メッセージ - 201704のエントリ

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
全宇宙(コスモス)に出ていき、全被造物に、勝利の良き知らせを伝えよ(マルコ16:15-20)
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宇宙よりも広い主イエス様の愛と憐れみ(ヨハネ21:1-25)
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イエス様はあらかじめ復活すると言っていたのにそれを信じ切れない弟子達に、聖霊の息を吹きかけ「わたしもあたながたを遣わします」と言って任命して下さり、信じ切れないトマスに、傷んだ葦を折る事をしない、優しく麗しい対応で信仰を建て直して下さった。
イエス様はなおも、御言葉どおりに出来ない弟子達に現れて、彼らを愛憐れみに満ちたあらわれによって、建て直して下さる。

21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
21:2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
21:3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。

ペテロは漁に「行く」と言ったが、その「行く」はフパゴー、戻るとか離脱する事の意味である。
ペテロはせっかくイエス様から主の働き人の任命を受けたのに、そこから離れて、以前プロフェッショナルとして仕事していた「漁」に戻る、と他の弟子達に言ったところ、他の弟子達も「いっしょに行く」と言った。
しかし、何も獲れない。

ペテロは漁のプロフェッショナルだったので、魚が穫れる時間、わざわざ夜に魚を捕りに行ったのに、一匹も獲れなかった。
それは、奇跡である。
奇跡とは何も、自分の願った通りの事とは限らない。自分が願った事が100%閉ざされるという奇跡もある。
そのような「望ましくない奇跡」は、主の御旨とは100%逆方向を願って進む時に起きてしまうのだ。

それでもあきらめないで、主の御旨でない事を続けて行くなら、ますます「何も獲れない」「居心地が悪くなる」「気まずくなっていく」事の泥沼へと、どんどんはまり込んでいってしまう。
イエス様は、そんな泥沼に沈んていく者達に、優しく現れて下さる。

21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
自分の思い通りに行く事に物事をもって行こうとしがみつき、奮闘してしまう時、イエス様が見えなくなってしまう。


21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
ここのイエス様の言葉は、英語の「Don't you」のような、「**が無いのだろう?」という、「無い」事が前提の問いかけである。
弟子達は、無い、と答えるしか無かった。
それはそうである。なぜなら、魚も湖も全てを主権をもって支配しておられるのはイエス様だから。
イエス様は、主の御旨でない主のしもべの「編み投げ」に対しては、100%、何も獲れない、という奇跡で答えられる。

21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
彼らは、そのお言葉どおり従ったら、これまた逆転奇跡が起きた。
主のしもべは、御旨でない事を行うなら、ただただ虚しい奇跡しか起きないが、御言葉に従うなら、豊かな実りある奇跡が起きる。
弟子ヨハネは、イエス様のそのご性質を思い出した。

21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
ペテロは、裸だった。
イエス様がせっかく救いの衣を着せ、聖霊の「縄」によって縛って、人間を捕る漁師としての働きに召したというのに、それを脱ぎ捨てて、以前の自分の「漁師」としての帯びを再び締めて、はだかで立ち振る舞っていた。それをペテロは気づき、上着をまとって海に飛び込んだ。
この「飛び込んだ」と訳されている言葉は、直訳するなら「自らを水の中に投げた」である。
イエス様に着せられた衣を脱いで、裸で立ち振る舞っている事に気づいた時は、この、ペテロのような対応を私達もするべきである。
再び主に着せられた衣をまとい、自らは水の中へと投げ込んで、そしてイエス様のほうへ泳いで行くのみである。

21:8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
これが、イエス様の麗しい性質である。彼はくすぶる灯芯を消す事なく、傷んだ葦を折る事もなく、ただ、バックスライドしてしまった弟子達を、温かい炭火焼きのパンと魚で迎えて下さる。

21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
3つめの奇跡である。それは、あんなにも立派な魚が大漁に捕れたのに、網が破けなかった。
魚たちも、弟子達に捕らえられるように、網が破けないように、配慮するのだ。それもまた、イエス様の主権である。

21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。
イエス様は、自ら来て、弟子達のために食べ物を与えて下さった。
しかも、私達主の働き人が、主の御言葉どおりに行って得たものさえも用いて。

21:15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
ここではイエス様は「愛するか」と2度、聞いてきたが、その愛は、ギリシア語ではアガパオー、すなわち、自らを捧げ尽くす完全な愛で愛せるか、と聞いて来たのである。
しかしペテロは、完全に愛し尽くす愛の「アガパオー」では答えられず、「フィレオー(好きである、慕っている)」という愛で答えた。
そのやり取りが、二度繰り返された。

21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
イエス様は三度目の質問では「アガパオー」で質問して来てはいない。三度目は、あなたはわたしを「フィレオー」するのか?と問いかけてきたのだ。
イエス様の側から、完全な愛で愛し尽くす事の出来ない人間の側にレベルを合わせて、降りてきて下さったのだ。
あたかも大人が、自分の弱さに泣いている子供の目線に降りて来てなだめるかのように。
ペテロは、3度目にイエス様が「フィレオーするのか?」と降りて来てくださったので、悲しくなったのだ。

ペテロのように、自分の弱さに悲しみ、イエス様がそんな弱い自分に降りてきて下さった事に心触れられる事が、肝心である。
この、悲しむ心を忘れて、ただただイエス様に炭火を焼かせてばかりいるとしたら、それは恩知らずの性質である。

21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
未熟な働き人は、自分でビジョンを思い描き、自分の好きな帯びを締めて、自分の好きな所へ行くものだ。ペテロはまさに、そうだった。
しかし、熟練した働き人は、自分の思い描く事や、自分の好きな帯を捨てて、聖霊の帯に縛られて、主が示される所へと行くものである。
使徒パウロが、聖霊に縛られて、殉教を覚悟してエルサレムへ行ったように。
主の働き人とは、みな、そのようである。

21:20 ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
21:21 ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
21:22 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
主から、あなたのミニストリーはこれだ、と示されても、どうしても「あの人はどうなのですか」「どうして自分ばかりこうなのですか」と、他人を指差して比較しがちである。
しかし主の答えは、「あなたは、わたしに従ってきなさい」である。
私達は、あの人がどう、この人がどう、ではなく、ただ主だけを見、主の言葉に従って行けば良いのである。

21:23 こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
他の弟子達は、主の言葉に自分勝手な解釈を混ぜ込んで、この弟子(ヨハネ)は死なない、と、うわさ話を広めたが、しかしヨハネは、100%主が言った言葉を違えず、「主が言われたのはこうだ」と言った。
私達も、主の言葉に自分の思い込みを混ぜ込む人に対しては、主の言葉を100%そのまま語れば良いのだ。

21:24 これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。
確かにイエス様がなさった驚くべき事、素晴らしい事を書き記して行くなら、世界さえもその書を入れる事は出来ないが、しかし何よりイエス様のなさった事は、愛に満ちている。
ヨハネ福音書は「愛の書」と良く言われている。
イエス様の愛、それこそ、語れば語る程に、世界さえも入れる事が出来ないのだ。
イエス様の愛は、宇宙よりも大きく広い。それをこそ私達は御言葉から読み解き、主の愛と憐れみに満たされ、主の働き人として成長して行くべきである。

恐れる弟子達に現れて下さった復活の主(ヨハネ20:19-31)
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ルカによる福音書 講解説教メッセージ
主が示して下さったサタンの誘惑に対する勝利の方法(ルカ4:1-15)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
もう洪水で地を滅ぼすまいと誓われた主(イザヤ54:9-17)
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マグダラのマリヤから学ぶイエス様に真っ先に出会える人の性質(ヨハネ20:1-18)
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20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
マグダラのマリヤ、彼女はイエス様に真っ先に出会う特権にあずかった。
それは、彼女が誰よりもイエス様を慕い求めていたからである。
「マグダラ」はガリラヤ湖の南西の町で、その出身であったためにマグダラのマリヤと呼ばれているが、「マグダラ」はヘブライ語ではミグドール、「見張り台」という意味である。
彼女はまさにその名の通り、イエス様にずっとついて行って、ガリラヤ伝道中にもいつもついて行った。(ルカ8:1-8)。
イエス様が十字架につけられた場面でもすぐそばにおり(ヨハネ19:25)、イエス様が息を引き取った時も、墓から降ろされて墓に葬られる場面も、ずっとその場を去らずに見守り(マルコ15:47、ルカ23:55)、安息日が明けた明け方の時に早速またイエス様の墓に行った彼女である。

なぜ彼女は誰よりもイエス様の近くにいて、イエス様を見守る人になったか。
彼女は七つの悪霊をもっていたがイエス様に追い出していただいて(ルカ8:2)、以前の罪深い生活から救っていただいた。
多くを赦され、多くを救っていただいた人は、イエス様を多く愛するものである。

ルカ7:44 それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。
7:45 あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。
7:46 あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。
7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
7:48 そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。

マグダラのマリヤは、多くを救っていただいた故に、より多くイエス様を愛した。
それだから彼女は、イエスが十字架にかけられた時も、イエスが息を引き取る場面も、イエス様が墓に葬られる場面もそこにいて、そして、イエス様が墓からよみがえってから一番最初に出会う事も出来たのである。

20:10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
20:11a しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。

ペテロとヨハネの二人の弟子は、イエス様の遺体が墓からなくなっているのを確認したら家に帰っていったが、マリヤはなおもそこに留まって、泣いていた。
イエス様を慕い求めていたからだ。

20:11b そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。

墓の中に、二人の白い衣を着た御使いがすわっている。ペテロとヨハネが墓の中に入ったさっきまで、いなかったはずなのに。
尋常な場面ではないのに、彼女は普通に対応している。
親しい人が死んで、その遺体が無くなってしまうような大きな悲しみの中では、ちょっとやそっとの尋常でない場面に出くわしても、その悲しみのほうが大きくて、それどころではなくなってしまうものである。
彼女は大きな悲しみによって、心が塞がれていた。しかし、そんなイエス様を慕い求める彼女、心が悲しみで塞がれている彼女に、イエス様ご自身が直接あらわれてくださる。

20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。

彼女はイエス様に名指しで声をかけていただく事が出来た。
彼女は、二人の御使いに「わたしの主」と言ったし、またラッブーニというヘブライ語は「わたしの先生」という意味である。
彼女はイエス様を「わたしの主」「わたしの先生」と、イエス様を「わたしの」と呼んでいた。

イエス様に真っ先に出会う特権にあずかったマグダラのマリヤ。
彼女の性質から、イエス様にすぐ出会える人の性質が分かる。
イエス様に速やかに出会える人とは、彼女のように、多くを赦していただいたなら、多くを愛する人。
いつもイエス様に目を向け、何があってもイエス様について行き、イエス様が死んで、もう絶望的だと思っても、なおイエス様を探し求め、イエス様を「わたしの主」と呼ぶ性質こそ、イエス様から真っ先に声をかけていただき、真っ先にイエス様に出会える性質である。

復活された主の栄光を見るために(ルカ24:36-49)
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イエス様の話をしている弟子達に、堂々と、イエス様ご自身が現れた。
24:36 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕
イエス様は「やすかれ」(アイレーネー:ヘブライ語のシャロームに相当)と言われた。
復活の主は、真っ先に言われる。シャローム、と。
シャローム。すなわち、主がその御顔をあなた向け、あなたを応援し、あなたが平安で、健やかで、安全であり、知恵と力と栄光と富に満ち、あらゆる悪や敵から守られ、それらに勝利し、そして、あらゆる面で満ち足り、繁栄し、産んで増えて地に満ちて、満足するように、と。

しかし弟子達は、シャロームとは真逆の反応をする。
24:37 彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。
車は急には曲がれないように、人も、人智を超えた事を突然なさった主に、そのまま感情や納得がついて行く事は出来ず、ある程度の消化期間が必要である。
イエス様は、そんな彼らをご存知であり、彼らが納得できるように助けて下さる。

24:38 そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。
24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。
24:40 〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕
24:41 彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。
24:42 彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、
24:43 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。

イエス様が死者の中からよみがえられた、という事に、人はなかなか理解できない。それで人は、イエス様の復活について、弟子達は死人の幽霊を見たのだ、とか、彼らの思い込みが引き起こした集団ヒステリーによる幻を見たのだとか、色々と頭に収まるように解釈を試みる者がいるが、彼らはこのルカの箇所をどう説明するのだろうか。
イエス様は、理解できない彼らのために、わざわざ、十字架で釘打たれた手足を示し、さわるように促し、また、わざわざ食べ物を取って皆の前で食べられた。
死霊や幻には、肉や骨は無い。死んだ人や幻は、何か物を食べるという事は無い。
疑う彼らに、堂々と、ご自身は肉体を持った者として生きているのだと示された。
それは、弟子達のみならず、私達も、栄光ある復活のからだによみがえらされる望みを持つようになるために、イエス様はそうされたのである。
1コリント15:41 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。
15:42 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
15:43 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
15:44 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。

24:44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。

前回の箇所に続き、ここでもイエス様は聖書の言葉を引用された。
現代の私達が霊の引導を得るべき源は、聖書である。それは、しるしや不思議、幻や霊現象ではない。

24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

イエス様は、弟子達が聖書を悟らせるために彼らの心を開いた(ディアノイゴー:切り開く)。
私達も、御言葉を悟るには、閉塞されてしまっている心を、思いを、知性を、開いてもらう必要がある。
開いて下さるのは、主である。

2コリント4:3 もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。
4:4 彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。
福音に覆いがかけられてしまっている人は、「この世の神が」その思いをくらませて、キリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのだ。
この世には、福音の輝きを覆うもので満ちている。インターネット、ゲーム、諸々の肉の享楽など、それらは全て、真理を覆うためにサタンによって用いられてしまっている。

4:5 しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。
4:6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
ここに記されているように、私達に神の栄光の知識を輝かせて下さるお方は、主である。
イエス様は、弟子達の心を切り開いて、御言葉が悟られるようにして下さった。
私達は、御言葉を理解したいのなら、心を切り開いて下さるよう、主に祈るべきである。

2コリント3:14 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
3:15 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

ユダヤ人達は今なお心に覆いがかかって、福音の光が見えなくされている。彼らはテフィリンによって知性が強力になってしまい、知性によって伝道する事はほぼ不可能である。しかし、彼らが主に向くなら、そのおおいは取り除かれる。
主は、御霊(το πνευμα)である、と記されている。
そして、御霊なる主の働きにより、私達も、主の栄光を反映する鏡として、人々に主の栄光を届ける事ができるようになる。

イエス様はさらに、弟子達が聖霊に満たされて使徒として任命を受けるために命じられた。
24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。
24:49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

私達も、知性や心、思いが主に対して開かれるよう、日毎、主に心を向けつつ聖霊に満たされる事を求め続けるべきである。

頑なに握りしめられた心を燃え立たせ開かせる言葉(ルカ24:13-35)
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24:13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、
24:14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
24:15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。

イエス様の十字架からの復活以降、イエス様の現れは、現代の私達と全く同じ現れ方をしている事が、福音書の後半部分から知ることが出来る。
すなわちイエス様は、四六時中肉体をとって肉体に縛られているのではなく、時間空間に縛られず、ただ、二人また三人でイエス様の名の元に集まってイエス様の話をしている所に、あるいは、心からイエス様を慕い求める魂のところに現れて下さる。
イエス様は、この二人の弟子がイエス様の話をしている所に現れて下さった。
しかし、イエス様が目の前に現れたからといって、必ずしもそれがイエス様だと分かる訳ではないようである。

24:16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。

目がさえぎられて、と訳されている原語ギリシア語はクラテオー、握りしめるとか、力づくで思いのままにするという意味である。
彼らは自分の目を、自分の思い込みや、心の欲するまま、肉の欲するままの状態で、固く握りしめられていたのだ。
イエス様が目の前に現れても、それがイエス様だと気づかない理由、それは、心が握りしめられたままの状態である事だ。

24:17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。
24:18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。
24:19a 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。

きっと、この場面を映像にしたら、とても滑稽ではなかろうか。
イエス様を目の前にして、イエス様に話しかけられて、悲しそうな顔つきになっており、何の話かと聞かれると、目の前にイエス様ご自身を見て話しているというのに、「ナザレのイエスのことです」と言うのだから。
彼らは、暗い顔つき、悲しい顔つきであった。その理由は、イエス様を目の前にしても、人間の言葉や噂話をし、そして、イエス様があらかじめおっしゃっておられた事がそのとおりになったというのに、また証人もいるのに、なお、自分で自分の心を固く握りしめつづけていたからだ。

ヨハネ6:63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
人間の言葉は何の益ももたらさず、また、心を固くし思い込みを握りしめる者達の議論は、顔つきを暗く、悲しげにする以外に無い。
そして、いかにイエス様が目の前に現れていようとも、それに気づかないままなのだ。

結局、人を生かすのは、人間の言葉(ダバル)ではない。ただ、神の言葉(ダバル)である。
人間のダバルは、こねくり回せばこねくり回す程、顔つきは暗く、悲しげになって行く。
ただ、神の言葉のみが、人にいのちを息吹く。

24:19b あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、
24:20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。
24:21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。

これらの出来事は事実で、確かに心暗くする事であっただろう。
しかし、次に続く言葉は、暗い心に光をもたらす事であるはずである。

24:22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、
24:23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。
24:24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。

イエス様が三日目によみがえる事は、あらかじめイエス様が何度も語っていた事だったし、実際、イエス様が生きておられるという証言を聞き、そして墓もからっぽだった事を聞いても、彼らは嬉しがるのではなく、なお、心暗く頑なな状態である。
そんな者、心をあくまで頑なにしている者を対処する事が出来るものは、霊とたましいの間を貫く御言葉の剣のみである。

24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

イエス様は、「ほら、目の前にわたしがいるではないか」と言えば一発で済むと思えるような場面で、それをしなかった。
かえってイエス様が話された言葉は、モーセや全ての預言者、すなわち、聖書全体であった。
これは現代の私達も、頑なで恐れる暗い心を開放する唯一の方法である。
私達も、イエス様が目の前にいる、見なさい、と言う必要は無い。御言葉、それを示す事が、イエス様を示す事である。

24:28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
24:29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
24:30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
24:31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

弟子達に、イエス様だと分かったタイミングは、イエス様がパンを裂いて、それをお渡しになった時だった。
聖餐において、裂かれたパンは、十字架上で裂かれたイエス様の肉体を意味する。
見えない目が開かれるために、また、聞けない耳が開かれるためには、十字架のイエス様を渡す事である。

弟子達の心は、道道、御言葉を聞いている内に燃え立たされていた。
皆さんも、頑なに握りしめられ聞く耳を持たない人の心を燃え立たせたいだろうか。それには、御言葉を語る事である。
相手の心が開くまで、時間がかかるかもしれない。弟子達でさえ、時間がかかった。
しかし、それまでイエス様についての御言葉を語り続けるなら、やがて心燃え立たせられ、開かれていなかった心が開かれて行くのである。

24:33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、
24:34 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。
24:35 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。

弟子達は、せっかく11キロの道のりを歩いて目的地に到着したのに、また、日も既に暮れたのに、なお戻って、イエス様が生きておられる事、現れて下さった事を証した。
御言葉によって心開かれ、心燃やされ、イエス様に出会ったなら、どんな労苦おも惜しまずに、イエス様を伝えずにはいられなくなるのだ。

死を打ち破り、永遠に生きる、われらの主(マタイ28:1-15)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
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賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 本日は復活祭、イエス様がよみがえられた事を喜び記念する日である。私達には死というものがあり、それに縛られているが、それは私達の主イエス様によって打ち破られる。イエス様が再び来られる時、最後の敵である死も滅ぼされる(1コリ15:26)。本日は死に勝利しよみがえられたイエス様の喜びを分かちたい。

「さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。」
彼女達が墓に行った理由は、イエス様のよみがえりを真っ先に見たいからではなく、イエス様の遺体に防腐措置を施すためだった。祭司長達はイエス様が「よみがえる」と言っていた事を思い出し、番兵を遣わしたが、それは、生き返ったイエス様を再び殺すためではなく、遺体が盗まれないようにするためだった。
イエス様自身はあらかじめ、死とよみがえりを伝えていたけれど、誰一人、信じ続けた人はいなかった。イエス様は十字架上で息をひきとり、槍で突かれても何の反応もなく、完全に死体となって葬られたからだ。
しかし、である。安息日が終わった日曜日の明け方、大きな地震が起こり、主の使いが下って来て、墓を塞いでいた石をわきへころがし、その上に座った。『その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。』
この番兵達は、弟子達が「復活した」という”嘘”を広めないようにするために配置されたはずが、彼らは逆に、イエス様の”復活の真実”の目撃者となった。全て、逆効果になるのだ。イエス様に、いのちに、真理に敵対する全てのたくらみは。イエス様にあって、死はいのちに飲まれ、偽りは真理へ塗り替えられるのだ。
『この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。』 この「恐れるな」という言葉は、主を信じる私達にもかけてもらえる、希望の言葉である。番兵達は倒れて死人のようになったのに、彼女達はそうならなかったのは、彼女達が番兵より屈強だという事ではない。どんな屈強な者も、権威ある者も、栄光の主の前に立てる者はいない。ただ、主を愛し、慕い求める者達をこそ、主は愛し、好意を注ぎ、守られるのだ。
「もうここにはおられない。かねて言われた通りに、よみがえられたのである。」 イエス様は「死」に納まっているお方ではなく、死を打ち破り、永遠に生きるお方である。イエス様を信じる人も皆、死んでも生きるのだ。
御使いは彼女達に、弟子達にこの事を伝えなさい、と言った。弟子達はイエス様を見捨てて逃げてしまったが、主はそんな弱い彼らをも、全世界に、主の復活を証する証人として、召し出して下さるのだ。
彼女達は恐ろしくはあったけど喜んで行った。主の働き人は、恐ろしくはあっても喜ばしい大いなる体験をするものだ。信じられない程偉大なお方から、目を留められ、気にかけているためだ。
「すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われた」 今度はイエス様が直接、彼女達に現れて下さった。彼女達は、主が十字架を負ってゴルゴダの丘へ行く道も泣きながらついて来たし、イエス様が死んで、葬られて、もう希望が無いと思っても、それでも夜が明ける前からイエス様の所に来た。
そういう人こそ、主が直接会って下さり、声をかけて下さるのだ。主の好意を得られる人とは、主の言葉を100%信じ切れなくても、弱くても、それでも「主を慕う人」である。しかし、主が王である事を頑固に拒否し、自分が王であろうとし続ける者は、やがて、主が栄光の内に来られる時、山や岩に向かって「私たちの上に倒れて、かくまってくれ」と言うようになる。(ルカ23:30、黙6:16)

さて、番兵達は一切の出来事を祭司長達に話した。すると彼らは集まって協議をこらし、彼らに沢山の金を与え、 「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。」と言った。
祭司長達は番兵達の言葉を、信じたのだ。そうでないなら、弟子達が女達の言葉を「戯れ言」と思って取り合わなかったように、兵士達の言葉を取り合わなかっただろう。しかし彼らは大金を積んで口を封じたのだ。
イエス様の十字架と復活が目の前の置かれる時、二通りの道が分かれる。イエス様の復活を、権威や金で揉み消そうとする側と、イエス様の復活を喜んで受け入れ、イエス様と共に永遠のいのちを受ける側と。
人がいかにイエス様の復活をもみ消そうとしても、また、いのちを抹殺しようとしても、いのちが勝利する。
私達は、主イエス様にあって、死は問題ではなくなる。なぜなら、私達の主イエス様が死に勝利したから。
そしてやがて、最後の敵である「死」は滅ぼされ、死とハデスとは永遠の火へ投げ込まれる。しかし、嘘や不正という「死」と同盟を結んで(イザヤ28:14-19)、王の王である主イエスを拒否する者は、やがて、その死もろとも永遠の火へと投げ込まれる。私達は復活の主を期待し待ち望みつつ、この世を歩む者でありたい。

金曜徹夜祈祷会 受難礼拝
(マタイ27:33-56, 詩篇22篇、マルコ15:22-41、イザヤ52:13-53章、ルカ23:33-49、出エジプト記12:3-14、ヨハネ19:23-30、黙示録5:1-14)
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