メッセージ - 201804のエントリ

主の目に悪を行い、バビロン捕囚へと転げ落ちて行くエホアハズ、エホヤキム、エホヤキン(2歴代誌36:1-10)
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いよいよ歴代誌の最終章である。
最後の善王であったヨシヤ王の突然の死の後、イスラエルは坂道をころげ落ちるような落ちぶれ方で衰退して行く。

36:1 国の民はヨシヤの子エホアハズを立て、エルサレムでその父に代って王とならせた。
36:2 エホアハズは王となった時二十三歳で、エルサレムで三月の間、世を治めたが、
36:3 エジプトの王はエルサレムで彼を廃し、かつ銀百タラント、金一タラントの罰金を国に課した。
36:4 そしてエジプト王は彼の兄弟エリアキムをユダとエルサレムの王とし、その名をエホヤキムと改め、その兄弟エホアハズを捕えてエジプトへ引いて行った。

歴代誌ではエホアハズに関しては良いとも悪いとも書いていないが、彼は主の目に悪を行った事が2列王記23:32に記されている。
良い王であった父の道に習わず、早速悪を行ったエホアハズの治世は、わずか3ヶ月で、エジプトにあっさり敗北し捕らえ移されて行ってしまった。
そして、その兄弟エホヤキムがエジプトの傀儡となって王となる。

36:5 エホヤキムは王となった時二十五歳で、十一年の間エルサレムで世を治めた。彼はその神、主の前に悪を行った。

エホヤキムの治世についてはエレミヤ書に詳しいが、その特徴は、べったりな親エジプト派であり、父ヨシヤの改革をひっくり返し、国全体を再び偶像礼拝へと引き戻してしまった。
彼はエジプトにべったりであったが、その統治の間にバビロンが力を蓄え、結局、エジプトもろともバビロンに圧倒される事になってしまう。

36:6 時に、バビロンの王ネブカデネザルが彼の所に攻め上り、彼をバビロンに引いて行こうとして、かせにつないだ。
36:7 ネブカデネザルはまた主の宮の器物をバビロンに運んで行って、バビロンにあるその宮殿にそれをおさめた。

この時のバビロン侵攻により、神殿の器類の一部と、何人かのユダヤ人が捕囚されて行った。いわゆる第一次バビロン捕囚である。
この時、少年であったダニエルもバビロンへ捕らえ移されて行った。
神が預言者エレミヤを通して言われていた事は始終、主に立ち返る事と、主が主権を渡されたバビロンへ従属するべき事であった。

エレミヤ27:5 わたしは大いなる力と伸べた腕とをもって、地と地の上にいる人と獣とをつくった者である。そして心のままに地を人に与える。
27:6 いまわたしはこのすべての国を、わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデネザルの手に与え、また野の獣をも彼に与えて彼に仕えさせた。
27:7 彼の地に時がくるまで、万国民は彼とその子とその孫に仕える。その時がくるならば、多くの国と大いなる王たちとが彼を自分の奴隷にする。
27:8 バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、バビロンの王のくびきを自分の首に負わない民と国とは、わたしがつるぎと、ききんと、疫病をもって罰し、ついには彼の手によってことごとく滅ぼすと主は言われる。
27:9 それで、あなたがたの預言者、占い師、夢みる者、法術師、魔法使が、「あなたがたはバビロンの王に仕えることはない」と言っても、聞いてはならない。
27:10 彼らはあなたがたに偽りを預言して、あなたがたを自分の国から遠く離れさせ、わたしに、あなたがたを追い出してあなたがたを滅ぼさせるのである。
27:11 しかしバビロンの王のくびきを首に負って、彼に仕える国民を、わたしはその故国に残らせ、それを耕して、そこに住まわせると主は言われる』」。

主がエレミヤを通して語られたにもかかわらず、ユダの王とその民は聞かず、偽預言者や占い師達の、楽観的で軽率な言葉を採用してしまい、ますます傷口を大きくしてしまう。

2列王記24:1 エホヤキムの世にバビロンの王ネブカデネザルが上ってきたので、エホヤキムは彼に隷属して三年を経たが、ついに翻って彼にそむいた。
24:2 主はカルデヤびとの略奪隊、スリヤびとの略奪隊、モアブびとの略奪隊、アンモンびとの略奪隊をつかわしてエホヤキムを攻められた。すなわちユダを攻め、これを滅ぼすために彼らをつかわされた。主がそのしもべである預言者たちによって語られた言葉のとおりである。

エホヤキムは偽預言者や占い師達にそそのかされ、バビロンに反逆した結果、バビロンからのみならず、シリヤ、モアブ、アンモンから徹底的に略奪されてしまった。

36:8 エホヤキムのその他の行為、その行った憎むべき事および彼がひそかに行った事などは、イスラエルとユダの列王の書にしるされている。その子エホヤキンが彼に代って王となった。
36:9 エホヤキンは王となった時八歳で、エルサレムで三月と十日の間、世を治め、主の前に悪を行った。
36:10 年が改まり春になって、ネブカデネザル王は人をつかわして、彼を主の宮の尊い器物と共にバビロンに連れて行かせ、その兄弟ゼデキヤをユダとエルサレムの王とした。

エホヤキンはエレミヤ書ではエコヌヤ、マタイではエコニヤと記されている。
彼についても、この書はわずかに記すのみであるが、第二次バビロン捕囚と呼ばれる事件がこの時代に起こった。
世界史として見るなら、小国イスラエルが、大国バビロンに制圧され翻弄された、という所だが、しかしこれは全て主の主権の元に行われた事である。

ダニエル1:1 ユダの王エホヤキムの治世の第三年にバビロンの王ネブカデネザルはエルサレムにきて、これを攻め囲んだ。
1:2 主はユダの王エホヤキムと、神の宮の器具の一部とを、彼の手に「わたされた(ヴァイッテン・アドナイ:主が渡された)」ので、彼はこれをシナルの地の自分の神の宮に携えゆき、その器具を自分の神の蔵に納めた。

ヴァイッテン・アドナイ。主が渡された。バビロンの手に、神殿の尊い器類を。
主は、主を敬わない事を徹底して貫く世代を捨て、主の尊い器類をその者達の手から奪い、主が定めた者の所へと委ねる。
歴代誌の出来事、旧約の全ての出来事は全て、現代を生きる私達への警告である。
私達は主の言葉に逆らい災いに遭う者ではなく、進んで主の言葉に喜んで従い、喜んで祝福を受け続ける者であるべきだ。

無駄な争いに首を突っ込んで、あまりにあっけなく死んでしまったヨシヤ王(2歴代誌35:1-19)
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主の御前に良い事を行い、優れた過越のいけにえを捧げ、素晴らしい賛辞が与えられたヨシヤ王であったが、その最後はあまりにも突然訪れた。
彼が死んだきっかけは、関わるべきでない争いに首を突っ込んだ事によった。

2歴代誌35:20 このようにヨシヤが宮を整えた後、エジプトの王ネコはユフラテ川のほとりにあるカルケミシで戦うために上ってきたので、ヨシヤはこれを防ごうと出て行った。
35:21 しかしネコは彼に使者をつかわして言った、「ユダの王よ、われわれはお互に何のあずかるところがありますか。わたしはきょう、あなたを攻めようとして来たのではありません。わたしの敵の家を攻めようとして来たのです。神がわたしに命じて急がせています。わたしと共におられる神に逆らうことをやめなさい。そうしないと、神はあなたを滅ぼされるでしょう」。

箴言に記されている。
箴言26:17 自分に関係のない争いにたずさわる者は、通りすぎる犬の耳をとらえる者のようだ。

エジプトはなぜこの時、行軍していたのか。それは当時の大国、アッシリヤ、エジプト、バビロンの3国間の事情による。

当時アッシリヤは力衰え,新興のバビロニヤがこれを西北方へ押しやっていた.アッシリヤ王とその軍隊はバビロニヤ軍に追われ,ユーフラテス川上流のカルケミシュまで追い詰められた.このアッシリヤへの援軍を率い〈エジプトの王ネコ〉(20)が北上するという情勢の中で,それを阻止するためにヨシヤは軍を率いて〈メギドの平地〉(22)でエジプト軍に戦いを挑んだ.ネコは「ユダを攻めるのではないから,軍を引け」と忠告したが,ヨシヤは聞き入れず,この戦いで彼は戦死する(20‐24)(聖書注解)

エジプトの王は「神(エローヒム)」の名を出して、この戦いは神が命じられた戦いである、あなたは関わるべきでない、と言った。

35:22 しかしヨシヤは引き返すことを好まず、かえって彼と戦うために、姿を変え、神の口から出たネコの言葉を聞きいれず、行ってメギドの谷で戦ったが、

歴代誌の筆者は、「神の口から出たネコの言葉を聞きいれず」と書いた。
ネコは当然、エジプトの神の事を言ったのであろうが、しかし、この戦いに関わってはならない、というのは、まことの神からの言葉であったのだ。
私達はどのように、まことの神の言葉を判別すれば良いのだろう。
現代の私達は、御言葉に聞くべきである。

ヨシヤには預言者がいたのに、預言者に聞かなかった。
また、祭司がいたのに、祭司にも聞かなかった。
そして、御言葉があったのに、御言葉にも聞かなかった。
もし上のどれかに聞いていれば、この戦いに関わってはならない事は、明らかに示されていただろう。

エジプトは「イスラエルから遠く離れている町々」に当たるため、戦いを仕掛けるとするなら、申命記20:10-15節の御言葉を適用すべきであった。

申命記20:10 一つの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならない。
20:11 もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。
20:12 もし穏やかに降服せず、戦おうとするならば、あなたはそれを攻めなければならない。
20:13 そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。
20:14 ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主が賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。
20:15 遠く離れている町々、すなわちこれらの国々に属さない町々には、すべてこのようにしなければならない。

戦うべきタイミングは、13節にある通り「あなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時」である。
主が敵を「あなたの手に渡す」と宣言されるまでは、戦いを仕掛けてはならないのに、ヨシヤは伺う事をせず、戦いにさっさと出てしまった。

35:23 射手の者どもがヨシヤを射あてたので、王はその家来たちに、「わたしを助け出せ。わたしはひどく傷ついた」と言った。
35:24 そこで家来たちは彼を車から助け出し、王のもっていた第二の車に乗せてエルサレムにつれて行ったが、ついに死んだので、その先祖の墓にこれを葬った。そしてユダとエルサレムは皆ヨシヤのために悲しんだ。

あの最大の賛辞が与えられたヨシヤ王の、まことに、あっけない死に方であった。
その原因は、無駄な争いに首を突っ込んだ事によった。
主が私達に望んでおられる事は、柔和な者、平和をつくる者となる事である。

マタイ5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
逆に読むなら、喧嘩っ早い者は災いである、彼らは地を受け継げない、あるいは、地から吐き出されてしまう、という事か。

マタイ5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
逆に読むなら、争いをつくり出す人達は災いである、彼らは神の子とは呼ばれない、あるいは、悪魔の子と呼ばれるであろう、という事か。

35:25 時にエレミヤはヨシヤのために哀歌を作った。歌うたう男、歌うたう女は今日に至るまで、その哀歌のうちにヨシヤのことを述べ、イスラエルのうちにこれを例とした。これは哀歌のうちにしるされている。
35:26 ヨシヤのその他の行為、主の律法にしるされた所に従って行った徳行、
35:27 およびその始終の行いなどは、イスラエルとユダの列王の書にしるされている。

彼の死は、本当に人々に惜しまれ、その哀歌は「今日に至るまで」となえられた。
この歴代誌の出来事を、私達は教訓として肝に命じておくべきである。
いかに良い行いを積み、いかに素晴らしい業績を残した偉大な王と言えども、主の命令を離れ、むやみに戦うなら、あっさりと命を落としてしまうのだ。
つまらない争い事に首をつっこんで、せっかく今まで積み上げて来た業績をあっさり台無しにする事なく、平和な者として神の子と呼ばれ、柔和な者として多くの地を相続する私達でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

罪と死の問題を打ち破る鍵(1列王記17:17-24)
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17:17 これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えたので、
17:18 彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。

ききんの時代、最後の食料をささげて預言者を養ったやもめは、尽きる事がなくなったその食料によって、自身も、息子も、生きながらえていた。
それなのに、子は病気になって死んでしまった。
生かすための奇跡が起きていた所に、死がおとずれてしまう。彼女のみならず、私達も「なぜ」と思う。
なぜこのような事が起きるのか。イエス様の言葉にヒントがある。

『姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。』(ヨハネ11:3-6)

イエス様は、愛しておられるラザロが病気であると聞いたのに、すぐに癒やしには行かず、あえて、なお数日滞在された。
それでラザロは、イエス様が行かないままに死んでしまうのだが、イエス様はなぜ敢えてそのままにしておかれたのか。
その答えは、人々が神の栄光を見るため、また、人の子が、それによって栄光を受けるためである。(ヨハネ11:4)
結局、やもめの子は生き返らされたが、それによって預言者エリヤが神の人である事、そして、預言者の口にある主の言葉が真実である事を、人々が知った。(1列王記17:24)

なぜこの事が起きたのか、という事の理由のもう一つは、罪の問題を思い起こさせるためである。
彼女は「あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」と言ったが、彼女はこの原因を、罪、と認識していた。
そう、干ばつが起きたそもそもの原因は、イスラエルの罪ゆえであった。しかしイスラエルの王アハブや多くの人々は、それを自分の罪の故とは思わず、エリヤのせいにして、エリヤを指名手配していた。
しかし彼女のように、誰か他の人や世情から見出そうとするのではなく、自分の内から見出そうという性質があった。そのように自分の罪や弱さを認める人は、救いから遠くはない。

そしてさらにもう一つ、主は交わり(コイノニア)を通して働かれる事を知るためにである。
主から日ごとに与えられる食料によって預言者を養っていた彼女は、この罪と死の問題を預言者の所へ持って行った。

17:19 エリヤは彼女に言った、「子をわたしによこしなさい」。そして彼女のふところから子供を取り、自分のいる屋上のへやへかかえて上り、自分の寝台に寝かせ、

彼女は、その子が病の間も、死んだ後も、その子をずっと「ふところ」に抱えていた。
彼女は息子が死んで、ようやくふところからその子を手放し、エリヤへと渡した。
私達も罪と死の問題を、もはや解決不能になるまで自分のふところにかかえて自分で何とかしようとする所があるが、その時こそ、手遅れになる前に信仰者の元へ持っていくべきである。

『信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。』(ヤコブ5:15-18)

罪の問題、死の問題。人類全体はそれによって支配されている。
しかし、コイノニアの交わりの中では、自分よりも信仰のある人、自分よりも義人である人に、祈ってもらう事ができるのだ。
『預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。』(マタイ10:41)
主は兄弟姉妹の交わり(コイノニア)の内に、永遠の祝福を命じられた。(詩篇133篇)

17:20 主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。
17:21 そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。
17:22 主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。

エリヤは必死に祈って、三度その子の上に伏せって、ようやく祈りに答えられたが、イエス様がラザロをよみがえらせる時はエリヤのようでなく確信に満ち満ちており、ただ、祈りを聞いて下さった事への感謝と、権威ある「命令」だけがあった。
エリヤのような信仰の先輩を頼りとする事は、確かに有用だが、最も有用な事は、完全なる主、イエス・キリストに直接お願いする事である。

奇跡的に生かされていたのに、奪われ、そして再び、主にあって取り戻す。
これら一連の事が起きるのは、神が遣わされた者は一体誰であるのかを、人々が真に知って彼を信じるため、そして、神の栄光が現れるためである。

17:23 エリヤはその子供を取って屋上のへやから家の中につれて降り、その母にわたして言った、「ごらんなさい。あなたの子は生きかえりました」。
17:24 女はエリヤに言った、「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました」。

彼女はこの一連の事を通して、さらに深く知った。
エリヤこそ、まことに神から遣わされた人であり、彼をとおして為された事は、主のものである事を。

世の中全体に、罪の問題があり、死の問題がある。
しかし、それらの問題に勝利するのは、個人個人の信仰告白であり、そしてその罪と死の問題を打ち破る鍵を、主は、教会に与えられた。

マタイ16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
16:19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

歴代の王の中で最も優れた過越祭を捧げたヨシヤ王(2歴代誌35:1-19)
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モーセの律法を発見し、その内容におののいたヨシヤ王は、ますます主に対する熱心を燃え立たせ、素晴らしい過越祭を捧げる。

35:1 ヨシヤはエルサレムで主に過越の祭を行った。すなわち正月の十四日に過越の小羊をほふらせ、
35:2 祭司にその職務をとり行わせ、彼らを励まして主の宮の務をさせ、
35:3 また主の聖なる者となってすべてのイスラエルびとを教えるレビびとに言った、「あなたがたはイスラエルの王ダビデの子ソロモンの建てた宮に、聖なる箱を置きなさい。
・・・
35:6 あなたがたは過越の小羊をほふり、身を清め、あなたがたの兄弟のために備えをし、モーセが伝えた主の言葉にしたがって行いなさい」。

彼は祭司やレビ人に「モーセが伝えた主の言葉にしたがって行いなさい」と命じた。
すなわち、主の言葉どおりに、である。
その時、モーセの律法の書が発見されたばかりで、その写しも無かったと思われる。
それでも彼らは「その通り」を行おうと努めた。主は、そんな彼らを助けて下さる。

35:7 ヨシヤは、小羊および子やぎを民の人々に贈った。これは皆その所にいるすべての人のための過越の供え物であって、その数三万、また雄牛三千を贈った。それらは王の所有から出したのである。
35:8 そのつかさたちも民と祭司とレビびとに真心から贈った。また神の宮のつかさたちヒルキヤ、ゼカリヤ、エヒエルも小羊と子やぎ二千六百頭、牛三百頭を祭司に与えて過越の供え物とした。

ヨシヤ自身も、民のつかさたちも、長である人々も、真心から過越のための捧げものを捧げた。

35:9 またレビびとの長である人々すなわちコナニヤおよびその兄弟シマヤ、ネタンエルならびにハシャビヤ、エイエル、ヨザバデなども小羊と子やぎ五千頭、牛五百頭をレビびとに贈って過越の供え物とした。
35:10 このように勤めのことが備わったので、王の命に従って祭司たちはその持ち場に立ち、レビびとはその班に従って仕え、
35:11 やがて過越の小羊がほふられたので、祭司はその血を受け取って注いだ。レビびとはその皮をはいだ。

かなりのいけにえの数であり、しかも何十年ぶりかの務めである。
その血を注いだり、皮をはいだりする事にとても骨折れたであろうが、それでも、彼らは主のために行った。

35:12 それから燔祭の物をとり分け、それを民の人々の氏族の区分に従って渡し、主にささげさせた。これはモーセの書にしるされたとおりである。また牛をもこのようにした。

再び「モーセの書にしるされたとおり」という言葉が示された。
この、「主の言葉どおり行う事」こそ、何より大事である。
出エジプト記の最終章、40章には、「主がモーセに命じられたとおりである」という言葉が8度も出てくるが、主に命じられた事を行うこと7度、8度と人の側が行う結果、主の栄光の雲が幕屋に満ち、主のきわめて濃厚な臨在が現れた。
私達もこのように、主の言葉どおりに行う事が7度8度満ちるなら、私達の生活に、仕事場に、家庭に、主の濃厚な臨在が現れるのだ。

35:18 預言者サムエルの日からこのかた、イスラエルでこのような過越の祭を行ったことはなかった。またイスラエルの諸王のうちには、ヨシヤが、祭司、レビびと、ならびにそこに来たユダとイスラエルのすべての人々、およびエルサレムの住民と共に行ったような過越の祭を行った者はひとりもなかった。
35:19 この過越の祭はヨシヤの治世の第十八年に行われた。

預言者サムエルの時代からこのかた、である。
サムエルはサウルに油を注いでイスラエル最初の王とし、またダビデにも油を注いだキングメーカーである。
つまり、歴代の王の中で、ヨシヤは、最も優れた過越祭を捧げたのだ。

御言葉が少ない中でも御言葉のとおりを行おうという熱心ゆえに、ヨシヤ王に、最大の賛辞が与えられたのだ。
私達も主に対する熱心を、「誤った熱心」として空回りする事なく、「主の御言葉のとおり行う」という事に向けるなら、主から栄誉をいただく事が出来るのだ。

「リション(ראשׁון)」法則(1列王記17:8-16)
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週報/メッセージ(説教)概要

 私の人生、何故か真っ直ぐには進まないで、いつもでこぼこ道を進んでいるようで、疲れる。というような事は無いだろうか。物事には優先順位があり、その優先順位の最初(ファースト)を間違えると、あたかも、最初のボタンをかけ間違えて着てしまった服のように、非常にちぐはぐになってしまう。ファーストを正しく行うなら、続くセカンド、サードは全てうまく行く。今回、人生の「ファースト」をどう据えるべきか、学びたい。

「ファースト」「まず」を、ヘブライ語では「リション(ראשׁון)」という。神の国の事を「リション」にすれば、あとは神様が全部、責任取って下さり、そうすれば人が切望する「食べもの」「着るもの」などの”第二、第三”は、加えて与えられる(マタイ6:33)。世の中、神の国を第一とする神の民は、「上」になるように出来ているが、神の民が、”第二、第三”にすべきを、第一に据えてしまうなら、世の中では「下」とならざるを得ない。
神の民・イスラエルが不従順であった時代、神は預言者エリヤを通して警告を与えた。「わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もない」。(1列王記17:1) 神の民全体が、リションを外した時代ゆえ、預言者もそのとばっちりを受けていたが、彼は主から養いを受ける。「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」(9節) 
そのやもめは、異邦の地シドンに住んでいたが、神を恐れ敬う女だった。しかし彼女も時代の罪のとばっちりを受け、彼女はもう最後のわずかな食料が残るのみで、それがなくなると、彼女も息子も死のうとしていた。その、最後の料理をするために、薪拾いをしている最中、彼女は偉大な預言者から声をかけられる。
「「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。」(10-11節) 彼女はどう見ても人を養う能力も資力も無い。なぜ預言者を養うはずのやもめが、こんなにも貧しく追いつめられていたのか。なぜエリヤが遣わされた先は、イスラエルの誰かにではなく、シドンのこのやもめなのか。
その時代、イスラエルにも沢山やもめはいたが、預言者の言葉どおり主にリションする人は、イスラエルの中に一人もいなかった、という事である(ルカ4:24-26)。それで主はエリヤを、彼女の食料が尽きる直前に到着するよう、彼女の元へ遣わされたのだ。主を敬う人への助けは、間に合わないという事は、決して無い。
主は、サレプタのやもめ女に命じてあなたを養わせよう、とエリヤに言ったが、どうも彼女は、主から命じられたような感じではない。それどころか、彼女にはその能力も持ち物も無い。どういう事だろう。
主は、当人に意識があっても無くても、当人に資力や力があっても無くても、その人の内に、主に対する「リション」があるかないかを見られ、その人に応じた志(ミニストリー)を起こさせ「命じる」のだ。(ピリピ2:13)
その時、本人の能力や持ち物、時間、お金の有る無しは、一切関係無い。ただ「リション」があるか無いかが主の目に重要であり、その人は、起こされた志と使命感に突き動かされ、必要な物は全て主から与えられ、その人の「リション」を主が用いて時代を動かして行くのである。アブラハムのように、ハンナのように。

『エリヤは彼女に言った、「恐れるには及ばない。行って、あなたが言った通りにしなさい。しかし「まず(リション)」、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。』(13-14節) ある人はここから、エリヤを「人でなし」と評価する。万一、エリヤが食べて、そのままやもめと子供が死ぬなら、酷い話である。世の独裁者は、皆、そうする。
しかし主は「備え主」であり、主の言葉は「なくなって終わり」ではない。信仰ある人は、「主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」という主の言葉に、大きな希望を見出す。
希望の根拠は「イスラエルの神、主の言葉」であり、この言葉を非道いと取るか、それとも希望に取るかは、その人の信仰次第である。彼女はエリヤを通した主の言葉に、リションの行いで答えた結果、主の真実と奇跡が現れた。主の真実と奇跡を見るためには、単純に、主の御言葉どおりに実行する事である。
こうして彼女は、主の言葉どおりに、粉も油も本当に尽きず、自分も子供も、預言者も、それによって養われた。私達も、ファーストを主に据えるなら、主は私達を、不信仰な時代の罪のとばっちりから守り、全ての必要が満たされるのみならず、私達を、時代の「ファーストクラス」へと乗せ、歴史を変える役割を与えて下さるのだ。主へのリションを示し、時代を変える事に用いられて行くみなさんでありますように!

御言葉が入った時にどう反応するか(2歴代誌34:14-33)
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ヨシヤは主に対する恐れと尊敬のゆえに、主に忌み嫌われるものを取り除く改革を行い、献金をつのって神殿修復を行ったが、その時、あるものを発見する。

34:14 さて彼らが主の宮にはいった金を取りだした時、祭司ヒルキヤはモーセの伝えた主の律法の書を発見した。

誰がいつの時代に入れたのか、久しく閉ざしていた献金の箱の中から、主の御用のために取り出していた時、モーセが伝えた主の「律法の書(トーラー)」を発見したのだ。
それまで、神の民イスラエルは、律法の書無しに過ごして来ていた、という事であり、主の御言葉が、あたかも、がらくたのように埋もれてしまっていた、という事だ。
主の言葉が、危うく永遠に喪失する所だった、と見える場面かもしれないが、しかし主の言葉が失われるという事は、天地がひっくり返っても有り得ない。
主は主権を持って、必要な時代、必要な人に、御言葉を届けられる。

34:18 書記官シャパンはまた王に告げて、「祭司ヒルキヤはわたしに一つの書物を渡しました」と言い、シャパンはそれを王の前で読んだ。
34:19 王はその律法の言葉を聞いて衣を裂いた。

ヨシヤが律法の書の言葉を聞いて、真っ先に起こした反応は、衣を裂いた事だった。それはユダヤ人の、悲しみ、絶望などの激情の表現である。
それまで御言葉を知らなかった人が、御言葉を聞いた時、罪が示され、心裂かれ、涙を流すのは、健全な霊の反応である。
御言葉を聞いてもなんの心動かされる事なく平然と罪の飲み食いを続ける者は災いが起こされる。事実、ヨシヤの父達の代が、そうだったが、ヨシヤはそれとは違い、心刺され、早速行動に移す。

34:20 そして王はヒルキヤおよびシャパンの子アヒカムとミカの子アブドンと書記官シャパンと王の家来アサヤとに命じて言った、
34:21 「あなたがたは行って、この発見された書物の言葉についてわたしのために、またイスラエルとユダの残りの者のために主に問いなさい。われわれの先祖たちが主の言葉を守らず、すべてこの書物にしるされていることを行わなかったので、主はわれわれに大いなる怒りを注がれるからです」。

ヨシヤ、生まれて初めての、御言葉朗読に耳を傾ける経験である。
彼が御言葉を聞き、その内容を知った時の反応は、衣を裂いて、悔い、へりくだり、泣いた事だった。
それまでヨシヤとその時代の人々は、久しく、モーセの律法の内容を知らず、ただ、預言者の言葉から主の意図を知り、預言がない時は、なんとなく過ごして来た。
主の御言葉を知らず、主の基準を知らずに罪を犯して来るという事は、ある。
しかし、主の御言葉を知り、基準を知った後に、どう行動するかが大事である。

モーセの律法には、書いてある。主に聞き従って歩む人がいかに幸いであるか、いかに特別扱いを受けて祝福されるか。
それと同時に、主の御声に聞き従わないなら、どんなに災いに遭うか、その災いはどの程度か、それでも聞き従わないなら最終的にはどうされてしまうのか。

実際、ヨシヤは見た。北イスラエル王国が、主の御声に聞き従わない事を続けた結果、彼らは災いに遭い、律法に書いてある通りに、母親が自分の子の肉を食べるほどの飢饉にも遭い、そしてついにはアッシリヤによって滅ぼされ、捕囚として連れて行かれてしまったのを。
そして実は、その事が起きるはるか昔モーセの時代に、あらかじめ、「こうし続ければ、こうなる」と、正確にきっちり主は律法の書に記しておられた、その主の言葉の不思議と正確さを知った時、彼は正当な恐れに包まれた。
私達も、御言葉に書いてある事を知り、そして実際にその通りになっている人を見た時、ヨシヤのように恐れおののきつつ、御声に聞き従う対応を取るべきである。

主の言葉が示されても、主を恐れ敬わず、聞き従わない事を続けたらどうなったか。
ヨシヤはその父アモンがそうだったのを見た。それで彼は、御言葉に対する恐れがあった。

34:22 そこでヒルキヤおよび王のつかわした人々は、シャルムの妻である女預言者ホルダのもとへ行った。シャルムはハスラの子であるトクハテの子で、衣装を守る者である。時にホルダは、エルサレムの第二区に住んでいた。彼らはホルダにその趣意を語ったので、

ヨシヤは御言葉を知って恐れおののき、早速、主の御心を伺おうとして預言者へと人を遣わした。

34:23 ホルダは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこう仰せられます、『あなたがたをわたしにつかわした人に告げなさい。
34:24 主はこう仰せられます。見よ、わたしはユダの王の前で読んだ書物にしるされているもろもろののろい、すなわち災をこの所と、ここに住む者に下す。
34:25 彼らはわたしを捨てて、他の神々に香をたき、自分の手で造ったもろもろの物をもって、わたしの怒りを引き起そうとしたからである。それゆえ、わたしの怒りは、この所に注がれて消えない。

主が言われた事は、手厳しいものだった。しかしその対象は、主の言葉をないがしろにし罪を犯し続けてきた「この所と、ここに住む者」に対して、すなわち、エルサレムとその住民に対してのものだった。
イスラエルの歴代の王達や人々は、律法に照らせば災いを受ける他はないことばかりして来たからだ。
しかし主は、悔い改める人には憐れみを注がれる。

34:26 しかしあなたがたをつかわして、主に問わせるユダの王にはこう言いなさい。イスラエルの神、主はこう仰せられる。あなたが聞いた言葉については、
34:27 この所と、ここに住む者を責める神の言葉を、あなたが聞いた時、心に悔い、神の前に身をひくくし、わたしの前にへりくだり、衣を裂いて、わたしの前に泣いたので、わたしもまた、あなたに聞いた、と主は言われる。
34:28 見よ、わたしはあなたを先祖たちのもとに集める。あなたは安らかにあなたの墓に集められる。あなたはわたしがこの所と、ここに住む者に下すもろもろの災を目に見ることがない』と」。彼らは王に復命した。

主は、悔い改めて御言葉を守り行う本人には憐れみ深い。
肝心なのは、御言葉を聞いた後である。

申命記29:29 隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。

御言葉の中に、隠された内容と、明らかにされた内容がある。
私達は、御言葉を全て知っている者ではない。わからない御言葉も、意味が隠された御言葉も、ある。
しかし、人生の時々に応じて、理解の光が当てられ示される御言葉があり、それは、まさに我々のものである。
まだ明かされていない事については、私達は知らないゆえに、十字架の主の憐れみを受ける事ができる。
しかし、知って、理解したならば、それは「長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせる」ものである。

ヨシヤは、人生の前半、御言葉が隠されていた。
しかし、それが見つけ出され、明らかにされ、その内容を理解した以上、これから彼らが御言葉に対してどうするかによって、幸いに入るか、呪いに入るかは、彼ら次第である。
私達も、御言葉はすぐちかくにある。
私達は御言葉を恐れ敬い、守り行い、あらゆる事に主から特別扱いを受け、祝福の王道を踏み外さずに歩んでいくものでありたい。

34:29 そこで王は人をつかわしてユダとエルサレムの長老をことごとく集め、
34:30 そして王は主の宮に上って行った。ユダのすべての人々、エルサレムの住民、祭司、レビびと、およびすべての民は、老いた者も若い者もことごとく彼に従った。そこで王は主の宮で発見した契約の書の言葉を、ことごとく彼らの耳に読み聞かせ、
34:31 そして王は自分の所に立って、主の前に契約を立て、主に従って歩み、心をつくし、精神をつくして、その戒めと、あかしと定めとをまもり、この書にしるされた契約の言葉を行おうと言い、
34:32 エルサレムおよびベニヤミンの人々を皆これに加わらせた。エルサレムの住民は先祖の神であるその神の契約にしたがって行った。
34:33 ヨシヤはイスラエルの人々に属するすべての地から、憎むべきものをことごとく取り除き、イスラエルにいるすべての人をその神、主に仕えさせた。ヨシヤが世にある日の間は、彼らは先祖の神、主に従って離れなかった。

ヨシヤ王はますます主の言葉に従う事への熱心を燃え立たせ、人々に御言葉に聞き従うようにさせた。
その結果、彼には歴代の王達の中で最高の賞賛が与えられる。(2列王記23:25)
私達も、救いを実現するために、自らの中の主に忌み嫌われるものは取り除き、主に喜ばれる礼拝を捧げ、そして主から最高の賞賛が与えられる者を目指して、信仰の競争を走りぬきたい。

南ユダ王国最後の「良い王」ヨシヤ(2歴代誌34:1-13)
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マナセ王、アモン王と続いた霊的暗黒時代であったが、アモンの子ヨシヤは、久しぶりに主の目にかなう「良い王」として現れた。
そしてこのヨシヤは、南ユダ王国最後の「良い王」であり、彼以降は悪い王が続いて、バビロン捕囚への道をまっしぐらに進んでしまう。

2歴代誌34:1 ヨシヤは八歳のとき王となり、エルサレムで三十一年の間世を治めた。
34:2 彼は主の良しと見られることをなし、その父ダビデの道を歩んで、右にも左にも曲らなかった。
34:3 彼はまだ若かったが、その治世の第八年に父ダビデの神を求めることを始め、その十二年には高き所、アシラ像、刻んだ像、鋳た像などを除いて、ユダとエルサレムを清めることを始め、

彼は8歳で王になった。彼の父アモンが謀反にあって殺されたからであるが、彼は十六歳の若い時から既に主の目に叶う統治をしようと心がけている。
実はこの時代、主の宮を荒らしたマナセやアモンの時代の後であったので、トーラー(聖書)は断たれ、祭司や王でさえ、聖書を見たことが無かった。
そんな中でもヨシヤは「父ダビデの神を求めることを始め」た。きっと、聖書は無くとも、彼の偉大な先祖ダビデにあこがれ、主に喜ばれる道を歩もう、と、決心したのだろう。

生活を立て直すなら、主に忌み嫌われるものを捨て去る所から、である。
もし主に嫌われるものを抱えたままで、祝福を求めても、それは与えられない。

エレミヤ4:1 主は言われる、「イスラエルよ、もし、あなたが帰るならば、わたしのもとに帰らなければならない。もし、あなたが憎むべき者を/わたしの前から取り除いて、ためらうことなく、
 4:2 また真実と正義と正直とをもって、『主は生きておられる』と誓うならば、万国の民は彼によって祝福を受け、彼によって誇る」。
 4:3 主はユダの人々とエルサレムに住む人々に/こう言われる、「あなたがたの新田を耕せ、いばらの中に種をまくな。
 4:4 ユダの人々とエルサレムに住む人々よ、あなたがたは自ら割礼を行って、主に属するものとなり、自分の心の前の皮を取り去れ。さもないと、あなたがたの悪しき行いのために/わたしの怒りが火のように発して燃え、これを消す者はない」。

ヨシヤはまず、主に忌み嫌われるものを除き去るところから初めた。
それ故に、彼にはさらに聖書が与えられるようになる。

34:4 もろもろのバアルの祭壇を、自分の前で打ちこわさせ、その上に立っていた香の祭壇を切り倒し、アシラ像、刻んだ像、鋳た像を打ち砕いて粉々にし、これらの像に犠牲をささげた者どもの墓の上にそれをまき散らし、
34:5 祭司らの骨をそのもろもろの祭壇の上で焼き、こうしてユダとエルサレムを清めた。
34:6 またマナセ、エフライム、シメオンおよびナフタリの荒れた町々にもこのようにし、
34:7 もろもろの祭壇をこわし、アシラ像およびもろもろの刻んだ像を粉々に打ち砕き、イスラエル全国の香の祭壇をことごとく切り倒して、エルサレムに帰った。

実は、このヨシヤが行った事は、およそ300年前に、ある預言から預言されている。
それは、北イスラエル王国の200年ほどの歴史に、最初に偶像を導入してしまった、ヤロブアムの治世、ヤロブアムがその忌むべき偶像を導入した、その時にであった。
『見よ、神の人が主の命によってユダからベテルにきた。その時ヤラベアムは祭壇の上に立って香をたいていた。』(1列王記13:1)
この無名の神の人(預言者)は、主(エホバ)の命によって、すなわち、主から直接的な特命を帯びて、南ユダ王国から、来た。
もはや自国・北イスラエル王国には、ヤロブアムの主への違反を戒める者は、誰もいなかったという事だろうか。

彼が言葉を告げた先は、意外な事に、人間に対してではなく、ヤロブアムが造った偶像の祭壇に対して、であった。
『神の人は祭壇にむかい主の命によって呼ばわって言った、「祭壇よ、祭壇よ、主はこう仰せられる、『見よ、ダビデの家にひとりの子が生れる。その名をヨシヤという。彼はおまえの上で香をたく高き所の祭司らを、おまえの上にささげる。また人の骨がおまえの上で焼かれる』」。』(1列王記13:2)

実際、その事がおよそ300年後に起こる。
主はさらに、目に見えるしるしをその場で与えられる。
将来、確かに主がその事を行う、という事を示すために。
『その日、彼はまた一つのしるしを示して言った、「主の言われたしるしはこれである、『見よ、祭壇は裂け、その上にある灰はこぼれ出るであろう』」。ヤラベアム王は、神の人がベテルにある祭壇にむかって呼ばわる言葉を聞いた時、祭壇から手を伸ばして、「彼を捕えよ」と言ったが、彼にむかって伸ばした手が枯れて、ひっ込めることができなかった。そして神の人が主の言葉をもって示したしるしのように祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれ出た。』(1列王記13:3-5)

実際に、目に見えるしるしとして、事が起きた。
ヤロブアムは、この預言者を捕らえよと言って、手を伸ばしたが、その手がしなびてしまうという、預言していない事までも、起きた。
ヤロブアムはこの事件を機に、全能の主を「わたしの神、主」として、立ち返るべきであったが、情けない事に、この目を見張るしるしを体験しておきながら、結局偶像礼拝を止めず、後々の北イスラエル王国の多くの人々を、偶像礼拝の罪へと誘ってしまった。
それで、かの預言が実現する事となってしまった。

34:8 ヨシヤはその治世の十八年に、国と宮とを清めた時、その神、主の宮を繕わせようと、アザリヤの子シャパン、町のつかさマアセヤおよびヨアハズの子史官ヨアをつかわした。
34:9 彼らは大祭司ヒルキヤのもとへ行って、神の宮にはいった金を渡した。これは門を守るレビびとがマナセ、エフライムおよびその他のすべてのイスラエル、ならびにユダとベニヤミンのすべての人、およびエルサレムの住民の手から集めたものである。

ヨシヤは、主に嫌われるものを取り除いた後、献金をつのり、神殿を建てなおす働きをした。
それによって、彼は、神殿の奥深くに眠っていたモーセの律法の書(聖書)を発見することになる。

私達も、聖書が分からないながらでも、主に喜ばれる事をしたいと願い、行動するなら、主は私達を御言葉へと導き、何が正しく主に喜ばれる道であるのかを教えて下さるのだ。

復活の主から特別待遇を与えられる人とは(マタイ28:1-10)
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今回は、復活の主は、どのような人に特別に現れ、特別待遇して下さるのかを見ていきたい。

28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
28:2 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。

マグダラのマリヤとほかのマリヤ、彼女たちがイエス様の所に来たのは、「安息日が終って、週の初めの日の明け方」であった。
安息日の間は動くことは出来ない。その安息日が明け、動けるようになった瞬間から、誰よりも真っ先に、である。
イエス様はあらかじめ、三日目によみがえる事を伝えていたが、彼女たちは、イエス様がよみがえる事を期待して来たのではなく、死体に防腐措置を取るために、という、御言葉を取り違えた誤った目的で来たのだが、それでも、その弱くなけなしの信仰を持って、イエス様の所に来た。
そんな、誤った、弱い、なけなしの信仰であっても、奮い立たせて、誰よりも先に来る彼女たちに、主は、特別扱いして下さる。
彼女達を前に立ちはだかるローマの権威である封印、ローマ兵という武力、そして彼女たちにはどうすることも出来ない、イエス様と彼女達を隔てる重い岩。
そうした一切の、主との間を隔てるもろもろを、打ち破って余りある力をもって、主はそれらの障壁を難なく取り払って下さった。
主は、十字架の場面では一人の御使も使わされず、一人の弱い人であるかのように死を受け入れて下さったが、この度、神はこのなけなしの信仰を奮い立たせて来た彼女達のために、御使を遣わして、特別扱いして下さった。

28:3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
28:4 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
28:5 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
28:6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。

兵士達は、御使のあまりの聖なる有様に、恐れのあまり死人のように成った。しかし彼女達は、人間は到底耐えられないはずの、主の「聖」に打たれる事なく、守られ、しかも「恐れることはない」と声をかけられた。
「恐れるな」。御使いは同じ言葉をダニエルにもヨハネにもかけて下さった。
主が再臨される時、主を軽んじた大勢の者達は、震えおののき、山や岩陰に逃げ隠れするが、主を敬う私達にも「恐れるな」と声をかけてくださるのである。

28:7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。

御使い(アンゲロス)の役割は、言葉を伝える事である。そして御使いの言葉を預かった彼女たちが、今度はアンゲロスとなって、弟子達へと伝え、そうして、御言葉が伝えられる事は全世界へ至り、今日へと至っている。
私達も、御言葉を頂いたなら、アンゲロスとなってさらに伝えて行くのである。

28:8 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

彼女たちには、大きな喜びが、恐れにまさっていた。
兵士達には、ただ恐怖でしかなかったが、力ある偉大な主の守りと、特別待遇を受け、主の偉大なみわざを伝える栄光のつとめに預かった私達には、大きな喜びがあるのだ。

結局主に出会える者は、主を重んじる者であり、主を軽んじる者は、捨てられる。
大祭司エリとその息子達は、主から素晴らしい栄光のつとめを軽んじたため、捨てられてしまう。

1サムエル記2:29 それにどうしてあなたがたは、わたしが命じた犠牲と供え物をむさぼりの目をもって見るのか。またなにゆえ、わたしよりも自分の子らを尊び、わたしの民イスラエルのささげるもろもろの供え物の、最も良き部分をもって自分を肥やすのか』。
2:30 それゆえイスラエルの神、主は仰せられる、『わたしはかつて、「あなたの家とあなたの父の家とは、永久にわたしの前に歩むであろう」と言った』。しかし今、主は仰せられる、『決してそうはしない。わたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。

主は、主を尊ぶ者を尊び、特別待遇で迎えて下さる。

詩篇4:1 わたしの義を助け守られる神よ、わたしが呼ばわる時、お答えください。あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。
4:2 人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。いつまでむなしい言葉を愛し、偽りを慕い求めるのか。〔セラ
4:3 しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。

御言葉のパンをイエス様からいただく時(ルカ24:13-35)
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24:13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、
24:14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
24:15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。
24:16 しかし、彼らの目がさえぎられて(クラテオー:握りしめている)、イエスを認めることができなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。

イエス様が目の前にいる、というのにそれが分からない、暗い顔をする、という時がある。
それは、心が何かをクラテオー(握りしめ)ている時である。
彼らは自分たちの話に熱心で、心配によって心が遮られていた。

24:18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。
24:19 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、
24:20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。
24:21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。
24:22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、
24:23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。
24:24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。

十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえる。この一連の内容は「福音」「よき知らせ」と言うものであり、イエス様の復活は、喜ばしい事のはずなのに、彼らはそれらを、暗い顔で話した。
福音を、暗い顔で話す人は、その内容を信じておらず、むしろ、自分の思い込みを握りしめていっぱいいっぱいになっている人である。
イエス様は、その信じていない心に、語られる。
イエス様は何を語ったか。

24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

不思議である。「私がイエスだ」と一言言えば、話は簡単に済むであろうに、そうではなく、聖書の話題へと導いたのだ。なぜ、そんな遠回りな事をされたのだろうか。ここに、私達が学ぶべき姿勢がある。
現代私達が拠りすがるべきは、目で見たり手で触れたりが可能な人間ではなく、聖書であり、御言葉なるイエスなのだ。
私達は、自分の思いの「握りしめ」を手放し、御言葉へと耳と心と思いを向けるべきなのだ。

24:28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
24:29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。

御言葉を聞いた時、彼らの心は燃やされた。
イエス様は、忙しいお方である。しかし弟子達は、イエス様を無理にでも引き止めた。
そのお陰で彼らは、さらにイエス様とはっきり出会う事が出来るようになる。
私達も御言葉によって心燃やされた時、御言葉であられるイエス様を引き止めて、もっと関わろうとするべきである。

24:30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
24:31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
24:33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、
24:34 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。
24:35 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。

この二人は、もはや暗い顔ではなかった。
夜で疲れていたにもかかわらず、歩いてきた11.5キロの道を戻って、弟子達に起きた出来事を伝えた。
疲れていても、暗い時であっても、主から裂いていただいた御言葉のパンは、さらに他の暗い顔をしている人へと届け伝えずにはおれないのだ。

私達も、日常の内に隠れているイエス様に気付くべきである。彼に御言葉を解き明かされ、豊かに養われるべきである。そして主ご自身からパンを受け取り、主が確かにこの旅路に共におられ、御言葉を示された事を伝えずにはおれなくなる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

復活の主が現れた最初の主日礼拝(ヨハネ20:1-23)
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20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。

週の初めの日、それは日曜日である。
ユダヤ人にとっては、働いていはならない「安息日」が明けた「朝早くまだ暗いうち」であるので、マグダラのマリヤは誰よりも初めに、一番に、イエス様のために動き出した。
しかしそれは、復活の主に真っ先に会うためではなく、真っ先に、イエス様の遺体に防腐措置を施すためであった。

20:2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。
20:4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、
20:5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
20:6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、
20:7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
20:8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。
20:9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。

イエス様の遺体はあいにく、墓には無い。
イエス様があらかじめ言っておられたように、三日目によみがえったからである。
しかし彼女も、弟子達も、この時その事を信じられなかったし、イエス様があらかじめ言っておられた事を思い出しもしなかった。

20:10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、

弟子達はユダヤ人を恐れていたので、すぐに帰って行ったが、マリヤは相変わらず残っていた。
このように、真っ先に(たとえ遺体であろうと)イエス様に会いに行こうとし、またいかに間違えた概念でイエス様を見ていたとしても、それでもイエス様を真っ先に求める魂に、イエス様は現れてくださる。

20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。

彼女は、さっき弟子達が出てきたばかりの、密室であったはずの墓に、突然、白い衣を着た二人の御使が現れるという「非日常」を、全く驚かなかった。
それ程、彼女の心は、悲しみに塞がれていたのであろう。
バラムは、ろばが人間の言葉をしゃべるという「非日常」に全く驚かず普通にろばと会話したが、彼の場合は、金銭欲に眼と心が塞がれていたからだった。
このように、心がある思いで塞がれてしまうと、主が語られた言葉を理解できず、主の現れに気づかず、また、目の前に不思議が起きても全然心が動かされないものだ。
しかし主は、そんな、主を慕い求める「とんちんかん」な魂に、やさしくご自身を示して下さる。

20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。

彼女は、やっとイエス様だと気付いた。そして「ラボニ」(わたしの先生)と言った。
主は、慕い求める魂に、個人的に現れて下さる。公に、一斉に、ではなく、本当に主を慕い求める人に、あるいは慕い求める集団が集まっている所に。
そして彼らは主と出会い、主に対して「わたしの主」「わたしの神」「わたしの先生」と、わたしのものとして主を呼ぶようになるのだ。

20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

主は、閉ざしている彼らに現れた。
復活のイエス様は、全て、主を慕っている人の中に入って来て「安かれ(エイレーネー:平和, 和合, 安全, 健康, ヘブル語のシャロームに相当)」と言われる。たとえその人が弱く、脅え、出入りを固く閉ざしていても。

シャロームという言葉はユダヤ人の挨拶言葉で、広範な意味があり、祝福の総称とも言える。
シャロームは、平安の意味の挨拶言葉であると、よく知られているが、平和である事、安息である事を願う言葉であり、経済や子宝の繁栄、健やかである事、その他、全ての面で満ち足り、充足し、満足し、知恵に満たされ、あらゆる悪や、災いから救われ、敵や悪に対し勝利する事を、願い求める言葉でもある。

20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

これが、最初の「主日礼拝」である。これ以降、主は、主日(日曜日)に現れ、弟子達も主日を主と出会う日として集うようになっていった。
主日、御言葉なるイエス様が信じる者の口から発せられると、聞く一人ひとりに主は現れ、聖霊の息吹によって息吹かれ、主に遣わされた者として世に出て行き、さらにキリストのいのちを増やして行く者となって行くのである。

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