メッセージ - 201710のエントリ

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
イエス様から羊を任されたなら(ヨハネ21:15-19)
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未来の喜びを今へと引っ張って来る「希望」(詩篇126篇)
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126:1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。
126:2 その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民の中にあった。
126:3 主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。
126:4 主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。
126:5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

1コリント15:58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

ガラテヤ6:7 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。
6:8 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
6:9 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。
6:10 だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。
 

神の戦いが成就する条件は、余計な言葉を発しない事(ヨシュア6:8-11)
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ルカによる福音書 講解説教メッセージ
福音のために働く者に与えられる保証(ルカ9:1-9)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
それでも主よ、あなたは私たちの父です(イザヤ64章)
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裁きの中でも憐れみを注ぎ、人の罪をも最善へと造り変えられる主(1歴代誌21:7-15)
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ダビデはヨアブの忠言をふりほどいて民の数を数えたが、調査結果が出、有限なるその数字を聞いた時、ダビデの心が彼(ダビデ)を打った(2サムエル記24:10)。
全能であり無限である主を差し置いて、有限の、目に見える自分の資力に頼りを置き、周囲と自分とを比較している人は、いつも、自分の有限な力にも頼って生きなくてはならない焦燥感に追われ続けて生きていかなくてはならない。
この生き方は、無限であられる主から、無限の安全と無限の保証を得て生きる「信仰生活」に比べれば、とてつもなく不安定な生き方である。
信仰生活は、無限なる神に信頼を置いて、無限の安心を抱きながら生活するものだが、その逆の生活は、いつも自分の資力に頼みをおきながら生活するものであり、そういう人は、たとえ何億円の資産を持っていてもいつも不安におののきながら、ひたすらなお集めるしか無い。

21:7 この事が神の目に悪かったので、神はイスラエルを撃たれた。
21:8 そこでダビデは神に言った、「わたしはこの事を行って大いに罪を犯しました。しかし今どうか、しもべの罪を除いてください。わたしは非常に愚かなことをいたしました」。

ダビデがさすがな所は、彼が良心の咎めを受けた時、彼はすぐに主の御前に出て、自分の罪を告白したからだ。
呪いにいつまでもつきまとわれるコツ、いつまでもその状態から脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。
聖書には、「ごめんなさい」という日本語が一つもない事をご存知だろうか。
聖書の価値観では、「わたしは○○の罪を犯しました」が、ごめんなさいに相当する言葉である。
ダビデは罪を犯してそれを指摘された時、「わたしは罪を犯した」とすぐに認め、それで彼は死なずに済んだ。

21:9 主はダビデの先見者ガデに告げて言われた、
21:10 「行ってダビデに言いなさい、『主はこう仰せられる、わたしは三つの事を示す。あなたはその一つを選びなさい。わたしはそれをあなたに行おう』と」。
21:11 ガデはダビデのもとに来て言った、「主はこう仰せられます、『あなたは選びなさい。
21:12 すなわち三年のききんか、あるいは三月の間、あなたのあだの前に敗れて、敵のつるぎに追いつかれるか、あるいは三日の間、主のつるぎすなわち疫病がこの国にあって、主の使がイスラエルの全領域にわたって滅ぼすことをするか』。いま、わたしがどういう答をわたしをつかわしたものになすべきか決めなさい」。

主は今回、ダビデが犯した罪の報いとして、3つの選択を与えた。
4番目の選択は無いし、何事のペナルティもなく放免されるという事も無い。
その選択肢は、いずれも、ダビデには辛いものだった。

私達もあるかもしれない。
過去に犯してしまった罪故に、非常に少ない選択肢の中から、どれかを償いとして選択しなくてはならない事が。
しかし、その「償い」を御前で成し遂げた後に、主は、さらなる最善の道を歩ませ、幸いを返して下さる。


21:13 ダビデはガデに言った、「わたしは非常に悩んでいるが、主のあわれみは大きいゆえ、わたしを主の手に陥らせてください。しかしわたしを人の手に陥らせないでください」。

ダビデは、「ききん」とか「敵」とか「疫病」とか、具体的には答えず、主の手に陥らせて下さいと言って主に委ねた。
三つの選択の中で、唯一、疫病にのみ「主(エホバ)」の御名が付されている。
ダビデは、ききんという自然の脅威や、敵という人間の手に陥るよりは、唯一主の御名がつけられている事を選んだ。
主のあわれみは、大きいからである。

21:14 そこで主はイスラエルに疫病を下されたので、イスラエルびとのうち七万人が倒れた。
21:15 神はまたみ使をエルサレムにつかわして、これを滅ぼそうとされたが、み使がまさに滅ぼそうとしたとき、主は見られて、この災を悔い、その滅ぼすみ使に言われた、「もうじゅうぶんだ。今あなたの手をとどめよ」。そのとき主の使はエブスびとオルナンの打ち場のかたわらに立っていた。

ダビデが犯した過ちは、イスラエルの多くの人々の死をもたらした。
一体主は、ダビデ一人の犯した罪ゆえに、関係の無い罪なき人々を死なせるという事を、されるのだろうか?
よく読むと、これはダビデ一人の問題ではなく、イスラエル全体の問題だったようである。

この事件の最初は、次のように始まっている。
『時にサタンが起って”イスラエル”に敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。 』(1歴代誌21:1)
『主は再び”イスラエル”に向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。 』(2サムエル記24:1)
これら、冒頭の言葉を見ると、どうやらダビデというより”イスラエル”に問題があり、ダビデが代表して罪を犯したような感じである。
実際、3つの災いの内容は、3つとも、イスラエル全体に災いをもたらすものである。

主は果たして、罪なき人を、故なく打たれるのであろうか?その逆である。
いと高き方の隠れ場に住み、全能なる主の陰に宿る人は、たとえ戦や病が起こって、傍らに千人が、右手に万人が倒れるような状況でも、災いは近づかないと記されている。(詩篇91篇)
実際、その災いの中心地であるエブス人オルナンの打ち場にいたオルナンは、その剣が差し向けられていた最中でも、何の身に害が及ばず、平気で麦打ちしていた。
しかし、災いはダンからベエル・シェバに至るまでの中、7万人が倒れた。
主の災いは、核爆弾のように、爆心地周辺は善人悪人誰彼かまわず災いで滅ぼすものではなく、災いが及ぶべき者・そうでない者を正確に選り分け、義人が悪人の受ける報いを受ける事が無いようにされて来た。

主は信仰者とそうでない者を「ふるい」にかけ、イスラエル全体が霊的怠慢に陥っている所に、揺さぶりをかけたのだろう。

さて、この度イスラエルに災いを降している御使いが立っていた場所は、エブスびとオルナンの打ち場だった。
実は、この場所は、とても特別な場所である。
そこは「モリヤ」と呼ばれる山(2歴代誌3:1)であり、すなわち、アブラハムがイサクを捧げた場所だ。
しかもこの場所は、後に、エルサレム神殿が建てられる所である。

モリヤの地、神殿の丘。
そこは、礼拝を捧げる地であり、罪の身代わりの備えがあり、身代わりの犠牲が捧げられ、死ぬべき罪人の罪が赦され、生かされる地である。

主のご計画は、実に計り知れない。
ダビデは確かに間違いを犯し、イスラエルは打たれたが、主は、そんな罪の結果の苦しい刈り取りさえ、「最善」へと方向修正なさるお方である。

私達は、この主のなさる事は、理解できない。私達の想像を遥かに超えて働かれるお方なのだ。
ただ、この無限であられる主に信頼し、無限の安心と保証の内に歩んでいく私達でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

「くちびる(サファー)という境界線」を守り、「口(ペー)という両刃の剣」を用いよ(箴言18:20-21)
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18:20 人は自分の言葉(ペー)の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびる(サファー)の産物によって自ら飽きる。
18:21 死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。

5:1 わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、わたしの悟りに耳をかたむけよ。
5:2 これは、あなたが慎みを守り、あなたのくちびる(サファー)に知識を保つためである。

5:3 遊女のくちびる(サファー)は蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
5:4 しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃(ペー)のつるぎのように鋭くなる。
5:5 その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。

ローマ10:8 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。
10:13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
10:14 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。

ダビデが主の前に罪とされたイスラエルの人口調査(1歴代誌21:1-6)
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ダビデの人生の間で、二つの大きな罪を主に犯した事が聖書には記されている。
一つはバテ・シェバとの姦淫および彼女の主人ウリヤ殺害、そしてもう一つが、今回の箇所、イスラエル人口調査である。
前者は、明らかに罪であると分かるが、今回の箇所、イスラエルの人口調査は、一体、どこがどう罪なのだろうか。
一国の王が、自国の戦力がどのくらいであるのかを調査するのは、当たり前のような気もするが、聖書を良く読むと、何が御前において罪であるのかが見えてくる。

21:1 時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。
21:2 ダビデはヨアブと軍の将校たちに言った、「あなたがたは行って、ベエルシバからダンまでのイスラエルを数え、その数を調べてわたしに知らせなさい」。

人口調査そのものに、良しも悪しもない。
民数記など、まさに人口調査の書であり、それは、主がしなさいと言われたからである。
ここで、なぜ人口調査が罪とされたのか。それは、それがサタンに由来する動機だからである。

21:3 ヨアブは言った、「それがどのくらいあっても、どうか主がその民を百倍に増されるように。しかし王わが主よ、彼らは皆あなたのしもべではありませんか。どうしてわが主はこの事を求められるのですか。どうしてイスラエルに罪を得させられるのですか」。
21:4 しかし王の言葉がヨアブに勝ったので、ヨアブは出て行って、イスラエルをあまねく行き巡り、エルサレムに帰って来た。

ヨアブは、この事が主の御前に罪である事を知っていた。そして、ダビデも、何となく知っていた。
そしてヨアブの「これは罪である」という忠告を聞きながら、ダビデはそれを押しのけ、敢えて、数えさせた。

物事の動機が、サタンに由来する時、人口調査も、飲み食いも、献金さえも、罪とされてしまう。
エバはサタンに由来する言葉ゆえに、主が取って食べてはならないと言われた善悪を知る木の実を食べてしまった。(創世記3章)
アナニヤとサッピラは、夫婦共謀して代金の一部をごまかし、献金した。

使徒5:1 ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、
5:2 共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。
5:4 売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。
5:5 アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。

サタンに由来し、御言葉に逆らい、敢えて心してあざむくなら、それがいかに良い事に見えるような事であっても、罪なのである。

ローマ14:14 わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。
・・・
ローマ14:22 あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。
 14:23 しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。

ダビデはそれまでイスラエルの兵士の数を知らなかったが、その数が調査され、明らかにされた。

21:5 そしてヨアブは民の総数をダビデに告げた。すなわちイスラエルにはつるぎを抜く者が百十万人、ユダにはつるぎを抜く者が四十七万人あった。
21:6 しかしヨアブは王の命令を快しとしなかったので、レビとベニヤミンとはその中に数えなかった。

百十万、それに加えて四十七万。少なくはないが、有限の数字である。
ダビデはその有限の数字を聞いて、悟った事だろう。自分は、無限なる主を差し置いて、数によりどころを置いてしまった、主の預けてくださったものを私有化しているかのような思いにあった、と。

今までダビデが数多の戦争に勝利して来たのは、兵力によっただろうか。彼の力によっただろうか。
ダビデがゴリヤテを打ち倒した時、果たして彼我を数えてから戦いに臨んだだろうか。
全て、勝利は、自分の能力や数によるのではなく、主によったのではなかっただろうか。

人は、証拠を求めたがる。自分はどのくらいの兵力で相手はどのくらいか、この事をするのにいくらかかるのか、手持ちの資産は幾らか、今立てている計画はどうで、それが成功する根拠は一体何か、など。
世は、社会は、そうして物事を進めて行くが、神の国の事柄は、物的証拠によって動くのではなく、信仰によって動くものである。

主は、兵の多さによって人を救うお方ではない。
心が全く主に向いている人を喜ばれ、その人に主は勝利を与えて下さるのである。

有限なる「見える事柄」を数えだし、そして自分の持ち物と、敵の持ち物とを比較しだすと、無限なる神が見えなくなり、無尽蔵の保証の源である信仰によって歩む事ができなくなってしまうのだ。

勝利をもたらすのは、装備や兵力、財産ではなく、主である。
主に従うなら、こちらが一人であっても千んを打ち、二人が万を打つのだ。
兵士を百倍も増し加えて下さるのは、主である。

私達は何事も、主から来たのか、サタンから来たのかを、御言葉のものさしと聖霊の感覚によって見極め、本当に良いものを選んで歩んでいきたい。

そしられる原因である「崩された城壁」を再建せよ(ネヘミヤ2:17-20)
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賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 ネヘミヤといえば、バビロン捕囚後のエルサレムの城壁を再建した人である。神の民であるはずのイスラエルは、なぜバビロン捕囚という恥辱を味わったか。それは彼らは主に対し失礼ばかり働き、預言者の警告にも聞かず、好き放題、罪に罪を重ねたためだ。それで敵が好き放題し、家も財産もめちゃくちゃにされ、奪われ、貧しい底辺生活へ投げ込まれた。それは自業自得とも言えるが、それでも主は立て直して下さる。
私達はいかして、そのように破綻してしまった人生の建て直しが出来るだろう。ネヘミヤ記から学びたい。

ネヘミヤは、エルサレムの城壁が破壊されたままだと聞くと、かつて無いほどの憂いと悲しみに襲われた。
もし「城壁」が崩れたままなら、経済や子育てを立て直そうとしても良いように敵が出入りし、踏みにじり、嘲り、奪って行くままだ。ネヘミヤは、その状態を看過できなかった。『わたしはついに彼らに言った・・・さあ、われわれは再び世のはずかしめをうけることのないように、エルサレムの城壁を築こう』(ネヘミヤ2:17)
私達も諸々の「世のはずかしめ」がある。病や経済的貧困というはずかしめ、あるいは、悪霊由来の、「自分はダメだ」「無駄だ」などという罵声など。それらに対し、一刻も早く城壁を築いて対抗すべきだ。
そして、真っ先に対処しなくてはならないのは「怠けぐせ」である。ネヘミヤが総督に任命されエルサレム入りしたのはBC445年と言われている。バビロン捕囚の終わりはBC537年なので、実に92年も、皆が、「いつかしよう」「誰かがしてくれるだろう」と思っていて、結局92年間も放ったらかしにしていた、という事だ。
再建すべきなのに、しない。働くべきなのに働かない。成すべき良い事か示されているのに、それをやらない。しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。そのような者の畑の有様は、「いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた」(箴言24:31)状態である。
ネヘミヤは情熱をもって再建に取り掛かり、人々もまた共にチームワークを組んで仕事に当たった。

人が、人生の再建にとりかかろうとする時、必ず、それを快く思わない「敵」が邪魔しに出てくる。
『ところがホロニ人サンバラテ、アンモン人奴隷トビヤおよびアラビヤ人ガシムがこれを聞いて、われわれをあざけり、われわれを侮って言った、「あなたがたは何をするのか、王に反逆しようとするのか」。』(19節)
敵は、再建の行動を、「良くない事」と思わせて、罵ってくる。人生がこれ以上、大切な時間や経済や健全さが奪われないように城壁を築く頑張りを、何か、悪い事をしているかのように。キリスト者は上着を取られれば下着も差し出すべきではないのか、貧しく清く美しくするべきではないのか、それを何だ、欲を出して反逆しようとしているのか、などと。そのように囁いてくる嘲りの声に対し、ネヘミヤはどうだったか。
『わたしは彼らに答えて言った、「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。しかしあなたがたはエルサレムに何の分もなく、権利もなく、記念もない」。』(20節)
そうである。一緒に礼拝せず、一緒に御言葉を守り行ったわけでもない者達には、神の民が受ける分け前に与かる権利は一切なく、そのような主の記念のない者に好き放題言われる筋合いは、一切、無いのだ。
人生の再建のわざを「悪いこと」呼ばわりする者に対し、良心のとがめを受ける必要は、一切無い。
私達が御言葉を守り行うと決心して行動し、主にあって良い実を結んでいるなら、そのような者達に対し、ネヘミヤのように言葉で宣言するのだ。「天の神が私達を恵まれるので、そのしもべである私達は奮い立って築くのである」と。そして行おうとしている事を、明確な主の示しとして自信をもって取り組めば良いのだ。
『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。』(箴言18:20)
「くちびる(ヘ:サファー)」は、英語のlipのように「縁(ふち)」「境界」の意味もある。だから、心の内にある信仰が、唇という「境界線」を越え、世に音波として出た時、天地万物の支配者なる主との関係が世に対して示され、適用され、世の諸々の呪われた仕組みから救われる。だから、敵に対し(たとえ実感が無くても)「御言葉」を発するなら、それが防護壁となり、もし超えて来ようとするなら、御言葉が、その者と対決する。
逆にもし、心に怒りや憎しみが沸き起こったとしても、唇という境界線を超えさせずに黙っているなら、それは勇士にまさり、城を攻め取る人にまさる人である。(箴言16:32)
人生の城壁の再建は、まず、崩されている現状を悲しみ、なまけから脱却し、立ち上がって、行動する所から始まる。そして、敵が(あるいは心の声が)言いがかりをつけて来た時には、真理の御言葉という両刃の剣を唇から発し、敵のたくらみを打ち砕き、城壁をすみやかに再建していく皆さんでありますように!

「霊的な子供達」という矢を、矢筒に満たしている者の幸い(1歴代誌20:1-8)
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第二サムエル記では、ダビデによる、バテシェバとの姦淫とその夫ウリヤ謀殺の事件と、その姦淫と殺人の罪による悩ましい呪いがつきまとう事件が、第二サムエル記11章から19章まで延々と記されているが、歴代誌では次の数節で済ませてしまっている。

20:1 春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ヨアブは軍勢を率いてアンモンびとの地を荒し、行ってラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまった。ヨアブはラバを撃って、これを滅ぼした。
20:2 そしてダビデは彼らの王の冠をその頭から取りはなした。その金の重さを量ってみると一タラント、またその中に宝石があった。これをダビデの頭に置いた。ダビデはまたその町のぶんどり物を非常に多く持ち出した。
20:3 また彼はそのうちの民を引き出して、これをのこぎりと、鉄のつるはしと、おのを使う仕事につかせた。ダビデはアンモンびとのすべての町々にこのように行った。そしてダビデと民とは皆エルサレムに帰った。

サムエル記でのダビデは、サウルからの苦悩や、バテ・シェバとの罪など、人間味溢れる所が豊かに記されているが、歴代誌でのダビデは、むしろ神殿建設のためにいかに努力したか、という点が強調されている。
それだから、神殿建設とは関係の無い「バテシェバとの罪」の事件は略されているが、神殿建設の発端となった「人口調査の罪」については次章で詳細に記されている。
ダビデは、バテ・シェバとの罪やウリヤ殺害の罪を預言者ナタンによって示された時、すぐに自分の罪を認め、泣き叫んで自分の罪を悲しみ赦しを乞うた。(詩篇51篇)
彼は後に、その姦淫と殺人の罪という「いのちへの冒涜」の罪ゆえに、彼自身から生まれ出る子供達によって大いに苦しめられる事となるのだが、主は彼の罪を見逃してくださった故、異邦人との戦争においては、その呪いは一切及ぶことは無かった。

20:4 この後ゲゼルでペリシテびとと戦いが起った。その時ホシャびとシベカイが巨人の子孫のひとりシパイを殺した。かれらはついに征服された。
20:5 ここにまたペリシテびとと戦いがあったが、ヤイルの子エルハナンはガテびとゴリアテの兄弟ラミを殺した。そのやりの柄は機の巻棒のようであった。
20:6 またガテに戦いがあったが、そこにひとりの背の高い人がいた。その手の指と足の指は六本ずつで、合わせて二十四本あった。彼もまた巨人から生れた者であった。
20:7 彼はイスラエルをののしったので、ダビデの兄弟シメアの子ヨナタンがこれを殺した。
20:8 これらはガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。

この箇所は、第二サムエル記では21章15-22節に相当する。時間的にも多く流れ、ダビデも年老いた時であった。

2サムエル記21:15 ペリシテびとはまたイスラエルと戦争をした。ダビデはその家来たちと共に下ってペリシテびとと戦ったが、ダビデは疲れていた。

ダビデは若い時から戦士であり、戦いが起きるなら、いつも率先して戦いに出て行こうとした。
唯一、あのバテ・シェバの事件の時を除いて。
あの時だけは、ダビデは部下達に戦闘に行かせて自分は王宮に留まり、あの事件を起こしてしまったが、それに懲りて以降、ダビデはまた率先して戦いに出るようになった。
しかし、そんなダビデも歳をとり、昔のようには行かず、戦いに疲れるようになってしまった。

21:16 時にイシビベノブはダビデを殺そうと思った。イシビベノブは巨人の子孫で、そのやりは青銅で重さ三百シケルあり、彼は新しいつるぎを帯びていた。
21:17 しかしゼルヤの子アビシャイはダビデを助けて、そのペリシテびとを撃ち殺した。そこでダビデの従者たちは彼に誓って言った、「あなたはわれわれと共に、重ねて戦争に出てはなりません。さもないと、あなたはイスラエルのともし火を消すでしょう」。

ダビデは若かりし頃、この巨人が持っていた三百シェケルの青銅の槍よりも二倍重い、六百シェケルの鉄の槍を装備したゴリヤテを打ち倒した。
しかしそのダビデも年老いて、敵を倒す事は出来なくなり、逆に危険な目に遭って、部下たちに助けられるようになってしまった。
そして部下たちからは、もう戦いに出ないで下さい、と、強く念を押されてしまった。

ダビデとしては、肉体が衰えて昔のように戦えなくなってしまった事を、情けなく寂しい思いがしたかもしれない。
しかし、ダビデにとっては、それは全然残念な事ではない。
なぜなら彼には、彼を助ける信仰の勇士達がたくさん育ってくれたからだ。

私達も、子育てできる内に、あるいは部下を育てられる内に、しっかりと育てているとするなら、歳を取っても、全く残念な事にはならない。
家庭でも会社でも、いつも自分が活躍の舞台に立ち続け、若者の活躍できる舞台や新人の自主性を取り上げて、何も引き継がない人はいるが、当面はそれで良くても、やがて力を失ってしまった時、その一族は衰え果ててしまう。
どんなに若々しく力強い活躍をしていても、肉体は日々衰えて行くものであり、新しい時代の「戦い」は、子々孫々に順次委ねて行かなくてはならないからだ。

『これらの四人はガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。』(2サムエル記21:22)
ゴリヤテのような体躯や武器を持つ巨人や、イスラエルをそしる巨人達が、合計四回出て来たが、皆、ダビデとその部下達の手によって制覇された。

ダビデは、相手がいかに大人数でも、あるいは巨人であっても、主への従順と信頼によって戦いに飛び込んで行き、勝利を勝ち取って行った。
部下たちは、そんなダビデの背中を追いかけながら戦いに行っていたため、いかに相手が大人数でも、巨人でも、進み出て戦って勝利する信仰を養っていったのだ。
全く、サウルの時代とは比べ物にならない時代になった。

サウルは、巨人の体躯や装備を見て恐れをなし、部下たちも逃げ隠れしていた。
確かに、主を知らない価値観を持った人間なら、そうなってしまうかもしれない。
しかし、主にある信仰者は、巨人さえも、獣の一匹のように主が倒して下さる事を確信し、進み出て、勝利するのだ。
ダビデは若い時から進んでそれを為し、そうして巨人の子孫どもは、ダビデの育てた部下達・信仰の子孫達によって、滅ぼされていった。

私達も今、若者や部下達がついて来れるような、立派な背中を見せてやり、信仰の勇士たちを育て上げて行きたいものである。

詩篇127:3 見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。
127:4 壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。
127:5 矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。

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