メッセージ - 201709のエントリ

イエスをどなたと心得るか(ルカ8:19-39)
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主に復讐され踏まれてしまう者とは(イザヤ63:1-9)
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福音とは(1コリント15:1-5)
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15:1 兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。
15:2 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。

福音、という日本語、改めて聞くと、よくわからないかもしれない。
福音(エウアンゲリオン)とは、元々、勝利のよき知らせである。自国が戦いに勝利し、伝令が「我らの王は敵に勝利し、自分達の国は勝ったぞ!」「もう圧政に苦しむ必要は無い、恐れる必要は無いのだ!」と、次々と伝えながら走っていく、その言葉がエウアンゲリオンである。

勝利した私達の王とは誰か?それは私達の主イエス様であり、敗北した者とは、悪魔サタンである。
そしてそれは、罪に対しての勝利であり、死に対しての勝利である。

15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
15:5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。

これが福音の根幹である。
イエス様は、わたしたちの罪のために死なれた事によって、私達の罪を十字架上で釘付けにされ、私達の罪そのものを罰して下さった。
そして、三日目によみがえられた事によって、死に勝利して下さった。

15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
15:58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

死に対する勝利、これこそ、私達人類にとって究極の救いである。それを達成して下さったお方がイエス様であり、それを伝える言葉が、福音である。
悪魔サタンは、敗北した。悪魔の誘惑の本質は、この、神の言葉を混乱させる事だ。

「主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。」(創3:1) この蛇こそ、天から投げ落とされた、全人類を惑わす者、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれる、あの古い蛇(黙12:9)である。
悪魔の「魔」、その漢字は、广(まだれ:家や庭を意味)の中に、二本の木があり、その間に「鬼」と書くように、悪魔の誘惑の特徴は、いかに人をいのちの木から遠ざけ、善悪の木に向かわせるか、という点にあり、御言葉の肝心な所を抜いたり、不純物を混ぜたりして、人に不安の波紋を起こさせ、御言葉否定へと導く。
神が言われたのは、 岷爐里匹量擇らも」 ◆峪廚い里泙淇べてよい」、「しかし善悪の知識の木からは」 ぁ崋茲辰匿べてはならない」だった。(創世記2:16-17)
しかし悪魔であるこの古い蛇は、『 岷爐砲△襪匹量擇らも」 ぁ崋茲辰匿べてはならない」と、ほんとうに神が言われたのですか』(創3:1)、と言っており、肝心の、△鉢を除いてしまっている。
蛇は、神様から与えられているあらゆる良き祝福には、全く言及せず、たった一つのしてはならない事にクローズアップさせ、あたかも神は、我々に制限を大きく課しているかのような錯覚を、吹き込ませた。
御言葉をしっかり覚えていないと、容易に騙されてしまう。エバはその掻き乱しに、まんまと乗ってしまった。

創世記3:2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
3:3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

こうして人類に死が、呪いがもたらされてしまった。
しかし神は、そんな人間を捨てる事なく、救うために、御父は愛するひとり子を犠牲にし、イエス様は、自らの命を投げ出してまで私達人類を救って下さった。
そして神は、悪魔サタンをやがて一瞬にして焼き滅ぼされ、永遠の炎に閉じ込められる。

黙示録20:7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
20:8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
20:9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。

私達を惑わしたサタンの行く所は、硫黄の燃えている火の池ゲヘナであり、そこで生きたままで投げ込まれる。
イエス様の勝利は、完全・完璧であり、イエス様を主とした私達が行く所は天国で、私達はそこで永遠にイエス様と共に生きるのだ。

黙示録21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

神の国よりも世の何かを優先させてしまう事の危険(ルカ12:13-21)
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12:13 群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。
12:14 彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。

イエス様は、つれない返事をされたのはなぜか。それは、次の言葉に答えがある。

12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。

彼は、貪欲の動機をもって、イエス様の求めたからだ。
世の事柄は、良いものでも悪いものでもない。ただ、それを用いる人の心によって、よくも悪くもなる。

12:16 そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして
12:18 言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。
12:19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。
12:20 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。
12:21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。

たとえの中の人は、神に対して富まない者だった。この地上の富や宝を求め、それをたましいの喜びとし、安心する根拠とはしても、永遠のいのちの源であるイエス様を求めなかった。

49:16 人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。
49:17 彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことは/ないからである。
49:18 たとい彼が生きながらえる間、自分を幸福と思っても、またみずから幸な時に、人々から称賛されても、
49:19 彼はついにおのれの先祖の仲間に連なる。彼らは絶えて光を見ることがない。
49:20 人は栄華のうちに長くとどまることはできない。滅びうせる獣にひとしい。

富んではいても、獣に等しい人は、世の中にごまんといる。
その代表格が、ソロモンである。
彼は世界一、知恵が与えられ、富と栄誉が与えられたが、彼自身は「むなしい」の一言で人生を終えてしまった。
ソロモンの性質とは、いかなるものか。

2:1 わたしは自分の心に言った、「さあ、快楽をもって、おまえを試みよう。おまえは愉快に過ごすがよい」と。しかし、これもまた空であった。
2:2 わたしは笑いについて言った、「これは狂気である」と。また快楽について言った、「これは何をするのか」と。
2:3 わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。

2:4 わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、
2:5 園と庭をつくり、またすべて実のなる木をそこに植え、
2:6 池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。
2:7 わたしは男女の奴隷を買った。またわたしの家で生れた奴隷を持っていた。わたしはまた、わたしより先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊の財産を持っていた。
2:8 わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた。またわたしは歌うたう男、歌うたう女を得た。また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。
2:9 こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者となった。わたしの知恵もまた、わたしを離れなかった。
2:10 なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって、快楽を得たからである。そしてこれはわたしのすべての労苦によって得た報いであった。
2:11 そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。

彼は、せっかく神様から与えられた知恵を脇において、酒をもって肉体を元気つけようとした。
また、きよい聖なる事のみならず、愚かな事をしようと試みた。
クリスチャンの中にも、いる。自分は聖書の聖なる事だけでなく、愚かなこと、酒をも求めよう、その両方を得てこそ、真の知恵が与えられるのだ、と。
そのように思う人は、忘れている。人は、快楽に対する耐性が無い、という事を。
いかにサムソンのように腕力があっても、いかにソロモンのような知恵があっても、共々、快楽によって身を滅ぼしてしまった。
ましてや、私達はいかなるものだろう。
 

義人として祝福を受け継ぐ人と、不義によって真理を阻む人(ヨシュア記7:10-26)
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信仰の歩みをし続けよう(ローマ1:17-21)
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賛美集会音声
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週報/メッセージ(説教)概要

 ローマ人への手紙には、全ての人が罪に勝利できる術、さらに聖化される方法が記されており、さらにその先の「栄化」に至る真理が詰まっている。そこに至るまでの重要な鍵が、信仰である。
信仰の元々の意義は「連合する」「バンドする」事を以前学んだ。クリスチャンは御言葉なるキリストと連合し、結合する人達である。パウロは義人の定義を、次のものとした。『神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてある通りである。』(ローマ1:17)
「信仰に始まり信仰に至らせ(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)」。ここの原意は、信仰(ピスティス)は、「所有する事(エック)」によって始まり、信仰の目的地を「目指して(エイス)」、歩み続ける事である。
そういうわけで「義人」とは、イエス様(御言葉)を信じた瞬間から、その信仰を「所有し続け」ながら生きる人の事だ。だから、イエス様を信じた瞬間がゴールなのではない。それはスタートであり、その時から信仰を所有しつつ、信仰の目的地である天国に向かって歩み続けて行く。その状態にある人が、義人なのだ。

パウロが義人の定義を宣言した直後、「神の怒り」について宣言した事は、注目に値する。『神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。』(18節)
義の反対・「不義」とは、神の言葉に逆らう事である。世界は神の言葉(御言葉)によって創造され、万物は、この神の御言葉によって維持・保全されている。崖から飛び出すなら、老若男女を問わず、重力の法則に従って落ちるように、「御言葉」の法則から飛び出すなら、老若男女を問わず、誰でも滅びてしまう。
重力の法則には人格も感情も無いが、全法則を創造された神は人格があり、感情も憐みもあるお方だ。
御言葉に対する信仰を所有しない・信仰の歩みをし続けない人は、自動的に「不義をもって真理をはばもうとする人」になってしまっている。神は、憐れみをもって御自身をその人にあらわされるが、それでも悔い改めないなら神の怒りが降され、それでも悔い改めない事を続けるなら、永遠のさばきが確定してしまう。
ちょうどエジプトを出たイスラエルの民が、神様の大いなる御業を沢山見たというのに、信仰の「所有」と「歩み」をせず、逆につぶやいて文句ばかり言い続け、ついに信じなかった人達が皆、荒野で倒れたように。

この世にあるものは全て、人格と感性のある神によって創られた。故に、宇宙の秩序正しさ、自然の美しさ、人体の不思議、細微な世界の巧妙さを、人は美しく感じるもので、神の栄光を見ている。(19-20節)
それでも『彼らは神を知っていながら神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは空しくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。』(21-23節) これが神の裁きが近い人の特徴だ。
「感謝」と「知る」には、密接な関係がある。ヘブライ語の「感謝」はトダー、「知る」はヤーダーで、トダー(感謝)は、ヤーダーが元になっている。感謝とは、相手を知ってこそ出来るもので、神様を知っていればいる程、感謝が溢れ、賛美に力を入れるものである。神への感謝が沸かない人は、まず、神を知る必要がある。
御言葉を聞き、主の栄光を目にしておきながらなお神をあがめず、感謝せず、神を差し置いて好き勝手な事をし続ける人には、神の怒りが示され、それでも悔い改めないなら、さばきがどんどん近づいてしまう。
ちょうどヨシュアの時代、罪を暴く「くじ」の当選範囲が、罪を告白しないアカンに対しどんどん狭まって行き、ついには当選してしまったように。 『その時ヨシュアはアカンに言った、「わが子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、また主をさんび(トダー)し、あなたのしたことを今わたしに告げなさい。』(ヨシュア7:19)
アカンは神のすばらしい栄光と御業を見ながら、心を神に結びつけず、信じず、むしろ世の富のほうに心を結びつけた結果、イスラエル全体に災いをもたらしてしまった。アカンはヨシュアが指摘しているように、主に栄光を帰す事をせず、また主をさんび(トダー)する事をせず、世の富に心を結びつけていたからだ。
彼は神に感謝(トダー)せず、知り(ヤダー)もせずにいたから、神の怒り・神の裁きが追いついてしまった。

人は皆、等しく御前に犯した罪の刈り取りをしなくてはならない。その前に、神に心を向け、神を知ろうとし、神が為して下さった素晴らしい御業をほめたたえ、感謝を捧げるべきである。神に感謝し、褒め称える事こそ、人の本分である。事実、天国では、永遠に神を褒め称える賛美が、恵みによって天国に入った人々の口から永遠に流れ続ける。信仰の歩みをし続け、ますます神を知り、神を賛美する皆さんでありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
主に喜ばれる生き方を継続させるために(申命記14:1-21)
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彼らがあなたに帰っても、あなたは彼らに帰ってはならない(エレミヤ15:15-21)
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主にあってひとつ(エペソ4:1-7)
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主の箱がいよいよダビデの町へ入ってきた(1歴代誌15:25-16:3)
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ウザの事件で、ダビデは恐れた。自分ごときが、神の箱を自分の都に運び込んでも良いものか、と。
しかし、神の箱をエルサレムに携え登る事は、主の御心だった。
『ダビデ王は、「主が神の箱のゆえに、オベデエドムの家とそのすべての所有を祝福されている」と聞き、ダビデは行って、喜びをもって、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町にかき上った。』(2サムエル記6:12)
わずか3ヶ月で、明らかに「神の箱のゆえに」祝福されたという報告がされたからには、その祝福は余程、あからさまで分かりやすいものだったのだろう。
そこで、自信を得て、彼は主の箱を自分の町に携え登る事を続行した。

15:25 ダビデとイスラエルの長老たちおよび千人の長たちは行って、オベデ・エドムの家から主の契約の箱を喜び勇んでかき上った。
15:26 神が主の契約の箱をかくレビびとを助けられたので、彼らは雄牛七頭、雄羊七頭をささげた。

主もまた、主の御言葉に立ち返り忠実に行おうとしたダビデ達をたすけられた。
そしてダビデは、レビ人が6歩進むごとに、いけにえをささげた。


15:27 ダビデは亜麻布の衣服を着ていた。箱をかくすべてのレビびとは、歌うたう者、音楽をつかさどるケナニヤも同様である。ダビデはまた亜麻布のエポデを着ていた。
15:28 こうしてイスラエルは皆、声をあげ、角笛を吹きならし、ラッパと、シンバルと、立琴と琴をもって打ちはやして主の契約の箱をかき上った。
15:29 主の契約の箱がダビデの町にはいったとき、サウルの娘ミカルが窓からながめ、ダビデ王の舞い踊るのを見て、心のうちに彼をいやしめた。

ダビデはこの時、王といえども、他の働き人達と全く同じ格好をし、他の人達と全く同じように、共に主を喜び楽しんでいた。
それも、妻ミカルに蔑まれるほどに。
彼女は、主の箱が自分の町に入って来た事、主の栄光と臨在が共に住まわれる事の喜びで心を満たすのではなく、彼女の夫であり王であるダビデに対する蔑みで心をふくらませていた。
礼拝すべき時に主を仰ぎ見ず、主を仰ぐべき目を、人に向け、礼拝が終わったらどうとっちめてやろうか、という意図を持って、礼拝をそっちのけにしてしまう人のように。

16:1 人々は神の箱をかき入れて、ダビデがそのために張った幕屋のうちに置き、そして燔祭と酬恩祭を神の前にささげた。
16:2 ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終えたとき、主の名をもって民を祝福し、

ダビデはこの時、祭司やレビ人と同じ服装、すなわち亜麻布のエポデを身にまとって、人々を祝福した。
祝福する事は、牧師など一部の人だけの特権ではない。一家の長や、権威的に上に立つ人は、積極的に家族や配下の人々を祝福するべきである。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、子孫達を祝福したし、ボアズもそうだった。

さて、歴代誌は、ミカルについてはわずか1節でしか説明していないが、ミカルがその後いかなる事をしたのか、第二サムエル記に詳細に記されている。

『ダビデが家族を祝福しようとして帰ってきた時、サウルの娘ミカルはダビデを出迎えて言った、「きょうイスラエルの王はなんと威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」。』(2サムエル記6:20)

ダビデは家族を祝福するために入ってきたのに、ミカルはそれを遮って、自分の中で膨らませていた不満をぶちまけた。
祝福をしてくれる人、すなわち、主を畏れ敬う主人を蔑む人は、いのちの祝福を受けられない。

ミカルは、ダビデに王として威厳を保つべき事を、求めたのだろう。
王たる者は、民草と対等になってはならず、王服を脱ぐべきでない、いかに主の箱が自分の所に来るような場面であろうと、上に立ち、王服をまとって威厳を保つべきだ、と。
しかし、神の国においては、自分という「王」の上に、さらに王の王たるお方がおられ、そのお方の前では、むしろ自分の王服を脱ぐべきであり、自分の冠を外すべきなのだ。

『ダビデはミカルに言った、「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう。わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう。しかしわたしは、あなたがさきに言った、はしためたちに誉を得るであろう」。』(2サムエル記6:21-22)

ミカルは「家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」と言ったが、ダビデは、家来たちや、はしためたちの目の前、という意識はなかった。
ダビデは「誰の前」と言っただろうか。「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前」、と言った。

ダビデは自分よりももっと「王」なるお方、すなわち、自分も、ミカルの父をも、王として下さったお方がおられる事をミカルに答えた。
さらにダビデは、自分はもっともっと主の前に低くされて行く、と告白し、また、自分が王として君臨する事より、むしろ、ミカルが「家来たちのはしためら」と呼んで蔑んだ人達から、誉れを受ける事のほうを望んだ。

キリストは、まさにそうだった。
彼は、ご自身の王であられる立ち位置を捨て、人と同じようになり、また、偉いと見られている人々から蔑まれ、むしろ子供や遊女や取税人からほまれを受けた。
彼はあざけられ、罵られ、その衣服は人々によってくじにかけられ、十字架の上で、裸を晒された。

『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。』(ピリピ2:6-11)

キリストは自分を卑しくし、死に至るまでも忠実だったからこそ、何にもまさる栄誉が与えられたように、ダビデもまた、主の御前では王服を脱ぎ、王座を降り、自分を低くしてへりくだる心を持っていたからこそ、高められたのだ。
自分を低くする者は高められ、高くする者は低くされる。(ルカ14:11)

ミカルは「サウルの娘」という呼ばれ方はされていても、「ダビデの妻」「王妃」という呼ばれ方はされなかった。

ミカルも、彼女の父も、あくまで自分という王座から降りない道を貫き通したが、ミカルはどうなったか。
『こうしてサウルの娘ミカルは死ぬ日まで子供がなかった。』(2サムエル記6:23)
ミカルからは、いのちが生まれなかった。
ミカルのような性質の人、すなわち、自分が王であろうとする人、祝福すべき夫や権威を敬わず、いつも自分が上となって意見していたい人には、主はいのちを任せられないのだ。

私達は、まことの王、まことの夫である主キリストを前にした時、自分の王座を降り、主に全てを譲り、主のなさる事を喜ぶべきである。
 

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