メッセージ - 201707のエントリ

何度祈っても願っても主に聞き届けられない場合(イザヤ59:1-12)
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目の前で子を虐殺され、目をえぐられ連行されたイスラエル最後の王(2列王記25:1-7)
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ついに、第二列王記の最終章である。
元々、列王記は、サムエル記と共に一つの歴史書だったものが分割されたものであり、ギリシャ語聖書の70人訳聖書で第一・第二サムエル記を「王国の第1・2」と、列王記は「王国の第3・4」としたものであるが、その最後は、エルサレムの崩壊と、ダビデの子孫の王がバビロンへ捕囚される所で終わる。

25:1 そこでゼデキヤの治世の第九年の十月十日に、バビロンの王ネブカデネザルはもろもろの軍勢を率い、エルサレムにきて、これにむかって陣を張り、周囲にとりでを築いてこれを攻めた。

バビロン捕囚前の最後の王ゼデキヤは、バビロンの王に反逆したのが前章の最後であった。
徹底抗戦する、それは勇ましく見えるが、その動機は卑しいものだった。
預言者エレミヤは、エホヤキムの治世のはじめからおよそ11年の間、バビロンに首を差し出して憩うように言って来たが(エレミヤ27:1-11)、エホヤキムは聞かずに反逆した。
それは、真摯な主の預言に従わず、耳障りのよい、偽預言者や占い師、卜者、呪術者の言葉に聞き従ったからだ。
さらにゼデキヤに対しても、エレミヤは同様の助言をした。

エレミヤ27:12 わたしはユダの王ゼデキヤにも同じように言った、「あなたがたは、バビロンの王のくびきを自分の首に負って、彼とその民とに仕え、そして生きなさい。
27:13 どうしてあなたと、あなたの民とが、主がバビロンの王に仕えない国民について言われたように、つるぎと、ききんと、疫病に死んでよかろうか。
27:14 あなたがたはバビロンの王に仕えることはないとあなたがたに告げる預言者の言葉を聞いてはならない。彼らがあなたがたに預言していることは偽りであるからだ。
27:15 主は言われる、わたしが彼らをつかわしたのではないのに、彼らはわたしの名によって偽って預言している。そのために、わたしはあなたがたを追い払い、あなたがたと、あなたがたに預言する預言者たちを滅ぼすようになるのだ」。
27:16 わたしはまた祭司とこのすべての民とに語って言った、「主はこう仰せられる、『見よ、主の宮の器は今、すみやかに、バビロンから返されてくる』とあなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。それは、彼らがあなたがたに預言していることは偽りであるからだ。
27:17 彼らのいうことを聞いてはならない。バビロンの王に仕え、そして生きなさい。どうしてこの町が荒れ地となってよかろうか。

しかしあいにく、ゼデキヤも、虚しい偽預言に従ってしまった。

偽預言者と本物の預言者の見極めはいかにすればよいか。
その方法は、明確に書いてある。
エレミヤ28:9  平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知られるのだ」。
申命記18:20  ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない』。
Deu 18:21  あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。
Deu 18:22  もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。

また、偽預言者に対して、主は次のように語っている。
申命記18:20  ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない』。
黙示録19:20  しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。

主の、偽預言者に対するさばきは、非常に厳しい。
なぜなら、主の御名を用いて、滅びなくてもよい人を欺いて滅びへと導いてしまうからだ。
イスラエルに対して口当たりの良い預言をし、エレミヤに対抗した偽預言者ハナヌヤは、その言葉が成就する事なく、その年の内に死んだ。(エレミヤ28章)
しかし、ゼデキヤはそれでもエレミヤに言葉に聞かず、耳当たりの良いハナヌヤの言葉の通りにしてしまった。
その結果、エレミヤの言葉の通りの事が起きてしまう。

25:2 こうして町は囲まれて、ゼデキヤ王の第十一年にまで及んだが、
25:3 その四月九日になって、町のうちにききんが激しくなり、その地の民に食物がなくなった。

3年に及ぶエルサレム包囲の結果、ききんがとてつもなくひどくなった様が、エレミヤ哀歌2章に記されている。
哀歌2:11 わが目は涙のためにつぶれ、わがはらわたはわきかえり、わが肝はわが民の娘の滅びのために、地に注ぎ出される。幼な子や乳のみ子が町のちまたに/息も絶えようとしているからである。
 2:12 彼らが、傷ついた者のように町のちまたで/息も絶えようとするとき、その母のふところにその命を注ぎ出そうとするとき、母にむかって、「パンとぶどう酒とは/どこにありますか」と叫ぶ。

なぜ、食糧難になってしまったのか、その理由が続く節に記されている。

哀歌2:13 エルサレムの娘よ、わたしは何をあなたに言い、何にあなたを比べることができようか。シオンの娘なるおとめよ、わたしは何をもってあなたになぞらえて、あなたを慰めることができようか。あなたの破れは海のように大きい、だれがあなたをいやすことができようか。
 2:14 あなたの預言者たちはあなたのために/人を欺く偽りの幻を見た。彼らはあなたの不義をあらわして/捕われを免れさせようとはせず、あなたのために人を迷わす偽りの託宣を見た。

つまり、偽預言に従ったゆえである。
私達は偽預言をしっかり見極めなくてはならず、その者に対しては寛容になっては決してならない。
自分自身を滅ぼし、周りをも滅ぼす事になってしまうからだ。

2列王記25:4 町の一角がついに破れたので、王はすべての兵士とともに、王の園のかたわらにある二つの城壁のあいだの門の道から夜のうちに逃げ出して、カルデヤびとが町を囲んでいる間に、アラバの方へ落ち延びた。
25:5 しかしカルデヤびとの軍勢は王を追い、エリコの平地で彼に追いついた。彼の軍勢はみな彼を離れて散り去ったので、
25:6 カルデヤびとは王を捕え、彼をリブラにいるバビロンの王のもとへ引いていって彼の罪を定め、
25:7 ゼデキヤの子たちをゼデキヤの目の前で殺し、ゼデキヤの目をえぐり、足かせをかけてバビロンへ連れて行った。

ついにエルサレム城壁が破られ、主だった人々は連行されてしまった。
モーセの時代から語られていた事は、主の御声に聞き従わない事を続けるなら、これらの事が起きてしまう事は言われ続けていたが、しかし少なくともゼデキヤがエレミヤの言葉に従っていたなら、それは成就しなかったはずである。(エレミヤ27章)
しかしそれに聞かなかった。それで、彼は、目の前で自分の子が虐殺され、その目はえぐり取られ、足かせにつながれて連行されて行ってしまった。
いかにダビデの子孫といえども、どんな血族であろうとも、主の御言葉軽んじ、逆らい続けるなら、これらの事が起きてしまう。
これは、現代生きる私達に対する警告である。
いかにクリスチャンであろうとも、主に忌み嫌われる事を続け、御言葉に沿った警告を聞いても改めないなら、御言葉に記されている通りの災いが追いついていしまうのだ。

裁きの中でも恵みを注がれる主(2列王記24:8-20)
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24:8 エホヤキンは王となった時十八歳で、エルサレムで三か月の間、世を治めた。母はエルサレムのエルナタンの娘で、名をネホシタといった。
24:9 エホヤキンはすべてその父がおこなったように主の目の前に悪を行った。

神の民の国であるイスラエルの王達は、歴代、主の目の前に悪を行って来た。
本来、神の民は、主の目にかなう事をおこなうべきであるのに、そこを外れ、悪を行いつづけるなら、やがては主の怒りが及び、災いがくだされ、それでもなお改めず、悪を行い続けるなら、ついには裁きが追いついていしまう。

24:10 そのころ、バビロンの王ネブカデネザルの家来たちはエルサレムに攻め上って、町を囲んだ。
24:11 その家来たちが町を囲んでいたとき、バビロンの王ネブカデネザルもまた町に攻めてきた。
24:12 ユダの王エホヤキンはその母、その家来、そのつかさたち、および侍従たちと共に出て、バビロンの王に降服したので、バビロンの王は彼を捕虜とした。これはネブカデネザルの治世の第八年であった。

ついにエルサレムが異邦人に入り込まれ、王とその家族が捕虜として連れてしまうという事になってしまった。
そればかりではない。

24:13 彼はまた主の宮のもろもろの宝物および王の家の宝物をことごとく持ち出し、イスラエルの王ソロモンが造って主の神殿に置いたもろもろの金の器を切りこわした。主が言われたとおりである。
24:14 彼はまたエルサレムのすべての市民、およびすべてのつかさとすべての勇士、ならびにすべての木工と鍛冶一万人を捕えて行った。残った者は国の民の貧しい者のみであった。
24:15 さらに彼はエホヤキンをバビロンに捕えて行き、また王の母、王の妻たち、および侍従と国のうちのおもな人々をも、エルサレムからバビロンへ捕えて行った。
24:16 またバビロンの王はすべて勇敢な者七千人、木工と鍛冶一千人ならびに強くて良く戦う者をみな捕えてバビロンへ連れて行った。

全能の神の宮のものが、異邦人によって奪われるという、イスラエルの民にとって、ありえない事が起きた。
しかし、神殿という建物が重要なのではない。神殿に礼拝を捧げに行く、神の民の質こそが重要なのだ。
当時、彼らのその高慢により、自分達には全能の神の神殿がある、決して揺るがされる事はない、という思い込みにより、罪を犯したい放題犯し、主の目に悪を行いつづけた故に、神はその神殿を破壊されたのだ。

神殿が破壊されたのは決して主が弱くネブカデネザルが強かったからではない。むしろ逆である。
それらの事は、全て、神の支配の中で行われた。

『”主は”ユダの王エホヤキムと、神の宮の器具の一部とを、彼の手に”わたされた(ויתן אדני)”ので、彼はこれをシナルの地の自分の神の宮に携えゆき、その器具を自分の神の蔵に納めた。 』(ダニエル1:2)
この”ויתן אדני :ヴァイテン アドナイ 「主が与えられた」”、これこそがダニエル書の重要なかなめであり、全世界を支配される主の支配権を如実に表す言葉である。バビロンの側からすると、イスラエルの神が何もできないから自分達はその聖なる器を奪う事が出来た、と思うかもしれないが、逆である。この、イスラエルの不従順な世代を、バビロンという懲らしめの地に移している間、神殿の聖なる器物が、当時の世界で最も安全なバビロンの宝物庫という所で保管されるために、主が敢えて、彼らに「与えられた(ヴァイテン)」のだ。
全世界の全主権を握っておられるお方は、主である。その主の主権を犯し、神殿の聖なる器物を軽んじ、汚れた事に用いたネブカデネザルの子、ベルシャツァルは、その事をしたその晩、殺され、その時バビロンは滅亡してしまった。(ダニエル5章)

神は、神の民に対する裁きの中においても、憐れみを忘れないお方である。
その憐れみの意図は、ダニエルと三人の友人の名前に隠されている。

ダニエル1:11 そこでダニエルは宦官の長がダニエル、ハナニヤ、ミシャエルおよびアザリヤの上に立てた家令に言った、

このダニエルの名の意味は「神は裁く」(ダンは審判、エルは神)であり、ダニエル書の内容そのものが、歴史を審判する神をあらわしている。
ハナニヤの名の意味は、「エホバは恵み深い」(ハナンは恵み、ヤはエホバ)であり、ダニエル+ハナニヤで、審判の中にも、エホバの恵みがある、という事を表してしている。
ミシャエルは、「神は誰だろう?」(ミは「?」、エルは神)である。ネブカデネザル王を立て、イスラエルを離散し集め、守るお方は誰か?全歴史を動かしているのは誰だろう?
そしてアザリヤは「エホバは助けた」(アザール(助け)+ヤ(神))すなわち、主エホバの助けが必要、という意味となる。
以上をつなげると、「神は裁く。主は恵み深い。神は誰だろう?主は助ける。」、すなわち、「神は裁きの中でも恵み深い。神は誰か?主は、助け主。」これがダニエル書全体の内容であり、同時に、歴史を通して働かれた神のご性質なのだ。(出典:Hear what the Spirit says to the CHURCHES(ἐκκλησία) by Yukie Kawai (DJY))

24:17 そしてバビロンの王はエホヤキンの父の兄弟マッタニヤを王としてエホヤキンに代え、名をゼデキヤと改めた。
24:18 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年の間、世を治めた。母はリブナのエレミヤの娘で、名をハムタルといった。
24:19 ゼデキヤはすべてエホヤキムがおこなったように主の目の前に悪を行った。
24:20 エルサレムとユダにこのような事の起ったのは主の怒りによるので、主はついに彼らをみ前から払いすてられた。さてゼデキヤはバビロンの王にそむいた。

結局、バビロン捕囚により神殿の尊いものが奪われてしまったのは、子どもたちに御言葉を伝授しなかった事が原因だ。
ヒゼキヤも、ヨシヤも、次の世代へとしっかり御言葉を伝授せずにいたから、イスラエルは滅んでしまった。
エズラは、バビロンにいる間、どうしてこのように成ってしまったのだろう、と、徹底的に分析し、その結果、御言葉が無かったため、そして、次の世代の子どもたちに御言葉を伝授しなかった故、という結論に達し、そして生まれたのが、テフィリン教育だった。
すなわち、御言葉を暗唱する事、それによって、たとえ国が散らされたとしても、行った先々でも御言葉が生き残るようにするのである。

主は確かに、神の民の目を覚まさせるために災いを起こされる。
しかし、そのさばき中には憐れみがあり、後には神の民を、さらに優れて良い状態へと立ち直らせてくださるのだ。

主を認めず、主に感謝せず、その栄光を称えない者に下される神の怒り(ローマ1:17-23)
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信仰(Behid)とは、「連合し」「バンドする」事が元来の意味である。そうであるからには、信仰には連合する相手、結合する相手が必要となる。すなわちクリスチャンとは、イエス様と連合し結合する者達である。

1:17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。

「信仰に始まり信仰に至らせ」。ここをギリシア語からより正確に訳すと、信仰は”所有する事”(エック・ピステオス)によって始まり、信仰(の目指す目的地)へと行き続ける(エイス・ピスティン)事である。
そういうわけで義人とは、イエス様に自らを結びつけ、その信仰を所有し続けながら、生きる者であり、人が信仰を所有した時すなわちイエス様を信じた時、イエス様に自ら結び付ける信仰を「所有」した時点は、ゴールではなく、スタート地点に立ったのだ。
この時点から、信仰を所有して歩む長い歩みが、エイス・ピスティンを目指して、始まるのだ。

1:18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。

信仰を所有し、信仰の目的地へと行き続ける歩みについて宣言した直後に、パウロが宣言した事は、神の怒りについてである。
信仰を所有せず、信仰の歩みをし続けない者は、すなわち、自動的に「不義をもって真理をはばもうとする人間」になってしまっている。
神の怒りは、さばきの前段階であり、神の怒りが降された人には、その人にとって望ましくない、苦しい事が起きる。
それが降された時、悔い改めて神に栄光を帰するなら、その人は救われてさばきを免れるが、なお心頑なにして神をあがめないなら、さばきが確定してしまう。

1:19 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。
1:20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。

彼らは、見ているのである。神の栄光を。
宇宙の秩序正しさ、自然界の美しさ、人体の不思議、ミクロの世界の巧妙さを通して。
もし人がそれを見ても、神を知らず、感謝せず、あがめもしないなら、それによって、神を無視し不遜な態度をとっている事になるのだ。

1:21 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
1:22 彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、
1:23 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。

神の怒り・神の裁きが近い人の特徴とは、神を神としてあがめない者、感謝しない者、かえって心かたくなにし、自分を知者だと自分で思い、神の栄光を別の被造物に取り替えてしまう者である。
「神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず」
感謝と知るには密接な関係がある。
ヘブライ語の「感謝」はトダー、「知る」はヤダーであり、トダーはヤダーが元になっている。
だから、神を知ってこそ、感謝する事が出来るのだ。

神に感謝し褒め称える事、これこそ人の本分である。
御言葉が語られているのに、主の栄光が表れているのに、それを目の前にしておきながら、なお神をあがめない・感謝しない人には、神の怒りが近い。
神は必ず隠れた事柄をあばき、会衆全体に災いをもたらすものを明らかにする。

ヨシュア7:19 その時ヨシュアはアカンに言った、「わが子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、また主をさんびし、あなたのしたことを今わたしに告げなさい。わたしに隠してはならない」。

アカンは神のすばらしい栄光と御業を見ながら、心を神に結びつけず、信じず、むしろ世の富のほうに心を結びつけた結果、イスラエル全体に災いをもたらしてしまった。
アカンはなぜ、そのような事をしてしまったのか。それは、ヨシュアが指摘しているように、主に栄光を帰す事をせず、また主をさんび(トダー)する事をせず、世の富に心を結びつけていたからだ。
彼は神に感謝(トダー)もせず、神を知り(ヤダー)もせずにいたから、神の怒り、神の裁きが追いついてしまったのだ。次のように記されている通りである。
ローマ1:21 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。

イスカリオテのユダも、同様である。彼はイエス様の御業を3年半もの間、間近で見ながら、イエス様に心を結びつけず、世の宝に、金銀に心を結びつけ、そこをサタンにつけこまれてしまった。
人が見ると、ユダはイエス様の弟子達と同じ行動をするので、誰にも違いは分からなかった。しかしユダは3年半もイエス様や弟子達と、寝食を共にしておりながら、心でイエス様と連合しない事を続けたのだ。
それで弟子達は、3年半一緒だった彼について「自分の行くべきところへ行った」と言った。(使徒1:25)
結局、人は自分の連合先、すなわち、自分の心が結び付けられた「自分の行くべきところ」へと行くのだ。

主を知り、主に感謝し、主を褒め称えるべきである。それが、人間の本分であり、それをしないなら、主の裁きが近いからである。

黙示録14:6 わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、
 14:7 大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。

天国では、永遠に神を褒め称える賛美が、天国に入った神を敬う人々の口から流れ続ける。

黙示録15:3 彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った、「全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。
 15:4 主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります」。
 

信仰とは(ローマ1:17)
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週報/メッセージ(説教)概要

 信仰義認(人は信仰によってのみ救われる)という言葉は有名である。この言葉はちょうど500年前、カトリックの腐敗は、「行為義認(善行によって神は人を義とする)」に由来する、とルターは考え、人は善行ではなく信仰によってのみ義とされる、と、パウロ書簡から説いた事によって生まれた。しかし、この言葉ゆえに、救われた事に満足し、安住して、世の人と何ら変わらない罪深い生活を送っているクリスチャンが多くなってしまった。そもそも信仰とは何か。また、救われた私達はいかに歩むべきか。それを今日学びたい。

「信仰」という言葉は、新約では多く登場するが、旧約にはほとんど登場しない。この「信仰」という概念は、新約聖書が記される前、サンスクリット語の「Behid(ビヒド)」が元になった。ビヒドはBeとHidから構成され、Beには「to unite(連合する)」、Hidは「to band (結合する)」の意味がある。
すなわち信仰とは、「連合し」「バンドする」事が元来の意味である。そうであるからには、信仰には連合する相手、結合する相手が必要となる。すなわちクリスチャンとは、イエス様と連合し結合する者達である。
信仰の歩みは、常に、連合し結合する相手、すなわち「主人との関係」を意識し保ちながらの歩みである。
例えば、悔い改めとは、必ず信仰の「主人」を意識し、相手にふさわしくなかった自分・悪かった自分に気付いたなら、悔いて悲しみ、主人に帰る事で成立する。信仰なしの悔い改めは、有り得ないのだ。

イエス様を売り渡したイスカリオテのユダには、悔いる心はあった。銀貨を投げ返したからだ。しかしイエス様に帰る事をせず、首をつって死んだ。それは、イエス様を「主人」として結びつけていなかったからだ。
彼の場合、3年半の間も、心は「世」にバンドされ、イエス様とバンドするには至らなかった。そしてイエス様の十字架が近づくと、彼はサタンにバンドされ、イエス様を売り渡した。後に悔いた時も、その絆を断ち切る事をせず、どこにも居場所がなくなった時、自殺してまでイエス様にバンドする事を拒否したのだ。
人が見ると、ユダはイエス様の弟子達と同じ行動をするので、誰にも違いは分からなかった。しかしユダは3年半もイエス様や弟子達と、寝食を共にしておりながら、心でイエス様と連合しない事を続けたのだ。
それで弟子達は、3年半一緒だった彼について「自分の行くべきところへ行った」と言った。(使徒1:25)
結局、人は自分の連合先、すなわち、自分の心が結び付けられた「自分の行くべきところ」へと行く。
ユダのケースで分かるように、何年もキリスト者の交わりに居ながら・御言葉を聞きながらにして、イエス様と連合せず、世に、サタンに心を結びつけながらキリスト者の交わりに一緒にいる者も事実存在する。
そのような人は、早々にキリストを主人として連合するべきだ。なぜなら「自分の行くべきところへ行く」日がいつになるのかは、誰にも分からないし、いざ、二者択一が迫られた時、人は、心が結びつけられていた方を選びとる事になるからだ。私達はいつでも、天国という杭に自分をバンドし続けて行くべきである。

パウロは言っている。 『神の義は、その福音の中に啓示され、「信仰に始まり信仰に至らせる(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)」。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてある通りである。』(ローマ1:17)
ここは、「信仰は”所有する事”によって始まり、信仰(の目指す目的地)へと行き続ける」、という意味である。
そういうわけで義人とは、イエス様に自らを結びつけ、その信仰を所有し続けながら、生きる者である。
イエス様を信じた時、すなわち、イエス様に自ら結び付ける信仰を「所有」した時点は、スタート地点である。
宗教改革以来、信じた時点で救いが成就したかのような誤解が多くなってしまったが、それは単にスタート地点に立ったのみであり、この時点から、信仰を所有して歩む、長い歩みが始まる。それはエイス・ピスティン、信仰の目的地、すなわち、天国に至るまで、ずっと所有し握りしめ続けながら歩んで行くのである。
信じればすぐに聖化・栄化されるのではない。聖なる者になるための「もがき続け」が必要である。
エジプトを脱出すれば、すぐに約束の地に入ったのではない。荒野という過程を経なければならなかった。
自分は神の民だ、エジプトという奴隷の国から開放された、というだけで、聖化のもがきをしなかった多くの民は、荒野で死に絶えてしまった。「彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。」(永井訳 ヘブル4:2) しかしヨシュアとカレブは、ずっと約束の地に心を縛りつけていたため、彼らだけが約束の地に入り、そこを所有できた。私達もヨシュア達にならい、世とサタンという縛りから、自らほどき、天国という約束の地に心を縛りつけ、かの地に入るその時まで信仰の歩みをし続ける者でありたい。

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