メッセージ - 201807のエントリ

手をたたいて神に喜びと賛美の態度を示そう(詩篇47篇)
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人智では到底計り切れない主の総計(ヨブ記38:22-41)
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主は天地を創造し、そして彼が創造された宇宙、地球、また、その中における全ての物事の運行を管理しておられる事を、このヨブ記38章において示しておられる。

38:22 あなたは雪の倉にはいったことがあるか。ひょうの倉を見たことがあるか。
38:23 これらは悩みの時のため、いくさと戦いの日のため、/わたしがたくわえて置いたものだ。

ひょうは雲の水蒸気が凝結して氷の塊となって地に降り注ぐと、科学では説明されているが、主はそれを偶然のタイミング・偶然の所に落ちるものではなく、主の敵の悩みのため、いくさと戦いの日のために蓄えている事を示している。事実聖書には、その記述がある。
主は主の民を悩ますエジプトに対し、10の災いを降したが、そのうちの一つとして、ひょうによってエジプトを打った事がある。(出エジプト記9:18)
また、ヨシュアの時代にも、主の民と同盟を結んだ異邦のギブオン人を助ける戦いにおいて、主はひょうをもって敵を打ち、ひょうで打たれた人のほうが、剣で倒された人よりも多かったことが記されている。それのみならず、主はヨシュアの祈りに聞いて、太陽と月を一昼夜止め、主の民の敵を殲滅する事を助けられた。(ヨシュア記10章)
主は、主につく民が、たとえ異邦人であろうとも、その助けを求める祈りの声に聞いて天気を動かして助け、また、終末においては、神の民を虐げる者達へ降す災いの道具として、なんと1タラント(約35キログラム)の雹を降らせる事も予告しておられる。(黙示録16:21)

38:24 光の広がる道はどこか。東風の地に吹き渡る道はどこか。
38:25 だれが大雨のために水路を切り開き、/いかずちの光のために道を開き、

ここにおいて主は、4つのものに、すなわち、光、東風、大雨、いかずちに、通り道を備えておられる事を示しておられる。
それらは、どのように進んでいくか、人間には計り知れないものであるが、しかし主はその全て道を備えておられ、決して偶然に、無秩序に、落ちたり、広がったり、集まったり、固まったりするものではない事を、主は教えておられる。

38:26 人なき地にも、人なき荒野にも雨を降らせ、
38:27 荒れすたれた地をあき足らせ、/これに若草をはえさせるか。

さらに主は、人が未だ見たことも入った事もない前人未踏の地さえ、養っておられる事を示される。
ヨブはあたかも神と対等であるかのように物申したが、ヨブが行ったことも見た事もない土地さえ、主は養い、潤しておられるのだ。

38:28 雨に父があるか。露の玉はだれが生んだか。
38:29 氷はだれの胎から出たか。空の霜はだれが生んだか。
38:30 水は固まって石のようになり、淵のおもては凍る。

水は雨として降り、霧になり、露にもなり、氷にもなり、深淵で、空で、大地で、それぞれの場所場所で形を変える。
その全てを支配しておられるのは、神である。
さらに主は、宇宙の天体にまで、支配の御手がある事を示される。

38:31 あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。
38:32 あなたは十二宮をその時にしたがって/引き出すことができるか。北斗とその子星を導くことができるか。

神は北斗七星を北半球のどこからでも見えるようにし、それを目印に、北極星を示し、また、北極星を決して動かない星として下さったゆえに、人々は古来より航海ができ、目的地までたどり着く事ができた。
星々は、たとえ人が光速の乗り物をつくって宇宙を旅できたとしても、何万年・何億年もかかる程の、人には到底到達できない遠い場所にあるが、その、星と星との遠大な距離間に、主は、見えない鎖をもって結び、それらをその位置に配置された。
このような星々を主が創られた理由が、創世記1章に書いてある。

創世記1:14 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、
1:15 天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。
1:17 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、
1:18 昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
1:19 夕となり、また朝となった。第四日である。

神は星々を、「しるし(オット)」のため、また季節(モエド)のために、定められた。
オット(しるし)とは「神の意味が付与された出来事」であり、モエドとは「祭り」、すなわち、神と人とが出会う、約束された日時、約束された場所において、その時々に違った「まつりごと」をもって神と交際する一時である。
神は星々をオットとモエドのために創り、それを遠大なる鎖をもって配置しておられるのだ。
まことにヨブにも、私達にも、全く計り知れない事である。

38:33 あなたは天の法則を知っているか、/そのおきてを地に施すことができるか。

人は、将来の天体の動きを、諸々の物理方程式を用いて推測する事が出来、また、過去にどのような星の配列であったかも、推測できる。
それは、諸々の物理定数や公式などの「天の法則」を人が発見し、それを計算したからであるが、そもそも、これら「天の法則」を定め、そのおきてを地に施したのは、まことに神である。

38:34 あなたは声を雲にあげ、/多くの水にあなたをおおわせることができるか。
38:35 あなたはいなずまをつかわして行かせ、/『われわれはここにいる』と、/あなたに言わせることができるか。
ここの直訳は「あなたが稲妻を送り出すと,それが出て行き,あなたに『はい,ここにおります』と言うだろうか」である。(聖書注解)
主は雲に号令して雲に蓄え、あるいは地に降し、また主は稲妻に号令して、稲妻はそれに忠実に従う。

38:36 雲に知恵を置き、/霧に悟りを与えたのはだれか。
38:37 だれが知恵をもって雲を数えることができるか。だれが天の皮袋を傾けて、
38:38 ちりを一つに流れ合わさせ、/土くれを固まらせることができるか。

主は雲に、霧に、ちりに、土くれに、それぞれに号令し、集め、あるいは分離させ、人や動植物が生活できるよう配分させ、そうして地球が出来上がった。
それらがうまく存続できるようにするために、主は、月と地球を太陽を、ちょうど良い位置関係に配置し、ちょうど良い自転速度・公転速度を定め、今なお、主が創世記1章にて御口をもって発せられた「天の法則」が生きているから、私達はこうして当たり前のように朝目が覚めたら太陽を見、地に足をつけ、歩いたり走ったり、また、当たり前のように動植物が今日も生きているのを目の当たりにし、当たり前のように食べ物を毎日口に入れる事が出来るのである。

ヘブライ思考では、ヘブライ語の動詞は「生きているもの」とされており、例えば、神の御口から「イェヒー・オール(光よあれ)」という命令形動詞が発せられた、かの瞬間から、今に至るまで、そしてこれからも、その動詞が「生き続けている」からこそ、光は今もなお存続し続けているのだ、と、という思考である。
まことに、はじめにことばがあり、ことばは神とともにあり、ことばは生きておられる神なのだ。(ヨハネ1:1)

38:39 あなたはししのために食物を狩り、/子じしの食欲を満たすことができるか。
38:40 彼らがほら穴に伏し、/林のなかに待ち伏せする時、/あなたはこの事をなすことができるか。
38:41 からすの子が神に向かって呼ばわり、/食物がなくて、さまようとき、/からすにえさを与える者はだれか。

主は続いて、人には計り知れないような「動物の生態」についてヨブに問うており、この章では特に「しし」「からす」について問うている。
からすは、神に向かってえさを求めて鳴く鳥として詩篇147:9にも記されている。
この世に何千万・何億羽のからすがいるのかは私達には分からないが、その、全からすのえさを呼び求める声の一つ一つに、主は答えて、からす達にえさを与えておられる。
また、ししは、動物を狩って食を得ているが、主はそのししが食べる獲物をも、備えておられる。

まことに次の詩篇の通りである。
詩篇139:17 神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。
139:18 わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。

流れる川のごとく潤し続ける聖霊(ヨハネ7:37-39)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は御霊のご性質の一面を、すなわち、その流れる川のごとく人を潤す性質について学びたい。
『祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。』(ヨハネ7:37) 時は、祭りの終わりの最も盛大な日。一番盛り上がる日のはずが、イエス様は裏腹にも「渇くなら」と言われる。祭りの「盛り上がり」についていけない人もいるであろうが、結局、人同士の祭り・盛り上がりの行き着く先は必ず「渇き」であり、真に渇きを癒やす事が出来るのは、イエス様だけだ。
5章にも「祭り」の日、イエス様は38年間も病だった人の所に行って癒やして下さった記事がある。彼は38年も病で祭りに参加できず、癒やされる事も、誰かが助けてくれる事も、とうの昔にあきらめ尽くしていた。
そんな「祭り」の最中、イエス様は彼を訪ねて来られ、「よくなりたいか」と言われた。しかし彼は治る事は既にあきらめ切って、ただ自分には「誰もいない」事をイエス様に答えるだけだった。
イエス様は彼に向かい、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われた。イエス様のそのたった一言を実行した結果、38年も頑固にまとわりついていた病が一瞬で癒やされたのだ。彼は癒やされた後、神殿の中でイエス様に見出された。つまり彼は、無意識的に、よくなったら神に感謝し、礼拝する志があったのだ。
彼は38年、ベテスダから一歩も出ておらず、その間「なにも出来なかった」事で、対人能力が萎え、衰え、自己卑下やマイナス思考などの負の遺産が積りに積もって地層を為していたかもしれないが、そのような人であっても、イエス様は癒す事が可能である。イエス様のお言葉どおり行い、神を敬う志があるのなら。

イエス様は祭りの終わりに、カラカラに渇いていた人々を見るに見かね、大声で言われた。「誰でも渇く者は、わたしのところにきて飲むがよい」と。イエス様は「飲ませてくださるお方だ」と認知すべきである。
どうやって飲むのか?「信じる事によって」である。『わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』(38節) ここの「腹」と訳されたギリシア語はコイリア、他に「子宮」や「知・情・意の座」を意味する。イエス様のお言葉を飲む、すなわち「信じる」なら、何かがすとんと自分の中に入り、その奥底から生ける水が川となって出て来て、自分を潤し、他人を潤す。これは一体何か。
『これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊(プネウマ・ハギオン=聖なる霊)がまだ下っていなかった(be動詞)のである。』(39節) イエス様がまだ栄光を受けていなかった時、すなわち、十字架と復活を経る前は、人々にはまだ聖霊が与えられなかった。しかし、イエス様が御父のところに行った事により、助け主・聖霊が与えられるようになる。『しかし助け主、すなわち、父がわたしの名によって遣わされる聖霊は、あなた方に全ての事を教え、またわたしが話しておいた事をことごとく思い起させるであろう。』(14:26)
だから聖霊を受けると受けないとでは、莫大な違いが出てくる。

聖霊を受けない人は、御言葉を聞いても、知的に表面上の事しか理解できない。「手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ」(詩篇47:1)と書いてあるのを見ても、神学的解釈に走ったり、賛美中に(楽しくないのに)がんばって手を叩くのが関の山だが、聖霊を受けた人が読むなら、腹の奥底から、主を讃えたい気持ちに同調する。主を喜ぶ実感があるからだ。聖霊が来てくださるなら、御言葉を読む都度、神との関係や、神の栄光について教えてくださり、のみならず、人との関わり方も教えてくださる。
聖霊が来る前は、人と会っても挨拶程度で終わっていたのが、聖霊が来ると、その人が今どのような状況で、自分はどう関わらなければならないのか、どう会話を切り出しどう返事をすべきか、細かく教えて下さる。
聖霊は水のように、川のように、流れるもので、渇きを癒やし、人を潤す。それは一時的にではなく、流れ続ける川のごとく、ずっと流れ込んできて、潤し続け、きよめ続けるものである。
御霊の人はその流れに乗り、押し出され、自動的に進んでいく。それは何の無理も無く、楽しい道であり、行けば行くほど潤い、若々しくなり、愛、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結んでいく。
対して肉の人は、苦心してがんばり続けなければ進んで行かず、良い行いをしようとしても、すぐ疲れ、無理が出て、自動的に不品行や汚れ、怒りなど、肉の実を結んで行ってしまう。『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たす事はない。』(ガラテヤ5:16) 常に御霊に歩み続け、豊かに御霊の実を結んで行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

あらしの中から答えられた神(ヨブ記38:1-21)
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ヨブは今まで、この災が自分に望むのは不当だ、神と対話がしたい、と、長らく息を荒げて訴えていたが、彼が望んだ通り、ついに神ご自身が沈黙を破って彼に現れ、答えられる。
その現れた様は、圧倒的である。

38:1 この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、

つむじ風と訳された語「セアーラー」は、暴風、竜巻の意味である。
人は、この地上に起きる竜巻には立ちおおせないし、ましてや、エベレストの頂上で吹き荒れる最大風速300km/hを超える暴風や、宇宙空間に吹き荒れる太陽風など、人間が直でさらされれば、ひとたまりもない。
この地上は、神の保護によって、あらゆる風から守られているのである。(黙示録7:1)

主は、そんなか弱い人間が死なないで済む程度の「つむじ風」にわざわざレベルを落とし、その中から語りかけられたのだ。
なぜなら、主は人が死ぬ事を望まず、人がより良く神と共に生きる事を望んでおられるからだ。

38:2 「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。

計りごと、と訳された語はエーツァー、「協議」「助言」を意味する語で、KJVではカウンセルと訳されている。
神は、神の子ら(ベン・ハーエローヒム: ヨブ記1:6)の間で協議をし、地上の全ての物事の運行を取り決め、人の処遇を決定する。(ヨブ1:6、1歴代誌21:1、ゼカリヤ3:1)
ヨブは、身勝手な主張によって、この天的なカウンセルを暗くしたのだ。

38:3 あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。

腰に帯を締める。それは、これから何か大きな仕事をする前にする行為である。
神はヨブに、これから男らしく立ち振る舞って、わたしがこれから尋ねる言葉に答える備えをせよ、と言われる。

38:4 わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。
38:5 あなたがもし知っているなら、/だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。
38:6 その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。

この地には私達の知らない基があり、主がそれを定められた。
そして主は、その度量を定め、測りなわを地の上に張りめぐらし、土台を「何か」の上に置いた。
その土台が一体「何」であるのか、また、その隅の石の組成は一体何であるのか、主はヨブに問うている。
このわずかな質問さえ、人は何も答えられないが、主の応答は、まだまだ始まったばかりである。

38:7 かの時には明けの星は相共に歌い、/神の子たちはみな喜び呼ばわった。

その時、ヨブどころか誰一人人間は存在していない時代である。
その時、その素晴らしい主の創造に御業を見て、喜び叫ぶ声が上げたのは、明けの星たち、すなわち、神の子たちだった。

明けの星といえば、サタンとなったルシファー(ヘブライ語:ヘイレル)を連想するが、ここにはヘイレルという言葉は使われておらず、コヴェイ・ボーケル(暁の星々)という言葉が使われている。
サタンは、神を賛美する楽隊長だったが(イザヤ書14章)、この時点では、サタンはまだ堕落する前だったのだろう。

ちなみに、創世記1:1で、神は最初に天地を創造した(バラー)事が記されているが、そのバラーには「秩序を立てた」という意味もある。
しかしその次の節には、既に秩序はなく、混沌となってしまっている。
学者たちは、それを説明する理由として、創世記1章1節と2節の間に、秩序が無秩序となってしまった事件、すなわちサタンが起こした天的な戦争があったのでは、と見ている。

38:8 海の水が流れいで、胎内からわき出たとき、/だれが戸をもって、これを閉じこめたか。

神は、海を「胎内」から湧き出させた。
その「胎」とは一体何であるのか、私達には知る由がないし、また、海が今、何億リットルあるのかも分からないが、これほどの分量が、今の世界地図どおりの水陸の境界線となるように正しくはかり、「これ以上は進むな」と言って切り分けた主の御業も、私達人間には計り知れない。

38:9 あの時、わたしは雲をもって衣とし、/黒雲をもってむつきとし、

この「むつき」と訳された言葉は、ヘブライ語で「ハトラー」、それは、古来よりユダヤ人達が生まれたての乳児を包むための、封筒のような布団の事を指す。
主は、地球が生まれたばかりの時、雲を地球の衣とし、黒雲をもってハトラーとした。
それ故、宇宙から見た地球は、雲の衣に覆われた形になっているのであるが、実はユダヤ人達は古来から、赤ちゃんが生まれた時、神が地球を造られたときと同じ事を、ずっとして来た。

地球は神の御手によって生まれたばかりの時、主の霊によって覆われていたが、同じように、ユダヤ人の母は、胎に宿った子に向かって、午前、午後、夜と、合計3時間以上、テフィリンによって暗記しているモーセ五書5845節を宣言し、胎の子に聞かせながら、御言葉の包みである「ハトラー」をひと織りひと織り編んでつくる。。
そして、実際に赤ちゃんが生まれてから2歳まで、ずっとそのハトラーに赤ちゃんをくるんで育てる。
この教育方法を「ハトラー教育」という。
最近はハトラーは市販されていて、それを買えば、わざわざ織る必要も無いようであるが、昔は、赤ちゃんが身ごもった時から、母親は子供のために刺繍の一折り一折りを祈りを込めつつ行った。
そうして、赤ちゃんが、世から、サタンから、御言葉によって守られるように、と祈るのだ。

神が天地を造られた時、混沌の闇の中にある地を、主の霊が翼を広げためんどりのように覆っていたがごとく、ユダヤ人の母親は、御言葉によって子供を覆って守る事を、伝統的にずっとし続けて来たのだ。

38:10 これがために境を定め、/関および戸を設けて、
38:11 言った、『ここまで来てもよい、越えてはならぬ、/おまえの高波はここにとどまるのだ』と。

神が海と陸の境界線を定められ、そしてそれは、人にとってちょうどよい形に収まっている。
2011年の地震の時、津波がその境界線を超えて、大きな災害が起きたが、それはまさに、主の創造の秩序が破壊された形である。
主の創造のわざの破壊が起きたのは、神のわざが不完全だからではないし、自然の力が神の力を勝ったからでもない。
唯一、神の創造の御業を破壊できるのは、人間の、御言葉に対する不従順によって、である。

エデンの園において、人が主の御言葉を超えて、食べてはならない善悪を知る木を食べた故に、地は、呪われてしまった。(創世記3章)
以来、被造物はうめきつつも人類に対していばらやあざみを生えさせ、人が敢えて汗して労しなければならないようにと、反旗を翻すようになり、それ以来、被造物はうめきながら神の子達のあらわれを待ち望むようになった。(ローマ8章)
結局、地が地震や津波などによって人間を脅かすようになったのは、人の罪が原因であり、唯一、それを収める事が出来るのは、イエス・キリストを信じる神の子達があらわれて、被造物のために執り成し祈り、また、イエスの血によって贖われた神の子として、正当な統治をする事によって、である。

38:12 あなたは生れた日からこのかた朝に命じ、/夜明けにその所を知らせ、
38:13 これに地の縁をとらえさせ、/悪人をその上から振り落させたことがあるか。
38:14 地は印せられた土のように変り、/衣のようにいろどられる。
38:15 悪人はその光を奪われ、/その高くあげた腕は折られる。

神は、悪人の手をへし折り、彼らを地の縁から、振り落とすお方である。
実際、神はサタンを天から投げ落とし、地の底に閉じ込めた。
ヨブは、悪人が栄えているのはいかに?と友人たちに質問を投げかけたが、神は、悪人がいつまでものさばる事をお許しにはならず、やがてはその悪を行う腕をへし折り、光を奪い、地の縁から振り落とされる事を直接言われた。

38:16 あなたは海の源に行ったことがあるか。淵の底を歩いたことがあるか。
38:17 死の門はあなたのために開かれたか。あなたは暗黒の門を見たことがあるか。
38:18 あなたは地の広さを見きわめたか。もしこれをことごとく知っているならば言え。
38:19 光のある所に至る道はいずれか。暗やみのある所はどこか。
38:20 あなたはこれをその境に導くことができるか。その家路を知っているか。

神は、海、生死、地、光と闇の、その成り立ちと極みについて問い、そして言われる。

38:21 あなたは知っているだろう、/あなたはかの時すでに生れており、/またあなたの日数も多いのだから。

ヨブは神に対して「タイマンを張った」のだから、さぞやヨブ、あなたは昔から生きていて、多くの日数を過ごし、全部知っているのだろう、と、皮肉を言われたのだろう。
まことに、主を前にして高ぶるのは、愚かである。

私達は、この100年足らずの人生で、主の御業の偉大さ、高さ、深さをどれほど知ることが出来るだろう。
私達はただ、この短い人生の時間を用いて、主の素晴らしさを少しでも知り、それを人々に伝えて行く事を為していくのみである。

神ご自身が直接その人に現れるための導き方(ヨブ記37章)
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ヨブ記37章は、人間の議論の最後の章である。
その後、主ご自身が激しい臨在をもって現れ、ヨブに直接答えられるが、その、橋渡し的なこの章において頻発するキーワードは、雷、いなずま、かみなり、雷鳴である。

37:1 これがためにわが心もまたわななき、/その所からとび離れる。
37:2 聞け、神の声のとどろきを、/またその口から出るささやきを。
37:3 彼はこれを天が下に放ち、/その光を地のすみずみまで至らせられる。
37:4 その後、声とどろき、/彼はそのいかめしい声をもって鳴り渡られる。その声の聞える時、/彼はいなずまを引きとめられない。

それは恐ろしいものに見えるが、しかしそれは、神の民に対しては豊かな実りをもたらす前触れである。

37:5 神はその驚くべき声をもって鳴り渡り、/われわれの悟りえない大いなる事を行われる。
37:6 彼は雪に向かって『地に降れ』と命じ、/夕立および雨に向かって『強く降れ』と命じられる。
37:7 彼はすべての人の手を封じられる。これはすべての人にみわざを知らせるためである。
37:8 その時、獣は穴に入り、そのほらにとどまる。

神が御声を発せられるのは、私達が悟りえない大いなる事を行うためだ。
稲光が輝く時、神の敵は蹴散らされ、私達は主の大いなる事をなさることを期待をするべき時である。

37:9 つむじ風はそのへやから、/寒さは北風から来る。
37:10 神のいぶきによって氷が張り、/広々とした水は凍る。
37:11 彼は濃い雲に水気を負わせ、/雲はそのいなずまを散らす。
37:12 これは彼の導きによってめぐる。彼の命じるところをことごとく/世界のおもてに行うためである。
37:13 神がこれらをこさせるのは、懲らしめ(原語:鞭あるいは杖)のため、/あるいはその地のため、/あるいはいつくしみのためである。

主が雷を轟かせ、激しい御声を発せられるのは、懲らしめのため、彼の地のため、あるいは、いつくしみのため、であると書いてある。
神はこの後、ヨブに激しい形で現れるのは、最終的には彼を癒やすためだ。

ルカ10:17 七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。
10:18 彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。
10:19 わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。
10:20 しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。
10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。。

神は稲妻でもって、サタンを地に投げ落とされた。
しかし弟子達には、福音を伝える事による、豊かないのちの刈り取りを与えられた。
雷は、敵に対しては恐ろしいものでも、私達・神の民に対しては潤いと恵みのしるしである。

37:14 ヨブよ、これを聞け、/立って神のくすしきみわざを考えよ。
37:15 あなたは知っているか、/神がいかにこれらに命じて、/その雲の光を輝かされるかを。
37:16 あなたは知っているか、雲のつりあいと、/知識の全き者のくすしきみわざを。
37:17 南風によって地が穏やかになる時、/あなたの着物が熱くなることを。
37:18 あなたは鋳た鏡のように堅い大空を、/彼のように張ることができるか。
37:19 われわれが彼に言うべき事をわれわれに教えよ、/われわれは暗くて、言葉をつらねることはできない。

エリフはヨブに、神のなさる御業について、自然界の妙なる様について、あなたはこれを知っているのか、と問いただす。
この直後、神が直接、ヨブに問いただすが、私達も、頑なな人々と対峙する時、彼らに神の大いなる御業を告げるなら、あとは、主ご自身が直接現れて、その人に問いただして下さる。

37:20 わたしは語ることがあると/彼に告げることができようか、/人は滅ぼされることを望むであろうか。
37:21 光が空に輝いているとき、風過ぎて空を清めると、/人々はその光を見ることができない。
37:22 北から黄金のような輝きがでてくる。神には恐るべき威光がある。

ヨブ記において延々と行われてきた「人間の議論」の最後は、神の栄光と神の恵みを数える事だった。
そうして後、栄光の神ご自身が現れ、自ら語りだされる。

37:23 全能者は――/われわれはこれを見いだすことができない。彼は力と公義とにすぐれ、/正義に満ちて、これを曲げることはない。
37:24 それゆえ、人々は彼を恐れる。彼はみずから賢いと思う者を顧みられない」。

そう、神は自らを賢いとし、義とする者は顧みない。
イエス様が「これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。」と言われた通りである。

自己義を貫き通し、頑として自分の意見を変えない者に対しては、論理や哲学は通じない。
そのような時には、エリフが最後にヨブに対してしたように、私達はただ、彼らに神の栄光を伝え、あとは、神ご自身がその人に直接現れて直接的に取り扱って下さるのに任せるのが一番なのだろう。
主の現れは、確かに、雷のように恐ろしい。
しかしそれは、人を滅ぼすためでなく、生かすためなのだから。

罪あるちっぽけな人間が、主の前にできる事とは(ヨブ記36章)
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エリフは、一通りヨブが発した言葉の間違いを指摘したが、なお、語るべき事があった。

36:1 エリフは重ねて言った、
36:2 「しばらく待て、わたしはあなたに示すことがある。なお神のために言うべき事がある。
36:3 わたしは遠くからわが知識を取り、/わが造り主に正義を帰する。
36:4 まことにわたしの言葉は偽らない。知識の全き者があなたと共にいる。

エリフがさらに言いたかった内容は、「神のために言うべき事」、すなわち「わが造り主に正義を帰する」事だった。
ヨブがあくまで自分を義とし、神のほうを間違っている、とした事が、耐え難かったのだ。(32:2)

36:5 見よ、神は力ある者であるが、/何をも卑しめられない、/その悟りの力は大きい。
36:6 彼は悪しき者を生かしておかれない、/苦しむ者のためにさばきを行われる。

神は力強い。しかし神は人とは違う。
人は、権力や力を持つと、とたんにその力を試みに乱用し、他人を軽んじたり、貶めたりと、他人を軽んじ卑しめるような心無い行動をはじめる傾向があるが、神は決してそうしない。
神のさばきは正しく、彼が行う統治の根底には、人を生かそうという愛がある。

36:7 彼は正しい者から目を離さず、/位にある王たちと共に、とこしえに、/彼らをすわらせて、尊くされる。
36:8 もし彼らが足かせにつながれ、/悩みのなわに捕えられる時は、
36:9 彼らの行いと、とがと、/その高ぶったふるまいを彼らに示し、
36:10 彼らの耳を開いて、教を聞かせ、/悪を離れて帰ることを命じられる。

ヨブは以前のままでは、相変わらず自己義や高ぶりの「根っこ」を抱えたまま、神との関係を「貧しく」過ごさざるを得なかったが、この度のサタンの試みをきっかけに、神はそれをも益として用い、ヨブを、より良い(トーブな)状態へと導こうとしておられる。
それでエリフは、ヨブに、心を低くして神に仕えるよう勧める。

36:11 もし彼らが聞いて彼に仕えるならば、/彼らはその日を幸福に過ごし、その年を楽しく送るであろう。
36:12 しかし彼らが聞かないならば、つるぎによって滅び、/知識を得ないで死ぬであろう。

ヨブは最終的に、神を知る事となり、その後の日々は、幸福で楽しいものとなっていった。
それは、彼は最終的に神の前に低くなり、悔い改めたからだ。

13節はまさに、サタンとそれに類する者達の性質を、一言で表している。

36:13 心に神を信じない者どもは怒りをたくわえ、/神に縛られる時も、助けを呼び求めることをしない。
36:14 彼らは年若くして死に、/その命は恥のうちに終る。

恥のうちに終る、と訳された箇所は、直訳すると「神殿男娼の中にある」である。
彼らの性質は、自分の意図する通りに、物事が起きない、あるいは、意図に反する事が起きると、怒り、神に対して顔向けしない。
ちょうど、カインがそうだったように。

創世記4:3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
4:4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
4:5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

このような者は、神殿男娼のように、その生涯は短く、その終わりは恥に満ちたものである。

自分の思い通り行かないで怒りが満たされるような時、が私達にもあるかもしれない。
そのような時、私達は、自分が果たして神の前に正しかったかどうかを反省し、低くなって悔い改めるべきだ。
ヨブは怒りに満たされ、自己義を貫いて、自分を高くしていた故に、ちょうどその災いの道を通っていた。
エリフはそれを指摘する。

36:15 神は苦しむ者をその苦しみによって救い、/彼らの耳を逆境によって開かれる。
36:16 神はまたあなたを悩みから、/束縛のない広い所に誘い出された。そしてあなたの食卓に置かれた物は/すべて肥えた物であった。

エリフが他の3人の友人達と違う所は、他の3人は、災いが起きるのは因果応報の故だという機械的な押し付けばかりしていたが、エリフは、神は人をより「良い(トーブ)」状態へと導くために、そのとっかかりとして、災いと見える事も起こし、さらに良い状態へと導くために、その事を起こす事もあるのだ、という所だ。

エリフがここで言っているように、主は、御言葉に聞き従おうとして努力する人を、束縛のない広い所に誘い出される。
ダビデも言っている。

詩篇18:16 主は高い所からみ手を伸べて、わたしを捕え、大水からわたしを引きあげ、
18:17 わたしの強い敵と、わたしを憎む者とから/わたしを助け出されました。彼らはわたしにまさって強かったからです。
18:18 彼らはわたしの災の日にわたしを襲いました。しかし主はわたしのささえとなられました。
18:19 主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。

主はなぜダビデを喜びとされたか。
それは、彼が主を「わたしの助け」としたからであり、苦しむ時に主に向かって助けを求めたからである。

詩篇18:1
聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌、すなわち主がもろもろのあだの手とサウルの手から救い出された日にダビデはこの歌の言葉を主にむかって述べて言った
わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。
18:4 死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。
18:5 陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。
18:6 わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。

ヨブは苦しみの時、主に助けを求めるのではなく、自分のみじめな状態を吐露し、自己義を叫び、頑として主張したが、ダビデは主に助けを求めた。
それで主は、ダビデを「喜び」とし、助け出されたのだ。

ヨブ記36:17 しかしあなたは悪人のうくべき/さばきをおのれに満たし、/さばきと公義はあなたを捕えている。
36:18 あなたは怒りに誘われて、/あざけりに陥らぬように心せよ。あがないしろの大いなるがために、おのれを誤るな。
36:19 あなたの叫びはあなたを守って、/悩みを免れさせるであろうか、/いかに力をつくしても役に立たない。
36:20 人々がその所から断たれる/その夜を慕ってはならない。
36:21 慎んで悪に傾いてはならない。あなたは悩みよりもむしろこれを選んだからだ。

エリフは続く節で、主がいかに力強く、栄光に富んでおられるかを示している。
38章以降、主は圧倒的臨在をもって、ご自身の栄光をあらわしているが、その導入として、この主を褒め称えるように、ヨブに促している。

36:22 見よ、神はその力をもってあがめられる。だれか彼のように教える者があるか。
36:23 だれか彼のためにその道を定めた者があるか。だれか『あなたは悪い事をした』と/言いうる者があるか。
36:24 神のみわざをほめたたえる事を忘れてはならない。これは人々の歌いあがめるところである。
36:25 すべての人はこれを仰ぎ見る。人は遠くからこれを見るにすぎない。

エリフが「神のみわざをほめたたえる事を忘れてはならない」と言っているように、私達ができる事は、ただ主の素晴らしさを仰ぎ見て、主に栄光を捧げる以外にない。
ヨブのように、自分のわずかばかりの義を掲げ、それを盾にして主の素晴らしさを曲げようとするなど、愚の骨頂なのだ。

36:26 見よ、神は大いなる者にいまして、/われわれは彼を知らない。その年の数も計り知ることができない。
36:27 彼は水のしたたりを引きあげ、/その霧をしたたらせて雨とされる。
36:28 空はこれを降らせて、人の上に豊かに注ぐ。
36:29 だれか雲の広がるわけと、/その幕屋のとどろくわけとを/悟ることができようか。
36:30 見よ、彼はその光をおのれのまわりにひろげ、/また海の底をおおわれる。
36:31 彼はこれらをもって民をさばき、/食物を豊かに賜い、
36:32 いなずまをもってもろ手を包み、/これに命じて敵を打たせられる。
36:33 そのとどろきは、/悪にむかって怒りに燃える彼を現す。

結局、人は、どんなに徳を積んでも、どんなに善行を行っても、主の義に届くものではないし、主の栄光を前にしては全く無に等しい。
圧倒的に大いなる主。
その主は、ちっぽけで罪を内在させている人間をまたたく間に消し去るのではなく、人を愛し、憐れみ、主に立ち返らせ、主と関係を持ちつつ生きるようにと、招いておられる。
そのために必要な態度は、ヨブのようにそそりたつ自己義という高慢を捨て、へりくだって主に栄光を帰す事なのだ。

いつでも「神」を主語とし、何をしても祝福されたヨセフ(創世記39:1-10)
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創世記39:1 さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。
39:2 主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。
39:3 その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。
39:4 そこで、ヨセフは彼の前に恵みを得、そのそば近く仕えた。彼はヨセフに家をつかさどらせ、持ち物をみな彼の手にゆだねた。
39:5 彼がヨセフに家とすべての持ち物をつかさどらせた時から、主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ。
39:6 そこで彼は持ち物をみなヨセフの手にゆだねて、自分が食べる物のほかは、何をも顧みなかった。さてヨセフは姿がよく、顔が美しかった。
39:7 これらの事の後、主人の妻はヨセフに目をつけて言った、「わたしと寝なさい」。
39:8 ヨセフは拒んで、主人の妻に言った、「御主人はわたしがいるので家の中の何をも顧みず、その持ち物をみなわたしの手にゆだねられました。
39:9 この家にはわたしよりも大いなる者はありません。また御主人はあなたを除いては、何をもわたしに禁じられませんでした。あなたが御主人の妻であるからです。どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」。
39:10 彼女は毎日ヨセフに言い寄ったけれども、ヨセフは聞きいれず、彼女と寝なかった。また共にいなかった。

1サムエル記2:17 このように、その若者たちの罪は、主の前に非常に大きかった。この人々が主の供え物を軽んじたからである。
2:18 サムエルはまだ幼く、身に亜麻布のエポデを着けて、主の前に仕えていた。

3:13 わたしはエリに、彼が知っている悪事のゆえに、その家を永久に罰することを告げる。その子らが神をけがしているのに、彼がそれをとめなかったからである。

創世記40:8 彼らは言った、「わたしたちは夢を見ましたが、解いてくれる者がいません」。ヨセフは彼らに言った、「解くことは神によるのではありませんか。どうぞ、わたしに話してください」。

創世記41:16 ヨセフはパロに答えて言った、「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」。

41:25 ヨセフはパロに言った、「パロの夢は一つです。神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。
・・・
41:28 わたしがパロに申し上げたように、神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。

41:32 パロが二度重ねて夢を見られたのは、この事が神によって定められ、神がすみやかにこれをされるからです。

41:38 そこでパロは家来たちに言った、「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだし得ようか」。
41:39 またパロはヨセフに言った、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。
41:40 あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」。

41:51 ヨセフは長子の名をマナセと名づけて言った、「神がわたしにすべての苦難と父の家のすべての事を忘れさせられた」。
41:52 また次の子の名をエフライムと名づけて言った、「神がわたしを悩みの地で豊かにせられた」。

45:5 しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。
45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、なお五年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう。
45:7 神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。
45:8 それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。
45:9 あなたがたは父のもとに急ぎ上って言いなさい、『あなたの子ヨセフが、こう言いました。神がわたしをエジプト全国の主とされたから、ためらわずにわたしの所へ下ってきなさい。

平安の問題 - エレミヤ書の9つのGolden Key 3/9(エレミヤ14:13)
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この週末の時代を読み解く上で非常に重要なエレミヤ書の9つの鍵の、第3番目は、「平安(シャローム)」の問題である。

現代、ユダヤ人はこのシャロームが挨拶言葉となっているが、元々はそうではなかった。
彼らが国を失って、いつ死ぬかも分からない毎日であった。それで、朝ごとに「あなたは大丈夫(シャローム)ですか?」と言うのが挨拶言葉になった。
元々はルツ記2:4で、ボアズが人々に「主があなたがたとともにおられますように。」と言って、人々は「主があなたを祝福されますように。」と答えたが、それが本来の挨拶だった。
しかし、ユダヤ人はあまりに切迫した状況を生きていたため、シャッレーシャローム、それがさらに短縮し、シャロームだけになった。

エレミヤ14:13 わたしは言った、「ああ、主なる神よ、預言者たちはこの民に向かい、『あなたがたは、つるぎを見ることはない。ききんもこない。わたしはこの所に確かな平安をあなたがたに与える』と言っています」。

エレミヤは主に切実に求めている。他の預言者達は、シャロームを宣言しています、と。
しかし主は、あいにく彼らは偽預言者だ、シャロームでないのに、シャロームだと宣言している、と、断罪する。

カン・シンゴン博士は言う。旧約聖書を一言で表すなら平安(シャローム)、新約聖書を一言で表すなら「恵み」だと。
ユダヤ人は誰もが求め、偽預言者が乱発している「平安」、これはいかにして与えられるのか。
それは、油そそがれた者、メシヤによってである。

イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。

これがイエス様の働きである。イエス様が来られる時、主の恵みの年が成就する。
イエス様は自分の故郷、ナザレの会堂で、これを宣言された。

ルカ4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
4:17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
4:19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
4:20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
4:21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。
4:22 すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。

ここを、ハイネケンイシューという。ハイネケン(εινεκεν)とは「**のために」という意味で、ビール会社がそのギリシア語を社名に用いた。
しかしこのルカ4章には、イエス様が「何のために(ハイネケン)」来られたのか、その理由が一つ一つ記されている。

1,貧しい者に福音を伝えるために。
2,わたしに油をそそぎ。
3,<新改訳では欠如、原典にはあり>心の虐待された者を癒やすため。
4,捕虜に自由を。
5,目が見えない人に見える事を。
6,抑圧された者を自由に。

これらの働きは、私達キリスト者の働きでもある。
キリスト者もまた聖霊の油注ぎを受け、この地上にイエスキリストの働きをするように召し出されたゆえ、貧しい者に福音を伝え、心の虐待された者を癒やすために、罪とサタンによってがんじがらめにされてしまった人々を自由にするために、また、真理が見えず、イエス様が見えない霊的盲目な人々の目を癒すために、そして、抑圧された人を自由にするために、召し出されている。
これによって、恵みの年が告知されていくのだ。

イエス・キリストの十字架と復活を抜きにして、真の平安は無い。イエス様は復活の日、弟子達に平安を宣言し、聖霊を受けるようにと息を吹きかけられた。
そして私達は、世界へ宣教に出かけることが出来るのだ。
これは全て、恵みによる。

聖書最後の言葉は、次の言葉である。
黙示録22:21 主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。(アーメン)

これが、聖書全体の結論である。
まず、イエス・キリストの恵みがありきで、それによって、父なる神の平安が与えられる土台が整えられる。
イエス様はまことの門であり、この御方を通ってでなければ、誰も父なる神には至らないからである。

イスラエルのシャローム(平安)の問題、それはただ、メシヤであられるイエス・キリストを通してのみ、成就するのだ。

主から重んじられる人と、軽んじられる人(1サムエル記2:17-18)
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 先週、コーエン日本ラーニングセンターの第一サムエル記の講義を行った。前回主日にも学んだ通り、私達キリスト者は預言者として、祭司として、王として神と人々との間の「仲立ち(בֵּין ベイン)」の務めをするために主から任命を受けた者であり、主と主の言葉を重んじ(כָּבַדカバド)、忠実にその務めを果たして行くなら、主からさらに尊ばれ(カバド)、ついには、サムエルのように時代を変える者として大いに用いられる。
しかし、もし主を軽んじるなら、主から軽んじられ、主から警告を受けてもなお主に帰らずに、主から与えられた地位を、ただ自分のために乱用して止めないなら、主はその者を捨ててしまう(マアスמָאַס)。
サムエル記の登場人物達は、そのように明暗がくっきりと分かれて行くが、今回も2章から、主を軽んじ続けた故に務めが剥奪されてしまった大祭司エリの一族と、そして、生まれる前から主に捧げられ、主に見出され、時代を変えるために大いに用いられていくサムエルとの交錯から、私達が進むべき道を見出したい。

サムエルの名の意味はシェマー(聞く)+エロヒーム(神)、彼の母ハンナが、御前で長く祈った祈りに「主は聞いて下さった」という事で付けた名前であり、同時に、神の声を「聞いて」その通り行う者は祝福される事も象徴する。彼は幼い時から主に仕え(2:11,3:1)エリの用事を言いつける言葉にもよく聞いて行動した。
対し、エリの子・ホフニとピネハスは「ベリヤアル(悪魔)の子」で、主を恐れず(12節)、主に聞かない者達だった。ホフニの名は「拳で生きていく人」、ピネハスは「蛇の舌」の意味で、彼らは祭司でありながら、名の通りに「力づく」と「二枚舌」によって生きていく者達で、彼らの罪は主の前に非常に大きかった(2:12-17)。
彼らは、神殿で仕える女達に手を出す程の罪も犯したのに、父は言葉で注意しただけで何もしなかった。
私達は神をカバド(尊重)しなくてはならないのに、エリは息子達のほうをカバドした。それ故、エリの家は最終的に滅ぼされてしまう。重んじてはならない息子達のほうを重んじ、神のほうを軽んじたからだ。
それで主は幼子サムエルに現れ、言われる。『わたしはエリに、彼が知っている悪事のゆえに、その家を永久に罰することを告げる。その子らが神を汚している(מְקַֽלְלִ֤ים メッカーレリーム)のに、彼がそれをとめなかったからである。』(3:13) メッカーレリームとは「カラル(軽んじる)」に、場所を表す前置詞メム(מ)と、複数形のユッド・メム(ים)が語尾についた言葉で、すなわち「神を軽んじる」事が、言葉でも態度でも常態化し、どの場所でも、何度でも習慣化してしまった状態だ。それはまさに、自ら呪いを引き寄せている状態である。
なぜこうなってしまうのか。それは、本人自身が習慣的・日常的にインプット/アウトプットしている事に拠る。

私達の肉は、霊的な喜びよりも、楽しい事・面白い事・興奮する事を求める。ゲームやギャンブル、酒など。
それらは努力無しに簡単に出来、ラクである。その間、現実から離れ、自分のみじめな有様を瞬間的に忘れる事が出来(箴言31:7)、また、酔いしれている感覚が忘れられないので、その瞬間を買うために自分を売り、家族を売り、破滅への一歩一歩をクリアしつつ暴走し、歯止めが効かなくなる。エリ一族はそうだった。
だから、罪が自分の中に場所取りしないよう、そしてそれが習慣化・常態化しないよう気をつけるべきだが、もし既に破滅への道が習慣化されてしまっているなら、そこから逃れる術もまた、習慣化によってである。
サムエルはなぜ、堕落した祭司達の家という、霊的劣悪な環境の中で健全に育ったか。それは彼は「主の前に仕えていた」からだ(2:11,18,3:1)。そして、母の愛情がひと織りひと織り籠もったエポデ(主の御前に仕える祭司の服)をいつも身にまとっていた。私達に歯止めが効かなくなった、習慣化されてしまった罪がある時、サムエルのように主に仕えるエポデを心に思いに身に纏い、そして聖なる交わりの中に身を置き、聖徒達の愛とを「身に纏う」事である。そして御言葉を昼も夜も口ずさみ、テフィリンを習慣化する事である。
罪が自分の中に場所取りする前に、聖なる場所に自分の身を置き、そして自分の中には聖なる御言葉をいっぱいに住まわせる。そうするなら、御言葉が私達の中で陣営を張り、罪が入ってくる事を防ぐのだ。
ユダヤ人の母は、子供が胎に宿った時から、御言葉を口ずさむ事で子供を霊的に守り、赤ちゃんが生まれ出た後も、ハトラーという御言葉の包の中に入れて、世から、サタンから守る。私達も同様に、御言葉で陣営を組んで自分を、子供を、自分の集団を、罪の習慣に染めてしまう世とサタンから守るのだ。御言葉を宣言する事で自分や子を、また仕事場を、御言葉へと浸し込み、世とサタンに勝利する者となり、世を健全な神の言葉へますます浸し込んで行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主を尊ぶ者は尊ばれ、軽んじる者は軽んじられる(1サムエル記2:30)
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週報/メッセージ(説教)概要

 いよいよ今週、コーエン日本ラーニングセンターの第一サムエル記の講義が東京にて行われ、天声の働き人はその奉仕と学びに行く。サムエル記を学ぶ上で知っておくべき重要なキーワードが3つある。それらは、キリスト者が正しく人生を送って行く上でも重要な事柄である。今回、その3つのキーワードを学びたい。

1つ目のキーワードは「間(בֵּין:ベイン)に立つ」という言葉である。サムエル記には祭司、預言者、そして王が登場し、それぞれ活躍するが、彼らは皆、神と人の「間に立つ」ために神から任命された者達である。
預言者は神の言葉を人に届け、祭司は人々に代わって神に執り成し、王は神に代わって正当な統治を地上で行うという「役割」があり、それは、私達キリスト者の役割でもある。キリスト者は皆、王族の祭司とされ、闇から光へと招いて下さった方を伝える役割が与えられている事が書いてあるからだ。(1ペテロ2:9)
しかし、王や祭司、預言者という特権的な「地位」だけを求め、「役割」をないがしろにするなら、その者は神から地位を剥奪されてしまう事例もまたサムエル記に記されている。大祭司エリの息子・ホフニとピネハスは、祭司の務めをないがしろにし、その特権を乱用して神への捧げものを人々から横取りし、神に仕える女性に手を出して神を軽んじた。その結果、この一族は祭司職という地位を剥奪されてしまった。(2-4章)
また、サウル王は、イスラエルで最初の王として神から任命されたのに、神の代理として正当な支配をせず、神の言葉を退けたため、神は彼を王座から退けた。それでもまだ王座の「地位」に固執し、新たに王として任職されたダビデを殺そうと何年も追い回した結果、非常に悲惨な最後を遂げてしまった。(15-31章)
世の人は「地位」を求めるが、私達は神と人との間(ベイン)に立つ「役割」を忠実に果たすべきである。そのような人にこそ神はさらに「地位」与える。もし地位に固執し特権を乱用するなら、取り上げられてしまう。

二つ目のキーワードは「כָּבַד:カバド」である。「カバド」は良い意味で用いられる場合は「栄光を捧げる、あがめる、尊ぶ」だが、悪い用いられ方では、「頑な・強情になる、(罪や災いが)重くなる」の意味となる。
祭司エリは自分の息子達を重んじ(カバド)、主を軽んじた為、主から言われる。「わたしはわたしを尊ぶ者を尊び(カバド)、蔑む者は軽んじる(קָלַל:カラル)」(2:30)。これは、サムエル記の重要キーワードである。
エリは後に、神の箱が敵に奪われた事を聞いた時、倒れ、首を折って死んだ。体が重かった(カバァド)からだ(4:18)。その時、彼の嫁は「栄光は去った」と言って、生まれた子にイ・カボテ(栄光なし)と名付けた。
しかし神をカバドする事には大きな報いがある。『あなたの財産と、全ての産物の初なりをもって主をあがめよ(カバド)。そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒槽は新しい酒であふれる。』(箴言3:10)
また、もし主の聖日に自分の楽しむ事をせず、この日を尊び(カバド)、口を慎むなら、その人は主の喜びに溢れ、良い地を受け継がせ、高い地位を乗り通らせて下さる事が約束されている。(イザヤ58:13-14)
結局、神をカバドせず、神を軽んじて、自分の欲望にカバドを置くなら、神から捨てられ(マアス)てしまう。

三つ目のキーワードは、その「捨てる(מָאַס:マアス)」である。イスラエルの王政は人々が神を退けて(マアス)、人間の王を欲しがった所から始まった(8:7)。神はそれ故、王の圧制のために苦しんだとしても助けない事を、予め警告したが(11-18)、それでも民は聞かなかった。それで彼らは、後に苦しむ事になる。
王となったサウルは、神から託された王権を正しく行使せず、神の命令を二度もマアスした(退けた)ので、ついに神から言わる。「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てた(マアス)ので、主もまたあなたを捨て(マアス)て、王の位から退けられた。」(15:23) 御言葉に聞き従う事こそ、神に喜ばれる最良のいけにえなのだ。

結局、御言葉を捨てる人は、神から捨てられ、御言葉を重んじる(カバド)人は、神からカバドされる。
神に召された私達は、神と人との間(ベイン)に立ち、神から与えられた賜物に従って、その与えられた役割を忠実に行使して行くなら、神からさらにカバドされ、さらに多くの賜物が与えられ、地位が高くなり、さらに神の国の働き人として重要な事に用いられていく。神に召されて栄光の務めができる事を喜び、有益な者として神にますます用いられていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって、祝福します!

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