メッセージ - 201606のエントリ

理不尽な暴君の下にあっても主の栄光を現すには(ダニエル2章)
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ピリピ人への手紙 講解説教メッセージ
パウロがリラックスできたピリピ教会の聖徒達(ピリピ1:3-11)
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黙示録の7つの災い - 封印、ラッパ、鉢 - の読み解き方(黙示録6章)
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黙示録は6章以降、16章に至るまで、「災い」と見られる記事が続く。
いわゆる「7つの封印の災い」、「7つのラッパによる災い」、「7つの鉢による災い」と呼ばれるものである。
啓示録が「怖い」と思われている原因の1つにもなっているが、これらは「災い」とみなすべきではない。正しくは「審判」である。
「審判」は、ある人には災いかもしれないが、ある人には救いだ。
モーセの時代、ユダヤ人を奴隷として搾取し苦しめていたエジプト人にとって、神の「審判」は「災い」であったが、神の民であるユダヤ人にとっては、むしろ「救い」であった。
それと同じ事が、世の終わりでも起きる。

『小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。』(黙示録6:1)
全能の父なる神から全権威を授与された小羊キリストが、いよいよ、神の元で封じられていた巻物の封印をはがして行く。
そして、太古より立てられていた神の計画の全貌が、次々と明らかにされて行く。

その中には、悪魔サタンとそれに属する者共への究極的な裁きが含まれている。
そのため、悪魔サタンは、この黙示録を最も嫌い、教会から、またキリスト者達から、この書を遠ざけさせて来た。
人を搾取し、苦しめて来た悪魔サタンとそれに属する者達には主の審判は「災い」であるが、イエス・キリストを救い主としてあおいで神の民とされた人達には「救い」である。

これら「封印」、「ラッパ」、「鉢」による7つの災い(審判)は、一体何を意味するのか。
また、どうすれば、このいわゆる「災い」をまぬがれる事ができるのか。
それらを巡って、古くから、多くの人々によって色々な解釈が為されて来た。
また、異端達はこれを利用して「自分達だけがその真意を知っている」「この”災い”から逃れるには自分達の所に来るべきだ」と、多くの人々を惑わし、取り込んで来た。
一体これらの事柄は、どのように読み解いていくべきなのだろう。

ご存知の通り、「黙示録」を書いたのは、使徒ヨハネである。
そしてヨハネはユダヤ人であり、ヘブル的思考に従って、これを書いている。
だから、黙示録を読み解くには、ヘブル思考から外れては内容が理解できない。

ユダヤ人達は、物事を表現したり弁証したりする時、キアズムと呼ばれる論理構造に従って説明する「くせ」があり、聖書は旧約も新約も「キアズム」の独特の「反復表現」や「平行表現」で満ちている。
例えば、
「わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ」(イザヤ41:8)
と言う呼びかけは、「イスラエル」も、「ヤコブ」も、「アブラハムの子孫」も、全部、同じくイスラエルの民を表しているのだが、3点方向から確実に伝えようとしているわけであり、また、イエス様の有名な命令、
『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 』(マタイ7:7-8)
も、3点の異なる命令形動詞がまず与えられ、それら命令に従順する者に与えられる報償が、「求める→得る」「探す→見出す」「叩く→あけてもらえる」と、7節と8節の間で平行的に示されている。
日本語を用いる私達が、聖書を読む時、このような反復表現や平行表現は、少々「くどい」「難解だ」と実感する事があるだろうが、これは、より正しく論理的に物事を伝えるためのものである。

「キアズム構造」を読み解く上で真っ先に注目すべきは、「動詞」である。
黙示録6章から16章までを、「封印」「ラッパ」「鉢」の3点から成るキアズムとして見る場合、それぞれで7度、繰り返して用いられる動詞がある。
それはそれぞれ、「(封印を)はがす」、「(ラッパを)吹く」、「(鉢を)ぶちまける」である。
これら、3つの「動詞」に着目するなら、言いたい事が何であるのかが見えてくる。

最初の動詞、封印「はがす(アノイゴー)」は、それまで覆われていたものをはがし、隠れていたものが公衆の目にさらされた、という事である。
映画でいうなら、ある監督が秘密裏に制作していた映画の予告サイトが、ある時点にテレビやネット上に現れたようなものだ。
予告編は全容はなんとなく分かるけれど、詳細は知らされないので、その実体は映画が封切られてみなくては分からない。

次の動詞は、「吹く(サルピゾー)」である。
ラッパを吹く事は、ユダヤ人にとって、「これから何事か起きるぞ」「何々をしなさい」というサインとして古くから用いられて来た。(民数記10章)
映画でいうなら、映画のサイトやテレビなどで「本日いよいよ公開!」と表示されるようなものである。

最後の動詞、鉢を「ぶちまける(エッケオー)」は、液体や金銀を「注ぎ出す、流し出す、外へ流す」意味であり、前の二つの動詞に比べればより実体的な行動を伴った動詞である。

つまり、「アノイゴー」→「サルピゾー」→「エッケオー」は、映画の全容が予告編で知らされ、いよいよ「本日公開」のサインがあり、いよいよ各映画館でフィルムが動き出し、映像が流れ出した、というようなものである。
封印を「はがす(アノイゴー)」事は、終わりに起こるべき事を公開する事であり、隠れた物事をオープンして行ったのが、8章1節までの記事である。
次に、ラッパを「吹く(サルピゾー)」事は、今まで予告されて来た物事がいよいよ封切られるというサインが示された事を意味し、いよいよ「終わりの始まり」が始まった事の警告が10章7節までの記事である。
そして鉢が「ぶちまけられる」事は、ついに、審判の実体が次々と遂行されて行く事を意味する。

6章の、封印をはがされた時点では、審判の「実体」は起きておらず、「これからこんな事が起こるぞ」という「予告篇」である。
その証拠として、第五の封印が解かれた時(6:9-11)、これから殉教するべき人がまだ残されている事が「予告」されているだけで、何らかの災害は、何も起きてはいない。
また、第六の封印が解かれた時(6:12-17)、天は巻物が巻かれるように消えてしまった事が記されているが、もしこの事が実体として起きてしまったなら、もはや全ての事がジ・エンドとなり、そのまま21章の新天新地へと内容が飛んで行かなくてはならないはずなのに、まだ7章以降へと地上の物事が続いて行く。
これらの事が、封印を「はがす」事はまだ審判の実体ではなく「予告編」である事の証拠である。

このような視点をもって、6章以降の事柄をこれから見て行きたい。

イザヤ書 講解説教メッセージ
延長されないほうが良かった余命(イザヤ39章)
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主の光を照らす者として用いられるために(イザヤ60:1-7)
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主からの契約には積極的にサインせよ(イザヤ45:1-8)
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わたしは主である(イザヤ41:1-20)
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週報/メッセージ(説教)概要

 先週もコーヘン博士課程で学ぶため韓国に行って来た。今回は特にイザヤ書とレビ記から学んで来た。
主は毎回、素晴らしい御言葉の奥義を与えて下さっておられるが、今回は御言葉においても実体においても、主から「押入れ、ゆすり入れ」しての祝福が与えられた。まことに主は、主を愛し、御言葉に従って歩む人を特別扱いし、あらゆる良きものを与えようとして取り囲み、これもあれもあげようと待っておられるのだ。

天声では毎回、御言葉を自分自身に当てはめ、自分の名前を代入して宣言しているが、それは聖書の勝手な乱用ではなく、御心に適った事である。聖書は新旧約の合計66巻、すなわち、「旧契約」と「新契約」から成り立つ「契約」の書である。旧約聖書は、神がアブラハムの子孫、すなわちイスラエル民族に対して結ばれた契約であるが、彼らはそれをないがしろにし、破ってしまった。
そこで、神の救いは、イエス・キリストを通して全人類へと及ぶ「新契約」として制定され、こうして、全人類が救われるべき対象となり、イエス・キリストを信じる者には誰でも救いが与えられるようになった。
では、旧約聖書は私達と関係が無いのか?『もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。』(ガラテヤ3:29) キリストにあってアブラハムの子孫、であるからには、旧約は私達に大いに関係がある。トラー(モーセ五書)には248の「しなさい」と、365の「するな」の、合計613の命令がある。これは命令形の動詞で、神の命令形動詞には従順が要求される。
もし命令に不従順なら、何もおきないのではない。呪いが足音を立ててやって来るのだ。しかし従順するなら、奇跡が起きる。救いは確かに福音書に示されているが、その人生が祝福されるか呪われるかは、100%、命令に従うか、従わないかにかかっている。クリスチャンはこれをしっかり把握しなくてはならない。世の人と違って、従順するなら誰より祝福され、しないなら誰より呪われてしまう。それは、特別だからだ。

契約書を交わす時、必ず双方が自分の名を記し、サインまたは印鑑を押して、「これは確かである」というしるしを残す。神は、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいた時、「わたしは主である(アニ・ヤーウェ)」と宣言し、あなた達を「贖い」、「神の民とし」、「あなた方は神を知り」、「素晴らしい地を所有する」という4点を「アニ・ヤーウェ」の元に宣言し、そして最後に再び「アニ・ヤーウェ」を宣言して、この約束は確かである、とした。(出エジプト記6:6-8) ユダヤ人達はこの「アニ・ヤーウェ」を、神ご自身の自己署名(サイン、または印鑑)であるとし、また、この一連の御言葉を、神の天国経営のマニフェストと語っている。
つまり、「わたしは主である(アニ・ヤーウェ)」という言葉が出てくる時、そこに記されてある内容は、主が「ハンコ」を押した、重要かつ確かな内容であり、主の側が「契約を交わそう」と言っておられる場面である。
「さあ、あなたとこの御言葉をもって契約を結ぼう、既にわたしの側は「アニ・ヤーウェ」のサインをした、あとはあなたの側が、信仰をもって「アーメン」の捺印をし、この言葉の祝福を、ただ受けとる番だ」と。

イザヤ書41章も「アニ・ヤーウェ」が4回も出てくる重要な章である。「海沿いの国々、東の地」(1-2節)の「アブラハムの子孫よ」(8節) と呼びかけられている言葉は、まさしく、キリストにあって霊的アブラハムの子孫とされた、東の地、海沿いの地域に住む”私達”に呼びかけられている場面とすべきだ。
なぜなら、主の側が、アニ・ヤーウェの言葉をもって、私達に迫って来ておられるからだ。
私達は、その行く所で勝利をもって迎えられ、諸々の国々を征服し、諸々の王達を足下にし、足の踏んだ事のまだ無い道を安らかに過ぎて行くという、1-2節の言葉を感謝し、信仰のサインを記すべきである。
また9節からは、私達は主に連れ出され、「__は、わたしのしもべ。わたしは__を選んで、捨てなかった。」という言葉をそのまま信じ、自分のものとし、自分の名前を__に入れ、自分のものとすべきである。
「恐れるな。わたしは__とともにいる。たじろぐな。わたしが__の神だから。わたしは__を強め、__を助け、わたしの義の右の手で__を守る。」(10節) 本当に、主の側からの、しつこい程の促しである。
恐れるな、たじろぐな、わたし、エホバが、あなた__とともにいるのだ、わたしエホバが4回もアニ・ヤーウェのサインしただろう、あなたのために。 主の側がこれ程までに、信仰をもって契約せよ、せよ、と言っておられるからには、どうして私達はそれを感謝して受け取らない事があろうか。受け取らない事はどれほど失礼な事だろう。私達は、信じないで退く者ではなく、信じて進み行き、栄光を勝ち取るものでありたい。

モーセ - 一家の大黒柱の働き(出エジプト記17:8-16)
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週報/メッセージ(説教)概要

 今日は父の日、普段から家族のために骨折って働いている父に感謝する日である。父の存在は一家の中で最も大きい。男性は家では大抵無口なので、あまり目立たないかもしれないが、父がいるというだけで、妻も子供も安心感を得ているものである。今回、かの有名な人物、モーセから、父親像を見たい。
モーセは父としてのイメージはあまり無いかもしれないが、彼がイスラエルに成した事はとても偉大である。
そんなモーセも、最初から偉大な性質の持ち主だったわけではなかった。主から召命を受けた時、彼はただの80歳の口下手な羊飼いだった。最初は、神様から言われた事を「できません」と何度も断って神様を怒らせたり、やっとパロの前に出ても怖気づいて神様から示された通りに正しく出来なかったりもした。
しかし、曲がりなりにも、神様から示された通りにしたら、それはことごとく驚くべき結果になった。彼はそうした一つ一つの小さな従順の積み重ねで、徐々に神様に信頼を置く事の確信を得ていく。そうしてついにはエジプトに決定的な災いが降され、全イスラエルはようやくエジプトを脱出する。主と歩むなら、実に有り得ない事の連続である。主に依り頼まず自分の力に頼って挫折し、そのまま歳を重ね、口下手な80歳になってしまっても、主に依り頼み始めたその時点で、その性質は徐々に変わって行くのである。

エジプトは戦車や騎兵で追って来た。しかしモーセが主から指示された通りに、杖を海に向けて差し伸べると、主は海を分けて、イスラエルを通れるようにし、エジプトに対しては海を閉じて滅ぼした。
この偉大な事が為されてからわずか3日後、民は、モーセに文句を言い出す。マラという所に来たのだが、その水は苦くて飲めなかったのだ。(出15:22-27) 父というものは、何年がかりの偉大な事業を成し遂げても、目の前にちょっと不足が生じると、たちまち家族から非難の矢が飛んで来てしまうものだ。家族の中でいつも一番心砕いて家族を導いているのに、どう頑張っても、必要なものが得られないという時がある。
その時、家全体を守らなくてはというプレッシャーのみならず、一番助けてもらいたい家族からも非難を受けて、窮地に陥る事もあるが、その時こそ、一家の長たる父は、主に叫ぶべきである。(出22:25)
モーセは主に叫んだ所、一本の木を主から示され、それを水に投げ入れてみると、その水は甘くなった。
こうして彼らは12の水の泉と70本のなつめやしの木がある「エリム(丈夫な木という意味)」へと辿り着いた。
私達の人生においても、苦労の末に辿り着いた所は、苦い所だった、という時こそ、主に祈って叫び、「キリストの十字架という木」を、そこに投げ込むのだ。そうすると、そこは甘い場所になるのだ!

主は彼らのために天からパンを降らせ、岩から水を出し、食料の心配を除いて下さったが、時に、外敵・アマレクが戦いを仕掛けて来た。彼らは疲れ弱っている人達を攻め打ったのだ。(申命記 25:17-19)
『モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9)
モーセはそれまで、困った事が起きる度に主に叫んでいたが、今回彼は「主は必ず助けて下さる」と積極的に信じ、彼の従者ヨシュアに戦うよう指示して、モーセ自身はあの杖を持って、丘の上に立った。
『モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。…アロンとフルは、一人はこちら側、一人はあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。』(出エジプト記17:11-12)
ヨシュアは前線に出て戦っていたが、戦いの勝敗を切り分けたのは、モーセの執り成し祈りであった。
父は一家の長として、そして祭司として、家全体のために祝福し祈る者である。アブラハムもイサクもヤコブも、ダビデも、家族のために祈る祭司だった。そして、執り成し祈りという格闘を続けていると疲れも出てくる。
そんなモーセを助ける「手」となったのが、アロンとフルだった。一家の長が、家族のために働く時、そして執り成す時、疲れも出てくる。その時こそアロンとフルのような、助け手が必要である。助けが無い家、ただ文句ばかり言う家族しかない家は、一家の大黒柱が倒れ、全体が倒れてしまう。
ヨシュアは、モーセが丘の上に立って取り成して祈る姿を見て、安心して戦えた。父の祈りと励ましによって、妻も子供も安心して出入り出来る。そして主は彼らの旗となって導き、その家を勝利へ導いて下さるのだ。普段から家族のために骨折っている父達を、その家族を、イエス様の名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
勝敗を決する執り成しの祈り(出エジプト記17:8-16)
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救いを求める人には御使いを、伝える人に聖霊を遣わし、両者を会わせて下さる主(使徒10章)
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