メッセージ - 201702のエントリ

邪悪な女を迎え入れて以来、災い続きのイスラエル(2列王記8:16-29)
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8:16 イスラエルの王アハブの子ヨラムの第五年に、ユダの王ヨシャパテの子ヨラムが位についた。
8:17 彼は王となったとき三十二歳で、八年の間エルサレムで世を治めた。
8:18 彼はアハブの家がしたようにイスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻であったからである。彼は主の目の前に悪をおこなったが、
8:19 主はしもべダビデのためにユダを滅ぼすことを好まれなかった。すなわち主は彼とその子孫に常にともしびを与えると、彼に約束されたからである。

ヨシャパテは素晴らしい信仰の持ち主であったのに、悪と手を組んでしまったゆえに、イスラエルに災いをもたらしてしまう。

彼は自分の息子の嫁として、アハブとイゼベルの間に生まれた娘、アタルヤを迎え、息子に嫁がせてしまった。これが後に、イスラエルにとんでもない災いをもたらしてしまう。

このアタルヤは、後に、ダビデの子孫を根絶やしにしようと、一人を除いて皆殺しにしてしまう。そして彼女自ら女王となって、暫くイスラエルを治める事になる。

とにかくこの時点、彼女は、夫であるヨラム王をそそのかし、主の目に悪と見られる事を行い、また彼女の息子も悪の道に歩むように育ててしまう。

8:18 彼はアハブの家がしたようにイスラエルの王たちの道に歩んだ。

イスラエルの王達の道、それは偶像礼拝の道であるが、異邦の女をめとった事によって自分の国に災いをもたらしてしまった、という点でも同じであろう。

神の宮と偶像とに、何の一致も無いはず。友達づきあいが悪ければ本人も悪くなり、ひとつとなるべき伴侶が悪いと、自分自身のみならず自分の子々孫々に至るまで災いをもたらしてしまうのである。

 

8:20 ヨラムの世にエドムがそむいてユダの支配を脱し、みずから王を立てたので、
8:21 ヨラムはすべての戦車を従えてザイルにわたって行き、その戦車の指揮官たちと共に、夜のうちに立ちあがって、彼を包囲しているエドムびとを撃った。しかしヨラムの軍隊は天幕に逃げ帰った。
8:22 エドムはこのようにそむいてユダの支配を脱し、今日に至っている。リブナもまた同時にそむいた。

主から離れると、自分自身から権威がなくなり、自分の配下にいた者が力を持つようになり、敵が力を持つようになる。事は、申命記28章に書いてある通りである。

8:23 ヨラムのその他の事績および彼がしたすべての事は、ユダの歴代志の書にしるされているではないか。
8:24 ヨラムはその先祖たちと共に眠って、ダビデの町にその先祖たちと共に葬られ、その子アハジヤが代って王となった。
8:25 イスラエルの王アハブの子ヨラムの第十二年にユダの王ヨラムの子アハジヤが位についた。
8:26 アハジヤは王となったとき二十二歳で、エルサレムで一年世を治めた。その母は名をアタリヤと言って、イスラエルの王オムリの孫娘であった。
8:27 アハジヤはまたアハブの家の道に歩み、アハブの家がしたように主の目の前に悪をおこなった。彼はアハブの家の婿であったからである。

ヨラムの子アハズヤの治世は、わずか一年であった。主を敬わない世代がはびこりその勢いを増し加えようとするなら、主が許されない。なぜなら、主は主を敬わず偶像に走る者には呪いを3第4代に、しかし主を恐れ敬う者には恵みを千代に施されるお方だからである。

この時、南ユダ王国は、ただ主のダビデに対する恵みの故に首がつながっている状態だった。

8:28 彼はアハブの子ヨラムと共に行って、スリヤの王ハザエルとラモテ・ギレアデで戦ったが、スリヤびとらはヨラムに傷を負わせた。
8:29 ヨラム王はそのスリヤの王ハザエルと戦うときにラマでスリヤびとに負わされた傷をいやすため、エズレルに帰ったが、ユダの王ヨラムの子アハジヤはアハブの子ヨラムが病んでいたので、エズレルに下って彼をおとずれた。

ユダの王アハズヤが北イスラエル王国に下っていったのは、主が懲らしめの杖を振り下ろすためである。主は、立ち返らせようとして、懲らしめを送られる事があるが、それは正しい道に立ち返らせるためである。

結局、南ユダ王国は、このイゼベルの娘、異邦の女を王家の嫁として迎えてしまって以来、ただ災いにつぐ災いの時代に突入してしまう。北イスラエル王国も、イゼベルを迎えて以来、そうだった。ノアの洪水も、神を知らない女との結婚が原因でもたらされてしまった。ソロモンも、そうだった。

彼らがもたらした偶像礼拝は、その後ずっとイスラエルの歴史に尾を引き、ついにはバビロン捕囚の憂き目に遭ってしまった。それでも主の憐みにより、70年の後に帰って来たというのに、すぐまた異邦の女をめとって、同じ過ちを繰り返しそうになった。そこをエズラが改革を断行し、異邦の女や御言葉を知らない子供を国から追い出した。それは身を切るような辛さであったろうが、そこから暫くの平和な時代が始まった。
主は、私達が滅びに至らないよう、「災い」という囲いを用意して、祝福への門を開いておられる。

私達は本当に、結婚したり連合したりすべき相手には気をつけるべきである。

「ですから」あなたがたの労苦が無駄になることはない(1コリント15:58)
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週報/メッセージ(説教)概要

 先週のコーエン大学日本公開セミナーは沢山の恵みの内に終った。今回は、コーエン大学設立総長のカン・シンゴン博士も忙しい間を縫って来られ、水曜夜の集会ではメッセージもされた。カン先生は今まで多大な労苦と責任を負って来られたが、彼が今に至るまで支えとなって来た言葉が、本日の御言葉である。
『だから(ὥστε(ホステー)、愛する兄弟達よ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦(κόπος:コポス)がむだになることはない…。』(1コリント15:58)

この御言葉は、接続詞「ὥστε(ホステー:ですから、そういうわけで、therefore)」で始まる。これは、直前までの物事を束ね、「そういうわけで」こうなる、と、後に続ける言葉である。物事には原因と結果があり、その両者を「ホステー」が繋げる。今の私達は、良しにつけ悪しきにつけ過去に成した一つ一つの「原因」を積み上げた結果がある。そして、今私達が為す一つ一つの行いは、将来生み出される結果の「原因」となる。
だから、1コリント15章の最後の節の「ですから」は、1節から57節までを包括し、58節に繋げているのだ。
第一コリント15章といえば、復活と希望の章である。人は死んだら終わりではない。死んだ後、必ずよみがえらされ、そしてそれぞれのの行いに応じて審判を受ける。天国も、地獄も、確実に存在する。
パウロは、次の事を「最もたいせつな事」としている(3節)。すなわち、キリストは私達の罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられ、ケパに現れ、それから12弟子にもあらわれ、そして最後に、最も小さなこの自分にも現れて下さり、そして、神の恵みによって今のわたしになった(3-11)。これは私達にも同じである。
「ですから」、固く立って主のわざに励む必要がある。そして、その労は一つも無駄に落ちる事は無い。
主にあって労苦した事(コポス)は、決して無駄になる事は無い。キリストに敵対する世の諸々の事柄が、群れをなして、自分へと襲いかかって来た時。あの時流した汗や涙も、主にあって忍耐し続けた一瞬一瞬も、決して無駄に落ちる事は、無い。「ですから」今、目の前に置かれた善を行う事に、疲れてはならない。
たゆまないで働いているなら、時が来れば、必ず刈り取るようになるからだ(ガラテヤ6:7−9)。
「ですから」、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい、とパウロは続ける。海がどんな暗くても、灯台の光を目指し、進み続けるなら、必ず目的の港に入る事が出来るように、キリスト者にはそれぞれ、暗闇に輝く灯台のような、目指して行くべき御言葉が必要である。もし、そのキリスト者に、それを「見続ける力」があり、それに向かって「進んで行く事を止めない」なら、必ず主の栄光の領域へと到達して報われる。

「ここに、聖徒たちの忍耐(ヒュポモネー)と信仰とがある。」(黙示録13:10) この忍耐(ヒュポモネー)は、農夫が、「下に(ヒュポ)」+「ひざまづいて(モネー)」、蒔いた種の実りを待つものであり、「嫌々ながら」のような消極的な色合いは無く、むしろ希望をもって楽しみに待つような、積極的な色合いのある言葉である。
忍耐と希望は、必ずセットである。ヘブライ思考的には、「希望」には、未来を目の前の今へと引っ張る力のあるものとしている。だから、種を蒔いたら「5年後には、もしかしたら実がなるかなあ?」ではない。
蒔いたら、5年後には実がなって、喜んで刈り入れをし、おいしく味わって食べている事を、「今日のように見て待つ」のだ。時間を先取りし、引っ張てきて、今ここにあるかのように見えるから、期待して待てるのだ。
信仰とは、見えないことの「保証」である。未来に起きるか起きないか定かでないような、おぼろげな事柄ではなく、未来に確実にある事柄を、まだ見てはいないけれども今、手元に引っ張って来る事なのだ。
それは、預金通帳に何千億円も入っていると記帳されている事に似ている。もしそうなら、日々食べる事について心配する必要は無いし、ビルを購入する事にさえも、何の躊躇もいらない。同じように「御言葉」の明細を見るなら、私達は何を食べようか何を着ようかと心配する必要は一切ないはずであり、その富を引き出すために、「信仰」という印鑑を持って、「行い」という銀行へ足を運んで行くのみである。
世の銀行、世のマネーは、何百年後には破綻しているとしても、神の言葉は、永遠に破綻しないからだ。
原因には、必ず結果がつきまとう。それは、良しにつけ、悪しきにつけ。労苦(コポス)には必ず良い報酬が返って来るのと同じように、労苦の逆である「なまける事」にも、必ず悪い報酬が返って来る。
「ですから」主が与えて下さる莫大な報いが将来に待っている事を、あたかも今、それを受けているかのように望み見、喜んで、今日与えられている一つ一つの事を、気落ちする事なく、希望をもって成していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

暗闇の地に照り渡る光(イザヤ9:1-7)
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私たちが食べる御言葉の性質(出エジプト記16:15-21)
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御言葉を食べて養いを受けなさい(黙示録10:8-11)
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キリスト・イエスのりっぱな兵士として(2テモテ2:1-7)
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ヘブライ思考とは(ローマ12:1-2)
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週報/メッセージ(説教)概要

 明日よりコーエン大学日本公開セミナーが始まる。今回はコーエン大学設立総長のカン・シンゴン博士も教鞭を執られる。そこで今日、講義に先んじて、博士が繰り返し強調して来られた「ヘブルシンキング」と、ユダヤ的聖書へのアプローチ方法を学びたい。まず前提知識として知っておかなくてはならないのは、「ヘブライ思考」と、それと対極に位置する「ギリシア思考(ヘレニズム思考)」の概念と性質である。

ユダヤ人は代々「ヘブライ思考」で生き、聖書もヘブライ思考に基いて読まれて来たが、聖書執筆時代以降のキリスト教会は「ギリシア思考」によって歩み、福音に混ぜ物がされ、分裂の歴史を辿ってしまった。
ヘブライ思考の一番の特徴は、「神中心」である。対し、ギリシア思考は「人間中心」である。ユダヤ人は神を価値の最高位に位置づけ、自分を神の御言葉へと合わせて生きるが、対してギリシア思考では、人が構築した論理や科学を土台とし、あるいは神とキリストを除外した宗教や、無神論や汎神論を台頭させた。
第二のヘブライ思考の特徴は「関係中心」であり、神との関係・親子関係・共同体との関係を重視する。
ユダヤでは、「父と子」という深い関係が、神に、親に、共同体に対してある。対しギリシア思考は「個人主義」であり、親子関係・社会関係は崩壊し、孤立、引き籠もりが起こり、人を破壊行為や自殺へ追い込む。
第三のヘブライ思考の特徴は「直感的思考」だが、対してギリシア思考は「理知的・論理的思考」で「納得」を求める。ギリシア思考が聖書を理知的に分類し、分析して考察した結果、キリスト教会は幾つも分裂したが、対してユダヤ人は2500年も離散していたのに、1948年に帰還すると、いとも簡単に一致できた。それは彼らは聖書に自分の解釈を交えず、ただ繰り返し読んで、暗記し、直感的に体得していたからだ。
第四のヘブライ思考の特徴は「動的思考」である。ヘブライ語は動詞中心の原語である。ヘブライ語動詞は、基本的に三つの文字からなる「語根」で成っており、その語根の前後に他の語を付与する事によって、様々な意味へと変化する。ユダヤ人は、御言葉は生きているものとして動的に解釈し、同じ御言葉でも朝ごとに新しいが、対してギリシヤ思考は「静的思考」で、対象を分析・分類し、標本箱の中へ磔にして納めたら、もう動かさない。一つの御言葉に「これこれの解釈」と決め付けたなら、それ以外を排斥するのだ。
第五のヘブライ思考の特徴は「意味中心」である。ヘブライ語は人の名前にも地名にも、そして一字一句にさえ、全てに意味がある。それは昨年12月にベレシートを学んだ時によく味わった。文字と文字が組み合わさて意味が生まれ、個々の意味に配置された神の秩序の完全さに人は感動し、喜びを覚えるのである。ギリシア思考は一見、意味を追求しているように見えても、行き着く先は「無意味」である。

以上、5つの組み合わせを、カン博士は「ヘブライ思考のエバディング(embodying:具現、体現)」と呼んでいる。そして、ヘブルシンキングによる聖書へのアプローチは、3つの核によって成り立つ。
一つ目は「統全(wholeness)」と言う。これは全体を一つとして見る事である。つまり、聖書を開く時にはまず全体を見る。一語一語を細かく分析せず、分からなくても、まず最後までそのまま読むのだ。
二つ目の核は「統合(unity)」、すなわち異なる幾つかの断片を一つに集め調和させる事である。聖書は律法や預言、詩歌など異なる断片の集合だが、一つ一つを別者としてではなく調和したものとして捉える。
そして三つ目の核が「統摂(consilience)」で、それは、複数の個々は互いに溶け合い、第三の新しいものを生み出す事(シナジー)である。「統合」は個々が調和していても互いに別者だったが、「統摂」は、個々はもはや無くなり、別の新創造が生まれるのだ。元々、consilienceの原意は、異なる二つのものが互いに手を取り合って境界線を飛び越え、新しい領域に着地する「ジャンピング・トゥゲザー」の意味である。
以上のように、聖書全体を行ったり来たりして部分部分を集め、互いを融合し、自分自身に融合させる事によって、全く新しいいのちが生まれるのである。例えば「贖い」という言葉は、聖書の一箇所だけ見ても分からないが、創世記やレビ記、ルツ記など、あちらこちらを行ったり来たりする内に、神の意図が感覚的に分かって来て、自分自身の人生に組み込まれた「贖い」を感じ、感動し、自分のものとなって行くのだ。
『あなたがたの「からだ(ソーマ:霊・魂・肢体の全集合体)」を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1) 自分を主張するのでなく、自分自身の全てを生きた供え物として御言葉へ混ぜあわせる事、これが私たちの為すべき礼拝である。
ギリシア思考は捨て、ただ御言葉を自分と混ぜあわせ、真理の喜びが沸き起こる皆さんでありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
聖書に見る「ことば」のバタフライ現象(マタイ12:35-37)
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邪悪な者達が災いを受ける時代の中にあっても主に守られる聖徒達(2列王記8:1-6)
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2列王記8:1 エリシャはかつて、その子を生きかえらせてやった女に言ったことがある。「あなたは、ここを立って、あなたの家族と共に行き、寄留しようと思う所に寄留しなさい。主がききんを呼び下されたので、七年の間それがこの地に臨むから」。

イスラエルになぜききんが起きるか。それは主を畏れ敬わない王達およびその臣下たちだからである。主はエリシャを通して、数々の国を揺るがすような危機も、そして憐れみの奇跡をも起こされたのに、その時代は主を敬うという事をしなかった。

しかし主は、そんな時代でも、主を畏れ敬う心を持っている人には、飢えないように、また、その持ち物が一切奪われる事のないようにされる。

かつて子を生き返らせてもらったこの女は、主の預言者の言うことをそのまま聞き従う従順があった。果たして私達は、これからききんがあるから外国に行って住みなさい、という主からの一言に、すぐに従順できるだろうか。

エリシャは「寄留しようと思う所に寄留しなさい」と言ったが、主は、主を畏れ敬う人が行く所のききんを留める事も可能なお方である。

彼女は預言者から言われ、すぐに立ったので、その災いを免れた。イエス様の育ての親ヨセフも、御使いからエジプトへ逃げなさいと警告を受けた時、すぐに乳児を抱えた妻と共にエジプトへ行く信仰があったからこそ、彼はイエス様の育ての親として選ばれたのだ。

 

8:2 そこで女は立って神の人の言葉のようにし、その家族と共に行ってペリシテびとの地に七年寄留した。
8:3 七年たって後、女はペリシテびとの地から帰ってきて、自分の家と畑のために王に訴えようと出ていった。

7年間家を明けていたら、その家と畑はどうやら国のものになっていたようである。彼女は訴えなくてはならなかった。

8:4 時に王は神の人のしもべゲハジにむかって「エリシャがしたもろもろの大きな事をわたしに話してください」と言って、彼と物語っていた。

ゲハジはこの時らい病にかかっていたはずだが、それでも王は、エリシャの成したことを彼から聞きたがった。

王は、エリシャが成した大きな事は聞きたがっても、主がなさる大きな事は認めようとしかった。どの時代でもいるが、偉大な預言者や魔術師の為す不思議は見たがっても、主を畏れ敬う心なく、ただしるしだけを求める者には、主は、悔い改めを促す災いしか起こされない。

王にその思いを起こしたのは、主であった。王の心にこの思いが起こったタイミングは、かの女にとって非常に良いタイミングだった。

 

8:5 すなわちエリシャが死人を生きかえらせた事を、ゲハジが王と物語っていたとき、その子を生きかえらせてもらった女が、自分の家と畑のために王に訴えてきたので、ゲハジは言った、「わが主、王よ、これがその女です。またこれがその子で、エリシャが生きかえらせたのです」。8:6 王がその女に尋ねると、彼女は王に話したので、王は彼女のためにひとりの役人に命じて言った、「すべて彼女に属する物、ならびに彼女がこの地を去った日から今までのその畑の産物をことごとく彼女に返しなさい」。

このように、王の所管となっていた土地が返された。

主は、主を敬う人々には、ききんの時代でも、また、王が好き勝手に土地を取り上げるような時代であっても、主の御言葉に聞き従って歩む者にはこのように助ける事のできるお方である。それは、どの時代でもそうである。

エリヤの時代も、そうだった。

1列王記17:15 彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。
17:16 主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。

そして現代、終末の困難な時代においても、主の御言葉を忍耐して守り行う人には、主は全世界に臨もうとしている試練の時代でも主に守られる保証があるのだ。

黙示録3:8 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。3:9 見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。3:10 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。

ルカによる福音書 講解説教メッセージ
主の法則の発動方法:自分を下ろし御言葉に従う(ルカ1:57-80)
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