メッセージ - 201804のエントリ

御国の宴会に入れる人、入れない人(ルカ14:1-24)
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主の働き人に貧しい思いをさせず豊かに養って下さる主(2列王記4章)
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主は、主の働き人を決して貧しい思いのままにされないお方である。
第二列王記4章は、まことに主の働き人に対する保障がどのようなものであるのかという事例に満ちている。

4:1 預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。

彼女の夫は、負債を負ってでも主の預言者につかえていたが、そんな彼が死んでしまった。
残された彼女と子供達は、奴隷に売られる他は無いような状況であるが、しかし彼女は預言者の所にその問題を持って行った。
主は、主を恐れる人を、その家族をも養って下さる。
エリシャの言葉どおりにしたら、唯一の財産であった油が、多く満たされた。

4:7 そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。

神の必要の満たしは、ちょびちょびではない。たっぷり、である。
ただし、それには私達の側の器次第である。
彼女は望みをもって、たくさん、器を借りたからこそ、たくさん、得た。

8節から17節には、主の預言者に良くしてあげた不妊の女性に、子供が与えられる奇跡が記されているが、しかしその子が死んでしまった。
せっかく子供が生まれ、まだ小さく、かわいいさかりなのに死んでしまう。母親としては悲しみの極みである。なんで、この子は生まれ、そして死ななくてはならなかったのか、と。

 4:21 母は上がっていって、これを神の人の寝台の上に置き、戸を閉じて出てきた。
 4:22 そして夫を呼んで言った、「どうぞ、しもべひとりと、ろば一頭をわたしにかしてください。急いで神の人の所へ行って、また帰ってきます」。
 4:23 夫は言った、「どうしてきょう彼の所へ行こうとするのか。きょうは、ついたちでもなく、安息日でもない」。彼女は言った、「よろしいのです」。 4:24 そして彼女はろばにくらを置いて、しもべに言った、「速く駆けさせなさい。わたしが命じる時でなければ、歩調をゆるめてはなりません」。

子どもの父親すなわち彼女の夫は、神の人の所に会いに行くのは、ただ安息日や礼拝の日だけだ、と思っていたようだ。しかも、子供に何か良からぬ事があったのか、という察知する心遣いもないようである。

たとえ死んだという事を知らなかったにしても、子どもはあんなに頭が痛かったのだから、神の人のところに癒やしてもらいに行くのだろうか、という発想も沸かない不信仰な彼とは一切会話はせず、議論する事もなく、急いで神の人エリシャの所に向かう。
彼女は一切の事を秘め、ただ直接、エリシャの所に行って、この事を解決してもらおうと思っていた。
4:32 エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、
 4:33 彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。
 4:34 そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。

エリシャ、ずいぶん大胆な行動に出たものだ。
律法では、死体に触れる事は、汚れを受ける事であり、1週間がかりできよめの儀式を行わなければ、きよめられないという、やっかいな事だった。
それでもエリシャは、ここまでした。エリシャに相当の覚悟がなければできない事だ。
まさに「祈りと断食」である。

4:35 こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。

死んでいた子どもが、生き返った。これは、当時の周囲の人々にインパクトを与える事だろう。

4:36 エリシャはただちにゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼べ」と言ったので、彼女を呼んだ。彼女がはいってくるとエリシャは言った、「あなたの子供をつれて行きなさい」。
 4:37 彼女ははいってきて、エリシャの足もとに伏し、地に身をかがめた。そしてその子供を取りあげて出ていった。
彼女はこのように良くしていただいた。

彼女は、旅人をもてなし預言者に良くする信仰があったから、そして、問題が起きたら誰よりも何よりも、主の預言者に持っていく信仰があったから、このような幸いを受け、また彼女はその後にもこの事ゆえに幸いを得る。

4:38 エリシャはギルガルに帰ったが、その地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前に座していたので、エリシャはそのしもべに言った、「大きなかまをすえて、預言者のともがらのために野菜の煮物をつくりなさい」。
 4:39 彼らのうちのひとりが畑に出ていって青物をつんだが、つる草のあるのを見て、その野うりを一包つんできて、煮物のかまの中に切り込んだ。彼らはそれが何であるかを知らなかったからである。
 4:40 やがてこれを盛って人々に食べさせようとしたが、彼らがその煮物を食べようとした時、叫んで、「ああ神の人よ、かまの中に、たべると死ぬものがはいっています」と言って、食べることができなかったので、
 4:41 エリシャは「それでは粉を持って来なさい」と言って、それをかまに投げ入れ、「盛って人々に食べさせなさい」と言った。かまの中には、なんの毒物もなくなった。

ききんの時である。食料がとても貴重な時であるが、この時、一人の預言者が、その貴重な食料の入ったなべに無知のゆえに毒を入れてしまい、人々の口に持って行かせてしまった。
主に在る兄弟姉妹の口に入るものを作る時にはよくよく注意すべきではあるが、彼は無知であった。
これがもとでその集会の全員が死んでしまう危機であったが、主を信じる人、神の国の働き人には、毒を受けても害を受けないという保証が与えられている。(マルコ16:17)

彼は、無知であったかもしれない。主の働き人一同をあわや全滅させて下さるという、大きなミスを犯したかもしれないが、しかし主はききんの時代でも、働き人のミスを覆ってあまりある事をして下さるお方である。

4:42 その時、バアル・シャリシャから人がきて、初穂のパンと、大麦のパン二十個と、新穀一袋とを神の人のもとに持ってきたので、エリシャは「人々に与えて食べさせなさい」と言ったが、
 4:43 その召使は言った、「どうしてこれを百人の前に供えるのですか」。しかし彼は言った、「人々に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、『彼らは食べてなお余すであろう』」。
 4:44 そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった。

これもイエス様の奇跡を思い起こさせる。
イエス様はわずか5つのパンを2引きの魚で、5000人をも養った。そのイエス様の奇跡が与えられるのは、イエス様に望みを追って集まった群衆である。
イエス様は、憐れまれる。無計画にではあってもイエス様を慕って集う人々に対し。
そして、彼らの”無計画”ゆえに手持ちの食料も持ってこなかったという報いを、そのまま「自己責任だ」などと言う事なく、むしろ、イエス様がみずから彼らを心配してくださり、しっかりと保証を与えられた。

そして、主の保証の仕方は同じである。
主は、主を慕い求める者を満腹させ、道足らせるばかりでなく、主の働き人の分もちゃんとたっぷり整えて下さるのだ。

楽しみながら「忍耐」し、主からの栄光を受けるために(ヤコブ5:7-20)
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5:7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
5:8 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。

このヤコブ書5章には旧約の偉人、ヨブとエリヤが出てくる。
いずれも、忍耐を通して偉大な業績を残した人達だ。
耐え忍ぶ事はとても有用な事だが、それは単なる我慢大会ではない。
聖書的な「忍耐」は、未来を現代へと引っ張る力がある。

信仰者が登っていくべき、信仰の成長の「階段」が、ローマ5章に記されている。

ローマ5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
5:2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。

イエス様を信じて義とされた私達には、まず、神との間の平和を得る事が出来る。
そして、その恵みへと信仰によって導き入れられ、さらに、神の栄光にあずかる希望を持つ事が出来るのだ。

ローマ5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。

義とされた者は神との平和を得、平和を得た者は患難さえ喜ぶ。
「患難(スリフィス)」は、オリーブの実が圧搾機の中で絞られ、有用な油が絞り出されるような意味があり、患難によって、私達の中にある尊い信仰が絞り出され、それが主に喜ばれ有用に用いられるために、まず圧搾されるのである。それを思うなら、患難を喜びに変換できる。
「忍耐」はギリシア語でフィポモネン、下に平伏す、という意味がある。それは、農夫が種を蒔いて、下に平伏しつつも、あたかも、喜びの刈り取りを目の前現実で刈り取っているかのような喜びをもって、喜ぶものだ。
私達はそのようにして忍耐しているだろうか。信仰者の忍耐とは、単なる我慢大会ではなく、未来の喜びを目の前に引っ張ってきて喜ぶ力があるのだ。
そしてそれが錬達(ドキメーン)を生み出す。それは研磨する、あるいは溶鉱炉で不純物を除いて純化して行く意味がある。
私達はどんどん純化されて行き、そしてやがて、決して奪われる事の無い希望を生み出すのである。
ローマ5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

ヤコブ5:9 兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。
5:10 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。
5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

主は近い。だからむしろ私達も、聖書に記されている人々にならい、今している忍耐には大きな希望と喜びが必ず待っている事を当然のごとくに、信仰をもって自分のものとしていく事こそ、むしろラクで楽しい道なのだ。

5:12 さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、いっさい誓ってはならない。むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる。

将来をのぞむ事は有用だが、同時に、取らぬ狸の皮算用に陥らないよう、気をつけなさい、という事だ。
私達は将来起きる事が分からない。だから御旨から外れた先走った皮算用をして、誓いを破ったというそしりを受けないよう、ただ、はいははい、いいえはいいえだけ言えば良いのだ。

5:13 あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。
5:14 あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。
5:15 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
5:16 だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。
5:17 エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。
5:18 それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。

地上を歩む日々は荒野を進む日々かのようで、忍耐が必要だが、いくら忍耐を喜びなさいと言われても、そうできない弱さが私達にはある。
だからこそ、聖徒の交わりの中で、特に信仰の先輩たちの助けを得つつ、また互いに祈り合いつつ、この荒野を乗り切って行く必要があるのだ。
そして私達も成長したなら、信仰の先輩となって、罪の道、滅びの道を歩んでいる人達を救うべきである。

5:19 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、
5:20 かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。

ヨブ記概要(ヨブ記1:1)
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今回より、ヨブ記の講解説教に入る。
ヨブ記はユダヤ的な分類では「諸書(ケトゥビーム)」、異邦人的な分類では「詩歌・文学」に当たる。
だから、前回までは「歴史書」に分類される書で、言ってみれば、前回と今回では、社会の歴史から国語の文学へと教科替えしたようなものである。

ヨブ記はその名の通り、ヨブという名の人が主人公の書物であるが、彼の人となりについては、この書の最初に記されている通りである。

ヨブ記1:1 ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。

彼はそれ故、神に愛され、守られ、当代一の祝福を受けたが、彼の心には一抹の不安があった。この祝福がいつか取り上げられはしまいか、と。
しかしその不安は、現実のものとなってしまう。
サタンはヨブを訴えた。彼から主の囲いを取り除いたなら彼は本性を現す、と。
神はそれに許可を与え、ヨブは一日にして全財産を失ってしまうのみならず、さらにひどい皮膚病に冒されてしまう。
それでも彼は口で罪を犯す事をしなかった。(1-2章)

しかし、ヨブの3人の友人が来訪した時から、このヨブ記の雰囲気が変わる。
 2:11 そのうちに、ヨブの三人の友は、ヨブに降りかかったこのすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせて来た。

彼らは慰めに来たはずなのに、ヨブが徹底的な災いに遭っている様を見て、彼が何か罪を犯したからに違いないと思い、それを諭す言葉をかけた事を発端に、ヨブとこの3人の友人の論争となる(3-26章)。
テマン人エリファズが物申し、ヨブが犯した罪を悔い改めるべき事を説くのだが、しかしヨブには身に覚えがない。ただ一方的に災いが起こった事を申し述べるだけである。
それに対し、シュアハ人ビルダデが似たような事を物申し、ヨブがそれに答え、さらにナアマ人ツォファルが物申し、それにヨブが答えていく、という一巡を、合計3セット繰り返す。
1セット目はまだ静かな対話であるのだが、2セット、3セットと重ねるごとに表現が厳しくなり、険悪化し、論争が激化して行く。
そしてヨブ自身、身の潔白をあくまで主張し(27章)、現状を嘆き、神に対しても、自分の身は潔白だと主張するに至る。(28-31章)

最初は口では罪を侵さなかった義人ヨブでさえ、友人達から、自覚なき罪の指摘ばかりをされ続けていると、ついには怒りの内に、神に対してさえ挑戦状を叩きつけるに至ってしまう。
まことに人間由来の知識論争は、いかに高等・高尚でも、義人さえもこのように籠絡させてしまう。

3人の友人は黙ってしまうのだが、そこに、3人の論争をそれまで黙って聞いていた若者・エリフが口を開く。
 32:6 ブズびとバラケルの子エリフは答えて言った、/「わたしは年若く、あなたがたは年老いている。それゆえ、わたしははばかって、/わたしの意見を述べることをあえてしなかった。
 32:7 わたしは思った、『日を重ねた者が語るべきだ、/年を積んだ者が知恵を教えるべきだ』と。
 32:8 しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。
 32:9 老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。
 32:10 ゆえにわたしは言う、『わたしに聞け、/わたしもまたわが意見を述べよう』。

エリフは、ヨブも友人達も議論の中身に問題があり、神こそただ正しいお方であり、自分を正しいとする事がそもそも違う事を主張する。
エリフの論述が32章から37章まで続くが、ついに、主ご自身が、あらしの中からヨブに語りかける。

 38:2 「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
 38:3 あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。

ヨブ達はそれまで、多くの無知の言葉をもって、真理を暗くしてきた。
主は、ヨブの質問には何一つ答えない。真理を暗くする議論論争に答える必要は、一切ないのだ。
主は、ただ主こそが全能であり、全てを創られ、全てを支配・管理しておられる事を、圧倒的な顕現をもって彼に示す。(38-41章)
それでヨブはただ悔い改め、ちりと灰の中に伏した。

主は確かにヨブから取り上げられた。しかし、ヨブが悔い改め、友人達のために祈った時、主はヨブを元通りにし、彼の持ち物を以前の2倍にして下さった。(42章)
さらに友人たちも彼を慰め、主は彼を幸いにして下さった。
ヨブ42:12 主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。
 42:16 この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。
 42:17 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

ヨブ記については、「正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。」(wikipedia)
しかしその見解は、神様が彼に苦難を下さった、という点で止まってしまっており、ヨブの後半人生がどんなに祝福されたかが薄れてしまっている。

聖書がヨブ記について結論づけている箇所は、ヤコブ書である。

ヤコブ5:7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
 5:8 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。
 5:9 兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。
 5:10 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。
 5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

ヤコブ書に書いてある通り、ヨブ記の主題は、忍耐して主を待ち望む者の幸いであり、主の慈愛とあわれみの素晴らしさである。
「主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるか。」
そこに着眼しつつヨブ記を読む時、神様は気まぐれにに災いを起こされるお方ではなく、あわれみをもって最善へと導いて下さるお方である事が、そして、主がいかに全能なる力と、深淵なるご計画で、私達を愛・あわれみのうちに導いて下さるかが見えてくる。

人間が主人となる事の愚かさと、それに引き換え、慈愛とあわれみに富んだ主を主とする事の素晴らしさを、ヨブ記から学んで行きたい。

ハデスに勝利したサレプタの小さなコイノニア(1列王記17:17-24)
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週報/メッセージ(説教)概要

 前回、神の国を第一とする(リションする)人には干ばつの時でも主が直接養って下さり、生活も保障される事を、サレプタのやもめから学んだ。彼女は預言者からの主の言葉通り、かめに残った最後の粉・最後の油を捧げた事で、干ばつの間、粉も油も尽きる事なく、本人自身も、息子も、そして預言者も、養われた。
確かに主を第一とする人は主から養われるが、かといって災いが全く起こらないかというと、そうではない。
『これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えた』(1列王記17:17) エリヤを養っていたやもめの子が、死んだ。なぜ?と思う。いのちを生かすための奇跡が続いていたのに。私達にもこのような、分からない事が起きる。祝福されるはずの信仰生活を落ち度なく続けていた、と思っていたのに。どうしてこういう事が起きるのだろう。本日、その事を学びたい。

イエス様の時代にも、似た事が起きた。イエス様が愛しておられたラザロが病気であるとイエス様が聞いた時、主はすぐに行かず、敢えてその所に2日留まり、彼が死んでから、そこへ行かれた。(ヨハネ11章)
この行動は、弟子達やラザロの姉妹に、そして私達にも、不可解に思える。しかしイエス様は言われる。
「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」(ヨハネ11:4) つまり、愛する人が死ぬ事を敢えて許し、そして蘇らせるという、この一連の過程を通して、人々は神の栄光を見、神の子が栄光を受け、主の言葉こそ真実である、と信じた。
これらの事が起きるのは、神が栄光を受け、そして、人々が信じるためである(ヨハネ11:15,26-27,45)。
彼女は聞く。『あなたは私の罪を思い出させるため…においでになったのですか。』(18節) 彼女が真っ先に思い当たったのは自分の罪だった。人はなぜ死ぬのか?書いてある。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23) 彼女は子の死を自分の罪の問題ととらえ、神の人に来た。このような人は救いから遠くない。
干ばつの中、尽きない粉と油に満足し、無意識に飲み食いしている恵みのさ中、生かされるのは結局、「肉」だけであり、そのまま満足して主に求めないようでは、霊は死んで行くという事を、彼女達は分かっていなかった。結局、最も大切なのは、神様への日ごとの感謝と信頼だ、という事を忘れてしまうなら、最も大切な子が死ぬ事により、死を孕んだ罪の問題へ心を向け、永遠の救いへ至る信仰に至らせて下さるのだ。
私達も、死を孕んだ罪の問題を解決して下さるイエス様に、日毎、助けて下さいと祈り続ける必要がある。

サレプタでは、霊の養いと肉の養いを互いに共有し助け合う、ちいさな「交わり(コイノニア)」があった。
エリヤは彼女に「子を私によこしなさい」と言って彼女のふところから子供を取った(19節)。彼女はずっと子をふところに握りしめていたが、問題をずっと握りしめたまま状況を悪くし、最悪になって、ようやく信仰者に渡す、という事はせず、すぐに信仰者に渡す事もまた、交わりの中で大事である。信仰による祈りは、病む人を回復させ、義人の祈りは働くと大きな力がある。また、罪の問題についても互いに祈り合いなさい、と書いてある(ヤコブ5:13-18)。私達も、いかに小さな交わりでも、罪について、死についての問題を、交わりの中で互いに告白し合い、祈り続けて行くなら、そこはハデスの門さえ勝つ事は出来ないのだ。

エリヤは三度祈って、ようやく祈りが聞かれ、子供の命が戻った。雨が降るように祈った時も、7度祈って、ようやく小さな雲が現れた。あのエリヤが、なぜ一度の祈りで答えられないのか。もし私達がたった一度の宣言や、たった一度の祈りで何でも聞かれるなら、主にしがみついて行こうとする心がどんどん薄くなり、傲慢になってしまうだろう。だから、主が与えて下さる時まで求め続け、探し続け、叩き続ける必要がある。
このように、「なぜ」と思える問題が起きる事も、あるいは、必要が備えられるにしても「日々」「僅か」である事も、それで主への感謝をすぐ忘れやすい私達が、生涯、日ごと、主に祈り頼み続けて生きて行けるのだ。
彼女は息子が生き返らされて、知った事が二つある。エリヤが神の人である事と、彼の口にある主の言葉は真実である事だ(24節)。こうしてエリヤの言葉はますます権威を帯び、彼が仕える神は、栄光を受けた。
私達もエリヤのように、神の言葉を伝える時、神の子としての栄光が与えられ、私達が神の言葉を語る時、人々は心して耳を傾けるのだ。こうして、預言者と彼を支える信仰者のやもめという、サレプタの小さなコイノニアで、彼らは干ばつの時代を乗り切って行った。私達も今、ここにコイノニアがある。この交わりを尊く保ち、互いに祈り合い、励まし合い、罪と死の問題を解決して行く皆さんでありますように!

聖なる神殿を焼き、城壁や尊い器を破壊し、神の民を虐殺した、神の民自身の不従順の罪(2歴代誌36:11-10)
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歴代誌の最後は、神の民にとっては非常に心重くなるような、神殿破壊と神の民の虐殺・連行の記事と、そして、さらにその向こうの小さな希望が見いだせる記事で終わる。
しかし神殿破壊と虐殺は、実に、神の民の側の故であり、その向こうの希望は、実に神の憐れみ故である。

2歴代誌36:11 ゼデキヤは王となった時二十一歳で、十一年の間エルサレムで世を治めた。
36:12 彼はその神、主の前に悪を行い、主の言葉を伝える預言者エレミヤの前に、身をひくくしなかった。
36:13 彼はまた、彼に神をさして誓わせたネブカデネザル王にもそむいた。彼は強情で、その心をかたくなにして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。

ゼデキヤの統治の時代に、イスラエルに徹底破壊がもたらされたが、もし私達も、彼のように、強情で、心をかたくなにして、主に立ち返らない性質であるなら、せっかくの主の憐れみも無駄に使い果たし、徹底破壊がもたらされてしまう。
当時の時代、王だけでなく、周りの人々もみんなそうだった。

36:14 祭司のかしらたちおよび民らもまた、すべて異邦人のもろもろの憎むべき行為にならって、はなはだしく罪を犯し、主がエルサレムに聖別しておかれた主の宮を汚した。

主は、罪を犯したら即罰するお方ではない。必ず憐れみの期間を設け、人々が立ち返るように警告と勧めを与えられる。
神は早くから預言者を遣わし、度々警告を与えられたが、そんな彼らに対して人々はどうしたか。

36:15 その先祖の神、主はその民と、すみかをあわれむがゆえに、しきりに、その使者を彼らにつかわされたが、
36:16 彼らが神の使者たちをあざけり、その言葉を軽んじ、その預言者たちをののしったので、主の怒りがその民に向かって起り、ついに救うことができないようになった。

あまりに罪を犯し続けると、ついには、救うことができないまでになってしまうのだ。
神の憐れみは底知れないが、しかし人それぞれに与えられる憐れみには、それぞれに応じた限度があり、その人が与えられていた憐れみの限度を切らしてしまうと、ついには救いようが無くなってしまうのだ。

36:17 そこで主はカルデヤびとの王を彼らに攻めこさせられたので、彼はその聖所の家でつるぎをもって若者たちを殺し、若者をも、処女をも、老人をも、しらがの者をもあわれまなかった。主は彼らをことごとく彼の手に渡された。
36:18 彼は神の宮のもろもろの大小の器物、主の宮の貨財、王とそのつかさたちの貨財など、すべてこれをバビロンに携えて行き、
36:19 神の宮を焼き、エルサレムの城壁をくずし、そのうちの宮殿をことごとく火で焼き、そのうちの尊い器物をことごとくこわした。

神の民と呼ばれている者達を老若男女を問わず虐殺される。
聖なる神殿が火で焼かれる。
城壁が破壊され、尊い器がことごとく破壊される。
あってはならない事だが、これを見て「バビロン人はひどい」と思ってはならない。
彼らは単に、主に破壊の器として用いられただけである。

聖なる神殿を焼き、城壁や尊い器を破壊し、神の民を虐殺したのは、実に、神の民自身の罪なのだ。
バビロン人がやった、と思ってはならない。実に神の民自身の罪が、聖なる神殿を焼き、城壁や尊い器を破壊し、神の民を虐殺するのだ。

私達・現代の「神の民」もまた、御言葉の警告を無視し、主に対する不誠実を続けるなら、この事が起こるのだ。
歴代誌を、単に、イスラエルという一民族の昔行われた歴史だと思ってはならない。
現代の私達にも警告として語られているのだ。
1コリント10:6 これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。
1コリント10:11 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。
2歴代誌36:20 彼はまたつるぎをのがれた者どもを、バビロンに捕えて行って、彼とその子らの家来となし、ペルシャの国の興るまで、そうして置いた。
36:21 これはエレミヤの口によって伝えられた主の言葉の成就するためであった。こうして国はついにその安息をうけた。すなわちこれはその荒れている間、安息して、ついに七十年が満ちた。

神の民が受け継いだ「約束の土地」は、もしそこに住む神の民が、神の民らしからぬ事を続け、罪の飲み食いを重ねて行くなら、その土地は彼らを吐き出す。
彼らが死ぬなり強制連行されて行くなりして、彼らがいなくなっている間、その地は、安息を得るのだ。

レビ記26:34 その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。
26:35  地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。
26:43  その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。

私達は、聖なる所から追い出される側になってはならない。
神の宮から追い出されて、神の宮に残った人達から「あの人がいなくなって安息が来たね」などと言われてはならない。
もし聖なる所で罪に罪を重ねるなら、そうなってしまうのだ。

エレミヤ5:24 彼らは『われわれに雨を与え、秋の雨と春の雨を時にしたがって降らせ、われわれのために刈入れの時を定められた/われわれの神、主を恐れよう』と/その心のうちに言わないのだ。
5:25 あなたがたのとがは、これらの事をしりぞけ、あなたがたの罪は、良い物があなたがたに来るのをさまたげた。

2歴代誌36:22 ペルシャ王クロスの元年に当り、主はエレミヤの口によって伝えた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの霊を感動されたので、王はあまねく国中にふれ示し、またそれを書き示して言った、
36:23 「ペルシャの王クロスはこう言う、『天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに賜わって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたのうち、その民である者は皆、その神、主の助けを得て上って行きなさい』」。

歴代誌の最後は、捕囚から70年が経った後の、クロス王による帰還命令によって終わる。
主の憐れみは、尽きない。
しかしもし人が、その限り有る人生の中で、あくまで主に従わない事を続けるなら、その人生の終わりは、この歴代誌の終わりのように悲惨なものとなってしまう。
そしてその向こうにも主の憐れみがあり、主に従う人達がいつまでも他人の罪のとばっちりを受け続けないようにして下さる。

歴代誌、および聖書全体は、まさに私達に関わる書物である。
これをし続けるなら必ずこれが起きる、という、真理のケーススタディが、幾通りも記されている。
私達の過去起きた事が書かれてあり、そしてこれから起きる事も書かれてある。
この、神の御言葉から戒めと養いを得て、祝福の王道から外れる事なく、この、地上の歩みを全うできる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主の目に悪を行い、バビロン捕囚へと転げ落ちて行くエホアハズ、エホヤキム、エホヤキン(2歴代誌36:1-10)
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いよいよ歴代誌の最終章である。
最後の善王であったヨシヤ王の突然の死の後、イスラエルは坂道をころげ落ちるような落ちぶれ方で衰退して行く。

36:1 国の民はヨシヤの子エホアハズを立て、エルサレムでその父に代って王とならせた。
36:2 エホアハズは王となった時二十三歳で、エルサレムで三月の間、世を治めたが、
36:3 エジプトの王はエルサレムで彼を廃し、かつ銀百タラント、金一タラントの罰金を国に課した。
36:4 そしてエジプト王は彼の兄弟エリアキムをユダとエルサレムの王とし、その名をエホヤキムと改め、その兄弟エホアハズを捕えてエジプトへ引いて行った。

歴代誌ではエホアハズに関しては良いとも悪いとも書いていないが、彼は主の目に悪を行った事が2列王記23:32に記されている。
良い王であった父の道に習わず、早速悪を行ったエホアハズの治世は、わずか3ヶ月で、エジプトにあっさり敗北し捕らえ移されて行ってしまった。
そして、その兄弟エホヤキムがエジプトの傀儡となって王となる。

36:5 エホヤキムは王となった時二十五歳で、十一年の間エルサレムで世を治めた。彼はその神、主の前に悪を行った。

エホヤキムの治世についてはエレミヤ書に詳しいが、その特徴は、べったりな親エジプト派であり、父ヨシヤの改革をひっくり返し、国全体を再び偶像礼拝へと引き戻してしまった。
彼はエジプトにべったりであったが、その統治の間にバビロンが力を蓄え、結局、エジプトもろともバビロンに圧倒される事になってしまう。

36:6 時に、バビロンの王ネブカデネザルが彼の所に攻め上り、彼をバビロンに引いて行こうとして、かせにつないだ。
36:7 ネブカデネザルはまた主の宮の器物をバビロンに運んで行って、バビロンにあるその宮殿にそれをおさめた。

この時のバビロン侵攻により、神殿の器類の一部と、何人かのユダヤ人が捕囚されて行った。いわゆる第一次バビロン捕囚である。
この時、少年であったダニエルもバビロンへ捕らえ移されて行った。
神が預言者エレミヤを通して言われていた事は始終、主に立ち返る事と、主が主権を渡されたバビロンへ従属するべき事であった。

エレミヤ27:5 わたしは大いなる力と伸べた腕とをもって、地と地の上にいる人と獣とをつくった者である。そして心のままに地を人に与える。
27:6 いまわたしはこのすべての国を、わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデネザルの手に与え、また野の獣をも彼に与えて彼に仕えさせた。
27:7 彼の地に時がくるまで、万国民は彼とその子とその孫に仕える。その時がくるならば、多くの国と大いなる王たちとが彼を自分の奴隷にする。
27:8 バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、バビロンの王のくびきを自分の首に負わない民と国とは、わたしがつるぎと、ききんと、疫病をもって罰し、ついには彼の手によってことごとく滅ぼすと主は言われる。
27:9 それで、あなたがたの預言者、占い師、夢みる者、法術師、魔法使が、「あなたがたはバビロンの王に仕えることはない」と言っても、聞いてはならない。
27:10 彼らはあなたがたに偽りを預言して、あなたがたを自分の国から遠く離れさせ、わたしに、あなたがたを追い出してあなたがたを滅ぼさせるのである。
27:11 しかしバビロンの王のくびきを首に負って、彼に仕える国民を、わたしはその故国に残らせ、それを耕して、そこに住まわせると主は言われる』」。

主がエレミヤを通して語られたにもかかわらず、ユダの王とその民は聞かず、偽預言者や占い師達の、楽観的で軽率な言葉を採用してしまい、ますます傷口を大きくしてしまう。

2列王記24:1 エホヤキムの世にバビロンの王ネブカデネザルが上ってきたので、エホヤキムは彼に隷属して三年を経たが、ついに翻って彼にそむいた。
24:2 主はカルデヤびとの略奪隊、スリヤびとの略奪隊、モアブびとの略奪隊、アンモンびとの略奪隊をつかわしてエホヤキムを攻められた。すなわちユダを攻め、これを滅ぼすために彼らをつかわされた。主がそのしもべである預言者たちによって語られた言葉のとおりである。

エホヤキムは偽預言者や占い師達にそそのかされ、バビロンに反逆した結果、バビロンからのみならず、シリヤ、モアブ、アンモンから徹底的に略奪されてしまった。

36:8 エホヤキムのその他の行為、その行った憎むべき事および彼がひそかに行った事などは、イスラエルとユダの列王の書にしるされている。その子エホヤキンが彼に代って王となった。
36:9 エホヤキンは王となった時八歳で、エルサレムで三月と十日の間、世を治め、主の前に悪を行った。
36:10 年が改まり春になって、ネブカデネザル王は人をつかわして、彼を主の宮の尊い器物と共にバビロンに連れて行かせ、その兄弟ゼデキヤをユダとエルサレムの王とした。

エホヤキンはエレミヤ書ではエコヌヤ、マタイではエコニヤと記されている。
彼についても、この書はわずかに記すのみであるが、第二次バビロン捕囚と呼ばれる事件がこの時代に起こった。
世界史として見るなら、小国イスラエルが、大国バビロンに制圧され翻弄された、という所だが、しかしこれは全て主の主権の元に行われた事である。

ダニエル1:1 ユダの王エホヤキムの治世の第三年にバビロンの王ネブカデネザルはエルサレムにきて、これを攻め囲んだ。
1:2 主はユダの王エホヤキムと、神の宮の器具の一部とを、彼の手に「わたされた(ヴァイッテン・アドナイ:主が渡された)」ので、彼はこれをシナルの地の自分の神の宮に携えゆき、その器具を自分の神の蔵に納めた。

ヴァイッテン・アドナイ。主が渡された。バビロンの手に、神殿の尊い器類を。
主は、主を敬わない事を徹底して貫く世代を捨て、主の尊い器類をその者達の手から奪い、主が定めた者の所へと委ねる。
歴代誌の出来事、旧約の全ての出来事は全て、現代を生きる私達への警告である。
私達は主の言葉に逆らい災いに遭う者ではなく、進んで主の言葉に喜んで従い、喜んで祝福を受け続ける者であるべきだ。

無駄な争いに首を突っ込んで、あまりにあっけなく死んでしまったヨシヤ王(2歴代誌35:1-19)
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主の御前に良い事を行い、優れた過越のいけにえを捧げ、素晴らしい賛辞が与えられたヨシヤ王であったが、その最後はあまりにも突然訪れた。
彼が死んだきっかけは、関わるべきでない争いに首を突っ込んだ事によった。

2歴代誌35:20 このようにヨシヤが宮を整えた後、エジプトの王ネコはユフラテ川のほとりにあるカルケミシで戦うために上ってきたので、ヨシヤはこれを防ごうと出て行った。
35:21 しかしネコは彼に使者をつかわして言った、「ユダの王よ、われわれはお互に何のあずかるところがありますか。わたしはきょう、あなたを攻めようとして来たのではありません。わたしの敵の家を攻めようとして来たのです。神がわたしに命じて急がせています。わたしと共におられる神に逆らうことをやめなさい。そうしないと、神はあなたを滅ぼされるでしょう」。

箴言に記されている。
箴言26:17 自分に関係のない争いにたずさわる者は、通りすぎる犬の耳をとらえる者のようだ。

エジプトはなぜこの時、行軍していたのか。それは当時の大国、アッシリヤ、エジプト、バビロンの3国間の事情による。

当時アッシリヤは力衰え,新興のバビロニヤがこれを西北方へ押しやっていた.アッシリヤ王とその軍隊はバビロニヤ軍に追われ,ユーフラテス川上流のカルケミシュまで追い詰められた.このアッシリヤへの援軍を率い〈エジプトの王ネコ〉(20)が北上するという情勢の中で,それを阻止するためにヨシヤは軍を率いて〈メギドの平地〉(22)でエジプト軍に戦いを挑んだ.ネコは「ユダを攻めるのではないから,軍を引け」と忠告したが,ヨシヤは聞き入れず,この戦いで彼は戦死する(20‐24)(聖書注解)

エジプトの王は「神(エローヒム)」の名を出して、この戦いは神が命じられた戦いである、あなたは関わるべきでない、と言った。

35:22 しかしヨシヤは引き返すことを好まず、かえって彼と戦うために、姿を変え、神の口から出たネコの言葉を聞きいれず、行ってメギドの谷で戦ったが、

歴代誌の筆者は、「神の口から出たネコの言葉を聞きいれず」と書いた。
ネコは当然、エジプトの神の事を言ったのであろうが、しかし、この戦いに関わってはならない、というのは、まことの神からの言葉であったのだ。
私達はどのように、まことの神の言葉を判別すれば良いのだろう。
現代の私達は、御言葉に聞くべきである。

ヨシヤには預言者がいたのに、預言者に聞かなかった。
また、祭司がいたのに、祭司にも聞かなかった。
そして、御言葉があったのに、御言葉にも聞かなかった。
もし上のどれかに聞いていれば、この戦いに関わってはならない事は、明らかに示されていただろう。

エジプトは「イスラエルから遠く離れている町々」に当たるため、戦いを仕掛けるとするなら、申命記20:10-15節の御言葉を適用すべきであった。

申命記20:10 一つの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならない。
20:11 もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。
20:12 もし穏やかに降服せず、戦おうとするならば、あなたはそれを攻めなければならない。
20:13 そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。
20:14 ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主が賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。
20:15 遠く離れている町々、すなわちこれらの国々に属さない町々には、すべてこのようにしなければならない。

戦うべきタイミングは、13節にある通り「あなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時」である。
主が敵を「あなたの手に渡す」と宣言されるまでは、戦いを仕掛けてはならないのに、ヨシヤは伺う事をせず、戦いにさっさと出てしまった。

35:23 射手の者どもがヨシヤを射あてたので、王はその家来たちに、「わたしを助け出せ。わたしはひどく傷ついた」と言った。
35:24 そこで家来たちは彼を車から助け出し、王のもっていた第二の車に乗せてエルサレムにつれて行ったが、ついに死んだので、その先祖の墓にこれを葬った。そしてユダとエルサレムは皆ヨシヤのために悲しんだ。

あの最大の賛辞が与えられたヨシヤ王の、まことに、あっけない死に方であった。
その原因は、無駄な争いに首を突っ込んだ事によった。
主が私達に望んでおられる事は、柔和な者、平和をつくる者となる事である。

マタイ5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
逆に読むなら、喧嘩っ早い者は災いである、彼らは地を受け継げない、あるいは、地から吐き出されてしまう、という事か。

マタイ5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
逆に読むなら、争いをつくり出す人達は災いである、彼らは神の子とは呼ばれない、あるいは、悪魔の子と呼ばれるであろう、という事か。

35:25 時にエレミヤはヨシヤのために哀歌を作った。歌うたう男、歌うたう女は今日に至るまで、その哀歌のうちにヨシヤのことを述べ、イスラエルのうちにこれを例とした。これは哀歌のうちにしるされている。
35:26 ヨシヤのその他の行為、主の律法にしるされた所に従って行った徳行、
35:27 およびその始終の行いなどは、イスラエルとユダの列王の書にしるされている。

彼の死は、本当に人々に惜しまれ、その哀歌は「今日に至るまで」となえられた。
この歴代誌の出来事を、私達は教訓として肝に命じておくべきである。
いかに良い行いを積み、いかに素晴らしい業績を残した偉大な王と言えども、主の命令を離れ、むやみに戦うなら、あっさりと命を落としてしまうのだ。
つまらない争い事に首をつっこんで、せっかく今まで積み上げて来た業績をあっさり台無しにする事なく、平和な者として神の子と呼ばれ、柔和な者として多くの地を相続する私達でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

罪と死の問題を打ち破る鍵(1列王記17:17-24)
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17:17 これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えたので、
17:18 彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。

ききんの時代、最後の食料をささげて預言者を養ったやもめは、尽きる事がなくなったその食料によって、自身も、息子も、生きながらえていた。
それなのに、子は病気になって死んでしまった。
生かすための奇跡が起きていた所に、死がおとずれてしまう。彼女のみならず、私達も「なぜ」と思う。
なぜこのような事が起きるのか。イエス様の言葉にヒントがある。

『姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。』(ヨハネ11:3-6)

イエス様は、愛しておられるラザロが病気であると聞いたのに、すぐに癒やしには行かず、あえて、なお数日滞在された。
それでラザロは、イエス様が行かないままに死んでしまうのだが、イエス様はなぜ敢えてそのままにしておかれたのか。
その答えは、人々が神の栄光を見るため、また、人の子が、それによって栄光を受けるためである。(ヨハネ11:4)
結局、やもめの子は生き返らされたが、それによって預言者エリヤが神の人である事、そして、預言者の口にある主の言葉が真実である事を、人々が知った。(1列王記17:24)

なぜこの事が起きたのか、という事の理由のもう一つは、罪の問題を思い起こさせるためである。
彼女は「あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」と言ったが、彼女はこの原因を、罪、と認識していた。
そう、干ばつが起きたそもそもの原因は、イスラエルの罪ゆえであった。しかしイスラエルの王アハブや多くの人々は、それを自分の罪の故とは思わず、エリヤのせいにして、エリヤを指名手配していた。
しかし彼女のように、誰か他の人や世情から見出そうとするのではなく、自分の内から見出そうという性質があった。そのように自分の罪や弱さを認める人は、救いから遠くはない。

そしてさらにもう一つ、主は交わり(コイノニア)を通して働かれる事を知るためにである。
主から日ごとに与えられる食料によって預言者を養っていた彼女は、この罪と死の問題を預言者の所へ持って行った。

17:19 エリヤは彼女に言った、「子をわたしによこしなさい」。そして彼女のふところから子供を取り、自分のいる屋上のへやへかかえて上り、自分の寝台に寝かせ、

彼女は、その子が病の間も、死んだ後も、その子をずっと「ふところ」に抱えていた。
彼女は息子が死んで、ようやくふところからその子を手放し、エリヤへと渡した。
私達も罪と死の問題を、もはや解決不能になるまで自分のふところにかかえて自分で何とかしようとする所があるが、その時こそ、手遅れになる前に信仰者の元へ持っていくべきである。

『信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。』(ヤコブ5:15-18)

罪の問題、死の問題。人類全体はそれによって支配されている。
しかし、コイノニアの交わりの中では、自分よりも信仰のある人、自分よりも義人である人に、祈ってもらう事ができるのだ。
『預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。』(マタイ10:41)
主は兄弟姉妹の交わり(コイノニア)の内に、永遠の祝福を命じられた。(詩篇133篇)

17:20 主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。
17:21 そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。
17:22 主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。

エリヤは必死に祈って、三度その子の上に伏せって、ようやく祈りに答えられたが、イエス様がラザロをよみがえらせる時はエリヤのようでなく確信に満ち満ちており、ただ、祈りを聞いて下さった事への感謝と、権威ある「命令」だけがあった。
エリヤのような信仰の先輩を頼りとする事は、確かに有用だが、最も有用な事は、完全なる主、イエス・キリストに直接お願いする事である。

奇跡的に生かされていたのに、奪われ、そして再び、主にあって取り戻す。
これら一連の事が起きるのは、神が遣わされた者は一体誰であるのかを、人々が真に知って彼を信じるため、そして、神の栄光が現れるためである。

17:23 エリヤはその子供を取って屋上のへやから家の中につれて降り、その母にわたして言った、「ごらんなさい。あなたの子は生きかえりました」。
17:24 女はエリヤに言った、「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました」。

彼女はこの一連の事を通して、さらに深く知った。
エリヤこそ、まことに神から遣わされた人であり、彼をとおして為された事は、主のものである事を。

世の中全体に、罪の問題があり、死の問題がある。
しかし、それらの問題に勝利するのは、個人個人の信仰告白であり、そしてその罪と死の問題を打ち破る鍵を、主は、教会に与えられた。

マタイ16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
16:19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

歴代の王の中で最も優れた過越祭を捧げたヨシヤ王(2歴代誌35:1-19)
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モーセの律法を発見し、その内容におののいたヨシヤ王は、ますます主に対する熱心を燃え立たせ、素晴らしい過越祭を捧げる。

35:1 ヨシヤはエルサレムで主に過越の祭を行った。すなわち正月の十四日に過越の小羊をほふらせ、
35:2 祭司にその職務をとり行わせ、彼らを励まして主の宮の務をさせ、
35:3 また主の聖なる者となってすべてのイスラエルびとを教えるレビびとに言った、「あなたがたはイスラエルの王ダビデの子ソロモンの建てた宮に、聖なる箱を置きなさい。
・・・
35:6 あなたがたは過越の小羊をほふり、身を清め、あなたがたの兄弟のために備えをし、モーセが伝えた主の言葉にしたがって行いなさい」。

彼は祭司やレビ人に「モーセが伝えた主の言葉にしたがって行いなさい」と命じた。
すなわち、主の言葉どおりに、である。
その時、モーセの律法の書が発見されたばかりで、その写しも無かったと思われる。
それでも彼らは「その通り」を行おうと努めた。主は、そんな彼らを助けて下さる。

35:7 ヨシヤは、小羊および子やぎを民の人々に贈った。これは皆その所にいるすべての人のための過越の供え物であって、その数三万、また雄牛三千を贈った。それらは王の所有から出したのである。
35:8 そのつかさたちも民と祭司とレビびとに真心から贈った。また神の宮のつかさたちヒルキヤ、ゼカリヤ、エヒエルも小羊と子やぎ二千六百頭、牛三百頭を祭司に与えて過越の供え物とした。

ヨシヤ自身も、民のつかさたちも、長である人々も、真心から過越のための捧げものを捧げた。

35:9 またレビびとの長である人々すなわちコナニヤおよびその兄弟シマヤ、ネタンエルならびにハシャビヤ、エイエル、ヨザバデなども小羊と子やぎ五千頭、牛五百頭をレビびとに贈って過越の供え物とした。
35:10 このように勤めのことが備わったので、王の命に従って祭司たちはその持ち場に立ち、レビびとはその班に従って仕え、
35:11 やがて過越の小羊がほふられたので、祭司はその血を受け取って注いだ。レビびとはその皮をはいだ。

かなりのいけにえの数であり、しかも何十年ぶりかの務めである。
その血を注いだり、皮をはいだりする事にとても骨折れたであろうが、それでも、彼らは主のために行った。

35:12 それから燔祭の物をとり分け、それを民の人々の氏族の区分に従って渡し、主にささげさせた。これはモーセの書にしるされたとおりである。また牛をもこのようにした。

再び「モーセの書にしるされたとおり」という言葉が示された。
この、「主の言葉どおり行う事」こそ、何より大事である。
出エジプト記の最終章、40章には、「主がモーセに命じられたとおりである」という言葉が8度も出てくるが、主に命じられた事を行うこと7度、8度と人の側が行う結果、主の栄光の雲が幕屋に満ち、主のきわめて濃厚な臨在が現れた。
私達もこのように、主の言葉どおりに行う事が7度8度満ちるなら、私達の生活に、仕事場に、家庭に、主の濃厚な臨在が現れるのだ。

35:18 預言者サムエルの日からこのかた、イスラエルでこのような過越の祭を行ったことはなかった。またイスラエルの諸王のうちには、ヨシヤが、祭司、レビびと、ならびにそこに来たユダとイスラエルのすべての人々、およびエルサレムの住民と共に行ったような過越の祭を行った者はひとりもなかった。
35:19 この過越の祭はヨシヤの治世の第十八年に行われた。

預言者サムエルの時代からこのかた、である。
サムエルはサウルに油を注いでイスラエル最初の王とし、またダビデにも油を注いだキングメーカーである。
つまり、歴代の王の中で、ヨシヤは、最も優れた過越祭を捧げたのだ。

御言葉が少ない中でも御言葉のとおりを行おうという熱心ゆえに、ヨシヤ王に、最大の賛辞が与えられたのだ。
私達も主に対する熱心を、「誤った熱心」として空回りする事なく、「主の御言葉のとおり行う」という事に向けるなら、主から栄誉をいただく事が出来るのだ。

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