メッセージ - 201601のエントリ

長年出来なかった再建を開始するために(ネヘミヤ1-2章)
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週報/メッセージ(説教)概要

天声教会設立のビジョンが与えらて15年、この会堂での礼拝が始まって10年目、当教会にとって節目にあたる今年、当初のビジョンに帰り、再建すべき礼拝とは何であるのかを、今年に入ってから学んでいる。
前回はハガイ書2章から、神殿の礎を据えた日、すなわち礼拝を中心とする生活を決心した日から後をよく考えよ、その日の前はどうだったか、それに比べ、その日以降はどうなったか、カレンダーに印をつけて比較せよ、という事を、示された。皆さんは、礼拝を中心とした日々をキープできているだろうか?
せっかく悔い改め、心を入れ替えて新しく生きようと決心しても、一日、二日経つ内に決心が薄れ、三日目で怠けてしまい、それ以降は怠け癖がついてしまって、1週間後には、完全に前の生活、前の生き方に戻ってしまっている、という事が、霊的生活では、ありがちである。
この「怠け癖」が身に沁みてしまっている人、思慮に欠けてしまっている人の畑は、いばらが一面に生え、いらくさが地面をおおい、その石垣はこわれている状態だ。(箴言24:30-31)
分かってはいても、染みこんでしまった怠け癖や思慮の無さから脱出する事は、困難である。そこで今回、長年出来なかった礼拝の再建を開始する術を、城壁を立て直す名人・ネヘミヤから学びたい。

ネヘミヤの名の意味は「主の慰め」である。彼はハガイと同じく、バビロン捕囚後のイスラエル再建に貢献した。彼は元々、ペルシア王アルタシャスタに仕える献酌官だったが、エルサレム城壁が崩されたままである事を聞いた時、彼は憂いて泣き、主に憐れみを祈った。(ネヘミヤ1章) 彼が祈った所、主の憐れみを受け、王の許しと援助を得て総督となった。彼こそ、エルサレム城壁の再建を指揮し、建て直した人である。
彼が総督に任命されて帰国の許可を得たのは、紀元前445年と言われている。バビロン捕囚が終わったのは紀元前537年なので、捕囚が終わって後の92年、誰も城壁を建て直す人がいなかった、という事だ。
誰かがいつかしてくれるだろう、と誰もが思っていて、結局92年も、城壁は放ったらかしにされていた、という事だ。まさに次の状態である。『「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それ故、貧しさは盗びとのようにあなたに来、乏しさはつわもののように、あなたに来る。』(箴言24:33-34)
城壁とは、身を守る防護壁であり、自分の領域と外との境界線である。皆さんの人生の城壁はどうだろう。
人生の城壁が崩されてしまった人の特徴は一言、「受け身」であり、悪しき者が出入りし放題でも、なされるがまま、嘲られ、卑しめられ、ぶん取られても、それが悪い状態だと気づかず、むしろ自分はお人好しな、善良な人であるかのように勘違いしている人もある。主の尊い器が蹂躙されている状態は、全く良いものではない。まさに箴言24:30以降にある通り、いらくさやあざみに覆われ、石垣は崩されてしまった状態だ。
建て直しはまず、ネヘミヤのように、そのような状態を悲しみ、祈る感性を持つ所からである。

長年崩されていた石垣を建て直そうとする時、大体、それを邪魔する者が現れる。(ネヘミヤ2:10)
それは、城壁が崩されたままの方が、分捕り放題出来て、都合良しとする「外部の敵」であり、あるいは内部の、特に現状のままのほうが善良であるかのように意見し反対する人である。なぜ彼らが反対するか。
それは、建て直しをしてしまったら今までそれをしなかった自分の怠慢さが浮き彫りにされてしまうからだ。
だからネヘミヤは事を起こす時まで、ごく一部の人を除いて誰にも公開せず、密かに行動した。(11-16節) 
そうして全てを裏で整えてから、皆に再建に取り掛かる事をあかし、また、王の後ろ盾もある事もその時明かし、皆を奮い立たせたため、誰からも反対を受けずに、皆で仕事に取り掛かる事が出来た。
『ところがホロニびとサンバラテ、アンモンびと奴隷トビヤおよびアラビヤびとガシムがこれを聞いて、我々をあざけり、われわれを侮って言った、「あなたがたは何をするのか、王に反逆しようとするのか」。』(19節)
外部の敵は、あたかも、再建が悪い事であるかのように言う。あたかも自分達が違反しているかのように。
しかしその時、神の国の価値観に立つべきだ。神の国の価値観は、いのちの建て上げを良しとし、礼拝の建て上げを良しとする。それに反する事の方が、永遠なる御方に背く事なのだ。ネヘミヤは御国の価値観に立って、堂々と言った。「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。しかしあなたがたはエルサレムに何の分もなく、権利もなく、記念もない。」(ネヘミヤ2:20)
私達も彼のように、いのちのために、礼拝のために、天の神である主を後ろ盾につけて、宣言するのだ。
そしてもはや、長年留まっていた荒れ放題の様から脱却し、人生と礼拝の再建を開始するべきだ。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
ネヘミヤの性質 - 上の権威と敵に対しての正しい対応方法(ネヘミヤ2章)
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祈祷会礼拝説教メッセージ
御言葉を聞いて行う人と、行わない人(マタイ7:24-27)
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エペソ人への手紙 講解説教メッセージ
世の初まりの前からキリストにあって選ばれていた私達(エペソ1:3-6)
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イザヤ書 講解説教メッセージ

形式的な礼拝はもはや捨て、心の深みから主を求めよ(イザヤ29:13-24)
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火曜早天祈祷会

三日坊主を防ぐために(箴言24:30-34)
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霊的妥協によって陰りを見せているソロモンの栄光(1列王記9:10-28)
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『ソロモンは二十年を経て二つの家すなわち主の宮と王の宮殿とを建て終った時、ツロの王ヒラムがソロモンの望みに任せて香柏と、いとすぎと、金とを供給したので、ソロモン王はガリラヤの地の町二十をヒラムに与えた。しかしヒラムがツロから来て、ソロモンが彼に与えた町々を見たとき、それらは彼の気にいらなかったので、彼は、「兄弟よ、あなたがくださったこれらの町々は、いったいなんですか」と言った。それで、そこは今日までカブルの地と呼ばれている。ヒラムはかつて金百二十タラントを王に贈った。』(1列王記9:10-14)
ソロモンは、今までの彼らしくない事をしている。
神殿建築の大きな功労者であり、長年親交の深かったツロの王・ヒラムに対し、彼のその労に対するお礼として、「無に等しい(カブル)」と称されるようなものを贈ったのだ。
偉大な知恵と、広い心と、多くの富が与えられたはずの彼であるのに、そんな事をしたのだ。

この時、彼の治世は24−5年目に入っており、残す治世は、15−6年ほどである。
もしかすると、彼の栄光も、既に陰りを見せていたのかもしれない。

栄光と富に陰りを見せてしまう原因は、御言葉に対する妥協である。
妥協が長く続けば続く程、祝福が留められてしまう事も長くなってしまい、既に与えられている栄光と富を、ただ浪費するしか無い循環に入ってしまう。

そもそも、イスラエルの土地を、異邦の国に賞与として与える事は、律法に反する事であり、ヒラムの気に入る・気に入らない以前の問題である。
『地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。』(レビ記25:23)
全地は主のものであり、特に彼らが住んでいる地・カナンは、子々孫々への相続が約束された土地である。
もし人が落ちぶれて、土地を手放さなくてはならなくなったとしても、その土地はヨベルの年には戻されなくてはならない、と、主が定められた程だ。
どんなにつまらない地であったとしても、それを異邦人に渡すなど、もっての他なのだ。

他にも、彼が御言葉に妥協したり、違反している点を、幾つか見いだす事が出来る。
ソロモンは、パロの娘のために、また、軍事的な町々のために、労働者を強制徴募して建築させた。(1列王記9:15-19)
異邦の女をめとる事も、また、馬をエジプトから多く輸入したり、自分のために金銀を多く増やす事も、律法には叶わない事である。(申命記7:3-4、17:16-17)

『すべてイスラエルの子孫でないアモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの残った者、その地にあって彼らのあとに残った子孫すなわちイスラエルの人々の滅ぼしつくすことのできなかった者を、ソロモンは強制的に奴隷として徴募をおこない、今日に至っている。しかしイスラエルの人々をソロモンはひとりも奴隷としなかった。彼らは軍人、また彼の役人、司令官、指揮官、戦車隊長、騎兵隊長であったからである。』(1列王記9:20-22)
これらの「アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびと」達は、本来、聖絶すべき者達として定められている。(出エジプト記34:11-12、申命記7:1-3)
しかしソロモンは妥協し、強制労働として働かせた。
これらの者達は、後々にイスラエルに災いする事になってしまう。

私達も、主から「取り除くべき」と言われたものに関しては、取り除く事を後回しにしてはいけない。
なぜなら、後回しにしてしまえばしてしまう程、それに慣れてしまい、情が芽生え、惜しむようになり、ますます、取り除く事が困難になって行ってしまうからだ。

『ソロモンは主のために築いた祭壇の上に年に三度燔祭と酬恩祭をささげ、また主の前に香をたいた。こうしてソロモンは宮を完成した。』(1列王記9:25)
もし彼が直接祭壇でいけにえを捧げ、香を焚いたとしたなら、大問題である。
アロンの子孫である祭司以外の者は、主の御前で香を焚いてはならないからだ。(民数記16:40)
ソロモンの子孫であるウジヤ王は、強くなるにつれて心高ぶり、彼自身が香の祭壇の上に香を焚こうとした所、祭司に戒められたが、彼は戒められた事について大いに怒り、強引に香を焚こうとしたまさにその時、彼の額にらい病が現れ、彼は死ぬまでそれに犯されたままであり、彼は、隔離された家に住まされ、主の宮と王の執務から切り離されてしまった。(2歴代誌26:16-23)

『ソロモンの工事を監督する上役の官吏は五百五十人であって、工事に働く民を治めた。パロの娘はダビデの町から上って、ソロモンが彼女のために建てた家に住んだ。その時ソロモンはミロを建てた。・・・ソロモン王はエドムの地、紅海の岸のエラテに近いエジオン・ゲベルで数隻の船を造った。ヒラムは海の事を知っている船員であるそのしもべをソロモンのしもべと共にその船でつかわした。彼らはオフルへ行って、そこから金四百二十タラントを取って、ソロモン王の所にもってきた。』(1列王記9:23-28)
ソロモンはこのように、大きな工事や海洋貿易を行って事業を拡大し、物質的には栄えたが、彼の霊的な妥協ゆえに、物質面でも陰りを見せつつあった。

主との関係を回復し、霊的な面での建て直しが行われるなら、物質的な面での祝福も後を追って来るものであるが、逆もまた真である。
霊的なことがおろそかになれば、物質的な面でも、後を追って衰退して行ってしまうものだ。
それは、現代を生きる私達においても、全く同じである。
私達はこの事をよく学ぶべきである。

神殿について祈ったソロモンの祈りへの、主の応答(1列王記9:1-9)
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『ソロモンが主の宮と王の宮殿およびソロモンが建てようと望んだすべてのものを建て終った時、主はかつてギベオンでソロモンに現れられたように再び現れ』(1列王記9:1-2)

主がかつてギブオンでソロモンに現れた時とは、主がソロモンに「あなたに何を与えようか、求めなさい」と促した、あの時の事だ。
ソロモンはその時、主にシャマーの心(聞いて従う心、わかる心)を求め、その願いが主に喜ばれ、主は彼に大いなる知恵と、栄誉と、富と、その他、あらゆる良きものを与えた。
あれから十数年、ソロモンは神殿を建設し終わり、その神殿について主が格別に目を注いて下さるよう祈り願ったが、主は、その祈りへの返答をされたのである。

『彼に言われた、「あなたが、わたしの前に願った祈と願いとを聞いた(シャマー)。わたしはあなたが建てたこの宮を聖別して、わたしの名を永久にそこに置く。わたしの目と、わたしの心は常にそこにあるであろう。』(1列王記9:3)
主は、ソロモンの願いを確かに聞かれ、そのとおりにされた。
主はその神殿を聖別し、主の御名を永久にそこに置き、いつもそこに目と心を注ぐ、と約束された。

主の目がいつも、その神殿に注視され、主の心がいつもそこに置かれている。何と素晴らしい事だろうか。
その神殿はまさにイスラエルの栄誉であり、ソロモンとしても、何にも増して誇りに思える事だろう。
しかし、いつも主の目が注がれている、という事は、逆に言うなら、それだけ迂闊な事はできないという事でもある。

人間が全能なる神を意識せず、誰にも見られていないと思って、平気で罪を犯し続けるなら、それは、監視カメラを前に盗みを働いているようなものだ。
かと言って、全能なる神の監視の目を気にして、本当はしたい「悪い事」をぐっと我慢して生きている事は、実に悲しい生き方だ。
私達はむしろ、愛と憐れみ、赦しに満ちた主のその眼差しを意識するべきである。

主は、私達の髪の毛の数さえ全てご存知であり、私達が胎児であった時も既に私達を見ておられ(詩篇139篇)、そればかりでなく、私達が生まれるはるか以前から、キリストにあって私達を選び、祝福のご計画を立てておられた。(エペソ1:3-5)
私達が立つのも伏すのも知っており、私達の舌に言葉がのぼる前から、既に、それを読み取っておられる。
愛と憐れみ、赦しに満ちたもう主は、私達の全ての思い煩いも、そして、私達の奥深くにある誰も知り得ないような傷ついた心の深みさえ、全てご存知なのだ。
だからこそ、何もかも打ち明ける事が出来る。
主は、たとえ牢の中にいようと、海深く魚の腹の中にいようと、ただ主に心を向けて祈るだけで、主とのコミュニケーションが繋がり、祈りを聞いて下さるのだ。(ヨナ書2章)
その主にいつも喜び、絶えず祈り、全ての事について感謝する生き方のほうが、断然、得であり、有意義な生き方だ。

『あなたがもし、あなたの父ダビデが歩んだように全き心をもって正しくわたしの前に歩み、すべてわたしが命じたようにおこなって、わたしの定めと、おきてとを守るならば、わたしは、あなたの父ダビデに約束して『イスラエルの王位にのぼる人があなたに欠けることはないであろう』と言ったように、あなたのイスラエルに王たる位をながく確保するであろう。』(1列王記9:4-5)
ここには、3つの動詞が出てくる。すなわち、主の前に「歩み」、主が命じたように全て「行い」、主の定めとおきてとを「守る」事。
これらをするなら、主がダビデに約束して下さった王権を、あなたにも継続させよう、と言うのだ。
私達も全く同じだ。
私達も主の御前に歩み、主の御言葉を守り行うなら、必ず祝福される事が約束されているのだ。

そして主は、ソロモンに、逆の場合についても釘を刺されている。
『しかし、あなたがた、またはあなたがたの子孫がそむいてわたしに従わず、わたしがあなたがたの前に置いた戒めと定めとを守らず、他の神々に行って、それに仕え、それを拝むならば、わたしはイスラエルを、わたしが与えた地のおもてから断つであろう。またわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げすてるであろう。そしてイスラエルはもろもろの民のうちにことわざとなり、笑い草となるであろう。』(1列王記9:6)
ここにも、3つの事が出てくる。
すなわち、主に「そむいて従わず」「戒めと定めとを守らず」「他の神々に行って、それに仕え、それを拝む」なら、主が御名を置かれたあの特別な神殿さえ、投げ捨ててしまう、というのだ。

私達も全く同じだ。
いかに素晴らしい教会を建てたとしても、主に背き、主の御言葉を守らず、イエス・キリスト以外のものにも救いを求めるとするなら、そのような教会やミニストリーは、御前から投げ捨てられてしまうのだ。

『かつ、この宮は荒塚となり、そのかたわらを過ぎる者は皆驚き、うそぶいて『なにゆえ、主はこの地と、この宮とにこのようにされたのか』と言うであろう。その時人々は答えて『彼らは自分の先祖をエジプトの地から導き出した彼らの神、主を捨てて、他の神々につき従い、それを拝み、それに仕えたために、主はこのすべての災を彼らの上に下したのである』と言うであろう」。』(1列王記9:8-9)
主は、神の民イスラエルに祝福を与える事を通して、異邦人に栄光を表された。
しかし、もし神の民イスラエルが御声に聞き従わない、という事であるなら、彼らに降される大きな災いを通しても、異邦人に栄光をあらわされる。
どちらにしても、ただ主の栄光はあらわれるのだが、主は、人が罪を犯して災いに遭う事を望んではおられない。むしろ祝福され、いのちを獲得する事を望んでおられる。

主は、真実なお方である。
私達は、肉に対して種を蒔くなら肉から滅びを刈り取るが、霊に蒔くならいのちを刈り取る事を、気をつけていなくてはならない。
『わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。』(申命記30:19-20)

奉献の祈りの後の盛大な祝賀式(1列王記8:54-66)
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『ソロモンはこの祈と願いをことごとく主にささげ終ると、それまで天に向かって手を伸べ、ひざまずいていた主の祭壇の前から立ちあがり、立って大声でイスラエルの全会衆を祝福して言った、「主はほむべきかな。主はすべて約束されたように、その民イスラエルに太平を賜わった。そのしもべモーセによって仰せられたその良き約束は皆一つもたがわなかった。』(1列王記8:54-56)
ソロモンは、それまで神殿奉献の祈りを、跪いて主に捧げていたが、それを終えると立ち上がってイスラエルの民全体の祝福の祈りに入った。
彼は祈りの最初に「主はほむべきかな」と主を賛美している。なぜなら主は、約束して下さった事を、何一つ違えず、誠実にその民に為して下さったからだ。

続いてソロモンは、イスラエルの民について3つの事を願い、執り成している。
『われわれの神がわれわれの先祖と共におられたように、われわれと共におられるように。われわれを離れず、またわれわれを見捨てられないように。われわれの心を主に傾けて、主のすべての道に歩ませ、われわれの先祖に命じられた戒めと定めと、おきてとを守らせられるように。主の前にわたしが述べたこれらの願いの言葉が、日夜われわれの神、主に覚えられるように。そして主は日々の事に、しもべを助け、主の民イスラエルを助けられるように。』(1列王記8:57-59)

つまり3つの願いとは、主が我々を「見捨てられないように」、「命じられた戒めと定めと、おきてとを守らせられるように」、「助けられるように」である。
主は私達を助け、決して見放さず、見捨てられないと、聖書に書いてあるが、それなら、この「主が自分達を見捨てられないように」「助けられるように」という祈りは、無駄なのだろうかというと、そうではない。

もし私達が、主の御言葉と主が為してくださった良きわざを軽んじてしまい、主への恐れを捨て、主から離れるとするなら、恐ろしい刑罰が待っている事は、旧約でも新約でも変わらない。
『モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:28-29)
だから、「主が我々を見捨てられないように」「助けられるように」「自分達を主の道に歩ませ、命じられた戒めと定めと、おきてとを守らせられるように」と祈る人は、主への健全な恐れがある証拠であり、またその人が、主の道を誠実に歩もうとする意図がある事の表明でもある。
だから、私達が「主は決して私達を見放さず見捨てられない」という信仰が、確信に至るまでは、大いにその祈りをするべきである。

『そうすれば、地のすべての民は主が神であることと、他に神のないことを知るに至るであろう。』(1列王記8:60)
ソロモンは、自分が祈った事の動機を、「地のすべての民は、主が神であることと、他に神のないことを知る」ためとした。
そう、神である主は、元から全世界の主であり、救いは何も、イスラエルに限定されたものではない。

主は、確かにアブラハムを選び、区別された。
しかしそれは、アブラハムの子孫であるユダヤ人「だけ」を救うためではなく、アブラハムの子孫であるユダヤ人を通して、全世界に救いがもたらされるためである。
「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:22-24)

つまり、救いは血筋や生まれつきによるものでなく、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によるものであり、そして真の礼拝は、何処かの神殿でするものでなく、霊とまことによって為すものである。
この救い主、イエス・キリストを世に輩出するために、父なる神はアブラハムを選ばれ、ユダヤ人を律法によって整えたわけである。

ソロモンは最後に、民に対し、くぎを刺す。
『それゆえ、あなたがたは、今日のようにわれわれの神、主に対して、心は全く真実であり、主の定めに歩み、主の戒めを守らなければならない。』(1列王記8:61)
祝福の日々とは、神がただ一方的に与えるものではない。
人の側にも、主に対して守るべき義務があり、それは、「神、主に対して、心は全く真実であり、主の定めに歩み、主の戒めを守」り続ける事である。

このように奉献の祈りと民への祝福は終わり、そして、盛大な祭りに入る。
『そして王および王と共にいるすべてのイスラエルびとは主の前に犠牲をささげた。ソロモンは酬恩祭として牛二万二千頭、羊十二万頭を主にささげた。こうして王とイスラエルの人々は皆主の宮を奉献した。その日、王は主の宮の前にある庭の中を聖別し、その所で燔祭と素祭と酬恩祭の脂肪をささげた。これは主の前にある青銅の祭壇が素祭と酬恩祭の脂肪とを受けるに足りなかったからである。』(1列王記8:62-64)
とんでもない分量のいけにえである。
確かにそれだけのいけにえを捧げられたソロモンの富んでいる様や、太っ腹さは、目を見張るものがある。
しかし私達は、ここからは、それだけの動物のいのちが犠牲となった事に、思いをはせるべきである。

なぜ、「いのちの犠牲」が発生するのか。
それは、人の罪の「つぐない」となるためであり、罪による死の「身代わり」となるためであり、そして、神との和解を成立させるためである。
私達は、尊い犠牲となっていのちを捧げられた、神の小羊イエス・キリストを覚えるべきである。
彼は、私達の罪を赦すため、私達の「死」を身代わりとして負うために、そして、私達と神との和解を成就させて下さるために、自ら犠牲となって十字架の上で捧げられた。
私達はこの主イエス・キリストをこそ愛し、彼と共に歩み続けるべきである。

『その時ソロモンは七日の間われわれの神、主の前に祭を行った。ハマテの入口からエジプトの川に至るまでのすべてのイスラエルびとの大いなる会衆が彼と共にいた。八日目にソロモンは民を帰らせた。民は王を祝福し、主がそのしもべダビデと、その民イスラエルとに施されたもろもろの恵みを喜び、心に楽しんでその天幕に帰って行った。』(1列王記8:65-66)
こうして、盛大な奉献式が終わった。
イスラエルにとって、まことに喜びと祝福の絶頂の時期である。
主を愛し、御言葉を守り行うなら、確かに、このような祝福を受ける。
しかし大事な事は、その誠実をキープし続け、主と共に歩み続ける事だ。

ソロモンは確かに幾千・幾万のいけにえを捧げた。
しかし、それよりも主が求められる事を、預言者ミカは記している。
『わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもって/そのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。
人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。』(ミカ6:6-8)

直接イエス様に触れ、聖められよ(ハガイ書2:10-19)
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天声設立のビジョンが与えられて15年、現会堂が与えられて10年目の節目にあたる今年、「礼拝を再建せよ」という当初のビジョンに返り、「再建すべき礼拝」とは一体何であるのかを、ハガイ書から見ている。
前回の箇所の預言がなされて3ヶ月後、神殿の礎が据えられた。その日再び主の言葉がハガイに臨んだ。
「人がその衣服のすそで聖なる肉を運んで行き、そのすそがもし・・・どんな食物にでもさわったなら、それらは聖なるものとなるか』と」。祭司たちは「ならない」と答えた。」(12節) レビ記6章に解答がある。
罪のためのいけにえを主の御前でほふる時、それを捧げる祭司は、それを幕屋の庭の聖なる所で食べなくてはならないのだが、「すべてその肉に触れる者は聖となる」(同27節)と記されている。
つまり、罪のためのいけにえの肉に直接あずかる人が聖となるのであって、それを運んだ衣のすそに触れた人も聖となるのか、と言うと、「否」である。聖とされるのは、真の罪のいけにえとなって下さったイエス様へ直接触れる人であって、イエス様にあずかった「人」に触れても、何もならない。教会の催しや人に何年も関わっていたとしても、その人自身がイエス様に直接関わっていないなら、全然清められない訳である。

「ハガイはまた言った、「もし、死体によって汚れた人が、これらの一つにさわったなら、それは汚れるか」。祭司たちは「汚れる」と答えた。」(13節) この問の答えは、民数記19章に記されている。全て人の死体に触れる人は、所定の通りに清めの水で洗われない限り、汚れており、その人に触れる人も夕方まで汚れる。
「汚れ」は、伝搬するものである。イエス様は特に、人の口から出てくるものが、人を汚す、と言われた。
「すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがす」。」(マコ7:20-23)
すなわち、世の口論や、貪欲に由来する言葉、愚痴や噂話などに浸されるなら、思いが汚されるのであり、イエス様の御言葉の清めにあずからなくてはならない。「汚れて身を清めない人は主の聖所を汚す者で、その人は会衆のうちから断たれなければならない。」と、先の民数記19章に記されており、主はそのような汚れた人が捧げる捧げものは忌み嫌い、その者達の聖会は耐えられない、と言われる。(イザヤ1:13)

主はハガイを通して、主の宮をおろそかにしたままの状態は、まさにそうだった、と言われた。
実際、主の宮の礎が据えられる前は、収穫は、期待の半分以下だった。(ハガイ2:14-16)
イエス様に直接行かず、世の言葉の中で右往左往し、汚れたまま御言葉で清めないでいるなら、期待の収穫は望めない。しかし主は、主の宮の土台石を据えたこの日の後の事を、心に留めよ、と言われる。
『種はなお、納屋にあるか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリブの木もまだ実を結ばない。しかし、わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」。』(18-19節)
ユダヤ暦のこの時期は、太陽暦の12月に当たる。種はもう納屋には無く、蒔いた種も、実を結ばないまま冬に突入してしまった。状況としては絶望であるが、主は、はっきりと言われた。主の宮の礎を据えた今日から、後のことを考えよ、と。この日から、あなた方に恵みを与える、と、自信をもってはっきり言われた。

礼拝の建て直しと清めは個人個人のものであり、教会に頼りっぱなし、働き人に頼りっぱなしのものでない。
もし「汚れ」の自覚があるのなら、あるいは期待した収穫が望めない状況であるなら、長血の女が自分からイエス様の所に行き、信仰をもって手を伸ばしてイエス様の衣のふさに触れたように、自分からイエス様に進み行って、信仰をもってイエス様に手を伸ばすべきである。(マルコ5:25-34)
彼女は12年も長血を患い、律法上汚れた者として、12年も礼拝に参加できず、人から触れられず苦しんで来たが、多くの医者にかかって全財産を費しても、何のかいもないばかりか、ただ悪くなる一方であった。
ところが唯一、罪汚れをキャンセルさせて下さる御方、イエス様に手を伸ばし、彼女は全てが癒やされた。
お金も、世の言葉も、世の知恵も、罪に対し、汚れに対し、大地や経済の実りに対し、何の力も持たない。
実りも、金銀も、癒しも、天地に満ちているものも、全て主のものである。この主に、自ら個人的に進み行き、手を伸ばし、関わりを持ってこそ、全ての回復につながるのだ。私達が主を礼拝する土台を据えるなら、今日から後の事を考えよ、と言われる。礼拝の土台を据え、全ての面で豊かにされる皆さんでありますように!

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