メッセージ - 201608のエントリ

ピリピ人への手紙 講解説教メッセージ
喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ4:1-7)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
主こそ神、主こそ救い。他にはいない。(イザヤ43:8-13)
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エリヤよ、あなたはここで何をしているのか(1列王記19:9-13)
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傷心のエリヤは、個人的に主と向き合う必要があった。
彼の心は、あまりに落ち込み過ぎて、もはや、働く事どころか、主の前に行く事すらできなくなっていた。
そこで主は、彼に御使いを送り、焼いたパンと水を与えて元気づけて、彼を主の御前に進み出る事ができるようにさせて下さった。

『その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。』(1列王記19:9)
主は、エリヤが何をしているのかご存知であったが、敢えて聞かれた。
それは、その人自身の口から、今の自分の状態や考えを表明させ、主と交わりをさせるためである。

『彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。』(1列王記19:10)
「ただわたしだけが残りました」というのは、正しくはない。
オバデヤは主の預言者百人をかくまっていたし、イゼベルの言葉に習わず信仰を保ち続けている信仰者は、何人か残っていたはずだ。

エリヤはきっと、言葉どおりではなく、感じている「気持ち」を言ったのだろう。
確かにエリヤがして来た事、また負ってきた苦労を考えるに、そして、それら全てをイゼベルに覆えらされてしまった様を見るに、彼が絶望感を感じるのは無理もない。

イエス様もまた、ずっと一人ぼっちで絶望状態の人を訪ね、声をかけられた。
『そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。』(ヨハネ5:5-8)
彼は、イエス様から「よくなりたいか」と声をかけられた時、よくなりたい、と答えるのではなく、「わたしを***してくれる人がいません」と、さびしさを打ち明けた。

彼の周りにいた人々は、彼を差し置いてどんどん病気が治ってその場所を卒業して行く。
でも自分には、自分を助けてくれる人が誰もいないまま、38年もずっとこのまま。
イエス様は、彼の切々とした言葉に対し、「ああ、大変でしたね」といった、同情の言葉は、一切かけない。
その代わりにイエス様は、非常に単純明快な、彼の全てを癒やすために為すべき具体的な「御言葉」をかけられる。
『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。』(ヨハネ5:8-9)
この人の解決は、あっという間だった。
それは、御言葉の通りに行なった時だった。
御言葉の通り行う時、どんなに根強くしぶとい問題でも、解決するパワーが生まれる。

結局、主イエス様の言葉どおりに行う事こそ、全ての問題の解決の源なのだが、それを抜きにして感傷に浸り続けたり、イエス様でないものに解決や同情を求め続けても、解決は何年経っても見えない。
イエス様は、何を為すべきかを、御言葉をもって告げられる。
そして人は、その主から言われた事を、実行するのかどうか。そこが大事である。

 『主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。』(1列王記19:11-13)
主が通り過ぎられた時、とても激しい出来事が起きた。岩や山をも砕く風は、どれほど激しいものだろう。
もし、か弱い人間がそこにいたなら、岩とともに砕かれていただろうし、火に焼かれてしまっていただろう。
しかしエリヤは、岩のほら穴の中に匿われ、守られていた。

主は元々、激しく力強いお方である。
主がそこを通られただけで、岩も山も砕かれてしまう風が起こるのだから、不信仰で頑なな者共をたちまちにして滅ぼす事は、いともたやすいはずである。
しかし主は、憐れみにより、すぐに滅ぼし尽くすという事は、されない。
むしろ主は、邪悪な時代の中で、人を害する滅びの風が吹きつけないよう、御使いを遣わして守っておられる。(黙示録7:1-3)
悪い時代は、あざける者達が、自分の欲望に従って好き勝手な事をしている。
しかし今の天と地は、主の「ことば」によって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれている。(2ペテロ3:1-7)
なぜ、主はすぐにさばきをなされないか。それは、主は忍耐深くあられ、一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからだ。(同9節)
『しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。・・・しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。』(2ペテロ3:10-14)

人は、遅い、と思う。
なぜこんな邪悪な人々の、放埒なふるまいを、主は許しておられるのだろう、と。
もし主が号令をかけられるなら、たちまちにして悪者共を滅ぼし、全世界・全宇宙を刷新する事がお出来になる。
しかし主は、一人も滅びることを望まれず、一人でも立ち返る事を望まれ、忍耐して待っておられ、さばきを先延ばしにしておられるのだ。
そして主は、主に忠実な働き人をあらゆる攻撃や災いから守り、かくまい、折れてしまった心をやさしく包み、癒やし、立ち直らせて下さる。

エリヤが見た時、主は風の中におられず、地震の中にも、その後の火の中にも、主はおられなかった。
ただ、火の後、静かな、細い、主のことばを聞いた。
その時、彼は外套で顔を覆った。
主の働き人を建て上げるのも、癒やすのも、そして、新天新地を創るのも、結局全て「主のことば」によるのだ。

主は、声をかけられる。
エリヤよ、ここで何をしているのか、と。

主は、私達にも促しを与えられる。
今、どこにいるのか。
そこで、何をしているのか。
よくなりたいか。

私達は主の言葉を受け、そのことばを信じてその通りにするなら、天地を創られた主のことばが癒やし、立て直し、働きへ再び召し出されて行くのだ。

羊の飼い方 - 信仰の中・上級者編(1ペテロ5章)
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偉大な預言者エリヤをたった一言で萎えさせたイゼベル(1列王記19:1-8)
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『アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。』(1列王記19:1-2)

いつも尻に敷いている夫・アハブ王の口から聞いたエリヤのわざ、すなわち、主の偉大な御業は、残念ながら彼女の心に響かなかった。
アハブがイゼベルに言ったのは「エリヤのしたすべての事」と、「彼がすべての預言者を刀で殺した事」の二点であったが、彼女は、エリヤを通して働かれた主の御業については一切、触れなかった。
彼女が抱え込んで来た、無能なバアルやアシェラの預言者が、この3年半、いかに「何の益ももたらさなかったのか」についても、また、バアルによっては何も起きず、ただ主の御名によって火が降り、再び恵みの雨が再び戻り、そして主の雨の恩恵に与れた事についても、一切触れず、ただ、彼女が抱えてきた預言者達が殺された事に怒り心頭し、エリヤを殺してやる、と、直情的・非論理的で、全く道理を外した行動に出た。

イゼベルは、兵隊をいきなりエリヤに送って捕らえ殺すような事は、しなかった。
エリヤは、もしも兵隊に囲まれても、うまく立ち回っただろう。実際、後にエリヤを囲もうとした兵士達には火が下され、全員焼け死んでしまった事が二度あった。(2列王記1章)
しかしイゼベルは、軍隊を送るよりも、はるかに効果的に、預言者の心を萎えさせる事に成功した。

エリヤは長年、主に熱心に仕え、忍耐をもって御言葉を伝え、悔い改めを促し、そしてようやく主のわざが人々の前に起こされ、人々は「主こそ神です」と叫び、ようやく雨が戻って来た、というのに、たった一人の女、それも、その場に参加せず、イスラエルのために努力する事も一切しなかった女、それも、感情的で、短絡的で、非論理的な一人の女の叫びによって、してきた事全部がひっくり返されてしまう。
御言葉を伝える主の働き人にとって、どれ程心萎えてしまう瞬間だろう。
努力せず、現場に参加せず、実際に働いて来た人々の長い間の努力を、直情的・非論理的に一瞬にしてひっくり返してしまうような権威者が一人でもいるなら、その集団には、前進は望めない。どんなミニストリーでも、会社でも。

主は、イゼベルを速やかに処罰する事をされない。なぜなら主は、あのイゼベルにさえ、悔い改めの機会を与えられるからだ。
しかし、それでもなお行いを改めないなら、その最後は、とても無残なものとなってしまう。
『あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。』(黙示録2:20-22)

イゼベルのように、無残な最後へと至ってしまう者の特徴は、主の力ある御業が示されても、なお自分が欲する事を頑として曲げず、悔い改めず、ただ自分の思い通りに行かなかった事を怒り、逆に主の働き人を殺そうとするような者だ。
主は、イゼベルについては速やかには扱わない。
しかし主の民、主のしもべに対しては、倒れてしまわないように速やかに助けの手を延べられる。

『そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。』(1列王記19:3-4)
ベエル・シェバは、そこからおよそ130キロ南、ユダの領地である。
エリヤは国外へと逃亡し、死を願うまでになってしまった。
イゼベルの言葉は、なんと功を奏した事だろう。

ベエル・シェバはアブラハムゆかりの地であり、また、彼がこれから行こうとしているシナイ山は、モーセゆかりの地である。
彼は、信仰の先祖達を意識したようである。
彼は「わたしは先祖にまさる者ではありません」と言ったが、あいにく、自分という人間を評価するのは、自分ではないし、誰か他の人間でもない。
それは、主である。

エリヤは新旧約にも登場する、預言者の代表格として、イエス様と共に、変貌山で現れた。
彼は自分の死を願ったが、あいにくエリヤは、死を味わった事が無い者として聖書に記されている。
一時的な感情の荒波の内に、絶望感に満たされ、一時はマイナスな祈りをしたとしても、全て人の心の傷も弱さも全部ご存知である主は、その一時の言葉どおりに受け取る事はなさらない。
主は、主に熱心な働き人が傷心の時には、必要な助けを差し伸べる。

『彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。』(1列王記19:5-6)
主が御使を通してエリヤに送ってくださったものは、彼の願った死ではなく、パンと水だった。

心打ちひしがれ、主の慰めも、人の慰めも耳に入らない傷心の人には、どんな言葉よりも、ただ焼いたパンをそっと差し出すほうが、遥かに慰められるものだ。
イエス様も、傷心の弟子達に、同じ事をされる。
十字架のイエス様を前に、逃げ出してしまった弟子達は、イエス様が復活した後、手をこまねいて昔の仕事である漁に戻った事があった。
イエス様はそんな弟子達に現れ、一切、叱責する事なく、ただ、炭火で焼いた魚とパンを差し出された。(ヨハネ21:9-13)

主のために働いて来たのに、弱さの故にあやまちを犯してしまった、傷心の弟子達に、主は現れ、自ら焼いて下さった魚とパンを、そっと差し出された。
また主は、熱心に働いた末に心折られ、死を願うほど疲れ切ってしまったエリヤに、主は御使いを遣わし、焼いたパンを与えてくださった。
主はそのようなお方である。
そして、それらの主からの直接的な養いは、主のために労して働く「働き人」の特権である。

『主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。』(1列王記19:7-8)
御使いが二度目にパンと水をエリヤに与えた時、「道が遠くて耐えられないでしょうから(NKJV: the journey is too great for you)」と言った。
あなたにはまだまだ、行くべき道がある、だからこれを食べて、元気づけて、行きなさい、と。

エリヤは、それを主からいただくと、四十日四十夜行って、神の山ホレブに向かった。
主が与えてくださるパンは、ただ日毎の空腹を満たすためのもののみならず、人間業ではとうて出来ないような主の働きをするに足りる元気を与えてくださるためでもあり、それを頂くなら、どんな険しく長い道程でも、進み行く事ができるのだ。

エリヤは、神の山ホレブに到着し、主の御前に立つ。
主と出会い、祈るためだ。
主は私達が弱り果て、心萎えてしまった時でも、主は直接的な食物を与え、再び主の前に立てるようにしてくださる。

この時代、主の働きをする人は、心へし折られてしまいそうな事柄が沢山あるが、それら全ての中にあっても、エリヤのように主に養われ、強められ、神と人との前で凛々しく働く力が与えられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

サウルの密かな企みから守られるダビデ(1サムエル記18:17-30)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
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賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 どういう性質が主の目に価値があり喜ばれるのか、ダビデという人物から学んでいると同時に、どういう性質が主に嫌われ退けられてしまうのか、サウルからも学んでいる。サウルは神の民の敵・ペリシテが打たれた事も、イスラエルが救われた事も喜ばず、ダビデが勝利し、愛され、主が共におられるのを妬み、恐れた。
このサウルの性質は、サタンの性質そのものである。サタンは元々は、音楽で主を褒め称える、極めて美しい天使だったが、分を超えて驕り高ぶり、神の王座に登ろうとして神に反逆し、天から落とされ、そして神の似姿として創られて愛されている人間を、妬み、滅ぼそうとしている。(イザヤ14章、エゼキエル28章)

サウルは、主のために、そしてイスラエルのために、自分が王座から退く考えは無く、自分がそれまで主の御声に反して来た事を悔いる事もなく、主に用いられているダビデをさらに妬み、殺意を募らせ、密かに彼の命を狙う行動に出る。サウルは、自分の娘・メラブを妻として与える代わりに、主(エホバ)の戦いを勇ましく戦いなさい、と命じる。その裏は、彼をペリシテ人の手で殺させよう、と思ったからだ。(17節)
サウルは確かに、部下に勇ましく「主の戦い」を戦って欲しかったろう。イスラエルに平和が来る事や、主の敵が打たれる事を望んではいたであろうが、彼がそれ以上に望んでいたのは、ダビデを抹殺する事だった。
それで彼は、主エホバの御名を用いて、策を弄するのだが、そのような策を、主が成功させるはずがない。
イエス様の名前を用いて、主の聖徒達を騙そうとする企みは、人の心を全てご存知である主が、覆えす。
ダビデはサウルの申し出を断った。自分は身分の低い者だ、どうして王の婿になれるだろう、と。そもそもダビデは、ゴリヤテを倒した時点で、メラブと結婚する事は出来ていた筈だが(17:25)、サウルはその約束を反故にしていた。ダビデは、その事を全く主張せず、ただ命じられるまま、部下を率いて戦って来た。彼は自分の身をわきまえていた。王族の身分は人の賞賛や推薦によるのではなく、主が与えて下さるものだと。
サウルやサタンは「高慢」という性質だが、その逆、謙遜こそ、主に喜ばれる性質である。『互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さる。』(1ペテロ5:5-6)
ペテロは、この箇所で勧めている。自ら進んで、委ねられた羊達を牧しなさい、それも、利得を求める卑しい心ではなく、権威をふるって大上段にではなく、むしろ群れの模範となりなさい、と。(1ペテロ5:2-11)
ダビデは元々、サウルの娘との結婚や、人々の名声などは眼中になく、ただ、「良き羊飼い」をずっと続けて来たのだ。ダビデに委ねられた兵士達を牧し、育て、権威を振るわずにむしろ群れの模範となって、誰よりも先に敵陣へ切り込んで行った結果、兵士達から絶大な信頼と人気を得たのだ。
羊のために命をかけて守り、養う羊飼いの性質こそ、イエス様の性質であり、主に喜ばれるものだ。

サウルは自分が言った事を土壇場で覆し、メラブを別の男に嫁がせる。メラブという褒美をちらつかせても、ダビデは中々死なない、むしろ勝利して、このままではサウル王権が危うくなる、と思ったのかもしれない。
しかし、もう一人の娘・ミカルがダビデを愛している事を知らされた事をサウルは喜んだ。彼女もダビデを死なせる事に利得できる、と思ったからだ。彼は元々、娘達の幸せは全く考えておらず、ダビデが死んでくれるなら、娘が未亡人になってもかまわなかったのだ。自分の保身・願望・欲望に心縛られてしまうと、永遠なる神の事も、家族の幸せも、見えなくなってしまう。速やかにその握りしめているものは手放すべきである。
サウルは兵を通してダビデに伝える。『王はなにも結納を望まれない。ただペリシテびとの陽の皮一百を獲て、王のあだを討つことを望まれる。』(25節) サウルはこれで、ダビデが屈強なペリシテ人の手で殺されるだろう、と思ったが、主にあって、またダビデにとって、割礼なきペリシテ人に勝利する事は当然過ぎる事だった。ダビデは百どころか二百を獲て帰ってきて、そしてついにサウルは、娘ミカルをダビデに与える。
一国の王がいかに権威や金銀、人脈を背景に、少年を騙し陥れようとしても、主が守るなら守られ、その企みは決して届かない。たとえ本人を騙したと思っても、主は騙せず、主がその罠から助けだして下さる。
人は、身につけようとする。力を、地位を、お金を、謀の能力を。しかしそれら以上に求めるべきは、主に愛される性質である。なぜなら主は、主を敬わない王を退け、主を愛する羊飼い少年を守られるから。
主を愛し、主を敬う人は、敵が多いかもしれない。悩みも多いかもしれない。しかし主は、主を愛し敬う人の、その全ての敵や災いから守り、ちょうど良い時に、その人を引き上げて下さるのだ。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
十字架で私達の全てを飲み尽くしてくださったキリスト(ヨハネ19:23-30)
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主の喜ばれるいけにえは、耳を開いて聞くこと(詩篇40篇)
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音楽と悪霊とルシファーの関係(1サムエル記16:14-23)
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ピリピ人への手紙 講解説教メッセージ
天国民としてふさわしく(ピリピ3:17-21)
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