メッセージ - 201503のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:音楽と霊の世界との関係(1サムエル記16:14-23):右クリックで保存

サウルは、人目を恐れる性質を取り扱わず、野放しにしたため、自分の王位が奪われそうであるならば、サムエルさえ殺しかねないような邪悪な性質を培ってしまった。

私達も、罪が戸口で慕っている時、それを主にあって取り扱わないなら、もっとに悪い事になってしまう。

『さて主の霊はサウルを離れ、主から来る悪霊が彼を悩ました。』(1サムエル記16:14)
主が悪い霊を送られる、という事は、ある。
イスラエル最悪の王・アハブは、主から送られた偽りを言う霊によって戦いに出させ、それによって、彼は滅んだ。(1列王記22章)

主から悪い霊が送られる者に共通する事は、神から遣わされた預言者を何度も退け、自分の好む事を言ってくれる人を周りにはべらし、それにうつつを抜かして、健全な御言葉に耳を傾けない事だ。
『彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。』(2テモテ2:10-12)

主に良くしていただいたのに、健全な御言葉を受け入れず、思いを無防備に放置して置くなら、もっと性質の悪い霊どもが入ってしまい、その人の状態は前よりも一層悪くなってしまうのだ。(マタイ12:45)
だから、主に清めていただいて、心に、あるいは時間にゆとりが出来た時、その「隙間」は健全な御言葉や賛美で満たしておくべきだ。
さもないと、変な霊がふらっと入って来て、以前の状態どころか、もっと悪い状態へと陥ってしまうのだ。

『サウルの家来たちは彼に言った、「ごらんなさい。神から来る悪霊があなたを悩ましているのです。どうぞ、われわれの主君が、あなたの前に仕えている家来たちに命じて、じょうずに琴をひく者ひとりを捜させてください。神から来る悪霊があなたに臨む時、彼が手で琴をひくならば、あなたは良くなられるでしょう」。そこでサウルは家来たちに言った、「じょうずに琴をひく者を捜して、わたしのもとに連れてきなさい」。』(1サムエル記16:15-17)
霊の世界と、音楽とは、非常に密接な関係があるようだ。
サウルが最初に主の霊が激しく降った時、預言者達の一団が色々な楽器を奏でつつ預言していたし、エリシャも預言をする時、立琴をひく者を連れてこさせた事があった。(2列王記3:15)

『ダビデはサウルのもとにきて、彼に仕えた。サウルはひじょうにこれを愛して、その武器を執る者とした。またサウルは人をつかわしてエッサイに言った、「ダビデをわたしに仕えさせてください。彼はわたしの心にかないました」。』(1サムエル記16:21-22)
こうして、主の導きよって、主に油注がれたダビデと、主の霊が去ったサウルとが、一緒になった。
ダビデはこれより、サウルの元で活躍し、サウルに取って代わる王となって行く。

『神から出る悪霊がサウルに臨む時、ダビデは琴をとり、手でそれをひくと、サウルは気が静まり、良くなって、悪霊は彼を離れた。』(1サムエル記16:23)
主を敬う人が奏でるメロディや、賛美は、悪しき霊を退けさせる。
神は、賛美を住まいとされるからだ。(詩篇22:3)

音楽は、霊的な事柄と密接に関わっているゆえに、悪しき事柄にも作用しやすい。
サタンは元々、天使ルシファー、すなわち、音楽を奏でる天使だったが、自分の美しさに酔いしれて高慢になり、堕落してしまった。(エゼキエル28:12-19)
だから、特に、賛美や音楽の奉仕をする人は、高慢にならぬよう、また、主の栄光をいつも思うよう、気をつけるべきである。

黙示録を見ると、天国は、賛美で満ちている所である事が分かる。
私達は、サウルの罠に陥る事なく、心を空白にする事なく、いつも健全な御言葉に耳を傾け、時間や心に隙間が出来たなら、そこを賛美や御言葉で満たし、悪しき者が入り込む余地が、どこにもないようにしたい。
『そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。』(エペソ5:15-19)

十字架の前の宴 - 最後の晩餐で制定された聖餐(ルカ22:14-20)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日は教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」、すなわち、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城し、人々が衣服や「しゅろの葉」を置いて「ホサナ」と叫びつつ迎えた日で、その日を起点に、金曜までを「受難週」 、そして次週主日は、主のよみがえりを祝う復活祭(イースター)である。本日は十字架の死を前に、主が弟子達にもうけた宴会、「最後の晩餐」にて、主が制定された「聖餐」をよく学びたい。

『イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。』(15節) イエス様が弟子達と持たれた、最後の晩餐は、「過越の食事」である。
過越祭は、主がイスラエルをエジプトから脱出させた事を記念する祭りである。エジプト脱出前夜、主は男子の初子を全て死に絶えさせる災いを降したが、ある事をした家は「死が過ぎ越し」、一人も滅びなかった。
そのある事とは、傷の無い小羊をほふってその血を家の戸口に塗り、その家の中で「過越の食事」にあずかる事である。この小羊こそ、十字架上でほふられ、肉を裂かれ、血を流されたキリストを意味している。
血のしるしの外では、死と滅びがあったのに対し、血の内側には、ごちそうと救いがあったように、十字架上でほふられるキリストを信じる者には、死と滅びは過ぎ越し、永遠のいのちと、ごちそうに与れるのである。

『あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。』(16節) キリストは一度ほふられたが、二度とほふられる事は無い。過越はまだ神の国で成就しておらず、かの日に血潮の内にいるか、外にいるか、全ての人は、その選択をする時機にいるのだ。
『キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。』(ヘブル9:28)
キリストが二度目に来る時は、彼を待ち望んでいる人の救いのために来られるのであって、もう一度十字架にかかるためではない。だから、一度罪赦され血潮で洗われたのに、相変わらず好き好んで罪を犯し、キリストを何度も十字架につけるような者には、もはや贖いの血潮は残されていない。(ヘブル10:26)

『そして杯を取り、感謝して言われた「これを取って、互に分けて飲め。」・・・またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。」』(17-18節) 神はイスラエルに過越を制定されたが、イエス様は私達に、パンと杯の聖餐を制定された。それも、イエス様を記念し、イエス様を覚えて行うように、と。
聖餐にあずかる時、イエス様の裂かれた肉と、流された血潮とを、覚える事こそ、重要だ。
罪を犯してきたかどうかが、聖餐に相応しい・相応しくないではない。御体は罪を罰するために裂かれ、血は罪を清めるために流されたから。だから罪があるなら、いっそうキリストを覚えて、聖餐にあずかるべきだ。
キリストは「取って食べなさい」と言われ、「飲みなさい」と言われた。イエス様が、いのちを差し出してまで、私達が食べられるように、また飲めるようになって下さった以上、断固、感謝していただくべきなのだ。

イエス様は、私達の身代わりになって、死なれた。感謝しても、し尽くせないものがある。私達は、キリストの流された血潮と、裂かれた肉にあずかる時、イエス様に対する感謝、恩、それをいつも覚えているだろうか。
イスラエルの民が、一歳の傷の無い、かわいい盛りの羊を、自分達の身代わりとしてほふる時、血の生々しいしるしが門にあるのを見、その小羊を食べる時、感謝と申し訳無さに、涙があふれた事だろう。
皆さんは、ほふられた小羊キリストが死なれた事の悲しさ、罪の身代わりになってくれた事の申し訳無さ、そして救われた事への感謝と喜びの「感覚」があるだろうか。キリストを覚えて、涙溢れた事はあるだろうか。
その申し訳無さや感謝や喜びの「感覚」を味わう事こそ、キリストを味わう事である。
教会において、御言葉なるキリストを学び、キリストの素晴らしさをわかちあう時、あるいは、キリストの話題で盛り上がりながら共に食卓にあずかる時、その交わりは、キリストの血と肉を分かち合う、一種の聖餐のようなものである。しかしもしキリストを分かち合うべき交わりの場において、キリストをおぼえる事抜きで礼拝したり、飲み食いするなら、その飲み食いがその人をさばく事になる。(1コリント11:17-34)
主キリストにある事をわきまえて、共に集い、共に恵みを豊かに分かち合う皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
罪を嘆き悲しむ性質を持つ人と持たない者(ルカ22:31-34):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ぶどう園のたとえ - 報酬は同じ(マタイ20:1-16):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
愚か者や未熟者が指導者になる国の性質(イザヤ3章)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つくばエクレシア礼拝(ヨハネ13:21-30):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
御言葉が追い迫る時(ヨハネ13:16-21):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:油注がれる少年ダビデ(1サムエル記16:1-13):右クリックで保存

主も、サムエルも、サウル王のどうしても主に従わない性質を悲しんだ。
主の御声に従って歩むよう民に指導すべき王であるはずが、自ら率先して、御声に背く事を止めなかったからだ。
『さて主はサムエルに言われた、「わたしがすでにサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けたのに、あなたはいつまで彼のために悲しむのか。角に油を満たし、それをもって行きなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである」。』(1サムエル記16:1)
このベツレヘム人エッサイ、彼の名はルツ記の最後に記されている系図に出てくる。
エッサイの父は、ルツが産んでナオミの胸に抱かれたオベデ、つまりエッサイは、ボアズとルツ夫婦の孫である。

イザヤは、次のように預言している。
『エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。』(イザヤ11:1-2)
このエッサイの根から、全人類にとって重要な子孫が出てくるのだ。

主がサムエルに言ったのは、わたしは既にサウルを捨て、王位から退けた、それなのにあなたはいつまで悲しむのか、という事だった。
主が、「もうその者については気にするな」と言われたなら、いつまでもその者に目を留めて、悲しんでいてはならず、むしろ新しく歩み出し、よりいのちの働きをすべきであり、より御胸に適った歩みをする人を任命し育てあげて行くべきなのだ。

『サムエルは言った、「どうしてわたしは行くことができましょう。サウルがそれを聞けば、わたしを殺すでしょう」。主は言われた、「一頭の子牛を引いていって、『主に犠牲をささげるためにきました』と言いなさい。』(1サムエル記16:2)
なんと、サウルは、彼に油を注いだ預言者サムエルを、殺すかもしれない、と言うのだ。
そして主もそれを否定せず、そうならないように、これこれの事をしなさい、と指示された。
そう、サウルは殺しかねないのだ。

サウルは以前、イスラエルを救った最大功績者・息子のヨナタンを殺そうとしたし、またその後、イスラエルに勝利をもたらしたダビデをも殺そうとするし、猜疑心に駆られ主の祭司八十五人をも殺させる。
戸の外で罪が待ちぶせして恋い慕っている時、私達はそれを支配しないと、とんでもない事になってしまうのだ。
それをしなかったサウルは、子であろうと、自分に油注いだ預言者であろうと、主の祭司八十五人であろうと、殺すことに躊躇しない性質へとなって行ってしまった。

『そしてエッサイを犠牲の場所に呼びなさい。その時わたしはあなたのすることを示します。わたしがあなたに告げる人に油を注がなければならない」。』(1サムエル記16:3)
この時、主は、「エッサイの子」とは言っていても、本人の名は、まだ明かさない。
それはサムエルに、そして、この書を読む全ての人に、以下に続く重要な事を悟らせるためである。

『彼らがきた時、サムエルはエリアブを見て、「自分の前にいるこの人こそ、主が油をそそがれる人だ」と思った。しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。』(1サムエル記16:6)
王とすべきものを、背の高さとか美しさ等の、外見で判断しようとするなら、あのサムエルでさえ、誤ってしまう。
この事を伝えるために、主は敢えて、誰に王としての油を注ぐべきか、明かさなかったのだ。

「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。」
まさに主の選びは、表向きや顔かたちではない。
サウルはイスラエル一の美男子で、人受けする者であり、人の目には麗しいものだったが、心は主から離れていた。
イエス様は、人の見栄えのするような姿形ではなかったのである。(イザヤ53:2)

『そこでエッサイはアビナダブを呼んでサムエルの前を通らせた。サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。エッサイはシャンマを通らせたが、サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。エッサイは七人の子にサムエルの前を通らせたが、サムエルはエッサイに言った、「主が選ばれたのはこの人たちではない」。
サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。サムエルはエッサイに言った、「人をやって彼を連れてきなさい。彼がここに来るまで、われわれは食卓につきません」。』(1サムエル記16:8-11)

エッサイとしては、サムエルと食卓につくに相応しく思える七人を連れてきていたが、八番目の末っ子はまさか入用になる事はないだろう、と思っていたのかもしれない。
彼は同席させず、羊の番をさせていた。

『そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。主は言われた、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」。サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った。』(1サムエル記16:12-13)
この、油を注がれた少年・ダビデこそ、それだったのである。
兄弟たちの中ではあたかも捨てられたかのような、一番つまらないと思えるような存在を、主にとっては、入用だったのである。

ダビデ。その名は「最愛」という意味である。
主に愛でられし者。
彼は、聖書のもっとも重要な人物の一人であり、新約聖書では、アブラハムについで名を連ねるほどの重要人物である。
このダビデから、イスラエルの代々の王族が出て、そして人類全体の救い主、イエスキリストが、このダビデの子孫からお生まれになるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:赦してくれて当たり前の気でいるサウルに嫌気が差したサムエル(1サムエル記15:24-35):右クリックで保存

『サウルはサムエルに言った、「わたしは主の命令とあなたの言葉にそむいて罪を犯しました。民を恐れて、その声に聞き従ったからです。』(1サムエル記15:24)

サウルは「民を恐れた」という本心をやっと白状した。

民が、アマレクを撃った時、アマレクの牛や羊の良いものを、生かしたままにしておいたのを見たなら、本来は「それは聖絶すべきだ」と叱るべき所を、何も言わない、あるいは黙認するとしたら、彼らの罪に同意した事になってしまう。
私達も、親であったり上司であったりと、誰かを指導すべき立場でありながら、子や部下が過ちを犯しているのを見て、何も指摘しなかったり、黙認するとしたなら、その罪に同意した事になり、自分自身の罪となる。
これは社会では当然と言われている所であろうが、神の国でも、同じである。

「主の命令とあなたの言葉にそむいて」、ここは直訳すると、「主の命令とあなたの言葉を超えて」である。
自分の好き嫌いや、身勝手な判断によって、御言葉を乗り超えてしまう時、それは占いや偶像礼拝に等しい罪だ。
だから私達は、兄弟姉妹の交わりの中において、誰もその罪に陥らないよう、互いに励まし合うべきなのだ。
『あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。』(ヘブル3:13)

サウルは、サムエルから「主はあなたを王の位から退けられた」という、とても深刻な言葉を聞いた。
しかし次の言葉からは、彼は事の重大さに気づいていないような感じを受ける。
『どうぞ、今わたしの罪をゆるし、わたしと一緒に帰って、主を拝ませてください」。』(1サムエル記15:25)

どうも彼は、サムエルと主が、当然のように「赦してくれる」という前提で、話を進めている感がある。
私はごめんなさいをしました、だから自分は赦されましたね、では、わたしと一緒に帰って下さい、一緒に主を礼拝しましょう、と、言うような。

サムエルは、そんな誠意もなく、主を軽んじる者とは、到底一緒に礼拝したいとは思わないだろう。
赦してもらうこと前提で罪を犯し、平気で主の言葉を乗り越えておきながら、罪を指摘された時、しゃあしゃあと「赦し」を相手に押し付けるような人とは一緒にいたくないし、一緒に礼拝を捧げたくないものだ。

『サムエルはサウルに言った、「あなたと一緒に帰りません。あなたが主の言葉を捨てたので、主もあなたを捨てて、イスラエルの王位から退けられたからです」。』(1サムエル記15:26)
サムエルはサウルに、23節と同じ言葉を、繰り返している。
サムエルが「あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた。」(23節)と言ったのに、どうもサウルの脳内では、罪はもう赦してもらって、無くなったかのようになっていりょうで、自分の王位も、まだ安泰して続くかのような、そういう現実感の無い認識だったから、サムエルは同じ言葉を、繰り返したのだろうし、彼のような浅ましい者とは一緒に帰りたくもない、一緒に礼拝を捧げたくもない、そう思って「帰りません」と言ったのだろう。

『こうしてサムエルが去ろうとして身をかえした時、サウルがサムエルの上着のすそを捕えたので、それは裂けた。』(1サムエル記15:27)
サウルは、帰ろうとするサムエルの服を無理に掴み、破いてしまった。
全く、年長の預言者への敬いが無いが、この、上着のすそを引き裂いた事から、主はサムエルに言葉を与えられた。
『サムエルは彼に言った、「主はきょう、あなたからイスラエルの王国を裂き、もっと良いあなたの隣人に与えられた。またイスラエルの栄光は偽ることもなく、悔いることもない。彼は人ではないから悔いることはない」。』(1サムエル記15:28-29)

主はひと度、サウルを王に任じた事を、悔いた。
しかし、イスラエルの栄光なるお方がこの度決心した事、すなわち、サウルをイスラエルから引き裂くという事については、もはや決して悔いる事は無く、その決心は変わらない。
罪赦してくれる事を当然のように押し付け、自らを頑として変えないような者から、恵みを取り退ける、という事について、主は惜しみも、悔いる事も、しないのだ。

『サウルは言った、「わたしは罪を犯しましたが、どうぞ、民の長老たち、およびイスラエルの前で、わたしを尊び、わたしと一緒に帰って、あなたの神、主を拝ませてください」。』(1サムエル記15:30)
サウルはなんと、この期の及んでなお人々の目を気にしている。
本来なら、必死になって悔い改めるべき所を、彼はそれよりも、民の前で面目を潰されないかどうかを、心配していた。
この点は、王族が永遠に続いたダビデとは大違いである。

ダビデは、罪を犯してそれを指摘された時、詩篇51編を詠んだが、そこには、ダビデ自身の罪を悔い、悩み、そこから救われたいという主への祈りが、切々と記されている。
『神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。』(詩篇51:1)
ダビデは、主に指摘された時、情けとあわれみを願い、そむきの罪を拭い去って下さるよう、願った。
罪を指摘されてもなお面目を心配したサウルとは大違いである。

『どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。』(詩篇51:2)
ダビデは、自分が犯した罪が、いつも目の前でちらついていて、悲しんでいた。
彼は、このどうしようもない罪を悲しんで、それを除き去りたい、という気持ちがあった。
『ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。』(詩篇51:7)
自分の内には、自分が母の胎にいる時から既に持っている罪があり、その罪から本当に救われたい、清められたい、そう願ったから、節に祈り求めているのだ。

『私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。』(詩篇51:11)
サウルは、王権が除かれた、と聞いた時、御前から投げ捨てないで下さい、と主に祈るのではなく、面目が除かれないように一緒に来て下さい、と、サムエルの服を掴んだ。
サウルは面目がつぶれる事を心配し悲しんだ。しかしダビデは、自分の罪を悲しんで、聖霊が取り除かれてしまう事を心配した。
私達は、自分の財産や人気、ステータスがなくなる事を悲しむ以前に、主から見放されてしまうような、自分の内に宿る罪の性質をこそ、悲しむべきである。

『そこでサムエルはサウルのあとについて帰った。そしてサウルは主を拝んだ。』(1サムエル記15:31)
サウルの、人目を記にしての礼拝、それは何と、心無しの礼拝であろうか。
神が求めておられる礼拝は、霊とまことの礼拝のはずである。

『そしてサムエルはラマに行き、サウルは故郷のギベアに上って、その家に帰った。サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのために悲しんだ。また主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた。』(1サムエル記15:34-35)
サウルによって、茶番の礼拝を一緒にさせられ、サムエルはもう、サウルと顔を合わせるのも、まっぴらだったのだろう。

私達は、サウルの道に歩んではならない。
御心を悲しませたり、主にある兄弟姉妹を悲しませたりする性質をこそ、悲しみ、投げ捨てるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:聞き従う事はいけにえにまさり、そむく事は占いの罪、従わない事は偶像礼拝の罪(1サムエル記15:12-23):右クリックで保存

アマレク人を絶ち滅ぼす事は、将来のイスラエルの存亡に関わる重要事項で、主は、そのミッションをサウルに託されたのだが、彼は命令に従い通さず、アマレクの王アガグと、肥えた羊や牛の良いものを惜しんだ。

それが主の御心を損ね、サムエルを悲しませた。

『そして朝サウルに会うため、早く起きたが、サムエルに告げる人があった、「サウルはカルメルにきて、自分のために戦勝記念碑を建て、身をかえして進み、ギルガルへ下って行きました」。』(1サムエル記15:12)
サウルは今回の戦勝の事で、「自分のために」記念碑を建てた。
そもそも、アマレクを滅ぼす事は主の御心であり、必ず勝利する事は、主が確定しておられたのに、サウルは、主の言葉どおりにはしなかったばかりか、その戦勝を、自分の実績としたのだ。
彼は、手柄は自分のものにし、都合の悪い事は他人のせいにする性質の持ち主だが、今回その性質が、遺憾なく発揮されている。

『サムエルがサウルのもとへ来ると、サウルは彼に言った、「どうぞ、主があなたを祝福されますように。わたしは主の言葉を実行しました」。』(1サムエル記15:13)
サウルは、サムエルと会う時、きっと何か言われるだろうと、あらかじめ踏んでいたのだろう。一見、信仰的な、きれいな言葉をかける。
人は、心にやましい事があると、それを隠すために、きれいな言葉で飾って、突いて欲しくない点を隠し、逸らそうとするものだ。
彼のサムエルへの第一声は「わたしは主の言葉を実行しました」だが、主の言葉を実行する・しないの点こそ、彼のやましさがある所である。

確かに彼は、ある部分は言葉を実行したが、全部ではなかった。
滅ぼし尽くすべきもの、そこに存在してはならないものを、残してしまう。それは例えば、料理の具材を置く場所に、毒も一緒に置かれているなら、一刻もはやく、取り除いておくべきような事である。
もし、ある人に毒を除き去っておくよう言ったのに、彼は除き去らず、かえって「わたしは頑張って料理しました、その毒の最もおいしいの部分を、お捧げしようと、取っておいたのです」などと言うとしたら、どうだろうか。サウルは、それをしたのである。
アマレクは、イスラエルを将来滅ぼしかねない毒であるのに、彼はアマレクの一部を生かしておいたからだ。

『サムエルは言った、「それならば、わたしの耳にはいる、この羊の声と、わたしの聞く牛の声は、いったい、なんですか」。サウルは言った、「人々がアマレクびとの所から引いてきたのです。民は、あなたの神、主にささげるために、羊と牛の最も良いものを残したのです。そのほかは、われわれが滅ぼし尽しました」。』(1サムエル記15:14-15)
サウルはここでも「”人々が”アマレクびとの所から引いてきた(KJV: 「"They" have brought them」)」と言って、自分に都合の悪いことは全部、人のせいにしている。
「”民は”、あなたの神、主にささげるために、羊と牛の最も良いものを残した」と。
「主に捧げる」。聞こえの良い言葉であるが、皆さんは、全てを見通している王を前に、毒入りの料理を献上して、平気でいられると思うだろうか。

『サムエルはサウルに言った、「おやめなさい。昨夜、主がわたしに言われたことを、あなたに告げましょう」。サウルは彼に言った、「言ってください」。サムエルは言った、「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』。』(1サムエル記15:16-18)
皆さんもサウルのように、自分を小さいと思っていないだろうか。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:9)

私達は、いかに自分がつまらない者のように見えても、キリストという尊いかしら石により頼んでいるのであるなら、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民であり(1ペテロ2:5-9)、歩むべき使命が与えられている。
それはすなわち、「暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、語り伝える」事である。
世の王は、ほしいままに好き勝手できるものだが、神の国における王族は、私達を王族にして下さったお方の声に聞き従い、与えられた使命に忠実であるべきである。
そうでないと、サウルのように、王権は剥奪されてしまうのだ。

『サウルはサムエルに言った、「わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」。』(1サムエル記15:20-21)
サウルは、同じ言い訳を繰り返した。
すなわち、自分は主の声に聞き従った、自分はアマレクを滅ぼした、しかし民は分捕りをして、しかもその理由は、主に捧げるため、という事を。
サウルはあらかじめ、サムエルにこう指摘されたら、こう返そう、と、用意していたのかもしれない。

『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。』(1サムエル記15:22)
この有名な聖句は、礼拝で既に何度も引用しているが、御言葉に聞き従う事こそ、どんな尊い捧げ物より、主に喜ばれる行為だ。
どんな美しいくちびるの果実も、どんな多額の献金も、どんなに身を粉にして働く奉仕も、御言葉に聞き従う事が無いなら、主は、そんな捧げ物を受け取らない。

『そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル記15:23)
主は、混ぜ物つきの捧げ物や奉仕を、忌み嫌われる。
「これを滅ぼすのは惜しい、主に捧げるという口実なら、許してもらえるかも」などと、自分の都合の良いように、御言葉に身勝手な解釈を混ぜ込む事など、もってのほかである。
主の御言葉よりも、自分の好むことを優先させる事は「占いの罪」であり、強情に御言葉を跳ね除けるのは、偶像崇拝の罪なのだ。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)
私達が聞き従うべき「御言葉」とは、「ことば」そのものなる、イエスキリストである。(ガラテヤ2:16)
律法を全て成就して下さった方・イエス様に聞き従い、歩調を合わせて共に歩むなら、全ての「あれやこれをしなければ」という心配や重荷は降ろされ、たましいに安らぎが来るのだ。(マタイ11:28-30)

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