メッセージ - 201508のエントリ

勝利につぐ勝利を進むダビデ(2サムエル記10章)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

前章ダビデは、サウル王の子孫・メフィボシェテに恵みを施したが、今回はアンモンという隣国にも恵みを施そうとする。
『この後アンモンの人々の王が死んで、その子ハヌンがこれに代って王となった。そのときダビデは言った、「わたしはナハシの子ハヌンに、その父がわたしに恵みを施したように、恵みを施そう」。そしてダビデは彼を、その父のゆえに慰めようと、しもべをつかわした。』(2サムエル記10:1-2a)

この、アンモン人ナハシの名は、1サムエル記11章で登場する。
当時、サウルがまだ王になりたての時、ナハシはイスラエルを痛めつける者として攻め寄せ、ヤベシュ・ギルアデの住人に対し、片目を抉りだす事を条件に和睦に応じよう、と、傲慢に振る舞っていたが、主によって奮い立たされたサウルに返り討ちにあって、退散した。
それをきっかけにサウルは名実ともに王として立ったが、その後ナハシがどうなったのかは記述が無い。

その後、どのような成り行きがあったのかはわからないが、アンモン人ナハシは、ダビデに対して真実を尽くすようになったようである。
実際、ナハシの息子ショビは、後にダビデがアブシャロムにクーデターを起こされた時、ダビデを助けてやった。(2サムエル記17:27)
そのナハシが死んだ、という事で、ダビデは代わって王になった息子・ハヌンにも、恵みを施そうとする。
ところが彼は、ダビデに、恩を仇で返す。

『ダビデのしもべたちはアンモンの人々の地に行ったが、アンモンの人々のつかさたちはその主君ハヌンに言った、「ダビデが慰める者をあなたのもとにつかわしたのは彼があなたの父を尊ぶためだと思われますか。ダビデがあなたのもとに、しもべたちをつかわしたのは、この町をうかがい、それを探って、滅ぼすためではありませんか」。そこでハヌンはダビデのしもべたちを捕え、おのおの、ひげの半ばをそり落し、その着物を中ほどから断ち切り腰の所までにして、彼らを帰らせた。』(2サムエル記10:2b-4)

当時、「ひげ」という部位は、男性にとって栄光をあらわす部位であり、ひげを抜かれる事は非常な恥辱であった。
それも、中途半端に半分に切り落とし、また、服も半分に切り取られ、隠し所をあらわにした状態で帰させたのだから、相当の侮蔑である。
『人々がこれをダビデに告げたので、ダビデは人をつかわして彼らを迎えさせた。その人々はひじょうに恥じたからである。そこで王は言った、「ひげがのびるまでエリコにとどまって、その後、帰りなさい」。』(2サムエル記10:5)
ダビデは、このような侮辱を受けた使者を思いやった。しかしすぐさまアンモンを攻撃しに行くという事はしなかった。

この、ダビデとアンモンのやりとりから、イエス様と人間とのやり取りを写し見る事ができる。
アンモンは、ダビデから差し伸べられた恵みの使者を、恥辱と侮蔑で返したように、私達人間も、偉大な王キリストから福音を告げ知らせに使わされた人に、恥辱を与え、一方的に与えられた尊い恵みに汚物を塗るような、恩を仇で返すような事をして来た。
そして、そういう事をしてもすぐに裁かれないのをいい事に、さらに図に乗って失礼な事をするのである。

『アンモンの人々は自分たちがダビデに憎まれていることがわかったので、人をつかわして、ベテ・レホブのスリヤびととゾバのスリヤびととの歩兵二万人およびマアカの王とその一千人、トブの人一万二千人を雇い入れた。ダビデはそれを聞いて、ヨアブと勇士の全軍をつかわしたので、アンモンの人々は出て、門の入口に戦いの備えをした。』(2サムエル記10:6-8)
アンモン人は、一方的にダビデの使者に恥辱を与えたばかりでなく、戦闘態勢も一方的整え、他国と連合してダビデの国に反逆した。
それでダビデは、迎え撃つために、将軍ヨアブを送り出す。

『ヨアブは戦いが前後から自分に迫ってくるのを見て、イスラエルのえり抜きの兵士のうちから選んで、これをスリヤびとに対して備え、そのほかの民を自分の兄弟アビシャイの手にわたして、アンモンの人々に対して備えさせ、そして言った、「もしスリヤびとがわたしに手ごわいときは、わたしを助けてください。もしアンモンの人々があなたに手ごわいときは、行ってあなたを助けましょう。
勇ましくしてください。われわれの民のため、われわれの神の町々のため、勇ましくしましょう。どうぞ主が良いと思われることをされるように」。』(2サムエル記10:9-12)

ヨアブの言葉からは、固い意志と結束がにじみ出ている。
互いに不足を補い合って、神の民のため、その町々のため、戦おう、と。
彼は「どうぞ主(エホバ)が良いと思われることをされるように」と言って、この強力な敵と戦う根拠は、主(エホバ)にあると宣言した。

現代の私達も、主のため、教会のため、兄弟姉妹のために罪や誘惑と、そしてサタンと戦うべきであり、互いの不足分や弱い部分を補いあうべきである。
そのように、私達が主に根拠を置き、教会のため、兄弟姉妹のために敵と相対する時、主は勝利を与えて下さる。

『ヨアブが自分と一緒にいる民と共に、スリヤびとに向かって戦おうとして近づいたとき、スリヤびとは彼の前から逃げた。アンモンの人々はスリヤびとが逃げるのを見て、彼らもまたアビシャイの前から逃げて町にはいった。そこでヨアブはアンモンの人々を撃つことをやめてエルサレムに帰った。』(2サムエル記10:13-14)

敵がいかに強力であっても、主にあって正当に立ち向かうなら、敵の側は恐怖に支配され、逃げ惑うのだ。
いかに相手のほうが多勢で強くても。
ギデオンの時は、三百人が十二万以上を打ち破ったし、ヨナタンの時は、たった2人で、何万もの敵を恐れさせた。
いかに相手が強く、また自分が弱く見えようとも、主にあって立ち向かうなら、主が勝利を得させて下さるのだ。

『しかしスリヤびとは自分たちのイスラエルに打ち敗られたのを見て、共に集まった。そしてハダデゼルは人をつかわし、ユフラテ川の向こう側にいるスリヤびとを率いてヘラムにこさせた。ハダデゼルの軍の長ショバクがこれを率いた。』(2サムエル記10:15-16)
次は、シリヤが形勢を立てなおそうとして援軍を呼びかけ、イスラエルに対抗しようとした。
しかし今度は、ダビデ自らが戦いに入った。

『この事がダビデに聞えたので、彼はイスラエルをことごとく集め、ヨルダンを渡ってヘラムにきた。スリヤびとはダビデに向かって備えをして彼と戦った。しかしスリヤびとがイスラエルの前から逃げたので、ダビデはスリヤびとの戦車の兵七百、騎兵四万を殺し、またその軍の長ショバクを撃ったので、彼はその所で死んだ。』(2サムエル記10:15-19)
戦車七百に騎兵四万を打ち倒す。素晴らしい戦果である。
どんな敵にも主に信頼して恐れず、信仰をもって戦いに向かうなら、主は勝利を与えて下さるのである。

『ハダデゼルの家来であった王たちはみな、自分たちがイスラエルに打ち敗られたのを見て、イスラエルと和を講じ、これに仕えた。こうしてスリヤびとは恐れて再びアンモンの人々を助けることをしなかった。』(2サムエル記10:19)
このようにダビデは、勝利につぐ勝利を得て、とんとん拍子に栄えて行った。

この10章までは、ダビデは勝利と繁栄の光の下で栄えて行ったが、しかし、次章を境に、その栄えは陰に入る。
それは、ダビデは勝利と成功によって慢心し、サタンにつけ込まれる隙を作ってしまうからだ。

いのちと死の二者択一とは(ガラテヤ3:9-14)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要

私達の毎日は選択の連続であり、その都度、罪と死の法則は降ろし、いのちの御霊の法則を選び続けるなら、パウロのように永遠において充実した歩みができる事を前回学んだが、「いのち」と「死」の選択についてもう少し詳しく見てみたい。
『主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。』(創世記2:15)
主は、私達を住むべき領域に置き、そこを耕し守り、管理するようにと、私達をその場所に置かれている。
私達は主が置いて下さった場をしっかり耕し守り管理するべきで、正しくそれをするならそこはエデンという喜びの楽園となるのだが、主が置かれた生活ステージには、無視できない「二種類の木」がある。
『園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。』(創世記2:8-9)
人類、誰もが必ず通る「二者択一」がある。それは、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るか。これは人類創造以来、全ての人が避けて通れない究極の選択である。
究極の二択というと、「善か悪か」と思われやすいが、そうではない。聖書が提示する究極の選択は、まさに「いのちか、善悪判断か」であり、「善悪判断」こそ、選択してはならぬ「死に至る選択」である。
善悪を知る事とは、すなわち、神のようになる事である(創世記3:5,22)。人は神のようになろうという誘惑によって善悪の実を取って食べ、また、サタンも、神のようになろうとして地に落とされた。(イザヤ14:14)
神の命令を”敢えて”超え、神から独立した善悪判断をする道は、死へと導かれてしまう道である。

善悪の実を食べた時、真っ先に人に起こった事は、目が開かれた事(創世記3:7)、こうしてある意味、人は神のようになった。その”神のようになった”彼らが、最初に気づいた事は、自分達は実は裸であった事だ。
そして、彼らが最初に働かせた善悪判断は、恥ずかしい所をいちじくの葉で隠そうという「取り繕い」だった。
このように、神のような開かれた目で周りの状況や人間をじっと見、善悪判断する事は、自らに死を招く。
神から離れ、神との関わりが絶たれた人間は、所詮裸であり、弱い者であり、罪深く何も出来ない者である。
自分の弱さや裸を覆うために、人は力や知識を向上させ、技術を発展させ、自活して生きるようになったが、その生き方こそ、アダム以来の「呪いの生き方」の本性である。
あれをして良いのか悪いのか、あそこに行っていいのか悪いのか、それをひっきりなしに伺いたがる人がいるが、そのように「善悪を知る木の下で支配される生き方」そのものこそ、呪いの生き方だったわけである。

律法は善悪の集大成であり、律法の行いの内にある人は、全て、呪いの中にある。(ガラテヤ3:10-12)
しかし、キリストは呪いの木にかけられ、私たちを、その律法の呪いから贖い出して下さった。
それは、信仰によって義とされるアブラハムの祝福が私達にも及び、私達も信仰によって約束の御霊を受けるためである。(同13-14節) イエス様を信じる人には、聖霊が与えられ、もはや「善いか、悪いか」という善悪判断の呪いの中ではなく、聖霊が教えて下さる導きに従って歩むのだ。(ヨハネ14:26)

今、私達が選ぶべき「いのちの木」は十字架であり、「いのちの実」は、まことの食物・イエス・キリストである。
「わたしは命のパンである。・・・これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:48-51)
キリストは十字架上で自分の一切の善悪判断を捨てられ、ただ、御父のみこころに委ねられた。
今私達も彼のように自分の全てを降ろし御心に委ねるべきであり、その委ねるべき御心とは御言葉である。
『知恵(御言葉)は、これを捕える者には命の木である、これをしっかり捕える人は幸いである。』(箴言3:18)
だから、御言葉をしっかりたくわえ捉える人、そこに記されている事を心に留めている人ほど、命の実をたくさん得ており、それを守り行う人ほど、いのちの実をたくさん食べているわけである。
「自分は今何を考え、何を感じ、何を判断しているのか」を採用し続けるなら、死へと導かれてしまう。
御言葉には何と書かれてあるか、そちらを採用し、自分の善悪判断を下ろすなら、命を得るのである。
もはや「神のような開かれた目」で、善悪判断する生き方は止め、呪いの木に架って下さったキリストといういのちの実を食べ、ますます命を得て行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
主から特別扱いを受ける者として(申命記14:1-8)
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マタイによる福音書講解説教メッセージ
ああ、エルサレム、エルサレム(マタイ23:33-39)
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イザヤ書講解説教メッセージ
滅んだバビロン・アッシリア・ペリシテ、残ったイスラエル(イザヤ14:16-32)
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つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
遣わされる働き人の心得(出エジプト記3−4章)
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恵みと祝福の螺旋階段を登って行くには(2サムエル記9:1-13)
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『時にダビデは言った、「サウルの家の人で、なお残っている者があるか。わたしはヨナタンのために、その人に恵みを施そう」。』(2サムエル記9:1)
ダビデは周囲の敵を平定し、主から多くの祝福を受けた。それで彼は、恵みを施すおおらかさが生まれた。
なにしろダビデは、この章だけで3度も「恵みを施そう」と言っている。(1,3,7節)

恵みとは、本来それを受けるに値しない者が、ただ一方的に「いただく」ものである。
恵みを受ける人に少しでも主を恐れ敬う心がある人なら、大きな恵みをいただいた時、ゆとりや満足が生まれるばかりでなく、同時に恐れも生じ、自分も誰かに恵みを施さなくては、という気持ちになる。
そのような人は、ますます主への恐れ敬いが生まれ、喜んで分け与えるようになり、ますます祝福されて行くというサイクルに乗り、周りの多くの人に恵みを施して行くようになって行くが、恵みを受けても感謝が無く主を敬わない人は、ただ小さな恵みを受けたっきりで終わってしまう。

『王は言った、「サウルの家の人がまだ残っていませんか。わたしはその人に神の恵みを施そうと思う」。ヂバは王に言った、「ヨナタンの子がまだおります。あしなえです」。王は彼に言った、「その人はどこにいるのか」。ヂバは王に言った、「彼はロ・デバルのアンミエルの子マキルの家におります」。このサウルの孫、ヨナタンの子は、ロ・デバルに住んでいた。』(2サムエル記9:3-4)
このロ・デバルの地名の意味は「牧草地なし」「言葉なし」。ヨルダン川東側、ヤボク川の北に位置したと考えられている。
かのサウル家の生き残り、ヨナタンの子は、そんなへんぴな土地で、マキルという人の家を間借りし、ひっそり住んでいた。
おそらく、ダビデを恐れていたからだろう。
なにしろサウルはダビデを悪くあしらったし、また当時、新しく王になった場合は、前の王の一家一族を絶やして謀反を防ぐのが通例だったからである
しかしダビデは、そんな世の通例とは真逆の行動をする。

『ダビデ王は人をつかわして、ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家から、彼を連れてこさせた。サウルの子ヨナタンの子であるメピボセテはダビデのもとにきて、ひれ伏して拝した。ダビデが、「メピボセテよ」と言ったので、彼は、「しもべは、ここにおります」と答えた。ダビデは彼に言った、「恐れることはない。わたしはかならずあなたの父ヨナタンのためにあなたに恵みを施しましょう。あなたの父サウルの地をみなあなたに返します。またあなたは常にわたしの食卓で食事をしなさい」。』(9:5-7)
ダビデはまず「恐る事はない」と、声をかけた。
きっとメピボセテは、震えおののいていたのだろう。
しかしダビデは、自分はあなたに恵みを施すつもりであなたを探し、自分の所に住まわすために呼んだのだ、と、言葉をかけてやった。
しかも、祖父サウルの領地を返し、ダビデの子達と共にいつもダビデの食卓にあずかれる者とした。

ダビデ、なんと太っ腹でおおらかなのだろう。
イエス・キリストの恵みも、そのとおりである。
私達もメピボセテのように、本来は殺されて同然の者だった。
暗黒の地でひっそりと神の目を避けて、ただ、さばきを恐れて暮らしているような者だった所を、王の王であられる主は探し、呼び出してくださり、父祖や自分自身が犯して来た罪は一切、免除してくださり、神の子達と共に天の食卓にあずかる者とされた。

『彼は拝して言った、「あなたは、しもべを何とおぼしめして、死んだ犬のようなわたしを顧みられるのですか」。』(2サムエル記9:8)
少し前にも聞いた言葉である。
そう、ダビデも7章18節で、主に申し上げている。
「主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。主なる神よ、これはなおあなたの目には小さい事です。主なる神よ、あなたはまたしもべの家の、はるか後の事を語って、きたるべき代々のことを示されました。ダビデはこの上なにをあなたに申しあげることができましょう。・・・。」(2サムエル記7:18-20)

ダビデは、神様から驚くばかりの恵みを受けたから、大いにゆとりが生まれ、恵みを施したくて施したくて仕方のない程のおおらかさを身につけたのだ。
私達も、誰かに恵みを施すとするなら、まず、私達自身が神様からの恵みを既に受けていると、充分に知り、感じ、感謝しなくては出来ない。
また、ダビデやメフィボシェテが告白したように、自分自身がいかに取るにたりないかを覚えていなくてはならない。
そうでないと、恵みを受ける事を当然のものとして高慢で恩知らずになり、振り出されてしまうからだ。

『ヂバは王に言った、「すべて王わが主君がしもべに命じられるとおりに、しもべはいたしましょう」。こうしてメピボセテは王の子のひとりのようにダビデの食卓で食事をした。・・・メピボセテはエルサレムに住んだ。彼がいつも王の食卓で食事をしたからである。彼は両足ともに、なえていた。』(2サムエル記9:11-13)
私達もキリストにあって、本来そういう者ではないのに、天の御国の食卓に連なる者とされた。
主から大きな恵みを受けた私達は、ダビデのように、さらに他の人達にも施すべきだ。
そうするなら、ますます主に祝福されるサイクルに乗り、さらに周りの多くの人に恵みを施せるようになって行くからだ。

勝利に勝利を重ねる義と平和の王(2サムエル記8:1-18)
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8章は、ダビデが周辺諸国と戦って勝利した記録が記されているが、この章で重要なキーワードは、「主はダビデにすべてその行く所で「勝利を与えられた(ヤシャー:広くされた、守られた、救われた)」。」である。
主がダビデの行く先々で守り、救われ、イスラエルの支配領域を広くされたのだ。

ダビデはまず、イスラエルをひっきりなしに攻めていたペリシテを平定し(1節)、またイスラエルに度々攻撃を仕掛けていたモアブも平定した。(2節)
言葉にするならわずか1行足らずだが、それはヨシュアの時代以降、イスラエルのどんな王も士師も出来なかった事だ。
彼が成し遂げたのは、そればかりではない。

『ダビデはまたレホブの子であるゾバの王ハダデゼルが、ユフラテ川のほとりにその勢力を回復しようとして行くところを撃った。そしてダビデは彼から騎兵千七百人、歩兵二万人を取った。ダビデはまた一百の戦車の馬を残して、そのほかの戦車の馬はみなその足の筋を切った。
ダマスコのスリヤびとが、ゾバの王ハダデゼルを助けるためにきたので、ダビデはスリヤびと二万二千人を殺した。そしてダビデはダマスコのスリヤに守備隊を置いた。スリヤびとは、ダビデのしもべとなって、みつぎを納めた。主はダビデにすべてその行く所で勝利を与えられた。』(2サムエル記8:3-6)
ダビデは、ゾバとダマスコの連合軍にも勝利し、シリヤばかりでなく、さらに北のユーフラテス川沿いにまで影響力を及ぼして行った。
ダビデが勝ち取った領域は、イスラエル史上、かつて無かった程の広い範囲である。
主がアブラハムに与えると約束された地は「エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで」だったが、その範囲にダビデは近づいて行った。

このように彼は多くを勝ち取り、多くをぶんどったばかりでなく、ダビデの知らなかった国の王も、彼に平伏して貢を納めた。(2サムエル記8:7-10)
『あなたは民の争いからわたしを救い、わたしをもろもろの国民のかしらとされました。わたしの知らなかった民がわたしに仕えました。彼らはわたしの事を聞くと、ただちにわたしに従い、異邦の人々はきて、わたしにへつらいました。異邦の人々は打ちしおれて、その城から震えながら出てきました。』(詩篇18:43-45)

こうして彼は多くの金銀を得たが、ダビデはそれらを主ために蓄えた。
『ダビデ王は征服したすべての国民から取ってささげた金銀と共にこれらをも主にささげた。すなわちエドム、モアブ、アンモンの人々、ペリシテびと、アマレクから獲た物、およびゾバの王レホブの子ハダデゼルから獲たぶんどり物と共にこれをささげた。』(2サムエル記8:11-12)
彼が得た多くの分捕り物や貢物は、主のために聖別して捧げたのは、主のために聖なる宮を建てる事に用いるためである。
私達も、主から勝利を頂いたのであるなら、勝利を下さった主に捧げ、尊い事に用いるべきである。

『こうしてダビデはイスラエルの全地を治め、そのすべての民に正義と公平を行った。』(2サムエル記8:15)
ダビデはその地を平定し、正義と公平によって治めた。
彼はまさしく後に来られるキリストをよく表している。
『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:6-10)

また、ダビデの周りには、有能な部下たちが各々の成すべき務めを果たしていた。。
『ゼルヤの子ヨアブは軍の長、アヒルデの子ヨシャパテは史官、アヒトブの子ザドクとアビヤタルの子アヒメレクは祭司、セラヤは書記官、エホヤダの子ベナヤはケレテびととペレテびとの長、ダビデの子たちは祭司であった。』(2サムエル記8:16-18)
なおここで、ダビデの子たちは「祭司であった」と日本語で訳されているが、「祭司」と訳されたヘブライ語は「コーヘン」、司祭の他に、審判、王子、チーフとも訳せる。(KJVでは「chief rulers」)

キリストも王の王として全てを治め、彼に従う人達も、神の子とされ、王として治めるのである。
『あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』(黙示録5:9-10)

私達も、キリストにあるなら、ダビデのように選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神の民である。(1ペテロ2:10)
ダビデが本来カナン地方に居てはならない敵達を次々と打ち破って行った。
同じように、人々を苦しみの内に閉じ込める悪霊や病気、その他、人に害を為すあらゆる呪いの産物は、私達キリストにある聖徒達が、信仰により、キリストの権威を行使するなら、打ち破る事が可能なものである。

主は教会に、イエスの名による権限を与えられた。それはハデスの門さえ、立ち向かう事が出来ない。
教会が地で繋いだものは、天において繋がれ、地で解いたものは、天においても解かれている。
そして私達は、キリストにあって、行く所どこにおいても、暗闇に勝利し、サタンに囚われた人々を自由にし、彼らをキリストの元に導いて凱旋し、サタンの支配から正しいキリストの支配へと移す平和の使者とされているのである。

主の素晴らしい約束へのダビデの応答(2サムエル記7:17-29)
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ダビデの家を永遠に固く立てるという約束を主からいただいたダビデは、応答の祈りをする。
『主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。主なる神よ、これはなおあなたの目には小さい事です。主なる神よ、あなたはまたしもべの家の、はるか後の事を語って、きたるべき代々のことを示されました。』(2サムエル記7:18-19)

どうして、こんなにも取るに足りない自分、こんなつまらない自分を、主は王として選んでくださり、ここに至るまで導いて下さり、さらには、遥か後の来るべき永遠までも示して下さるのですか、と、ダビデは驚き感嘆し、それを主に告白した。
彼は詩篇8篇でも言っている。
『わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。』(詩篇8:3-4)
主の偉大さ、遠大さに引き換え、自分を見ると、ただただ小ささ、足りなさしか見いだせない。

『ダビデはこの上なにをあなたに申しあげることができましょう。主なる神よ、あなたはしもべを知っておられるのです。あなたの約束のゆえに、またあなたの心に従って、あなたはこのもろもろの大いなる事を行い、しもべにそれを知らせられました。』(2サムエル記7:20-21)
私達もダビデ同様、主の偉大さを前に、主に対して、この上何も申し上げる事はできない。
ダビデは、主が告げられた素晴らしい約束について、ただ驚きと、賛美と、その通りに成りますようにという「アーメン」しか無かった。
主の御言葉に対し、私達はただ「アーメン(その通りです)」だけが、本来の反応だ。

『主なる神よ、あなたは偉大です。それは、われわれがすべて耳に聞いたところによれば、あなたのような者はなく、またあなたのほかに神はないからです。地のどの国民が、あなたの民イスラエルのようでありましょうか。これは神が行って、自分のためにあがなって民とし、自らの名をあげられたもの、また彼らのために大いなる恐るべきことをなし、その民の前から国びととその神々とを追い出されたものです。』(2サムエル記7:22-23)
彼がこのように、両手放しで主を賛美できたのは、主の偉大さ、素晴らしさ、寛大さ、憐れみ深さ、その他、主が成して下さったあらゆる良きわざ、主のあらゆる良きご性質を、知り、理解し、味わったからである。
一体私達は、主が私達に与えて下さった良きわざをどれ程知って、理解しているだろうか。
主の御業の大いなる事を、どれ程体験し、感謝し、それを喜び誉めたたえているだろうか。

25節以降で、ダビデは「願いごと」を申し上げているが、そこには、人間的な願いは一切無い。
ただ主の御胸がなりますように、という願いのみである。
『主なる神よ、今あなたが、しもべとしもべの家とについて語られた言葉を長く堅うして、あなたの言われたとおりにしてください。そうすれば、あなたの名はとこしえにあがめられて、『万軍の主はイスラエルの神である』と言われ、あなたのしもべダビデの家は、あなたの前に堅く立つことができましょう。万軍の主、イスラエルの神よ、あなたはしもべに示して、『おまえのために家を建てよう』と言われました。それゆえ、しもべはこの祈をあなたにささげる勇気を得たのです。』(2サムエル記7:25-27)

ダビデは、主が約束されたお言葉の通りに、なりますように、と、ただ願っている。
ちょうど乙女マリヤが「お言葉の通りにこの身に成りますように」と祈ったように。
この従順の応答こそ、主が何にもまして喜ばれる祈りである。

『主なる神よ、あなたは神にましまし、あなたの言葉は真実です。あなたはこの良き事をしもべに約束されました。どうぞ今、しもべの家を祝福し、あなたの前に長くつづかせてくださるように。主なる神よ、あなたがそれを言われたのです。どうぞあなたの祝福によって、しもべの家がながく祝福されますように」。』(2サムエル記7:28-29)
ダビデは、主が約束された途方もないスケールの約束を、そのままアーメンと言って受け入れた。
それ故、彼の上にそれは成就していく。

私達・キリストを信じる者に対し、主が用意しておられる祝福のご計画もまた、主がダビデに約束して下さったように、スケールが大き過ぎて、途方も無い事である。

私達はキリストにあって、モーセよりダビデよりヨブより偉大な者だという認識があるだろうか。(ルカ7:28)
私達は既に死んでおり、その命はキリストと共に神の内に隠されているという認識があるだろうか。(コロサイ3:3)
パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、命であれ、死であれ、現在のものであれ、未来のものであれ、キリストにあって、全て私達のものだとの認識があるだろうか。(1コリント3:21-22)
私達はキリストの中で共に復活され、共に天上に座らせられた、という認識があるだろうか。(エペソ2:6)
信じる者には、イエスの御名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置けば癒される、という認識があるだろうか。(マルコ16:17-18)

これらの約束へのアーメンと従順が、私達の中で開かれれば開かれる程、その領域における約束は実体化され、人生の中に導入されて来るのだ。
例えば、癒やしが起きる事に対してアーメンならば、癒やしは自分の人生に実体化されてゆき、また、必要の満たしに対してアーメンするならば、実体としての必要が満たされて行くのだが、もし、「癒やしも奇跡も起きっこない」という「御言葉への付け加え・取り除き」があるなら、その方面の実体は開かれる事なく、人生で体験する事もないままである。

私達に必要なのは、ダビデと同じ告白である。
『主なる神よ、あなたは神にましまし、あなたの言葉は真実です。あなたはこの良き事をしもべに約束されました。どうぞ今、しもべの家を祝福し、あなたの前に長くつづかせてくださるように。主なる神よ、あなたがそれを言われたのです。どうぞあなたの祝福によって、しもべの家がながく祝福されますように」。』(2サムエル記7:28-29)
御言葉をそのまま信じ、そこに書かれてある事が、信じた通りに、その身になる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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