メッセージ - 201805のエントリ

友人達の論議の土俵へと降りていくヨブ(ヨブ記21章)
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ツォファルに対するヨブの答えが21章であるが、今までの様相とは若干異なる。
今までは、友人に対する反論というよりも、むしろ、神様に対する叫びのような祈りのほうで、紙面が割かれていた。
しかし、今回のヨブの返答には、神様に向けられた言葉はなく、因果応報と悪因悪果の単純な押し着せばかりをする友人達の議論の土俵に降りてきて、彼らが金科玉条としているその法則が、現実では、必ずしもそんなに単純に行われていない事をつきつけており、自分の問題は、そんなに単純ではない事を友人達に分からせようとしているふしがある。

21:1 そこでヨブは答えて言った、
21:2 「あなたがたはとくと、わたしの言葉を聞き、/これをもって、あなたがたの慰めとするがよい。
21:3 まずわたしをゆるして語らせなさい。わたしが語ったのち、あざけるのもよかろう。
21:4 わたしのつぶやきは人に対してであろうか。わたしはどうして、いらだたないでいられようか。
21:5 あなたがたはわたしを見て、驚き、/手を口にあてるがよい。

ヨブにとって最も友人にしてもらいたかった事は、ヨブの話を聞いてもらう事だ。
ひどい災いを受けている、しかし、それを受けるような事をした事が、身に覚えがない。
このいらだちを理解してもらいたかった。
それなのに彼らは、こんな災を受けているヨブを、単純に悪人と決めつけ、単調に因果応報、悪因悪果のお仕着せばかりして、ヨブを苦しめるので、ついにヨブは友人の土俵に立ち、議論を仕掛ける。
はたしてそんなに因果応報、悪因悪果が単純に行われるのか、と。そして、単調に因果応報、悪因悪果ではない現実の事例を並べ、「驚き、手を口にあてるがよい」と言う。

21:6 わたしはこれを思うと恐ろしくなって、/からだがしきりに震えわななく。
21:7 なにゆえ悪しき人が生きながらえ、/老齢に達し、かつ力強くなるのか。
21:8 その子らは彼らの前に堅く立ち、/その子孫もその目の前に堅く立つ。
21:9 その家は安らかで、恐れがなく、/神のつえは彼らの上に臨むことがない。
21:10 その雄牛は種を与えて、誤ることなく、/その雌牛は子を産んで、そこなうことがない。
21:11 彼らはその小さい者どもを群れのように連れ出し、/その子らは舞い踊る。
21:12 彼らは手鼓と琴に合わせて歌い、/笛の音によって楽しみ、
21:13 その日をさいわいに過ごし、/安らかに陰府にくだる。
21:14 彼らは神に言う、『われわれを離れよ、/われわれはあなたの道を知ることを好まない。
21:15 全能者は何者なので、/われわれはこれに仕えねばならないのか。われわれはこれに祈っても、なんの益があるか』と。

神を恐れ敬わず、悪ばかりを為して、何の罰らしい罰を受けないまま栄えている者が確かにいる現実、それをどう思うのか、と、ヨブはつきつけている。
ヨブは神をないがしろにする悪人ではないが、そんなヨブが逆に、こんなにもひどい災いを受けているという、この現実はどうなのか。

21:27 見よ、わたしはあなたがたの思いを知り、/わたしを害しようとするたくらみを知る。
21:28 あなたがたは言う、『王侯の家はどこにあるか、/悪人の住む天幕はどこにあるか』と。
21:29 あなたがたは道行く人々に問わなかったか、/彼らの証言を受け入れないのか。
21:30 すなわち、災の日に悪人は免れ、/激しい怒りの日に彼は救い出される。
21:31 だれが彼に向かって、/その道を告げ知らせる者があるか、/だれが彼のした事を彼に報いる者があるか。
21:32 彼はかかれて墓に行き、/塚の上で見張りされ、
21:33 谷の土くれも彼には快く、/すべての人はそのあとに従う。彼の前に行った者も数えきれない。

友人達は、因果応報を金科玉条のごとく突きつけるが、現実を見ると、必ずしもそうではない、という事を、ヨブは突きつけた。
だから、友人達が自分に向かって突きつける因果応報ばかりを単調に突きつけるのは、「むなしいことば」だと、逆に突きつけた。

21:34 それで、あなたがたはどうしてむなしい事をもって、/わたしを慰めようとするのか。あなたがたの答は偽り以外の何ものでもない」。

ヨブは今回、神に向かずに、友人達の議論とう低レベルな土俵へと降りてゆき、彼らに、「それでは違うのだ」という”ゆとり”が出てきたのかもしれない。
それは、彼が神に向かって叫びのような祈りをし、ついに、彼のなかだちとして立って下さるお方、弁護し購って下さるお方を知るに至ったからだろう。

アサフもまた、悪人が何の災いに遭わず栄えている様を見て、心を痛めていたが、しかし彼が神の聖所へと至った時、彼らの最後を悟ることができた。
そして、それまで神に向かって叫んでいたその獣のような荒んだ心に恥じ入り、いただいた平安を感謝し、賛美するに至った。

詩篇73:21 わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
73:22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
73:23 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
73:24 あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。

私達が世の中の現実に目を向ける時、悪人の栄えている様に目を向ける時、ただ獣のようになる以外に無い。
ヨブの友人達は、ことわざや哲学ばかりを吠える獣のような有様であるが、しかし神に心を向けるなら、アサフのように、ヨブのように、物事が見えて来る。
そして後には、栄光の内に受け入れられ、平安と賛美が戻ってくるのだ。

詩篇73:25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。
73:26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。
73:27 見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。
73:28 しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。

邪悪な時代の中に輝く、尊厳ある(ハイルな)男と女(ルツ4:1-8)
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ルツ記3章は、いわばルツの「婚活」の場面であるが、その「婚活」は、現代の婚活とは、全く逆のアプローチである。
現代の婚活は、いかに自分が提示する条件に合った、自分好みの相手を見つけ、折り合いをつけ、あるいは妥協しつつ結婚するか、という、いわば自分主体の活動であるが、このルツとボアズという栄光の家系の婚活は、全くその逆で、自分好み・自分主体は一切なく、信仰の先輩のアドバイス主体、そして、御言葉主体である。

ルツは自分の好む事を退け、御言葉に適った相手であるボアズへ求婚したゆえに、ボアズから「しっかりした女(エシェット・ハイル:尊厳ある女 箴言31:10、12:4)」と言われる栄誉を受けた。
ボアズもまた、御言葉主体に歩んだゆえ、尊厳ある有力な男(イシュ・ギボル・ハイル:ルツ記2:1)として、当時、名を馳せた。

邪悪な価値観がはびこる士師記の時勢において、しっかりした信仰を育み、ダビデへと、そしてキリストへとつなぐ栄光の家系の基を築いた「エシェットな(尊厳ある)」男女、ボアズ・ルツのあり方を学びたい。

4:1 ボアズは町の門のところへ上っていって、そこにすわった。すると、さきにボアズが言った親戚の人が通り過ぎようとしたので、ボアズはその人に言った、「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください」。彼はきてすわった。

ボアズはルツの願いを叶える手続きをするために、町の門の所へ行った。
当時、町の門の所は、重要な取引や裁判などが行われる場所である。

日本語の聖書では「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください」と訳されているが、原文は、「そこの君、こちらに来て、そこに座りなさい」というように、目上の人が目下の人に指示するような感じである。
だから、ボアズはその親戚より目上で、しかも彼は町の長老10人を呼んで座らせる程の有力者だった事が伺える。

4:2 ボアズはまた町の長老十人を招いて言った、「ここにおすわりください」。彼らがすわった時、
4:3 ボアズは親戚の人に言った、「モアブの地から帰ってきたナオミは、われわれの親族エリメレクの地所を売ろうとしています。

ボアズは人々の前で、堂々と手順を踏んだ。
有力者たる人のたしなみは、正当な手順を踏みつつ、人々の前で堂々と物事を行う人である。

物事には、手順がある。集団で物事を行う手順、契約を結ぶ手順、男女関係における手順など。
そうした手順を、正当に踏んで行うなら、誰にも非難されるところは無く、人々から祝福を受けつつ人生を送るのだが、為すべき手順を面倒くさがったり、ないがしろにするような人は、いつまでも人から認められなかったり、重要な事が任せられなかったりする。

4:4 それでわたしはそのことをあなたに知らせて、ここにすわっている人々と、民の長老たちの前で、それを買いなさいと、あなたに言おうと思いました。もし、あなたが、それをあがなおうと思われるならば、あがなってください。しかし、あなたがそれをあがなわないならば、わたしにそう言って知らせてください。それをあがなう人は、あなたのほかにはなく、わたしはあなたの次ですから」。彼は言った、「わたしがあがないましょう」。

もし、このボアズよりも買い戻しの責任が重い親類、名前が無いので仮にAさんとすると、このAさんの存在をルツはもともと知らず、またAさんもルツを知らなかっただろう。
もし彼が買い戻すとなると、ルツ・ボアズ・ナオミが願っていた結果とは、かなり違ってしまう。
しかしボアズは、淡々と律法の決まり事を、そのとおり言う。

4:5 そこでボアズは言った、「あなたがナオミの手からその地所を買う時には、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買って、死んだ者の名を起してその嗣業を伝えなければなりません」。
4:6 その親戚の人は言った、「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます。あなたがわたしに代って、自分であがなってください。わたしはあがなうことができませんから」。

その人は、ルツをも買い戻さなくてはならない、と聞いた途端、及び腰になった。なぜなら、「そんなことをすれば自分の嗣業(相続地)をそこない」かねないからである。
買戻しの話とは、買戻す側にとっては、デメリットしか無いような話である。
なぜなら、落ちぶれてしまった親類の畑を買い戻す時、その畑は自分のものとはならないし、死んでしまった人の妻をめとって、その最初に生まれた男子に死んでしまった親類の名を継がせ、さらに、その買い戻した畑は、買い戻した人のものにはならずに、その子のものとなる。
そして、もし、男子が一人しか生まれないとするなら、Aさんが心配する通り、自分の相続地をそこなう事になりかねないのだ。
それで彼は、「わたしはあがなうことができませんから」と言ったのだ。

神の民の間において、すなわち、現代の私達・教会の中において、絶えてしまいそうな兄弟姉妹を支えるのは、栄誉ある働きである。
しかし、支えるためには力量や富、そして、精神的ゆとりが必要である。
それが無い人が、心に憂いを覚えつつ、やせ我慢して、本当はしたくないのだけれども、心に鞭打って、助けのわざをしようとするのは、健全ではない。
このAさんのように、より助ける力のある人へとゆずるのが、全ての人にとって、良いのである。

4:7 むかしイスラエルでは、物をあがなう事と、権利の譲渡について、万事を決定する時のならわしはこうであった。すなわち、その人は、自分のくつを脱いで、相手の人に渡した。これがイスラエルでの証明の方法であった。
4:8 そこで親戚の人がボアズにむかい「あなたが自分であがないなさい」と言って、そのくつを脱いだので、

足のくつを脱いで、相手に渡す。それは、自分が足の下に置く権利を相手に明け渡す象徴的な行為である。
Aさんは、それをボアズへと渡した。
こうして、当初の彼らの願いどおりの事が、公の門前で、成就した。

イエス様こそ、私達を真に買い戻す力のある御方である。
人間の男性は、せっかく家を支えようとして、愛をもって、家族のために心身を捧げる素晴らしい夫であるとしても、弱さや病、死によって、完全に支えきれない事がつきものである。
しかし、イエス様は、死がなく、罪もなく、完全に私達を支えて下さる、まことの大祭司である。

ヘブル7:22 このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。
7:23 かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。
7:24 しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。
7:25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。
7:26 このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。
7:27 彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。
7:28 律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。

私達はたとえ不完全な人間であったとしても、このボアズとルツのように、邪悪な時代の中にあっても尊厳ある(ハイルな)男、女となる事を目指し、キリストにあって家を建て、仕事を建て、この闇の時代において有力者となって行くものでありたい。

聖霊の力:罪について、義について、さばきについてその過ちを認めさせる(ヨハネ16:7-11)
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私達を助けてくださる「助け主」聖霊は、いかにして与えられ、いかなる助けをして下さるのか。

ヨハネ16:7 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
16:8 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。

聖霊が来る時、その人に罪について、義について、さばきについて、その三方面から、その過ちを認めさせる。
つまり、聖霊が無い人は、罪の自覚も知らず、義のあこがれも無く、地獄のさばきの恐ろしさも無いのだ。

イエス様はこれら3つについて、一つ一つ説明しておられる。

ヨハネ16:9 罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。

罪の本質、それは、イエス・キリストを信じない事である。
人は、罪有る、滅びるべき存在であるが、イエス様はそこから贖い救って下さるお方だ。

ヨハネ8:23 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。
8:24 だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」。

なぜイエス様を信じない事が、罪になるのか。
それは、罪の対極である義についての説明を見ればわかる。

ヨハネ16:10 義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。

イエス様が御父の元に行き、イエス様をもはや地上において見なくなる。なぜそれが「義」なのか。

ヘブル10:10 この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。
 10:11 こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。
 10:12 しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、
 10:13 それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。
 10:14 彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。

キリストはただ一度、御父にいけにえとして捧げられた。
全焼のいけにえは、その全身を焼き尽くして地上には何も残らず、その煙が香ばしいかおりとなって御父の元に立ち上って行くが、同じようにキリストはただ一度、御父の元に香ばしいかおりとなって昇られた。
それによって御父はなだめられ、そして今、御父の元で私達の事をとりなしておられる。
だから、イエス様が御父の元に行って、イエス様がもはや地上において見えなくなる事が、「義」とされる事なのだ。

ヨハネ16:11 さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。

さばきの本質、それは、この世を支配する者が、さばかれる事である。
この世を支配する者・サタンは、昔、エデンの園において人を支配し、神の言葉の支配から人々を奪って、サタンの罪の力・死の力によって、全ての人はサタンの支配下に入ってしまった。

ルカ 4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて
 4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
 4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
 4:8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

私達もイエス様にならい、御言葉を受け入れ、イエス様の支配下に入って行くなら、私達もイエス様とともに、サタンを踏み砕く側に入るのである。

創世記 3:14 主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。
 3:15 わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

助け主・聖霊が降るなら、罪について、義について、さばきについて、知らされる。
私達は行く先々で、人々の心を刺し、罪と死とサタンの支配から脱却させ、キリストへと導くために、聖霊に満たされて出ていく必要があるのだ。

ツォファルによる二回目の弁論 - ただ人を苛立たせるだけの「思い込み」の殻を抜け出せていない知恵(ヨブ記20章)
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20章は、ナアマ人ツォファルによる第二回目の論議であるが、その内容もまた、前回と全く同様、「悪人はこうなる」という容赦ない決めつけに基づいた攻撃である。

20:1 そこでナアマびとゾパルは答えて言った、
20:2 「これによって、わたしは答えようとの思いを起し、/これがために心中しきりに騒ぎ立つ。

ツォファルから発せられて行く言葉は、「しきりに騒ぎ立つ」思いが由来である。
そのようないらだちに由来する言葉の多くは、害しか生み出さない事のほうが多い。

20:3 わたしはわたしをはずかしめる非難を聞く、/しかし、わたしの悟りの霊がわたしに答えさせる。

ツォファルは、ヨブが、自分を侮辱する訓戒をしていると思い込んでいる。
誤解がさらに誤解を産んで、怒りを燃焼させて行っている状態だ。

彼は「わたしの悟りの霊がわたしに答えさせる」と自称しているのだが、しかしその「悟りの霊」の出処は一体どこだろう。
イエス様は言われた。

ヨハネ16:13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

真理の御霊は、人をあらゆる真理へと導くものだが、ツォファルの言葉には、主エホバの御名はなく、また、ヨブが前章で叫び求めた「あわれみ」の提供もなく、ヨブが告白した「贖うお方」についての言及もなく、ただ怒り、叫び、そしりという肉の実を結んだだけであった。

私達は、いらだちや怒りから来る衝動を「悟りの霊」にあふれていると勘違いしてはならない。
人の怒りは、神の義を実現させるものではないからだ。

20:4 あなたはこの事を知らないのか、/昔から地の上に人の置かれてよりこのかた、
20:5 悪しき人の勝ち誇はしばらくであって、/神を信じない者の楽しみは/ただつかのまであることを。

ツォファルのヨブに対する論議の前提は、結局、ヨブを「悪人」「神を信じない者」と決めつけた上でのもので、しかも、いらだちに支配された思いから発せられたものなので、彼の言葉は、ひたすらひたすら悪人が受ける報いはこうだ、という多くの言葉で塗りつぶされている。

20:6 たといその高さが天に達し、/その頭が雲におよんでも、
20:7 彼はおのれの糞のように、とこしえに滅び、/彼を見た者は言うであろう、『彼はどこにおるか』と。
20:8 彼は夢のように飛び去って、再び見ることはない。彼は夜の幻のように追い払われるであろう。
20:9 彼を見た目はかさねて彼を見ることがなく、/彼のいた所も再び彼を見ることがなかろう。
20:10 その子らは貧しい者に恵みを求め、/その手は彼の貨財を償うであろう。
20:11 その骨には若い力が満ちている、/しかしそれは彼と共にちりに伏すであろう。

確かに悪人はそのようになる。
しかし、ヨブの状況をよく知らず、ヨブの言葉を聞いた上でなおもこの事を言うのは、時宜に適っていない、的外れな事である。
その「時宜に適っていない」事が、幾度、繰り返されているだろう。

20:12 たとい悪は彼の口に甘く、/これを舌の裏にかくし、
20:13 これを惜しんで捨てることなく、/口の中に含んでいても、
20:14 その食物は彼の腹の中で変り、/彼の内で毒蛇の毒となる。
20:15 彼は貨財をのんでも、またそれを吐き出す、/神がそれを彼の腹から押し出されるからだ。
20:16 彼は毒蛇の毒を吸い、/まむしの舌は彼を殺すであろう。
20:17 彼は蜜と凝乳の流れる川々を見ることができない。
20:18 彼はほねおって獲たものを返して、/それを食うことができない。その商いによって得た利益をもって/楽しむことができない。
20:19 彼が貧しい者をしえたげ、これを捨てたからだ。彼は家を奪い取っても、/それを建てることができない。
20:20 彼の欲張りは足ることを知らぬゆえ、/その楽しむ何物をも救うことができないであろう。
20:21 彼が残して食べなかった物とては一つもない。それゆえ、その繁栄はながく続かないであろう。
20:22 その力の満ちている時、彼は窮境に陥り、/悩みの手がことごとく彼の上に臨むであろう。
20:23 彼がその腹を満たそうとすれば、/神はその激しい怒りを送って、/それを彼の上に降り注ぎ、彼の食物とされる。

あたかもヨブが、貧しい者からかすめ奪い、不当に私服を肥やした事を前提とした言葉だが、ヨブはそんな事をしていない。
怒りやあせりを持ちながら議論しだすと、相手に対する「決めつけ」が起こり、その的を外した実態の無い「決めつけ」に対する無益な攻め立てと防御の応酬に陥るものだ。

20:24 彼は鉄の武器を免れても、/青銅の矢は彼を射通すであろう。
20:25 彼がこれをその身から引き抜けば、/きらめく矢じりがその肝から出てきて、/恐れが彼の上に臨む。
20:26 もろもろの暗黒が彼の宝物のためにたくわえられ、/人が吹き起したものでない火が彼を焼きつくし、/その天幕に残っている者を滅ぼすであろう。
20:27 天は彼の罪をあらわし、/地は起って彼を攻めるであろう。
20:28 その家の財産は奪い去られ、/神の怒りの日に消えうせるであろう。
20:29 これが悪しき人の神から受ける分、/神によって定められた嗣業である」。

このように、時宜にかなわない的外れな助言は、長ければ長いほど、感情的で語尾が強ければ強いほど、また、この詩文体のように体裁が立派であればあるほど、人をうんざりさせるものである。
人間の思い込みという殻を抜け出せていない以上、人をうんざりさせる以外に無い。

ヨブ記で展開される長大な人間議論が、全て立派な「詩文体」で表現されているのは、もしかすると、主の御名も愛も除かれてしまっている人間の箴言や哲学が、どんなに無益で、うんざりさせ、ただ傷つけるものであるのかという事を示すための、長大なアイロニーなのかもしれない。

私達は、絶望の底にある人を助けるには、どうすれば良いか。
それは、人の心を探り極めるお方に聞く以外に無い。

1コリント2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
 2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
・・・
 2:15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
 2:16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

人の思いを知る者は、本人自身と、人の心を深みまで探り極める御霊以外にはありえない。
それゆえ、私達が御霊に満たされる時、真に必要で適切な言葉が与えられる。真理の御霊が来る時、それは、自分の思い込みや世の知恵で語るのではなく、その聞くところを語るからだ。

そして、最もすぐれた道は、愛である。

1コリント13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

ヨブ記の3章から今まで読んでいると、まことに立派なやかましい鐘、騒がしい鐃鉢が鳴り響いているような様である。
主エホバの御名の無い人間ことば、愛の無いことば、主の霊によるのではない人間の知恵は、みな、そうだ。

私達は御霊に満たされる事を求めるべきであり、そして、愛を身に着けるべきである。

霊の風の吹くままに(ヨハネ3:1-15)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
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週報/メッセージ(説教)概要

 先週のペンテコステ礼拝につづき、今週もまた聖霊について学びたい。今回は、イエス様がニコデモと対話した場面から、御霊の私達に対する現れ方、および、私達が御霊によって生きる術を学びたい。

ニコデモは夜、イエス様の所に来た。彼はイエス様が神の元から来た教師である事を知っていたが、彼がイエス様を訪問した目的と理由をまだ言わない内に、イエス様はニコデモに言う。『よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生れなければ、神の国を「見る(エイドー:知る)ことはできない」。』(ヨハネ3:3)
イエス様は、なぜニコデモが訪ねて来たのかをご存知だった。3節と5節のイエス様の言葉に共通しているキーワードは、「神の国」である。ニコデモは、神の国について知りたくて来たのだ。彼はユダヤ人の教師でありながら、どうすれば神の国を見る事が出来るのか。どうすれば永遠のいのちを得られるのか、それを知らなかったが、イエス様は彼に言われた。神の国を見る(知る)ためには、新しく生まれなくてはならい、と。
新しく生まれる。ニコデモは母の胎に再び入って生まれ直す事かと思ったが、『イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。』(5節)
水と御霊によって生まれる。一体どういう事だろう、と人は思う。しかしイエス様の答えは、次の通りである。
『あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。「風(ニューマ:霊)」は思いのままに吹く。あなたはその「音(フォーネ:声)」を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。』(7-8節)

風は、存在するとは分かっていても見えず、ただ音が聞こえ、肌で感じ、そこにあるのだとわかる。「風の音」は「霊の声」とも訳せるが、それは耳で聞こえなくても、霊という受信体を持っている人には、理解できる。
人は、その仕組み・原理を知らないが、霊によって生まれた人は霊の声を理解し、そちらを優先して生きる。
つまりクリスチャンは、世の人には理解できない行動原理を持っており、それは霊から来るものである。
人はその行動原理を理解できないが、どういうわけだか成功するので、人々は驚く。
聖霊の風は、生来の生き方で行きていた人を造り変え、それも、色々な形で働く。ある人は見方が変わり、ある人は聞き方が変わり、ある人は心が、ある人は手足の行いが、ある人は言葉が変わる。あるいは、以前無かった従順さが現れたり、敬いが現れたり、喜べなかった事を喜べたり、感動しなかった事に感動する。
聖霊の風は、人を良い方向へと造り変えるが、「思いのままに吹く」ので、何にあらわれるのか分からない。
ただ、聖霊が流れ込んで来やすい傾向の人がいる。聖霊は、きよい霊であるので、自らをきよくする人すなわちよく悔い改める人・よくごめんなさいをする人に、よく働いて下さる。また、知恵と啓示の霊は、用いる気の無い人・流し出そうとしない人には、与えられない。聖霊は川のごとく流れ出していくもの(ヨハネ7:37-39)なので、流しだそうとしないでそのまま自分にとどめているなら、それは、死海のように腐ってしまう。
また、御霊に導かれる人は、御霊から聞くままを話す。事前に準備して話そうとしていた事は、いざその時、本人が全く準備していなかった言葉や行動が出てくるので、本人がびっくりすることがしきりにある。
『真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。』(ヨハネ16:13)
聖霊が伝えようとする時、そのことばは、私達のものではない。その時、私達が主人になってはいけない。
私達はその時スポークスマンであり、もしスポークスマンが自分で勝手に語り出したら、クビになってしまう。

ニコデモが求めていた「神の国(バシレイア・トゥ・セウ)」とは「神の支配領域」であり、神の統治が行き届く所である。それは、水と御霊によって生まれなければ、神の国を知る事も、入る事も出来ない。
永遠のいのちに入るためには、イエス様を信じる事が必要であり(15節)、御霊を受けるためには、悔い改め(メタノイア:方向転換)と、イエスの御名の中へのバプテスマ(浸し込まれ)が必要である。(使徒2:38)
イエス様は「不思議に思ってはならない」と言われた。いくら論理的に説明した所で、人の頭では理解できないからだ。パラグライダーはなぜ飛ぶのか、サーフィンはなぜ波の上を進むのか、それを楽しむ人は頭で理解しなくても、感覚で風をとらえるように、聖霊の風に乗る人も、理解から始めるのではなく、感じて体験し、体得するものだ。聖霊の風に吹かれ、御旨のままに造り変えられて行く皆さんでありますように!

わが友よ、わたしをあわれめ!わたしをあわれめ!(ヨブ記19章)
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ビルダデに対するヨブの答えが19章である。

ヨブ記19:1 そこでヨブは答えて言った、
19:2 「あなたがたはいつまでわたしを悩まし、/言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
19:3 あなたがたはすでに十度もわたしをはずかしめ、/わたしを悪くあしらってもなお恥じないのか。

ビルダデはただ罪の指摘をしたが、この時ヨブにとって必要なものは、罪定めではなく、憐れみだった。
ヨブは友人達が来るまでは、くちびるで罪を犯さなかったが、友人達が来てひたすら罪定めしてしまったために、ひねくれてしまった。

19:4 たといわたしが、まことにあやまったとしても、/そのあやまちは、わたし自身にとどまる。

そう、罪は、留まるのだ。
ヨブは当時の誰よりも罪を犯すことが少ない人だったかもしれない。しかしアダム以来、生来持った罪が、本人を責め立て、その罪から来る報酬である死を、誰も避けられない。

全ての人には罪がある。そしてその報いを受けなければならない。
ヨブは、たまたま他の人よりも罪が少なく、たまたま祝福されていたにすぎないが、実は彼さえも、罪の報酬をいつ受けてしまっても文句が言えない存在なのだ。

しかし、ヨブはそれを「不当」だと叫ぶ。

19:5 もしあなたがたが、/まことにわたしに向かって高ぶり、/わたしの恥を論じるならば、
19:6 『神がわたしをしえたげ、/その網でわたしを囲まれたのだ』と知るべきだ。
19:7 見よ、わたしが『暴虐』と叫んでも答えられず、/助けを呼び求めても、さばきはない。

ヨブは神に、「暴虐(カァマァス:間違っている, KJV:wrong)」と叫んだ。神よ、あなたが暴虐だ、間違っている、と。
そしてあなたは、何も答えない、沈黙している、と。
神は確かにこの時は沈黙していたように見えるかもしれないが、神は、いつまでも沈黙しておられるようなお方ではない。必ず正当なさばきをし、報いて下さるお方だ。

しかしヨブは、6節から13節まで、ずっと「彼(神)は」で始まる言葉で叫んでいる。
すなわち、神がわたしを塞がれ、わたしを苦しめた、という訴えがなされ、そして13節から20節までは、彼の周りにいた人間が、ことごとくヨブを厭い、嫌い、侮り、あざけり、そむいたという事を、訴えている。

19:13 彼はわたしの兄弟たちを/わたしから遠く離れさせられた。わたしを知る人々は全くわたしに疎遠になった。
19:14 わたしの親類および親しい友はわたしを見捨て、
19:15 わたしの家に宿る者はわたしを忘れ、/わたしのはしためらはわたしを他人のように思い、/わたしは彼らの目に他国人となった。
19:16 わたしがしもべを呼んでも、彼は答えず、/わたしは口をもって彼に請わなければならない。
19:17 わたしの息はわが妻にいとわれ、/わたしは同じ腹の子たちにきらわれる。
19:18 わらべたちさえもわたしを侮り、/わたしが起き上がれば、わたしをあざける。
19:19 親しい人々は皆わたしをいみきらい、/わたしの愛した人々はわたしにそむいた。

このようにヨブは、神から打たれ、友から身内から、妻からいとわれ、嫌われ、無視されてしまった事を嘆いた。
のみならず、ヨブ自身のからだそのものも、ヨブに敵対してしまっている。

19:20 わたしの骨は皮と肉につき、/わたしはわずかに歯の皮をもってのがれた。

このような状況のヨブに、一体、何が必要だろう。
それは、あわれみである。
ヨブはそれを求めて叫んだ。

19:21 わが友よ、「わたしをあわれめ、わたしをあわれめ(ハヌイ!ハヌイ!)」、/神のみ手がわたしを打ったからである。

ハヌイはハナン(憐れむ)の命令形)である。
わが友よ、わたしをあわれめ、わたしをあわれめ。
これこそ、ヨブが最も欲していたものである。

しかしこの言葉は、友人達にはむなしく響いた。
友は、憐れみではなく、相変わらず罪定めと空しいことわざで返したからだ。

神に打たれ、人にさげすまれ、あわれんでくれる友が、誰もいない事。
これこそ人にとって最も深刻な事態であり、人類の誰しもが最も恐れるべき事である。

神は、そんな人類に、何も助けずにただ沈黙しておられるだけなのだろうか?
否!
神は、そんな絶望でうめいている人間のために、まことの友となって下さる、神のひとり子であられるイエス様を遣わして下さった。

イエス様は、38年もの間病気で動けず、もはや誰も彼を助けず、誰も彼を訪ねなくなってもう久しくなってしまったしまったような人に、友となって下さるために、訪れて下さった。

ヨハネ5:6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
5:7 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
5:8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
5:9 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。

イエス様は彼をいやし、床を取り上げて歩かせて下さった。
同じように、ヨブも、やがて床を取り上げて歩き出す時が来る。
神は決して沈黙しっぱなしではないのだ。

この、38年臥せっていた人にとって、最も深刻な「よくない事」は、病気ではなく、友がいない事だった。
彼はそれを訴えたが、イエス様は、まことの友となって下さった。
しかも、友のために、いのちを捨ててくださった。

ヨハネ15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

ヨブの友人達は、ヨブの様を見て、ありもしない罪定めをした。
しかし、まことの友であられるイエス様の場合は、人の罪の身代わりとなっていのちを捨てて下さった。

ヨブは、あわれんでくれる友を求めたが、その叫びは、友人達に対してむなしく響いた。
しかし、私たちには、いるのだ!
弱く、罪の責め苦の中であえいでいる私たちを、知っておられ、叫びに耳を留め、いのちを投げ出すほどの素晴らしい友となって下さり、弁護者となって下さり、覆い、あがない、救って下さるお方、イエス・キリストが!

このイエス様の友となるためには、条件がある。それは私達が、イエス様が命じる事を行う事である。
『あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。』(ヨハネ15:14)

そして、イエス様の命じられる事は、以下である。

ヨハネ15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
・・・
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
15:17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

互いに愛し合う事。
これこそ、イエス様が友となって下さる条件であり、幸いが戻って祝福が返ってくる条件だ。
実際、ヨブは最終的に、彼の友人達のために執り成し祈った。
すると、祝福が倍になって帰ってきた。

ヨブ記42:9 そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。
42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。

しかし、19章時点では、激しい罪定めの糾弾し合いが、変わらずに展開されている。

ヨブ記19:22 あなたがたは、なにゆえ神のようにわたしを責め、/わたしの肉をもって満足しないのか。
19:23 どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように。どうか、わたしの言葉が、書物にしるされるように。
19:24 鉄の筆と鉛とをもって、/ながく岩に刻みつけられるように。

ヨブは自分の言葉が、永遠に書き記される事を、求めている。
求めずとも、神の御前において、私達の行いもそうであるし、心の動きも、全て、書き留められている。
そして、終わりの日に、申し開きをしなくてはならない。

マタイ12:34 おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。
12:35 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。
12:36 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。
12:37 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。

私達が地上でしたあらゆる行いが、あらゆる言葉が、あらゆる心で描いた事が、永遠に記録されるとしたら、それは絶望以外の何者もない。

しかし、私達が友となって下さるイエス様に助けを求め、彼が私達の弁護者となって下さるなら、私達が犯してきた罪の記録は、御前からなくされ、神はもはやその罪を思い出さないのだ。

旧約を見ると、アブラハムもサラもヤコブもダビデも、かなりえぐい罪を犯した事が詳細に記録されている。
しかし、新約においては、その罪は記録されておらず、ただ彼らが少しでも為した信仰に基づく良い行いを、大いに取り上げ、信仰の偉人に仕立て上げている。
私達も、そうなのだ。
キリストを信じて救われ、眠りについた者は、この地上における諸々の罪は思い出されず、むしろ、この地上において行った、ちょっとした信仰のわざが永遠に賞賛され、天国において永遠に生きる恵みが与えられている。
これこそ、莫大なあわれみである。
ヨブは友人達に、わたしをあわれめ!と叫んだが、神はそのまことの友・イエス様を通して、莫大なあわれみを注いで下さったのだ。

ヨブの時代、イエス様はいないはずなのに、しかし、どうもヨブは、この御方を知っているかのようである。

19:25 わたしは知る、/わたしをあがなう者は生きておられる、/後の日に彼は必ず地の上に立たれる。

本当に不思議である。
ヨブはかつて言った、彼の保証となって下さるお方がいると。また、その彼が、弁護してくれる、と。
さらには、彼をあがなう方は、生きておられ、そして後の日、その方は、地の上に立たれる、と言った。
確かにイエス様は、そのようなお方である。

エペソ1:7 わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。

イエス様こそ、その血によって贖って下さったお方。そしてその血によって、罪のゆるしを得た。
まさにヨブが望んだ通りのお方である。

19:26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、/わたしは肉を離れて神を見るであろう。
19:27 しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。

ヨブはさらに、彼自身が地上の肉の身体を離れた後、神を見る事になると言った。
それも、他の誰かではなく、わたしが直接、見る、と。

19:28 あなたがたがもし『われわれはどうして/彼を責めようか』と言い、/また『事の根源は彼のうちに見いだされる』/と言うならば、
19:29 つるぎを恐れよ、/怒りはつるぎの罰をきたらすからだ。これによって、あなたがたは、/さばきのあることを知るであろう」。

確かにヨブが言った通り、人は死んだ後、他の誰でもなく、「わたし自身」が神の御前に立たなければならない。
人を責め立て、あざけり、さばく者の座にいる者は、そのさばきの座においては逆にさばきにあうという事を、ヨブは、あたかも預言しているかのようである。

ヨブは、イエス様を知らないけれども、その心は、イエス様のご性質を求め、そのお方へと向かって行った。
彼の時代、当然イエス様は現れていないが、しかし彼は、イエス様の正確なご性質を持っておられるお方を求め、そしてその御方は「おられる」とはっきり告白した。
全て真理を求める人は、この御方を知らなくても、この御方を求めるようになるのだ。

ガラテヤ3:22 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
3:23 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

旧約の全ては、キリストへと導く養育係である。
ヨブは、諸々の苦難を通して、キリストを求めるように導かれたのだ。
そして今、私達は、キリストを知った以上、もはや養育係の元にはいない。

ガラテヤ3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。

今や、ヨブが切に求めた、救いの実体であられるキリストがおられ、この御方にあって、私達はあがないを受け、保護されている。
そしてさばきの日には、彼は弁護者として、私達の側に立って下さる。
このようにお膳立てしてくださった神の恵みは、なんと計り知れないものだろう。

ビルダデによる二回目の弁論 - 物事をややこしくしてしまう「目の中の梁」(ヨブ記18章)
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18章は、シュアハ人ビルダデによる第二回目の論議であるが、その内容は、実に単純明快、すなわち、悪人に対する因果応報である。

18:1 そこでシュヒびとビルダデは答えて言った、
18:2 「あなたは 屬い弔泙如廰◆峺斥佞砲錣覆鮴澆韻襪里」。「あなたはまず悟るがよい」、/それからわれわれは論じよう。

 屬い弔泙如廚箸いΩ斥奸ビルダデによる第一回論議(8章)も、その言葉で始まった。
ビルダデは、ヨブの論議および彼の友人達による、この不毛と見える議論に、さっさと終止符を打ちたいようである。
さっさとこの忌まわしいやり取りを終わりにしたいと、結論を急ぐあまり、語調を荒げ、単刀直入に相手を切るような言葉を発してしまい、しかし逆にそうやってもっと議論を白熱化させてしまう事は良くあるが、ビルダデは、まさにその罠に陥っている。

◆峺斥佞砲錣覆鮴澆韻襪里」、この「わな」と訳された語はヘブライ語でケネツ、「終わり」という意味であるが、アラビヤ語では「わな」という意味である故に、訳され方が分かれている。
新改訳では「けりをつける」、KJVでは「make an end」と訳されており、つまり、さっさとこの罠のような論議を脱したい、さっさと終わりにさせたいような雰囲気である。
そこでビルダデは、次の言葉を発する。
「あなたはまず悟るがよい」
相手に悟る事を要求しているが、有用な議論は、まず聞く事から始まるはずである。

ビルダデは、ヨブが神に「これでもか」とばかりに向き合っているのに「神を知らない者」よばわりし、ヨブが神が認めている義人であるにもかかわらず、5節以降で、悪人が受ける因果応報について、とうとうと語っている。
結局、聞いていないのだ。そして、口走りが過ぎるのだ。それゆえ、この長い不毛な論議が続いている。

ヨブ記18:3 なぜ、われわれは獣のように思われるのか。なぜ、あなたの目に愚かな者と見えるのか。
18:4 怒っておのが身を裂く者よ、/あなたのために地は捨てられるだろうか。岩はその所から移されるだろうか。

ビルダデはヨブを「怒っておのが身を裂く者」としている。
本当に、人は、見えないものである。自分こそが、そのことをしている者であり、そして自分こそが、相手を怒らせている事を。
彼らに、以下の御言葉を知って行うたしなみがあったら、状況は変わっていたかもしれない。

マタイ7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

ヨブ記において、物事をややこしくしている「梁」とは、自分が正しいという思いと、怒りの二つであろう。
それは、私達にも言える事だ。
相手はどうしてこうなのだろう、どうしてみんなは、私だけに態度が違うのだろう、と感じた時、自問自答すべきである。
自分の目に、梁があるのではなかろうか、と。
相手が100%悪い、自分は100%正しい、という思い込み。その無意識的な前提条件こそ、やっかいな梁である。

どうしたら、この梁を取り除く事が出来るだろうか。
ヤコブは言っている。

ヤコブ1:19 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。

まず、聞く事。語るにおそい事。怒るに、おそい事。
ヨブ記の4人は、まさにこれに欠けている。
そして私達も、これらに欠ける者であるとするなら、行く先々で波乱を起こし混乱を起こし、面倒くさい人だと嫌煙されてしまう。

ヤコブ1:20 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。

もし私達の目に、人の怒りという「梁」が入ったままであるなら、誰も神の義へと導けるものではない。
もし、人を「神の義」が支配する状態へと導きたいなら、または、自分を取り巻く状況に「神の義」の支配をもたらしたいなら、まず、自分の中にある「人の怒り」を取り除く事から始まり、そして「語るにおそく、怒るにおそく」する努力が必要なのだ。

1:21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

御言葉こそ、救う力がある、と書いてある。
自分がどのような霊的状況にあるのか、そのような立ち位置にあるのかは、御言葉というものさしで計ってこそ、正しく導き出せる。
そして御言葉こそ、自分の中にある梁の正体を照らしだす光なのだ。

1:22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
1:25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

完全な自由の律法、とわざわざ表現されている。なぜ単に「御言葉」ではなく、完全な自由の律法と表現したのか。
律法(トーラー)は613のするな・せよの命令集であり、聞くだけでも堅苦しく思えがちだが、それを守り行う先には、完全な自由があり、大きな祝福があるのだ。

1:26 もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。
1:27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

ヨブと友人達を見ていると、思えてくる。
彼ら、信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いている、と。
しかし私達自身こそ、この罠に陥らないよう、よくよく戒めるべきである。

ヨブ記18:5 悪しき者の光は消え、/その火の炎は光を放たず、
18:6 その天幕のうちの光は暗く、/彼の上のともしびは消える。
18:7 その力ある歩みはせばめられ、/その計りごとは彼を倒す。
18:8 彼は自分の足で網にかかり、/また落し穴の上を歩む。
18:9 わなは彼のかかとを捕え、/網わなは彼を捕える。
18:10 輪なわは彼を捕えるために地に隠され、/張り網は彼を捕えるために道に設けられる。
18:11 恐ろしい事が四方にあって彼を恐れさせ、/その歩みにしたがって彼を追う。
18:12 その力は飢え、/災は彼をつまずかすために備わっている。
18:13 その皮膚は病によって食いつくされ、/死のういごは彼の手足を食いつくす。
18:14 彼はその頼む所の天幕から引き離されて、/恐れの王のもとに追いやられる。
18:15 彼に属さない者が彼の天幕に住み、/硫黄が彼のすまいの上にまき散らされる。
18:16 下ではその根が枯れ、/上ではその枝が切られる。
18:17 彼の形見は地から滅び、/彼の名はちまたに消える。
18:18 彼は光からやみに追いやられ、/世の中から追い出される。
18:19 彼はその民の中に子もなく、孫もなく、/彼のすみかには、ひとりも生き残る者はない。
18:20 西の者は彼の日について驚き、/東の者はおじ恐れる。

ビルダデは5節からとうとうと「悪い者はこうなる」「悪い者はこんなに酷い目にあう」と述べたてており、そして結論は以下の言葉である。

18:21 まことに、悪しき者のすまいはこのようであり、/神を知らない者の所はこのようである」。

彼は、悪人と決めてかかって、とうとうと語ったが、最終的に神からよしと認められたのは、ヨブのほうだった。
私達はこの事から戒めを受けるべきである。
自分の目に、梁がないか。
すなわち、人の怒りや自己義という梁によって見えない状態になっていないかを。

保証となって下さるお方が無いゆえに絶望するヨブと、そのお方がおられる故に希望がある私達(ヨブ記17章)
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ヨブは引き続き、神からも友人達からも見捨てられた心情を吐露する。

17:1 わが霊は破れ、わが日は尽き、/墓はわたしを待っている。
17:2 まことにあざける者どもはわたしのまわりにあり、/わが目は常に彼らの侮りを見る。
17:3 どうか、あなた自ら保証となられるように。ほかにだれがわたしのために/保証となってくれる者があろうか。

この3節の「保証となられるように」は、原文は「保証する」の命令形であり、直訳は「どうか置いて下さい。私を保証して下さい。あなたと共に」となる。
ヨブははっきりと、神に、自分の保証を求めている。
しかしその声は虚しく響き、ヨブの身を担保して下さる方が誰もいないので、ヨブの心は再び闇の中へ落ち込んで行く。

いかにヨブのような義人であったとしても、神と人との間に立って弁護し、執り成してくれるお方がいないなら、ただ絶望の闇に落ち込んで行く以外に無いのだ。

17:6 彼はわたしを民の笑い草とされた。わたしは顔につばきされる者となる。
17:7 わが目は憂いによってかすみ、/わがからだはすべて影のようだ。
17:8 正しい者はこれに驚き、/罪なき者は神を信ぜぬ者に対して憤る。
17:9 それでもなお正しい者はその道を堅く保ち、/潔い手をもつ者はますます力を得る。

ここのヨブの叫びを見ると、あたかもイエス様が十字架の受難の中で叫んでいるかのような内容だ。
そう、イエス様は私達人間の代わりに、つばきかけられ、その目は憂いによってかすみ、そのからだは影のようになり、弁護される事なく、容赦なく十字架上で裁かれたのだ。

本来、私達こそ罪人であり、どんなに義人ぶったとしても、罪がある。
元々は、ヨブが絶望したように「神に捨てられた」「保証となってくれる人がいない」と言って絶望しなくてはならない者である。
しかし、イエス様が身代わりになって、十字架上で神に捨てられ、「父よ、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」と叫ばれた。
だから私達は、ヨブのように絶望する必要は無い。
イエス様が、私達の身代わりとなって捨てられて、死んで下さり、陰府へと下り、そしてよみがえり、今や、栄光の父の右に立って、私達の事を執り成しておられるのだから。

1ヨハネ2:1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために「助け主(パラクレートス:弁護者)」、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。
2:2 彼は、わたしたちの罪のための、「あがないの供え物(ヒラステリオン:贖罪蓋)」である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

「贖罪蓋」とは、契約の箱を覆う蓋であり、それが無いなら、契約の箱は外界へ開かれっぱなしであり、そうすると、罪有る人間は、神の「聖」に打たれて死んでしまう以外に無い。(1サムエル記6:19)
今や、イエス様が贖罪蓋となり、私達の罪を覆い、神と人との間の仲保者となって下さったゆえに、私達はイエス様ゆえに、自分の罪に打たれる事がないのだ。
ヨブには、それが無いという事で、絶望するしかなかった。

さらに私達を弁護して下さるパラクレートスが、ほかにおられる。

ヨハネ14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

イエス様が復活後、御父のところに上り、そこからペンテコステの日に送って下さった助け主、聖霊が、私達に留まり、それも、いつでも私達のうちにいて下さる。

ヨハネ14:18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
14:19 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
14:20 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。

聖霊は私達と共におられ、そしてイエス様を証し、御父を証しして下さる。
だから、聖霊を否定する者は、御子も、御父をも否定する者であり、それは決して赦されないのだ。

こうして聖霊は、私達の弁護者となり、助け主となり、御子キリストを証するお方、御父を証するお方、である。
聖霊は私達が御国を受け継ぐ保証であられ、いつまでも共におられ、私達を生かし、導いて下さるお方である。

このように、私達はヨブのように、自分を保証して下さるお方がいないと言って絶望する必要が、全くなくなった。私達を保証して下さるお方、すなわち、私達の身を担保するために、身代わりになって十字架につけられ復活された主イエス様がおられ、そして、私達を弁護する助け主・聖霊がおられるからである。
この助けが得られている私達キリスト者は、どれほど素晴らしい中を、生かされていることだろう。

説教において必要なもの:聖霊の促しと、御言葉と、イエスのあかし(使徒2:14-36)
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弟子達は「異なる舌(ヘテロス・グロッサ)」が与えられ、口が全く変わってしまった。
彼らは確かに、他国人にも分かる言葉が与えられたが、彼らの言葉を聞いた、複数の言語を話す人達が一様にその言葉を聞いた時の感想は、彼らは「神の大きなみわざを語った」という事だった。
弟子達120名が、それぞれ別の言葉で話したのに、一致している事は、神の大きなみわざを語った事である。
これらの事は、人間技では有り得ない。
しかし、そのようなしるしが見せられても、自分になっとくの行く説明を自分でつけようとして、しかも、けちをつける者も出てくる。

使徒2:13  しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。

そこでペテロは、十一人の者と共に、聖霊に「押し出され(ヒステミー)」、駆り立てられて、語り出す。
聖霊のわざは、いかんともしがたい衝動に駆られて語り、また行動するものだが、聖霊に押し出された言葉には、必ず、イエス・キリストの証があり、イエス・キリストを栄光化する言葉であう。
またそのわざには、必ず、イエス・キリストのご性質が現れる。
次のように書かれてあるからである。

ヨハネ16:13  けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
Joh 16:14  御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
Joh 16:15  父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。

1ヨハネ4:1  愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。
1Jn 4:2  あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、
1Jn 4:3  イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。

ペテロは言った。
使徒2:15 今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。

そもそも、起こった出来事を見れば酒を飲んでではない事は明らかである。
彼らは風の大音響のために集まったのだし、色々な国の言葉を一瞬で身に付ける事も出来ないし、神様のおおいなるみわざは酔っ払って話せる事ではない。

ペテロはこの大きな奇跡よりも、むしろ、ナザレ人イエスというお方について、時間を割いて丁寧にメッセージし出す。
聖霊の特徴、それは、イエスのあかしである。
ペテロは、ヨエル書の言葉を引用し、この出来事は預言の成就であると宣言する。(16-21節)
それに続き、ペテロは、ナザレ人イエス・キリストについての説教に入る。
教会の説教には必ず、御言葉の引用とイエスのあかしが必要だが、その力の根源は、聖霊が促すものである。

2:22 イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざ(デュナミス)と奇跡(テラス)としるし(セメイオン)とにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。

ペテロが語っている相手の人達は、祭りに集っていた人達である。
彼らが前回エルサレムに来た時は、過越祭であり、ちょうどその最中にイエス様は十字架につけられたので、彼らは、イエス様見ていたのだ。
イエス様は、数々の力あるわざ(デュナミス)と奇跡(テラス)としるし(セメイオン)、これら三つを通し、神から遣わされたお方である事を、示された。

2:23 このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。
2:24 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。

そのイエス様を、あなた方が、十字架につけたのだとペテロは歯に衣着せずに宣言し、そして、その復活された事を宣言する。

2:25 ダビデはイエスについてこう言っている、/『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、/わたしの右にいて下さるからである。
2:26 それゆえ、わたしの心は楽しみ、/わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、/あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない/であろう。
2:28 あなたは、いのちの道をわたしに示し、/み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであ/ろう』。
2:29 兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。
2:30 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、
2:31 キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。

すなわち、ダビデが言っていた「あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、/あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない/であろう。」という言葉は、ダビデ自身がダビデの事を語ったのではない、事実彼は死んだ、だからこの事は、ダビデが「主」と告白したお方、すなわち、イエス様の事を語ったのだ、と論破したのだ。

2:32 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。
2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。

ペテロは「あなたがたが現に見聞きしているとおり」と言った。
現に見ている出来事なのだから、彼らには弁解の余地は無い。
ヨエル書からこの出来事の説明がつき、ダビデの詩編から主キリストの復活を論破し、そして目の前に起きたこのしるし、それらをつきつけて、そしてダメ押しをする。

2:36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。

あなた方が、十字架につけた。
確かに、これを聞いていた群衆の中には、イエス様を十字架につけろと叫んだ人達もいただろう。
しかし実は、21世紀を生きる「わたしたち」も、イエス様を十字架につけたのだ。
私達人間には全て罪があり、そして彼は、私達の罪のゆえに刺し通されたからだ。(イザヤ53章)

2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。

聖霊に押し出された人のメッセージは、人の心を刺す。
そして悔い改めへと導く。

伝道とは、メッセージとは、人が良く考えだして語るものにあらず、聖霊に押し出されて語るからこそ、力があり、人をゆり動かし、心を刺し、そして造り変えるパワー(デュナミス)があるのだ。
私達も、主の働きのために、聖霊を求めるべきである。

聖霊に満たされた人の特徴:ことばが清い(使徒2:1-14)
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昨日のペンテコステ礼拝に続き、聖霊の働きについて、今回は特に、その聖霊の特徴である「舌」「ことば」がきよく変えられる事について、見ていきたい。

使徒2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
2:3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

「他国の言葉」はヘテロス・グロッサ、すなわち原意は「異なる舌」である。
炎のような舌でもって言葉が造り変えられる。彼らは、どのような言葉を語ったのか。

2:5 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
2:6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
2:7 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。
2:8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。

彼らはなんと、諸々の言語の言葉を、明瞭に、意味が伝わるように、語りだした。
その語った内容は、何だったか。

2:9 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
2:11 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。

彼らは、色々な国語で、「神の大きな働き」を述べたのだ。
聖霊充満の人の特徴は、神の大きな働きを伝える事、そしてその大きな目的は、イエス様があらかじめ約束された通り「イエス・キリストの証人となる」事である。

それにしてもどうして、世界中に言語がこうも沢山あるのだろう。
それは、バベルの塔の事件ゆえだ。

創世記11:1 全地は同じ発音、同じ言葉であった。
11:2 時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。
11:3 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
11:4 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

この町の王は、ニムロデである。彼は主に敵対して逆らう者だった。
創世記10:8 クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。
10:9 彼は主の「前に(before, against)」力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。

人々の上に君臨し、高くなろうとする性質、それはサタンの性質そのものである。(イザヤ14:12-15)
このように、ニムロデが君臨し、多くの人々を従えて神に敵対する者だったため、主が特別に手を下された。

創世記11:5 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、
11:6 言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。
11:7 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。
11:8 こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
11:9 これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。

主は「われわれ」と言われた。
つまり、父・子・御霊なる神が、一致して人に敵対し、人の言葉を混乱させ、高ぶって神に敵対できなくさせたのである。

そして時いたり、神はアブラハムを召して一つの民族とし、そうして起こしたイスラエル民族に、あのペンテコステと同じ日、シナイ山においてトーラーを、神の御言葉を授けられた。
それにより、人には神のことば・神の基準には、決して従えないような「罪」がある事が分かり、そうして、救われるお方を求めるようになる。

そして時至って、「ことば」なるお方・キリストが、人となって世に降りて来られた。
そして、このお方を信じ、そのの血によって贖われた人々は、あの聖霊降臨日、炎の分かれた舌に息吹かれ、舌が変えられ、国々の言葉の壁を超えて神の栄光を語り告げるようになったのだ。

使徒2:14 そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。

ペテロは十一人の者と共に「立ちあがり」と書いてあるが、ここはヒステミー(押し出す)の受動態が使われているので、「押し出された」「立ち上がらされた」である。
聖霊は、人を駆り立て、押し出す。
聖霊に押し出された主の働き人は、無理やり、嫌々ながら、するのではない。
押し出されて、せざるを得ないのである。

ペテロはペンテコステ以前は、くちびるが回って過ちを犯す人だった。
変貌山においても、あの、鶏が啼いた晩においても。
しかし彼のくちびるは、変えられた。ちょうどイザヤがそうだったように。

イザヤ6:5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
6:6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、
6:7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。
6:8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

イザヤは祭壇の炭火で、くちびるが清められた。
そして、御言葉を伝えるに値する者となり、主から使わされた。
あの、かつてはくちびるが回って過ちを犯してしまっていたペテロも、聖なる炎でくちびるが清められた。その日、彼は押し出されて説教し、その結果、3000人もの人が救われた。

聖霊によって、くちびるが清められないなら、大いに用いられる事はない。
有名人になればなる程、くちびるに気をつけなくてはならないように。

主はこの時代、くちびるがきよい、用いられるべき器が、少ない、と嘆いておられるのではなかろうか。
だから私達は、用いられるように、と祈るよりも前に、まず、自分の口が人を傷つけたり行ってはならない言葉を滑らしたり、という口が、聖なる火で焼かれ、イザヤのように、ペテロのように清められるよう、祈り求めるべきだ。

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