メッセージ - 201710のエントリ

「くちびる(サファー)という境界線」を守り、「口(ペー)という両刃の剣」を用いよ(箴言18:20-21)
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18:20 人は自分の言葉(ペー)の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびる(サファー)の産物によって自ら飽きる。
18:21 死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。

5:1 わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、わたしの悟りに耳をかたむけよ。
5:2 これは、あなたが慎みを守り、あなたのくちびる(サファー)に知識を保つためである。

5:3 遊女のくちびる(サファー)は蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
5:4 しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃(ペー)のつるぎのように鋭くなる。
5:5 その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。

ローマ10:8 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。
10:13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
10:14 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。

ダビデが主の前に罪とされたイスラエルの人口調査(1歴代誌21:1-6)
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ダビデの人生の間で、二つの大きな罪を主に犯した事が聖書には記されている。
一つはバテ・シェバとの姦淫および彼女の主人ウリヤ殺害、そしてもう一つが、今回の箇所、イスラエル人口調査である。
前者は、明らかに罪であると分かるが、今回の箇所、イスラエルの人口調査は、一体、どこがどう罪なのだろうか。
一国の王が、自国の戦力がどのくらいであるのかを調査するのは、当たり前のような気もするが、聖書を良く読むと、何が御前において罪であるのかが見えてくる。

21:1 時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。
21:2 ダビデはヨアブと軍の将校たちに言った、「あなたがたは行って、ベエルシバからダンまでのイスラエルを数え、その数を調べてわたしに知らせなさい」。

人口調査そのものに、良しも悪しもない。
民数記など、まさに人口調査の書であり、それは、主がしなさいと言われたからである。
ここで、なぜ人口調査が罪とされたのか。それは、それがサタンに由来する動機だからである。

21:3 ヨアブは言った、「それがどのくらいあっても、どうか主がその民を百倍に増されるように。しかし王わが主よ、彼らは皆あなたのしもべではありませんか。どうしてわが主はこの事を求められるのですか。どうしてイスラエルに罪を得させられるのですか」。
21:4 しかし王の言葉がヨアブに勝ったので、ヨアブは出て行って、イスラエルをあまねく行き巡り、エルサレムに帰って来た。

ヨアブは、この事が主の御前に罪である事を知っていた。そして、ダビデも、何となく知っていた。
そしてヨアブの「これは罪である」という忠告を聞きながら、ダビデはそれを押しのけ、敢えて、数えさせた。

物事の動機が、サタンに由来する時、人口調査も、飲み食いも、献金さえも、罪とされてしまう。
エバはサタンに由来する言葉ゆえに、主が取って食べてはならないと言われた善悪を知る木の実を食べてしまった。(創世記3章)
アナニヤとサッピラは、夫婦共謀して代金の一部をごまかし、献金した。

使徒5:1 ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、
5:2 共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。
5:4 売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。
5:5 アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。

サタンに由来し、御言葉に逆らい、敢えて心してあざむくなら、それがいかに良い事に見えるような事であっても、罪なのである。

ローマ14:14 わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。
・・・
ローマ14:22 あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。
 14:23 しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。

ダビデはそれまでイスラエルの兵士の数を知らなかったが、その数が調査され、明らかにされた。

21:5 そしてヨアブは民の総数をダビデに告げた。すなわちイスラエルにはつるぎを抜く者が百十万人、ユダにはつるぎを抜く者が四十七万人あった。
21:6 しかしヨアブは王の命令を快しとしなかったので、レビとベニヤミンとはその中に数えなかった。

百十万、それに加えて四十七万。少なくはないが、有限の数字である。
ダビデはその有限の数字を聞いて、悟った事だろう。自分は、無限なる主を差し置いて、数によりどころを置いてしまった、主の預けてくださったものを私有化しているかのような思いにあった、と。

今までダビデが数多の戦争に勝利して来たのは、兵力によっただろうか。彼の力によっただろうか。
ダビデがゴリヤテを打ち倒した時、果たして彼我を数えてから戦いに臨んだだろうか。
全て、勝利は、自分の能力や数によるのではなく、主によったのではなかっただろうか。

人は、証拠を求めたがる。自分はどのくらいの兵力で相手はどのくらいか、この事をするのにいくらかかるのか、手持ちの資産は幾らか、今立てている計画はどうで、それが成功する根拠は一体何か、など。
世は、社会は、そうして物事を進めて行くが、神の国の事柄は、物的証拠によって動くのではなく、信仰によって動くものである。

主は、兵の多さによって人を救うお方ではない。
心が全く主に向いている人を喜ばれ、その人に主は勝利を与えて下さるのである。

有限なる「見える事柄」を数えだし、そして自分の持ち物と、敵の持ち物とを比較しだすと、無限なる神が見えなくなり、無尽蔵の保証の源である信仰によって歩む事ができなくなってしまうのだ。

勝利をもたらすのは、装備や兵力、財産ではなく、主である。
主に従うなら、こちらが一人であっても千んを打ち、二人が万を打つのだ。
兵士を百倍も増し加えて下さるのは、主である。

私達は何事も、主から来たのか、サタンから来たのかを、御言葉のものさしと聖霊の感覚によって見極め、本当に良いものを選んで歩んでいきたい。

「霊的な子供達」という矢を、矢筒に満たしている者の幸い(1歴代誌20:1-8)
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第二サムエル記では、ダビデによる、バテシェバとの姦淫とその夫ウリヤ謀殺の事件と、その姦淫と殺人の罪による悩ましい呪いがつきまとう事件が、第二サムエル記11章から19章まで延々と記されているが、歴代誌では次の数節で済ませてしまっている。

20:1 春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ヨアブは軍勢を率いてアンモンびとの地を荒し、行ってラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまった。ヨアブはラバを撃って、これを滅ぼした。
20:2 そしてダビデは彼らの王の冠をその頭から取りはなした。その金の重さを量ってみると一タラント、またその中に宝石があった。これをダビデの頭に置いた。ダビデはまたその町のぶんどり物を非常に多く持ち出した。
20:3 また彼はそのうちの民を引き出して、これをのこぎりと、鉄のつるはしと、おのを使う仕事につかせた。ダビデはアンモンびとのすべての町々にこのように行った。そしてダビデと民とは皆エルサレムに帰った。

サムエル記でのダビデは、サウルからの苦悩や、バテ・シェバとの罪など、人間味溢れる所が豊かに記されているが、歴代誌でのダビデは、むしろ神殿建設のためにいかに努力したか、という点が強調されている。
それだから、神殿建設とは関係の無い「バテシェバとの罪」の事件は略されているが、神殿建設の発端となった「人口調査の罪」については次章で詳細に記されている。
ダビデは、バテ・シェバとの罪やウリヤ殺害の罪を預言者ナタンによって示された時、すぐに自分の罪を認め、泣き叫んで自分の罪を悲しみ赦しを乞うた。(詩篇51篇)
彼は後に、その姦淫と殺人の罪という「いのちへの冒涜」の罪ゆえに、彼自身から生まれ出る子供達によって大いに苦しめられる事となるのだが、主は彼の罪を見逃してくださった故、異邦人との戦争においては、その呪いは一切及ぶことは無かった。

20:4 この後ゲゼルでペリシテびとと戦いが起った。その時ホシャびとシベカイが巨人の子孫のひとりシパイを殺した。かれらはついに征服された。
20:5 ここにまたペリシテびとと戦いがあったが、ヤイルの子エルハナンはガテびとゴリアテの兄弟ラミを殺した。そのやりの柄は機の巻棒のようであった。
20:6 またガテに戦いがあったが、そこにひとりの背の高い人がいた。その手の指と足の指は六本ずつで、合わせて二十四本あった。彼もまた巨人から生れた者であった。
20:7 彼はイスラエルをののしったので、ダビデの兄弟シメアの子ヨナタンがこれを殺した。
20:8 これらはガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。

この箇所は、第二サムエル記では21章15-22節に相当する。時間的にも多く流れ、ダビデも年老いた時であった。

2サムエル記21:15 ペリシテびとはまたイスラエルと戦争をした。ダビデはその家来たちと共に下ってペリシテびとと戦ったが、ダビデは疲れていた。

ダビデは若い時から戦士であり、戦いが起きるなら、いつも率先して戦いに出て行こうとした。
唯一、あのバテ・シェバの事件の時を除いて。
あの時だけは、ダビデは部下達に戦闘に行かせて自分は王宮に留まり、あの事件を起こしてしまったが、それに懲りて以降、ダビデはまた率先して戦いに出るようになった。
しかし、そんなダビデも歳をとり、昔のようには行かず、戦いに疲れるようになってしまった。

21:16 時にイシビベノブはダビデを殺そうと思った。イシビベノブは巨人の子孫で、そのやりは青銅で重さ三百シケルあり、彼は新しいつるぎを帯びていた。
21:17 しかしゼルヤの子アビシャイはダビデを助けて、そのペリシテびとを撃ち殺した。そこでダビデの従者たちは彼に誓って言った、「あなたはわれわれと共に、重ねて戦争に出てはなりません。さもないと、あなたはイスラエルのともし火を消すでしょう」。

ダビデは若かりし頃、この巨人が持っていた三百シェケルの青銅の槍よりも二倍重い、六百シェケルの鉄の槍を装備したゴリヤテを打ち倒した。
しかしそのダビデも年老いて、敵を倒す事は出来なくなり、逆に危険な目に遭って、部下たちに助けられるようになってしまった。
そして部下たちからは、もう戦いに出ないで下さい、と、強く念を押されてしまった。

ダビデとしては、肉体が衰えて昔のように戦えなくなってしまった事を、情けなく寂しい思いがしたかもしれない。
しかし、ダビデにとっては、それは全然残念な事ではない。
なぜなら彼には、彼を助ける信仰の勇士達がたくさん育ってくれたからだ。

私達も、子育てできる内に、あるいは部下を育てられる内に、しっかりと育てているとするなら、歳を取っても、全く残念な事にはならない。
家庭でも会社でも、いつも自分が活躍の舞台に立ち続け、若者の活躍できる舞台や新人の自主性を取り上げて、何も引き継がない人はいるが、当面はそれで良くても、やがて力を失ってしまった時、その一族は衰え果ててしまう。
どんなに若々しく力強い活躍をしていても、肉体は日々衰えて行くものであり、新しい時代の「戦い」は、子々孫々に順次委ねて行かなくてはならないからだ。

『これらの四人はガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。』(2サムエル記21:22)
ゴリヤテのような体躯や武器を持つ巨人や、イスラエルをそしる巨人達が、合計四回出て来たが、皆、ダビデとその部下達の手によって制覇された。

ダビデは、相手がいかに大人数でも、あるいは巨人であっても、主への従順と信頼によって戦いに飛び込んで行き、勝利を勝ち取って行った。
部下たちは、そんなダビデの背中を追いかけながら戦いに行っていたため、いかに相手が大人数でも、巨人でも、進み出て戦って勝利する信仰を養っていったのだ。
全く、サウルの時代とは比べ物にならない時代になった。

サウルは、巨人の体躯や装備を見て恐れをなし、部下たちも逃げ隠れしていた。
確かに、主を知らない価値観を持った人間なら、そうなってしまうかもしれない。
しかし、主にある信仰者は、巨人さえも、獣の一匹のように主が倒して下さる事を確信し、進み出て、勝利するのだ。
ダビデは若い時から進んでそれを為し、そうして巨人の子孫どもは、ダビデの育てた部下達・信仰の子孫達によって、滅ぼされていった。

私達も今、若者や部下達がついて来れるような、立派な背中を見せてやり、信仰の勇士たちを育て上げて行きたいものである。

詩篇127:3 見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。
127:4 壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。
127:5 矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。

子供が成人するまで7300日の親の日々(2コリント11:21-33)
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親は、子供を産んだ日から20歳の成人に至るまでの20年、7300日間、父親は、母親は、今日もまた一日、子供のために働き、ごはんを作り、ケアをする。
時には何もとれない日々もあり、子から受ける苦しみもあり、そして、喜びがある。
パウロは実の息子娘はいなかったが、霊的な息子娘は多数あった。
コリントはその一つだが、パウロはコリントに対しては多くの苦しみがあった。
なぜなら、偽教師、偽兄弟によって、霊的生みの親であるパウロが軽んじられていたからである。

パウロは、コリントの人達をいかに深く愛しているかを伝えた。
「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。」(2節)

「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。」(18節)
普通、誇るのであれば、自分は何名を救いに導いたとか、どこで誰に学んだか、どんな不思議をして来たかなど、いかに自分が大きな事をしてきたかを誇るだろう。
そういう事なら、パウロはいくらでも誇る所はある。
彼はガマリエルの元でパリサイ派の教育を受け、教会をいくつ建てたか分からない程だし、自分の前掛けを病人に置くだけで病人は癒され、悪霊を何匹追い出したか分からない。
しかしパウロが誇ったのは、なんと、弱さだった。

11:21 言うのも恥ずかしいことだが、わたしたちは弱すぎたのだ。もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。

パウロは、雄弁な言葉や、生まれや血筋を元に、自分は誰々先生よりも優位である、などといった比較や自己推薦は、愚かである、と、前もって伝えていた(10章12節)。
しかし、コリントの人たちの目はあまりに塞がれているため、彼らを納得させるためには、敢えてそのような愚かな土俵に立たないといけないと感じ、これから自分も使徒としての正当性を主張する「愚か」を我慢してもらいたい、と、前もって断ったわけである。

11:22 彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル人なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。
11:23 彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。
11:26 幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。
11:28 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
11:29 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。

誰かが躓いて、福音から離れてしまったり、あるいは福音を伝えきれないまま死んで行ってしまった人達を思って、どれほど悩み、苦しみ、涙を流して来ただろうか。
親は、それでも、子供を育てなくてはならない。

子供は、いかに親の有益な教えを拒んで、いかに聞き分けなく育っても、7300日が立てば嫌でも成人の年である。
その日々、いかに、子は過ごすだろうか。
親は、いかに子供をあきらめずにいるだろう。

11:30 もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。
11:31 永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。

ヘブル12:1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
12:2 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
12:3 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。
12:4 あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。
12:5 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、/「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
12:6 主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。


親は、やがて子供の前からいなくなる時がある。

2テモテ4:1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
4:2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。
4:6 わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
4:7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
4:8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。

悪しき者の支配下にある権威と富と土地を分捕り返せ(創世記1:26-28)
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神は私達人間を、神に「似る(ツェレム:影、像)」ように、神の「かたち(デムース:似ている、類似した)」に、創造した。
さらに、海、空、地の全ての生き物を支配するように(創世記1:26)。
「生めよ(パラー)、ふえよ(ラバー)、地に満ちよ(マラー)、地を従わせよ(カバッシュ)。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ(ラダー)」(創世記1:28)

ここに幾つかの命令がある。
まずは「生めよ(パラー)」、すなわち「神の子」は、生んで増えて、地に満ちて行く事は、主の命令である。
「増えよ(ラバー)、地に満ちよ(マラー)」も、命令型動詞である。
命が増え広がって行く事が主の命令であるからには、産む事を躊躇したり、間引きしたりするのは主の御旨に反するのだ。

次に、「征服せよ(カバッシュ:踏みにじる、征服する)」、「治めよ(ラダ:支配する、踏む)」、という命令である。
私達・神の子たちが、世から従わされたり、世からリードされたりする事は、神の本質ではない。
神は私たちに、地の生き物も、海の生き物も、空の生き物も足の下で征服(カバッシュ)せよ!足の下に支配(ラダー)せよ!と命令された。
これを、Lordship, Kingship(ロードシップ、キングシップ)命令、と言う。

神の子、すなわちクリスチャンである私達は、サタンが握りしめてしまっている栄光の富を、ぶんどり返すべきなのだ。
サタンは人間を食い物にし、虐待しているが、私達神の子とされたキリスト者は、サタンを虐待し、踏みにじるべきであり、そして被造物については、正当な支配をなすべきである。

世のビジネスは、不当な支配の価値観の下にあり、富をぶんどり、自分のところに囲い込みをする。
しかし、主にある正当なビジネスは、囲い込みをしない。むしろ、聖書に記されている通り、貧しい人々に分配し、与えていき、そうしてさらに天の父によって養われ、富んでいく。

日本の多くのクリスチャンは、金持ちになる事への躊躇をしてしまう。クリスチャンは富を求めるべきでなく清貧であるべきだ、などなど。
しかしその考えは、サタンが吹き込んだ間違いである。
神の命令は、被造物を正当に支配せよ、という事だった。だからむしろ、権威も富も、サタンからぶんどり取り返し、貧しい人々に分配し、

もし私達が蛇を踏みつけず、サタンの言うことを聞いて、主の御言葉に聞き従わないなら、その者共に踏みつけられてしまう。その様子が、イザヤ51章にある。
イザヤ51:23 わたしはこれをあなたを悩ます者の手におく。彼らはさきにあなたにむかって言った、『身をかがめよ、われわれは越えていこう』と。そしてあなたはその背を地のようにし、ちまたのようにして、彼らの越えていくにまかせた」。

人生の中で、暴君に背中を踏みつけられ、好き放題されてしまう日々はなかっただろうか。
その時、思い出すべきである。神のみ言葉をどう扱っていただろう。
御言葉に逆らい、神に失礼を働いていた時、不法な者に、時間もお金も奪われ、踏みにじられていたのではないだろうか。
御言葉を尊んでそのとおりしていくなら、エバのように踏みにじられる事なく、守られ、必要が満たされる。

神の子は、信仰をもって、新しい地を踏み歩き、そこを自分たちのものとしていくべき者である。

アブラハムは、最後の親類であるロトという「世の人」と別れた直後、主から次の祝福の命令をいただいた。
創世記13:14 ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。
13:15 すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。
13:16 わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。
13:17 あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。

縦横無尽に歩き回り、足の下で踏みなさい、そこをあなたとあなたの子孫に与えよう。
信仰の先人は、主の御言葉に従った結果、足の下で踏むところが与えられる祝福を受けた。
ヨシュアもそうである。

ヨシュア記1:3 あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。
 1:4 あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。

私達もヨシュアのように、御言葉に聞き従い、不当な者によって好き放題占拠されてしまっているところを足の下で踏み、そこを奪い返し、主のものとして捧げ、主の民の子々孫々へと祝福の土地として受け継がせていくべきである。

人生の城壁の再建に取り掛かろう(ネヘミヤ2:17-20)
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ネヘミヤといえば、
バビロン捕囚後、エルサレムの城壁を再建した人である。エルサレムの城壁は、イスラエルの罪ゆえに、一度めちゃくちゃにされた。イスラエル民族はあの時、神の民としてのアイデンティティを失った。城壁を失い、神殿を失った。それは、罪に罪を重ね、好き勝手ばかりし、主に対して失礼ばかりを働いて、預言者の忠告を聞かなかったため、敵がのさばり、人生がめちゃくちゃにされ、家財道具も奪われ、貧しい底辺生活へと投げ込まれた。しかし、主は徹底的に神の民を滅ぼさない。

ネヘミヤ、その名は「神の慰め」という意味であり、聖霊の働きと同じである。
彼らは、自業自得と言って良い災いに遭い、何もかも奪われめちゃくちゃにされたが、主はそこから立て直してくださる。

ネヘミヤ1:2 わたしの兄弟のひとりハナニが数人の者と共にユダから来たので、わたしは捕囚を免れて生き残ったユダヤ人の事およびエルサレムの事を尋ねた。
 1:3 彼らはわたしに言った、「かの州で捕囚を免れて生き残った者は大いなる悩みと、はずかしめのうちにあり、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼かれたままであります」と。
 1:4 わたしはこれらの言葉を聞いた時、すわって泣き、数日のあいだ嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈って、
 1:5 言った

城壁が崩され、敵のそしりを受け放題、受けてしまっている。
城壁は大事なものである。内外の境界線を立て、防護され、内側の尊い神の民と、その財産は守られる。そのための城壁が、ずっと崩されたままだった。
バビロン捕囚、から期間できたけど、ずっと崩されたまま、何十年も過ぎていた。
城壁を建て直したネヘミヤが総督に任命されたのはBC445年と言われている。バビロン捕囚が終わったのは紀元前537年なので、捕囚が終わって実に92年、誰も、城壁を建て直す人がいなかった、という事だ。
いつかしよう、明日にしよう、誰かがいつかしてくれるだろう、と誰もが思っていて、結局、92年間、城壁は放ったらかしにされていた、という事だ。

ずっと怠けていたのだ。
自分の人生を立て直さない。礼拝を立て直さない。それをずっと続ける間、崩された城壁から、敵が入りたい放題、出入りする。その状態でいるなら、せっかく生活や経済、子供を、立て直そうとしても、敵が入り込んできては、踏みにじられ、嘲られ、奪われて、という状態がさらに何十年も続く。

箴言24:30-34、怠け者がどうなるか。
24:30 わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、
24:31 いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。
24:32 わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。
24:33 「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。
24:34 それゆえ、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののように、あなたに来る。

再建すべきなのに、しない。働くべきを、働かない。成すべき事が示され、何が良いことか示されている、けれど、それをやらない。しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。そういう、なまけものの畑の有様が「いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。」(箴言24:31)状態である。
畑とは、実りを結ばせるとべき場所。ぶどう畑、主に喜ばれる見をむすぶべきところが、きつね、出入りし放題。実を摘み取り、花をちらし放題、で、いばら、いらくさ生え放題、
それが、眠りを好み、手をこまねく、「なまけもの」敵に、やられ放題、いいように罵られ、奪われ放題。

ネヘミヤは、その状態を聞いて、居ても立ってもいられなかった。
で、王の恵みを得て、王の公認の元、城壁を。さあ再建に取り掛かろう、と、告知したのが、本日の箇所。

2:17 しかしわたしはついに彼らに言った、「あなたがたの見るとおり、われわれは難局にある。エルサレムは荒廃し、その門は火に焼かれた。さあ、われわれは再び世のはずかしめをうけることのないように、エルサレムの城壁を築こう」。

もろもろの「そしり」「はずかしめ」がある。病というそしり、経済的貧困というそしり。悪例に好き放題、声をかけられ放題、怯え放題。というそしりなど。

2:18 そして、わたしの神がよくわたしを助けられたことを彼らに告げ、また王がわたしに語られた言葉をも告げたので、彼らは「さあ、立ち上がって築こう」と言い、奮い立って、この良きわざに着手しようとした。

人々は、この言葉に元気を受けて、再建に取り掛かりはじめた。
そして、ネヘミヤ3章には色々な名前が出てくる。
城壁のこの区画からここまでは誰々が担当した、と書かれており、かなり大勢の人たちが、互いが互いを補い合って再建に取り掛かっている有様が記されている。
再建は、チームワークである。一人でも欠けたり、怠けたり、という事がなく、しっかり、互いが互いの持ち場について取り掛かるものである。

そして、人が再建にとりかかる時、それを快く思わない者が出てくる。

2:19 ところがホロニびとサンバラテ、アンモンびと奴隷トビヤおよびアラビヤびとガシムがこれを聞いて、われわれをあざけり、われわれを侮って言った、「あなたがたは何をするのか、王に反逆しようとするのか」。

敵は、「あなたがたは良くないことを企んでいるのか」と、罵ってくる。
私達の人生が、もうこれ以上そしりを受けないように、もうこれ以上経済が奪われないように、もうこれ以上、敵が我が物顔で罵られないように、そのような頑張りを、何か悪いことをしているかのように、良心に訴えかけて来る者がある。
クリスチャンは、清く貧しく美しくするべきではないのか、それを何だ、お金を得る欲を出しているのか、など。
そのように、心に囁いてくる声があったりするものだが、ネヘミヤはどうだったか。

2:20 わたしは彼らに答えて言った、「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。しかしあなたがたはエルサレムに何の分もなく、権利もなく、記念もない」。

そうである。
神の民の受けるべき分に何の分もなく、権利もなく、記念もない者に、好き放題言われる筋合いは、一切、無い。
私達に属さず、神の国に何の分け前も記念も権利もない者が、投げかけて来るような者たちに対しては、ネヘミヤが言ったように、天の神ご自身が、わたしたちを成功させてくださる、天の神がゴーサインを与えてくださっており、そして実際、それを行う時に、祝福の実が実態として実っているなら、明確な主の示しとして自信をもって取り組めば良いのだ。
再建のわざを「悪いこと」と発する者に対して、何の良心のとがめを受ける必要は、一切無いのだ。

4章を見ると、さらに敵のあざけりがある。

4:1 サンバラテはわれわれが城壁を築くのを聞いて怒り、大いに憤ってユダヤ人をあざけった。
4:2 彼はその兄弟たちおよびサマリヤの兵隊の前で語って言った、「この弱々しいユダヤ人は何をしているのか。自分で再興しようとするのか。犠牲をささげようとするのか。一日で事を終えようとするのか。塵塚の中の石はすでに焼けているのに、これを取りだして生かそうとするのか」。
4:3 またアンモンびとトビヤは、彼のかたわらにいて言った、「そうだ、彼らの築いている城壁は、きつね一匹が上ってもくずれるであろう」と。

ここにおける、敵のあざけりの声に注目してみると、
敵は、現状の惨状、山積みになっている問題にフォーカスさせる。
家の中の、散らかってしまったごみの山を見るに、引っ越し後のダンボールの山積みを見るに、この山積みの問題を、ああ、自分はだめだ、立て直せないのだ、と。
だめだ、と思って、その一日は何もしない、と。
サタンは、惨状、に目を向けさせ、再建の良い技を起こさせないような心持ちを起こさせる。
再建の良きわざを、起こさせないようにさせるのが、敵の目的である。

10節見ると、
イスラエルの民自身が敵のあざけりに同調してしまって、この再建のわざが、ばかげているように思わされてしまっている
のがわかる。

4:10 その時、ユダびとは言った、「荷を負う者の力は衰え、そのうえ、灰土がおびただしいので、われわれは城壁を築くことができない」。
4:11 またわれわれの敵は言った、「彼らの知らないうちに、また見ないうちに、彼らの中にはいりこんで彼らを殺し、その工事をやめさせよう」。
4:12 また彼らの近くに住んでいるユダヤ人たちはきて、十度もわれわれに言った、「彼らはその住んでいるすべての所からわれわれに攻め上るでしょう」と。

このように、味方身内の心がしなえてしまっている、そこにさらに漬け込んで、脅しをかけてくる。
悪魔サタンが私達の中に忍び込んで知らないうちに殺すなど、全能なる主の御前に決してあり得ないのと同じように、彼らが知らないうちに入り込んで、イスラエル人を殺すなど、あり得ない。
あらぬ恐れ、あらぬ恐怖を吹き込んで、この再建の良きわざをやめさせようとする、その敵の囁きがある。

さらに3節。
4:3 またアンモンびとトビヤは、
彼のかたわらにいて言った、「そうだ、彼らの築いている城壁は、きつね一匹が上ってもくずれるであろう」と。

このような、敵、悪魔サタンのあざけりの声を聞いて、ああ、自分が今一生懸命、身を粉にして、リスクを犯して働いている、そうして苦労して築き上げた城壁も、たかだか一匹のきつねで、ぼろぼろにされてしまうのではないか、という、何をやっても無駄、という恐怖心を起こさせてしまうのだが、それはあり得ない。
主の民が築き上げるキリストの城壁、を、サタンは崩すことは決してできない。むしろサタンのほうが、踏み潰されるのだ。

私達は、主の民、
イエス・キリストにつく民、キリストは天地創造の御子。天地の運行を管理し、やがて来られ、悪魔サタンを、悪霊を、偽預言者を、永遠に消えない火に投げ込む。
その悪魔サタンが、キリストにあって立て直そうとする城壁を、いかに邪魔するか。という事にやっきになって、

サヌバラテとかトビヤの声がある。その声に対して、どう対応したか。

4:4 「われわれの神よ、聞いてください。われわれは侮られています。彼らのはずかしめを彼らのこうべに返し、彼らを捕囚の地でぶんどり物にしてください。
4:5 彼らのとがをおおわず、彼らの罪をみ前から消し去らないでください。彼らは築き建てる者の前であなたを怒らせたからです」。

私達を再建するお方は、聖霊。その聖霊を侮辱する者は、ゆるされない。そのような、侮辱する者は、主に訴える!彼らを、カスメ奪われるようにしてください、と。具体的に。
そして心萎えてしまっている人に対しては、ネヘミヤは具体的な行動で答える。

4:13 そこでわたしは民につるぎ、やりおよび弓を持たせ、城壁の後の低い所、すなわち空地にその家族にしたがって立たせた。
4:14 わたしは見めぐり、立って尊い人々、つかさたち、およびその他の民らに言った、「あなたがたは彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、むすこ、娘、妻および家のために戦いなさい」。

ネヘミヤは、武器をもたせた。低いところにもし敵が入り込んできたら、返り討ちにしようという意気込みを見せた。敵は、私達の意気込みをこそ恐れる。
敵は、こちらの徹底抗戦の構えを見て、恐れる。
実際15節にはどう書いてあるか。

4:15 われわれの敵は自分たちの事が、われわれに悟られたことを聞き、また神が彼らの計りごとを破られたことを聞いたので、われわれはみな城壁に帰り、おのおのその工事を続けた。

敵は、こちらが、キリストに硬くたち抗戦の構えを見せるなら、敵は何も太刀打ちできない。
なぜならサタンは、私達キリストにある者に実際にできる事といえば、思いの中に偽りの恐れを吹き込むだけで、実際は、触れることはできない、と書いてある。(ヨハネ5章)
実際には、一切の手出しはできないのだ。あの者共は、あたかも、大きな力があるかのような、見せかけをしてくるが、それは偽りだ。
私達はイエス様にあって、怠けに、貧しさに導くような、あたかもいつまで経っても人生は修復されないかのような思い込みをさせるような「者」に対しては、徹底抗戦の構えを見せるべき。
するなら、敵はたちまちにして恥じ入り、すごすご逃げ去る以外にない。
だから、御言葉にに硬く立って戦うべき。霊的武器をもって。兄弟、むすこ、娘、妻および家のために。

さらに、16−17節
4:16 その日から後は、わたしのしもべの半数は工事に働き、半数はやり、盾、弓、よろいをもって武装した。そしてつかさたちは城壁を築いているユダの全家の後に立った。
4:17 荷を負い運ぶ者はおのおの片手で工事をなし、片手に武器を執った。

このように片手に武器、片手に再建の道具を持った。
片手しか仕事できない、仕事がはかどらないのでは、と思われるだろうか。いや、それが最もはかどる仕方である。
むしろ武器を持たずに、いつ敵が攻めてくるだろうかとびくびくしながら仕事するなら、敵は、聞きつけてくる。あの者共は武器を持っていない、簡単に攻め落とせる、と。
そのものの耳に囁いてくる。お前の人生は再建できないのだ、お前は仕事ができないのだ、と。
さらに、武器を持たずに仕事を続けるなら、実際に攻め込んでくる危険性もある、だから、しっかり御言葉で、信仰で武装し、火の矢を消し、剣で攻撃する。それが一番はかどる。

まさにチームワークである。
4:18 築き建てる者はおのおのその腰につるぎを帯びて築き建て、ラッパを吹く者はわたしのかたわらにいた。
4:19 わたしは尊い人々、つかさたち、およびその他の民に言った、「工事は大きくかつ広がっているので、われわれは城壁の上で互に遠く離れている。
4:20 どこででもラッパの音を聞いたなら、そこにいるわれわれの所に集まってほしい。われわれの神はわれわれのために戦われます」。
4:21 このようにして、われわれは工事を進めたが、半数の者は夜明けから星の出る時まで、やりを執っていた。
4:22 その時わたしはまた民に告げて、「おのおのそのしもべと共にエルサレムの内に宿り、夜はわれわれの護衛者となり、昼は工事をするように」と言った。

その結果、仕事はスピーディーに終わる。
6:15 こうして城壁は五十二日を経て、エルルの月の二十五日に完成した。

たった52日で、何十年も放置されていた瓦礫の城壁は立て直された!
そんなものである。
塵屑は山をなしている、片手に仕事、片手に武器?そんなのでははかどらない、と言っている人は、何十年も城壁は再建されない。
また、敵がささやきかけてくる声を真に受けて、武器を持たない、あるいは工事を止めてしまう、そういう人も、城壁は崩れたまま、。
しかし、しっかり武器を持ち、仕事をし、いつでも兄弟姉妹を助ける体制を整えているなら、わずか52日で再建が終わる。

6:16 われわれの敵が皆これを聞いた時、われわれの周囲の異邦人はみな恐れ、大いに面目を失った。彼らはこの工事が、われわれの神の助けによって成就したことを悟ったからである。

皆さんの人生において、再建をしようとする時、色々な、敵のことば、くじけさせる言葉は、あるだろう。
あるいは心に弱気がむくむくと沸き起こるかもしれない。
その時、そのような敵に対して剣を、また、信仰の大盾をもち、主の御名によって祈る。祈りにより、賛美により、御言葉の宣言により、それを薙ぎ払う。
そうして戦って行くなら、速やかに、わずかな日数で、再建が成されていく。

いつまでも片手に剣を、片手に仕事道具を持って、という日々が続くわけではない。
私達は怠け心を取り除き、再建にとりかかろう、の働きをし、人生を、立て直し、また、具体的な的に対しては御言葉で対処し、心に沸き起こってくる弱気には、祈りによって対処し、そうして主の助けを得て、最短で
敵に対しては分捕り返す皆さんでありますように!

エペソ6:10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
6:11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
6:13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
6:14 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、
6:15 平和の福音の備えを足にはき、
6:16 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
6:17 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
6:18 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。
6:19 また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。
6:20 わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。

御言葉に逆らう者の逆風人生と、御言葉に従う人の追い風人生(イザヤ65:11-16)
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邪悪で汚れた事に「いいね」をする者達の中で(ローマ1:21-32)
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週報/メッセージ(説教)概要

 神を神としてあがめず感謝もしない者達は、ますます邪悪で汚れた性質を帯びて行くが、そのような者達から被害を受けつつ、本当は清く生きたいのに、汚れた習慣・価値観で育ってしまった故、それが分からず、邪悪な汚れた自分を苦しんでいる人達の叫びを、神は聞いておられる。神はそんな彼らに、使者を遣わし、神に立ち返る人々は、栄光の御国へ引き入れて下さる事を、前回、遊女ラハブから学んだ。
彼女以外のその町の者達は、あくまで真の神に敵対し、城門を閉ざし、徹底抗戦の構えを見せたが、今回、そのように頑固に神を受け入れない者達に対し神はどうするか、そして彼らはどうなるのかを学びたい。

エリコの住人のように、唯一なる神を神とせず感謝しない者、神の栄光を、滅ぶべき被造物へと取り替えるような者達へ、神が定められたのは、三つの「パラディドミー:引き渡す、放置する」(24,26,28節)だった。
パラディドミー。それは福音書の中で、特にイエス様が十字架へ「引き渡」される場面において頻繁に登場する。パリサイ人やピラト、そしてイスカリオテのユダは、イエス様を十字架へと「引き渡した」が、彼らのように、不朽の神の御子・キリストを、十字架へとパラディドミーする者に、神は、三つのパラディドミーをする。
24節で、神はそのような者達を、その心の欲望のまま汚れへと「引き渡され」、そのため彼らは互いにその体をはずかしめるようになった事が記されている。神を神と認めない、キリストを救い主として受け入れない、それならどうぞ心の情欲の通りに生きなさい、と、獣以下の汚れへところげ回り落ちるよう放置したのだ。
26節で、神は彼らを恥ずべき情欲に「引き渡され」、女は女同士・男は男同士で恥ずべき欲望に従って生きるようにし、それを恥ずかしいと思わないようになった。「そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。」(27節) 当然の報い。それは古来から常にあり、ノアの時代には洪水が、ソドムとゴモラには火の刑罰が、それ以降も、諸々の性病の恐ろしい症状という形で、神は明白な「当然の報い」を報復された。
28節では、彼らが神を知ろうとしたがらないため、良くない思いへと「引き渡され」、してはならない事をするようになった、と記されてある。その結果、彼らは22項目の「死に値する」罪を犯すようになる。(多くの訳では21項目だが、原典は31節に「アスポンドス:執念深く和解不能な者」を含めた22項目である)
『彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、「執念深く和解不能な者(多くの訳で省略)」、無慈悲な者となっている。こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを「行う(パラッソゥシン)」者どもを「是認(スンニュドクシン)」さえしている。』(29-32節)
この「パラッソゥシン」は現在形能動態複数形、すなわち、そのような事を積極的に行っている人が、複数で声を大に「いいね」と互いに持ち上げ合い、組織化・勢力化し、社会現象化する状態である。
「スニュドクシン」とは、「スン(一緒に) + ユードケオ(いいね、魅力的だね、素晴らしいね)」が合わさった言葉で、あの22項目の邪悪で不潔な価値観に対し、「すごくいいね」「素晴らしいね」「ロマンスだね」などと組織的に言い合って、勢力化し、社会現象化させている状態だ。
まさに現在、暴力的で、不潔で、非自然な事が「いいね」ともてはやされる時代で、その汚れた価値観が勢いを持ち、時の権力者がその価値観で世を上塗りさせようとする勢いだが、それはギリシア・ローマ時代や、ノア以前の時代にも蔓延っていたのであり、古来から、神はそのような者達に明確な裁きを降して来た。

何がきっかけで、そうなってしまうのか。それは、頑なに神の御言葉を拒否し続ける事によって、である。
かつてエジプトは、イスラエル民族からの恩を、仇で返し続ける事を何百年も続けた故、神はパロの心を頑なにし、エジプトに災いが降される事によって、神の栄光を現す道具として用いられたのである。
神は、好きこのんで人を頑なにしたり、滅びの器に定めたりするお方ではない(エゼ18:23)。むしろ神は、人を救おうとする故に、一人子を世に与え、その大切な一人子を身代わりの十字架につける程の愛をもって憐れまれたのだ。その尊い愛さえ退け、あくまで欲望のままに歩む事によって、キリストを再び十字架につけようとする者は、神は、そのままその人を汚れへと「引き渡し」、滅びへと導かれるのだ。
今、邪悪な事・汚れた事が「いいね」と持ち上げられる時代の中、きよい者・聖なる者として燦然と輝き、ラハブのように、この時代の中で苦しんでいる人を、一人でも多く救い出す皆さんでありますように!

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