしヨブが神の直接の取り扱いを受けた結果、ヨブがした「二つの事」の故に、後の人生の祝福が倍になる。膨大な文量に埋もれて見つけ難いが、災いが取り去られ祝福が倍増するコツは、実にシンプルだ。私達は、この「宝」を知らなくてはならない。

その一つは目は、ヨブが神に告白した次の告白だ。すなわち、神はどんな事でも最善を為して下さるのに自分は知りもせず、それを暗くしてしまった、だから自分は自らを捨て、悔い改めます、という告白である。
『それでわたしは「みずから恨み(マアスの未完了単数形:自らを継続して捨て続け)」、ちり灰の中で悔います」』(ヨブ記42:6) ヨブはこの時、それまでずっと握りしめて離さなかった「自分は正しい」「神の仕方は納得できない」という「自ら」を捨て去り、自分を低くした。神の御前における「善悪判断」の放棄である。
それは、無闇に思考停止する事でも、強制力に屈して洗脳を受け入れる事でもない。ヨブが2節で告白した通り、主はその全智の最善をもって全ての事を為すお方だ、それだから、御前に自分を捨てる、という、まことに理に適った、積極的な「捨て」なのだ。これこそ、祝福が流れてくる扉を開ける最初の鍵である。
祝福倍増の二つ目の鍵は、友人達のために、祭司として、神の指示の通りに執り成し祈った事である。
この友人達は、本質を外した格言の押し売りによって、ただでさえ苦しいヨブをさらに苦しめた。神はそんな彼らに、ヨブの所で燔祭を捧げ、彼に祈ってもらうよう指示した。結果、彼らの罪は赦され、同時にヨブにも祝福が帰って来た。以前は息子達のために、無闇な犠牲を捧げたが、今回は神の指示に従い、それも、自分を苦しめた者のため、赦されるよう、主に祈った。義人のとりなしによって、罪を犯した者は罰を免れる。
すなわち神は、義とされた人に、執り成し祈る事を求めておられる。神はアブラハムやモーセの執り成しを聞いて下さり、また執り成す者がいないために神が滅ぼさざるを得なかった事もある。(エゼ22:30-31)
神は、ご自分ひとりで赦しを完結されるのではなく、誰かの執り成しがあってこそ、その人を「赦す」機会を得る。だからこそ人類の贖いには、十字架上のイエス・キリストによる執り成しが必要だったのだ。
執り成し祈る者を、神は豊かな報いを与え、大いなる者として下さる。アブラハムやモーセ、ヨブのように。
ヨブ記の結末は、あっけなく見える。一体あの膨大な問題提起と議論は何だったのだろうか、と思える程。
それ故、祝福の鍵を見落としやすい。祝福の引き金は、ヨブのように、自分を低くし、御前でそそり立つ「自ら」を捨て、悔い改める事。それで義とされたなら、執り成し祈る事である。ヨブ記は人生の縮図と言える。人生の膨大な理不尽への「なぜ」追求や、自己正当化や、神と人とを訴える事を、全てを降ろし、神を高め、人のために執り成し祈る時、大きな祝福に与れる。それが、ヨブ記全体から導き出せる答である。

詩篇概要(詩篇1:1)
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本日より、詩篇の講解説教に入る。

詩篇は、ユダヤ的な分類では、ヨブ記と同様「諸書(ケトゥビーム)」に、また異邦人の分類では「詩歌・文学」に当たる。
ヘブライ語ではテヒリーム、すなわち、テヒラー(賛美)の複数形で、「賛美たち」がその意味する所である。

実際、イスラエルでは、ダビデの時代より、礼拝が捧げられる時には、色々な種類の楽器によるオーケストラと聖歌隊で成る賛美チームが編成され、詩篇の歌詞を色々な”調べ(メロディ)”に合わせて、栄光の主へと賛美が捧げられた。
詩篇の中に、「セラ」「マスキール」「ミクタム」など、音楽の指示をする言葉であろう特有の語が登場し、また、「ゆりの花のしらべ」(詩篇45篇)や、「マハラテのしらべ」(詩篇53篇)、「遠き所におる音をたてぬ鳩のしらべ」(詩篇56篇)など、歌詞は残っていても現在は失われてしまっているメロディも表記されていて、当時は一体どんな演奏でどんなメロディで賛美が捧げられていたのだろうと、興味をそそられるものがある。
しかし、それらがどのようなものであったのかを調べたり、「その通りしなくては」とこだわる必要は無い。なぜなら詩篇には、何度も「新しい歌を主に向かって歌え」と記されており、実際に現代、多くの新しい歌が作られ、礼拝の都度、主に捧げられているからである。

詩篇は、現在の形へと編纂し終わるまで、1000年以上はかかっている。
最も古い記者はモーセ(詩篇90篇)で、新しい所では、バビロン捕囚の時代にユダヤ人がバビロンの川のほとりで作った嘆きの詩もある(詩篇137篇)。
表題の中で、作者の名前が明記されている所では、ダビデが73回、アサフが12回、コラの子たちが11回、ソロモンが2回、エズラフ人ヘマンが1回、エズラフ人エタンが1回、モーセが1回である。
色々な時代の、神とともに歩んだ信仰の先輩たちの信仰の表明をあらわした詩集が、この詩篇なのだ。


詩篇の構造は、モーセ五書(トーラー)と同じく、五巻から成り立っていて、ヘブライ思考的に見るなら、詩篇は「トーラーの注釈」とも言える。
すなわち、第1巻(1‐41篇)は、創造と人のコンセプトが記されており、ここを読むと創世記が分かる。
第2巻(42‐72篇)は、解放と贖いについての言葉があり、トーラーの出エジプト記の内容に相当する。
第3巻(73‐89篇)は、聖所と礼拝に関する事が記されており、レビ記の内容に相当する。
第4巻(90‐106篇)は、さまよいと苦難が記されており、まさに民数記の内容である。
第5巻(107‐150篇)は、律法と賛美が記されており、申命記の内容である。
このように詩篇は、テーマに沿った分類によって並んでいるため、時系列で並んでいるものではない。

トーラー、すなわちモーセ五書は、ユダヤ人の礼拝・生活法規が記されているが、それを個人個人の生活の場面場面で適用して行くために、それぞれが個人的な祈りをもって神と親密な交わりをするために編纂された形式である。
すなわち詩篇は、トーラーを生活へとエンバディング(具現化、体現化)するものであり、色々な時代の信仰の先人たちが、それぞれ困難な状況で、あるいは喜びの状況の中で、どのような心境で神と交わりを持ち、いかなる言葉で神と関わってきたかを示している。
それだから、現代を生きる私達も、これを神との関わり方のモデル、祈りのモデルとし、あるいは賛美のモデル、神との関わり方のモデルとするために、大いに用いるべきである。


詩篇の直前の書・ヨブ記も、詩篇と同様に詩歌文学に分類され、3章から最終章まで詩文体によって記されているが、ヨブ記の詩文形式の議論を、そのまま自分の祈りの言葉にしている人は、ほぼいないだろう。
詩篇はギリシア語で「プサルモイ」、すなわち「心を動かすもの」であるのに対し、ヨブ記の詩文形式で記された議論は、人を感動させないどころか、うんざりさせる事が多い内容だ。
なぜなら、その中身がどんなに崇高に見えたとしても、所詮は人の知恵や哲学に基づく議論であり、そして何より、そこには主エホバの御名が一切無いからだ。実際ヨブ記3章から37章の長い議論の中で、唯一、主エホバの御名が出てくるのは、12章9節のヨブの言葉の、たった1回なのだ。
主の御名の無き人間同士の議論は、人をうんざりさせるものだ。

ヨブはしかも、創造主に対し、詩文体を用いて”崇高に”文句を言い、自分が正しくて、主のほうが間違っている、と、延々と主張しているのだ。
もしヨブのような祈り、すなわち「わたしは悪くない、創造主が悪い」という祈りを延々とする人がいるとするなら、その人はヨブのように、どんどん怒り心頭して行き、最後には、圧倒的な主の取り扱いを受け、砕かれる。そうして悔い改めてから、ようやく幸いを得るのである。

ユダヤ人は詩篇を好んで暗唱(テフィリン)し、暗唱した御言葉に、自分の信仰を混ぜ込んで宣言し、それをすなわち祈り(テフィラー)としているため、彼らは多くの祝福を得ているのだ。
もし人が、ヨブのように、自己義を主に向かって主張する祈りをするなら、打ち砕かれる事が待っている。しかし詩篇で祈っていくなら、ユダヤ人のような知恵の祝福、富の祝福、繁栄の祝福が待っている。


詩篇をギリシア思考的に分類するなら、次のようになる。
〇身と尊崇の歌 共同体の嘆きの歌 2Δ了輅咫´じ朕佑涼欧の歌 ジ朕妖な感謝の歌 神の国に関する詩篇 Т脅佞販蘿劼了輅咫´┣い改めの詩篇 知恵と律法を称賛する詩篇 とりなしの詩篇 のろいと報復の詩篇 (実用聖書注解より)

しかし私達は、詩篇を読む時、単なる、遠い国の、古代の詩歌文学として読むのではなく、今この時代、私達もこの詩篇の言葉をもって賛美し、礼拝の場面で主に向かって感謝と喜びの賛美をささげるなら、あの時代に起きたごとく、主は偉大な栄光を表して下さる。
もし、詩篇のある箇所に記されているような困難な状況にあって、その時、この詩篇の言葉をもって祈り、また、主に在る兄弟姉妹と心を合わせて共に互いに祈りあうなら、主はあの時代、あの聖徒たちに大いなる助けの御手を差し伸ばしてくださったように、私達も主の偉大な御腕によって助けられる経験をする。
もし自ら罪を犯してしまい、それによって苦々しい困難な状況に陥ってしまった場合、いかに祈り、対処し、いかに主との関係を取り戻せば良いか、という道が示されている。
その他にも、この詩篇の言葉をもって、今の時代の王や権威者のため、国のために執り成し祈る事もできるし、いのちを阻害する神の敵に対し、呪いを宣言するする事もできる。
このように、150篇という膨大な量の祈りの言葉、賛美の言葉、執り成しの言葉、感謝の言葉は、私達信仰者にとって、実に色々な場面に適用できる祈りのガイドであり、主との関わり方のガイド、人生のガイドとして、大いに役立てる事が出来るのだ。

そして詩篇と関わる上で、忘れてはならない事は、イエス様が言われた次の言葉である。

ルカ24:44 「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。
24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

すなわち、詩篇も、トーラーも、預言書も、全てイエス・キリストについて書かれているのだ。
実際、詩篇2篇では世の指導者や王たちがともに集って「油注がれた者(ヘブライ語:メシヤハ、ギリシア語:キリスト)」に逆らう事が記されており、詩篇22篇はまさしく十字架のイエス様の場面が正確に記されている。
ダビデもまた、イエス様について言っている。

使徒2:24 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。
2:25 ダビデはイエスについてこう言っている、/『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、/わたしの右にいて下さるからである。
2:26 それゆえ、わたしの心は楽しみ、/わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、/あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない/であろう。
2:28 あなたは、いのちの道をわたしに示し、/み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであ/ろう』。

ダビデは、将来来るべきメシヤ、すなわちキリストをほめたたえ、詩篇を幾つも書いた。

マタイ22:42 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。
22:43 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。
22:44 すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。
22:45 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。

私達が心と知性と力を尽くして、詩篇の内容で主に祈り、賛美して行く時、御言葉が私達の生活へと具現化(エンバディング)して行く。
そうして神との関係がますます濃厚になり、そして私達も知恵の祝福、富の祝福、繁栄の祝福が与えられて行く。

まさに詩篇1篇にある通りである。

詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

詩篇は、最初のヘブライ語は「アシュレイ・ハ・イシュ」、訳すと「幸いな人」である。
幸いな人の道、何をしても栄える道を歩むために、詩篇のことばを豊かに心に住まわせ、いつも口ずさむ皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

ヨブ記の結論(ヨブ記42:7-17)
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ヨブ記の最後は、再び散文体に戻り、ヨブを幸いにし、以前の二倍の祝福を与えて下さる事で終る。
その祝福を戻すトリガーは、ヨブ自身の悔い改めではなく、意外にも、3人の友人たちが関わる事だった。
神はこの友人たちを通して、ヨブに祝福を戻すのである。

42:7 主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、/「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。

主はヨブを「わたしのしもべ」と称した。
しもべとは、主人の下で主人に仕え、主人の意向をその通り行う者であるが、ヨブは友人達と激しく議論している最中は、とてもしもべとは言えなかった。彼はその時、神よりも自分を正しいと主張していたからだ。
それを悔い改めたヨブだが、神は3人の友人たちに向かって怒りをあらわにした。
その理由は「ヨブのように正しい事(クーン:堅く立つ)をわたしについて述べ(ダーバル:話す、語る)なかったから」、原意は「ヨブのように堅く立ってわたしについて話さなかった」からである。

ヨブは友人たちとの議論の中、度々神に心を向けて語るために、神の前に出て行った。
議論がヒートアップして行く内に、ヨブは、自分が神よりも正しいと主張して行った。確かにその主張は間違ってはいるが、神と関わりを持とうとして、神の前に進み出て行くその「姿勢」は、神の御前にクーン(堅く立つ)姿勢であり、それこそ御前に義とされていく性質である。たとえ主張が間違っていたとしても、神の御前に来ようとする人、神と相撲をとってでも祝福を勝ち取ろうとしたヤコブを、神は祝福した。
友人達には、この神と向き合おうとする姿勢は一切なかったし、むしろヨブが神の前に立って祈ろうとするその祈りの言葉に「間違っている」と、いっちゃもんをつけるような事さえした。

唯一、主から何のとがめもなかった若者エリフも、3人の友人たちに怒りを燃やしたが、その理由は、彼らはヨブを罪ありとしながらも、ヨブに答える事ができなかったからである。(ヨブ記32:3)
エリフは、ヨブの罪の根本は、ヨブが神よりも自分の正しいことを主張する事だと見抜いたが(ヨブ記32:2)、友人たちには見抜けなかった所を見ると、友人たちもヨブと同じ罠、すなわち、彼らも自分を義として神を軽んじるような所があったからだろう。
つまり彼らは、神という存在を、何か哲学の中に登場する一人物のような、抽象的な概念で神を持ち出しており、彼ら自身、神との人格的な交わりを一切持っていなかったのかもしれない。

42:8 それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。あなたがたはわたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。

神は、ヨブが自らを悔い改めたゆえに、彼を義とした。義人のとりなしによって、愚かな者は罰を免れる事が出来るのである。
神は、義とされた人には、執り成し祈る事を、求めておられる。
神はアブラハムの、ソドムのための執り成しに聞いて下さり、モーセの執り成しを聞いて下さり、また、とりなす者がいなかったために神は滅ぼさざるを得なかった事例もある。(エゼキエル22:30-31)
神は、ご自分ひとりでゆるしを完結させるのではなく、誰かの執り成しがあってこそ、その人を「ゆるす」機会を得るお方である。
だからこそ人類の贖いには、十字架上のイエス・キリストによる執り成しが必要だったのである。

42:9 そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。
42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。

ヨブに祝福が戻って来た瞬間は、ヨブが悔い改めた時ではない。
押し付けがましい因果応報論によってヨブをさんざん苦しめ悩ませた友人達のために、執り成し、祈った瞬間から、である。
悪をもって向かって来る人達を、憎むのではなく、彼らのために執り成し祈る時、神はその人の父となって下さる。

マタイ5:43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
5:45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

祝福が2倍になって帰ってきた事の引き金が「執り成しで」あった事は、注目すべきである。
執り成しには、報いがあるのだ。
神は、敵を愛し、彼らのために執り成し祈る交わりの内に、大いなる祝福を約束しておられる。

42:11 そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。

彼が執り成し祈って友人たちに憐れみを示した結果、ヨブの前から離れていた友人たちが戻ってきて、今度は、ヨブが憐れみを受けるようになった。

42:12 主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。
42:13 また彼は男の子七人、女の子三人をもった。
42:14 彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。
42:15 全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。

ヨブの後半人生がこんなにも祝福されたのは、神がヨブを苦しめた事の損害賠償的な意味ではない。彼の前半人生よりも、より神との正しい関係に入り、それを持続させたからだ。
以前どんなに貧しい神観を持ってきたか、そして、ヨブ自身の中に高慢と自己義があった事が、友人たちとの議論で明らかにされた。
しかしこれからは、真に神と親しく、かつ秩序正しい上下関係の中で、へりくだりつつ神に仕える生き方を、続けて行ったからこそ、祝福の内に長寿を全うしたのだろう。

42:16 この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。
42:17 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

長寿、富の祝福、そして子々孫々が増える祝福。それは非常に祝福された人生である。
こうしてヨブ記は、大円団の内に終るが、終るにあたり、今一度、新約におけるヨブ記の「まとめ」の節を見たい。

ヤコブ5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

ヨブ記の結論、それは、主は慈愛とあわれみに富んだお方である事、そして、忍耐した者は幸いだ、という事である。
私達はヨブ記から、豊かで幸いな人生のコツを得、同時に、虚しく労多い人生はいかにもたらされてしまうかも学んで、主との正しく親しい関係を保ちつつ、祝福された人生を歩んで行く者でありたい。

主の恵みと助けが再び流れ始出すための鍵:自分の罪を認め、悔い改めの告白をする事(ヨブ記42:1-6)
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ついにヨブ記の最終章である。
3章からずっと続いた詩文体の形式は、この42:6節で終わり、以降、再び通常の散文体に戻る。
この詩文体の形式は、ヨブが生まれた日を呪う所から始まった。
そしてこの最終章では、彼の罪の悔い改めによって閉じられる。

42:1 そこでヨブは主に答えて言った、
42:2 「わたしは知ります、/あなたはすべての事をなすことができ、/またいかなるおぼしめしでも、/あなたにできないことはないことを。

彼は、神には全てが出来る事を悟った。

主はご自身の全能の力を示し、ヨブもまた、造られたものの一つにすぎない事を示された
それでヨブは、納得するのである。
結局、神は、ヨブの疑問質問には一切答えなかった。
しかしヨブは、「神には全てが出来る」事を悟ったので、それで満足したのだ。

人は全て、「神には全てが出来る」事を悟ると、それでどんな疑問があっても、満足する。
クリスチャンになる前は、神について、聖書について、色々と「理不尽」と思えるような、あるいは矛盾だと感じられるような疑問を、クリスチャンや牧師にぶつけて困らせてやろう、という、ヨブのようなスタンスのような人があったとしても、彼が神に出会うと、そのような疑問は、どうでも良くなる。
たとえその疑問に対して、具体的な回答がなされないにしても。

それは、その人が、神のご性質を悟るからだ。
神は良いお方であり、全てを益に導いて下さり、最善以外の事は、なされないお方である、と。
神は愛であり、公平であり、真実であり、圧倒的な力強さとその絶対的な権威でもって、一人ひとりにとって最善を為して下さる、だから大丈夫だ、と。

42:3 『無知をもって神の計りごとをおおう/この者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、/みずから知らない、測り難い事を述べました。

ここに、ヨブによる「主の言葉の引用」と、それに対する自分の側の応答がある。
すなわち、自分は自ら悟らない事を言い、自分で知らない計り難い事を、知ったかぶりして語ってしまった、という告白が。
これは、ヨブの第一回目の応答(40:4-5)には、見られなかった事である。

御言葉を読み、それを引用しそれに応答する。これを神との対話と言う。
私達が神の言葉に対してアーメン(それは真実です)の応答をして行くなら、さらに神との交わりが親密になって行く。
神の言葉に不義申し立てするなら、いつまでも神の沈黙と、打ち叩かれる事がつきまとう。
神はヨブとの対話の中で、ご自分の全能の力を示し、ヨブは造られたものにすぎない事を示された。
さらには、ヨブが自分で知らない計り難い事を、知ったかぶりして語っていた事、そして、ヨブの中の「高慢」という罪を指摘された。

42:4 『聞け、わたしは語ろう、/わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
42:5 わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、/今はわたしの目であなたを拝見いたします。

ヨブは今まで、主について知っていたのは、単なる噂話を聞いていたような、浅はかなものだった、しかし今回の主との交わりを通して、はっきりと目で見たかのような経験をした。
目が見えない人が、「あなたの服装はなっていない」と言うのは、全くあさってな事であるが、同じように、ヨブは神について見てもいなかったのに、知りえない事を知ったかぶりして大胆に語り、実にあさってな事をしていた、と、心底思い知ったのだ。

42:6 それでわたしはみずから恨み、/ちり灰の中で悔います」。

ヨブはついに、自らを悔いた。
長かった。実に。ここにたどり着くまで。
それまで何と、長く、神の沈黙と、彼に対する「打ちたたき」が続いた事だろう。

ヨブのように、病、貧困、悪霊などに悩まされ、祈っても祈ってもそれらにつきまとわれ続ける、という事はないだろうか。
主に祈っても願っても、全然聞かれない、何か天が塞がれてしまっているような、神がずっと沈黙しておられるような、あるいはただ神から叱責ばかりされ続けているような気がする。そのような場合、自分の「咎」「不義」が、神との間の隔てを構築してしまっているのだ。

イザヤ59:1 見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
59:2 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。

ヨブの場合、自己義と高慢が隔てとなって、神に叫んでも祈っても聞かれないような状態が長続きした。

イザヤ書は57章から59章中盤までは、人の中にある罪の指摘と叱責がひたすら続いている。しかし、59章の後半から62章に至るまでは、主の慰めと祝福の預言が為されている。
この、呪いから祝福へと変わるターニングポイントが、59章12-15節の「罪の告白」と「悔い改め」である。

イザヤ59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。
59:13 われわれは、そむいて主をいなみ、退いて、われわれの神に従わず、しえたげと、そむきとを語り、偽りの言葉を心にはらんで、それを言いあらわす。
59:14 公平はうしろに退けられ、正義ははるかに立つ。それは、真実は広場に倒れ、正直は、はいることができないからである。
59:15 真実は欠けてなく、悪を離れる者はかすめ奪われる。主はこれを見て、公平がなかったことを喜ばれなかった。

もし自分の罪を認めず、自分を義とし続けるなら、その人は偽りをしている者であり、いつまでもその追求が続いてしまう(1ヨハネ1:8-10)。
アダムとエバは、自分が何をしたのか告白するべき場面で、人や状況のせいにした結果、楽園を追放され、労苦と痛みと死の呪いに、つきまとわれてしまった。
呪いにつきまとわれるコツ、いつまでもそこから脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。
結局、自分の過ちを認め、それを告白し、悔い改め(方向転換)をする事。それこそ、今まで塞がれていた主の恵みと助けが、再び流れ始めるための鍵である。

1ヨハネ1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
1:4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。
1:5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
1:6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。

御父と、御子イエス・キリストとの、後ろ暗さの無い、光の交わり。
それは、告白すべき罪を告白しつくし、御子イエスの血によって清められる所から始まる。
しかし、罪の告白と悔い改めなき交わりは、神との間を分厚い壁で隔てたままの、空虚な交わりなのだ。

ヨブはようやく、自分がいかに神の御旨を暗くしその道を遮ってきたかを、具体的に告白し、自分を低くして灰の中で悔いた。
これをもって、彼に再び恵みが流れ出して行く鍵が開けられ、神との正常な交わりが回復し、彼の後の人生は、段違いな祝福へと変わって行く。

全ての誇り高ぶる者の王・レビヤタン(ヨブ記41章)
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人にはどうする事も出来ない獣の二つ目として、主はレビヤタンを取り上げた。
レビヤタンは、聖書の他の箇所で何度か登場する、海に棲む巨大な生物で、ヨブ記41章においてその特徴が詳細に記されている。

41:1 あなたはつり針で/わにをつり出すことができるか。糸でその舌を押えることができるか。

口語訳や他の幾つかの訳ではレビヤタンは「わに」と訳されているが、剣や槍では歯が立たない硬い皮膚で覆われ、口から火を吐き、あまりに巨大で海を白く泡立たせるほどの生き物である事が記されているので、わにでは役不足であろう。
ここは原文通りレビヤタンとして話を進めていく。

41:8 あなたの手をこれの上に置け、/あなたは戦いを思い出して、/再びこれをしないであろう。
41:9 見よ、その望みはむなしくなり、/これを見てすら倒れる。
41:10a あえてこれを激する勇気のある者はひとりもない。

バビロニヤの創造物語にはレビヤタンについて,「見るものはきっとぞっとして,へなへなと腰くだけになる」とある。そこでは、創造神と戦って破れ,監禁され,眠っているとされる。(実用聖書注解)

41章の結論は、以下の10b-11節で、レビヤタンの性質についての記述をサンドイッチのように挟んで、創造主の素晴らしさを表現しているのが、41章のキアズム構造である。

41:10b それで、だれがわたしの前に立つことができるか。
41:11 だれが先にわたしに与えたので、/わたしはこれに報いるのか。天が下にあるものは、ことごとくわたしのものだ。
41:12 わたしはこれが全身と、その著しい力と、/その美しい構造について/黙っていることはできない。

人はレビヤタンには近づき難く、それが目の前に立つ時は勇士さえ震えおののくのみである。
それなのに、ましてや、それさえ創造し、養っておられる神に対し、対等に張り合おうとしているヨブ、あなたは一体何者なのか、と示される。
主はこのレビヤタンについて、さらに黙っておられず語られる。

41:13 だれがその上着をはぐことができるか。だれがその二重のよろいの間に/はいることができるか。
41:14 だれがその顔の戸を開くことができるか。そのまわりの歯は恐ろしい。
41:15 その背は盾の列でできていて、/その堅く閉じたさまは密封したように、
41:16 相互に密接して、/風もその間に、はいることができず、
41:17 互に相連なり、/固く着いて離すことができない。

この生き物は、背も腹もよろいのようにがっしりと組み合わされた頑強な生物である。

41:18 これが、くしゃみすれば光を発し、/その目はあけぼののまぶたに似ている。
41:19 その口からは、たいまつが燃えいで、/火花をいだす。
41:20 その鼻の穴からは煙が出てきて、/さながら煮え立つなべの水煙のごとく、/燃える葦の煙のようだ。
41:21 その息は炭火をおこし、/その口からは炎が出る。

なんとこの生き物は、火を吐くのだ。
私達はそのような生物を一度も見た事が無いので、ある人は、架空の生き物だと指摘するが、しかしヘブライ思考は神の言葉はそのまま書かれてある通り受け入れるものである。
私達がそれに則ってこのレビヤタンは実際にいる(あるいはいた)生物として見ていく時、神の創造のみわざと御心を、より正確に把握して行く事が出来る。

41:22 その首には力が宿っていて、/恐ろしさが、その前に踊っている。
41:23 その肉片は密接に相連なり、/固く身に着いて動かすことができない。
41:24 その心臓は石のように堅く、/うすの下石のように堅い。
41:25 その身を起すときは勇士も恐れ、/その衝撃によってあわて惑う。
41:26 つるぎがこれを撃っても、きかない、/やりも、矢も、もりも用をなさない。
41:27 これは鉄を見ること、わらのように、/青銅を見ること朽ち木のようである。
41:28 弓矢もこれを逃がすことができない。石投げの石もこれには、わらくずとなる。
41:29 こん棒もわらくずのようにみなされ、/投げやりの響きを、これはあざ笑う。

この生き物に対しては、人間の剣や槍、矢も、鉄の武器も石の武器も、何の役にも立たない。

41:30 その下腹は鋭いかわらのかけらのようで、/麦こき板のようにその身を泥の上に伸ばす。
41:31 これは淵をかなえのように沸きかえらせ、/海を香油のなべのようにする。
41:32 これは自分のあとに光る道を残し、/淵をしらがのように思わせる。

この生き物はとても巨大で、それが通った後は、白い泡が輝き、海がなべのように波立つという。
くじらが通った後がまさにそうだが、レビヤタンはそれ程、あるいはそれよりもっと巨大な生き物なのだろう。

41:33 地の上にはこれと並ぶものなく、/これは恐れのない者に造られた。
41:34 これはすべての高き者をさげすみ、/すべての誇り高ぶる者の王である」。

神はレビヤタンをこのように、全ての獣の頂点に立つものとして、すべての誇り高ぶる者の王として創られた。
イザヤ27章では、このレビヤタンを処罰する事が記されている。

イザヤ27:1 その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレビヤタン、曲りくねるへびレビヤタンを罰し、また海におる龍を殺される。

この章の前後は、イスラエルやその周辺諸国に対するさばきの預言が続く箇所なので、この箇所では、レビヤタンをバビロンやエジプトなどの神の民に対し逆らう強大な国になぞらえているのかもしれない。

なお、詩篇104篇では、レビヤタンは主が創られた海の中で戯れるものとして描かれている。

詩篇104:24 主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。
104:25 かしこに大いなる広い海がある。その中に無数のもの、大小の生き物が満ちている。
104:26 そこに舟が走り、あなたが造られたレビヤタンはその中に戯れる。
104:27 彼らは皆あなたが時にしたがって/食物をお与えになるのを期待している。
104:28 あなたがお与えになると、彼らはそれを集める。あなたが手を開かれると、彼らは良い物で満たされる。
104:29 あなたがみ顔を隠されると、彼らはあわてふためく。あなたが彼らの息を取り去られると、彼らは死んでちりに帰る。
104:30 あなたが霊を送られると、彼らは造られる。あなたは地のおもてを新たにされる。

結局、このレビヤタンという尊大な生き物さえも、主が創造された生物の一つであり、彼らが食べる食物は全て主が備え、また、主がその息(ルアハ:霊)を取り上げると、それはちりに帰る以外に無い。
まことに主は、この地上に何億羽いるか分からない、からすの子一羽一羽にさえ食べるものを与え、すずめの一羽さえ、主の許可なしには地に落ちる事も無い。
こんな小さなすずめの一羽から、巨大なレビヤタンに至るまで、全てのいのちを養い、命のいとなみを管理しておられる主のみわざは、まことに計り知れない。

私達・キリスト者は、このヨブ記38章から41章の創造主のみわざの素晴らしさ・不思議さ・偉大さを見る時、ただそのすごさに驚き、感動し、喜びわくわくする箇所であるが、神を敬わない者達には、嫌われ蔑まれる箇所であろう。
人は、神を敬うと敬わないとに関わらず、やがてはヨブのように、偉大な創造主の御前に立たなくてはならない。

ヘブル12:22 しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、
12:23 天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、
12:24 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
12:25 あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。

私達は、私達の身代わりに処罰を受けられ、全能なる神の御前に私達を執り成して下さった大祭司、イエスキリストのゆえに、大胆に恵みの御座に近づく事が出来るのである。

ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

私達はただ、主イエス・キリストに誉れがありますように、と賛美するのみである。

ほとばしる命の泉の呼び水とは(ヨハネ4:7-15)
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週報/メッセージ(説教)概要

 前回、聖霊のご性質の、流れる川のように人を潤し清める性質を学んだ。今回も続いてそれを学びたい。
『イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、渇く事がないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、湧き上がるであろう」』(ヨハネ4:13) 私達がこれを頂くためには、どうしたらよいだろう。
暫く使っていない井戸を、再び水を出すようにするためには「呼び水」が必要であるが、イエス様からこんこんと湧き出るいのちの水を私達も頂くために「呼び水」が必要である。イエス様ははじめに「水を飲ませて下さい」(7節)と女に言われた。イエス様は、罪深いこんな私達にも言われる。「あなたの水を飲ませて下さい」と。では、私達がイエス様に「呼び水」となるべき水を、飲ませて差し上げるためには、どうしたら良いか。
この記事中、女がイエス様に飲ませた記述は、見あたらない。しかし後の記述を見ると、どうやら彼女、イエス様から「生ける水」を頂いて、腹の奥底から水が川となって流れ出たようすである。一体彼女、いつイエス様に「呼び水」を飲ませたのだろう。彼女がイエス様に飲ませた「呼び水」とは、おそらく、次の言葉だ。
「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」(15節)
イエス様への、「その水をわたしに下さい」という、お願い。これこそ、無限に流れ出て来るいのちの水を、イエス様から引き出す「呼び水」である。この言葉をイエス様へ発した瞬間、イエス様は「呼び水」を得て、その人の「渇きの問題」を解決をする支配権がイエス様へ移り、イエス様はその人を潤す働きを開始する。

彼女は、渇きを覚えていた。喉の渇きより、もっと深刻で根本的な「心の渇き」「人生の渇き」を。彼女はその渇きを、結婚や安定、異性という「水」によって癒やそうとしたが、それは、飲めば飲む程渇く水だった。
人は色々な「水」で渇きを癒やそうとする。異性、結婚、金銀、仕事など。それらの「お祭り騒ぎ」(ヨハネ7:37) は、やがて誰もが渇く時が来る事を、前回学んだ。そうした世のものに潤いを求め続けるなら、渇きは癒やされないどころか、もっともっと渇いて行き、そしてそれを手に入れるために奔走した過程で、失敗や恥、破産、人への迷惑、身体の傷などなどの”負の実績”をも積み上げて行く。
それら全ての負の実績を、サマリヤの女のようにイエス様に持って行くなら、神の栄光を現すものへと大転換する。つまり彼女のように、イエス様に向かって、「あなたがくださる水、飲んだら腹の奥底から流れ出るという、その生ける水を、わたしにもください!」と言う事こそ、あらゆる問題解決の呼び水なのだ。
イエス様がこれを「飲む」時、問題が私達の側からイエス様の側へと移り、イエス様が動いてくださる。
彼女がイエス様に、あなたの水を飲ませてください、と言った時、イエス様は働く機会を得、結果的に、彼女は決して今まで満たされなかった霊の空洞が、満たされた。そして、彼女自身の渇きが癒やされただけでなく、その水は川々となって、彼女の住んでいたサマリヤ・スカル地方全体へと流れて行き、その一帯の人々を、根こそぎイエス様へと導いて、この地方一帯が、いのちの水で溢れた。

『祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。』(ヨハネ7:37) この、イエス様が下さる水、すなわち「聖霊」が私達に宿る時、流れる川のごとく私達を潤し、私達がいかに、世との摩擦ですり切れ、汚れしまっていても、その聖霊の川の流れに身を置いているなら、どんどん癒やされ、きれいになって行く。その御霊が働くためには、御言葉が必要である。
御言葉という全く純粋なきよめの水に浸され続け、聖霊のきよい流れにひたされ続けるなら、どんどん清らかになって行く。御言葉を習慣的に口ずさみ、自分の中に取り入れる「テフィリン」が、まさにそれである。
いつも御言葉に浸され、馴染んでいる内に御言葉と一体化し、きよめられ、そして天地を創造した神の言葉による再創造が、その人の中に構築されて行き、その人の中に、神のかたちが出来上がっていくのだ。
御言葉なるイエス様こそ「在りて在るお方」であり(ヨハネ8:24,58)、全ての存在の源である。(コロサイ1:17)
その御言葉を、テフィリンによって自分の中に豊かに住まわせるほどに、自分の存在根拠、生きる根拠、そしてこのお方を伝える伝道の根拠が、くっきり土台づくりされて行く。それでその人は、心も、人格も、ことばも、人生全ての面において、安定して行く。その取っ掛かりは、全存在の根拠であられるイエス様の所に行って、あなたが下さるという水を、わたしにも下さい!と、お願いする事だ。イエス様は、今生きておられる。このお方に呼び求め、全ての面で潤い、安定した人生を送っていく皆さんでありますように!

強大な獣の前にただ諦めるしかない人間、それを捕獲し裁いて下さる全能の主(ヨブ記40章)
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主はあらしの中から現れ、天地全ての被造物の偉大さ、精巧さを示し、ご自身の圧倒的な創造のみわざと権威をヨブに示されたが、ここで一区切りしてヨブに問いかける。

40:1 主はまたヨブに答えて言われた、
40:2 「非難する者が全能者と争おうとするのか、/神と論ずる者はこれに答えよ」。

自分を義とし、全てを支配しておられる全能なる主の支配を不当だとする性質こそ、滅びと災いの性質である。
主は、ヨブからこの性質を取り除こうとして、これら一連の事を起こされ、そして主と向き合わせ、主は全ての物事を正しく最善に支配しておられる様を示されたのだ。

40:3 そこで、ヨブは主に答えて言った、
40:4 「見よ、わたしはまことに卑しい者です、/なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。
40:5 わたしはすでに一度言いました、また言いません、/すでに二度言いました、重ねて申しません」。

これがヨブの神に対する最初の回答であるが、全能なる主の御前には、これでは不十分だった。
ヨブはただ「自分は黙ります」と言っただけで、自分がどう間違えていたのか、神はどういうお方であるのか、一切言及していなかった。(なお、それは、第二回目のヨブの回答の中にはある)

親が子供を、どんなに雷のような声で叱り、それに対し子供が黙ったとしても、もし子供がまだ親を非とし、自分を善とする「一物」を心にかかえたままだったなら、かえって、その「懲らしめ」は逆効果となってしまい、内に閉ざした怒りをふつふつと燃え立たせ、もっと悪い事をする。
ヨブの中には、まだまだ扱われなくてはならない「一物」があった事を主はご存知で、それを徹底的に取り除くために、ヨブに第二回目の挑戦をされる。

40:6 主はまたつむじ風の中からヨブに答えられた、
40:7 「あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。
40:8 あなたはなお、わたしに責任を負わそうとするのか。あなたはわたしを非とし、/自分を是としようとするのか。
40:9 あなたは神のような腕を持っているのか、/神のような声でとどろきわたることができるか。

主は、ご存知だったのだ。
彼の中に、なお、主に責任を負わそうとし、主の側に非があって自分を善としようとする片鱗が、まだあった事を。
主はそんなヨブに対し、「あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。」と、挑戦する志がまだあるなら、答えてみよ、と促す。

40:10 あなたは威光と尊厳とをもってその身を飾り、/栄光と華麗とをもってその身を装ってみよ。
40:11 あなたのあふるる怒りを漏らし、/すべての高ぶる者を見て、これを低くせよ。
40:12 すべての高ぶる者を見て、これをかがませ、/また悪人をその所で踏みつけ、
40:13 彼らをともにちりの中にうずめ、/その顔を隠れた所に閉じこめよ。
40:14 そうすれば、わたしもまた、あなたをほめて、/あなたの右の手は/あなたを救うことができるとしよう。

主は、ヨブの中にある「自分こそ正しい」などと思っている根っこを、徹底的に取り除くためにチャレンジを与える。
あなたは高ぶる者を低くかがませてみよ、悪人をその所で踏みつけ、ちりの中に埋め、閉じ込めよ、と。

一切の悪しき者・高ぶる者の親玉はサタンである。ヨブは、このサタンを前に、何も為す術がなかった。
そんなヨブに対し、あなたはそのサタンを、縛り付け、よみに落とし、閉じ込める権威があるのか、と問われる。
それは、人には出来ないが、全能なる主はやがてそれを実行して下さる。(黙示録20章)

ヨブを酷く打ち、人にはどうする事も出来ないサタン。
主はそれを縛り、打ち負かす事が出来る事を示されるために、人間には如何とも出来ない凶暴な2つの獣について語られる。

40:15 河馬を見よ、/これはあなたと同様にわたしが造ったもので、/牛のように草を食う。

河馬と訳された語は、ヘブライ語ではベヘーモースであるが、これはどうも、あの動物園などにいる河馬ではなさそうである。
『ベヘーモースは「獣」という語の複数形であるが,動詞は単数形なので,ある特定の動物を指している.複数形は尊厳を表すもので,後述するように,これが普通の動物でないことをほのめかしている.70人訳は「動物」(複数)と訳し,多くの英訳はbehemothと音訳している.
日本語の聖書は文語訳,口語訳,新改訳共に「河馬」と訳している(新共同訳「ベヘモット」)が,これは,牛のように草を食べ,がっしりとした体格をし,葦の茂みに横たわるという描写から,ナイル川に住む河馬を指すという理解に基づいている.しかし河馬の描写にしては大げさすぎるし,ここでは人間には制御出来ないことが強調されているのであるから,河馬ではあり得ない.外典のエズラ記(ラテン語)6:49‐52には,神が創造の5日目にベヘモットとレビヤタンを造り,ベヘモットには1千の山のある土地を与え,レビヤタンには海を与えられたとある.』(実用聖書注解)

40:16 見よ、その力は腰にあり、/その勢いは腹の筋にある。
40:17 これはその尾を香柏のように動かし、/そのももの筋は互にからみ合う。
40:18 その骨は青銅の管のようで、/その肋骨は鉄の棒のようだ。
40:19 これは神のわざの第一のものであって、/これを造った者がこれにつるぎを授けた()。

ベヘーモースは、神のわざの第一のもの、とまで神ご自身が語っている。
19節後半は、KJVでは”he that made him can make his sword to approach unto him.”すなわち、ただこの獣をつくったお方のみが、彼に剣を持って近づく事が出来る、という意味である。
人は、河馬やライオンさえ、自分の力ではどうにも太刀打ちできない。それを前にして逃げる事が出来ないとしたら、ただあきらめる以外に無い。
ましてや、ベヘーモースのような伝説的な巨獣を前には、何もできない。
さらにはサタンという、それらをもっと上回る凶悪な存在を前に、人はまったくもって無力である事は、ヨブ自身が経験した所である。

40:20 山もこれがために食物をいだし、/もろもろの野の獣もそこに遊ぶ。
40:21 これは酸棗の木の下に伏し、/葦の茂み、または沼に隠れている。
40:22 酸棗の木はその陰でこれをおおい、/川の柳はこれをめぐり囲む。
40:23 見よ、たとい川が荒れても、これは驚かない。ヨルダンがその口に注ぎかかっても、/これはあわてない。
40:24 だれが、かぎでこれを捕えることができるか。だれが、わなでその鼻を貫くことができるか。

人は、このような獣を前にすると、「あきらめ」を納得する。
しかし神は、ベヘーモースも、さらには、それを上回るサタンさえ、剣と縄をもって縛る事がおできになる。
サタンは、ヨブを苦しめ、私達を苦しめる、高ぶる邪悪な者であり、私達にはどうにも太刀打ちできないが、神はそれを終わりの日まで拘束し、後には永遠に消える事の無い火の中へ投げ込むお方である。

神は、ヨブが色々と質問した内容には一切、答えず、ただ、主の圧倒的な権威と力、完全なる統治を示された。
それで、ヨブは納得するのである。

もし、ヨブの膨大な質問に、一つ一つ律儀に回答して行くなら、知性としては納得するかもしれない。
しかしその高慢な態度や性質は相変わらず残ったままで、また別の質問を見つけては反抗しに来るものだ。
だから主は、ヨブの問には一切答えず、ただ圧倒的な威力と権威、完全さを示された。

それはひとえに、ヨブ自身の災いをもたらす性質、すなわち、彼の高慢や自己義を徹底的に砕き、後には彼に幸いを得させるためなのだ。

生き物を通して深淵な創造のわざを示される主(ヨブ記39章)
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神はさらに、ご自身が創造された生き物達を示し、創造のわざの巧みさ・精妙さを示して、神を不当者にしようとしたヨブの愚かさをねじふせる。

39:1 あなたは岩間のやぎが/子を産むときを知っているか。あなたは雌じかが子を産むのを見たことがあるか。
39:2 これらの妊娠の月を数えることができるか。これらが産む時を知っているか。
39:3 これらは身をかがめて子を産み、/そのはらみ子を産みいだす。
39:4 その子は強くなって、野に育ち、/出て行って、その親のもとに帰らない。

やぎと雌鹿は、険しい岩山を平然と乗り越えて行くため、生態を追跡して調べるのが難しい。
現代は科学技術が発達してある程度は解明されているが、未だに解明されていない生物は多々いる。
それらの生き物が、いかにして命を産み、いかに成長して行くのか、その性質はいかなるものであるのか、その全てを私達は知る事さえ困難だが、主はなんと、何万何億といる動物たちを、それも、たった一羽の雀さえ御心に覚えられ、また野に咲く一輪のゆりさえも、装っておられるのだ。

39:5 だれが野ろばを放って、自由にしたか。だれが野ろばのつなぎを解いたか。
39:6 わたしは荒野をその家として与え、/荒れ地をそのすみかとして与えた。
39:7 これは町の騒ぎをいやしめ、/御者の呼ぶ声を聞きいれず、
39:8 山を牧場としてはせまわり、/もろもろの青物を尋ね求める。

野ろばは、人が荷役に用いるろばとは違って、人間の言う事を一切聞かず、人の住む町から離れ、荒野を好きこのんですみかとする。
ヨブも人間も、彼らを飼いならして荷役に用いる事はできない。
野ろばをそのように自由なものにしたのは、神である。

39:9 野牛は快くあなたに仕え、/あなたの飼葉おけのかたわらにとどまるだろうか。
39:10 あなたは野牛に手綱をつけて/うねを歩かせることができるか、/これはあなたに従って谷を耕すであろうか。
39:11 その力が強いからとて、/あなたはこれに頼むであろうか。またあなたの仕事をこれに任せるであろうか。
39:12 あなたはこれにたよって、あなたの穀物を/打ち場に運び帰らせるであろうか。

野牛もまた牧畜牛と違って、人間の役に立てようと飼いならす事ができない。
もし野牛を農耕に役立てるなら、どれほど人は恩恵を受けられるだろうか、と思えても、それをできないように自然界に生きるよう解き放ったのは、主である。
野牛に限らず、自然界は人がそのまま利用できない大きな力をもったものがあるが、それらを存在させ、治めておられるのは、主である。

39:13 だちょうは威勢よくその翼をふるう。しかしこれにはきれいな羽と羽毛があるか。
39:14 これはその卵を土の中に捨て置き、/これを砂のなかで暖め、
39:15 足でつぶされることも、/野の獣に踏まれることも忘れている。
39:16 これはその子に無情であって、/あたかも自分の子でないようにし、/その苦労のむなしくなるをも恐れない。
39:17 これは神がこれに知恵を授けず、/悟りを与えなかったゆえである。
39:18 これがその身を起して走る時には、/馬をも、その乗り手をもあざける。

ここでは、だちょうが語られている。
「きれいな羽」のヘブライ語はヘスィダー、愛情や恵みを意味するヘセドが変化したもので「こうのとり」とも訳せる。(新改訳)
こうのとりの家族愛は有名で、西洋では、そのこうのとりが巣作りする家は幸いが訪れると言われており、またこうのとりが赤ちゃんを運んで来るとも言われている程である。

それにひきかえ、だちょうの母親は、自分で産んだたまごを自分で暖めず、砂に暖めさせて放置している。
それをどこに埋めたかも忘れ、自分の足、あるいは獣の足で踏まれてしまっても、なんとも思わない。
そのように、知恵も愛情も欠けた鳥であるが、こと、走る事においては、馬も、またそれに乗る人間をもあざける。

このように神は、生き物のあるものは知恵があるように、あるいは無いように、また、ある生き物には力があるように、あるいは無いように創られた。
その非常にバラエティ豊かな生き物達を見る時、私達はただ、その被造物の巧妙さ、美しさに驚き、ただ創造主をほめ讃えざるを得ない。

39:19 あなたは馬にその力を与えることができるか。力をもってその首を装うことができるか。
39:20 あなたはこれをいなごのように、/とばせることができるか。その鼻あらしの威力は恐ろしい。
39:21 これは谷であがき、その力に誇り、/みずから出ていって武器に向かう。
39:22 これは恐れをあざ笑って、驚くことなく、/つるぎをさけて退くことがない。
39:23 矢筒はその上に鳴り、/やりと投げやりと、あいきらめく。
39:24 これはたけりつ、狂いつ、地をひとのみにし、/ラッパの音が鳴り渡っても、立ちどまることがない。
39:25 これはラッパの鳴るごとにハアハアと言い、/遠くから戦いをかぎつけ、/隊長の大声およびときの声を聞き知る。

神は馬を、恐れ知らずな力強い生き物として創造した。
人はそれを戦いのために用いる。事実、聖書の中で馬が登場する場面の前後は、必ずと言っていいほど、戦争のきなくさいにおいがある。

25節は口語訳では「これはラッパの鳴るごとにハアハアと言い」と訳されているが、新改訳では、馬のいななき「ヒヒーン」と訳されている。
原文ヘブライ語は「ハアハ」と発音する擬声語で、他の箇所では、あざけり笑う言葉に訳されている(詩篇35:21,25など)。
人は戦争の時、恐れおののくが、馬はその隊長の怒号も、戦いの合図も、飛び交う矢や槍も、あざ笑う。
そのように創られたのは、まことに主であり、そのわざは人には計り知れない。

39:26 たかが舞いあがり、その翼をのべて南に向かうのは、/あなたの知恵によるのか、
39:27 わしがかけのぼり、その巣を高い所につくるのは、/あなたの命令によるのか。
39:28 これは岩の上にすみかを構え、/岩のとがり、または険しい所におり、
39:29 そこから獲物をうかがう。その目の及ぶところは遠い。
39:30 そのひなもまた血を吸う。おおよそ殺された者のある所には、/これもそこにいる」。

たかやわしは人が行くことが非常に困難な岩山の上に巣をつくる。
その生態も人は知ることは困難であるし、ましてや、それらをそのように創り、彼らにその知恵を授けたのは主である。

神に対して「自分が義だ」「神は不当だ」と高ぶったヨブに対し、神は、これでもかと言うほど、人間には計りきれない総計の深さを示された。

詩篇104篇には、ヨブ記38章以降に通じる神の諸々のわざが記され、それらを創造された主がほめ讃えられている。
『主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。』(詩篇104:24)

まことに主の創造のみわざを見るに、ただ恐れの念をもってひれ伏す以外には無いが、しかし主は、同時に愛と憐れみに満ちたお方である。
私達はそれ故、大胆に御前に進み行き、おりにかなった助けを得る事が出来る。
それはなんと素晴らしい特権だろうか。

安息日の問題 - エレミヤ書の9つのGolden Key 4/9(エレミヤ17:21)
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この週末の時代を読み解く上で非常に重要なエレミヤ書の9つの鍵。
第4番目は、「安息日」の問題である。

 17:21 主はこう仰せられる。『あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門のうちに持ち込むな。

エレミヤの時代、主が「聖としなさい」と命じられていた安息日は、軽んじられ、人々は平気でその日、世の仕事をしては出歩いていた。
そこで主はエレミヤを通して警告を与えたわけであるのだが、現代、この安息日どのように扱うべきか。
ユダヤにおいては、礼拝するべき安息日は土曜日としているが、我々は礼拝する日をどうすべきだろう。
その問題について、御言葉から見ていきたい。

「安息日」はシャバット、すなわち、終わる、とどまる、休む、という意味である。
天地創造の時、神は第七日目に全ての創造のわざを終え、休まれた。それゆえこの日を覚えて「聖」として区別せよ、と仰せられた。
しかしユダヤ人は、この日を「働いてはならない日」という事を強調するあまり、これは仕事になるのか、そうではないのか、という論点の膨大な議論が発生し、諸々の事細かい規定が定められ、それでユダヤ人は、安息すべき日であるというのに、重荷を負う事になる。これは大丈夫だろうか、やっていいのだろうか、と。

そこでイエス様は言われる。

マタイ11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

イエス様は、わたしのくびきを負って、わたしに学びなさい、と言われた。
くびきは、二頭の牛が共に負って、共にひとつの働きをする道具である。重荷を捨てなさい、とは言っておられない。つまりイエス様は、あなたが負っている重荷があるなら、わたしが一緒に負う、と言っておられるのだ。
主が重荷を共に負ってくださる。そうすれば、あなた方の心は、休まれる、と。

律法を完成させて下さるイエス様は、律法や諸々の重荷を、一緒に負って下さる、という事を、認知すべきである。

さらに12章で、再び安息日に関する問題が起きている。
マタイ12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
12:2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。

弟子達はお腹がすいて、ひもじくなって、麦の穂を摘んで食べたのをパリサイ人達は見て、それを糾弾のねたとした。
すなわち、「籾殻を取る」行為は労働であると見做されており、それでパリサイ人達は「安息日にしてはならない事をしている」と、糾弾したのだが、イエス様は弟子達を弁護される。

イエス様は、ご自身を、安息日の主である、と宣言された。イエス様こそ、安息日を定め、安息日のなんたるかを教えて下さる主である、と。
その安息日の主であられるイエス様が、彼に仕える弟子達、安息日に仕えている弟子達を、「罪のない者」と宣言し、また弁護した。

12:7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。

イエス様が、安息日に籾殻を取って食べた弟子達は「罪がない」とした根拠は、何によるのだろう。

12:3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
12:4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
すなわち、あなた方が尊敬するダビデがそうしたでしょう、と。
12:5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
12:6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
12:7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
12:8 人の子は安息日の主である」。

さらに神は、預言者ホセアを通して言われた。
やがて、安息日などの全ての例祭をやめさせる時が来る、と。

ホセア 2:11 わたしは彼女のすべての楽しみ、すなわち祝、新月、安息日、すべての祭をやめさせる。

神の恵みの時が到来すると、律法が成就し、すべて安息日や例祭は止めさせられる。
その「時」は、イエス様が十字架上で死なれた時、成就した。
次の御言葉の通りである。

コロサイ 2:14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
2:15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。
2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。
2:17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。

すなわち、ありとあらゆる人を「罪あり」と指摘し、不利に陥れる「律法」という債務証書を、無効にしたのだ!十字架の上で。
こういうわけで、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、誰にも批評させてはならない、と、16節に書いてある。

1コリント15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

死のとげは罪であり、そして人を罪ありとする力あるものは、律法である。
イエス様は十字架上で、罪を、死を、また人を罪ありとする律法を、十字架の上で釘付けにし、我々をそれらに対する勝利者とし、開放して下さったのだ!
イエス様は十字架上で、我々に、恵みの年、解放の年を宣言して下さったのだ。
それ故、私達は、安息日や、その他諸々の律法の膨大な規定から、解放されているのである。

十字架、それは実に偉大な転換点である。

それでは、どうして新約では主日に、すなわち、日曜日に礼拝を行うのか。
旧約のように土曜日にではなく。

イエス様の十字架以降、安息日や諸々の祭りは十字架上に釘付けにされた事は、先のホセア書と第一コリントに書いてあった通りである。
それ以降、復活のイエス様は、日曜日に現れるようになった。
復活の三日目すなわち日曜日(聖書では当日もカウントする)、弟子達が集っていた所に復活のイエス様が現れ、弟子達に聖霊の息吹を吹きかけられた。
その時その場にいなかったトマスには、その八日後、すなわち次の日曜日、弟子達が集っていた所に、トマスも居たため、トマスもイエス様と出会い交わりをする事が出来た。(ヨハネ20:19-29)
黙示録においても、ヨハネは「主の日」に御霊に感じ、主と出会い、主から啓示を頂いた。(黙示録1:10)
それ故、教会では、日曜日を主の日(主日)と言い、初代教会の聖徒達は復活の主と出会うために、主日に主の御名に集い、パンを割き、メッセージを聞き、聖徒の交わりを行っていた。(使徒20:7)

キリスト教は復活の宗教と言われており、主日は、主の復活の日である。
だからキリスト者達はそれを記念し、そして主と出会うために、主日に集うようになって行ったのだ。

結局、旧約の安息日は、来るべきキリストの影にすぎない。(コロサイ2:17)
核心は、安息日の主人であられるキリストなのだ。
 

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