メッセージ - 201803のエントリ

この地上において追求すべき事とは(マルコ10:32-45)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は「しゅろの聖日」、すなわち、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城し、人々が「しゅろの葉」を取って「ホサナ(ああ救い給え)」と叫びながら歓迎した事を記念する日であるが、その日を起点として始まる週は、イエス様の受難を覚える「受難週」、その金曜はイエス様の十字架を覚える「受難日」としている。
イエス様は、いよいよこれから十字架にかかろうとエルサレムへ向かう時、弟子達にはっきりと十字架の苦難と死とよみがえりを伝えた。それなのに、弟子のヤコブとヨハネは、まことに時宜をわきまえな願いをする。
「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」と。(マルコ10:32-37)
『イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。』(38節)
弟子達は何故にイエス様について行ったか。イエス様を救い主だと思ったからだが、彼らにとって「救い」は何だったか。当時、ローマ帝国の圧制から救われ、イエス様が力強い指導となってイスラエルを再興してくれる事を、人々も弟子達も期待していた(使徒1:6)。ある人はイエス様を、パンをいつでも提供してくれる王として期待し(ヨハネ6:14-15)、別の人は病気や悪霊を追い出してくれる人として期待した。多くの人達は、自分がこうなったら「救われた状態である」と勝手な願望を膨らませる。「救いはお金にある」「救いは権力にある」「救いは美貌にある」等など。しかし、それを満足させて下さるお方としてイエス様に期待する人は、イエス様に「受難」を負わせる者になってしまうのに、1週間もかからないのだ。

救いは地上の何かには無いし、永遠に住まうべき場所も地上には無い。しかし多くの人々は地上において「場所取り」をしようと、やっきになっている。お金持ちという場所、権威という場所、人気者という場所など。
その数限られた「場所」に執着する故に、多くの奪い合い、殺し合いが行われてきたのが、世界史である。
キリスト者がそうした「場所取り」をし出すと、必ず失敗する。実際、聖書の多くの人物が、神様から与えられた特別な「役割」を正しく行使する事を止め、「場所取り」に専念するようになってしまった途端、神の主権が断たれてしまった例が、数多くある。大祭司エリの息子のホフニとピネハスは、祭司としての務めをないがしろにし、祭司職という「場所」を乱用して、聖徒の捧げものを横取りし、神に仕える女性に手を出し、神を軽んじた結果、この一族は祭司職という「場所」から絶たれて一族は滅んだ。(1サムエル記2-4章)
また、サウル王は、イスラエルで最初の王として主から任命されたのに、王としての役割を正当に果たさなかったため神から王権が除外されたにもかかわらず、王座という「場所」に固執し、新たに王として任職されたダビデを殺そうと長年追い回した結果、とても悲惨な最後を遂げてしまった。(1サムエル記15-31章)

私達はイエス様を主とし、彼に依り頼んでいるなら、王族とされた祭司であり、神の驚くべきみわざを伝える「役割」が与えられている。『この主のみもとにきて、あなた方も、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神に喜ばれる霊のいけにえを、捧げなさい。…あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:5-9)
王も、祭司も、神と人との間に立って「なかだち」をする役割が与えられた者達である。世の人は「場所」を求めるが、私達キリスト者は、場所を求める者ではない。キリスト者が追求すべきは「役割」であり、役割をよく果たす人にこそ、神は時に応じた「場所」与えて下さるのだ。
もし王である事、祭司である事に安住し、既得権を乱用して「場所」求めをするなら、役割も場所も神から取り上げられてしまう。イスカリオテのユダは弟子という既得権を乱用した結果、取り上げられてしまった。
キリストは、この地上では、王座に座る事ではなく、自らのからだを十字架に捧げる「贖いのつとめ」を果たすために来られた。だから天に上げられ、永遠の王座に着かれた。私達も同じである。信仰の先人達はこの地上に場所を求めなかった。彼らはむしろ、天に永遠の場所を求めるために、地上では旅人・寄留者として過ごし、それぞれ神から与えられた「役割」に忠実に従ったのである。(ヘブル11:13-16)
結局、私達が地上において追求すべきは、場所ではなく、役割であり、使命であり、つとめである。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」(黙示録7:10) 私達もこの告白にしっかりと立ち、あの天国で、あのしゅろの枝を手に持った大勢の群衆と共に、永遠に主をほめたたえる「永遠のしゅろの日」に入る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
戒めを受け罪を投げ出し、新しい霊を受けよ(エレミヤ6:1-15)
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一つとなって完全なものとされて行くように(2コリント13:11-13)
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パウロはコリントの教会を愛していた故に、コリントへの手紙を二度も書いた。
愛とは優しさだけではなく、時には厳しさも伴う。手紙の中には時には手厳しく戒める場面もあったが、しかし手紙の最後は、結局、愛に満ちた祝祷で終わっている。
紛れも無い愛によって、愛していたからだ。

13:11 最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。

「いつも喜んでいなさい。」これはギリシア語流の挨拶言葉ではあるが、それは私達に対する命令でもある。
「全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。」
パウロはコリントのみならず、他の教会たちにも同じ事を勧めている。

エペソ4:11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
4:12 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
4:13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。

教会とは一人ではないし、信仰生活も決して一人では有り得ない。
共々がそれぞれに与えられた賜物を用い、互いに励まし合い、勧めあい、そして愛の結びの帯びによって一つとなってこそ、完全なものへと近づいて行くのである。

4:14 こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、
4:15 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。
4:16 また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。

そして、共に一つとなるからには、互いに親密に交わりを持つべきであり、その交わりには、御霊による一致が必要である。

2コリント13:12 きよい接吻をもって互にあいさつをかわしなさい。聖徒たち一同が、あなたがたによろしく。

祝福の挨拶をしあう所には、祝福が豊かにある。
ボアズの家庭と職場は、まさにそうだった。

ルツ2:4 その時ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。

ボアズの時代は士師記の荒んだ時代であり、また彼の母は元々カナンの遊女であったラハブだった。
そのような事情の家庭で、どうして彼は素晴らしい信仰をもった有力者として成長できたのだろうか。
やはり、誰よりも主を愛する愛と、一致と、そして祝福の挨拶に満ちた家庭だったからであろう。
くちびるから祝福の挨拶をし合うこと、すなわち、きよい接吻をもって互いに挨拶をかわす事によって、実際に祝福がその家庭に、また職場に宿るのである。

パウロは最後に祝祷している。

13:13 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。

三位一体の主をパウロは宣言している。
三つにいまし、一つである。その三つの位格の内には愛の交わりがあり、三つでありながら、一つとなる。
それと同じように、キリストにある私達は多数いても、愛の交わりにより、イエスキリストのより、御霊により、この一つの中へと加えられていくのである。

世界を動かすような重要な人々を「あなたに与えた」(使徒27章)
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27:1 さて、わたしたちが、舟でイタリヤに行くことが決まった時、パウロとそのほか数人の囚人とは、近衛隊の百卒長ユリアスに託された。
27:2 そしてわたしたちは、アジヤ沿岸の各所に寄港することになっているアドラミテオの舟に乗り込んで、出帆した。テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコも同行した。
27:3 次の日、シドンに入港したが、ユリアスは、パウロを親切に取り扱い、友人をおとずれてかんたいを受けることを、許した。

パウロはカイサルに上訴したため、ローマへと連行される途上にあった。
身分は、囚人。
最も蔑まれる立場にあるが、しかしこの章が終わる頃にはその立場は逆転する。

27:4 それからわたしたちは、ここから船出したが、逆風にあったので、クプロの島かげを航行し、
27:5 キリキヤとパンフリヤの沖を過ぎて、ルキヤのミラに入港した。
27:6 そこに、イタリヤ行きのアレキサンドリヤの舟があったので、百卒長は、わたしたちをその舟に乗り込ませた。

このアリキサンドリヤの舟、多くの商品が積まれ、多くの軍人や船乗り、ビジネスマン、社長など、当時の世界を動かすような人々276人が乗っていた。
彼らはこの章で、皆、パウロのものとなる。

27:7 幾日ものあいだ、舟の進みがおそくて、わたしたちは、かろうじてクニドの沖合にきたが、風がわたしたちの行く手をはばむので、サルモネの沖、クレテの島かげを航行し、
27:8 その岸に沿って進み、かろうじて「良き港」と呼ばれる所に着いた。その近くにラサヤの町があった。

舟が遅い、それはビジネスマンからすればイライラするものかもしれない。しかし実は、これを起こされたのは神である。

27:9 長い時が経過し、断食期も過ぎてしまい、すでに航海が危険な季節になったので、パウロは人々に警告して言った、
27:10 「皆さん、わたしの見るところでは、この航海では、積荷や船体ばかりでなく、われわれの生命にも、危害と大きな損失が及ぶであろう」。
27:11 しかし百卒長は、パウロの意見よりも、船長や船主の方を信頼した。

パウロは根拠なく言ったのではない。パウロ自身既に沢山の航海を経験し、冬の地中海がどんなに恐ろしいか知っていたし、何より主からの導きをいつも得ていた。
しかし世の人は、もうかりたいから、さっさと仕事を済ませたいから、あるいは、もっと楽しい港で冬を過ごしたいから、そういった心を多数の人々が持っていたので、パウロの意見はこの時弾かれてしまう。

27:12 なお、この港は冬を過ごすのに適しないので、大多数の者は、ここから出て、できればなんとかして、南西と北西とに面しているクレテのピニクス港に行って、そこで冬を過ごしたいと主張した。
27:13 時に、南風が静かに吹いてきたので、彼らは、この時とばかりにいかりを上げて、クレテの岸に沿って航行した。
27:14 すると間もなく、ユーラクロンと呼ばれる暴風が、島から吹きおろしてきた。

人々は静かな南風を、好機だ、と思って舟を進めたが、しかしそれはすぐに暴風へと変わり、舟はどんどん陸地から離れて行ってしまった。
このユーラクロンという言葉、不思議な言葉である。ギリシア語とラテン語の組み合わせで、元々存在しない言葉である。
歴史で唯一、この場面にしかない風。なぜ著者ルカは存在しない言葉をつくったのか?
理由は、この風は「主であるわたしが起こした」からだ。
主のしもべが行く所、全て、主が太陽を、風を、軍隊を動かし、道は開かれるのだ。
必要であるなら主はいつでも満たす。
主は風の方向を変え、ラテン語とギリシア語を合成し、ギリシア、ラテン系列の人々へとに福音を伝えるために、ユーラクロンを起こしたのだ。

27:18 わたしたちは、暴風にひどく悩まされつづけたので、次の日に、人々は積荷を捨てはじめ、
27:19 三日目には、船具までも、てずから投げすてた。

金に目がない商人たちが二日で商品を捨て、三日目には船員が大事にしている船具を捨てる。
それ程その三日間は、一瞬一瞬が命が深刻な事態だったのだ。

27:20 幾日ものあいだ、太陽も星も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、わたしたちの助かる最後の望みもなくなった。
27:21 みんなの者は、長いあいだ食事もしないでいたが、その時、パウロが彼らの中に立って言った、「皆さん、あなたがたが、わたしの忠告を聞きいれて、クレテから出なかったら、このような危害や損失を被らなくてすんだはずであった。
27:22 だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。
27:23 昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使が、わたしのそばに立って言った、
27:24 『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』。
27:25 だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。
27:26 われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」。

パウロは舟に乗った時点では人々から蔑まれた、一回の囚人に過ぎなかったが、しかしこの舟の中で彼は主にあって地位を得て行った。
そして、御声を聞いた。「たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている」と。
主は、私達にも、世界を動かすような人々を与えて下さる。
そのためにはユーラクロンが吹くかもしれない。
それでも主に聞く姿勢をいつも保ち続けるなら、私達は与えられるのだ。
必要な人々が、経済が、機会が。

2サムエル記5:23 そこで、ダビデが主に伺ったところ、主は仰せられた。「上って行くな。彼らのうしろに回って行き、バルサム樹の林の前から彼らに向かえ。
5:24 バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは攻め上れ。そのとき、主はすでに、ペリシテ人の陣営を打つために、あなたより先に出ているから。」
5:25 ダビデは、主が彼に命じたとおりにし、ゲバからゲゼルに至るまでのペリシテ人を打った。
 

労苦は無駄に終わる事は決して無い - 農夫の希望(1コリント15:58)
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1コリント15:58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

黙示録13:10 とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。

エペソ4:7 しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。
4:8 そこで、こう言われている、/「彼は高いところに上った時、/とりこを捕えて引き行き、/人々に賜物を分け与えた」。

ガラテヤ6:7 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。
6:8 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
6:9 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。
6:10 だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。

人知をはるかに超えたキリストの情熱的な愛(雅歌8:6-7)
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週報/メッセージ(説教)概要

 イエス様はあなたを愛している。よく聞く言葉であるが、どれほど、どのように愛しておられるのだろう。男女の愛が歌われる書・雅歌書から、”真の男女関係”である「キリストと私達」の愛の関係を見ていきたい。
『わたしを刻みつけてください。あなたの心(labe:心臓)に、印章として。あなたの腕に、印章として。愛は死のように強く、熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。』(雅歌8:6 新共同訳)
ここには女性の男性に対する願望が記されている。女性が男性の心臓に、彼の左腕でしっかり結びつけられたい、と願うのは自然だが、実はイエス様は、十字架の上で彼女が願った通りを全ての人に対し、して下さったのだ。女性は「わたしを刻みつけて下さい」と願っているが、主はその手に、足に、脇腹に、私達の身代わりに負って下さった傷を刻みつけて下さった。イエス様は、私達がまだ罪人であった時から、命がけのpassion(受難)をもって私達を救おうとし、十字架という実体を伴った行動によって、愛を表して下さったのだ。(ローマ5:8) 友のためにではなく、敵対していた罪人のために死んで下さる…それは、罪によって死んでいた私達が、彼にあって生きるため。神の愛はまさに人知を遥かに超えている。(エペソ3:16-21)

イエス様の受難は英語ではpassionというが、十字架の場面で、イエス様はありとあらゆる痛み、悲しみ、苦しみを経験され、そうして愛を示された。実に情熱的に、感情的に、そして実際的に。
十字架の場面で、人々はイエス様をあざけり、鞭を打ち、刺の冠を被せ、笑いものにした。そして言った。
もし神の御子なら、今すぐ十字架から降りて来い、メシヤならその圧倒的な力で自分を救え、と。人は思う。    
これだけばかにされ、傷つけられていて、もしメシヤとして自分を救う力があるなら、すぐにでも十字架から降りてその者共を滅ぼしてしまうのが当然だ。それをしないという事は、そのパワーが無いのだ、だから、彼はメシヤではない、と当然のように思う。しかしあいにく、神の愛は人知を遥かに超えている、と書いてある。
彼は、全被造物を創られ、万物は彼に在って成り立っている(コロサイ1:15-17)。罵る彼らをたちまち滅ぼす力も、権威も持っていながら、敢えて抵抗せず、わざと自分を十字架の苦しみへ明け渡したのだ!
一体、何のために?! それは、私達を愛するゆえに。救うために。十字架につけろと叫び罵る彼らを愛し、彼ら(すなわち私達)が罪の中で滅んで欲しくないと願う故、身代わりとなって十字架の罰を受けたのだ。
イエス様が十字架につけられたのは、ちょうど過越祭の時期であるが、ユダヤ人は過越祭の時、雅歌書を朗読する。イエス様は激しい情熱をもって私達を封印のように腕に、心臓に刻みつけて下さったのだ。

イエス様は神であられるのに、人となって降りて来られた。それは罪と死とサタンの呪いから、あの十字架の上で私達を奪い返し、私達をあのお方の手の中へ、脇腹へ、心臓の中へと、封印のようにしっかりと刻みつけ、かくまうために。神の愛は優しく、そして激しく激情的で、強いのだ。
そしてその愛の強さは、死よりも、さばきよりも強い。『愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。』(雅歌8:7) かつてノアの時代、全世界は甚だ罪深かったゆえに洪水によって裁かれたが、神の愛と憐れみは、裁きに対して勝ち誇る。イエス様を信じてその愛の覆いの中に入った私達には、裁きはもう届かない。神の愛は、どんな財産をもってしても買う事は出来ない。ただ信仰によるのでなければ。
そして、このキリストの愛は、死よりも、よみよりも強い。『・・・わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。』(ローマ8:31-39)

『王はわたしをそのへや(奥の間)に連れて行かれた。わたしたちは、あなたによって喜び楽しみ、ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。』(雅歌1:4) 愛する男女は、奥の部屋で愛の交歓をするものだが、キリストは十字架の上で、封じられていた奥の間へ通じる覆いを、破棄して下さった。
イエス様が息を引き取られた時、神殿の幕が真っ二つに裂け、それまで封じられていた最も聖なる場所への道が開かれ、天国への道が、イエス様の裂かれた御体を通して開通したのだ。そうまでして主は、私達にあらゆる良きものを提供して下さった。そうであるからには、私達も主の愛に対して熱心であるべきである。
キリストの人知を超えた十字架の愛の広さ、長さ、高さ、深さをますます理解できる皆さんでありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
死よりも陰府よりも遥かに強いキリストの愛の強さ(雅歌1章)
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本人は悔い改めて恵みを得ても、後々まで災いが残ってしまうケース(2歴代誌33:14-25)
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マナセは主の面前で忌み嫌われる偶像を造り、多くの罪なき血を流して、前に甚だしく罪を犯して来たが、バビロンに捕囚されて行った時、その先で悔い改め、奇跡的に再び王座に戻してもらった。
彼の後半人生はどうだったか。

33:14 この後、彼はダビデの町の外の石がきをギホンの西の方の谷のうちに築き、魚の門の入口にまで及ぼし、またオペルに石がきをめぐらして、非常に高くこれを築き上げ、ユダのすべての堅固な町に軍長を置き、
33:15 また主の宮から、異邦の神々および偶像を取り除き、主の宮の山とエルサレムに自分で築いたすべての祭壇を取り除いて、町の外に投げ捨て、
33:16 主の祭壇を築き直して、酬恩祭および感謝の犠牲を、その上にささげ、ユダに命じてイスラエルの神、主に仕えさせた。
33:17 しかし民は、なお高き所で犠牲をささげた。ただしその神、主にのみささげた。

彼は主に忌み嫌われる偶像を投げ捨て、主にいけにえを捧げて、人々にも主に仕えさせた。
彼の後半人生は、悔い改めに相応しく歩む人生だった。
いかに多くの罪なき血を流した者であったとしても、最後に心から悔い改めるなら、主はその人を赦して下さる。
主の恵みはなんと深いものであろうか。

エゼキエル33:12 人の子よ、あなたの民の人々に言え、義人の義は、彼が罪を犯す時には、彼を救わない。悪人の悪は、彼がその悪を離れる時、その悪のために倒れることはない。義人は彼が罪を犯す時、その義のために生きることはできない。
33:13 わたしが義人に、彼は必ず生きると言っても、もし彼が自分の義をたのんで、罪を犯すなら、彼のすべての義は覚えられない。彼はみずから犯した罪のために死ぬ。
33:14 また、わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もし彼がその罪を離れ、公道と正義とを行うならば、
33:15 すなわちその悪人が質物を返し、奪った物をもどし、命の定めに歩み、悪を行わないならば、彼は必ず生きる。決して死なない。
33:16 彼の犯したすべての罪は彼に対して覚えられない。彼は公道と正義とを行ったのであるから、必ず生きる。

主は確かに、どんなに悪どい事をした人でも、その本人が悔い改めたなら、その本人を赦して下さる。
イエス様の十字架の場面の強盗さえ、最後に悔い改めたため、パラダイスに入れたのだ。
しかし、彼らが悔い改めたからと言って、流してきた血が拭われる事ではないし、その犠牲者となって来た人々の心が癒されるわけではない。
彼らに対する「償い」が為されないままであるなら、加害者側の子が、近親者が、その償いを払わなくてはならない。

マナセ本人は悔い改めた。その結果、彼には王権が戻ってきて、彼は五十五年という最長の統治を行う事が出来た。
しかし、彼の代での罪の償いが為されないままだった故に、マナセのさらに代を下った後、その刈り取りとして、バビロン捕囚の憂き目に遭ってしまった。
列王記は、バビロン捕囚の原因は、バビロン捕囚より何代も前の「マナセがすべておこなったその罪のため、また彼が罪なき人の血を流し、罪なき人の血をエルサレムに満たしたため」と、はっきり書いている。

2列王記24:1 エホヤキムの世にバビロンの王ネブカデネザルが上ってきたので、エホヤキムは彼に隷属して三年を経たが、ついに翻って彼にそむいた。
24:2 主はカルデヤびとの略奪隊、スリヤびとの略奪隊、モアブびとの略奪隊、アンモンびとの略奪隊をつかわしてエホヤキムを攻められた。すなわちユダを攻め、これを滅ぼすために彼らをつかわされた。主がそのしもべである預言者たちによって語られた言葉のとおりである。
24:3 これは全く主の命によってユダに臨んだもので、ユダを主の目の前から払い除くためであった。すなわちマナセがすべておこなったその罪のため、
24:4 また彼が罪なき人の血を流し、罪なき人の血をエルサレムに満たしたためであって、主はその罪をゆるそうとはされなかった。

見えない神に対する悔い改めによって、見えないお方からの赦しは、確かに得られる。
しかし、見える人に対してもしっかり赦しを乞い、償いをしなければならない。それをしないままなら、彼の子に、近親者に、その塁が及んでしまうのだ。

ダビデの時代、先代の王のサウルがギブオン人の血を流した事の罪を、ダビデの時代に3年の飢饉という形で報いた事があった。
なぜサウルの代にではなく、ダビデの代に災いが起きたのか。
もしかすると、サウルが始めたギブオン人への弾圧は、時代と共に陰湿化し、差別と偏見が強化され、ギブオン人のうめきがいよいよ切になって主に叫びが届いたからかもしれない。
ダビデ王はなぜ、ギブオン人の「イスラエルを呪いたい心境」を恐れ、気にしたか。それは、主はイスラエルにではなく、ギブオン人に軍配を上げたからだ。
それでダビデが正しく「償い」をする方法を聞き、その通りに実行した所、イスラエルに再び恵みの雨が降るようになった。

このように、この地上は、罪の加害者がおり、罪の被害者がいるが、全ての人は、その立場交換の繰り返しで成り立っているような所がある。
その負のスパイラルから脱却させて下さる唯一のお方は、イエス様である。

33:20 マナセはその先祖たちと共に眠ったので、その家に葬られた。その子アモンが彼に代って王となった。
33:21 アモンは王となった時二十二歳で、二年の間エルサレムで世を治めた。
33:22 彼はその父マナセのしたように主の前に悪を行った。すなわちアモンはその父マナセが造ったもろもろの刻んだ像に犠牲をささげて、これに仕え、
33:23 その父マナセが身を低くしたように主の前に身を低くしなかった。かえってこのアモンは、いよいよそのとがを増した。
33:24 その家来たちは党を結んで彼にそむき、彼をその家で殺した。
33:25 しかし国の民は、党を結んでアモン王にそむいた者どもをことごとく撃ち殺した。そして国の民はその子ヨシヤを王となして、そのあとを継がせた。

マナセの子アモンの統治は、たった2年だった。
北イスラエル王国のアハブもそうだった。彼は最後、悔い改めたが、彼の子アハズヤはそうではなく、主の前に悪を貫いたため、その統治はアモンと同じ、たった2年であった。
アモンは、主の御前にへりくだらず、悔い改めず、なおもそのとがを増し加えた、と書いてある。

アモンは父王の悪い所も、良い所も見たはずである。父王が悪い事をした結果いかに災いに覆われたか、そして、その悪から立ち返って主に悔い改めたら、いかに奇跡的に幸いを施して下さったかも、見た。
それにもかかわらず、アモンは主に立ち返らなかった。
主は、一切の隠れた所と、人の心の奥底を、ご存知である。その人がその後悔い改める余地があるか無いかも、全て含めて。
彼の心には、主に心翻す余地が一切無かったのだろう。それで主は、彼をわずか2年で王位から取り除き、この世から取り去ったのだ。

主は、へりくだる者に、近くおられる。
罪の楽しみを楽しんでいる人が、その楽しみを「罪をしない」という苦しみ・悲しみに変えるなら、主は高めてくださる。
ちょうど、悔いてへりくだったマナセを、再び王座へと戻してくださったように。

エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
潤いの雨から拒否されてしまう人々(エレミヤ5:19-32)
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霊において「こじき」である者の幸い(マルコ10:46-52)
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マルコ10:46 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
10:48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。

こじきである事は霊の世界においては、とても重要な性質である。その人が、神の国すなわち神の支配を受ける事ができる。
マタイ5:3 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
ここは原意は、霊においてこじきである者は、幸いである、という事だ。

10:49 イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。
10:50 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
10:51 イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
10:52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。

マタイ20:32 イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。
20:33 彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。
20:34 イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
 

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