メッセージ - 201712のエントリ

雪よりも白くなるために(イザヤ1:2-20)
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1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
1:19 もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
1:20 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。

この有名な促しを、主がなされたそもそもの原因は、イスラエルの中の罪に、特に、イスラエルの「恩知らずさ」の指摘から、イザヤ書は始まった。

1:2 天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主が次のように語られたから、「わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。
1:3 牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない」。
1:4 ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖者をあなどり、これをうとんじ遠ざかった。

牛やろばさえも、主人への恩を知っている、というのに、神の民は、主への恩をすっかり忘れてしまって、主への感謝もなく、ただ、主から与えられた食物を食べるだけで、主を敬わない。
牛やろば以下になってしまった神の民に対し、主は4節で「ああ」と嘆いている。

1:11 主は言われる、「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。
1:12 あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。
1:13 あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること――わたしは不義と聖会とに耐えられない。

主を敬う心もなく恩を知らない者が礼拝に来るのは、単に礼拝の場を踏みにじっているにすぎない。
そこで、主の前に喜ばれるものになるために、言われた。

キリスト教といえば、赦しの宗教だと何となく知られている。
確かに、罪の赦しがキリスト教にはあるが、それは無条件のものではない。主の元に行く、という事が必要だ。
「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。」まずは主と論じあう事から、罪の赦しが始まる。
その論じ合いとは、まず、自分の側に罪があるのを主の御前に認める事と、それを隠さず主に申し上げる事から始まる。

ダビデは罪を指摘された時、正しく告白した。
詩篇51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
 51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
 51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
 51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

人は、罪を犯す。
けれども、もし犯したとしても、主の前に低くなる心を持ち、自分の罪を悲しんで、主に立ち返ろうとして「主と共に歩む」人こそ、主の民なのだ。

口達者な偽りの口に勝つ方法(詩篇12:1-8)
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【指揮者によって。第八調。賛歌。ダビデの詩。】
12:1 主よ、お助けください。神を敬う人は絶え、忠信な者は人の子らのなかから消えうせました。
12:2 人はみなその隣り人に偽りを語り、へつらいのくちびると、ふたごころとをもって語る。

世の中においては、口達者な者の意図が通る事が多々ある。たとえ、その言葉が偽りであっても。
二心を持っていても、へつらいの口でもって覆い隠して、まかりとおらせる。
ダビデはその事についての憂いを、主に持って行く。

12:3 主はすべてのへつらいのくちびると、大きな事を語る舌とを断たれるように。

神様のなさる事は何でも良い。
しかしその反対、何をしても、悪い事ばかりたくらむ者がいる。

55:10 彼らは昼も夜も町の城壁の上を歩きめぐり、町のうちには害悪と悩みとがあります。
55:11 また滅ぼす事が町のうちにあり、しえたげと欺きとはその市場を/離れることがありません。

ダビデは、そのような者達について祈っている。

55:9 主よ、彼らのはかりごとを打ち破ってください。彼らの舌を混乱させてください。わたしは町のうちに暴力と争いとを見るからです。

バベルの塔のように、その悪巧みをする者達の結束が、混乱させられ、散り散りになるように祈る祈りは効果的である。

12:4 彼らは言う、「わたしたちは舌をもって勝を得よう、わたしたちのくちびるはわたしたちのものだ、だれがわたしたちの主人であるか」と。

言葉の人でない人が、口達者な者に立ち向かうすべはない。
モーセも口達者ではなかった。しかしいかにしてモーセは、その者達に勝利しつづけたか。
それは毎回、主にひれ伏す事によって、であった。

12:5 主は言われる、「貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ちあがって、彼らをその慕い求める安全な所に置こう」と。
12:6 主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。

主の純粋な御言葉に平服し、従う事、それこそ、要塞をも打ち破るほどに力のある武器である。

2コリント10:4 わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、
10:5 神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、
10:6 そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。

12:6 主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。

御言葉は、私という土の器の中で巡らされ、精錬されて行く時、さらにさらに尊いものとなって行く。
ある人が御言葉を差し出しても、全然力が無いのに、別の人が同じ御言葉を差し出すと、とてつもなく力があるような事があるのは、その人自身という「土の炉」で何度も試され、咀嚼し、噛み締め、味わったか、そうしなかったかの違いによる。
悪魔サタンさえ、御言葉を差し出す。しかし悪魔に属する者達は、御言葉をただ人を殺す道具としてしか使っておらず、全然思い巡らしていないし、従ってもいないのだ。

悪魔サタンの言葉に勝つ方法、その設けられた要塞を打ち破る唯一の武器は、純粋な御言葉に対する従順なのだ。

主の言葉を「ハヤー」した人の幸い(ルカ1:39-56)
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週報/メッセージ(説教)概要

 先週はコーエンの学びの週だったが、神様は本当に私達が想定していない領域へと導いておられる事を知った週だった。主が備えられた新しい領域へと入って行くためには、アブラハムのように生来の生き方や考え方の「捨て上手」となり、主がせよと言われる事・所に躊躇なく飛び込む者となっていく必要がある。
本日よりアドベントが始まったが、今回、今までの生き方・考え方に関しては「捨て上手」であり、主の言われる事には躊躇なく飛び込んで行った「女の中で最も祝福された人」、乙女マリヤの場面を見ていきたい。

『エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。』(ルカ1:41) 祝福された人の声は、胎の子さえ喜びおどる。胎の子は、分かるのだ。声の主の、霊的性質が。祝福された人とはどういう人かをエリザベツが言っている。『主のお語りになった事が必ず成就すると信じた女は、なんと幸いなことでしょう」。』(45節) つまり、主のお語りになった事は、必ず成就する、と信じた人が、祝福された人である。
マリヤの親類・エリザベツは「アロン家の娘のひとり」(5節)なので、当然、「ハトラー教育(御言葉を、胎の子に向かって語りかける胎教)」を施していた。乙女マリヤも、同様である。
胎の子は、10週くらいすると、聞く機能が形成され、外界の音を聞くようになる。母の口から出てくる言葉や夫との会話、あるいはテレビやインターネットから流れて来る世の歌やニュース、ゲームやパチンコ等から来る機械音など。胎の子は、意味は分からずともそれらの音の源の霊的性質を察知し、取り入れて行く。
敬虔なユダヤ人女性は、身ごもると、5mほどの特別な布を用意し、この子が生まれたらこのようになって欲しいという御言葉を、刺繍し始める。胎の子に向かってトラー(モーセ五書)の朗読を聞かせながら。
そのように、信仰と愛情に溢れた御言葉によって、胎教された子は、御言葉に関する事、神の国の事柄に関する事に対して喜びを覚え、神から離れた世的な事に気持ち悪さを覚えるようになっていく。

御言葉を口ずさむ時に大事な事がある。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』(申命記6:6) このハヤーはヘブライ語のbe動詞であるが、アロンの大祭司家の末裔のゲイリー・コーエン博士は、ここのハヤーは「その言葉を存在させ、溢れさせる」という意味だと言った。
つまり「ハヤー」は、神様の言葉が好きで好きで、心に刻まれ、暗記し、その内容が、喜びや感動、時には熱心や激情と共に「溢れ」る事なのだ。ハヤーなきメッセージは無力であり、ただのお説教となってしまう。
あの時のマリヤのあいさつが「シャローム」であったなら、マリヤの人生の中で得たシャロームという意味に込められた、あらゆる信仰、愛、喜び、感動が、エリザベツの胎の子を喜び踊らせ、さらに祭司の娘であるエリザベツを聖霊に満ち溢れさせ、声高く叫ばせたのである。「わたしの主の母」、と。
クォン・チャンギュ先生は、ハヤーの意味に衝撃を受け、単なる御言葉暗記をするのではなく、神を愛し、御言葉を愛する心をもって口ずさむ「ハヤー」こそすべきだと、提唱している。「ハヤー」は、単なる暗記ではない。私達は、ユダヤ人の真似をして、彼らのように頭脳が明晰になる事や、英語を上達させる事を第一目的としてテフィリンさせてはならない、むしろ、主を恐れ、主を愛し御言葉を愛するように導く事こそ教育のはじめであり、知恵のはじめ(箴言1:7)なのだ。「主を愛する」事を除いて暗唱させるのは、危険だ。
主を恐れ敬う事なしの知能の鋭利化となってしてしまうからだ。御言葉によって「徳」を積んだ上での知識を用いなければ、世界がおかしくなってしまうのは、洪水前の世の中を見れば明らかである。
パリサイ人はよくテフィリンされている。しかし彼らには、神を愛する愛が無かった(ヨハネ5:42)。彼らは神から遣わされたお方を信じなかった、すなわち、御言葉がハヤーされていなかった事を主に指摘されている(同37-38)。彼らは聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、聖書はイエス様をあかししているのに、イエス様の元に来ようとせず、かえって、人からの栄誉だけを受けようとしている。(同34-44)
私達はパリサイ人のようでなく、マリヤのように神とその言葉を愛し、そして御言葉の「大好き」が溢れ流れるようにしたい。ハヤーに溢れたマリヤは、喜びに溢れて賛美を歌った。その最後を「わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」(55節) という言葉で閉じている。
アブラハムの子孫とは、御言葉を信じイエス様を信じる私達の事であり、生来の生き方や考え方については「捨て上手」、主がせよと言われる事・所に躊躇なく飛び込む者達である。このハヤーの祝福に共にあずかっていくみなさんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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