メッセージ - 201806のエントリ

愛のわざを行わず永遠に後悔するハデスの住人(ルカ16:19-31)
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ルカ16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。
16:20 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、
16:21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
16:22 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。
16:23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。
16:24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
16:25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
16:26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
16:27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
16:28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

ヨハネ5:38 また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
5:40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
5:41 わたしは人からの誉を受けることはしない。
5:42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。
5:43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
5:44 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。
5:45 わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。
5:46 もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。
5:47 しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。

低レベルな言い争いの土俵へと飛び込んでしまったヨブ(ヨブ記27章)
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27:1 ヨブはまた言葉(マーシャール:ことわざ、箴言)をついで言った、

ヨブ記の今までのパターンからすれば、この章は、ナアマ人ツォファルの出番となるはずである。
しかし、この章から31章までは、ずっと、ヨブが彼の「ことわざ(マーシャール)」を、怒涛のように吐き出し続ける事となる。

やはり友人たちの浅はかな、人間由来の知恵の押し付けに、そして何より、友人の最後の言葉、「うじのような人、/虫のような人の子はなおさらである」(25:6)に、ついに怒りを爆発させたのだろう。
25章が、わずか6節で終わってしまったのは、もしかすると、「うじのような人・・・」の言葉に、ヨブが怒りのあまり、言葉を遮ったからなのかもしれない。

27:2 「神は生きておられる。彼はわたしの義を奪い去られた。全能者はわたしの魂を悩まされた。

ヨブは、神は生きておられる、と言った。
「主は生きておられる」とは、ユダヤ人が「これから自分が言う事は真実です」というような時に用いる表現で、ダビデ以降よく用いられていく言葉だが、ヨブは神を「自分の義を奪い去り、悩まされたお方」として表現している。
ひねくれた言い方、といえるかもしれないが、それでもヨブの神に追求していこうとする心、神と論じ合おうという志が現れている。

27:3 わたしの息がわたしのうちにあり、/神の息がわたしの鼻にある間、
27:4 わたしのくちびるは不義を言わない、/わたしの舌は偽りを語らない。

ヨブは、神の息が自分の鼻にあり、そして、その間は自分は正しい、と自認している。
そして彼は、言い放つ。

27:5 わたしは断じて、あなたがたを正しいとは認めない。わたしは死ぬまで、潔白を主張してやめない。
27:6 わたしは堅くわが義を保って捨てない。わたしは今まで一日も心に責められた事がない。

ヨブは、断じて、友人たちを正しいと認めず、しかも、死ぬまで自分の潔白を主張して止めない、と言い放った。
そして、自分は義である、という主張をはじめる。

せっかくそれまで、自分の義を全面に主張する所から離れ、むしろ、自分の保証となって下さる方を求め、とりなして下さる方、購って下さる方を拠り所とし始めていたのに。
それなのに、この章では、再び「自分の義」を主張する事に戻ってしまった。
信仰がバックスライドしてしまった感じである。

ヨブが主張している自分の義、すなわち人間の義は、いかにヨブのように正しい事を貫いてきた者であれど、汚れた衣のようでしかない。(イザヤ64:6)
義人はいない。ひとりも、いない。
だからこそヨブはかつて、自分の保証となって下さる方を求め、神にとりなして下さる方を求め、神と論じ合おうとしていた。
それなのに、彼の祈るくちびる(たとえそれが激しい口調であっても)を止めて、友人たちのほうこそ間違っている、という、激しい糾弾のためにそのくちびるを用いるようになってしまう。

27:7 どうか、わたしの敵は悪人のようになり、/わたしに逆らう者は/不義なる者のようになるように。
27:8 神が彼を断ち、その魂を抜きとられるとき、/神を信じない者になんの望みがあろう。
27:9 災が彼に臨むとき、/神はその叫びを聞かれるであろうか。
27:10 彼は全能者を喜ぶであろうか、/常に神を呼ぶであろうか。
27:11 わたしは神のみ手についてあなたがたに教え、/全能者と共にあるものを隠すことをしない。
27:12 見よ、あなたがたは皆みずからこれを見た、/それなのに、どうしてむなしい者となったのか。
27:13 これは悪人の神から受ける分、/圧制者の全能者から受ける嗣業である。
27:14 その子らがふえればつるぎに渡され、/その子孫は食物に飽きることがない。
27:15 その生き残った者は疫病で死んで埋められ、/そのやもめらは泣き悲しむことをしない。
27:16 たとい彼は銀をちりのように積み、/衣服を土のように備えても、
27:17 その備えるものは正しい人がこれを着、/その銀は罪なき者が分かち取るであろう。
27:18 彼の建てる家は、くもの巣のようであり、/番人の造る小屋のようである。
27:19 彼は富める身で寝ても、再び富むことがなく、/目を開けばその富はない。
27:20 恐ろしい事が大水のように彼を襲い、/夜はつむじ風が彼を奪い去る。
27:21 東風が彼を揚げると、彼は去り、/彼をその所から吹き払う。
27:22 それは彼を投げつけて、あわれむことなく、/彼はその力からのがれようと、もがく。
27:23 それは彼に向かって手を鳴らし、/あざけり笑って、その所から出て行かせる。

これらは、ヨブの言葉というより、あたかも、友人たちの側の言葉のようである。
だから、学者の中には、ここがナアマ人ツォファルの言葉ではないか、する人もいる。
しかし12節で「あなたがたは皆みずからこれを見た」と言っているので、一人で3人を相手にしているヨブの側の言葉、と見るほうが妥当だろう。

ヨブは、友人たちの言ってきた悪人必罰の言葉をもって、友人たちこそ悪人であり、必罰を受ける、と、糾弾をしているかのようである。
つまりヨブは、怒りのあまり、神との論じ合いという高尚な土俵を降りて、人間同士で糾弾し合う低レベルな土俵へと降りて行ってしまったのだ。
パウロはコリントの聖徒があまりに低レベルな視点でパウロを批判しているので、彼らの土俵に降りていって、愚か者ののような自慢話をしなければならなかったが、そのような高尚な動機ではなく、単に、怒ったからだ。
人の怒りは、神の義を実現しない。

せっかく、自分を弁護して下さる方、購って下さる方へと、望みを置き始めていたヨブ。なんで、こんなに、ひねくれてしまったのか。
もし、ある親が、子供が風邪をひいた時に、「どうして風邪なんか引くの!」と言って打ち叩くだけで、何の看病もしないなら、ひねくれてしまわないだろうか。
ヨブの友人たちがしたのは、そのような事だったのだ。
ヨブはかつて、言った。

19:21 わが友よ、「わたしをあわれめ、わたしをあわれめ(ハヌイ!ハヌイ!)」、/神のみ手がわたしを打ったからである。

ヨブにとって本当に必要なものは、罪定めではなく、憐れみだった。
しかし、友人たちがあまりに罪定めをして、愛の無い格言ばかり言ってきたために、ついに、ここまでなってしまったのではないだろうか。

愛の無い知識の言葉、異言、預言、奉仕は、やかましいどらや、うるさいシンバルであり(1コリント13:1-3)、あまりにやかましく付き纏いすぎるなら、せっかく立ち直ろうとしている人を絶望させ、不義へと引きずり落としてしまう。
私達は、傷ついた魂と接する時、よく気をつけて、御霊によって精錬された愛の言葉を語るべきである。

いつまでも残る愛された思い出(1コリント13:8-13)
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週報/メッセージ(説教)概要

  前回は、聖霊の賜物の中で最もすぐれた「愛」について学ばされた。今回も、「愛」について学びたい。
もし私達が昔の事を思い返し、小学、中学、高校時代と、それぞれの時期の思い出をたどる時、心が暖まる時期とは、誰かが一緒にいてくれて、関わってくれていた時期、愛されていた時期ではないだろうか。
愛とは「関係」であり、そして「時」に制約されたものである。もし親や、友人との関係を断って、ゲームやインターネットなどで一人自己完結して時を過ごすなら、その年月はなんと暗く冷たい時期だっただろうと、後で悔やむものだ。しかし「あの人があの時愛してくれていた」「関係を持ってくれた」という思い出は、たとえその時期が、病や貧困でしんどかったとしても、闇の中に暖かく灯るともし火のようなものではなかろうか。
誰かから「愛された」という記憶は強烈に自分の中に残るが、自分から誰かを愛した、という記憶は、あまり残らない(マタイ25:31-46)。それは、愛は「与えるもの」で、本人に意識が無いからだ。しかし、人の「あの時は誰々から愛された」という思い出は、時が経てば経つ程、感謝と喜びに美しく輝いて行くものである。

『このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』(1コリント13:13) この地上で生きた信仰の思い出、希望の思い出、愛の思い出は、地上のみならず、天においても、いつまでも残るものであり、永遠に感謝が絶えない。しかし最も価値ある愛の関わりは、究極の愛なるお方、永遠の救いをもたらして下さるイエス様へと導く事だ。
およそ二千年前、ベツレヘムにて、究極の愛は、見える形になってこの地に降りて来た。それも、赤ちゃんとなって。神の御子イエス様は、私達に愛を示すために人として降りて来られ、ご自身のからだを犠牲として捧げられた。パウロはその愛に触れられた故に、迫害を恐れず、時を惜しんで、このキリストを伝道した。
人生の中、親から当然受けるべき愛を受けて来なかった、と、不全感に陥っている人もいるかもしれない。しかしたとえ愛を受けるべき人から捨てられていたとしても、その間、いのちを投げ出す程の完全な、無償の愛で、愛され続けていたのだ。この御方・イエス様から。死をいのちで飲み込んで下さるイエス様の愛を知る時、真っ暗な過去の思い出は、オセロゲームのように全て白く塗りつぶされて行くのだ。
過去は、変えられない。しかし、過去も現在も未来も決して変わらぬ愛でずっと私達を愛しておられたイエス様が、その間もずっと愛しておられた事を知る時、思い出の色は、暗色から明るい色へと変わって行く。
イエス様から愛されていた、あるいは誰かから愛されていた、という思い出は、いつまでも残る。天国では世の知識はすたれ、預言も止む。なぜなら、世において知る事は一部分であり、預言するところも一部分に過ぎないからであり、天において全てが完成した時、部分的なものは廃れるからだ(1コリント13:8-10)。

愛の人になるにはどうすれば良いか。まずは私達の側が、愛を追い求めるべきである。「愛を追い求め(追求し)なさい」(1コリント14:1)と書いてあるからだ。そして、愛には犠牲がつきものであるが、その犠牲を面倒くさいと思ってはならない。愛の犠牲や、愛ゆえの苦しみは、この地上にいる間にしかできないからだ。
天国には、もはや労苦も寿命も無く、そして、イエス様を伝える事もまた、地上でしかできないし、天国という所は、地上でイエス様を伝えられ、イエス様を信じ、イエス様を愛する人しか存在しないからだ。
だから、キリストにある愛の労苦は、人の心に永遠に記録される思い出づくりであり、今しか出来ない尊い事であり、しかも、愛のわざを「しなかった事」は、死んだ後、永遠に後悔し続けるのだ。(ルカ16:19-31)
天国は、愛がいっぱい詰まった場所である。それ故、イエス様との愛の思い出が無い人は、天国に居場所が無く、主の御心を行わなかった人は、主から「あなたを全然知らない」と言われてしまう。

今、目の前に妻が、夫が、子供が、親が、友人がいる事は、永遠の視点で見るなら、とても尊い事であり、永遠に残る愛のわざを成すチャンスである。日々、世の中に出て家族のために働き、子供を食べさせ育む事は、とても尊い事である。愛のわざは時間に制限され、その人はやがて目の前からいなくなってしまう時が来るからだ。そして何より、イエス様を伝え、御言葉を伝授して行く事は、永遠に栄誉ある事である。
妻に、夫に、子供に、親に、友人に、あるいはまだ見ぬ人々に、「あなたが一緒にいてくれた」「あなたが愛してくれていた」「だからあんな時期でも、心は暖かかった」という思い出を作ってあげて、天において永遠に朽ちることの無い冠を、今日も備える皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

秩序崩壊 - 引き金は「人はうじのよう、虫けらのよう」という言葉(ヨブ記25-26章)
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25章は、ヨブの3人の友人たち最後の弁論であり、そしてヨブ記中、最も短い章である。。

25:1 そこでシュヒびとビルダデは答えて言った、
25:2 「大権と恐れとは神と共にある。彼は高き所で平和を施される。
25:3 その軍勢は数えることができるか。何物かその光に浴さないものがあるか。
25:4 それで人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生れた者がどうして清くありえようか。
25:5 見よ、月さえも輝かず、/星も彼の目には清くない。
25:6 うじのような人、/虫のような人の子はなおさらである」。

今までのヨブの友人たちの弁論と比べるなら、不自然にも思える程短いが、今までの友人たちの言葉を、端的にまとめている。
すなわち、神は崇高なるお方、絶対的なお方であり、それに比べ人間は汚れた、虫けらのような存在だ、と。
しかしそれはひどい災難に遭って悩んでいる人に、すなわち、一日にして子供達全部と財産を失い、今も、絶え間ないかゆみに苦しんでいるヨブに対しては、何の足しにもならない。

ビルダデの言う事は、一定の真実である。しかしサタンさえ人を滅ぼすために、御言葉を引用する。
ようするに、時と場合をわきまえない心なしの真実の乱用は、人を滅ぼす事もある、という事である。
昔の誘拐犯人は、自分の筆跡を隠すために、新聞の文字を切り貼りして脅迫文を作り上げたが、同じようにサタンは、真理の御言葉を巧妙につぎはぎして自分の筆跡を隠し、人を滅ぼす事に御言葉を用いるのだ。

3人の友人たちの弁論の、最後に放った言葉は、「うじのような人、/虫のような人の子はなおさらである」であった。
人はうじのよう、虫けらのよう・・・そうかもしれない。
しかし、神の似姿である人間の生は、重いものである。
人同士が互いに大切にしあい、愛し合い、結婚し、子供を産んで、育み育て、時に喜び、時に悩みつつ叱り、楽しみ、悲しみ、そうして一生が織りなされて行く。
それら全てを、一瞬にして奪われてしまった事について、「うじのような、虫のような人の子」という一言で片付け納得させようとした友人たちに、ついにヨブは怒りを爆発させる。
この章を機に、今まではある一定の規律の元になされていた「やりとり」の秩序は崩壊し、ナアマ人ツォファルが第三回目の弁論をする余地もなく、ヨブの弁論の独壇場となる。

26:1 そこでヨブは答えて言った、
26:2 「あなたは力のない者をどれほど助けたかしれない。気力のない腕をどれほど救ったかしれない。
26:3 知恵のない者をどれほど教えたかしれない。悟りをどれほど多く示したかしれない。
26:4 あなたはだれの助けによって言葉をだしたのか。あなたから出たのはだれの霊なのか。

ヨブは早速糾弾する。
一体あなたは、どれほど、弱い立場の人を救って来たのか。
どれほど、知恵のない人や弱い人を忍耐深く接し、教え、諭し、立ち直らせてきたのか。
結局友人たちの言葉の根拠は、人間の知恵であって、神の霊由来ではなかった。
ヤコブは言っている。

ヤコブ1:26 もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。
1:27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

御前に清く汚れのない信心は、困っている孤児や、やもめを見舞うものであり、ヨブのような困っている人に対し、信心深そうでありながら愛の欠けた言葉で封じ込めようとする事ではない。
そんな事をしたら、ヨブのように怒って、信心深そうな言論にかみつき、全能なる神にかみつくように、けしかけるようなものである。

ヤコブ1:22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
1:25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

ヨブの友人たちは、確かに格調高い宗教的・哲学的な言葉を並べ立てる事は長けていても、しかし、困っている孤児ややもめに一体どれほどの事をしてきたのか。
少なくともヨブは、助けを叫び求める貧しい者を助け出し、身寄りのないみなしごを助け出しやもめの心を喜ばせて来た。(ヨブ記29:12-13)
結局、聞いた知恵知識をそのままひけらかすだけで、行いが無いとするなら、それはむなしいものである。
ヨブは、彼らの茶坊主的な知識の受け売りに対し、彼らより、もっと深く深淵な「知識のひけらかし」を、口から怒涛のように溢れさせていく。

26:5 亡霊は水およびその中に住むものの下に震う。
26:6 神の前では陰府も裸である。滅びの穴もおおい隠すものはない。
26:7 彼は北の天を空間に張り、/地を何もない所に掛けられる。
26:8 彼は水を濃い雲の中に包まれるが、/その下の雲は裂けない。
26:9 彼は月のおもてをおおい隠して、/雲をその上にのべ、
26:10 水のおもてに円を描いて、/光とやみとの境とされた。
26:11 彼が戒めると、天の柱は震い、かつ驚く。
26:12 彼はその力をもって海を静め、/その知恵をもってラハブを打ち砕き、
26:13 その息をもって天を晴れわたらせ、/その手をもって逃げるへびを突き通される。
26:14 見よ、これらはただ彼の道の端にすぎない。われわれが彼について聞く所は/いかにかすかなささやきであろう。しかし、その力のとどろきに至っては、/だれが悟ることができるか」。

神は、生けるものの世界も、死んだ者の世界をも、全てごらんになられ、統治しておられる神であり(5−6節)、地を、天を、全宇宙を支配し管理しておられるお方であり(7-11)、神に逆らって高ぶるサタンを打ち砕くお方である。
この後、ヨブは、友人たちに弁論する機会を与えず、今まで友人たちがしてきた事に対し一気に反論に転じ、そしてまた神に対しても鬱積した思いを怒涛のように吐き出して行く。
それは「自分を正しい」という思い込みが元であるが、今までのヨブと友人たちとのやり取りから私達が得るべき戒めは、どんなに深い奥義に通じていたとしても、またどんなに素晴らしい知識をひけらかしたとしても、愛が無いなら、それは何の役にも立たない、という事である。

13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
1コリント13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

第一コリント13:4-7の内容を、逆にすると、次の真理が浮かび上がって来る。
すなわち、愛が無い人は、不寛容であり、不親切であり、よく妬む。
高慢であり、自慢し、礼儀に反する事をし、自分の利益を求め、怒りに任せ、人のした悪を勘定し、不正を喜び真理を喜ばない。
愛が無い人は、すぐに投げ出す。自分の子や伴侶・友人を、信用せず、期待せず、忍耐できない。
いかに預言の言葉を語っても、あらゆる奥義や、あらゆる知識とに通じていたとしても、山を動かす程の信仰であっても、身を焦がすために身を渡しても、そうした「すごさ」は、むしろうるさい鐘であり、すぐにでも止めて欲しい騒音だ。

すごい知恵や、すごい不思議、すごい献身を見て、それに心惹かれてついて行くような人は、そんなにいない。
すごい奇跡が起きたね、それが何?
あなたはすごい信仰だね、だから何?
で、終わってしまう。

私達キリスト者は、何故にイエス様に心惹かれ、イエス様について行くようになったか。
それは、イエス様が私達を、愛してくださったから、ではなかったか。
それも十字架の上で、自分のいのちを投げ出す程の愛で。
キリスト者は、愛をこそ振りまいていくべきであって、「すごいアピール」を振りまいていく者ではない。
イエス様は言われた。

ヨハネ13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

ヨブ記の最後で、神は、3人の友人たちを怒った。わたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ、と。(42:7)
だから、神を伝える時、神のご性質である愛、憐れみを伝えないとしたら、それはまことに片手落ち、むしろ神の栄光を貶めることになってしまうのである。

悪人が裁かれもせず、いつまでも弱者を虐げている現実。これいかに?(ヨブ記24章)
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前章では、ヨブはエリファズへまともな回答はせず、ただ神に心を向け、神と論じ合いたいと切に求めたが、この章では、ヨブは友人たちの議論に真っ向から向かい、彼らが口を酸っぱくして主張している「因果応報」に対して、現実は必ずしもそんなにも単純には行かない事を指摘する。

24:1 なにゆえ、全能者はさばきの時を/定めておかれないのか。なにゆえ、彼を知る者がその日を見ないのか。

ヨブの友人たちは口を酸っぱくして「悪人はさばきにあう、善人は報われる」というような事を言って来た。
ヨブもそんな事は百も承知である。
それなのに、なぜ主は正当なさばきをしないまま、神の民は、日の目を見ることがないのか、と指摘する。

24:2 世には地境を移す者、/群れを奪ってそれを飼う者、
24:3 みなしごのろばを追いやる者、/やもめの牛を質に取る者、
24:4 貧しい者を道から押しのける者がある。世の弱い者は皆彼らをさけて身をかくす。
24:5 見よ、彼らは荒野におる野ろばのように出て働き、/野で獲物を求めて、その子らの食物とする。
24:6 彼らは畑でそのまぐさを刈り、/また悪人のぶどう畑で拾い集める。
24:7 彼らは着る物がなく、裸で夜を過ごし、/寒さに身をおおうべき物もない。
24:8 彼らは山の雨にぬれ、しのぎ場もなく岩にすがる。
24:9 (みなしごをその母のふところから奪い、/貧しい者の幼な子を質にとる者がある。)
24:10 彼らは着る物がなく、裸で歩き、/飢えつつ麦束を運び、
24:11 悪人のオリブ並み木の中で油をしぼり、/酒ぶねを踏んでも、かわきを覚える。
24:12 町の中から死のうめきが起り、/傷ついた者の魂が助けを呼び求める。しかし神は彼らの祈を顧みられない。

力あるものが弱い者を搾取し虐げている現実を、ヨブは細かく指摘する。
時代のひと時を輪切りにし、その「時」を瞬間風速的に見るなら、確かにそう見える事がある。
しかし神は、そんな有様を見ておられ、彼らの辛さを知っておられる事が、聖書には書いてある。

出エジプト記3:7 主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。
3:8 わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。
3:9 いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。
3:10 さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。

神は見ていないのではない。聞いていないのではない。知らないのではない。
主を敬う民の叫びを聞き、幸いな地へと導いて下さるお方である。
ただ、人の時間と、主の時間は、違うのである。

ヨブ記24:13 光にそむく者たちがある。彼らは光の道を知らず、光の道にとどまらない。
24:14 人を殺す者は暗いうちに起き出て/弱い者と貧しい者を殺し、/夜は盗びととなる。
24:15 姦淫する者の目はたそがれを待って、/『だれもわたしを見ていないだろう』と言い、/顔におおう物を当てる。
24:16 彼らは暗やみで家をうがち、/昼は閉じこもって光を知らない。
24:17 彼らには暗黒は朝である。彼らは暗黒の恐れを友とするからだ。

ヨブはひるがえって強い者が弱い者を虐げている事と、その悪行が裁かれもせず成功している様を指摘している。

24:18 あなたがたは言う、/『彼らは水のおもてにすみやかに流れ去り、/その受ける分は地でのろわれ、/酒ぶねを踏む者はだれも/彼らのぶどう畑の道に行かない。
24:19 ひでりと熱さは雪水を奪い去る、/陰府が罪を犯した者に対するも、これと同様だ。
24:20 町の広場は彼らを忘れ、/彼らの名は覚えられることなく、/不義は木の折られるように折られる』と。

口語訳では、18節は「あなたかたは言う」とあり、そしてカギカッコの言葉を友人たちの言葉としているが、原文はそうではなく、18節から20節の「あなたがたは言う」を除いた言葉を、ヨブが言った言葉としている。
ヨブが、悪人が栄えている様を言って友人たちに反論しているのに、その悪人が裁かれる事をヨブのこの論議の中で言うのはおかしい、と訳者が判断して加えたものと思われる。
ヨブは、悪人が栄えている現実を指摘し、同時に、悪人が裁かれる事もまた忘れずに加えているのだ。

24:21 彼らは子を産まぬうまずめをくらい、/やもめをあわれむことをしない。
24:22 しかし神はその力をもって、/強い人々を生きながらえさせられる。彼らは生きる望みのない時にも起きあがる。
24:23 神が彼らに安全を与えられるので、/彼らは安らかである。神の目は彼らの道の上にある。
24:24 彼らはしばし高められて、いなくなり、/ぜにあおいのように枯れて消えうせ、/麦の穂先のように切り取られる。

悪人の最終的に行く所がどこであろうが、ともかく、この地上において、悪人が裁かれないままはびこっている現実がある。
ヨブはしかも、神が彼らを安全にし、やすらかにし、その悪人の道を守っておられるかのように言っている。
しかし同時に、彼らは結局、消えてなくなる、ということも忘れずに加えている。

24:25 もし、そうでないなら、/だれがわたしにその偽りを証明し、/わが言葉のむなしいことを示しうるだろうか」。

以上のように、ヨブは、神は悪人さえ守り、安全に支えているではないか、という指摘をした。
一体これはどういう事だろう。多くの人も疑問に思う所である。
友人たちの回答を見る前に、聖書の他の箇所を見てみたい。
この疑問への答えは、第二ペテロ3章にある。

2ペテロ3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

すなわち神は、悪人であれ善人であれ、誰一人として滅びる事を望んでおられず、わざとさばきを遅くしておられるのである。
ある人には、おそい、と思える。
ヨブは、あたかも神は悪人のサポートさえしている、と思ったが、しかし、神のご性質は「あわれみ」であり、そのあわれみの故に、さばきを遅くしているのである。

人は、永遠の視点には立てない。
しかし、永遠の視点に立たれる全能者が、正当なさばきをされる。

ルカ16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。
16:20 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、
16:21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
16:22 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。
16:23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。
16:24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
16:25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
16:26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。

死後の世界が、あるのだ。
ラザロは生前、悪いものを受けたが、その後彼は慰められ続け、ラザロにあわれみを施さなかった金持ちは、死後、苦しみを受け続けている。

人は、死後の世界も、永遠の観点も、持っていない。
しかし永遠なる神は、人が生きている100年そこらの年数のみならず、その後につづく永遠をもひっくるめて、正しいさばきをなさるのである。

ここで勘違いしてはならない事は、生前は金持ちだったら自動的にハデスに落とされるという訳ではないし、生前貧乏なら自動的にパラダイスに行くわけでもない。
実際アブラハムは、生前、金持ちだった。
では、パラダイスに行くか、ハデスに落とされるかの分かれ道は、一体何だろう。

16:27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
16:28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

パラダイスに行くか、ハデスに落とされるかの分かれ道、それは「モーセと預言者」である。
すなわち、神の言葉だ。
神の言葉を信じ、それに耳を傾け、それを行う人は、誰でも、信仰の父・アブラハムの元に行き、神の言葉を軽んじ、それを行わないなら、金持ちが行ったところへと行くのである。

金持ちは、たくさんの言葉でアブラハムを説得しようとしたが、人間の議論は、死んだ後に来てしまった場所を変える事はできないし、自分の救いに対して、何の足しにもならない。
ヨブと友人たちの議論、すなわち、主の御名の無い膨大な「人間言葉」の応酬が、神の御前で何の足しにもならなかったのと、同じである。

結局、価値があるのは、神の言葉のみだ。

働きも信仰も主から与えられる恵み故に、主にただ感謝するのみ(ルカ17:1-19)
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17:1 イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。
17:2 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。
17:3 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。
17:4 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。
17:5 使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。
17:6 そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。
17:7 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。
17:8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。
17:9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。
17:10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。
17:11 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。
17:12 そして、ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、
17:13 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。
17:14 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。
17:15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、
17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。
17:17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。
17:18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。
17:19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。

ハイルな(尊厳ある)男・ボアズの性質(ルツ記4:9-12)
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ルツ記4:9 ボアズは長老たちとすべての民に言った、「あなたがたは、きょう、わたしがエリメレクのすべての物およびキリオンとマロンのすべての物をナオミの手から買いとった事の証人です。
4:10 またわたしはマロンの妻であったモアブの女ルツをも買って、わたしの妻としました。これはあの死んだ者の名を起してその嗣業を伝え、死んだ者の名がその一族から、またその郷里の門から断絶しないようにするためです。きょうあなたがたは、その証人です」。

ヨハネ19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

ルツ記4:11 すると門にいたすべての民と長老たちは言った、「わたしたちは証人です。どうぞ、主があなたの家にはいる女を、イスラエルの家をたてたラケルとレアのふたりのようにされますよう。どうぞ、あなたがエフラタで富を得、ベツレヘムで名を揚げられますように。
4:12 どうぞ、主がこの若い女によってあなたに賜わる子供により、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレヅの家のようになりますように」。

マタイ16:24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。

イザヤ58:6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
58:7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
58:8 そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。
58:9 また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、
58:10 飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。
58:11 主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。
58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と/呼ぶようになる。

聖霊に息吹かれた初代教会の有様(使徒2:37-42)
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使徒2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
2:38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
2:39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
2:40 ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。
2:41 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。
2:42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

マルコ4:14 種まきは御言をまくのである。

1コリント5:6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

使徒4:23 ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って、祭司長たちや長老たちが言ったいっさいのことを報告した。
4:24 一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。
4:25 あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、/『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、/もろもろの民は、むなしいことを図り、
4:26 地上の王たちは、立ちかまえ、/支配者たちは、党を組んで、/主とそのキリストとに逆らったのか』。
4:27 まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、
4:28 み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。
4:29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。
4:30 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。
4:31 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。

エペソ6:17 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

神は崇高すぎて、苦しみもがく人間の願いをバーンと撥ね退けてしまうお方、か?(ヨブ記23章)
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前章において、エリファズは神の絶対性、全能性をとうとうと語り、神をなにか、無感覚・無感動な「冷たい神」であるかのように思わせられる言葉で言ったが、ヨブはこの章では、エリファズに反論しない。
むしろ、神はそういう「冷たさ」があるという神観を、彼もある程度持っており、その「冷たさ」に、どうにも我慢ならないので、なんとしても神と論じ合いたいと願っている。

23:1 そこでヨブは答えて言った、
23:2 「きょうもまた、わたしの「つぶやき(苦い祈り)」は激しく、/彼の手はわたしの嘆きにかかわらず、重い。

ヨブはエリファズの冷たい神観に共感したのか、この章では、苦々しい思いに満たされた状態である

23:3 どうか、彼を尋ねてどこで会えるかを知り、/そのみ座に至ることができるように。
23:4 わたしは彼の前にわたしの訴えをならべ、/口をきわめて論議するであろう。
23:5 わたしは、わたしに答えられるみ言葉を知り、/わたしに言われる所を悟ろう。
23:6 彼は大いなる力をもって、/わたしと争われるであろうか、/いな、かえってわたしを顧みられるであろう。
23:7 かしこでは正しい人は彼と言い争うことができる。そうすれば、わたしはわたしをさばく者から/永久に救われるであろう。

ヨブはここにおいて、神と論じあうなら、神は自分の正しさを見出してくれるだろう、という思い込みがあった。
その思い込みは後で粉々に砕かれるのだが、ここにおいてヨブは、とても重要な願いが起こされている。それは、「神と論じ合いたい」という願いだ。
神と論じ合う、すなわち、神と交わりたいという飢え渇きこそ、神の前において義とされて行くための重要な踏み出しである。

イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

私達の側に、義は一切無いが、唯一「義なるお方」である主と論じ合い、主と交わっていくうちに、人は、緋のような赤い罪も、白くされて行く事が可能なのだ。

23:8 見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。
23:9 左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない。

ヨブは、主と論じ合いたいと望んでいる。けれども、見いだせないでいる。
確かに、求めている探している段階は、何も見えずに辛いが、しかし求め続けているなら、やがて与えられる。
ヨブは主を求め続け、後にはついに、主と出会うことになる。

23:10 しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、/わたしは金のように出て来るであろう。
23:11 わたしの足は彼の歩みに堅く従った。わたしは彼の道を守って離れなかった。
23:12 わたしは彼のくちびるの命令にそむかず、/その口の言葉をわたしの胸にたくわえた。

ヨブは、もし主と論じ合うなら、神は彼を「金」のように見てくれるだろう、という思い込みがある。
彼は、自分はずっと主の道を守って離れなかった、その命令に背かず、御言葉を蓄えてきた、という自信がある事をここで告白しているからだ。
確かにヨブは、まわりと自分とを比べれば、自分のほうが遥かに正しいので、自分を、神の御前でも黄金のような自分として通用すると見たのかもしれない。
事実、神もサタンに、ヨブ以上の人物はいない、と言った。

しかし残念ながら、人は、人と比較して義となるのではなく、神の基準において義と認められなくては意味がなく、さらに残念な事に、すべて「人の義」は、神の御前においては「汚れた衣」に過ぎない。

イザヤ64:6 われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。

このイザヤ書の「汚れた衣」を直訳すると、(女の)月のもので汚れたもの、である。
人間がいくら頑張ったところで、人の義、私達の正しい行いとは、神の前ではそんなものでしかない。
そう、義人はいない、ひとりも、いないのだ。

預言者イザヤは、それを絶望して終わるのではなく、主に食らいついて行った。

イザヤ64:8 されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。
64:9 主よ、ひどくお怒りにならぬように、いつまでも不義をみこころにとめられぬように。どうぞ、われわれを顧みてください。われわれはみな、あなたの民です。

イザヤは主に申し上げた。
主よ、あなたは我々の父ですよね、そして我々は、あなたの民ですよね、と。
あなたは陶器師で、我々はあなたの御手の内で作られる粘土ですよね。そうであるからには、あなたは我々人間の弱さ、罪に傾く性質を、知っておいでになられます。
どうかそんな私達の様を知り、私達に憐れみをかけてください、と。

このように、主に食らいついていき、主と「論じ合う」事、主との交わりへ入って行く事こそ大事なのだが、ヨブは、神を「崇高すぎるお方」「言っても聞きはしないお方」だという認識で、無気力になってしまっている。
たとえ万一こんな自分の声が、神に届いたところで、神はそんな願いをバーンと撥ね退けてしまうのではないか、と。
それで、次のように告白する

ヨブ記23:13 しかし彼は変ることはない。だれが彼をひるがえすことができようか。彼はその心の欲するところを行われるのだ。
23:14 彼はわたしのために定めた事をなし遂げられる。そしてこのような事が多く彼の心にある。

結局、「みこころ」だけが成就するのだったら、祈っても、願っても、論じても無駄だ、こんなにひどい目に遭わされているのに、神は、何の答えもくださらない。
こんな目に遭っているのかという理由さえも教えてくれない、という思いで満たされている。

23:15 それゆえ、わたしは彼の前におののく。わたしは考えるとき、彼を恐れる。
23:16 神はわたしの心を弱くされた。全能者はわたしを恐れさせられた。
23:17 わたしは、やみによって閉じこめられ、/暗黒がわたしの顔をおおっている。

ヨブは、かなり弱気になっている。
19章の強気とは、打って変わって。

ヨブは、霊の中で、なんとなく悟っていたのだ。
自分の義は、結局、汚れた衣に過ぎない、と。
それではヨブは、なぜ、19章では強気になっていたのか。
それは、彼をあがなって下さるお方が生きておられる、と高らかに宣言したからだ。

結局、自分の義は、汚れた衣に過ぎない。しかし、私達を購って下さるお方を拠り所とするなら、私達は強いのである。
私達にとって、購って下さるお方、それは、私達の主、イエス・キリストである。
このお方に依り頼むなら、私達は強いのである。
全くもって義を持ちあわせていない私達が、義とされるには、私達を義として下さる主の元に行く他に無い。

自分の義は、月のもので汚れたものだ、とイザヤは言ったが、それでもイザヤは主に食らいついて行った。同じように、ペテロも主に自分の弱さを告白し、ただ「あなたがそんな弱いわたしをご存知です」、と、主にすがりに行った。

ヨハネ21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。

ペテロは、自分には主を完璧な愛で愛し尽くす愛が無い事を、イエス様の十字架と復活を通して思い知らされた。
しかし、ペテロのこの告白、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」という告白が、彼にとって転機となる。

ヨハネ21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。

ペテロはこれまで、自分の好む帯をしめ、自分の好む方へと、気ままに歩んでいた。
しかし、イエス様と交わり、関わっていくうちに、より優れた道を、主イエス様の中で見出して行った。

ペテロは後に、聖霊が与えられ、力強い大胆な主の働き人となり、そして最後には、イエス様の御名ゆえに、殉教して行く。
多くの人を、イエス・キリストにある永遠のいのちへと導きながら。
この出来事の後の彼の道は、彼の望む道ではなかった。
もっと優れた、神の国を拡大して行く道、栄光の道である。

ヨブは、自分の願いや思う事が聞き届けられないと思って、怒り、主の「みこころ」だけが成って、この圧倒的全能者を前に、自分は何を言っても無駄なのだ、と、無気力になった。

主は、聞いておられないのではない。
知っていないのではない。
私達の思い、願いを、十分に知り、そして知った上で、主が備えて下さる私達の最善・最良・最高の道へと歩ませるために、あえて、私達が願う道(罪と弱さに満ちた不完全な道)を、閉ざし、主が用意された最良の道に、取って代わらせようと、愛をもって導いておられるのだ。
それは、ヨブ記をわずか一節でまとめた、次の新約の言葉に現れている。

ヤコブ5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

結局、人は主を抜きにしては、何も分からないし、何もできない。
ただ、人を義にしてくださる事がおできになる主と、論じ合い、主に知っていただき、主と交わりながら生きていく他、ないのである。

主から用いられやすい人となるために(1コリント13章)
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賛美集会音声
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週報/メッセージ(説教)概要

 ここ数週間、聖霊について学ばされている。聖霊に満たされた人は、力を受け、イエス・キリストの強力な証人となり、働くべき場が、自分の生活ステージ周辺から、外へと大きく広がり、地の果てにまで至っていく。
今回、どのような人が、主から用いられやすく、働きの場が速やかに広がって行くのかを学びたい。

『また舌のようなものが炎のように分れて現れ、一人一人の上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、色々の「他国の言葉(ヘテロス・グロッサ:異なる舌)」で語り出した。』(使徒2:3-4) 
聖霊に満たされた人の最たる特徴は、「舌」が変わる事である。それまで人間同士で、肉欲に属する言葉で話していた舌が変わり、「神の国の大いなる事」を語りだすようになる(11節)。聖霊はイエス・キリストを栄光化する霊であり、聖霊に満たされた人の特徴は、神の国を拡大して行く事である。それとは反対の人、肉欲の中を生きる人や、悪魔サタンの特徴は、高慢、自己栄光化である。(イザヤ14:12-15)
そもそも、なぜ世界にはこんなにも多くの言語が存在するのか。元を辿って行けば、バベルの塔の事件に行き着く。バベルの王・ニムロデは、主の「前に(パニーム:敵対する)」「狩猟する者(ツァイード:追跡者)」であった(創世記10:9)。彼は人のいのちを追跡し、力で制圧してのし上がった最初の王である。彼がバベルの塔を建てた動機は、人を一つに束ね、名を上げ、神のように高くなる事だった(創世記11章)。
そこで神は「われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」(11:7)と、三位一体の神が彼らに敵対し、言語はバラバラになった。高慢・自己栄光化の実は、分裂・分散である。
対して、主に有用に用いられる「御霊の人」が結ぶ実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制である(ガラテヤ5:22-23)。これらの実を結んでいるかどうかで、有用な働き人かどうか分かる。
その中で最も優れた道は、愛である(第一コリント13章)。それは御霊のどんな賜物より遥かに優れている。
クリスチャンの中には、確かに「すごい」と思える人は、いる。霊的な、超自然的な力を持っている人が。
しかし、その「すごさ」を持っている事と、主に大いに用いられる器かどうかは、別の話である。賜物は無償で頂いた贈り物であって、本人自身が自慢できる事ではない。むしろ重要なのは、愛があるかどうかだ。
もし愛が無いなら、それらはやかましいどら、「うるさい(アララゾー)」シンバルである。(1コリント13:1)
アララゾーとは元々、「アララー!」と大声で叫ぶ鬨の声の擬音で、やかましく喚きちらす事の意味だ。
愛が無い人は、不寛容であり、不親切であり、よく妬む。高慢であり、自慢し、礼儀に反する事をし、自分の利益を求め、怒りに任せ、人のした悪を勘定し、不正を喜び、真理を喜ばない。いかに預言の言葉を語っても、あらゆる奥義や、あらゆる知識とに通じていたとしても、また、山を動かす程の完全な信仰を持っていたとしても、愛がないなら、それらはむしろやかましい、すぐにでも止めて欲しい騒音へと堕してしまう。

自分の言動に気をつけている人こそ、有名人になったら長続きする。同様に、寛容であろう、謙虚であろう、礼儀正しくあろう、と、努力し続ける人こそ、速やかに主に用いられる。言動に無頓着であるとするなら、すぐ人に、サタンに、責められてしまう口実を得させてしまい、活躍のステージから引き降ろされてしまう。
言動に気を配り続ける人こそ、主に用いられる事が長続きする。だから、よくよく気をつけるべきである。
ペテロはペンテコステ以前、くちびるが回りすぎて過ちを犯す人だった。変貌山においても、あの鶏が啼いた晩においても(マルコ9:6、14:29-72)。しかし聖霊の炎が留まった時、彼のくちびるは変えられた。
預言者イザヤも、そうだった。彼は主の栄光を見せられた時、特に「くちびるが汚れている」事で絶望した。
しかし彼のくちびるは祭壇の炭火によって清められ、そうして預言するに値する者となった。(イザヤ6章)

聖霊によって、くちびるが清められないなら、大いに用いられる事はない。祭司は、栄光と美を表す聖なる装束を着て、はじめて任職の油が注がれる(出エジプト記28章)。ペテロもかつてはくちびるが回り過ぎて過ちを犯してしまっていたが、聖なる炎によって清められたその日、彼の説教で3000人が救われた。
主はこの時代、くちびるがきよい人、用いられるべき器が、少ない、と、嘆いておられるのではなかろうか。
私達は「用いられますように」と祈る前に、人を傷つけたり、言ってはならない言葉を滑らせたりする口が、聖なる火によって清められるように、祈り求めるべきだ。そしてくちびるにおいても、行いにおいても、よく気をつけ、御霊の実である愛がしたたるような者となって、主から大いに用いられる皆さんでありますように!

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