メッセージ - 201805のエントリ

神様を不当者にしてしまう人に共通する主張:「わたしは悪くない」(ヨブ記10章)
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ヨブの、ビルダデに対する返答から、神への問いかけへと転換した9章に続き、10章は、神様に対する感情的な嘆きのぶちまけへと発展して行く。
感情的なぶちまけの故に、その内容には神様に対する認識が間違っている点も多いが、少なくとも「神様と関係している」という点において、彼は道を外していない。

10:1 わたしは自分の命をいとう。わたしは自分の嘆きを包まず言いあらわし、/わが魂の苦しみによって語ろう。
10:2 わたしは神に申そう、/わたしを罪ある者とされないように。なぜわたしと争われるかを知らせてほしい。

3人の友人たちの弁論の内容は、間違っていないかもしれないが、彼らの言葉には主エホバの御名は無く、神様との個人的な関わりが無いのに対し、ヨブの弁論の内容は、たとえ間違っているにしても、それでも、神様と深く個人的に関わっている点においては、ヨブのほうが真実なのだ。

10:3 あなたはしえたげをなし、み手のわざを捨て、/悪人の計画を照すことを良しとされるのか。
10:4 あなたの持っておられるのは肉の目か、/あなたは人が見るように見られるのか。
10:5 あなたの日は人の日のごとく、/あなたの年は人の年のようであるのか。
10:6 あなたはなにゆえわたしのとがを尋ね、/わたしの罪を調べられるのか。
10:7 あなたはわたしの罪のないことを知っておられる。またあなたの手から救い出しうる者はない。

彼は、神様はあたかも肉に過ぎない人間のごとくに不当に人をしいたげ、悪人に与するような事をして御手のわざを捨てているのは、一体それは良い事なのか、と言っており、さらに、神様はあたかも人間が肉の目で見るのと同じように人を見、罪のない人間を不当に苦しめる、と申し上げているが、それらは、行き過ぎた思い込みである。
聖書のはじめから終わりまでを読むなら、神は真実で正当なさばきをされるお方である事が分かる。

ただし、この問題を単に感情的な叫びだと看過する事ができないのは、実に多くの人達が、このヨブのような偏見を持って、神様に敵対している事である。
そのような偏見は、どうして起きるのか?
その原因は、単純明快である。
それは「自分は正しい」「自分には罪がない」という前提条件で生きている事である。
ヨブはまさに、3章から37章まで、ずっとその意識を貫き通している。

まずローマ3章に書いてある通り、義人はいない、ひとりもいない。
さらに書かれてある。
1ヨハネ1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

ヨブはまさに、神の側を偽り者とし自分の側を正当としている状態だが、その原因はここに書いてある通り、罪がない、と言う所である。
全て、神は不当だ、と叫ぶ人達に共通している前提条件は「自分は悪く無い」「自分には罪は無い」である。
神は、真実で正しい方である。私達が自分の罪を告白するなら、神はその罪をゆるし、すべての不義からきよめて下さるのだ。

ヨブは確かに義人を貫いたかもしれない。いわれのない罪を犯さなかったかもしれない。
ただ唯一、彼が罪を犯した事とは、義人は本来一人もいないはずなのに、自分をあくまで正しいとし、自分に罪はない、とした事だ。

ヨブは続いて、わたしをこのように造られたのはあなたではありませんか、と主張し(8-13節)、そのように私をつくっておきながら不当に苦しめ、私が正しくても、圧倒的な力で「罪有り」とねじふせてしまいます。これいかに?と主張する。(14-17節)
世の中には、確かに、そのように主張する人も多い。
しかし結局、一緒である。すなわち、自分は正しい、自分には罪がない、という前提条件が、そもそもまちがいなのだ。

ダビデも同じように苦しみが大きくなった時、彼は素直にそれは自分の罪ゆえだと告白した。
詩篇25:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれんでください。わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです。
25:17 わたしの心の悩みをゆるめ、わたしを苦しみから引き出してください。
25:18 わたしの苦しみ悩みをかえりみ、わたしのすべての罪をおゆるしください。

ヨブの場合、確かに1章2章において、見上げるほどの信仰告白をした。
しかしその気高さゆえに、自分を義としてしまい、罪を告白するに至らず、ずっと苦しむはめになってしまう。
ダビデはすぐに自分に罪があり、主の憐れみゆえにそれを覚えていないでください、あなたの憐れみで憐れみ、赦して下さい、と告白するから、回復もすぐなのだ。

10:18 なにゆえあなたはわたしを胎から出されたか、/わたしは息絶えて目に見られることなく、
10:19 胎から墓に運ばれて、/初めからなかった者のようであったなら、/よかったのに。
10:20 わたしの命の日はいくばくもないではないか。どうぞ、しばしわたしを離れて、/少しく慰めを得させられるように。
10:21 わたしが行って、帰ることのないその前に、/これを得させられるように。わたしは暗き地、暗黒の地へ行く。
10:22 これは暗き地で、やみにひとしく、/暗黒で秩序なく、光もやみのようだ」。

ヨブは再び、こんな事なら生まれて来ないほうが良かった、あるいは生まれてそのまますぐに墓に運ばれたほうが良かった、と言った。
こんな正しい者が、こんな苦しい目に遭わせられるような不条理を提供されるなら、生きていないほうがましだ、という方向に行ってしまう所に、苦しみはずっと継続してしまう。

このようにヨブは、感情的になるにつれ、隠れていた自己義がどんどん吐き出されて行く。
自分は正しい、神は不当だ、とする事は当然間違いであるが、それでも彼は、神様と深く、個人的に関わろうとしている。
それも、神様の胸ぐらを掴んで、どうしてですか!とせんばかりの勢いであるが、神様は、そこまでして「関わろう」とする人を、待っていましたとばかり答えて下さり、間違った方向性を但し、さらに祝福の器へと造り変えてくださる。
主が、祝福をつかみとるために相撲までふきかけて来たヤコブを、イスラエルへと変えたように。

夫婦関係は、喧嘩している内はまだ安泰であるが、もし、相手が浮気しても何も感じない・喧嘩もしないとしたら、深刻である。
同じように、霊的に最も深刻な状態とは、神様と関わろうとしない、神様に対する無関心な状態である。

主を敬う人を守り、安全に導いて下さる主(創世記31:1-18)
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週報/メッセージ(説教)概要 

世の中には、過酷な要求をしたり騙し取ったり、契約をころころと自分の有利に変える雇い主も多い。前回登場したラバンはまさにそういう雇用主だったが、主はその下で働かされているヤコブを顧みて下さった。
主は、悪者の道に歩まず、誠実に生きる人にこそ目を留め、祝福し、そのような悪環境から救い出し、さらに優れた所へと導いて下さる。前回の続きからの箇所を見るとそれがよく分かるので、今回も見ていきたい。

『さてヤコブはラバンの子らが、「ヤコブはわれわれの父の物をことごとく奪い、父の物によってあのすべての富を獲たのだ」と言っているのを聞いた。』(創世記31:1) 実際は逆で、ヤコブに報酬として約束したぶち毛やまだら毛の羊ややぎを、ラバンは息子達に渡して3日の道のりの向こうへ移送してしまい、ヤコブはそれを、文句も言わず、少ない残りを飼った。
ヤコブには不利だったが、ラバンは騙しでのし上がる者、ヤコブは全てを支配しておられる神に依り頼む者。軍配は当然、ヤコブに上がる。神はヤコブのものを増やし、ラバン達のものは減って行った。しかし彼らは不都合な事は自動的に人のせいにし、自分達がした悪事を悔い改めず、ヤコブの神を恐れる事もせず、嘘を思い込んで言いふらし、敵対心を露わにして行く。
その時、主はヤコブに現れた。「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいる」と(3節)。そこでヤコブは、ラバンの娘である妻達に伝える。あなたの父の、自分に対する顔つきは変わってしまった。それでも「わたしの父の神はわたしと共におられる。」と(5節)。主は弁護して下さるのだ。
7-9節を読むと、ラバンは何度も報酬を変えていた事が分かる。元々の約束はぶち毛とまだら毛のものが報酬だったが、勝手にそれをぶち毛のもの限定に変更し、自分は儲かってヤコブを貧しくさせようと企んだが、ラバンの口から「ぶち毛のものが報酬だ」と言ったとたん、いのちを支配しておられる主は、ぶち毛をどんどん生まれさせ、それを見たラバンが、やっぱり、まだら毛が報酬だ、と言ったら、今度は主は、まだら毛のものばかりを生まれさせた。
以上のように、いのちも、物も支配しておられる主は、主に忠実に従う神の民が、いかなる領域でビジネスをするにしても、その手のわざを祝福し、悪人の手に陥る事はさせない。
ラバン達は彼が祝福されているのを見てなおヤコブの神に立ち返らず、妬んで罵るが、主は保護される。

『すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。』(12節) 主は、主の民の悩みをつぶさに見、また追い使う者ゆえに叫ぶ叫びを聞き、その苦しみを知っておられる。(出3:7)
ヤコブは14年間、結婚するために猛烈に働いて何も持っていなかったが、わずか6年で、雇用主であるラバンを追い抜いた。不利な条件で始まり、しかも報酬を何度も変えられたにもかかわらず、である。
主はさらに言われる。『わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』(13節) 
ベテル。そこはヤコブにとっての信仰の原点である。その時ヤコブは、兄エサウに命を狙われていたため、杖一本だけで家を飛び出し、その途上、ベテルで石の枕をして一晩寝た。そこで、夢を見た。天から地に架けられたはしごを御使い達が登り降りしており、主は彼に現れて言われた。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。」(創世記28:15) それ以降、ヤコブは確かに守られ、祝福されて来た。

こうしてヤコブは帰る決心をし、ラバンの娘である妻達も賛成だった。彼女達は父から「よそ者(ノクリィ:異邦者、姦通の女)」と見なされ、しかも、花嫁のために蓄えるべきお金も、父に使い果たされてしまったのだ。
こうしてヤコブと妻達は一大決心し、大勢となった子供達や家畜たちを連れて、ラバンの家から脱出する。
その大移動は、危険が伴うであろう事は明らかであり、ヤコブも、自分を殺そうとしていた兄エサウとの確執がどうなっているかを知らない。しかし、確かな主の言葉があり、御旨である事が明らかなのだから、いかにその旅の先が危険なように見えても、進みゆくべきである。これは私達の場合も一緒だ。
ただ主の言葉だけを頼りに出て行く。ヤコブにベテルで現れた主は、その20年間、主が約束して下さった通り、ずっと真実に導き続けて来られた。そして、これからもそうだと信じて、彼らは出て行く。この主は、今も変わらず、信じる私達を、導き続けて下さる。恐れる事なく主と共に歩み行く皆さんでありますように!

神と人との間で執り成す仲保者がいない事を嘆くヨブ(ヨブ記9章)
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9章と10章は、シュアハ人ビルダデに対するヨブの答えであるのだが、9章の途中から、ヨブの神に対する訴えへと変わって行く。

9:1 ヨブは答えて言った、
9:2 「まことにわたしは、その事の/そのとおりであることを知っている。しかし人はどうして神の前に正しくありえようか。

ヨブはビルダデに反論していない。
神は悪者を滅ぼすが、悔い改めて神に立ち返るなら神は祝福を回復して下さるという事には反論の余地はない。
しかしヨブにとって問題なのは、どうしてこんなにも、自分に見合わないと思える程の災いにあわなければならないのか、という事である
もし災いに見合った罪を犯していたのであれば、まだ納得が行くが、しかし、こんなにも酷い災いに見合うような悪い事を、ヨブ自身は見つけられないからこそ、「一体何故に!」と叫び続けているのである。

そして、神の力強さ、全知全能さを、ヨブは4節から11節まで告白し、そんな力強すぎる神について、次のように言う。

9:3 よし彼と争おうとしても、/千に一つも答えることができない。
・・・
9:12 見よ、彼が奪い去られるのに、/だれが彼をはばむことができるか。だれが彼にむかって『あなたは何をするのか』と/言うことができるか。

さらに、ヨブは、このような神に何か物申しても無駄だ、たちまちにその全能なる御腕で、こんな私の訴えはいとも簡単にへし折られてしまうのだ、という独白をする。

9:14 どうしてわたしは彼に答え、/言葉を選んで、彼と議論することができよう。
9:15 たといわたしは正しくても答えることができない。わたしを責められる者に/あわれみを請わなければならない。
9:16 たといわたしが呼ばわり、/彼がわたしに答えられても、/わたしの声に耳を傾けられたとは信じない。
9:17 彼は大風をもってわたしを撃ち砕き、/ゆえなく、わたしに多くの傷を負わせ、
9:18 わたしに息をつかせず、/苦い物をもってわたしを満たされる。
9:19 力の争いであるならば、彼を見よ、/さばきの事であるならば、/だれが彼を呼び出すことができよう。
9:20 たといわたしは正しくても、/わたしの口はわたしを罪ある者とする。たといわたしは罪がなくても、/彼はわたしを曲った者とする。
9:21 わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。わたしは自分の命をいとう。

結局、神はわたしのちっぽけな訴えなんて聞いてくれないのだ、自分が何を叫んでも神様は御心のまましか行わないのだ、訴えても無駄だ、という無気力にヨブは覆われている。

9:22 皆同一である。それゆえ、わたしは言う、/『彼は罪のない者と、悪しき者とを/共に滅ぼされるのだ』と。

世間の多くの人が、この言葉に共感する。
神様は聞いてくれない、罪のない者も、悪しき者と一緒に滅ぼされる、と。
いや、違う。神は訴えを聞かれ、そのとおりであるかどうか計るために見に来られ、そして正当に審判する。

ソドムとゴモラは、不品行がはびこり、性的な錯乱がまかり通り、不当に抑圧されている者が多く、神の御前に悪を積み上げている町であった。
『主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」』(創世記18:20-21)
神は全能なるお方なのだから、わざわざ人の姿を取って、その通りかどうかを見に行く必要は無いはずである。
しかし、主がわざわざ人の姿を取り、主みずから足で行って目で見、耳で聞き、そこの住人が実際に乱暴した様を実体験したのであるなら、その報いとして滅ぼされても、誰も何の文句も言えないはずである。

そして主は、なさろうとする事をアブラハムに打ち明けられた。
なぜなら主は、いかに罪人であっても、滅ぼす事は望んでおられず、彼らが悪の道から離れて生きることを望まれるお方であり(エゼキエル18:23)、人を滅ぼさないようにと、ご自身に執り成してくれる人が立つのを、主は望んでおられるからだ。

アブラハムは、主がソドムとゴモラに行き、その罪が非常に大きいかどうかを確かめに行く、という事を聞いて意を決し、主の前に立ち、申し上げた。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」(創世記18:24)
主の答えは、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(26節)だった。
そこを発端に、主とアブラハムとの交渉がはじまり、アブラハムは「では45人なら」と食い下がり、さらには40人、30人と詰めて行き、最終的には、ソドムにいる義人がたとえ10人であっても、町は滅ぼさない、という約束を漕ぎ着けるまでに至った。

主は、見て、聞かれるお方である。
そして、人の祈り、執り成し、交渉に、応じて下さるお方である。
ヨブ記9章の瞬間的には、主に聞かれていないかのように見えても、全体で見るなら、主は聞かれただけでなく主は恵み深く憐れみ深いという事を示された。

多くの人は、この、瞬間的な事だけを見て「神は不当だ」と攻撃材料にするが、そのような人は、その後にどうなったか、という事を飛ばしてしまっている。
書いてある。

ホセア6:1 「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。
6:2 主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。
6:3 わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。

神は、打って終わりではない。再び包んで、いやし、以前よりも素晴らしい状態へして下さる。
ユダヤでは先の雨と後の雨によって土地は潤され作物が大いに育つが、それ以外の大部分のシーズンは、乾季である。カラカラである。
しかし主は、このユダヤの地に冬の雨と春の雨を降らせ、それによって、ぶどうやオリーブがよく育つのだ。

ヨブ記9章は、瞬間風速的に、カラカラの真っ最中である。
しかしヨブ記全体で見ると、いや、聖書全体で見ると、主は恵み深いお方である事がわかるのだ。
神は、カラカラにして、それで滅ぼすお方ではない。その後に雨を降らせ、潤し、先の状態よりも遥かに優れた状態にして下さる。
逆にサタンは、不当な道に導いて、潤し、不当な道を行けばもっと潤うと思わせて、砂漠のどまんなかへ導いて干からびさせるのである。

ヨブは友人達への返答から、いつしか独白へと移り、そして、神様への問いかけへと移っていく。

9:27 たといわたしは『わが嘆きを忘れ、/憂い顔をかえて元気よくなろう』と言っても、
9:28 わたしはわがもろもろの苦しみを恐れる。あなたがわたしを罪なき者とされないことを/わたしは知っているからだ。
9:29 わたしは罪ある者とされている。どうして、いたずらに労する必要があるか。
9:30 たといわたしは雪で身を洗い、/灰汁で手を清めても、
9:31 あなたはわたしを、みぞの中に投げ込まれるので、/わたしの着物も、わたしをいとうようになる。

ヨブは、「どうせわたしは罪ある者とされている。どうして、いたずらに労する必要があるか。」と、善を行う事も無駄なのではないか、自分がいかに自分をきよめようとしても、主の前にはただただ罪ある者、と、どうせされてしまうのだ、と、恐れている。
これを、不条理だ、と人は思う。しかし、神は、そんな不条理はしないお方である事を聖書は語っている。(後述)

9:32 神はわたしのように人ではないゆえ、/わたしは彼に答えることができない。われわれは共にさばきに臨むことができない。
9:33 われわれの間には、/われわれふたりの上に手を置くべき仲裁者がない。

ヨブは、このような偉大すぎる神を前に、どんなに頑張っても罪とされてしまう人間との間に仲介する者が、とりなす者がいない、と嘆いている。
しかし神は、そんな人間に、完全な仲介者を送って下さった。
イエス・キリストである。

2テモテ2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。

多くの人が誤解している。
神は天でふんぞり返って地を見下ろし、罪有る人間のもがき苦しみに何もしないでただ罪定めしている、と。
違う。
神であられるお方は、ご自分の御座を降り、天から降りて来られ、人となり、人として生き、人としての弱さ、悲しさ、苦しさを舐め尽くされ、悪魔の誘惑を受けられ、それに御言葉によって勝利し、私達に悪魔に勝利する方法を示して下さった。

ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
5:1 大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。
5:2 彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができる。

神の子キリストは、罪が無いお方であられるのに、人の身代わりとなって罪を負われ、死が無いお方であられるのに、人の死を身代わりに負って、死んでくださり、そして、復活によって、罪と死を打ち砕き、勝利して下さった。
このキリストを主として信じる者に、キリストと同じ立ち位置、すなわち神の子としての立ち位置を与え、パラダイスへの道を開き、永遠のいのちを与えて下さったのだ。

キリストにあってこそ、私達はヨブが感じたような疎外感を感じる必要は一切無いのである。

ビルダデによる最初の弁論 - 単純な格言では片付けようがない問題(ヨブ記8章)
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8章はヨブに対するシュアハ人ビルダデによる答弁である。

8:1 時にシュヒびとビルダデが答えて言った、
8:2 「いつまであなたは、そのような事を言うのか。あなたの口の言葉は荒い風ではないか。
8:3 神は公義を曲げられるであろうか。全能者は正義を曲げられるであろうか。

ビルダデの口から出た真っ先の言葉は、ヨブの言葉は荒い風のようだ、いつまでそのような事を言うのか、という、責め立てる言葉だったが、ヨブ自身、自分の言葉は風のようであると自覚しており、その理由は、望みが絶えたからであり、霊のもだえと魂の苦しみゆえに口を制御できない、と、既に言っていた。(6:26,7:11)
だからヨブに対しそのように言うのは、風邪をひいた人に対して、なぜそのように荒く咳をするのか、と言うようなものである。
さらに彼は、歯に衣着せずに言う。

8:4 あなたの子たちが彼に罪を犯したので、/彼らをそのとがの手に渡されたのだ。

口語訳や新共同訳では、明確に、ヨブの子達が神に罪を犯したゆえに災いが起きた、と言っているが、KJVや新改訳では「”もし”、あなたの子らが神に罪を犯し」と訳している。
ここの「もし」は、「見よ!」とも訳せる語「イム」であるゆえ訳が分かれているのだが、いずれにせよ彼は子達にかかった災いを子達の犯した罪と関連づけ、ヨブはそれに対し何の反対もしていない所を見ると、やはりヨブ自身、子達が神に対して何らかの罪を犯したからだ、という自覚があるのだろう。

8:5 あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6 あなたがもし清く、正しくあるならば、/彼は必ずあなたのために立って、/あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
8:7 あなたの初めは小さくあっても、/あなたの終りは非常に大きくなるであろう。

確かにその通りなのだが、ヨブは既に神に激しく求め祈っている。
ヨブ自身には、神に激しく求めて祈った記憶が明確にあるのに、なお、「あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば」と言われても、ただ気分を害する以外にないし、本人自身、清く正しく歩んで来たという記憶しかないのに「あなたがもし清く、正しくあるならば」と言われても、全く心に届かないし、「あなたの初めは小さくあっても、/あなたの終りは非常に大きくなるであろう」と言われても、何の慰めにもならない。

8:8 先の代の人に問うてみよ、/先祖たちの尋ねきわめた事を学べ。
8:9 われわれはただ、きのうからあった者で、/何も知らない、/われわれの世にある日は、影のようなものである。
8:10 彼らはあなたに教え、あなたに語り、/その悟りから言葉を出さないであろうか。

エリファズは自分が体験した神秘体験を元にヨブを諭したが、ビルダデは先人の知恵を元に諭す。
11-19節は、神を忘れる者・神を信じない者は実にもろく、くもの巣によりかかっているようなものだ、いかに生い茂っていたとしてもすぐに枯れてしまうものだ、という、一連の格言を披露し、そうして次のように結論づける。

8:20 見よ、神は全き人を捨てられない。また悪を行う者の手を支持されない。
8:21 彼は笑いをもってあなたの口を満たし、/喜びの声をもってあなたのくちびるを満たされる。
8:22 あなたを憎む者は恥を着せられ、/悪しき者の天幕はなくなる」。

シュアハ人ビルダデの答弁は、単純に正論で、ヨブも「まことに、そのとおりであることを私は知っている。」と答えている。(9:2)
しかしヨブが直面している問題は、そんなに単純ではないのだ。
ヨブ自身、道を外した記憶も、悪を行った記憶も無く、なにより、神ご自身から「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」(2:3)と言われる程なのだから、「罪を犯したらすなわち災いが、きよく歩んだならすなわち幸いが」という単純な論理をヨブに押し付けられても、全くあさってに聞こえただろう。
ヨブは単純に思い出せるような罪を犯していないのに、こんなにも酷い災いに遭ってしまっている事、そして、その意味が見いだせない事こそ、切実な問題なのだ。

人は、罪を犯した、犯していない、で世の諸々を片付けようとする。
イエス様の弟子だって、そうだった。しかし、イエス様の答えは、人の思い込みと論法とは別次元のものである。

ヨハネ9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。

それは神の栄光あらわれるため。
これが、イエス様の答えである。
そうである。ヨブ記前半から中盤は、ただだれが罪を犯した、犯していない、の激しい応酬で、何の益も生み出さなかったが、後半は、神の圧倒的な栄光で満ち満ちている。

人のあらゆる弱さ、災い、そして犯して来た罪さえ、全部、神の栄光へと変えて下さる私達の主イエス様こそ、偉大なお方である。

人生最大の苦難が、人生最大の主との交わりを招く(ヨブ記7章)
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6章では、ヨブは友人たちに対して物申していたが、7章では、その対象は神へと移って行く。

7:1 地上の人には、/激しい労務があるではないか。またその日は雇人の日のようではないか。
7:2 奴隷が夕暮を慕うように、/雇人がその賃銀を望むように、
7:3 わたしは、むなしい月を持たせられ、/悩みの夜を与えられる。
7:4 わたしは寝るときに言う、『いつ起きるだろうか』と。しかし夜は長く、暁までころびまわる。
7:5 わたしの肉はうじと土くれとをまとい、/わたしの皮は固まっては、またくずれる。
7:6 わたしの日は機のひよりも速く、/望みをもたずに消え去る。

ヨブにとって特に辛いのは、夜だった。
絶え間ないかゆみの故に、夜も安らかに休む事が出来ず、体中を土器のかけらで掻きむしって、肉はうじに覆われ、転げまわるので土くれに覆われており、体中から噴き出る浸出液や膿などが固まっては崩れ、固まっては崩れる状態だったのだ。
全財産を失い、身体もこのような状態となり、もはや望みが尽きたヨブは、ただ死を願うのだが、しかし死ぬことさえ主は許してくれない。
それでこの7章は、神様に対する「なぜ」「どうして」で満ちている。

7:7 記憶せよ、わたしの命は息にすぎないことを。わたしの目は再び幸を見ることがない。
7:8 わたしを見る者の目は、/かさねてわたしを見ることがなく、/あなたがわたしに目を向けられても、/わたしはいない。
7:9 雲が消えて、なくなるように、/陰府に下る者は上がって来ることがない。
7:10 彼は再びその家に帰らず、/彼の所も、もはや彼を認めない。

記憶せよ、と訳されている語は、ザカール(覚える,思い起こす)の命令形で、NKJVは「Oh, remember」、新共同訳では「忘れないでください」である。
神様に対する叫びである。思い出して下さい、自分は息にすぎないことを、と。

7:11 それゆえ、わたしはわが口をおさえず、/わたしの霊のもだえによって語り、/わたしの魂の苦しさによって嘆く。
7:12 わたしは海であるのか、龍であるのか、/あなたはわたしの上に見張りを置かれる。
7:13 『わたしの床はわたしを慰め、/わたしの寝床はわが嘆きを軽くする』と/わたしが言うとき、
7:14 あなたは夢をもってわたしを驚かし、/幻をもってわたしを恐れさせられる。
7:15 それゆえ、わたしは息の止まることを願い、/わが骨よりもむしろ死を選ぶ。
7:16 わたしは命をいとう。わたしは長く生きることを望まない。わたしに構わないでください。わたしの日は息にすぎないのだから。

ヨブは、ひっきりなしに主の責め苦によって苦しめられている気がしていた。
ヨブの苦しみを願ったのは神ではなくサタンで、その財産に手を出したのも、その皮膚を夜昼となく手を出したのもサタンだったが、許可されたのは、神だった。
ヨブはきっと、今までの人生でこれほどの事は無かったというほどに、神を意識し、神を考え、神との交わりを求めて行った事だろう。

神はなぜ苦しめるのか。その理由は聖書の色々な箇所に記されているのだが、今回は申命記に書いてある事を注目したい。

申命記8:2 あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。
8:3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
・・・
8:16 先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。
8:17 あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。
8:18 あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。

主が人を苦しめる理由は、「心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るため」、また、「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。」
さらには、その苦しみの後に主との交わりをもっと深くし、さらに豊かに与えられる物質的祝福を、さらに神の栄光のために用いていくためである。
ヨブはこの苦しみによって、最も恐れていたものは物質的な祝福(パン)が取り上げられる事だった事があらわにされ(3:25)、そして最終的には、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から語られた御言葉によって生きる事を、知るに至った。

ヨブは、神を離れるのでなく、むしろ神に近づいて行き、彼は神に対し「口をおさえず、/わたしの霊のもだえによって語り、/わたしの魂の苦しさによって嘆」いた。
感謝を捧げるためであろうと、文句を言うためであろうと、ともかく「神に近づく事」こそ、大事なのだ。

7:17 人は何者なので、あなたはこれを大きなもの(ガダル:引き上げる、尊ぶ)とし、/これにみ心をとめ、
7:18 朝ごとに、これを尋ね、/絶え間なく、これを試みられるのか。

ここは詩篇8篇に似ている。

詩篇8:3 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
8:4 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
8:5 ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、

ダビデは、天の万象の偉大さ精巧さを見るに、それに引き換え、人間とは何者なのだろう、と、主を褒め称えた。
それに対し、ヨブは、自分にこんなにも目を留め、絶え間なく試みられるのはどういう事か、と、真逆のスタートポイントから、同じ言葉へと行き当たった。
共通して行き当たっている事は、神は、人を、特別扱いしておられる、という事である。
ヨブは実際、「人は何者なので、あなたはこれを大きなもの(ガダル:引き上げる、尊ぶ)とし」、と言った。
ヨブは、ひっきりなしに来る責め苦の中にも、神の特別扱いを感じたのだ。
今まさに、神の特別扱いの真っ最中なのだ、と。

7:19 いつまで、あなたはわたしに目を離さず、/つばをのむまも、わたしを捨てておかれないのか。
7:20 人を監視される者よ、わたしが罪を犯したとて、/あなたに何をなしえようか。なにゆえ、わたしをあなたの的とし、/わたしをあなたの重荷とされるのか。
7:21 なにゆえ、わたしのとがをゆるさず、/わたしの不義を除かれないのか。わたしはいま土の中に横たわる。あなたがわたしを尋ねられても、/わたしはいないでしょう」。

ヨブは今回の箇所で、なぜ、どうして、と、何度も主に問いかけた。
結局、主に求め続け、問い続け、そうして主と関わり続ける事こそ大事であり、その向こう側に、以前に遥かに勝る幸いが待っているのだ。
こんな困難の中でも、主を捨て去る事なく、主にとどまり続け、問い続けてきたヨブの「なぜ」の答え、それは、新約に書かれてある通りである。

ヤコブ5:10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
5:11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。
 

ヘセド(慈しみ)が枯れてしまっている言葉に絶望したヨブ(ヨブ記6章)
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テマン人エリファズの諭しに対する、ヨブの答えが、6章と7章である。

6:1 ヨブは答えて言った、
6:2 「どうかわたしの憤りが正しく量られ、/同時にわたしの災も、はかりにかけられるように。
6:3 そうすれば、これは海の砂よりも重いに相違ない。それゆえ、わたしの言葉が軽率であったのだ。
6:4 全能者の矢が、わたしのうちにあり、/わたしの霊はその毒を飲み、/神の恐るべき軍勢が、わたしを襲い攻めている。

エリファズに対するヨブの真っ先の答えは、今自分に計り与えられている災いや苦悶の重さがどれほどであるか、計られるように、という事だった。
絶望と苛立ちの荒波に揉まれているヨブの思いとすれば、それが海の砂よりも重いに違いない、という思いから出てきた言葉であろう。
ヨブは、自分の言葉が軽率であったと自覚している。
「軽率」と訳された語「ルアー」の語根は、「早口で話す」あるいは「抑制なしに話す」という意味がある
しかし、理性を保とうとしているヨブの友人達からすれば、彼の抑制なしの言葉や、「これは海の砂よりも重い」という感覚的な言葉は、格好の攻撃材料になり、もっとヨブを苦しめるだろう。
私達は、理性的であると同時に、理性を失っている人の導き方の心得も得られるよう、聖霊に求めるべきだ。

6:5 野ろばは、青草のあるのに鳴くであろうか。牛は飼葉の上でうなるであろうか。
ヨブが今鳴いたりうなったりしているのは、理由なしではない。

6:6 味のない物は塩がなくて食べられようか。すべりひゆのしるは味があろうか。
6:7 わたしの食欲はこれに触れることを拒む。これは、わたしのきらう食物のようだ。

「すべりひゆのしる」はヘブライ語でリィル、意味の特定は難しいが、どろどろしたもので、聖書では2回した使われておらず、ここの他で使われているのは、ダビデが気違いを装った時、彼の口から出した”よだれ”で、この語が使われている。
エリファズの口から出た言葉は、まさに気違いが発したよだれのよう、そして塩気が無い言葉で、ヨブとしては到底、受け入れられないものだったのだ。

6:8 どうかわたしの求めるものが獲られるように。どうか神がわたしの望むものをくださるように。
6:9 どうか神がわたしを打ち滅ぼすことをよしとし、/み手を伸べてわたしを断たれるように。
6:10 そうすれば、わたしはなお慰めを得、/激しい苦しみの中にあっても喜ぶであろう。わたしは聖なる者の言葉を/否んだことがないからだ。

ヨブは再び死を願っているが、3章と違う所は、その叫びの中に、神との関わりがある所だ。
彼は、主ご自身に打たれる事が慰めだ、と言っている。

なお、10節で「わたしは聖なる者の言葉を/否んだことがないからだ。」と言っているが、これはヨブ自身、罪を犯したことは無い、と主張しているのではない。
彼は全能者を前に、自分は罪ある者であることを自覚している。(7:20-21)
ただ、彼は本当に、聖なる方の言葉を、自ら意図して否んだ記憶は無く、ただ、御前に忠実に仕えようとして来た事しか思い当たらないのだ。
それは本当である。実際2章では、主がサタンに対し、ヨブがくちびるで罪を犯さなかった事を賞賛している。

6:11 わたしにどんな力があって、/なお待たねばならないのか。わたしにどんな終りがあるので、/なお耐え忍ばねばならないのか。
6:12 わたしの力は石の力のようであるのか。わたしの肉は青銅のようであるのか。
6:13 まことに、わたしのうちに助けはなく、/救われる望みは、わたしから追いやられた。

ヨブの友人達とすれば、ヨブを助け慰めるために来たので、この言葉は心外に聞こえたかもしれない。
しかしヨブからすれば、友人達は助けにならず、「忍耐しなくてはならない対象」でしかなかった。
なぜならヨブが求めていたものは、正論による諭しではなく、もっと別のものだったからである。

6:14 その友に対するいつくしみをさし控える者は、/全能者を恐れることをすてる。

ヨブは友から、いつくしみ(ヘセド)と求めていたのだ。
主はヘセドに満ちたお方、慈しみ深いお方である。忍耐があり、赦しがある。
だから罪と弱さを持つ人間は、その慈しみにより、救われる余地があるのである。
もし慈しみが無いなら、全能者を前に、絶望する以外に無く、その人は「何をしても無駄だ」と自暴自棄になってしまう。

6:15 わが兄弟たちは谷川のように、/過ぎ去る出水のように欺く。
6:16 これは氷のために黒くなり、/そのうちに雪が隠れる。
6:17 これは暖かになると消え去り、/暑くなるとその所からなくなる。
6:18 隊商はその道を転じ、/むなしい所へ行って滅びる。
6:19 テマの隊商はこれを望み、/シバの旅びとはこれを慕う。
6:20 彼らはこれにたよったために失望し、/そこに来てみて、あわてる。
6:21 あなたがたは今わたしにはこのような者となった。あなたがたはわたしの災難を見て恐れた。

ヨブは、友人達が、川のように、出水のように欺いた、と言った。
隊商や旅人が荒野を旅する時、川を、水を慕い求め、熱い中を来たのに、来てみると、水はひからびて無かったのを発見し、失望してあわてるごとくに、ヨブは、友人達に対し、ヘセドの慈しみを期待したのに、それは友人達には無く、ひからびていたので、ヨブはとても失望したのだ。
私達が、教会の交わりにおいて必要な事が、ヘブル書に書いてある。

ヘブル13:1 兄弟愛を続けなさい。
13:2 旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。
13:3 獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。

兄弟愛はギリシア語でフィラデルフィアと言う。主は黙示録3章において、フィラデルフィアの教会は来るべき患難の時代でも保たれる事を示している。
そしてフィラデルフィア教会には、一切、叱責は無い。
私達は患難の時、兄弟愛を保ち、また、罪に病に災いに繋がれている人達を、自分も一緒につながれている心持ちで思いやるべきであり、また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめるべきなのだ。

ヨブはさらに強固に自分の正当性を主張する。

6:22 わたしは言ったことがあるか、『わたしに与えよ』と、/あるいは『あなたがたの財産のうちから/わたしのために、まいないを贈れ』と、
6:23 あるいは『あだの手からわたしを救い出せ』と、/あるいは『しえたげる者の手から/わたしをあがなえ』と。
6:24 わたしに教えよ、そうすればわたしは黙るであろう。わたしの誤っている所をわたしに悟らせよ。

ヨブの友人は、ヨブの状況を詳しく知らずに来た。それなのに、ヨブの罪を指摘し、悔い改めるように勧めた。
しかしヨブとしては、どの罪を犯したのか一切の心当たりは無く、実際にしていないのだ。
ヨブの友人は、神を敬うように、神の素晴らしさを説いた。
しかしヨブとしては、神が素晴らしいお方である事は百も承知なのだ。

悔い改めは、罪の自覚があって初めて出来るものであり、謝罪も、自分が悪いことをしたという自覚が必要である。
自覚が無い人に、いくら促しても、ただただ逆効果なのだ。
だから、自覚が無い人には、その人が神様と直接出会う事を求める事が最も有効である。
ヨブが後に、神と直接出会って、悔い改めたように。

6:25 正しい言葉はいかに力のある(マラツ:痛いという意味もある)ものか。しかしあなたがたの戒めは何を戒めるのか。

正しい言葉は力があるが、ヘセドが無いとしたら、それはただ痛いだけで癒やしがない。
私達は、愛と憐れみに満ちた主の霊に導かれ、知恵が与えられ、恵みによって人を癒やす事を学ばなくてはならない。
箴言12:18 つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人をいやす。

6:26 あなたがたは言葉を戒めうると思うのか。望みの絶えた者の語ることは風のようなものだ。

ヨブがここで言っているように、絶望した者の言葉は、あらしのようである。
言葉の一つ一つを分析して論理的に戒めても、あらしに向かって戒めるようなもので、全く効き目はない。
むしろヨブは、もっと頑なに自己正当化してしまう。

6:27 あなたがたは、みなしごのためにくじをひき、/あなたがたの友をさえ売り買いするであろう。
6:28 今、どうぞわたしを見られよ、/わたしはあなたがたの顔に向かって偽らない。
6:29 どうぞ、思いなおせ、まちがってはならない。さらに思いなおせ、/わたしの義は、なおわたしのうちにある。
6:30 わたしの舌に不義があるか。わたしの口は災を/わきまえることができぬであろうか。

私達は兄弟愛をもって、また、ヘセドの恵みをもって、兄弟姉妹を滅びから救い出す者でありたい。
それは人間の知恵によらず、ただ、御霊に導かれてこそ出来るものである。

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