メッセージ - 201707のエントリ

シメオン族の系図 - 御声を聞く人の幸いと、欲望の声に聞く人の災い(1歴代誌4:24-43)
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今まではユダ族の系図だったが、今回の箇所から、他の部族の系図に入るが、これら部族の系図は、バビロン捕囚後に残ったユダ族やレビ族ほど詳細には記されない。
その中で真っ先に記されたのは、シメオン族の系図であった。

4:24 シメオンの子らはネムエル、ヤミン、ヤリブ、ゼラ、シャウル。

シメオンの名の意味は「聞く(シェマー)」、申命記でよく言われている「シェマー・イスラエル(聞けイスラエル)」の、シェマーである。
彼の母レアが彼を産んだ時、「主はわたしが嫌われるのをお聞きになって、わたしにこの子をも賜わった」と言って、つけた名である。

4:27 シメイには男の子十六人、女の子六人あったが、その兄弟たちには多くの子はなかった。またその氏族の者はすべてユダの子孫ほどにはふえなかった。
4:28 彼らの住んだ所はベエルシバ、モラダ、ハザル・シュアル、
4:29 ビルハ、エゼム、トラデ、
4:30 ベトエル、ホルマ、チクラグ、
4:31 ベテ・マルカボテ、ハザル・スシム、ベテ・ビリ、およびシャライムである。これらはダビデの世に至るまで彼らの町であった。

シメオンは、旧約聖書の中ではあまりぱっとしない部族である。
シメオンは色々な地方に散って、ユダ族ほどには増えなかった事が記されているが、この事は、実は彼の父ヤコブによって預言されていた。

族長時代、シメオンとレビは、シェケムの男に妹ディナが汚された事の復讐のために”割礼”という主の聖なる契約を利用して、シェケムの男たちを欺き、彼らが割礼を受けて弱っている時に、男達を皆殺しにし、女子供や家畜を分捕るという蛮行を行った。(創世記34章)
それ故ヤコブは、彼らのその激しい怒りを呪い、その言葉の通りにシメオン族はユダ族の中へと”散らされる”形となってしまった。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)

また、エジプトを出た荒野にて、イスラエルが異邦の女達とみだらな事をしだした時、主の罰を受け、皆が自分達の中から悪を取り除こうと悲しみながら悔い改めの集会をしている真っ最中、彼らの目の前で、シメオン族の長の男が、異邦の女を自分の天幕に連れ込む事をした。(民数記25章)
それを見たレビの子孫・祭司ピネハスが、その男女の腹を槍で一突きにして殺し、主の怒りを自分の怒りとしてあらわしたため、イスラエルへの疫病が止んだが、シメオン族の長が、このような事を平気でしていた、という事は、一族もろとも、それに同意するような霊的状況であったのだろう。
事実、シメオン族は、荒野の40年で、イスラエル12部族中最も減少率の激しい一族であった。

4:34 メショバブ、ヤムレク、アマジヤの子ヨシャ、
4:35 ヨエル、アシエルのひこ、セラヤの孫、ヨシビアの子エヒウ。
4:36 エリオエナイ、ヤコバ、エショハヤ、アサヤ、アデエル、エシミエル、ベナヤ、
4:37 およびシピの子ジザ。シピはアロンの子、アロンはエダヤの子、エダヤはシムリの子、シムリはシマヤの子である。
4:38 ここに名をあげた者どもはその氏族の長であって、それらの氏族は大いにふえ広がった。

この名前を連ねた人達は、シメオン族であるものの、主流の系図との関わりは不明である。
しかし、ここに名を連ねた理由は、彼らが信仰をもってカナンの地を占領して行ったためだ。

4:39 彼らは群れのために牧場を求めてゲドルの入口に行き、谷の東の方まで進み、
4:40 ついに豊かな良い牧場を見いだした。その地は広く穏やかで、安らかであった。その地の前の住民はハムびとであったからである。
4:41 これらの名をしるした者どもはユダの王ヒゼキヤの世に行って、彼らの天幕と、そこにいたメウニびとを撃ち破り、彼らをことごとく滅ぼして今日に至っている。そこには、群れのための牧場があったので、彼らはそこに住んだ。
4:42 またシメオンびとのうちの五百人はイシの子らペラテヤ、ネアリヤ、レパヤ、ウジエルをかしらとしてセイル山に行き、
4:43 アマレクびとで、のがれて残っていた者を撃ち滅ぼして、今日までそこに住んでいる。

シメオン族の中にも、それぞれの役割を正統に果たそうとする人達がおり、そしてその通り実行した結果、彼らは「今日まで」そこに住むという幸いを得ている。
今日まで、とは、歴代誌が記された時代、エズラの時代まで、という事だ。

シメオン族は、モーセの祝福からも除外されてしまう程の、どうしようもない部族だったが、新約では、シメオンの名を持つ人には良い人物が多い。
イエス様の十二弟子の筆頭であるシモンは、ヘブライ語読みはシメオンである。
また、イエス様が誕生した時、正しく信仰深いシメオンという人が、幼子イエス様を抱き、イエス様とその両親について、将来を預言し、祝福した。(ルカ2:25-35)
彼は、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた敬虔な人で、聖霊の言う事を聞く事が出来、救い主に会うまでは死ぬことはない、という、聖霊の示しを受けていた。
また、イエス様の受難の時、イエス様の十字架を一緒に背負ったのも、クレネ人シモン(シメオン)であった。

シメオン、その名の意味は「聞く」であった。
聞く姿勢があるシメオンには、イエス様の誕生にも、イエス様の働きの時にも、イエス様の十字架の時にも、そこに同席する恵みに与る事が出来、そして、黙示録においては、新しくされたイスラエル12部族の一つとして、共に栄誉に与る事が出来るのである。

主の御声に聞くのでなく、怒りという声、性的欲望という声に聞いた結果、呪われ、減らされ、モーセの祝福からも除外されてしまった事で、シメオン族はあわてた事だろう。
しかし、いかにモーセの祝福から除外されたとしても、悔い改めて、主に立ち返り、主に聞く姿勢へと帰るなら、再び恵みに与ることが出来るのだ。

「量」の信仰から「質」の信仰へ転換するために(ヘブル11:24-29)
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週報/メッセージ(説教)概要

 先週はコーエン大学日本ラーニングセンターの学びの週であった。「大学の講義」であるのに、参加された方々は皆、喜びに溢れ、癒され、解放された。諸々の攻撃もあったが講義には何の影響も無く、むしろ私達はサタンが嫌がる事をしているのだ、しかしサタンは、キリストにある私達には何ら手出しが出来ず、むしろ、このコーエンの学びはますます日本に必要であり、それがもたらす祝福は大きいと再認識させられた。
イエス様を信じ、救われた事には、大きな喜びがある。そして救われた時以降、信仰生活が始まるのだが、この地上で信仰生活をして行く時、喜びだけとは限らず、イエス様を信じている故の様々な困難や迫害など忍耐や苦しみもあるが、その向こうには、計り知れない報いと栄光があるのだという事を今日学びたい。

ヘブル11章には信仰の偉人達が名を連ねている箇所であるが、モーセは少し特別である。
モーセは、80歳の時に主からの召命を受け、イスラエルをエジプトの奴隷生活から解放し、神が約束された土地に至るまで荒野の中を導き、荒野の中では神と人との間で契約を結び、神が人の側に要求された基準・「律法」が授けられた。彼はユダヤ人として生まれたが、40歳まで、エジプトの王子として育てられた。
しかし『信仰によって、モーセは、成人(μέγας)した時、パロの娘の子と言われることを拒み』(ヘブル11:24)
ここで「成人」と訳されたギリシア語「μέγας(メガス)」は「大きい、巨大な」の意味があり、そして数字の百万の意味もある。だからここは、「信仰によってモーセは100万倍に成長した時・・・」とも訳せる。
最近、スマホやパソコンの普及でメガやテラというギリシア語数字単位もよく耳にするが、いずれも聖書に登場する言葉で、メガ(百万)は人間が数えられるぎりぎりの数字であるが、テラス(τέρας 1兆)は一生をかけても数え切れない、という事で、どうにも説明がつかない異常な、途方もない、驚異の出来事を意味する。
人の信仰は、成長するが、限界がある。その限界がメガスであり、それ以上のテラスは、神の領域、神のみが可能な奇跡である。「あなた方は、しるしと奇跡(τέρας)とを見ない限り、決して信じない」(ヨハネ4:48)

モーセは「信仰によって」100万倍の成長をした故、彼は神に用いられる器として、神に目を留められた。
「信仰(behid)」とは「連合(be)し」「バンドする(hid)」事が元来の意味であり、私達・人間の側が、神様に対し、そして御言葉に対して為すべき分である。また、信仰をあらわすヘブライ語「エムナー」は「上昇する」という概念があり、エムナーの動詞「アーメン」には「サポートする、確認する、忠実である」の意味もある。
人の信仰は、神の元へと登って行く。その時、恵みが天から降りてきて、二つが出会う時、奇跡が起きる。
ツロの女は、イエス様から小犬と呼ばれても「その通りです(アーメン)、しかし小犬でもパン屑には与ります」と言った故、イエス様から「メガス」の信仰だと褒められ、娘の癒しという「奇跡(テラス)」を引き出した。
イエス様を信じる信仰は、最初は「ご利益信仰」かもしれない。神様は**してくれるから、信じます、と。
しかしそのままでは、信仰ゆえの困難や迫害が起きると、手のひらを返したように信仰を捨てかねない。そこで、信仰の「質」が変わる必要がある。たとえ困難や迫害があったとしても忍耐し、信仰を捨てないように。
モーセは、『罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストの故に受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と「考えた(ἡγέομαι:ヘゲノマイ: 支配する、導く、判断する)」。それは、彼が報いを望み見ていたからである。』(ヘブル11:25-26) まさに質が変えられた信仰である。
そのような信仰を主は喜び、用いられる。どうすれば私達も、そのような質の変えられた信仰を持てるだろう。
それは第一に、モーセのように、罪のはかない歓楽よりも、キリストの故に受けるそしりのほうが、世の宝にまさる富であると判断(ヘゲノマイ)し、自ら支配し、導くのである。第二に、「報いを望み見る」事である。
信仰の行いには、必ず主が報いて下さる、と信じているだろうか。信仰でも、世の仕事でも、報われるという望みを持たない人は、本当は嫌だけど怒られるのも嫌だから仕方なしにする、という、非常に「楽しくない」生き方をしている。永遠にしぼまない、世の宝にまさる富が手に入る事を望みつつ、歩むべきである。
主は、種まきのたとえの中で言っている。『良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。』(ルカ8:15) すなわち、御言葉を受けたなら、それを正しい良い心で、しっかり守り、耐え忍ぶ事である。100倍の実りに預かれる人は、聞いて、すぐに従順する人である。忍耐とは悲痛な顔をして我慢する事ではなく、目の前にその希望を楽しく望み見て、それを目指して歩むものである。この喜びに満ちた信仰生活を送って行く皆さんでありますように!

祝福の法則を体得しているユダヤ人の秘訣(ネヘミヤ8:5-6)
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週報/メッセージ(説教)概要

 今週はコーエン日本ラーニングセンターの学びが行われる。それに先立ち、本日はヘブライ思考はいかに確立して行ったのか、またユダヤ人は主に対し、御言葉に対し、いかに本気で取り組むようになったのか、そして、ユダヤ民族はなぜニ千年の離散を経ても一つになる事が出来たのか。その秘訣をを学びたい。

『エズラは全ての民の前にその書を開いた。彼は全ての民よりも高い所にいたからである。彼が書を開くと、すべての民は起立した。エズラは大いなる神、主をほめ、民は皆その手をあげて、「アァメン、アァメン」と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した。』(ネヘミヤ8:5-6) この節に秘訣が隠されている。
エズラ(עזרה :エホバが助ける)は、大祭司アロンの16代子孫の大祭司で、『モーセの律法に「精通した学者(「ソヘルマヘル סופר מהיר:巧みな書記(詩45:1)」』(エズラ7:6)であった。マヘル(書記官)は、聖書を全部丸暗記している。彼は頭に聖書を全部入れていたため、それを起こし、神学校をつくった。
バビロン捕囚から帰還した民は、神の言葉の書をエズラが開いた時、第一に「起立」した。起立という行動は、相手(開かれた御言葉)に対し尊敬を表す行為である。起立は少々の体力を使う行動だが、御言葉を「聞く」においても「朗読する」においても、「反応する」においても、「身体を使う」のが、ユダヤ式である。
御言葉は主イエス様ご自身であり、その御方に敬意を表すなら、相応の祝福と恵みを頂く事が出来る。
身体を使う2つ目の礼拝行為は、御言葉や賛美に対して「手を挙げ」「アーメンする」事である。アーメンאמן とは「それは真実です、真理です」「信じます」「そのようになりますように!」という同意の表明である。
キリスト教では口でアーメンを唱えるが、ユダヤでは起立し、両手を上げ「アーメン、アーメン」と同意する。
それによって口と耳が開き、心が開き、そして天が開いて、同席している人にも聖霊の働きが移って行く。
3番目の身体を使った行動は、ひれ伏す行為である。具体的には、正座したままひれ伏し、手の指先から腰まで真っ直ぐの姿勢で、膝の間に顔をうずめる。完全なる主に対する服従の姿勢である。
こうして彼らは「主を誉めたたえ」「手を揚げてアーメン、アーメン」し、そして「地に平伏して主を誉めたたえた」。ユダヤ人はこのように、主ご自身であられる御言葉に対し、身体全体を用いて敬意を表す事によって、御言葉なる主が、脳に、身体に、そして魂に、霊に刻み込まれ、霊魂体の全てが活性化されるのだ。

彼らがエズラの御言葉を学んで分かったのは、自分達は御言葉教育を受けておらず、御言葉を知らない、御言葉を守り行わなかった、それでこうなったのだ、と。そこで彼らは、神の言語・ヘブライ語の御言葉を子々孫々へ伝授し、体質化しようとして始めたのが、ヘブライ語の御言葉暗唱(テフィリン)教育である。
人は何か事が起きた時、それに対する考えや解釈、とっさに出る反応や対処は、幼児体験や記憶、刻まれて来た言葉に基づく。もしその人の記憶が、否定的・消極的な「ことば」で満たされていたなら、事が起きた時、消極的・否定的な考えや反応しか出ない。しかしもし、その人の中が、超・積極的な、いのちに溢れた神の言葉で満たされていたら、どうだろう。ユダヤ人は、母の胎にいる時からその教育を受けて来たのだ。
私達異邦人は、元々御言葉がない環境に生まれ、何が神に喜ばれ、創造者の御胸にかなった生き方は何か、成功法則も失敗法則も何も知らずに育った。ほしいままに御言葉に反した生き方をしようとしては呪われ、傷つき、わけも分からず、ぶつかりながら生きて来たが、そんな私達でも、御言葉暗唱して、心と記憶と唇を「御言葉」で満たすなら、主に喜ばれる、いのちの溢れた生き方が体質化されて行くわけである。
私達は意思をもって自分なりに考え、判断し、評価する。しかし世界は御言葉によって創造され、万物は御言葉法則によって成り立っている。ヘレニズム思考(ギリシア思考)に毒された私達異邦人は、その御言葉さえ評価・判断・批判の対象にしてしまうが、ユダヤ人は、その万物の法則たる御言葉が思考の根幹にあり、御言葉を通して、物事を判断し、対処し、行動するのだから、異邦人は彼らにかなうはずがないのだ。
ユダヤ人は御言葉暗唱と、子供への徹底した伝授ゆえに、世界のどこに散らされても成功し、そして2千年もの離散を経ても信仰と民族は根強く存続した。それに対しキリスト教は、伝道は熱心にしても、子供への御言葉伝授をしてこなかった故に、全世界各地で信仰復興が起きては消え、起きては消えを繰り返した。 世界5大宗教は、キリスト教以外、暗唱している。ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、これらには、いのちは無いが、暗唱する故に存続している。しかし、キリスト教だけは暗唱しない故に、ただ栄枯盛衰を繰り返すだけだった。今、私達も、使徒時代に生きていたヘブライ思考に戻り、御言葉暗唱をすべき時だ。

出所不明でありながらも祝福された人達の系図(1歴代誌4:1-23)
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4章前半は、ユダ族の補足的系譜が記されている。

3章は、ダビデ王家という非常に立派な血筋であるにもかかわらず、呪われてしまった暗い歴史を連想させる系図であったが、4章のユダ族の系図は、それとは全く対照的である。
4章の系図に名を連ねる人達は、系譜的つながりが不明な人達が大部分を占める。
しかし、信仰によって進み出て、祝福された人達が、名を連ねている。
この3章につづいて4章のタイミングに、この出所不明な人達の名が載せてある事には、いかに血筋がしっかりした人であっても、主を軽んじ御言葉を疎かにするなら呪われるが、いかに出所が不明であろうとも、神である主に信頼する者には、主は豊かに報いて下さるのだ、という、歴代誌記者の意図を垣間見るかのようである。

4:1 ユダの子らはペレヅ、ヘヅロン、カルミ、ホル、ショバルである。
4:2 ショバルの子レアヤはヤハテを生み、ヤハテはアホマイとラハデを生んだ。これらはザレアびとの一族である。
4:3 エタムの子らはエズレル、イシマおよびイデバシ、彼らの姉妹の名はハゼレルポニである。
4:4 ゲドルの父はペヌエル、ホシャの父はエゼルである。これらはベツレヘムの父エフラタの長子ホルの子らである。

ペレツ、ヘツロンまでが系図的には主流であるが、ヘツロンの子カルミ以降は傍流である。

4:5 テコアの父アシュルにはふたりの妻ヘラとナアラとがあった。
4:6 ナアラはアシュルによってアホザム、ヘペル、テメニおよびアハシタリを産んだ。これらはナアラの子である。
4:7 ヘラの子らはゼレテ、エゾアル、エテナンである。
4:8 コヅはアヌブとゾベバを生んだ。またハルムの子アハルヘルの氏族も彼から出た。

これらの節の系図の父祖であるアシュルは、ユダ族のどの家から出たのかは、見出だされてはいない。
ただユダ族から出たという事以外、分からないのである。
なぜ彼らが記されたかは不明であるが、続く節の、そのような出所不明であっても敢えて系図に記された人達を見るなら、大体予想が出来る。
すなわち、現代は記録は残っていないものの、信仰において優れた人達であったか、当時のユダヤ人たちにとって重要な部族の父祖であったか。

4:9 ヤベヅはその兄弟のうちで最も尊ばれた者であった。その母が「わたしは苦しんで(オーツェブ)この子を産んだから」と言ってその名をヤベヅと名づけたのである。
4:10 ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみ(オーツェブ)をうけさせられないように」。神は彼の求めるところをゆるされた。

ヤベツも、出所の説明なく唐突にこの箇所に現れたが、彼が祈った内容と、そして、神が彼の求めるところをゆるされた事が記されているのは、歴代誌の系図の中でも異例である。
彼の母は、彼を苦しみ(オーツェブ)の中で産んだゆえに、ヤベツという名をつけた。ダビデ(愛された者)の名からすればかなり名前負けしているが、しかしヤベツはその名前、その家系、その出生にかかわらず、彼は神に祝福された。
なぜなら、彼が神に祈り求めたからだ。

いかなる出生であっても、主は信頼する者には報いてくださる、と信じて呼び求めるなら、主はその人に目を留めて祝福して下さるのだ。
彼の祈りの内容は、「わたし」が栄えるように、という内容の「幼い信仰者」の祈りではあるが、少なくとも、彼の主と交わりを持とうとする信仰が、からしだねほどでもあるから、主はその信仰を受け取って下さったのだろう。
しかし、いつまでも幼い祈りばかりしていてはならない。信仰において練達し、生活も安定して来たなら、祈りの主人公は「わたし」から「主キリスト」にシフトし、求める事も、自分の事よりも御国の拡大する事を願い求めて行くべきなのだ。次のように記されている。

ピリピ2:21 人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。
2:22 しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。

4:13 ケナズの子らはオテニエルとセラヤ。オテニエルの子らはハタテとメオノタイ。
4:14 メオノタイはオフラを生み、セラヤはゲハラシムの父ヨアブを生んだ。彼らは工人であったのでゲハラシムと呼ばれたのである。

ケナズの子オテニエルはヨシュア記15章や士師記1章で、信仰によって進み出て祝福を勝ち取った事が記されているが、彼もまた、系図的に出所不明なのである。
彼は信仰によって巨人の住む土地を真っ先に攻め取り、カレブの娘アクサを勝ち取ったのみならず、アクサをそそのかして、泉をも得る事が出来た。(ヨシュア記15章)
ヤベツと同じで、求める者には主は豊かに与えて下さり、探す者は見つけ出し、叩く者には開いて下さるものなのである。

4:15 エフンネの子カレブの子らはイル、エラおよびナアム。エラの子はケナズ。

あの有名なエフネの子カレブも、系図的に出所不明なのである。しかもカレブの名は、犬という意味である。
それでも彼は、信仰によって祝福を勝ち取った。
イスラエル60万もの男子が、すべて不信仰に陥って「エジプトに帰ろう」と言った時も、ヨシュアとカレブの二人は、断固主を信頼してあの約束の地に行こう、と言って信仰を貫き通した。
それで彼には、ヘブロンという信仰の父祖達が住んだ土地を得る事ができた。

4:21 ユダの子シラの子らはレカの父エル、マレシャの父ラダおよびベテアシベアの亜麻布織の家の一族、
4:22 ならびにモアブを治めてレヘムに帰ったヨキム、コゼバの人々、ヨアシおよびサラフである。その記録は古い。
4:23 これらの者は陶器を造る人で、ネタイムおよびゲデラに住み、王の用をするため、王とともに、そこに住んだ。

ここは出処元ははっきりしている。この子孫たちは、ユダの3人息子、エル、オナン、シラのうち、長男エルと次男オナンは主に忌み嫌われる事を行ったゆえに主に打たれたが、三男のシェラはこうして生き延びた、その彼の系図である。
おそらく、兄たちが主に打たれるのを次々と見て、主を恐れ、そうして子孫が残され祝福され、その子孫は亜麻布織や陶器を造る職人として、また、王の用をする者として栄えたのだ。

今回の系図が物語る事は何か。
それは、いかに出処元が不明であろうとも、あるいは、卑しい出であろうとも、主を敬い主に呼び求める者には、主は祝福の扉を開いて下さる事、そして、いかに高貴な出であろうとも、主を軽んじ御言葉に従わない者は、呪われてしまう、という事を語ってはいないだろうか。
ちょうど、異邦の遊女ラハブやルツが信仰によって栄光の家系へと入ってきたように、また、ちょうどダビデの血を引く王家であっても不信仰によって災いに遭ったように。

私達は、主を敬い、御言葉どおり行い、主に祝福された子孫を残していくものでありたい。

栄光のダビデ王家、その没落して行ってしまった理由(1歴代誌3:1-24)
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第一歴代誌3章は、特に、ダビデ王家の家系が記されており、1−4節はダビデがヘブロンで王であった期間に生まれた子達、5-8節はエルサレムで王であった期間に生まれた子達が記されている。
10節以降、16節まではダビデの子ソロモン以降、歴代の王達が記されており、17節以降は、バビロン捕囚以降の王家の家系が記されている。

3:1 ヘブロンで生れたダビデの子らは次のとおりである。長子はアムノンでエズレルびとアヒノアムから生れ、次はダニエルでカルメルびとアビガイルから生れ、
3:2 第三はアブサロムでゲシュルの王タルマイの娘マアカの産んだ子、第四はアドニヤでハギテの産んだ子、
3:3 第五はシパテヤでアビタルから生れ、第六はイテレアムで、彼の妻エグラから生れた。
3:4 この六人はヘブロンで彼に生れた。ダビデがそこで王となっていたのは七年六か月、エルサレムで王となっていたのは三十三年であった。
・・・
3:9 これらはみなダビデの子である。このほかに、そばめどもの産んだ子らがあり、タマルは彼らの姉妹であった。

この、ヘブロンで生まれた子達で、サムエル記などに特筆されている子達は長子アムノン、三男アブシャロム、四男アドニヤであるが、いずれも災いの物事を起こし、剣で殺された者達であった。
アムノンは三男アブシャロムの妹であるタマルを力づくで犯し、その日、ダビデは一度に、強姦の罪を犯した息子の父親・強姦被害者の娘の父親になってしまった。
しかしその後、アムノンは何のお咎め無しのまま過ごし、ついにはアブシャロムによって殺されてしまった。
アブシャロムは父に歩み寄ろうと多くの努力をするも、父はのらりくらりとかわし続け、ついにはアブシャロムは父王に反逆してクーデターを起こした。
父ダビデ王はそんなアブシャロムに対しても憐れみをもって対応するが、しかし父に反逆して王権ご強奪し、また性的な面で父を嘲ったアブシャロムは、主に呪われた形で殺されてしまった。
四男アドニヤは、ソロモンが次の王になると知らされていたにも関わらず、自分で勝手に王になろうとした。
しかしダビデははっきりとソロモンが王であると宣言し、彼は謹慎処分を受けたにもかかわらず、バテ・シェバをそそのかしてなおも王になろうとしたゆえに、殺されてしまった。

このように見ると、あの偉大な王ダビデの子どもたちは、災い続きであるように見える。
その理由は、ひとえに、ダビデ王自身の罪の刈り取りであるといえる。
主は確かにダビデの罪を見過ごして下さった。しかし、犯罪を犯した人は相応の服役をしなくてはならないように、彼が行った事の報いは、彼自身が受けなくてははらない。
『しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。』(2サムエル記12:14)
ダビデが犯した「姦淫」は、産んで増えて行く「いのち」に対する冒涜であり、姦淫をする人は、生まれてくる子や身内の「いのち」から災いを返されてしまうものだ。
ダビデ自身は、彼が犯した姦淫と殺人の報いをその身に受けなかったが、彼が産んだいのちが、その報いを受ける事になってしまい、ダビデは、自分の罪の故に死ぬのではなく、罪を背負い、報いを刈り取りつつ生きなくてはならなくなったのだ。
罪の刈り取りは、必ずある。しかし主は、人が一度罪を犯せば罰の中に永遠に閉じ込めたままにされるお方ではない。懲らしめられて悔い、主に帰ろうとする人を、主は憐れまずにはいられない。(エレミヤ31:18-22)

3:5 エルサレムで生れたものは次のとおりである。すなわちシメア、ショバブ、ナタン、ソロモン。この四人はアンミエルの娘バテシュアから生れた。

この4人は、バテ・シュアから生まれた。サムエル記ではバテ・シェバであるが、なぜ歴代誌ではバテシュアと記されているのか。
たまに、歴代誌の名前の記述と、列王記など他の書の記述が違う事があるのには、それぞれの理由があるであろうが、その理由の一つに、「読み替え」がある。
読み替えとは、似た発音であるけれども、言葉の中の意味付けを違える、言葉遊び的な行為である。
たとえば、サムエル記における「バテ・シェバ」の名前の意味は「誓いの娘」、歴代誌における「バテ・シュア」の名前の意味は「豊かさの娘」である。
もしかすると、歴代誌記者は、ダビデが不当な形であるにせよ妻にしたこの女性が、かえって豊かな子孫の源となった事を示すために、そのような読み替えを行ったのかもしれない。

3:10 ソロモンの子はレハベアム、その子はアビヤ、その子はアサ、その子はヨシャパテ、
3:11 その子はヨラム、その子はアハジヤ、その子はヨアシ、
3:12 その子はアマジヤ、その子はアザリヤ、その子はヨタム、
3:13 その子はアハズ、その子はヒゼキヤ、その子はマナセ、
3:14 その子はアモン、その子はヨシヤ、
3:15 ヨシヤの子らは長子ヨハナン、次はエホヤキム、第三はゼデキヤ、第四はシャルムである。
3:16 エホヤキムの子孫はその子はエコニア、その子はゼデキヤである。

以上の名前は、列王記でも学んだ、南ユダ王国の歴代の王達である。
敬虔なユダヤ人であれば、それぞれの王達のそれぞれのドラマをよく知っているため、この「人名の羅列」を読む時も、一人一人に込められたドラマ、すなわち主に従って祝福されたドラマ、あるいは、主を軽んじて呪われたドラマを、この僅か7節の中に、走馬灯のように見えるのである。

3:17 捕虜となったエコニヤの子らはその子シャルテル、
3:18 マルキラム、ペダヤ、セナザル、エカミア、ホシャマ、ネダビヤである。

バビロン捕囚以降のダビデの血筋の者が、17節以降に記されている。
22節に登場するハトッシは、エズラと共にバビロン捕囚から帰還した、ダビデ王家のものであることが、エズラ8:2に記されている。
歴代誌は、エズラの時代に記されたものと思われるが、3章後半において、いよいよ、リアルタイムに生きる人々の名前が記述されるに至ったわけである。

ダビデの代は姦淫によっていのちが汚され、そして、子どもたちに御言葉伝授をしっかりして来なかった事によって、災い多くしてしまい、ついにはバビロン捕囚の憂き目に遭ってしまった。
エズラは、自分たちは御言葉がなかったから、御言葉を子どもたちに教える事をして来なかったから滅びた、と分かり、テフィリン教育、すなわち、御言葉暗唱教育を始めた。
それが現代に至り、ユダヤ人は13歳までにモーセ五書を暗唱できるようになり、今日、ユダヤ人は金銭的に、権力的に祝福されているのである。
私達クリスチャンも、御言葉教育にこそ力を入れるべきである。

ペレツの子ヘツロンの系図から読む、御国の祝福を強奪した子孫の祝福(1歴代誌2:18-55)
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歴代誌の系図の主人公は、ダビデ王家や祭司の家系であり、前回、それの直系の系図をダビデまで見た。
今回の箇所は、ダビデ王家の父祖・族長ユダが、嫁のタマルとの間に生まれたペレツの子、ヘツロンのいわば傍系の系図である。

ヘツロンの父ペレツは、彼の母タマルの胎にいた時、先に手首だけ出したのに、再び母の胎に入ってしまったゼラフを出し抜いて、先に生まれ出てきた故に、ペレツ(割り込むの意味)という名がつけられた。
母の胎の中のほうが肉的には心地よいかもしれないが、肉の心地よさに浸り込んで、長子の権利を割り込まれてしまったゼラフの系図は、わずかしか記されなかった。
このように、御国は積極的に攻めて勝ち取るものの手によって、奪われるものである。
バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。(マタイ11:12)
私達も、御国の事については、貪欲に勝ち取って奪いとって行くべきだ。

歴代誌の系図は、現代の私達の目から見れば、よくわからない名前の羅列で、読んでいるだけでも飽々して来る人もおられるかもしれない。
しかし今回の箇所には、イスラエルにおける重要な地名が幾つか登場し、その地を建て上げた父祖たちが記されているゆえに、当時のユダヤ人にとっては「ああ、あの地は、このような人達が建設したのか」という示唆を与えるものであり、またここは現代を生きる私達に対しても、主を敬う人の子孫はこんなにも数多くなって、読んでいるだけで飽々して来るほどになる、という事が、少なくとも実感できるだろう。

2:18 ヘヅロンの子カレブはその妻アズバおよびエリオテによって子をもうけた。その子らはエシル、ショバブ、アルドンである。
2:19 カレブはアズバが死んだのでエフラタをめとった。エフラタはカレブによってホルを産んだ。
2:20 ホルはウリを生み、ウリはベザレルを生んだ。

ヘツロンの子・ラムが、その後につづくダビデ王家に至る直系であるが、ラムの兄弟・エラフメエルとラムの子々孫々が、18節から55節に至るまで、多数記されている。
 2:25 ヘヅロンの長子エラメルの子らは長子ラム、次はブナ、オレン、オゼム、アヒヤである。
エラフメエルの子孫の中には、子がないままで死んだ人もいたり(30,32節)、娘しかいなくてエジプト人の奴隷に娘をめとらせて子孫を産んでいった人もいるが(34節)、それでも多くの子達がエラフメエルから生まれた。

 2:42 エラメルの兄弟であるカレブの子らは長子をマレシャといってジフの父である。マレシャの子はヘブロン。
ここに登場するヘツロンの子カレブは、ヨシュア記に登場する有名な信仰者、約束の地をヨシュアと共に信仰によって勝ち取ったあのカレブとは別であると考えられる。
なぜならヨシュア記のカレブは、「エフネの子カレブ」であり、その系図が4:15に記されているからである。
このカレブは、正妻・妾あわせて、多くの子達が生まれ出た。
しかも、その子達には、有力者が多数生まれた。

2:50 これらはカレブの子孫であった。エフラタの長子ホルの子らはキリアテ・ヤリムの父ショバル、
2:51 ベツレヘムの父サルマおよびベテガデルの父ハレフである。
2:52 キリアテ・ヤリムの父ショバル子らはハロエとメヌコテびとの半ばである。
2:53 キリアテ・ヤリムの氏族はイテルびと、プテびと、シュマびと、ミシラびとであって、これらからザレアびとおよびエシタオルびとが出た。
2:54 サルマの子らはベツレヘム、ネトパびと、アタロテ・ベテ・ヨアブ、マナハテびとの半ばおよびゾリびとである。
2:55 またヤベヅに住んでいた書記の氏族テラテびと、シメアテびと、スカテびとである。これらはケニびとであってレカブの家の先祖ハマテから出た者である。

このカレブの子孫からは、ベツレヘムやベテガデル、キルヤテ・ヤリムなど、諸地方の「父」が出、また、氏族の元となる人が出た。

母の胎にいる時から争ってでも御国の祝福を勝ち得たいと行動したペレツの子孫は、とても祝福されている事が、系図からも分かる。
彼らの父祖ヤコブもそうだった。
主は、兄のかかとを掴んで生まれてきたヤコブ、長子の祝福を騙しとってでもつかみとりたいと願ったヤコブが、長子エサウから命を狙われた時、ひとりぼっちで旅しているヤコブに現れて下さった。

 28:13 そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。
 28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。
 28:15 わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。
 
この時のヤコブは、杖一本の他は何も持たず、着の身着のまま逃げてきた状態だったが、後に、主は彼を大いに祝福し、二つの陣営を引き連れて帰って来る恵みに与らせてくださった。

まことに、天の御国は行動して奪うものであり、決して口をあけて待っていれば落ちてくるものではない。
むしろ、御国の祝福を得るためにもがかない人は、もがく人によって奪い取られてしまうのだ。

イスラエル-ユダ-ダビデに至る系図のドラマ(1歴代誌2:1-18)
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2:1 イスラエルの子らは次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、
2:2 ダン、ヨセフ、ベニヤミン、ナフタリ、ガド、アセル。

以上はイスラエル12部族の父祖たちであり、黙示録に至るまでも残る系図の本流中の本流である。
そして歴代誌では、この中から特にユダ族、レビ族について多くの紙面が割かれ、ユダ族の本流・傍流の系図が、2:3から4:23に至るまで記されている。

2:3 ユダの子らはエル、オナン、シラである。この三人はカナンの女バテシュアがユダによって産んだ者である。ユダの長子エルは主の前に悪を行ったので、主は彼を殺された。
2:4 ユダの嫁タマルはユダによってペレヅとゼラを産んだ。ユダの子らは合わせて五人である。

ユダとタマルは、夫婦ではない。タマルは、ユダにとっては、息子の嫁、という関係である。
ユダはイスラエルの王族の父祖であり、全世界を救うメシヤの家系の家長だが、その大切な一族の初期の段階から、既に人の罪が渦巻くドラマがある。一体なぜ、このような事になってしまったのか。

『そのころユダは兄弟たちを離れて下り、アドラムびとで、名をヒラという者の所へ行った。ユダはその所で、名を「シュアというカナンびとの娘」を見て、これをめとり、その所にはいった。』(創世記38:1-2)
事の発端は、ユダが、神に召された家族の元を離れ、異邦人の地に行き、異邦人の娘を見て、それを妻とした所に始まる。
そのカナンの女・バテシュアは「シュアの娘:叫びの娘」という意味で、ようするに、女の名前は分からない。名前すら記される程のものではなかったのだ。
この異邦人の女との間に最初に生まれた息子・エルは、ユダ自身が名付けたが、2番目・3番目の息子はこのシュアの娘が名付けたようである。(同3-5節) 異邦人の妻と暮らしていく中で、ユダの家長としての権威はますます弱くなり、異邦人の娘の影響力がますます大きくなって行ったのだろう。

長子エルは主の前に悪を行ったので、主は彼を殺されたのみならず、創世記を見ると、次男オナンもまた主の目に悪を行ったので、彼も主に打たれて死んでしまった。
息子が二人死んでしまったので、ユダはタマルが縁起悪いと思ったのだろうか、彼女を三男から遠ざけた。
しかし、息子二人が死んでしまったのは、書いてある通り、息子たち二人が、主に逆らったからである。
そしてこの三男シェラも、主に打たれて死ぬ要素が、十分にあった事を、ユダ自身認めていたのだろう。
ユダは、タマルを遠ざけるよりも、自分達の内にある神に嫌われる性質を遠ざけるべきだったのに、それをせず、一人の弱い立場の女性・タマルを遠くにやって、嫌な事はうやむやのまま、葬り去ろうとした。
しかし、神に属する一族にあっては、罪の問題やいのちを生む事、神へ果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウト出来るわけは無いのだ。
ユダは悔い改めを先延ばしにしてしまった結果、後に神と人の前でとても恥ずかしい思いをする事となる。
主は、ユダの家系を神の民へと整えるために、まず、家の清めから始める。すなわち、家の中から、主に逆う者、家全体を災いへと導く事を止めない者を、まず取り除かれる。

『日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終って・・・』(創世記38:12)
この「喪を終って」と訳された語「nacham」は、「慰める、あわれむ」という意味がある。
「叫びの娘」という妻が死ぬ事によって、夫であるユダは、慰めを受けた。。。
どんな人であれ、家族の死は、痛く悲しいものがある。しかし、家の中から「叫びの娘」が除かれ、主に逆らう人達が取り除かれるなら、後々、主をほめたたえる家の将来は、慰めを受けるのだ。

嫁のタマルは、バテ・シュアと違って出生元は記されていない代わりに、名前は記されている。
彼女は、この神の民の家系の恐ろしさ、そして、素晴らしさを思い知っただろう。それで彼女は、いのちを賭けて、子を得るための行動に出る。
ユダはその後、ティムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行った。タマルはそれを聞くと、やもめの服を脱ぎ捨て、遊女の格好をし、ユダが通りそうな道の傍らに座った。それは、シェラが成人したのに、ユダは約束どおりに行わず、自分がその妻にされないのを知ったからである。(創世記38:13-14)

ユダは、遊女の格好をしたタマルを見ると、まんまと引っ掛かり、二人は交渉し、そしてペレツとゼラフを産む。
ユダとタマルという父母の馴れ初め話(?)は、最悪な部類に入ると言えるだろう。しかしなんと、タマルの子ペレツは、後にはイスラエルの中で、祝福の代名詞となった。(ルツ4:12)
いかに父母の最悪な行為によって生まれた子でも、祝福の代名詞にまでなれるのが、栄光の家系の不思議であり、神の民の醍醐味であり、キリストによって神の民に加えたらた私達には、慰めである。

2:5 ペレヅの子らはヘヅロンとハムル。

このペレツが、正統なダビデ王家の本流となる。
ペレツは、元々、弟になるはずで、ゼラフが兄となるはずだった。しかし、この双子が母のタマルから生まれる時、ゼラフは手首だけ先に出たので、赤い印を手首につけられたのに、再び母の胎に戻ってしまい、ペレツが先に出てきたので、ペレツが長男となった。
母の胎から出てくる、その数時間の「競争」が、永遠の栄光の家系に入れたか、入れなかったかを切り分けた。
そう、私達も、この世という、永遠の目から見たら「わずか数時間の競争」が、永遠を決定するのだ。

栄光を手にするために努力するか、それとも、肉の心地よさに戻ってそれを逃してしまうか。
まことに系図をみる時、その連続ドラマを、またたく間に見せてくれる。

傍流であるゼラフの系図は、6-8節の3節にしるされている。しかも、悪い意味の教訓のために、である。

2:6 ゼラの子らはジムリ、エタン、ヘマン、カルコル、ダラで、合わせて五人である。
2:7 カルミの子はアカル。アカルは奉納物について罪を犯し、イスラエルを悩ました者である。
2:8 エタンの子はアザリヤである。

このアカルは、ヨシュア記で言う所のアカンである。
彼は、滅ぼしつくすべきものを自分の手元に保持したため、彼のみならず、イスラエル全体が戦いに勝てなくなってしまい、結局、彼のみならず、彼の子達もすべて滅ぼし尽くされてしまった。
神の民の系図の枝から、子々孫々とも、切って捨てられてしまったのだ。
私達も、まことのぶどうの木であるイエス様につながり、神の民の枝とされた。
その私達は、実を結ばないで切って捨てられるものではなく、キリストに繋がり続け、豊かな実を結ぶものとなるべきだ。

2:9 ヘヅロンに生れた子らはエラメル、ラム、ケルバイである。
2:10 ラムはアミナダブを生み、アミナダブはユダの子孫のつかさナションを生んだ。
2:11 ナションはサルマを生み、サルマはボアズを生み、
2:12 ボアズはオベデを生み、オベデはエッサイを生んだ。

9-12節は、ダビデ王家の本流が、ヘツロンからエッサイまで直接記されている。
マタイの系図には遊女ラハブやモアブ人ルツの名も記されているが、ここにはそれは無い。

2:13 エッサイは長子エリアブ、次にアビナダブ、第三にシメア、
2:14 第四にネタンエル、第五にラダイ、
2:15 第六にオゼム、第七にダビデを生んだ。
2:16 彼らの姉妹はゼルヤとアビガイルである。ゼルヤの産んだ子はアビシャイ、ヨアブ、アサヘルの三人である。
2:17 アビガイルはアマサを産んだ。アマサの父はイシマエルびとエテルである。
2:18 ヘヅロンの子カレブはその妻アズバおよびエリオテによって子をもうけた。その子らはエシル、ショバブ、アルドンである。

エッサイの子たち、すなわちダビデの兄弟姉妹たちが記されている。
特にツェルヤの子ヨアブは、有能な将軍であったが、王であるダビデの言葉に何度もそむき、むしろダビデに意見するような傲慢と、罪のない人の血を流し続けたゆえに、殺されてしまった。

以上のように、主を敬い、その御言葉を大切にする人は、主から大切にされ、祝福の子々孫々を得ていくが、主を軽んじ、その御言葉をないがしろにするものは、せっかく栄光の家系に生まれても、その系図という木からは切り離され、火に投げ込まれてしまうのだ。

聖書に「ごめんなさい」という言葉が無い理由(イザヤ59章)
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賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 病、貧困、悪霊などに悩まされ、祈っても祈ってもそれらにつきまとわれ続ける、という事はないだろうか。
主に祈っても願っても、全然聞かれないような、何か天が塞がれてしまっているような、あるいは、ただ主から叱責ばかりされ続けているような気がする。そのような場合の解決の示唆として、イザヤ59章を開きたい。
イザヤ書は、57章から59章の中盤までの内容は、主の側からの、人の側にある罪の指摘と叱責が記されているが、59章の後半以降、62章に至るまでは、主の慰めと祝福の預言が為されている。この59章に、呪いが祝福へと変わるターニングポイントの「鍵」があるのだ。

59章は、1-3節の主語は「あなたがた」であり、あなたがたの罪や不正が、神との隔ての壁を構築し、祈りを主に聞けなくさせている事が指摘されている。続く4-8節の主語は「彼ら」であり、その「彼ら」は悪魔の申し子のような性質で、その意図する所はただただ悪であり、好んで人々を虐げ、血を流すような者達である。
「彼ら」が好き放題に神の民を虐げるのだが、祈っても主が全く聞いて下さらない理由は既に1-3節にある。
そして、9-15節の主語は、「私たち」に変わり、9-11節では自分達の悲惨を嘆く呻きがある。自分の悲惨を嘆く「演歌」を幾ら並べ立てたり申し立てても、何も変わらない。肝心なのは次に続く節である。
12-15節に、「我々」の中に罪があって主に背いて来た事の告白がある。『我々のとがは、あなたの前に多く、罪は、我々を訴えて、あかしをなし、とがは、我々と共にあり、不義は、我々がこれを知る。』(12節)
イザヤ書の後半は、この「我々に罪がある事を認め、告白した事」で、大きなターニングポイントを迎える。
16節以降、主語は「主」に変わり、悲しみ嘆く主の民を救おうと、主ご自身が動き出し、主の民を苦しめる「彼ら」に報復し、戦われるために、主みずからが武装される様が記されている。

塞がれていた主の助けが再び流れ出す鍵が、自分自分の罪の告白と悔い改めであり、罪を認めないなら、いつまでもその追求が続く(1ヨハネ1:8-10)。アダムとエバは、自分が何をしたのか告白するべき場面で、人や状況のせいにした結果、楽園を追放され、労苦と痛みと死の呪いに、つきまとわれてしまった。
呪いにつきまとわれるコツ、いつまでもそこから脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。
聖書には、「ごめんなさい」という日本語が一つもない事をご存知だろうか。なぜ、「ごめんなさい」という、良き日本人として生きていく上で欠かせない重要な言葉が聖書の中に無いのか。それは聖書の価値観では、「わたしは○○の罪を犯しました」が、ごめんなさいに相当する言葉だからである。ダビデは罪を犯してそれを指摘された時、「わたしは罪を犯した」とすぐに認め、それで彼は死なずに済んだ。またネヘミヤやダニエルも、自分達が主の前で、何と何と何の罪を犯して来たか、かなり詳細かつ具体的に告白している。
ある悪霊に憑かれた息子を持つ父親は、今まで何もかも人任せにしていたが、イエス様から不信仰を指摘され、悔い改めた時、イエス様は「言うことも聞くこともさせない悪霊」を追い出した。(マルコ9:23-25)
だから、自分が主に何をしたのかを明確に告白する事、そして、そこから1ミリでも離れる決心と努力をし続ける事が聖書的な正しい謝罪であり、それをしないと、罪の追求と呪いがひたすら憑き纏ってしまうのだ。
もし私達が罪を言い表さず、罪の「楽しみ」を手放す事を惜しんでそこから離れないなら、いかに病や悪霊、貧乏に「出て行け」と言っても、全然効き目は無い。なにしろ、本人自身が、その取っ掛かりとする「ネタ」を握りしめ続けている訳だから。しかし、自分の罪を主に言い表す時、病や悪霊は、取っ掛かりを失う。
サルスベリという木がある。その木はツルツルして、サルに取っ掛かりとなるものが無いので登れない、という木であるが、自分の罪を主に言い表し、悔い改めるなら、「病スベリ」「悪霊スベリ」「貧乏スベリ」となるのだ。「主イエスの名によってサタンよ去れ」という祈りより遥かに効果的なのが、告白と悔い改めである。

『主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。』(20)
主が「贖い主」として現れてくださるのは、とがを離れる者、悔い改める者のところに、と書いてある。
結局、罪を告白した時、主みずから助けるために動いて下さり、その結果、イザヤ60章以降の祝福がある。
しかし、自分の罪を口で言い表さず、改めようとしない人にはいつまでも、罪から、サタンから、そして主から追求され責められる事がつきまとう。日々、罪から一ミリでも離れる努力をし、罪や病、貧乏、悪霊に掴まれる所なく、祝福と幸いの日々を歩み、ますます働き人として整えられていく皆様でありますように!

イシュマエルの子孫とエサウの子孫(1歴代誌1:28-54)
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1:28 アブラハムの子らはイサクとイシマエルである。

アブラハムの子、イサクの子孫が、神の民の直系子孫であるが、今回の箇所は傍系の系図、すなわち、イシュマエルやエサウの子孫の系図が挿入されている。

1:29 彼らの子孫は次のとおりである。イシマエルの長子はネバヨテ、次はケダル、アデビエル、ミブサム、
1:30 ミシマ、ドマ、マッサ、ハダデ、テマ、
1:31 エトル、ネフシ、ケデマ。これらはイシマエルの子孫である。

イシュマエルの子孫がここに記されている事は、将来のイスラエルにとって重要である。
なぜなら今、まさに現代、イスラエルはこのイシュマエルの子孫であるアラブ人によって苦しめられているからだ。
イシュマエルの子孫はどのような性質になって行くのかは、母の胎にいる時に決まっていた。
創世記16:11 主の使はまた彼女に言った、「あなたは、みごもっています。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたのです。
16:12 彼は野ろばのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」。

イシュマエルにしても、エサウとヤコブにしても、母の胎にいる時から主はその子がどのようになるかを予告しているが、母がどのように胎教するか、それはとても重要である。

多くの国々では義務教育はだいたい5-6歳から始まるが、イスラエルの律法では、いのちが母の胎に宿った時から既に始まっており、母は、胎児に向かってトーラーを毎日聞かせる。
それで、彼らは生まれた時から既に御言葉の耳が開かれており、13歳の少年になる頃には、モーセ五書全部を暗記しており、大人になる頃には天才となっているのである。
結婚と子育て過ちや、性的な過ちは、後々の子々孫々に、致命的な災の根を残す事となってしまう事を、おそらくエズラは警告し、傍系子孫の系図も記しているのだろう。

1:34 アブラハムはイサクを生んだ。イサクの子らはエサウとイスラエル。

イサクの子、イスラエルの子孫が神の民の直系だが、エサウという「傍系」の系図を、詳細に載せている。

1:35 エサウの子らはエリパズ、リウエル、エウシ、ヤラム、コラ。
1:36 エリパズの子らはテマン、オマル、ゼピ、ガタム、ケナズ、テムナ、アマレク。

テマン人は知恵深い人々として他の箇所に記されている(ヨブ2:11、オバデヤ9)が、アマレクは暴虐な民として神が徹底的に絶ち滅ぼすように命じている。
エサウは俗悪な者としてヘブル12:16に記されており、俗悪な子々孫々を産んでいった。

1:43 イスラエルの人々を治める王がまだなかった時、エドムの地を治めた王たちは次のとおりである。

1歴代誌1:37-54には、エサウの子孫の系図と、その中から出た王達、首長たちが、大勢記されている。
それは、イスラエルにはまだ王がいなかった時、であると書いてあるので、イスラエル(ヤコブ)はエサウの祝福をだまし取ったものの、栄えたのはエサウのほうだったようである。
エサウの子孫が王をつくり、増えていったその時期に、イスラエルはエジプトで奴隷生活を430年も送っていたからだ。

しかし、歴史的視点から見ると、エドムは最終的には滅び、イスラエルは栄え祝福されている。

エドム人(イドマヤ人)はバビロン捕囚の時までは栄えていたのに、イエス様の時代になると少なくなり、最終的に、民族としては歴史から姿を消している。
エドムはなぜ絶滅してしまったのか。
その原因は、オバデヤ書に記されている。

エドムは、他国人がエルサレムを攻めた時、知らぬ顔をし(オバデヤ書11節)、むしろ喜び(同12節)、イスラエルの敵と一緒に門に入って、財宝に手をつけ(13節)、戦禍から逃げようとするイスラエル人の前に立ちはだかって、逃げられなくした。(14節)

詩篇137篇は、バビロン捕囚されたあるユダヤ人が詠んだ詩で、バビロン人が余興でユダヤの歌を歌うよう言われた時、悲しくて歌えなかった様が記されている。
彼は7節でこう詠んでいる。
『主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と/言ったことを覚えてください。』

このように、兄弟が困っている時に、敵の側に立って一緒にいじめるのが、エドム人の特徴であり、その態度が主を怒らせた。
その時以来、主は周辺の国々を用いて、エドム人を立て続けに攻め立て、最後には滅ぼされる。

『オバデヤの幻。主なる神はエドムについてこう言われる、われわれは主から出たおとずれを聞いた。ひとりの使者が諸国民のうちにつかわされて言う、「立てよ、われわれは立ってエドムと戦おう」。』(オバデヤ1節)
『見よ、わたしはあなたを国々のうちで/小さい者とする。あなたはひどく卑しめられる。』(2節)
『主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。』(15節)

私達にももしかしたら、エドムのように、困っているのに逆に苦しめるような、凶悪な身内がいるかもしれない。
しかし主は、主に救いを求める聖徒たちを必ず守られる。
そしてもし、エドムのように、兄弟姉妹が困っているのに、敵の側に立って一緒に攻め立てたりするなら、主はその者に敵対される。

『肉の物、高ぶる者は、主の御前に長く存続できない。悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の/断ち滅ぼされるのを見るであろう。
わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。』(詩篇37:32-38)
 

永遠の系図に残る礼拝する民と、消えていく礼拝しない民(1歴代誌1:1-27)
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バビロン捕囚の後、イスラエルの信仰を復興したエズラが編纂したと言われるこの歴代誌は、系図で始まる。
系図は、イスラエル人にとって、どこに自分のアイデンティティがあるのかの拠り所であり、また系図には、主に依り頼んで栄えた人も、主を軽んじて呪われた人も記されている。

系図はツリー構造であるが、そのツリー(木)の幹にあたる部分と、枝葉にあたる部分があり、歴代誌における「幹」すなわち主人公は、主を礼拝する民、主につながり続けた人達である。それが結果的にユダ族であり、レビ族である。
主を敬い、礼拝を重んじる人々は祝福を受けて栄え、主を軽んじ礼拝を疎かにする民は衰退し、最終的には滅びる。
それこそ、歴代誌が教える重要な教訓である。
おそらく記者であるエズラは、その事を伝えるために、全人類の祖先であるアダムの系図から記し始めた。

1:1 アダム、セツ、エノス、
1:2 ケナン、マハラレル、ヤレド、
1:3 エノク、メトセラ、ラメク、
1:4 ノア、セム、ハム、ヤペテ。

1節から4節のヤペテまでは、接続詞も一切なく、名前だけがそのまま一気に記されている。
この、1−4節は最も根幹的な「幹」にあたり、また5節以降23節までの系図には、名前と次の名前の間に接続詞ワウが挿入され、また、その時代に何が起きたかという説明も所々に挿入されている。
聖書注解を見ると、おそらく「幹」と「枝葉」を区別するためだろう、と言われているが、この、接続詞ワウ無しの名前だけの列挙は、ヘブライ語がわかるユダヤ人には、名前を繋げた事によって浮かび上がって来る意味を読む事が出来る。

ヘブライ語の人名には、それぞれ意味があるのだが、このアダムからノアに至る系図の名前をそのまま列挙して行くと、一つの意味が浮かび上がって来る。
アダムは「人、土」という意味であり、セツは「約束の、授けられた、定着した」という意味、エノシュは「脆い、致命的、悲惨」、ケナンは「悲しみ、哀歌」、マハラルエルは「祝福の神」という意味である。
エレデは「降りてくる」、エノクは「教える、始まる、ささげる」、メトシェラは「彼が死ぬ時、何かが起きる」、レメクは「嘆き、悲しみ」、ノアは「慰め、新しい希望」という意味である。

以上、これらの名前の意味をつなげると、次のようになる。

「人は、約束された(授けられた)。脆さ、致命的な悲惨が。祝福の神は、降りて来て、教え、捧げた。彼が死ぬ時、何かが起きる。嘆き悲しみは、慰められ、新しい希望となる。」

この浮かび上がった意味は、まさしく、イエス・キリストによる人類の救いを表しているではないか。
実は、ユダヤ人が、歴代誌のこのワウ無しの系図を朗読するたびに、そのような意味をも覚えつつ、暗唱しているのだが、イエスキリストを受け入れるユダヤ人がいないのが本当に歯がゆい所である。

続いて系図は、ノアの子ヤペテの子孫になる。

1:5 ヤペテの子らはゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラス。
1:6 ゴメルの子らはアシケナズ、デパテ、トガルマ。
1:7 ヤワンの子らはエリシャ、タルシシ、キッテム、ロダニム。

ヤペテはヨーロッパ系の白色人種の祖先と言われており、イスラエルに対しては異邦人であったものの、キリスト以降、福音が最も普及し発展した民族であり、以下の預言はまさに実現した。
「神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」(創世記9:27)
しかし旧約においては、ヤペテの子孫は全く登場しないため、歴代誌の系図では、わずか3節で終わりとなっている。
たとえ旧約の系図から外されてしまっても、イエスキリストを信じるなら、再び接ぎ木されるのだ。

続いて系図は、ノアの子ハムの子孫となる。

1:8 ハムの子らはクシ、エジプト、プテ、カナン。
1:9 クシの子らはセバ、ハビラ、サブタ、ラアマ、サブテカ。ラアマの子らはシバとデダン。
1:10 クシはニムロデを生んだ。ニムロデは初めて世の権力ある者となった。
1:11 エジプトはルデびと、アナムびと、レハブびと、ナフトびと、
1:12 パテロスびと、カスルびと、カフトルびとを生んだ。カフトルびとからペリシテびとが出た。
1:13 カナンは長子シドンとヘテを生んだ。
1:14 またエブスびと、アモリびと、ギルガシびと、
1:15 ヒビびと、アルキびと、セニびと、
1:16 アルワデびと、ゼマリびと、ハマテびとを生んだ。

このハムの子孫たちは、主を敬わない者達、礼拝を阻害する者達として聖書には記されている。
特にニムロデは、歴代誌において重要な悪役の人物である。このニムロデの子孫によって神の民は散らされ、神殿は破壊され、バビロン捕囚に遭い、そうして歴代誌は閉じられるからだ。
主を敬う民に対し、主を蔑む民もいる。カナン人やペリシテ人もそうである。
主の民が、主を敬わない事を続けてしまうと、神は彼らを用いて主の民を懲らしめ、なおも主に従わない事を続けていると、最終的には約束の地から吐き出されてしまうのだ。

続いて、セムの子孫について記されている。歴代誌の系図の本流は、神の民・セムの子孫である。

1:17 セムの子らはエラム、アシュル、アルパクサデ、ルデ、アラム、ウズ、ホル、ゲテル、メセクである。
1:18 アルパクサデはシラを生み、シラはエベルを生んだ。
1:19 エベルにふたりの子が生れた。ひとりの名はペレグ――彼の代に地の民が散り分れたからである――その弟の名はヨクタンといった。
1:20 ヨクタンはアルモダデ、シャレフ、ハザル・マウテ、エラ、
1:21 ハドラム、ウザル、デクラ、
1:22 エバル、アビマエル、シバ、
1:23 オフル、ハビラ、ヨバブを生んだ。これらはみなヨクタンの子である。

ここではエベルから枝分かれしたヨクタンの子孫が記されたが、24節以降27節までは、再び、接続詞ワウなしの名前の列挙となる。
すなわち、系図の本流である。

1:24 セム、アルパクサデ、シラ、
1:25 エベル、ペレグ、リウ、
1:26 セルグ、ナホル、テラ、
1:27 アブラムすなわちアブラハムである。

こうして、信仰の先祖、アブラハムまでの系図がつながった。
主を敬う信仰の人、礼拝する人こそ、人間のファミリーツリーの中で幹となって、栄えて行く者、永遠に残る者である。
私達は、主を敬い、礼拝する民、永遠に残る民として、歩むべきだ。

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