メッセージ - 201604のエントリ

聖霊のうめきに聞いて導かれるべき御言葉の奉仕(使徒16:6-15)
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スミルナ教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録2:8-11)
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七つの教会の内の第二番目、スミルナ教会への書き送りは、次の構造となっている。

1,一次受信者の指定
『スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(2:8a)

2,語られるキリストの姿
『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。』(8b)

3,賞賛と激励
『わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。』(2:9)

4,叱責と警告
なし

5,勧めの宣言
『あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。』(2:10)

6,勝利者に約束されている報い
『死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。・・・勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。』(2:10-11)

7,二次受信者への命令
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(11)


スミルナという都市は、古来より繁栄を謳歌した港湾都市であったが、そんな中にあってスミルナ教会は、貧しかった。
貧しさや不足を覚えているという困難ばかりでなく、外から迫り来る困難もあった。
主は、そんなスミルナ教会にメッセージを伝えられる。
『わたしは、あなたの苦難(エルゴン:行い)や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。』(黙示録2:9)

主は、彼らのそうした状況を「知って(オイダー)」おられる。
オイダー。すなわち、感覚的・主観的・感情的な面において「知って」おり、労苦や忍耐の時に流した涙、その時痛かった心の痛みも、全部、知っておられる。
そんな痛み、苦しみの中にあっても、あなた方はよく忠実に仕えている、そして、それは実際は富んでいる事だと、主は語りかけておられるのだ。

この地上では、イエス様を信じている故に、あるいは、イエス様の働きをしている故に、苦しみを受ける、という事が起こりうる。
しかしそのような、主の故に困難や迫害を受ける時、実はそれは「富んで」いるのだという事を、そして、そのような人々は、実はよく知られており、羨望の眼差しで見られているという事を、私達も意識すべきである。
『わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。』(2コリント6:8-10)
『わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。』(マタイ5:11-12)

スミルナ教会に対しては、主からの叱責は、無い。
これと非常に対照的な教会が、ラオデキヤ教会である。
ラオデキヤ教会には、主からの賞賛は無く、ただ叱責しか無い。彼らに対して主は「自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」と評価している。(3:17)
スミルナに対する評価とは真逆だ。
このように、人が外見で見る評価と、主の心を見る評価とは、違うものだ。

『また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。』(黙示録2:9)
スミルナの牧者は、自称ユダヤ人から、すなわち、自分達こそ神の民であると主張していながら、実はサタンの衆である者達から「そしられ(ブラスフェミア)」ていた。(2:9)
ブラスフェミアは「神聖冒涜」の意味である。
現代でも、自称クリスチャンではあっても実体はサタンの実(嘘、争い、反逆など)を結んでいる者がいるが、そのような者が、主に忠実を尽くしている聖徒達を、そしるという事は「神聖冒涜」をしていると主から見られるのだ。

『あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。』(2:10)
神を愛し、それ故受けてしまう苦難に対しても耐え、忍びとおす聖徒達に対して約束されている報酬は、いのちの冠である。
『試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。』(ヤコブ1:12、1コリント9:25)

スミルナ教会の牧者は、ポルカルポスという人物で、彼は、使徒ヨハネの弟子である。
ヨハネは弟子である彼に、この黙示録という手紙を通して、主から受けた事を、そのまま彼に対して書いた形になる。
主は、あなたの苦しみや迫害を知っておられる、しかし、あなたは実際は富んでいる・・・。
苦しみを恐れてはいけない、死に至るまで忠実であれ。そうするなら、決して朽ちる事のない、いのちの冠を主から受ける、と。

ポルカルポスは、師匠であるヨハネからのこの手紙を、どう読んだだろう。
彼は、実際、死に至るまで忠実だった。
AD155年、ポルカルポスは、フィラデルフィア教会の聖徒達11人と一緒に火あぶりで殉教した。
そして彼を失ったスミルナ教会の聖徒達は、彼が殉教したその所に、殉教記念教会を建てたという。
彼は死に至るまで忠実だった。それゆえ、受けたのだ。いのちの冠を。

『勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない。』(2:11)
迫害者は、キリスト者を「第一の死(心臓が停止する等の死)」へ引導する事はできても、第二の死に導く事は出来ない。それをするのは、審判者なる主である。
第二の死とは、火と硫黄の永遠に燃えている池であるが(20:14、21:8)、主イエスにあって勝利する人には、第ニの死には一切関わりは無い。
『そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。』(ルカ12:4-5)

主は、知っておられる。
主イエス様を信じている、という事が理由で受けた、一つ一つの苦しみ、迫害を、そして流して来た涙を。
あの時あの人からあのような事を言われたのも、あのような扱いを受けたのも、それでも、イエス様を貫いたあの忍耐も、主は、全部知っておられ、そのような聖徒に対しては「実は富んでいる」と評価して下さる。

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(2:11)
私達も、この世にあっては艱難ある。しかし主は世に勝利されたお方。
この世における信仰者としての道のりを勇敢に走りぬき、この地上の肉体が尽きる時に至るまで、主に対する忠実を貫く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

エペソ教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録2:1-7)
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ヨハネはこの預言の書を「朗読」し「聞き」「心に留める」べき事を指示した。(1:3)
この預言の書は既に完成したメッセージであり、これ以上付け加えたり減らしたりしてはならない事も、主によって宣言されている。(22:18-19)
それ故、この書について、人が何か考えだした解釈の中に縛り込む事に対して、私達は警戒しなくてはならない。
特に黙示録は、今までの歴史で、異端と呼ばれる者達が「普通のキリスト教会では解き明かせなかった謎を、自分達は解き明かした」と公言し、自分達に都合の良いように解釈を付け加え、人々を恐怖で煽りたて、救いはあたかも自分達にしか無いかのように導き、また他の教会や群れはあたかも無能であるかのように人々を引き込み支配した事も多々あったからだ。

しかしながら、この手紙はギリシヤ語で生活する1世紀のアジヤの人々に対しては分かりやすく記されてはいるとしても、21世紀の現代日本に生きる私達は、そのまま読んでも理解しにくい所がある。
例えば、日本語はギリシヤ語と違って、冠詞は無いし、時制や単数複数の指定もあいまいで、当時の彼らが当然のごとく理解できていたニュアンスを、私達はそのままでは理解できないし、また、例えば「ニコライ派」という言葉にしても、当時の彼らにはすぐに思い当たった言葉であっても、21世紀の私達には、説明無しにはわからない。
このような、時代や言葉の翻訳を経る事によって、本来的な意味やニュアンスが薄れてしまったり、風化してしまった点については、21世紀を生きるアンゲロス達(牧師など伝達者達)は、それら本来的な意味やニュアンスを掘り起こし、人々に説明する必要性は、あるだろう。この預言の言葉は「減らしてはならない」とも命じられているからだ。
その程度の手助けはするにしても、この書を本当に理解させて下さる御方は、御霊である事には変わりは無いし、人間の解釈が御言葉を上回るような事は、あってはならない。

『エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を「持つ(ホ・クラトーン)」者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。』(黙示録2:1)
主はその右の手に、七つの星を「ホ・クラトーン」しているのを、ヨハネは見た。
この「ホ」は冠詞で、「クラトーン」は、ぎゅっと握りしめる事の動詞である。
動詞には普通、冠詞はつけないものだが、ヨハネがわざわざ「ぎゅっと握りしめている」動詞に冠詞を付けたのは、ここを強調したかったからだろう。

星とは教会のアンゲロス達、すなわちメッセンジャーや牧者達であり、燭台はエクレシア達(主にある集い:教会)の事である事を、主は既に解き明かして下さった。
つまり主は星たち、すなわちアンゲロス達(メッセンジャー達、働き人達や牧者たち)を、情熱の感情を持ちつつ、世の終わりに至るまでぎゅっと握って離さない事を、ヨハネは強調したかったのである。

また、ここの「歩く(ペリパテオー)」は、ゆっくりじっくり歩き回る、生きる、過ごす、といった意味のある言葉である。
つまり主は、7つの金の燭台の只中、すなわち、主にあるエクレシア達の”ただ中”で、聖徒達と共に歩み、共に生きて下さるお方だ。
その御方が、言われる。

『わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。』(黙示録2:2-3)
主は、「知って(エイドー)」おられる。このエイドー(オイダーの接続法)は、感覚的・主観的・感情的な面において「知っている」という意味である。
まことに主は、エクレシアの間を行きめぐり、聖徒達の心の奥底も、内に隠れた心や動機の機微も、労苦や忍耐の時に流した涙も、全て知っておられる。

『しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。』(黙示録2:4)
エペソ教会の牧者(アンゲロス)に対する叱責は、「初めの愛から離れてしまった」事であるが、ここの「離れる(アフィエミー)」は、無視する、見捨てる、離れる、捨て去る等の意味がある。

『そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。』(黙示録2:5)
主は、初めの愛を捨ててしまったメッセンジャー達、働き人達に「悔い改めて初めのわざを行いなさい」と言われた。
「行い(エルゴン)」をしなさい、と。
ヤコブも言う。行い(エルゴン)の無い信仰は、死体である、と。
もしそれをしないなら、燭台を、すなわちエクレシア(集会)を、あなたの所から取り上げてしまう、と。
だから主は、あなたがた・メッセンジャー達、牧者たちよ、最初の行いを為し、最初の愛を思い出しなさい、と叱責し忠告しておられる。
私達にも、もし主のメッセージを届けるべき相手、御言葉を届けるべき相手、養うべき相手がいるとするなら、すなわちアンゲロスであるなら、はじめの愛を忘れず、初めの行いをキープし続けるべきだ。

それでも、自分からそれを捨て去ってしまうとするなら、主の警告を受ける事になる。
最初の行いに戻りなさい、そうでないと、あなたの目の前にいる集会、あなたが養っている羊達は、いつまでもあなた方の前にいるとは限りませんよ、と。

『しかし、こういうことはある。あなたはニコライ宗の人々のわざ(エルゴン:行い)を憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。』(エペソ2:6)
ニコライ派とは、当時の異端である。
彼らは、偶像に供えた物を飲食し、不品行を勧める「バラムの教え」に似たもののようである。(2:14)

現代でも、キリスト者の不当な飲み食いや不品行を許容し、あるいは勧めるような、現代版の「ニコライ派」がいるが、彼らのように、神を敬っているとは言いつつもその実はそうでないような「わざ(エルゴン:行い)」は、憎むべきである。
なぜなら、主もそれを憎んでおられるからだ。

勝利者に対して約束されている報いは、次の事である。
『勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。』(黙示録2:7b)
ここで主は、エデン(楽園)にあったいのちの木への回復を約束しておられる。
だから私達も、勝利者となるために、最初の愛を捨てる事が無いように、もしも主からの叱責を受けたとしたなら、速やかに主の言葉に従順し、はじめの愛に即した行いをし続けるべきだ。
この事は、この肉体のいのちが尽きるまで続けるべき事であり、そうして、いのちの木へと至る幸いへ、あずかる事が出来るのだ。

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(黙示録2:7a)
私達はこのエペソ教会の使者に言われた言葉に聞き、御霊によって訓戒を得て、主の働き人として最初の愛、最初の行いをキープし続け、その幸いにあずかる者でありたい。

黙示録2-3章概要(黙示録2:1-7)
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黙示録の最初には「アジヤにある七つの教会へ」と記されているが(1:4,11)、2章と3章は、7つの教会の使いに対する個々のメッセージであり、それぞれ、およそ次の構造に従って語られている。

1,一次受信者の指定
例:「エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。」(2:1a)

2,語られるキリストの姿
例:「『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。」(2:1b)

3,賞賛と激励
例:『わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。』(2:2-3)

4,叱責と警告
例:『しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。』(2:4)

5,勧めの宣言
例:『そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。』(2:5)

6,勝利者に約束されている報い
例:『勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。』(2:7b)

7,二次受信者への命令
例:『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(2:7a)

なお、必ずこの番号順になるとは限らないし、また、賞賛だけあって叱責が無い場合や(スミルナ、フィラデルフィア)、その逆で、叱責だけあって賞賛が無い場合もある。(ラオデキヤ)

この、黙示録という手紙の宛先は、各教会の牧者や説教者、メッセンジャーである事は、以前見た。
この手紙を受け取った各教会の聖徒達は、礼拝の時間、説教者がこの預言のことばを単に朗読し、会衆達は、単に耳を傾けた。

原初の教会の礼拝形式は、主イエスを信じる人々が主日、一つ所に集い、この巻物の書簡を神の言葉として、そのまま朗読し、人々はそれに耳を傾けてアーメンするというとても単純明快なもので、いわゆる「説教」は無いため、言葉の解釈の違いから来る分裂などは無く、各教会の聖徒達は、朗読された御言葉を聞いて、記されていた内容を守り行う歩みを主に捧げるという「礼拝」によって、祝福の実体を経験していた。(「読むだけで開かれるヨハネの啓示録」キム・ヒョンジュン博士著)
まさに「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。」と記されてある通りである。(1:3)

さて、この手紙の第一の受信者は、エペソ、スミルナなど、アジヤ地方の7つの教会の牧者やメッセンジャー達であったが(2:1,8,12,18,3:1,7,14)、彼ら以外にも、この手紙が読み聞かされるべき人、すなわち、”二次受信者”が存在する、という事は、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」と、7度も繰り返されている事からもわかる。(2:7, 11,17,29,3:6,13,22)
それら二次受信者とは「耳のある者(原意:聞くための耳(単数形))」の全てであり、すなわち、現代を生きるエクレシアである私達・キリスト者達も、この手紙が宛てられた「二次受信者」に含まれているのである。

手紙の一次受信者であるアジヤ地方の教会の牧者達に対しては、彼らそれぞれの生き方や状況、信仰の状態を直接的に評価し、賞賛し、叱責する内容の手紙であったわけだから、彼らはその内容が最も染み渡り、最も適用された事は、事実であろう。
しかし現在、私達がこの手紙の二次受信者へと加えられているからには、私達も、各々置かれた時代や環境、それぞれの信仰や状態に応じた、主からの賞賛や叱責、勧めや報いの言葉を頂くものである。
どんな国、時代、状況の兄弟姉妹であれ、主の言葉を守り御名を否まなかった聖徒達には、フィラデルフィア教会への賞賛があるであろうし、生ぬるい信仰の人には、ラオデキヤ教会への叱責や訓戒があるだろうし、迫害下にある兄弟姉妹には、スミルナ教会への励ましと力づけの言葉を、聖霊より、それぞれいただくであろう。
それはまったく「”御霊が”諸教会に言うことを聞くがよい」と、繰り返し命令されている通りである。

私達は御言葉を読む時、読んだ一人ひとりの心を聖霊様が照らして下さる、その光によってこそ導かれるべきであり、決して、人間が構築した「解釈」という縛りに、御言葉を閉じ込めてはならないのだ。
たとえその解釈が、何世紀に渡る伝統的なものであっても、あるいは、今が旬の有名な先生由来のものであっても。
なぜなら、次のように書かれてあるからだ。
『こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、「人々が聖霊に感じ、神によって語ったもの」だからである。』(2ペテロ1:19-21)
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)

私達がこの預言の言葉を読み上げる時、聖霊様が直接、おのおのに御言葉を悟らせ、理解させる働きをして下さる、という約束がある。
それならば、御言葉が宣言される時、牧者も信徒たちも、宣言している人も、聞いている人も、今、聖霊様が働き、悟らせて下さる事を信じて、聖霊様のわざが豊かに為される事を祈り求めた上で朗読し、また聞くべきなのだ。

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主に召し出されても、何をして良いのか分からない時(ヨハネ21:1-8)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 復活祭の後、およそ7週間後の聖霊降誕日までの間を、教会の暦は「復活祭期」「主の復活の第*週」と呼んでいるが、この期間、私達は聖霊に満たされる事を祈り求める時としたい。
弟子達は、いつ、聖霊を受けたか。それは実は、ペンテコステの日ではなく、イエス様の復活の日である。
『イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。』(20:21-22) イエス様はこの時、「あなた方を遣わす」と言われ、そして、息を吹きかけた。
聖霊を受ける理由は、「遣わされるため」である。私達はイエス様の御元で座って聞き入って居たいかもしれない。しかしそこを立って、世へと出て行き、イエス様を伝える者となるべきだ。世に働きは多いからだ。
しかし弟子達は、復活の主からせっかく聖霊の息吹を吹きかけられても、以前と全く変わっていなかった。

『シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「私達も一緒に行こう」と言った。」(3節)
シモンがここで言った「行く(フパゴー)」には、「徐々に退いて離れて行く、去って行く」の意味がある。
つまり彼らは、せっかくイエス様から「遣わされる」ために聖霊の息吹を吹きかけられたのに、弟子としての働きは徐々に退き、元々していた漁へ戻って行こう、と表明したのだ。私達もそういう所があるかもしれない。
イエス様を信じ、イエス様から「あなたを遣わします」と、聖霊の息を吹きかけられたのに、特に変わり映えが無く、むしろ今までいつも目の前で先頭に立ってリードしてくれていた指導者や、牧師がいなくなったら何も出来ず、何も思い浮かばず、手をこまねいて、以前の状態に戻ろうとしてしまうのは、ありがちである。
しかし私達は既に、イエス様を主と告白する事によって、聖霊の息吹は受けている。(1コリント12:3)
世から引き抜かれ、神の国の者とされている。というのに、今まで頼りにして来たものが目の前からいなくなってしまって、何が出来るだろう、と思う働き人は多い。しかし主を信じて行くなら、大きな働きをするのだ。
『よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。』(14:12)
実際、弟子達はペンテコステ以降、イエス様のわざをなし、とても偉大なわざをして行った。
そこに至るまでは、まだ、色々なステップを踏んでいかなくてはならなかったが。

弟子達は、その夜、何も獲れなかった。ひと度、主から聖霊を息吹かれ、任職を受けたなら、以前していた世の事どもに戻ろうとしても、何も獲れないし、また、世に留まり続けてもひたすら虚しく、何の実りも無いのだ。その時、イエス様は岸辺に立たれたのに、弟子達には、それがイエス様だとは分からなかった。
『イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。』(21:5)
イエス様は、分からないから聞いたのではない。任職と聖霊を受けたのだから、人間をとる漁師に出るべきはずなのに、今までの世の魚を取ろうとするのだから、収穫が虚しいのは当然だろう、と確認したのだ。
『すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。』(21:6)
イエス様の御旨でない所に闇雲に網を投げても、ひたすら虚しいのだ。伝道であれ、奉仕であれ、御旨でない所に「ここだ」と思って投げても、同じく虚しいのである。しかし、イエス様の御声に従順し、彼が指示される所に網を降ろすなら、人の能力や経験を遥かに超えた、何日分もの養いを得る事が出来る。
そして、それをして下さったのは、人ではなく主であると知り、主はそのような御方であると改めて確認するのだ。ヨハネは「余りある必要を満たされる」というイエス様のご性質を思い出し、「あれは主だ」と叫んだ。
前の仕事・前の状態に戻ろうと言った張本人のペテロは、主であると聞き、衣で裸を覆い海にとびこんだ。
私達も、ペテロのように、イエス様だと気づいたなら、イエス様に敬意を表し、すぐ飛び込んで戻るべきだ。

私達は、イエス様を信じて以降、彼の素晴らしさ、御言葉の甘さを味わっていながら、伝えていなかったり、恐れて戸を閉ざして閉じこもっていたり、前の状態に戻ろうとしたりしていないだろうか。ぬくぬくと現状の心地よさに留まっていないだろうか。もしそうだとするなら、もはやそこを離れて働きに出られるよう、聖霊充満を求めるべきだ。キリストの復活と新しいいのちに生き、永遠の働きをして行く皆さんでありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
私達の罪の償いのために罪過のいけにえとなって下さった主(レビ記5章)
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祈祷会礼拝説教メッセージ

主の復活から昇天までの弟子達の整え(ヨハネ21章)
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御心とは(1テサロニケ4:1-8)
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エペソ人への手紙 講解説教メッセージ
主の引き抜きによって御国の捕虜とされた私達に相応しい歩み(エペソ4:1-10)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
踏みにじられなかったのに踏みにじり、裏切られなかったのに裏切る者(イザヤ33:1-6)
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