メッセージ - 20170712のエントリ

ルカによる福音書 講解説教メッセージ
敵に良くしてあげる事の多大なメリット(ルカ6:27-38)
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サルスベリならぬ「悪魔サタンすべり」になる方法(イザヤ59:12-21)
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イザヤ書59章は主語が明確に分かれている。
1−4節の主語は「あなたがた」、5-8節は「彼ら」9-15節は「私たち」、16-21節は「主」である。

なぜ、人には悲惨な事が起きるのか。そして、どうして祈っても主に聞かれないのか。
なぜ祈っても、癒やされず、必要は満たされず、悪霊は離れて行かないのか。
それは次のように書いてある通りである。
 59:1 見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
 59:2 ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。

5-8節の「彼ら」はまさにサタンの申し子のような、邪悪な行いをしてなんの呵責も無いような者達であるが、そんな彼らによって被害に遭い、苦しみ、災いばかりを被っている人は、いかにして、主の救いを受けられるのか。
それはずばり、自分の罪を認める事である。

 59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。

この、12節の言葉が、57章から続く主の叱責が、60章以降の主の憐れみと祝福へと転換点するターニングポイントとなる。
主の叱責から、主の憐れみと祝福になるターニングポイントとなる鍵は、自分の罪を認める事である。

日本語の聖書に「ごめんなさい」という言葉が一切出てこない事をご存知だろうか。
こんなにも日本語としてはメジャーな言葉は、どうして、存在しないのか。

聖書で「ごめんなさい」に相当する言葉は、「わたしは**の罪を犯しました」である。
ごめんなさいの漢字は「御免なさい」、すなわち、非礼をしてしまった自分を「免じ」る事を求める言葉である。
つまり、ごめんなさい、という言葉には、自分が犯した非を言い表す所がないし、また、非を改める意思表示も、この言葉の中に含まれていない。
「申し訳ございません」も、「言い訳のしようがない」や「弁解の余地もない」という意味で、あり、「すみません」、も、相手に非礼をしてしまった自分の気持ちが、このままでは「済まない」の意味で、自分が罪を犯したというニュアンスが抜けている。
もしかすると、「ごめんなさい」「申し訳ない」「すみません」という言葉が、日本に救いが中々もたらされない事に、大いに役立っているかもしれない。

 59:9 それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、正義はわれわれに追いつかない。われわれは光を望んでも、暗きを見、輝きを望んでも、やみを行く。
 59:10 われわれは盲人のように、かきを手さぐりゆき、目のない者のように手さぐりゆき、真昼でも、たそがれのようにつまずき、強壮な者の中にあっても死人のようだ。
 59:11 われわれは皆くまのようにほえ、はとのようにいたくうめき、公平を望んでも、きたらず、救を望んでも、遠くわれわれを離れ去る。

この、9節から11節は、日本の文学では多々見られる。自己憐憫、悲しい悲しいの演歌の世界である。ここにとどまっている人は多く、そして12節に至る人は少ない。
それに対し、12節から15節は、自分の罪の告白であり、これこそが、主の助けが開かれるコツである。

 59:12 われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。
 59:13 われわれは、そむいて主をいなみ、退いて、われわれの神に従わず、しえたげと、そむきとを語り、偽りの言葉を心にはらんで、それを言いあらわす。
 59:14 公平はうしろに退けられ、正義ははるかに立つ。それは、真実は広場に倒れ、正直は、はいることができないからである。
 59:15 真実は欠けてなく、悪を離れる者はかすめ奪われる。主はこれを見て、公平がなかったことを喜ばれなかった。

ここでは、かなり具体的に、自分の罪を告白している。これこそ、16節以降の主の助けを得る手段であり、ひいては60章以降の祝福を得るコツである。
実に、悪霊や呪いが留まり続けてもらうためのコツは、自分の罪を言い表さない事である。

 59:16 主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれをささえられた。
 59:17 主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。

主が義の胸当てをまとい、救いのかぶとをかぶって、戦って下さる。
この武具はエペソ6章にも登場するが、エペソ6章は信仰において成熟し、悪しきものと戦う事の出来る人が、身につけて戦うものであるのに対し、ここでは、そのような「人」がいない故に、主みずからが、「自分の罪を告白した人」のために立ち上がり、戦ってくださる事がしるされている。
エペソ6章には登場しない「報復の衣」「熱心の(ねたみの)外套」は、ただ主が身に付けるものであって、人が主を差し置いてまとったりしてはならないものである。

 59:18 主は彼らの行いにしたがって報いをなし、あだにむかって怒り、敵にむかって報いをなし、海沿いの国々にむかって報いをされる。

主は彼らに報復をされるが、ここの「彼ら」とは、5-8節の「彼ら」である。
 59:5 彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死ぬ。卵が踏まれると破れて毒蛇を出す。
 59:6 その織る物は着物とならない。その造る物をもって身をおおうことができない。彼のわざは不義のわざであり、彼らの手には暴虐の行いがある。
 59:7 彼らの足は悪に走り、罪のない血を流すことに速い。彼らの思いは不義の思いであり、荒廃と滅亡とがその道にある。
 59:8 彼らは平和の道を知らず、その行く道には公平がない。彼らはその道を曲げた。すべてこれを歩む者は平和を知らない。

主は、このような事を好き好んでする「彼ら」に、報復をされる。
それも、自分の罪を、告白した人達を救うためにである。自分の罪を告白しない人に対しては、いつまでも「彼ら」から好き放題に蹂躙されたままである。

 59:19 こうして、人々は西の方から主の名を恐れ、日の出る方からその栄光を恐れる。主は、せき止めた川を、そのいぶきで押し流すように、こられるからである。

まことに、日出る国に主の栄光があらわれるためには、「ごめんなさい」「すみません」「申し訳ない」の領域を出て、自分の罪を言い表す必要がある。
その時、主のいぶきが吹き荒れて、たちまし主の栄光がこの東の国、日出る国を覆うだろう。

 59:20 主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。

ここで、重要な事が示されている。
主が「あがなう者」として現れてくださるのは、「とがを離れる者に」対してである。

つまり、罪を言い表したなら、次に、自分の「とが」を「離れる(シュブ:返る、リターン、離れる)」事である。
それをするなら、主が暁のように現れてくださり、悪魔の申し子のような「彼ら」に報復し、60章以降のすばらしい祝福へと入って行けるのである。

自分の罪を言い表す事。そして、それを改める事。
これこそ、神と人との間の隔てとなっている壁を取り除く、唯一の方法である。

自分の中に住み着いている悪霊を追いだそうとする人が「イエス様の名前によって、悪霊よ、出て行け」と何度言っても出て行かない場合は、自分が習慣的に抱え持っている罪を主の御前に告白しているか、そしてそこから1ミリでも離れようという努力をしているかを今一度チェックする必要がある。
いつまでも自分の罪を手放さず、罪の自分と仲良くし、そこから離れないままでいるなら、悪魔サタンに握られてしまう「とっかかり」を与えてしまっているようなものである。
しかし、罪を言い表し、それを改めようと努力するなら、悪魔サタンがその人をつかむ「とっかかり」を失う。
ちょうど、サルスベリの木は猿がつかめるようなとっかかりが無くてすべり落ちてしまうのと同じように。
だから、「イエス様の名前によって、悪霊よ、出て行け」と何百回言うよりも、むしろ、自分の罪を明確に告白し、そこから離れる努力をして、「悪魔サタンすべり」になるべきである。
自分の罪を明確に告白し、そこから離れる努力をするなら、主が働いて、主が悪魔サタンに報復する機会を得るからだ。
 

歴代誌概要(1歴代誌1:1-4)
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講解説教は本日より歴代誌に入る。

歴代誌は、預言者の言行録や、王たちの書、また、諸々の注解など、多くの資料を基にしているが、誰がこれをまとめ、記したかを示す箇所は無い。
ユダヤ人の伝承では、著者をエズラとしている。
歴代誌の内容は、そのままエズラ記に続けるなら内容的に非常にマッチするし、そして、歴代誌の内容は、バビロン捕囚後の諸々の危機に際し、エズラがイスラエルの民を鼓舞した精神と、非常によく一致している。

バビロン捕囚後のイスラエルには、周辺諸国の圧迫という危機があったため、イスラエルのアイデンティティを鼓舞する必要があったし、長らくバビロンにいたために神殿礼拝が軽んじられてしまっている現状に対し、礼拝の復興を鼓舞する必要があったし、また、異邦人との結婚・血筋の混濁がはびこりつつあり、せっかく主がバビロンから開放して新しい歩みだしをして行こうとしていたというのに、またしても捕囚前の堕落した時代に逆戻りしようとしていたため、捕囚前の堕落した王達がいかなる道を辿ったかを示す必要があった。

歴代誌は、まさに捕囚後のイスラエルの民が生きるべきエッセンスが詰まっている。

第一歴代誌1章から9章までは、アダム以来の系図が記されており、イスラエルのアイデンティティはどこにあるのかをまさに示している。
10章から第一歴代誌の終わりまでの所には、神殿がいかに荘厳に造られたかが記されており、神殿こそがイスラエルのアイデンティティである事を強調している。
また、第二歴代誌には、この神殿を、すなわち礼拝を軽んじた王がいかに呪われ、尊んだ王がいかに祝福されたか、その歴史が記されている。

系図はファミリーツリーであるが、歴代誌において幹となっている部族は、レビ族とユダ族である。
それは、バビロン捕囚から帰還しイスラエルに定住しに来た部族がそれだからだ。

10章から第二歴代誌に至るまでは、特にダビデとソロモンの、神殿建設に関わった事が記されている。
サムエル記におけるダビデは、サウルとの葛藤や苦悩、またバテ・シェバとの罪など、人間味溢れる所が豊かに記されているが、歴代誌におけるダビデはむしろ神殿建設のために努力したダビデが記されている。
彼がいかに神殿建設の準備をし、いかに礼拝組織や聖歌隊を編成したか、また、彼の子ソロモンがいかに神殿建設をしたか、列王記には無い詳細な内容が記されている。
そして第二歴代誌は、ソロモン以降の王達の歩みが記されているが、ここで繰り返し強調されている事は、神を畏れ神殿を重んじた王たちは祝福され、それを軽んじた王達は呪われている事である。
まさに、バビロン捕囚後の人々に必要な警告と養いが、歴代誌の中にある。

歴代誌はヘブライ語ではディブレー・ハッヤーミーム、「日々の出来事」の意味である。
ユダヤ教の聖書(タナク、私達が言う旧約聖書)は、トーラー(モーセ五書)、ネビイーム(預言者)、ケトゥビーム(諸書)に分かれており、歴代誌はケトゥビーム(諸書)の最後に位置する。すなわち、ユダヤ人の聖書では、一番最後の書である。
列王記はネビイーム(預言者)の中に入っており、ヨシュア記や士師記などの歴史と、イザヤやエレミヤなどの預言書と同じカテゴリにある。
それに対し、歴代誌は、ケトゥビーム(諸書)、すなわち詩篇や箴言、伝道書など、神様との関係の中で生まれた文学類と同じカテゴリの中にある。

歴代誌、それはユダヤ人の「日々の出来事」であり、私達にとっても「日々の出来事」である。

内容としては、ユダヤ人の系図や神殿、王達の歴史と、私達異邦人には全く関係のないものであるかのように見えがちだが、決してそんな事はない。
なぜなら系図は私達の先祖アダムに始まり、また信仰者の先祖・アブラハム以降の系図は、まさに私達の系図であるからだ。
そして私達が、現代のまことの神殿であるキリストを、いかなる態度で礼拝するべきか、彼を敬うものはいかに祝福され、また軽んじるものはいかに呪われるか、それはそのまま私達に当てはまる事だからである。

歴代誌は、私達と、神様との関係を根底に置きながら、読み進めて行くべきである。
読み進めるにつれて、私達が歩むべき日々の姿を学んでいきたい。

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