メッセージ - 201507のエントリ

いのちを産まなかったミカルの特徴(2サムエル記6:16-23)
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主の箱がいよいよダビデの町に入った。
最初、御言葉を守ろうという姿勢も、主への敬いもないまま運び入れようとした時は、痛い目に遭ったが、御言葉を遵守し、心して臨んだ結果、事は成功し、しかも、大きな喜びがあった。
それは現代、教会や主の働きにおいても同じである。

『人々は主の箱をかき入れて、ダビデがそのために張った天幕の中のその場所に置いた。そしてダビデは燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終った時、万軍の主の名によって民を祝福した。』(2サムエル記6:17-18)
ダビデはこの時、祭司やレビ人と同じ服装、すなわち亜麻布のエポデを身にまとって、人々を祝福した。
王たる者が、祭司のようになって、人々を祝福する。
ダビデはまさに、王の王であり、かつ永遠の大祭司であるイエス・キリストのひな形である。

祝福する事は、牧師など一部の人だけの特権ではない。一家の長や、権威的に上に立つ人は、積極的に家族や配下の人々を祝福するべきである。
『言うまでもなく、小なる者が大なる者から祝福を受けるのである。』(ヘブル7:7)
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、子孫達を祝福したし、ボアズも自分の元で働く従業員達と祝福の挨拶を交わしあったし、ヤコブはエジプトのパロをも祝福して、その祝福された家族や配下の集団、国は祝福された。
イエス・キリストを信じて救われた人は、皆、キリストにあって祭司である。祭司であるからには、神と人との間に立って執り成し、祈り、祝福するという「祭司の務め」を果たすべきだ。

『そしてすべての民、イスラエルの全民衆に、男にも女にも、おのおのパンの菓子一個、肉一きれ、ほしぶどう一かたまりを分け与えた。こうして民はみなおのおのその家に帰った。』(2サムエル記6:19)
エルサレムという都に主の契約の箱が入った時、ダビデが全ての男性・女性にもごちそうを配ったように、主イエス・キリストが栄光を帯びてやがて来られる日、主は、主を望みつつ歩んできた全ての人達を、男も女も天の大祝会に招き入れ、彼らを慰め、喜び楽しませて下さる。

『万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。
主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。』(イザヤ25:6-9)

私達・教会(キリストに召しだされた「人達」)は、まことの花婿・キリストを迎える「花嫁」すなわち「新しいエルサレム」である事が、黙示録に記されている。
花婿が花嫁の所に入って来た時、花嫁に大きな喜びが沸き起こるように、王の王である花婿キリストが花嫁エルサレムに入ってくる時、都全体はこぞって、大いに喜び楽しむ。それは、彼女(新しいエルサレム=教会=私達キリスト者)は、花婿キリストと永遠に一緒になり、もはや涙も悲しみも無く、永遠の安息を得るからである。

さて、エルサレムに主の箱が入ってきた時、それを一緒に喜ぶ事をせず、窓からダビデを見下ろし、蔑んでいた者がいた。
『主の箱がダビデの町にはいった時、サウルの娘ミカルは窓からながめ、ダビデ王が主の前に舞い踊るのを見て、心のうちにダビデをさげすんだ。』(2サムエル記6:16)
彼女は、主の箱が自分の町に入って来た事、主の栄光と臨在が共に住まわれる事の喜びで心を満たすのではなく、彼女の夫であり王であるダビデに対する蔑みで心をふくらませていた。

『ダビデが家族を祝福しようとして帰ってきた時、サウルの娘ミカルはダビデを出迎えて言った、「きょうイスラエルの王はなんと威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」。』(2サムエル記6:20)
ダビデは家族を祝福するために入ってきたのに、ミカルはそれを遮って、自分の中で膨らませていた不満をぶちまけた。
祝福をしてくれる人、すなわち、主を畏れ敬う主人を蔑む人は、いのちの祝福を受けられない。

ミカルは、ダビデに王として威厳を保つべき事を、求めたのだろう。
王たる者は、民草と対等になってはならない、王服を脱ぐべきでない、と。
しかし、神の国においては、自分という「王」の上に、さらに王の王たるお方がおられ、そのお方の前では、むしろ自分の王服を脱ぐべきであり、自分の冠を外すべきなのだ。
『ダビデはミカルに言った、「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう。わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう。しかしわたしは、あなたがさきに言った、はしためたちに誉を得るであろう」。』(2サムエル記6:21-22)

ダビデは自分よりももっと「王」なるお方、すなわち、自分も、ミカルの父をも、王として下さったお方がおられる事を、ミカルに言った。
さらにダビデは、自分はもっともっと主の前に低くされて行く、と告白し、また、自分が王として君臨する事より、むしろ、ミカルが「家来たちのはしためら」と呼んで蔑んだ人達から、誉れを受ける事のほうを望んだ。

王であられる立ち位置を捨てて、へりくだり、人と同じようにいやしくなり、蔑まれているような人々の友となり、そして、人々の前で裸をさらした。
キリストはまさにそうだった。
彼は王であられる立ち位置を捨てて、人と同じようになり、また、偉いと見られている人々から蔑まれ、むしろ子供や遊女や取税人からほまれを受けた。
彼はあざけられ、罵られ、その衣服は人々によってくじにかけられ、十字架の上で裸を晒された。

『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。』(ピリピ2:6-11)

キリストは自分を卑しくし、死に至るまでも忠実だったからこそ、何にもまさる栄誉が与えられたように、ダビデもまた、主の御前では王服を脱ぎ、王座を降り、自分を低くしてへりくだる心を持っていたからこそ、高められたのだ。
自分を低くする者は高められ、高くする者は低くされる。(ルカ14:11)

ミカルは「サウルの娘」という呼ばれ方はされていても、「ダビデの妻」「王妃」という呼ばれ方はされなかった。
ミカルも、彼女の父も、あくまで自分という王座から降りない道を貫き通したが、ミカルはどうなったか。
『こうしてサウルの娘ミカルは死ぬ日まで子供がなかった。』(2サムエル記6:23)
ミカルからは、いのちが生まれなかった。
ミカルのような性質の人、すなわち、自分が王であろうとする人、祝福すべき夫や権威を敬わず、いつも自分が上となって意見していたい人には、主はいのちを任せられないのだろう。

私達は、まことの王、まことの夫である主キリストを前にした時、自分の王座を降り、主に全てを譲り、主のなさる事を喜ぶべきである。
そうするなら、主は豊かにいのちを与えて、任せて下さる。

汚れたものを取り除かせたネヘミヤ(ネヘミヤ13:1-9)
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正しい奉仕方法と相応しい奉仕者の総チェック(2サムエル記6:10-15)
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『ダビデは主の箱をダビデの町に入れることを好まず、これを移してガテびとオベデエドムの家に運ばせた。』(2サムエル記6:10)
ウザの事件で、ダビデは恐れたのだろう。
調子に乗って分相応でない事をしようとしたのではないだろうか、自分ごときが、神の箱を自分の都に運び込んでも良いものか、と。
しかし、神の箱がエルサレムに来る事は、主の御心だった。

『神の箱はガテびとオベデエドムの家に三か月とどまった。主はオベデエドムとその全家を祝福された。』(2サムエル記6:11)
ガテといえばペリシテの領地である。昔、神の箱がガテに来た時、非常な災いが起こり、多くのガテ人が打たれた。(1サムエル記5:9)
また、オベデエドムの名の意味は「エドムに仕える」である。きっと彼は、異邦人でありながらイスラエルの神に帰依した人であろう。
そのような人でも、主の箱がそこに安置されて以来、その家には災いならぬ祝福が来た。

『ダビデ王は、「主が神の箱のゆえに、オベデエドムの家とそのすべての所有を祝福されている」と聞き、ダビデは行って、喜びをもって、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町にかき上った。』(2サムエル記6:12)
わずか3ヶ月で、明らかに「神の箱のゆえに」祝福されたという報告がされたからには、その祝福は余程、あからさまで分かりやすいものだったのだろう。

それでダビデは悟った。
主の箱を自分の所に運び込む事については「青信号」だったけれども、その手段が「赤信号」だったのだ、と。
ダビデは今回の失敗の原因と、これからどうすべきかを調べた。

『ダビデは言った、「神の箱をかくべき者はただレビびとのみである。主が主の箱をかかせ、また主に長く仕えさせるために彼らを選ばれたからである」。』(1歴代誌15:2)
ダビデは聖書から調べ、そこから見出した。神の箱を運ぶのは、神に選ばれた働き人・「レビ人」の、それもケハテ族以外には許されていない事を。
それでダビデは大祭司の一族とレビ人を集め、『彼らに言った、「あなたがたはレビびとの氏族の長である。あなたがたとあなたがたの兄弟はともに身を清め、イスラエルの神、主の箱をわたしがそのために備えた所にかき上りなさい。さきにこれをかいた者があなたがたでなかったので、われわれの神、主はわれわれを撃たれました。これはわれわれがその定めにしたがってそれを扱わなかったからです」。』(1歴代誌15:12-14)
前回の時、ダビデは軍人たちには相談しても、祭司やレビ人という神に仕える人には相談していなかったようである。
ダビデは告白した。失敗の原因はそこにあった、前回、この奉仕を当たらせるべきだったレビ人にはさせず、無知故に、勝手に選んだ人・勝手に考えだした方法でそれに当たらせたため、神はわれわれを撃たれたのだ、と。

『そこで祭司たちとレビびとたちはイスラエルの神、主の箱をかき上るために身を清め・・・』(1歴代誌15:14)
ダビデは、それに相応しい奉仕者を呼び寄せた後、彼らの身を聖別させた。
主に任命された相応しい奉仕者に、その仕事を当たらせるだけではなく、彼らをきよめなくてはならない。
実際、アロンの子ナダブとアビフは、任命された奉仕者ではあったが、相応しくない仕方で御前に出た故、火で滅ぼされてしまった。(レビ記10章)

神の箱の中には、神の言葉が刻まれた石板と、生命を息吹いたアロンの杖、天からのいのちの養いであるマナの壺が入っていたが、現代の御言葉を運ぶ奉仕者も、それに相応しく整えられた人であるべきだ。なぜなら、整えられていない人が聖なる奉仕に携わって過ちを犯してしまう時、その人にとっても、周囲にとっても災いだからだ。
ウザを死なせてしまったのは、相応しくな奉仕者を当たらせてしまったダビデの責任でもある。
私達も、聖なる務めをする奉仕者は、「自分のよかれ」で選ぶべきではなく、主の御前において相応しい人を選ぶべきである。

『ダビデはまたレビびとの長たちに、その兄弟たちを選んで歌うたう者となし、立琴と琴とシンバルなどの楽器を打ちはやし、喜びの声をあげることを命じた。』(1歴代誌15:16)
ダビデは、賛美の奉仕者も、レビ人の中から任命した。
最初に失敗した時、「ダビデおよびすべてのイスラエルは歌と琴と立琴と、手鼓と、シンバルと、ラッパをもって、力をきわめて神の前に踊った。」(1歴代誌13:8)と記されているが、どうやらこの時の賛美奉仕者は、特に選別されていなかったようだ。
しかし今回、ダビデは、賛美においても、箱を守るにおいても、全てレビ人で統一し、神の働き人として相応しい者の中から任命した。
私達も、信仰が無い人や御前に相応しくない人は、いかに世の音楽やダンスに精通している人であっても、奉仕に当たらせるべきでないのだ。

『ダビデは亜麻布の衣服を着ていた。箱をかくすべてのレビびとは、歌うたう者、音楽をつかさどるケナニヤも同様である。ダビデはまた亜麻布のエポデを着ていた。こうしてイスラエルは皆、声をあげ、角笛を吹きならし、ラッパと、シンバルと、立琴と琴をもって打ちはやして主の契約の箱をかき上った。主の契約の箱がダビデの町にはいったとき、サウルの娘ミカルが窓からながめ、ダビデ王の舞い踊るのを見て、心のうちに彼をいやしめた。』(1歴代誌15:27-29)
ダビデはこの時、王といえども、他の働き人達と全く同じ格好をし、他の人達と全く同じように、共に主を喜び楽しんでいた。
それも、妻ミカルに蔑まれるほどに。
主の御前の奉仕は、本来、社会地位も立場も一切関係無いのだ。

『こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った。』(2サムエル記6:15)
今回は何のトラブルも無く、大きな喜びの内に、主の箱をエルサレムに迎え入れる事が出来た。
それはダビデがこの奉仕の「方法」と「奉仕者」を、御言葉によって総ざらいし、きよめ、心して主を第一としたからだ。
私達も、神の国の事柄において仕え奉仕するとき、正しい奉仕者を用い、正しい方法、正しい心で当たるなら、それは主の喜びと栄光が大いにあらわれるものとなる。

既に交じり合ってしまった罪悪を取り除ける勇気(エズラ記10:1-11)
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水を差された「主・不在」の熱狂イベント(2サムエル記6:1-9)
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『ダビデは再びイスラエルのえり抜きの者三万人をことごとく集めた。そしてダビデは立って、自分と共にいるすべての民と共にバアレ・ユダへ行って、神の箱をそこからかき上ろうとした。この箱はケルビムの上に座しておられる万軍の主の名をもって呼ばれている。』(2サムエル記6:1)
今回ダビデが兵を集めたのは、戦うためではなく、神の箱を、自分の街エルサレムに運び入れるためだった。

神の箱は、長い間、放置状態だった。
この時からさかのぼる事数十年前、サムエルがまだ若かった時、イスラエルは主を軽んじた故に、神の箱がペリシテに奪われてしまう、という事件があった。(2サムエル記4章)
しかし箱は、どの人間の手も借りず、ペリシテの地で多くの災いをもたらし、御者のいない牛車によって、ひとりでに戻されたが、その戻された所のイスラエルの人々は箱の中を見てしまったため、不敬の故に、大勢の人々が倒れた。(同5-6章)
それ以来、神の箱はずっとアビナダブの家に安置され、そのまま何十年かが経過していた。

『彼らは神の箱を新しい車に載せて、山の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子たち、ウザとアヒオとが神の箱を載せた新しい車を指揮し、ウザは神の箱のかたわらに沿い、アヒオは箱の前に進んだ。ダビデとイスラエルの全家は琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌をうたい、力をきわめて、主の前に踊った。』(2サムエル記6:3-5)ダビデは、今までにないアイデアを駆使し、盛大に神の箱を運んだ。
新しい牛車を用意し、そこに神の箱を載せ、アビナダブの子達にその車を指揮させ、三万もの選り抜きの兵士と共に、色々な楽器を用い、新しい賛美とダンスをもって主をほめたたえながら運んだ。
かなり大掛かりで華やかなイベントが進行していたが、その盛り上がりの頂点の時、全部を覆してしまうような事が起きた。

『彼らがナコンの打ち場にきた時、ウザは神の箱に手を伸べて、それを押えた。牛がつまずいたからである。すると主はウザに向かって怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので、彼をその場で撃たれた。彼は神の箱のかたわらで死んだ。主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。』(2サムエル記6:6-8)
牛がつまづいて、神の箱が倒れそうになったのを支える、という、「いい事」をしたはずのウザが、主に撃たれ死んでしまう・・・なぜこのような事が起きるのだろう。
聖書を探ってみると、実は、ダビデ達の側に正さねばならない事があった事に気づく。

今回、ダビデが主の箱を運び入れようという行動に至った経緯が、第一歴代誌に詳しく記されている。
『ここにダビデは千人の長、百人の長などの諸将と相はかり、そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。』(1歴代誌13:1-3)

ダビデはここで「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば」と言っている。
つまり、「あなたがた」千人隊長や百人隊長が「先」で、「われわれの神、主」が「後」になっている。
人が先で、主の御名が後。これがまず一つである。

『会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。そこでダビデはキリアテ・ヤリムから神の箱を運んでくるため、エジプトのシホルからハマテの入口までのイスラエルをことごとく呼び集めた。』(1歴代誌13:4-5)
この一大イベント企画は、軍人たちの賛同が得られ、多くの人達が動員された様子は記されているものの、ダビデが主に伺ったとか、祭司やレビ人に相談を求めた、といった記述は見いだせない。
ようするに、ダビデ達は一見、主を敬っているかのように見えるが、実は人間が主体で「主・不在の人間的盛り上がりイベント」に過ぎなかった、という事だ。

いかに多くの人達の賛同が得られても、また、何万人を動員するイベントが企画され実行されてしまっていても、主の御心を外して突き進んでしまうのは、危険である。
なぜなら、御言葉は「法則」であり、「これをすれば死ぬ」と言われている事をするならば、死んでしまうからだ。

今回彼らは、神の箱を移動しているのだが、その場合、どうしなくてはならないのだろうか。
その作法は、民数記4章に記されている。
『宿営の進むとき、アロンとその子たちとが、聖所と聖所のすべての器をおおうことを終ったならば、その後コハテの子たちは、それを運ぶために、はいってこなければならない。しかし、彼らは聖なる物に触れてはならない。触れると死ぬであろう。会見の幕屋のうちの、これらの物は、コハテの子たちが運ぶものである。』(民数記4:15)
つまり、神の箱は、大祭司の子孫によって梱包された上、レビ人のコハテ族が担ぎ棒で担いで運ぶものであり、この取り扱いを一歩間違えると、「死ぬ」恐れがある事が、元々記されている。
だから、箱が晒された状態で、コハテ族以外の者に、それも牛車で運ばせるなど、とんでもない事だったのだ。

かつて、主の箱が、御者のいない牛車に載せられて、ひとりでにイスラエルへと戻るように仕向けて下さった主は、今回、牛がひっくり返さないようにする事など、当然出来たはずである。
それなのになぜ、主は、大勢の人達が集っているイベントの真っ最中、しかも、その熱狂が最高潮に盛り上がっている時に、この事をおこされたのか。

もし、ダビデのこの斬新な企画が、何の落ち度もないまま進んで行っていたとしたら、ダビデ達は確実に御言葉に聞かない方向へと進んで行っただろう。
「なんとなく御言葉に従っているつもり」だと思い込んでいながら、実はよく分かっておらず、企画したイベントの成功や、人々の盛り上がりにばかり苦心して、突き進んで行く内に、御言葉が「してはならない」と警告している領域を侵犯し、滅びへと突き進んでいるような事は無いだろうか。

これは、現代を生きる神の民である私達がよくよく留意すべき事である。
現代の私達が、クリスチャンイベント、礼拝イベント、伝道イベント、諸々の事を興すとするなら、それは主から出たもの・主を中心とするべきものである。
もし私達も、主が、そして御言葉が置き去りにされたまま、人の祭りに酔いしれるなら、何かしらの犠牲を伴う警告が与えられるものである。

『その日ダビデは主を恐れて言った、「どうして主の箱がわたしの所に来ることができようか」。』(2サムエル記6:9)
ダビデは恐れ、このイベントを急遽中止したが、『主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。』(箴言1:7)
ここからダビデは御言葉に求め、人が主体である事を捨て、主が主体であるべきだとする思いが芽生えただろう。

私達も、良かれと思っていた方法を進めている時に、いきなり冷水を浴びせられるような事が起きるかもしれない。
その時は、御言葉に立ち返るべき時である。

バビロンの中で秀でた者となるために(ダニエル1章)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要

昨今のニュースを見ていると、日本も世界も民主主義の自由さが無くなりつつあり、反キリスト的な思惑を持った権力者達が、強引に、堕落と混乱へと世界を導こうとしているのを感じる。
全ての上におられる神の主権を人が奪い、人が神のようになろうとし、真理を退け不法がはびこっていく様を”バビロン化”と言うが、このバビロンの起源は、ノアの洪水のすぐ後、あのバベルの塔に発端がある。
かの時、ノアの恥を覆って祝福されたセムの子孫達は、自分達の定住地を離れ、ノアの恥を晒したハムの子孫達の住んでいるシヌアルの地へ移動し、定住した。シヌアルの地は、メソポタミア平原、すなわち後のバビロンであり、今のイラクの地方に位置するが、この地は代々、神の民を誘惑し(ヨシュア7:21)、神の国の器を奪い(ダニエル1:2)、罪悪が安置される所(ゼカリヤ5:11)である。
そして現在、この「シヌアルの地」から出たモスレム達が、世界各国へ進出し、オイルマネーを背景に実権を掌握しつつあり、キリスト者を迫害し、殺害し、世界を暴力と恐怖で支配しようとしている。
元々「バベルの塔」は、神と共に歩むべきセム族が、呪われるべき性質のハム族と妥協し、混ざり合い、造られて行ったが、今まさに、神の民が世と妥協を繰り返した結果、世界のバビロン化が一層進んでしまった。
私達はこれを悔い改め、偽りに対して妥協しない姿勢を身に着けるべきである。本日、バビロンの中にあっても妥協せず信仰を貫き通し、かえって素晴らしい証を立てて行ったダニエル達から学びたい。

『主はユダの王エホヤキムと、神の宮の器具の一部とを、彼(バビロンの王)の手にわたされたので、彼はこれをシナル(シヌアル)の地の自分の神の宮に携えゆき、その器具を自分の神の蔵に納めた。』(2節)
イスラエルは神に不従順だった故に、全イスラエルと、聖なる器たちはバビロンへ運び込まれてしまった。
その邪悪な国の中にあっても、信仰を貫き通し、そのゆえに主から守られ、祝福され、栄え、王に対し、国全体に対し、素晴らしい主のあかしをした信仰の偉人たちがいた。ダニエルと3人の友人たちである。
彼らは、少年だった時、祖国イスラエルが攻め落とされ、捕囚としてバビロンに連れて行かれた。
バビロンは全世界から捕囚して来た人々の中から、生まれも育ちも申し分なく、知恵、知識、思慮において王宮に仕えるに相応しい若者たちを、アシュペナズという王室の学者に委ね、政治、経済、文化、哲学、言語などを、3年の間、特別教育をさせた。今で言う所の最高学府、東大やハーバード大などの元である。
『ダニエルは王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまいと、心に思い定めた。』(8節) ダニエル達はバビロンという国の中で、そこの飲み食いに染まる事なく、主の禁じたものを取り入れまいとして、ただ自分達には野菜を食べさせ、水を飲ませて下さいと宦官の長に願い出、十日だけ試みる事が許された。
『十日の終りになってみると、彼らの顔色は王の食物を食べたすべての若者よりも美しく、また肉も肥え太っていた。』(15節) 神の民が御言葉に従って摂り入れるものは、世の価値観からすれば頼り無いかのように見えるが、実は世の飲み食いのほうが不健全で、神の国の飲み食いの方がはるかに健全なのだ。
そればかりではない。主は、主の道に歩もうとする人を守り、栄えさせて下さる。『この四人の者には、神は知識を与え、全ての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまた全ての幻と夢とを理解した。』(17節)

現在を生きる私達にも、世というバビロンが、世の言葉、世の価値観を飲み食いさせようとして来る。
しかし私達は、世が食べさせようとして来るあらゆる価値観や知識を、全て御言葉に照らし合わせ、主が禁じたものは摂り入れず、むしろ、御言葉を摂り入れて行くなら、世の何者にも勝るものへと、主がして下さる。
『王が彼らと語ってみると、彼らすべての中にはダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤにならぶ者がなかった』(19節) 御言葉をよく食べ、よくテフィリンして行くなら、世の誰によりも知恵に秀でた者になるのだ。
このバビロンの中で、ダニエル達は何度も異教的な価値観を押し付けられたり、主を礼拝する事を止めさせようと企みが為されもしたが、彼らは主の故に、ことごとく主の道を貫き通した。そのため火の炉の中や、ライオンの穴にも投げ込まれたが、主はことごとく彼らを守り、かえって主の素晴らしさがその国に広まった。
私達も、バビロンのような環境の中においても、主の道に歩む事を貫き通すなら、真実なる主がことごとく、私達に真実で返して下さり、逆にバビロンのほうが体制を崩して行くのである。
ダニエル達のように、世の皆が取り入れている飲み食いをせず、むしろ御言葉をよく食べ、誰より秀でた者とされ、この日本と世界を造り変えて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

レギオンに憑かれた者から素晴らしい伝道者へ(マルコ5:1-20)
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マタイによる福音書講解説教メッセージ

偽善な律法学者、パリサイ人たち(マタイ23:13-22)
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イザヤ書講解説教メッセージ

バビロンの性質とそれに対する預言 2(イザヤ14:1-11)
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火曜早天祈祷会 礼拝説教メッセージ

イエス様からの癒やしを届ける人となるために(ヤコブ5:13-20)
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