メッセージ - 201702のエントリ

汚れたものを除き去れ(2列王記10:1-17)
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10:1 アハブはサマリヤに七十人の子供があった。エヒウは手紙をしたためてサマリヤに送り、町のつかさたちと、長老たちと、アハブの子供の守役たちとに伝えて言った、
10:2 「あなたがたの主君の子供たちがあなたがたと共におり、また戦車も馬も、堅固な町も武器もあるのだから、この手紙があなたがたのもとに届いたならば、すぐ、
10:3 あなたがたは主君の子供たちのうち最もすぐれた、最も適当な者を選んで、その父の位にすえ、主君の家のために戦いなさい」。

エフーは首都サマリヤの主だった人達に、挑戦状を叩きつけた。
首都サマリヤにはアハブの子70人がおり、城壁も武器も、戦車や馬もあり、人材も物資も豊富にあったにもかかわらず。
とても大胆である。彼は主の御旨に適った道から外れないままでいるなら、向かう所敵なしである事をよく知っていたのだ。

10:4 彼らは大いに恐れて言った、「ふたりの王たちがすでに彼に当ることができなかったのに、われわれがどうして当ることができよう」。
10:5 そこで宮廷のつかさ、町のつかさ、長老たちと守役たちはエヒウに人をつかわして言った、「わたしたちは、あなたのしもべです。すべてあなたが命じられる事をいたします。わたしたちは王を立てることを好みません。あなたがよいと思われることをしてください」。

大きな恐れが、サマリヤに臨んだ。主を畏れ敬う者に対しては、周りの敵は恐れおののき、その人に従うようになる事はモーセの時代から告げられていた事である。
申命記28:7 敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去るであろう。
28:8 主は命じて祝福をあなたの倉と、あなたの手のすべてのわざにくだし、あなたの神、主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。
28:9 もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。
28:10 そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。

実際、ヨシュアの時代のイスラエルは、向かう所敵なしだった。
イスラエルは元々、彼の先祖は長らく奴隷で、そこから急いで出てきたので、武器も無かった。対するカナンは弱肉強食の中で鍛えられた人々だった。
明らかに不利だったにもかかわらず、ヨシュア達が勝利に勝利を重ねた理由は、彼らは、主の言葉どおり行ったからである。
主が「行け」と言われたから行き、「滅ぼせ」と言われたから、たとえ強い敵でも滅ぼし尽くした事が出来たのだ。

10:6 そこでエヒウは再び彼らに手紙を書き送って言った、「もしあなたがたが、わたしに味方し、わたしに従おうとするならば、あなたがたの主君の子供たちの首を取って、あすの今ごろエズレルにいるわたしのもとに持ってきなさい」。そのころ、王の子供たち七十人は彼らを育てていた町のおもだった人々と共にいた。
10:7 彼らはその手紙を受け取ると、王の子供たちを捕えて、その七十人をことごとく殺し、その首をかごにつめて、エズレルにいるエヒウのもとに送った。
10:8 使者が来て、エヒウに告げ、「人々が王の子供たちの首を持ってきました」と言うと、「あくる朝までそれを門の入口に、ふた山に積んでおけ」と言った。

主がエフーに油を注がれた時、主は確かにアハブの家に属する者共は殺せ、と言った。(9:7-8)
しかし、首を翌朝まで晒しておく行いは残虐である。

私達は、主の御声に聞き従う事は学ぶべきだが、残虐さは学ぶべきではない。
私達の中に、主に喜ばれない邪悪な、みだらな思いや行動パターンがあるとするなら、それは徹底的に滅ぼし尽くす事を、学ぶべきである。

10:9 朝になると、彼は出て行って立ち、すべての民に言った、「あなたがたは正しい。主君にそむいて彼を殺したのはわたしです。しかしこのすべての者どもを殺したのはだれですか。
10:10 これであなたがたは、主がアハブの家について告げられた主の言葉は一つも地に落ちないことを知りなさい。主は、そのしもべエリヤによってお告げになった事をなし遂げられたのです」。
10:11 こうしてエヒウは、アハブの家に属する者でエズレルに残っている者をことごとく殺し、またそのすべてのおもだった者、その親しい者およびその祭司たちを殺して、彼に属する者はひとりも残さなかった。

こうして主がエリヤの時代から言われていた御言葉は成就し、アハブの家に属する者はことごとく滅ぼされた。
アハブはエリヤの言葉を聞いた時、主の前にへりくだりを見せた故にアハブの時代に滅ぼされる事はなかったが、その子の代になっても悔い改める事なく、悪の道に歩んだ。だから滅ぼされてしまったのだ。
もし、悔い改めて主に立ち帰っていたなら、主は、災いは思い直される。

10:15 エヒウはそこを立って行ったが、自分を迎えにきたレカブの子ヨナダブに会ったので、彼にあいさつして、「あなたの心は、わたしがあなたに対するように真実ですか」と言うと、ヨナダブは「真実です」と答えた。するとエヒウは「それならば、あなたの手をわたしに伸べなさい」と言ったので、その手を伸べると、彼を引いて自分の車に上らせ、
10:16 「わたしと一緒にきて、わたしが主に熱心なのを見なさい」と言った。そして彼を自分の車に乗せ、
10:17 サマリヤへ行って、アハブに属する者で、サマリヤに残っている者をことごとく殺して、その一族を滅ぼした。主がエリヤにお告げになった言葉のとおりである。
ここにレカブの子ヨナダブという人物が出てくる。
彼の名はずっと後、エレミヤの時代に登場する。その子孫たちは、レカブの子ヨナダブの言葉をずっと守り続けて来たのだ。

エレミヤ35:5 わたしはレカブびとの前に酒を満たしたつぼと杯を置き、彼らに、「酒を飲みなさい」と言ったが、
 35:6 彼らは答えた、「われわれは酒を飲みません。それは、レカブの子であるわれわれの先祖ヨナダブがわれわれに命じて、『あなたがたとあなたがたの子孫はいつまでも酒を飲んではならない。
35:7 また家を建てず、種をまかず、またぶどう畑を植えてはならない。またこれを所有してはならない。あなたがたは生きながらえる間は幕屋に住んでいなさい。そうするならば、あなたがたはその宿っている地に長く生きることができると言ったからです』。
35:8 こうしてわれわれは、レカブの子であるわれわれの先祖ヨナダブがすべて命じた言葉に従って、われわれも、妻も、むすこ娘も生きながらえる間、酒を飲まず、
35:9 住む家を建てず、ぶどう畑も畑も種も持たないで、
35:10 幕屋に住み、すべてわれわれの先祖ヨナダブがわれわれに命じたところに従い、そのように行いました。

彼らは酒を飲まず、定住する家や畑を持たずに、悪い時代の中にあっても時代に染まらず、ずっと自らをきよく保ち続けてきた。
それで、彼らは主の好意を得た。
エレミヤ 35:18 ところでエレミヤはレカブびとの家の人々に言った、「万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、あなたがたは先祖ヨナダブの命に従い、そのすべての戒めを守り、彼があなたがたに命じた事を行った。
35:19 それゆえ、万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも欠けることはない」。

エフーの子孫は4代しか続かなかったが、ヨナダブの子孫はずっと続いた。それは、悪い時代であったとしてもずっと純潔を守ってきたからだ。
私達もこの邪悪な時代に染まる事なく、主に対する純潔を保ち、主から覚えられ守られる者でありたい。

羊の門であり良き羊飼いであられるイエス様(ヨハネ10:1-18)
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10:1 よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。
10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。
10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。

ユダヤの羊の囲いは石垣でできており、その囲いのてっぺんには、いばらという棘のついた草が置かれて、羊が乗り越えて行かないように、そして、狼など獰猛な動物が入って来れないようにしてある。

主が与えて下さった律法は私達にとって囲いとなり、守りとなっている。(ローマ2:14)

だからある人が律法の良い行いをするなら、その良い行いがその人にとってガードとなり、祝福の元となる。しかし、律法すなわち御言葉を乗り越えて来る者は、キリストからではなく悪魔サタンに由来する者である。悪魔サタンの性質は、創世記のはじめから、御言葉を乗り越える事である。

10:4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
10:5 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。
10:6 イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。

羊達は、自分の主人の声を聞き分け、それについて行くものである。それは羊は普段から主人の声を聞いているからだ。

この声は主から来たものなのか、それとも悪魔から来たものなのかが、分からないという人は、普段から主の声を聞いていないからである。聖書の言葉は、まごうことなき主の御言葉である。私達は本物を見極めるために、普段から御言葉を読み、思い巡らし、それを口ずさみ、暗記して行くべきなのだ。

 

10:7 そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。

イエス様は、門である。

1:51 また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。

イエス様はご自身の上に御使いた上り下りするのを見る、と言われたが、それはイスラエル民族の先祖ヤコブが実家にいられなくなって逃げ出した時、石を枕にして見た夢と一致している。

創世記 28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
 28:17 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。 28:18 ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで
 28:19 その所の名をベテルと名づけた。

イエス様は「ともにおられる主(インマヌエル)」であり、天と地をつなぐ門であり、まことの岩であり、油注がれたお方である。イエス様は、神の家の主人である。ヤコブはイエス様のご性質を見たのだ。そして、いつもともにおられる主に、かれは油を注いだのだ。

今、私達の主人は、イエス様である。彼こそ門であり、インマヌエルなるお方であり、私達の岩であり、油注がれた者(キリスト)である。

10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。

よい羊飼いは、羊のために「いのち(プシュケー)」を捨てる。プシュケーとは心理学サイコロジーの元となった言葉であり、「心(思い、意志、感情)」の事である。良い牧者は、羊のために自分の思い、意志、感情を捨てるものである。しかし雇い人は、自分がかわいさに羊を放置する。

牧者たる者は、そして私達一人一人は、主にあって良い牧者となる事を目指し、自分の思い、意志、感情を捨てて主から任された羊の面倒を見るべきなのだ。

 

10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。

イエス様は私達を知っておられ、そして私達もイエス様を知っている。イエス様は、私達のために身代わりとなって命を捨てられた。そのイエス様を愛し、ついて行くのだ。この事は、2000年前の弟子たちや聖徒達にのみ語られた事ではない。その証拠にイエス様は次のように言っている。

10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
10:17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
10:18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。

今、2017年を生きる私達も、紀元30年を生きる彼らも、ともに同じ囲いに属し、同じ一人の羊飼いを主としている。この主こそ私達をまことに永遠のいのちへと導く羊飼いであり、天国に唯一通じる門であり、やがて私達は天において彼らとともに永遠の憩いに入るのだ。

主はわたしの羊飼い - ジェホバ・ロイ(詩篇23:1)
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週報/メッセージ(説教)概要

 ある人達は、聖書を歴史の資料として見、ある人は架空の神話として見ている。私達は、聖書をどのように見なすだろう。もし、歴史の資料や架空の神話として見るなら、聖書は現代の私達と何の関係も無い。
今、神は生きておられ、実際的に今の私達と交わり、そして私達は、この神によって永遠の御国へと伴われる。それは、科学的な裏付けによって納得するものではなく、自身の信仰によって獲得するものである。
聖書を読む時、その時の時代背景やその状況(Then and there)を調べる事は、確かに重要である。しかしそのままでは、聖書を客観的に、自分とのつながり無しに見ているに過ぎない。私達はさらに、御言葉は今、ここで(Now and here)、自分に、何を語っておられるのか。今の私たちに適用させる事こそ必要である。
ユダヤ人達は賛美や祈りを通して、神と密接な交わりを持っており、その賛美や祈りを5巻150篇にまとめたものが「詩篇」(テヒリーム)である。詩篇は五巻に分かれており、それぞれがモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に対応している。すなわち、第一巻1−41篇は「創造と人間」の事柄が記されており、第二巻42−72篇には「解放と贖い」が、第三巻73−89篇には「聖所と礼拝」が、第四巻には「さまよいと苦難」が、そして第五巻107−150篇には「律法と祝福」について記されている。
詩篇は無意味に集められた詩集ではない。世界中に散らばった詩を、千年の年月をかけて集め、モーセ五書と合うように編纂し、これを用いて、礼拝でも日常でも賛美と祈りを通して神と交わっているのだ。
私達も、イエス・キリストを信じる信仰によって神の民とされたからには、彼らのように、御言葉は真実であるという信仰をもって宣言し、祈りと賛美によって神と交わるのだ。

詩篇は、様々な時代・様々な人の詩が集められているが、その多くは、ダビデの作である。ダビデは偉大な信仰者であったが、諸々の罪も犯した。それでも彼が神に愛されたのは、彼自身いつも主と交わり、罪を指摘されたらすぐに悔い改め、喜びの時には大いに主を賛美する、その「信仰告白」の故である。
口で自分の信仰を告白する事、それは、救いを引き出すために必須の手続きである。(ローマ10:10)
神は全部をご存知で、全知全能ならば、わたしに必要なものを全部、そのままくれればいいのに、と考える人はいるが、その考えでは、神から何も引き出す事は出来ない。預金口座から引き出すにはハンコが必要なように、私達の側の信仰告白こそ、主から全能の救いを引き出すために必要な私達のハンコなのだ。
ダビデの作った詩篇23篇の中には、「主はどのようなお方であるのか」という、彼自身の信仰告白が、詰まりに詰まっている。聖書全体には、主の呼び名が81種類も登場する(ジェホバ・ジレ、ジェホバ・シャンマ等)が、その81を集約して代表する「8種類の呼び名」が、詩篇23篇の1−5節の中に隠されている。
詩篇23篇でダビデが真っ先に告白した内容は、「主はわたしの牧者(ジェホバ・ロイ)であって、わたしには乏しいことがない。」(詩篇23篇1節) である。ジェホバ・ロイ。「ロイ」には、導いて下さる、保護して下さる、祝福して下さる、一緒に伴われる(インマヌエル)の意味が含まれている。
ダビデは、彼自身が歩んできた道のりを振り返り、その歩みの中で、ずっと一緒に歩んで下さった主の足跡を見て、主はどんなお方であったのか、その思い想いを練り込めて、この詩篇23篇に凝縮し収めたのだ。
繰り返すが、聖書は私達と関わりのない書物ではなく、今、日常の一瞬一瞬において密接に関わりのある、神のことばである。神は遠い神ではなく近い神であり、私達を永遠の救いへと導くために、いつも共に歩き、守り導いて下さる、愛なる神、憐れみ深い神、恵み深く、赦しに富みたもう神である。

主は、私達の羊飼い。羊は、羊飼いが先頭に立つまで動かない。羊に力あるかないかも、個性があるか無いかも関係なく、ただ、羊飼いが先頭になった時に羊はその後をついていき、羊飼いは、羊たちを緑の牧場へと導いて憩わせ、水のほとりへと導いて潤してくれる。ダビデはこの神との密接な関わりを宣言するために、主を「羊飼い」という名で呼び、自分を、その羊とした。
主の御名(ベッシェム・ヤウェ)を呼ぶ時、力が発生する。主は、ご自分の「名」を呼ぶ人に関わりを持ってくださる。ダビデは主を「羊飼い」と宣言し、主の「導いて下さる」というご性質を、いつも引き出していたのだ。
羊飼いなる主。私達がどんな状況にあろうとも、私達もジェホバ・ロイの名を信仰をもって宣言する時、主が「私の」羊飼いとして、緑の牧場へと、憩いの水のほとりへと導いて下さる。信仰をもって主の御名を呼び、主の力をいつでも引き出す皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
ジェホバ・ジレ - 全てを備えて下さる主(ヨハネ21:1-13)
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ことごとく主に逆らって来たイゼベルの悲惨な最後(2列王記9:30-37)
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9:30 エヒウがエズレルにきた時、イゼベルはそれを聞いて、その目を塗り、髪を飾って窓から望み見たが、
9:31 エヒウが門にはいってきたので、「主君を殺したジムリよ、無事ですか」と言った。

主に背いていた二人の王を滅ぼしたエフーは、イゼベルのいるイズレエルの塔のような高い建物へと来た。イゼベルはエフーを前にへりくだるのではなく、外見を着飾って高いところから見下ろし、「主君を殺したジムリ」と呼んだ。

高い所に立ち、身を美しく飾り、傲慢な口をきくのは、サタンの性質である。主はそのようなサタンを地に投げ落とされた。

イゼベルの性質は、次の御言葉の真逆である。

1テモテ2:9 また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。
 2:10 むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。
 2:11 女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。
 2:12 女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。
 2:13 なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。

イゼベルはこの後におよんでも身をかざり、髪を結い直し、善い行いとは真逆の人生を歩んできた。彼女は主の預言者に教えられる事なく、かえって殺し、夫であり王であるアハブの上に立ち、主の道に逆らう事を教えて来た。

このイゼベルのような性質を持つ者の行く先が、黙示録に記されている。

黙示録2:20 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。
2:21 わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。
2:22 見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。
2:23 また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。

イゼベルの性質は預言者と事象し、人々を教える立場、支配する立場に立って、人々を不品行に向かわせ、神に背を向けさせ、悔い改めの機会が与えられても心を頑なにして自分の悪い行いを改めない。そのような者に待っているのは、悲惨な主のさばきである。私達は、これを見て戒めを受けるべきである。


9:32 するとエヒウは顔をあげて窓にむかい、「だれか、わたしに味方する者があるか。だれかあるか」と言うと、二、三人の宦官がエヒウを望み見たので、
9:33 エヒウは「彼女を投げ落せ」と言った。彼らは彼女を投げ落したので、その血が壁と馬とにはねかかった。そして馬は彼女を踏みつけた。

ここでもエフーの言葉が権威を持ち、イゼベルに仕えてきた宦官はエフーの言葉に従ってイゼベルを突き落とした。かつてはアハブに対しまたイスラエル全体に対し言葉の権威をもったイゼベルだが、あまりに悔い改めないと、権威を失い、踏みつけられてしまうのだ。

箴言10:9 まっすぐに歩む者の歩みは安全である。しかし自分の道を曲げる者は思い知らされる。
10:10 目くばせする者は人を痛め、むだ口をたたく愚か者は踏みつけられる。

9:34 エヒウは内にはいって食い飲みし、そして言った、「あののろわれた女を見、彼女を葬りなさい。彼女は王の娘なのだ」。

高いところから突き落とされて血をぶちまけたイゼベルを踏みつけ、その足で飲み食いできるエフーの立ち居振る舞いに何か野蛮さを感じる。彼はこの後も、野蛮とみられる事を沢山行う。

9:35 しかし彼らが彼女を葬ろうとして行って見ると、頭蓋骨と、足と、たなごころのほか何もなかったので、
9:36 帰って、彼に告げると、彼は言った、「これは主が、そのしもべ、テシベびとエリヤによってお告げになった言葉である。すなわち『エズレルの地で犬がイゼベルの肉を食うであろう。
9:37 イゼベルの死体はエズレルの地で、糞土のように野のおもてに捨てられて、だれも、これはイゼベルだ、と言うことができないであろう』」。

こうして主が語られた言葉が、ようやく成就した。まことにイゼベルは悲惨な最後であった。この出来事だけを見て、主は恐ろしい、と言う人がいるが、こんなイゼベルにさえも、どれほどの長い時間、イゼベルに対し、アハブに対し、悔い改める機会が与えられ、警告が与えられ続けてきただろうか。どれほど多くの預言者たちが主の警告を伝え、主が確かに生きておられるという証拠の奇跡を行って来ただろうか。しかしイゼベルはことごとくそれらを撥ね付け、自らの悪行を改めずに進んできた。それ故に、この悲惨な最後が彼女に見舞ったのだ。

私達は今、主から注がれている主の恵みの時を軽んじる事なく、主を愛し、畏れ敬う者でありたい。

主は、主を畏れ敬う人には豊かな恵みと祝福を注いで下さるからだ。

主の言葉は時が来れば必ず成る(2列王記9:14-29)
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9:14 こうしてニムシの子であるヨシャパテの子エヒウはヨラムにそむいた。(ヨラムはイスラエルをことごとく率いて、ラモテ・ギレアデでスリヤの王ハザエルを防いだが、
9:15 ヨラム王はスリヤの王ハザエルと戦った時に、スリヤびとに負わされた傷をいやすため、エズレルに帰っていた。)エヒウは言った、「もしこれがあなたがたの本心であるならば、ひとりもこの町から忍び出て、これをエズレルに告げてはならない」。
9:16 そしてエヒウは車に乗ってエズレルへ行った。ヨラムがそこに伏していたからである。またユダの王アハジヤはヨラムを見舞うために下っていた。

北イスラエルのヨラム王と南ユダのアハズヤ王という、二人の、主の目に悪を行っている王たちが一つイズレエルという場所に集っている。イズレエルは、かつて彼らの父アハブによって無実の血が流された因縁の場所である。

エフーは主から王として油を注がれた事を秘めて、彼らの所に行く。

 

9:17 さてエズレルのやぐらに、ひとりの物見が立っていたが、エヒウの群衆が来るのを見て、「群衆が見える」と言ったので、ヨラムは言った、「ひとりを馬に乗せてつかわし、それに会わせて『平安ですか』と言わせなさい」。
9:18 そこでひとりが馬に乗って行き、彼に会って言った、「王はこう仰せられます、『平安ですか』」。エヒウ言った、「あなたは平安となんの関係がありますか。わたしのあとについてきなさい」。物見はまた告げて言った、「使者は彼らの所へ行きましたが、帰ってきません」。
9:19 そこで再び人を馬でつかわしたので、彼らの所へ行って言った、「王はこう仰せられます、『平安ですか』」。エヒウは答えて言った、「あなたは平安となんの関係がありますか。わたしのあとについてきなさい」。

ヨラムからエフーに遣わされた人は、ふたりとも、ヨラム王から王権をもって遣わされたはずなのに、エフーに従った。既にエフーに主に油注がれた権威があったからだ。

私たちも主イエス様を信じる信仰により、天国民とされ、王族の祭司、聖なる国民、神の所有とされた民としての自覚を持ち、信仰をもって悪魔の勢力に対して宣言するなら、悪魔は従う以外に無いのだ。

ただし、主イエスに対する信仰を持たず、むしろ御言葉を軽んじ従順する志が無いなら、いくら悪霊に対してイエス様の名を用いても、逆にやられるのだ。あの、スケワの7人の息子達のように。

私たちの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができるのだ。(2コリント10:6)
 

9:20 物見はまた告げて言った、「彼も、彼らの所へ行きましたが帰ってきません。あの車の操縦はニムシの子エヒウの操縦するのに似て、猛烈な勢いで操縦して来ます」。9:21 そこでヨラムが「車を用意せよ」と言ったので、車を用意すると、イスラエルの王ヨラムと、ユダの王アハジヤは、おのおのその車で出て行った。すなわちエヒウに会うために出ていって、エズレルびとナボテの地所で彼に会った。

因縁のナボテの地所で、彼らは出会った。これは、主がなさった事であり、彼らがちょうどそこで出会うようにするために、主が伏線を張られていたのだ。

9:22 ヨラムはエヒウを見て言った、「エヒウよ、平安ですか」。エヒウは答えた、「あなたの母イゼベルの姦淫と魔術とが、こんなに多いのに、どうして平安でありえましょうか」。
9:23 その時ヨラムは車をめぐらして逃げ、アハジヤにむかって、「アハジヤよ、反逆です」と言うと、
9:24 エヒウは手に弓をひきしぼって、ヨラムの両肩の間を射たので、矢は彼の心臓を貫き、彼は車の中に倒れた。
9:25 エヒウはその副官ビデカルに言った、「彼を取りあげて、エズレルびとナボテの畑に投げ捨てなさい。かつて、わたしとあなたと、ふたり共に乗って、彼の父アハブに従ったとき、主が彼について、この預言をされたことを記憶しなさい。
9:26 すなわち主は言われた、『まことに、わたしはきのうナボテの血と、その子らの血を見た』。また主は言われた、『わたしはこの地所であなたに報復する』と。それゆえ彼を取りあげて、その地所に投げすて、主の言葉のようにしなさい」。

エフーとビデカルは、共に、かつてアハブと共に、その場面を見ていたのだ。すなわち、イゼベルの悪巧みによってナボテの血が不当に流され、彼の畑が不当に奪われ、そこがアハブ家の療養地となる様を。

そして、預言者エリヤがアハブに会いに来て、彼らは必ずこのイズレエルで血の報復が為されると預言した言葉を。

エフーは、その預言の言葉を聞いており、心に思い巡らしていたからこそ、ビデカルに「この預言をされたことを記憶しなさい。」と言ったのだ。

私達も、主の言葉を聞いてそれに心を留め、思い巡らしているなら、幸いな者として数えられる。

乙女マリヤは主が語られた事を思い巡らし、主が語られた事は必ず成就すると信じ切っていたからこそ、神からも人からも「幸いな人」と呼ばれたのだ。

 

9:27 ユダの王アハジヤはこれを見てベテハガンの方へ逃げたが、エヒウはそのあとを追い、「彼をも撃て」と言ったので、イブレアムのほとりのグルの坂で車の中の彼を撃った。彼はメギドまで逃げていって、そこで死んだ。
9:28 その家来たちは彼を車に載せてエルサレムに運び、ダビデの町で彼の墓にその先祖たちと共に葬った。
9:29 アハブの子ヨラムの第十一年にアハジヤはユダの王となったのである。

エフーは南ユダ王国の王アハズヤまでも殺した。こうして、アハブ王の時代から続いた南ユダ王国の悪い絆は断ち切られた。

主は、悪い絆の下で苦しんでいる主にある聖徒達の苦しみを覚えておられる。そして、時が来れば必ず、主の言葉は成就する。エリヤの時代から数えれば、かなりの時間が経ったと思われるかもしれない。しかしそれは、主は、悪人がその悪の故に滅びる事を望まれず、その人が悔い改めて立ち返る事を待っておられる故である。しかし人があくまで自分の悪の道を改めず、自分の悪い道を貫き通すなら、やがて主の時が来て、たちまちにその者は滅ぼされてしまうのだ。

私達は主の言葉が語られたなら、それを思い巡らし、それが成る事を待ち望み、時が来るまで忍耐し祈りつつ待つものでありたい。

ルカによる福音書 講解説教メッセージ
秘かに主と出会える特権が与えられる人とは(ルカ2:1-20)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
背中を踏みつけられてしまう人の性質とそこからの脱出(イザヤ51:17-23)
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御言葉を宣言したなら、すぐに立ち去れ。とどまってはなたない。(2列王記9:1-13)
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9:1 時に預言者エリシャは預言者のともがらのひとりを呼んで言った、「腰をひきからげ、この油のびんを携えて、ラモテ・ギレアデへ行きなさい。
9:2 そこに着いたならば、ニムシの子ヨシャパテの子であるエヒウを尋ね出し、内にはいって彼をその同僚たちのうちから立たせて、奥の間に連れて行き、
9:3 油のびんを取って、その頭に注ぎ、『主はこう仰せられる、わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とする』と言い、そして戸をあけて逃げ去りなさい。とどまってはならない」。

エリシャがこのタイミングで一人の若者にこの命令をしたのは、主の時だからである。

この事の直前、8章の最後は、南ユダと北イスラエルの主の目に悪とされた王がイズレエルといういわくつきの土地に集っている状況である。イズレエルはかつて、ナボテという無実の人がアハブとイゼベルに罪を着せられ、無実の血が流された場所である。主の預言では、その場所でアハブとイゼベルに血の報復が為される、とかつて言われていた。主のタイミングの時、人にはぐずぐずしないでその通り従順する事が求められる。

 

9:4 そこで預言者であるその若者はラモテ・ギレアデへ行ったが、
9:5 来て見ると、軍勢の長たちが会議中であったので、彼は「将軍よ、わたしはあなたに申しあげる事があります」と言うと、エヒウが答えて、「われわれすべてのうちの、だれにですか」と言ったので、彼は「将軍よ、あなたにです」と言った。

英語の聖書を見ると分かるが、この会議の席は全員がキャプテンと呼ばれる人達の集いである。そこに「隊長」と呼ばれても、どの隊長なのか分からないので、このようなやり取りが為された。だから、この場では、この預言者である若者が一番身分が低い者ではあり、彼こそ震えおののくような状況であったかもしれないが、しかし彼は、主の御言葉を帯びて来ている。彼が主の御言葉をそのまま伝える限りでは、彼の言葉が最も権威を帯びる事が、後の出来事を見ると分かる。


9:6 するとエヒウが立ちあがって家にはいったので、若者はその頭に油を注いで彼に言った、「イスラエルの神、主はこう仰せられます、『わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。

彼はエリシャから伝えるよう言われていたのは、ここまでであった。しかし、彼はこの時、さらに主からの直接的な示しが与えられ、その場で主からの直接の言葉を、そのまま流し出す。

 

9:7 あなたは主君アハブの家を撃ち滅ぼさなければならない。それによってわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血と、主のすべてのしもべたちの血をイゼベルに報いる。
9:8 アハブの全家は滅びるであろう。アハブに属する男は、イスラエルにいて、つながれた者も、自由な者も、ことごとくわたしは断ち、
9:9 アハブの家をネバテの子ヤラベアムのようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにする。
9:10 犬がイズレルの地域でイゼベルを食い、彼女を葬る者はないであろう』」。そして彼は戸をあけて逃げ去った。

この事は、もっと以前の、エリヤの時から既に主から示されていた通りである。それが、この時、このタイミングで、エフーを通して成就する事が示されたのだ。

以上の主から示された事を伝え尽くすと、彼はその場から立ち去り、逃げた。

 

9:11 やがてエヒウが主君の家来たちの所へ出て来ると、彼らはエヒウに言った、「変った事はありませんか。あの気が変な人は、なんのためにあなたの所にきたのですか」。エヒウは彼らに言った、「あなたがたは、あの人を知っています。またその言う事も知っています」。

そこにいた人々は、預言者を「気が変な人」と見なしていた。

主の言葉を躊躇せず伝えたら、すぐに立ち去る事も躊躇しない。これはとても大事である。もし、彼が、ぐずぐずとそこに残ったならどうなっていたか、容易に想像がつく。

その場は将校達の会議の場であり、そこに一人の社会的地位の低い若造が残る、なら当然、将校達から「あなたは何者か」「どういう経緯で主の言葉を語るのか」と、彼自身が示されていない知らない事や、答えようがない追求をされ、物怖じする彼の様を見て、ついには、「気が変な人」の戯れ言として片付けられてしまうだろう。

御言葉を伝えたなら、いつまでも居残っている必要はない。むしろ、伝えるべき事を伝えてそこに居残り、別の人間の言葉を話し出し、御言葉の権威を犯す言葉をはびこらせてしまうなら、以前よりももっと悪い事になってしまう。しかし、宣言すべき御言葉を宣言して去るなら、その場に残った御言葉が、あとはその場を支配する事になる。私たちは、自分のの力で御言葉の権威づけを建て上げようなどと、考えない事である。

9:12 彼らは言った、「それは違います。どうぞわれわれに話してください」。そこでエヒウは言った、「彼はこうこう、わたしに告げて言いました、『主はこう仰せられる、わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とする』」。

9:13 すると彼らは急いで、おのおの衣服をとり、それを階段の上のエヒウの下に敷き、ラッパを吹いて「エヒウは王である」と言った。

奇跡が起こった。気違いと思われていた人の言葉が、主の権威を帯び、そこの人々の心を支配したのだ。

このように、御言葉をそのまま語り、そこに残すなら、あとは御言葉がその人、その場を支配するのだ。

金持ちでも犬以下になっている人とは(ルカ16:19-31)
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