メッセージ - 201511のエントリ

勝手に王になろうとしたアドニヤ(1列王記1:1-10)
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第二サムエル記では大いに活躍していたダビデだが、彼も年老いた。
ダビデがと共に活躍してきた同世代の人々は、徐々に退いてゆき、ダビデ治世下の比較的安定した時代に育った新しい世代が、王国の主力を担うようになって来た。
第一列王記は、そのような時期から始まる。

『ダビデ王は年がすすんで老い、夜着を着せても暖まらなかったので、その家来たちは彼に言った、「王わが主のために、ひとりの若いおとめを捜し求めて王にはべらせ、王の付添いとし、あなたのふところに寝て、王わが主を暖めさせましょう」。そして彼らはあまねくイスラエルの領土に美しいおとめを捜し求めて、シュナミびとアビシャグを得、王のもとに連れてきた。おとめは非常に美しく、王の付添いとなって王に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった。』(1列王記1:1-4)
ダビデはかつて姦淫の罪を犯し、それが元で殺人の罪を呼び、その罪の刈り取りの故に、サムエル記の半分以上を、主の懲らしめと苦々しい災いの記事で埋め尽くす事となってしまった。
これを過ぎたダビデは、もはや性的な面において潔白を貫くようになったのだろう。

いずれにせよこの情報、すなわち、ダビデの衰た体を温めるためにイスラエル中から若いおとめを探し、ダビデに召した事は、ダビデはもう衰えてしまったという事を広く知らせる事となっただろう。
長らく統治して来た強力な王が衰えたとなると、野心ある者が現れ、動乱が起こりやすくなるのは歴史の常である。

『さてハギテの子アドニヤは高ぶって、「わたしは王となろう」と言い、自分のために戦車と騎兵および自分の前に駆ける者五十人を備えた。彼の父は彼が生れてこのかた一度も「なぜ、そのような事をするのか」と言って彼をたしなめたことがなかった。アドニヤもまた非常に姿の良い人であって、アブサロムの次に生れた者である。』(1列王記1:5-6)
ハギテの子アドニヤはダビデ王の4男である。長男アムノンと3男アブシャロムは既に死に、次男キレアブ(歴代誌ではダニエル、その母はアビガイル)は、その名前以外は一切登場しないため、この時既に他界したか、あるいは王権からは遠ざかってひっそり暮らしていたかであろう。

アドニヤは、次の王として最も有力視されていたようだが、ダビデは予め、バテ・シェバの子ソロモンに王位を継がせる事を約束していた。(1列王記1;13,17)
しかし、そのソロモンが若く力が無い(1歴代誌22:5)となると、人々は、目に見えて頼りになりそうな方を選んでしまうものだ。

アドニヤは、父ダビデから一度も「たしなめ(アツァブ:彫刻する、痛い思いをする)」られたことがなかった、と記されている。
子を懲らさないで育てると、確かに親は後に苦しむ事になるが、何よりも、それは子を滅びへと導いてしまう事になる。(箴言13:24)
『むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。悪者がふえると、そむきの罪も増す。しかし正しい者は彼らの滅びを見る。あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。』(箴言29:15-17)
現にアドニヤは、たしなめられた事が無かった故に、傲慢となり、その傲慢が彼自身を滅ぼす事となってしまう。

『彼がゼルヤの子ヨアブと祭司アビヤタルとに相談したので、彼らはアドニヤに従って彼を助けた。しかし祭司ザドクと、エホヤダの子ベナヤと、預言者ナタンおよびシメイとレイ、ならびにダビデの勇士たちはアドニヤに従わなかった。』(1列王記1:7-8)
ヨアブとアビヤタルは、アドニヤが王になる事を支持している。

ヨアブといえば、あの有能な軍団長ではあるが、多くの罪のない人の血を流し、その上に彼のキャリアは成り立っていた。
また何度もダビデの命令を超え、度々ダビデを悩ませて来た者である。
祭司アビヤタルは、ダビデが若き時、サウル王から逃げていた時代から、ダビデに仕えて来た祭司であったのに、ダビデが年老いて衰えた時、ダビデへの忠誠から離れてしまったようだ。
しかし、ダビデと共に戦って来た勇士達など、ダビデに忠誠を尽くした人達もいた。
こうして王国は一時、アドニヤをかつぐ者と、ダビデにつく者とに分かれた。

アドニヤと、彼についた人達は、結局、主の御心に従うのではなく、また、主のしもべ・ダビデに忠誠を尽くすのでもなく、自分の思いどおりに物事を動かしたかったようだ。
ダビデは既に年老いている、それなのに次に王になる人を明らかにしないまま、美しいおとめに介護してもらっているような状況だ、彼にはおとなしく余生を過ごしてもらって、これからは、自分達の思う通りにイスラエルを動かしていこう、といったように。

私達は、物事が中々進まない時こそ、主の約束はどうであったかを思い起こすべきであり、何が主の御胸であるのかを主に伺うべきだ。
物事が中々思うように進まないと、外見の良さや力強そうなものが現れると、それに飛びついてしまがちであるが、性急に飛びついてしまった人達は、後に恥を見る事になる。

『アドニヤはエンロゲルのほとりにある「へびの石」のかたわらで、羊と牛と肥えた家畜をほふって、王の子である自分の兄弟たち、および王の家来であるユダの人々をことごとく招いた。しかし預言者ナタンと、ベナヤと、勇士たちと、自分の兄弟ソロモンとは招かなかった。』(1列王記1:9-10)
アドニヤは勝手に、王になったと言ってセレモニーを開き、そこには「都合のわるい人達」は誘わなかった。
それは彼の心に、後ろ暗い所があったからに他ならないが、このセレモニーの致命的な欠陥は、最も大事な人、すなわち、父であり、長年の王であるダビデに何も通達せずに、この事を行ってしまった事だ。
もしかすると、老獪なヨアブは「ダビデには内緒で行いなさい」とアドバイスしたのかもしれない。
一度、盛大に「アドニヤが王である」というセレモニーを開き、既成事実をつくってしまえば、勢いづいて、あとは民衆がついて来るだろう、と。

しかし、いかに人間が「流れ」をつくって既成事実を作っても、主の御胸でない偽りごとは、成就しない。
ただ主の御胸だけが成るものであり、そのような勝手な事を企てる人には、ただ、彼を不利訴える罪状のみが、既成事実として残ってしまうのだ。

神の霊の現れと性質(イザヤ40:3-5)
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週報/メッセージ(説教)概要

本日より、待降節(アドベント)に入る。現代、アドベントというと、クリスマスまでのカウントダウンのようなイメージもあるが、元々の意味は、主の「到来(ラテン語:アドベントゥス)」を待ち望む事であり、やがて来るべき再臨の主の「到来」を待ち望む事もまた、アドベントの時に覚え祈るべき事である。
私達はいか主の到来を待ち望むべきか。荒野で呼ばわる者の声は、叫ぶ。「主の道を整えよ」と。
主が通られ、私達の内に来られるために、険しい山谷のような性質が、平野のようにならされる必要がある。
今、まことの花婿キリストの到来を前にして、私達キリスト者はキリストの花嫁としてバージンロードを整えるような日々であるが、この「整え」は自分だけで出来るものではない。神の霊の力添えによって可能である。
私達は、この神の霊(聖霊、御霊に同じ)のどんな働きによって整えられていくのか、今回、神の霊の7種類の現れを学び、私達はどのような面において特に助けが必要で、求めるべきなのかを、学んで行きたい。

神の霊のまず第一は、「恵みの霊」(ヘブル10:29)である。「恵み(カリス)」には元々、「優しさ、思いやり、親切、恵み、恩恵、愛顧」などの意味があり、特にキリストの救いの無償である事を強調する語である。
聖霊により、カリスが各々に授けられると「賜物(カリスマ)」となって、各々に御霊の固有な現れが起きる。
主は、優しく思いやりに溢れた恵みの霊により、無償の愛と恩恵と、賜物とを恵んで下さり、生来の悪い性質から聖なる者へと贖い出して下さった。この、恵みの御霊をあなどるとするなら、重い刑罰が待っている。
2つ目は、「いのちの霊」(ローマ8:2)である。私達はキリストにあって歩み続けるなら、いのちの霊の法則が発動され、罪と死の法則から解放されている。(ローマ8:1-2) この霊の働きによって罪と死から解放され、泉のようにこんこんと湧き上がるいのちが川となって流れだし、死の海さえも、いのちに溢れて行く。
3つ目は、「神の子とする霊」(ローマ8:14-16)である。 私達は以前は神の子らしくなく歩んでいた。
罪を犯し、父から勘当され切り離されたかのような歩みをしていたが、神の子とする霊は、私達がキリストにあって神の子であると証し、この霊によって私達も、神を「お父さん(アバ、父)」と親しく呼ぶ事が出来る。
子であるなら、キリストと共に共同相続人であり、計り知れない富が、子とする霊によって与えられた。
4つ目は、「きよくする霊」(詩篇51:10)である。 ダビデは栄光と富と力が満ちた時、姦淫と殺人の汚れた思いに満たされ、そこを主に指摘された時、祈った。自分に清い心をつくり、揺るがない霊を新しくして下さい、と。私達も俗悪な思いに満たされ、聖なる歩みが頓挫してしまった時や、習慣的な罪を止められない時等は、ダビデのように、きよい心をつくり、揺るがない霊を自分の中に新しくして下さい、と祈るべきだ。
5つ目は、「執り成しの霊」(ゼカリヤ12:10)である。この霊が注がれると、国や人、事柄について心が張り裂けるような思いに駆られ、「あの人(国、事)を憐れんで下さい」と、何時間でも、何十時間でも、執り成しの祈りをするようになる。これは祭司として、長たる者として必要な霊であり、与えられるよう祈る必要がある。
また、祈りが出来ない人、人や事について思いが沸かない人も、この霊が与えられるように祈るべきだ。
6つ目は、「真理の霊」(ヨハネ14:17)である。これは、真理を理解し、識別する事のできる霊である。
世の人は、真理の御霊が無いため、主を知らないし、御言葉も理解できない。しかしイエス様を信じた人はこれを持っており、求めれば求める程、真理への造詣が深くなる。この霊に満たされた人は、御言葉の深い奥義に感動し、さらに満たされている人は、聖書の一節一節の中に、あたかも宇宙がまるまる入っているのではないかと思うくらいに感動する。これは、御言葉を伝える人は追求して行くべき霊である。
7つ目は、「栄光の霊」(1ペテロ4:14)である。 この霊に満たされた人は、人を見ず、状況を見ず、働きの労苦も見ない。圧倒的な天の栄光の素晴らしさを見るので、労苦も迫害も物ともせず、ただ主のために働き、主のために死ぬ事が、その人の唯一の願いとなる。ステパノは、御座に座しておられる栄光の主を見、栄光の霊に満たされ、彼に石を投げる人々を執り成しながら、御使いのような表情で殉教して行った。

霊にあって歩むなら、肉の行いをしなくなって行く。だから、肉のわざを我慢するより、御霊に満たされ御霊によって歩む事を求める方が遥かに有益だ。この神の霊によってこそ、私達の内側のでこぼこは平らにされ、御前に聖い花嫁として整えられて行く。神の霊に満たされ、主に恵みが増し加えられ、いのちに溢れ、神の子とされ、きよくせられ、執り成し祈り、ますます真理が開かれ、栄光の働き人となって行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

失敗を犯しつつも徐々に成長して行く荒野の民(民数記21:1-9)
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早天祈祷会

サタンはなぜ赦されないのか(使徒2:22-28)
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マタイによる福音書講解説教メッセージ

悔いはしても改めなかったイスカリオテのユダ(マタイ27:1-10)
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イザヤ書講解説教メッセージ

壮大な罠である地上の有様(イザヤ24:14-23)
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火曜早天祈祷会

人を建て上げる御霊の7つの現れ(ガラテヤ5:16-18)
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第一列王記概要(1列王記1:1)
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講解説教は、第一列王記に入る。
元々、サムエル記と列王記は共に一つの書だったが、ギリシャ語聖書の70人訳聖書の時に分割され、第一・第二サムエル記を「王国の第1・2」と、列王記は「王国の第3・4」とされている。

列王記は、歴代の王達の歴史であり、その間のおよそ400年のイスラエルの歴史である。
王権がダビデからソロモンへと継承される場面に始まり、このソロモン王以降に続く王達とイスラエルの歴史が、バビロン捕囚に至るまでのおよそ四百年の間の出来事が、記されている。

ダビデ王の子、ソロモン王の子、レハブアム王以降、イスラエルは南北に分断されてしまう。
この分断された王国は、それぞれ、北イスラエル王国、南ユダ王国と呼ばれ、それぞれの国に、王が立っては消え、それぞれの歴史を刻んで行くが、北イスラエルには合計十九人、南ユダには合計二十人の王達の歩みが、第一・第二列王記に記されている。
そして、それぞれの王の治世の記録には、必ず、その王が神に従った「良い王」であったか、それとも従わない「悪い王」であったか、そして、その統治は何年であったかが、記されている。

これら、王たちの歩み方を読み進めていくと、あるパターンをすぐに見出す事が出来る。
すなわち、王が神に従う人なら、その王が統治する時代は祝福され、栄えるが、王が主に従わないなら、その時代は呪われ、衰退する、というパターンであり、それは絶対的なものだ。

このイスラエルの歴史は、私達の人生という歴史にも、全く当てはまる。
私達はある意味、自分自身という人生の「王」ではあるが、自分の人生の「王」である自分が、主に従うなら、必ずその自分は祝福され、栄えるが、主に従わないなら、必ず衰退する。
だから、私達がこの書を読み進めていく時、私達も何をしたら祝福され、何をしたら呪われるのか、その祝福と呪いのパターンを読み解くべきである。

第一列王記は、1章から11章までは、ダビデの子ソロモンの活躍が記されている。
彼は神に従って歩んでいた間は祝福され、素晴らしい知恵が与えられ、世のあらゆる富と栄光を集めた。

彼はエルサレム神殿を建築し、豪華絢爛な宮殿も建てた。
彼は箴言を編纂し、伝道者の書、雅歌書もしたため、また彼には、合計千人もの正妻と妾がいた。
このように、イスラエルの誰よりも栄華を極めた彼だが、その栄華が極まった時、彼は驕り高ぶり、主を忘れ、主の道から離れてしまった。

彼は異教の妻にそそのかされ、偶像礼拝を導入し、イスラエル内に異邦の神々の神殿をつくり、主から警告が与えられたにも関わらず、主の目に悪とされる事を止めず、ついには呪いが確定してしまい、彼の子の代以降、イスラエル王国は分断されてしまう。
12章から16章までが、その分断された王国の歴史が記されている。

『このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。
しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。』(1列王記11:12)
こうしてイスラエルは、北イスラエル王国、南ユダ王国に分断されてしまい、それぞれにおいて、悪い王と良い王が入れ替わり立ち代わり支配して行く荒んだ時代へと突入してしまう。

17章から最後の22章までは、イスラエル史上、最悪の王とも言われるアハブ王の統治の出来事が記されているが、この暗黒の時代、偉大な預言者・エリヤが現れる。
彼は、霊的に堕落し主から離れてしまったイスラエルを、主へと立ち返らせようと努力するのだが、アハブの妻イゼベルの故に、イスラエルは中々主に立ち返らない。
結局、エリヤの時代は主に立ち返らなかったが、それでも主の御心はイスラエルから離れず、イスラエルは見捨てられなかった。
主の主権は、時を超えても世代を超えても変わらず、主の憐れみのご計画は、必ず成就する。

結局、この列王記の歴史を通じて分かる事は、時代と王国を支配しているのは人間の王ではなく、主である、という事だ。
17章以降、イスラエルの国の主導権は王ではなく、預言者であるかのような感じを受けるが、しかし預言者エリヤも我々と同じ人間であり、王も、預言者も、結局主に任命され、主の御心を果たす役割が与えられているに過ぎない。
全てを支配しておられるのは、王の王、主なのだ。

主がイスラエルの歴史の初期に与えられた十戒の次のことばは、この一連の時代を、如実にあらわしている。
『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:3-6)

列王記の数百年は、徹底して、この法則に従って動いていた。
これは私達の人生も全く同じである。
人は結局、主と共に歩み、御言葉に従って歩む以外に、祝福と幸いの道は無いのだ。

この列王記から、祝福のパターンと呪いのパターンを学び、祝福と栄光の王道を歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ダビデに買い取られたエブス人アラウナの打ち場(2サムエル記24:18-25)
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『その日ガデはダビデのところにきて彼に言った、「上って行ってエブスびとアラウナの打ち場で主に祭壇を建てなさい」。』(2サムエル記24:18)
主が、預言者ガデを通して祭壇を立てるように指図された、この「エブス人アラウナの打ち場」は、一体どういう場所なのか。
そこはとても重要な場所である。
ここは後に、エルサレム神殿が建立される場所であり、大昔、全イスラエル民族の先祖・アブラハムが、ひとり子イサクを捧げた、あのモリヤの山である。(2歴代誌3:1、創世記22:2)

『アラウナは見おろして、王とそのしもべたちが自分の方に進んでくるのを見たので、アラウナは出てきて王の前に地にひれ伏して拝した。そしてアラウナは言った、「どうして王わが主は、しもべの所にこられましたか」。ダビデは言った、「あなたから打ち場を買い取り、主に祭壇を築いて民に下る災をとどめるためです」。
アラウナはダビデに言った、「どうぞ王、わが主のよいと思われる物を取ってささげてください。燔祭にする牛もあります。たきぎにする打穀機も牛のくびきもあります。王よ、アラウナはこれをことごとく王にささげます」。アラウナはまた王に、「あなたの神、主があなたを受けいれられますように」と言った。』(2サムエル記24:20-23)
エブス人アラウナは、王に対し、また主に対してとても忠実な人物で、しかも、全ての財産を潔く喜んで捧げる、無私無欲な人であった事がよくわかる。

彼はまた、状況に左右されず、仕事に打ち込む人だったようだ。
彼は、自分の麦打ち場に立っている御使いがイスラエルに剣を向けていて、それで多くの人々が疫病に打たれ死んでいるのに、それを見ておきながらも麦を打つ事に専念していたのだ。(1歴代誌21:20)

イスラエルで多くの人々が打たれ倒れている傍ら、このエブス人と、その家族とには一切、害が及んでいない。
主は、主に忠実で、主が立てた権威に対しても忠実な人であるなら、いかにエブス人という異邦人であっても、災いで打つ事はせず、どんなに災いがはびこっている時代の中でも、守って下さるが、主と主の立てた権威に不従順な人は、いかに神の民イスラエルであっても打たれてしまい、災いの時代には真っ先に滅んでしまうのだ。

『しかし王はアラウナに言った、「いいえ、代価を支払ってそれをあなたから買い取ります。わたしは費用をかけずに燔祭をわたしの神、主にささげることはしません」。こうしてダビデは銀五十シケルで打ち場と牛とを買い取った。ダビデはその所で主に祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげた。そこで主はその地のために祈を聞かれたので、災がイスラエルに下ることはとどまった。』(2サムエル記24:24-25)
ダビデは「費用をかけずに燔祭をわたしの神、主にささげることはしません」と言ったが、その通りである。
犠牲なき礼拝には、意味が無い。

礼拝は、捧げることから始まる。
主が定められた日に、私達人間の側は、お金や時間、エネルギーなどを払い、礼拝すべき場所へとみずから赴き、そこで祈りと賛美、献金や奉仕を捧げるのである。
そのようにして”犠牲”を捧げるなら、主はその応えとして、御言葉による導きを、また日々の必要の備えを、そして、祝福を与えて下さるのである。
このような、神と人との双方向のコミュニケーションこそ礼拝である。
この、礼拝における私達の分は、まず、私達自身の体(ソーマ:霊、魂、肉体)を生きた供え物として捧げる事である。(ローマ12:1)

アラウナが麦打ち場として所持していた所は、モリヤの山と呼ばれていた。(2歴代誌3:1)
すなわちそこは、かつてアブラハムがイサクを捧げた所で、イスラエル民族の父・アブラハムは、そこでひとり子イサクを捧げるという、究極の痛みを伴う礼拝を捧げた場所だった。
アブラハムが主から示された通りに、このモリヤの山へと登り、イサクをほふろうとして剣を振り上げたその瞬間、主はアブラハムを呼ばれ、イサクに手をかけてはならない、と命じれた。
アブラハムの主に対する信仰が、この「行い」によって実証された故に、主はイサクの身代わりとなる一頭の雄羊を得させて下さった。
こうして、捧げられて死ぬべきだったイサクは、主が備えられた身代わりの雄羊の故に、命拾いしたのである。(創世記22章)

異邦人アラウナは、アブラハムがかけがえのないひとり子・イサクを捧げたのと同じ場所で、彼が所有していたこの土地や牛、脱穀機などの全財産を「全部捧げます」と言って、ひと度、所有権の一切を、ダビデへと手放した。
しかし彼は、次の瞬間、ダビデの「いいえ、買い取ります」という言葉によって、彼は相当の代価を得て財産を失う事は無かった。
ちょうど、アブラハムがイサクを捧げる時、主が、イサクの身代わりに捧げられる雄羊を備えて下さったように。
アラウナの信仰による行いもまた、アブラハムと一緒だったのである。

異邦人といえども、心から主に捧げるなら、それは大いに主に用いられるものとなる。
ちょうど無名の少年が、5つのパンと2匹の魚をイエス様に捧げた所、主を求めて来た人達五千人以上を養ったのと、同じように、彼が捧げたその土地は、後に神の民イスラエルにとってもっとも重要な土地となって行く。

信仰をもって捧げる事こそ、私達に求められている「礼拝」であり、それをする聖徒には、主は豊かに備えて下さるのである。
それは、アブラハムも、異邦人アラウナも、私達も同じである。

『ダビデはその所で主に祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげた。そこで主はその地のために祈を聞かれたので、災がイスラエルに下ることはとどまった。 』(2サムエル記24:25)
これが、第二サムエル記の最終節である。
ダビデは、アラウナの打ち場を買い取って、そこで犠牲のいけにえを捧げた。
そうして、全イスラエルの罪に対する罰は、止んだ。

後に来られるまことのダビデ、イエス・キリストも、この神殿の丘の傍らに位置するゴルゴダの丘で、十字架に掛けられ、全人類の身代わりの羊として犠牲となり、それ故、彼を信じる人は、罪赦され、処罰は止み、救いを得るのだ。
そして、このお方に捧げる全ての礼拝者は、異邦人であっても、イスラエル人であっても、「主の山からの備え」を頂く事が出来るのだ。

サムエル記は、ダビデがこの土地を買い取って、犠牲の捧げものを捧げる礼拝で終わった。
それは、後のイスラエルにとって重要な出来事であるばかりでなく、私達キリスト者にとっても、非常に意義深い出来事である。

私達もアラウナのように、礼拝の場所において、全身全霊をまことのダビデである主イエス様に捧げるなら、全ての必要と祝福を得、そして、捧げられたものは大いに神の国・神の民のために用いられて行くのだ。

人の罪の結果さえ用いて最善へと造り変えて下さる主(2サムエル記24:10-17)
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『しかしダビデは民を数えた後、心に責められた。そこでダビデは主に言った、「わたしはこれをおこなって大きな罪を犯しました。しかし主よ、今どうぞしもべの罪を取り去ってください。わたしはひじょうに愚かなことをいたしました」。』(2サムエル記24:10)

ダビデは部下の静止をふりほどいて民の数を数えたが、調査結果が出て、有限であるその数字を聞いた時、心を責められた(原意:ダビデの心が彼(ダビデ)を打った)。
全能であり無限である主を差し置いて、有限の、目に見える自分の資力に頼りを置き、周囲と自分とを比較している人は、いつも、自分の有限な力にも頼って生きなくてはならない焦燥感に追われ続けて生きていかなくてはならない。
この生き方は、無限であられる主から、無限の安全と無限の保証を得て生きる「信仰生活」に比べれば、とてつもなく不安定な生き方である。

ダビデは、自国の民を数えてその数を知った時、その保証の源と平安とを失ってしまったのだろう。
しかし、彼が良心の咎めを受けた時、彼はすぐに主の御前に出て、自分の罪を告白した。
ダビデは、さすがである。

『ダビデが朝起きたとき、主の言葉はダビデの先見者である預言者ガデに臨んで言った、「行ってダビデに言いなさい、『主はこう仰せられる、「わたしは三つのことを示す。あなたはその一つを選ぶがよい。わたしはそれをあなたに行うであろう」と』」。ガデはダビデのもとにきて、彼に言った、「あなたの国に三年のききんをこさせようか。あなたが敵に追われて三か月敵の前に逃げるようにしようか。それとも、あなたの国に三日の疫病をおくろうか。あなたは考えて、わたしがどの答を、わたしをつかわされた方になすべきかを決めなさい」。』(2サムエル記24:11-13)
主は今回、ダビデが犯した罪の報いとして、3つの選択を与えた。
4番目の選択は無いし、何事のペナルティもなく放免されるという事も無い。
その選択肢は、いずれも、ダビデには辛いものだった。

私達もあるかもしれない。
過去に犯してしまった罪故に、非常に少ない選択肢の中から、どれかを償いとして選択しなくてはならない事が。
しかし、その「償い」を御前で成し遂げた後に、主は、さらなる最善の道を歩ませ、幸いを返して下さる。

『ダビデはガデに言った、「わたしはひじょうに悩んでいますが、主のあわれみは大きいゆえ、われわれを主の手に陥らせてください。わたしを人の手には陥らせないでください」。』(2サムエル記24:14)
ダビデは、「ききん」とか「敵」とか「疫病」とか、具体的には答えず、主の手に陥らせて下さいと言って主に委ね、それで主は「疫病」を下される。
1歴代誌21:12の並行箇所を見ると、「主(エホバ)のつるぎすなわち疫病」、と記されてあって、疫病にのみ「主(エホバ)」の御名が付されている。
ダビデは、ききんという自然の脅威や、敵という人間の手に陥るよりは、主の御手に陥る事を選んだのだ。

『そこで主は朝から定めの時まで疫病をイスラエルに下された。ダンからベエルシバまでに民の死んだ者は七万人あった。』(2サムエル記24:15)
ダビデが犯した過ちは、イスラエルの多くの人々の死をもたらした。
一体主は、ダビデ一人の犯した罪ゆえに、関係の無い罪なき人々を死なせるという事を、されるのだろうか?
よく読むと、これはダビデ一人の問題ではなく、イスラエル全体の問題だったようである。

この事件の最初は、次のように始まっている。
『主は再び”イスラエル”に向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。 』(24:1)
『時にサタンが起って”イスラエル”に敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。 』(1歴代誌21:1)
これら、冒頭の言葉を見ると、どうやらダビデというより”イスラエル”に問題があり、ダビデが代表して罪を犯したような感じである。
実際、3つの災いの内容は、3つとも、イスラエル全体に災いをもたらすものである。

では主は、罪なき人を、故なく打たれるのであろうか?その逆である。
いと高き方の隠れ場に住み、全能なる主の陰に宿る人は、たとえ戦や病が起こって、傍らに千人が、右手に万人が倒れるような状況でも、災いは近づかないと記されている。(詩篇91篇)
民数記でも度々起きたが、主に信頼を置いている人は病や災いから守られるが、そうでない人は災いに追いつかれてしまうのだ。
主は信仰者とそうでない者を「ふるい」にかけ、イスラエル全体が霊的怠慢に陥っている所に、揺さぶりをかけたのだろう。

主は、好きこのんで、人々に災いを下されるお方ではない。神罰は誰にも彼にも降されたわけではなく、主と王とに忠実な人は、たとえ災禍の中心地にいても災いは降されなかった。
イスラエルの人々とダビデが苦しんでいるのを見て、主は災いを思いなおされる。
『天の使が手をエルサレムに伸べてこれを滅ぼそうとしたが、主はこの害悪を悔い、民を滅ぼしている天の使に言われた、「もはや、じゅうぶんである。今あなたの手をとどめるがよい」。その時、主の使はエブスびとアラウナの打ち場のかたわらにいた。ダビデは民を撃っている天の使を見た時、主に言った、「わたしは罪を犯しました。わたしは悪を行いました。しかしこれらの羊たちは何をしたのですか。どうぞあなたの手をわたしとわたしの父の家に向けてください」。』(2サムエル記24:16-17)
主は、祈りを聞いて下さるお方であり、大上段からばっさりと一方的に命令を下されるお方では、決してない。
ダビデは主に執り成し、主はそれを聞かれたし、アブラハムも主に執り成し、主はそれを聞かれた。

さて、この度イスラエルに災いを降している御使いが立っていた場所は、エブス人・アラウナの麦打ち場だった。
実は、この場所はとても特別な場所である。
そこは「モリヤ」と呼ばれる山(2歴代誌3:1)であり、すなわち、アブラハムがイサクを捧げた場所だ。
しかもこの場所は、後に、エルサレム神殿が建てられる所である。

モリヤの地、神殿の丘。
そこは、礼拝を捧げる地であり、罪の身代わりの備えがあり、身代わりの犠牲が捧げられ、死ぬべき罪人の罪が赦され、生かされる地である。

主のご計画は、実に計り知れない。
ダビデは確かに間違いを犯し、イスラエルは打たれたが、主は、そんな罪の結果の苦しい刈り取りさえ、「最善」へと方向修正なさるお方である。

私達は、この主のなさる事は、理解できない。私達の想像を遥かに超えて働かれるお方なのだ。
ただ、この無限であられる主に信頼し、無限の安心と保証の内に歩んでいく私達でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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