メッセージ - 201412のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主に正しく向き合うまでの惨敗続き(士師記20:19-28):右クリックで保存

『そこでイスラエルの人々は、朝起きて、ギベアに対し陣を取った。すなわちイスラエルの人々はベニヤミンと戦うために出て行って、ギベアで彼らに対して戦いの備えをしたが、ベニヤミンの人々はギベアから出てきて、その日イスラエルの人々のうち二万二千人を地に撃ち倒した。しかしイスラエルの民の人々は奮いたって初めの日に備えをした所にふたたび戦いの備えをした。』(士師記20:19-22)


ベニヤミン族と、残りのイスラエル11部族との戦いの火蓋が、いよいよ切って落とされた。
ベニヤミンは数では圧倒的不利であるし、大義も彼らの側には無く、神と人との前に悔い改めも無いまま、強情にも戦いに来たのに対して、イスラエルの側は、数では既に圧倒し、神に伺いを立てた所、「ユダが先に行け」という示しまで頂いた。
兵力においても、大義においても、霊性においても、イスラエル側のほうに分がある、と思いきや、初日の戦いでイスラエルは惨敗を喫してしまう。
一体どうした事だろう。

大義はこちら側にあるはずなのに、そして主に伺って導きまで頂いたというのに惨敗し、悪が栄えてしまうような時は、疑うべきだ。
自分達はほんとうに、主の御前に正しく立っていたかどうかを。

『そしてイスラエルの人々は上って行って主の前に夕暮まで泣き、主に尋ねた、「われわれは再びわれわれの兄弟であるベニヤミンの人々と戦いを交えるべきでしょうか」。主は言われた、「攻めのぼれ」。』(士師記20:23)
彼らはここに来て、はじめて「われわれは戦いを交えるべきでしょうか」と、質問をした。そう、イスラエルは元々、そんな根本的な質問さえ、していなかったのだ。
彼らは最初、神抜きの議論熱弁に激昂し、ベニヤミンを打ち滅ぼすまでは決して引くまい、と、堅く決意した後で、取って付けたかのように主に伺いを立て「誰が最初に行くべきか」と主に伺った。
彼らは自分の意見主義主張を御心よりも優先させたために、惨敗を喫したのだ。
その結果、彼らは少しだけ、霊的にまともになった。
その日の内に、ギブアから10kmほど北へ上って、夕暮れまで御前で泣き、その上で、主に伺うようになったのだ。

『そこでイスラエルの人々は、次の日またベニヤミンの人々の所に攻めよせたが、ベニヤミンは次の日またギベアから出て、これを迎え、ふたたびイスラエルの人々のうち一万八千人を地に撃ち倒した。これらは皆つるぎを帯びている者であった。』(士師記20:24-25)
今度は、主から「攻めのぼれ」という示しがあり、戦う事が御心であると明確に分かった。
しかし、今度もまた惨敗を喫してしまった。
まだ、彼らの主に対する態度が正しくなかったのである。

これまでの戦績を見ると、イスラエルは、40万の十分の一に相当する4万人が、既に殺されてしまった。それなのに相手は全く被害が出ていない。
イスラエルは、うろたえただろう。
こうして彼らは、さらに真剣になって、主の前に立つようになった。

『これがためにイスラエルのすべての人々すなわち全軍はベテルに上って行って泣き、その所で主の前に座して、その日夕暮まで断食し、燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。そしてイスラエルの人々は主に尋ね、・・・そして言った、「われわれはなおふたたび出て、われわれの兄弟であるベニヤミンの人々と戦うべきでしょうか。あるいはやめるべきでしょうか」。主は言われた、「のぼれ。わたしはあす彼らをあなたがたの手にわたすであろう」。(士師記20:26-28)
イスラエルは今までに無かった事を行っている。
それは、主の前に「座した(ヤーシャブ:座る、住む、留まる)」事、また、断食した事、そして、全焼のいけにえと、和解のいけにえとを捧げた事だ。

彼らはまず「主の前に座した。」
以前は主の御前に低くなる事無しに、主に伺うだけ伺って、示しが与えられたならそのまま出て行ったものだが、今回は、主の前に自らを低くし、主の御前にとどまったのだ。
また「断食」をし、御旨が示されるまでは、自分の好むことを主の前で止めたのだ。
そして「全焼のいけにえと、和解のいけにえを捧げた。」すなわち、全身全霊を捧げるための捧げ物と、神と和解するための捧げ物を主に捧げた。

主は、敢えて悪人を栄えさせ、神の民を災い続きにされる事がある。
それは、神の民が御前に正しく立つべき事を教えるためであり、また、主の真実と公平が、主のすばらしき御業が、誰の目にも明らかにさるためである。
『主はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行なうためであり、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」』(出エジプト記10:1-2)

士師記の時代のイスラエルは、主の御前に正しくない態度を取り続けて来たために、惨敗続きとなった。
その結果、彼らは本気で主との正しい関係を持とうと努力するようになった。
そして彼らは、自ら高慢を捨て、自分の好む事を捨て去って、一心に主に求めるようになり、そして、主の前に犠牲を捧げた。
そうしてようやく、主から「わたしはあす彼らをあなたがたの手にわたすであろう」と、勝利の約束をいただけたのだ。

もし、こちら側に正義がある筈なのに、また、主に伺いを立てているつもりなのに、惨敗続きで、悪がただ栄えているとしたならば、まず、主との関係を吟味する必要がある。
主の前に高慢になっていなかったかどうか。
主に伺う事よりも、自分の好む事を優先して行っていなかったかどうか。
そして、主に捧げ物をする事を怠ってはいなかったか。
また、悔い改めるべきを、悔い改めず、主と和解していない状態のままではなかったか。

『そのころ神の契約の箱はそこにあって、アロンの子エレアザルの子であるピネハスが、それに仕えていた』(20:27-28)
ピネハスと言えば、イスラエルが荒野で40年さまよい歩いていた終盤の時期、イスラエルの中で不品行が生じた時に、主の怒りを自分の怒りとし、みだらな事をしていた男女を、槍で一刺しに貫き、神の怒りをなだめた、あの祭司である。(民数記25章)
彼は御前に忠実で、罪に対して決して妥協しなかったからこそ、いのちが祝福され、出エジプト記から士師記の時代に至るまで主の前に仕えていたのだ。
『「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。このゆえにあなたは言いなさい、『わたしは平和の契約を彼に授ける。これは彼とその後の子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であって、イスラエルの人々のために罪のあがないをしたからである』と」。』(民数記25:11-13)

彼がまだ主の御前につかえていた、という事は、これら一連の忌まわしい事件は、ヨシュアの死後、さほど経っていない時期に起きた事になる。
中々信じがたい事かもしれないが、いかに信仰者の子であっても、性的・モラル的に堕落してしまうのは、あっという間に起こりうるという事も、忘れてはならない。
だからこそモーセは、申命記で口を酸っぱくして命じたのだ。
生まれてきた子には律法を朗読し、守り行わせ、しっかり信仰を継承すべき事を。
私達もいつも霊的に目を覚まし、信仰が途絶えてしまわないように、気をつけていなくてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:ベニヤミン族との決裂(士師記20:12-18):右クリックで保存

『イスラエルのもろもろの部族は人々をあまねくベニヤミンの部族のうちにつかわして言わせた、「あなたがたのうちに起ったこの事は、なんたる悪事でしょうか。それで今ギベアにいるあの悪い人々をわたしなさい。われわれは彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去りましょう。』(士師記20:12-13)

全イスラエルは、かの邪悪な事をしたベニヤミンの者達に報復しようと共に集ったが、いきなり戦いを仕掛ける事はせず、まずは話し合いで解決しようと、使者を遣わした。

主にある兄弟姉妹が、何か罪を犯したという事であるなら、いきなり制裁を加えたり、除名したりするのではなく、まずは事実関係を正確に知り、二人また三人で忠告するべき事が主から命じられている。(マタイ18:17-20)
二人でも三人でも、主の名の元に集まるなら、そこには主がおられ、彼らが地上で心を合わせて祈るなら、それは天においても繋がれ、あるいは解かれたりするという権威を、主は、教会にお与えになった。
私達教会は、その偉大な権威を正しく行使しなくてはならない。

『イスラエルのもろもろの部族は人々をあまねくベニヤミンの部族のうちにつかわして言わせた、「あなたがたのうちに起ったこの事は、なんたる悪事でしょうか。それで今ギベアにいるあの悪い人々をわたしなさい。われわれは彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去りましょう」。しかしベニヤミンの人々はその兄弟であるイスラエルの人々の言葉を聞きいれなかった。
かえってベニヤミンの人々は町々からギベアに集まり、出てイスラエルの人々と戦おうとした。その日、町々から集まったベニヤミンの人々はつるぎを帯びている者二万六千人あり、ほかにギベアの住民で集まった精兵が七百人あった。このすべての民のうちに左ききの精兵が七百人あって、いずれも一本の毛すじをねらって石を投げても、はずれることがなかった。イスラエルの人々の集まった者はベニヤミンを除いて、つるぎを帯びている者四十万人あり、いずれも軍人であった。』(士師記20:12-17)

ベニヤミン族は、ソドム以下の蛮行に及んだ者が、自部族の中から出てしまったというのに、それを自分達の中から除き去ろうとはせず、かえって、彼等をかばう行動に出て、徹底抗戦の構えを見せた。
他のイスラエル全体を敵に回して戦うには、数としては圧倒的不利だというのに、それでも彼等は心頑なになってしまった。
もはや意地の張り合いになってしまったのかもしれないが、いずれにせよ彼らは、自分達はソドム以下の蛮行をする者であっても命がけで守り、彼らの行動に同意します、と、公に表明してしまったようなものだ。
主は侮られるようなお方ではない。その報いは、非常に高くついてしまう。

『イスラエルの人々は立ちあがってベテルにのぼり、神に尋ねた、「われわれのうち、いずれがさきにのぼって、ベニヤミンの人々と戦いましょうか」。主は言われた、「ユダがさきに」。』(士師記20:18)
ここに来て、イスラエル側は主に伺いを立てている。
主に伺う事は「良い事」であるのに変わりはないが、問題なのは、そのタイミングである。
彼らは、自分達が何をするかを既に決定してしまった後で、後付けのように主に伺いを立てており、自分達の意志のほうが主の御心よりも優先させてしまっている。
普段は主に伺う事をせず、自分で何もかも計画し、立案し、決定してから、取ってつけたかのように主に祈る人は多いが、そのような人は、やがて大失敗するものだ。

ヨシュアは、強敵エリコを攻略する前は、主の軍の将から必勝法を伝授してもらった。
その内容は、人の知恵では実に愚かに見えるものだったのに、それでも彼らが御言葉に従順したら、あっさりと勝利できた。
しかし、その後のアイの攻略の時は、主に伺う事をしなかった。
彼らはその時、決して戦ってはならない状態、すなわち、聖絶のものを抱え持った状態であるのに、それに気づかず、人間の見た目や判断に従って戦いに出て行ってしまったため、惨敗してしまった。
そこでヨシュアは、すぐに主に伺いを立てた所、自分達の中に聖絶のものがある事を示され、それを取り除いた時、再び勝利できる状態に戻った。
私達も、主に伺う事をせしないで、自分達の「良かれ」で進んでいってしまうと、災いをもたらしてしまう事になる。

この後、イスラエルは散々な目に遭う事になる。
しかしそれは、彼らが真に主に立ち返るための主の懲らしめであり、訓練なのだ。
主に打ち叩かれて強制的に修正されるのではなく、細書から主の御旨を求め、御言葉から外れて災いの道へと遠回りする事なく、安全に主の道を歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

東方の博士達 - 礼拝者への宇宙規模の贈り物(マタイ2:1-12)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
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第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

全世界を救いへと導く、天地を創られた神の御子が地上に来られたのは、一介の貧しい夫婦の元、それも、馬小屋の馬槽の中に、赤ちゃんとして宿られた。バプテスマのヨハネのように公ではなく、密やかにであったため、そのお生まれはユダヤでは誰も知らなかったが、それは、東方の博士達は知っていた。
東方の「博士」はギリシャ語ではマゴス、まじないをする人や占星術者であり、救いから程遠い汚れた者とされる者だったが、彼らはメシヤのお生まれを真っ先に悟り、はるばる旅して礼拝しに来た。
ユダヤの王がお生まれになったとあれば、ユダヤの王宮に行けば出会えると思って王宮に入り、その王座に座っているヘロデ大王に尋ねたのだが、王とエルサレム中の人々は、博士達を驚かせる反応をした。
ユダヤの王宮にいた彼らはメシアがお生まれになった事を誰も知らないばかりか、それを聞いて真っ先に起こしたリアクションは、恐れと、惑いであり、待ちに待ったお方が来られる事の喜びや歓喜ではないのだ。
もし独裁国に新しい王が現れたとなると、その国民はきっと恐れ惑うだろう。それと同じで、自分が一番の王になっていたい者や、甘い汁を吸って来た取り巻きには、新しい王など、来て欲しくないのだ。

ヘロデ大王は、何百年も前に書かれた預言書から、キリストはベツレヘムでお生まれになると知った。
すると彼は密かに博士達を呼び、星の出現の時間をつきとめた。
なぜ密かに呼んだか。それは、キリストがいつお生まれになったのかを逆算して、殺すためだった。
何百年も前から預言されていた神のわざを知り、しるしも見て、それで主を恐れ敬うのではなく、短絡的に、抹殺しようとするのは、自分が王でいたいがためだ。そのような者は口先は「自分も行って拝む」と礼拝者であるが、内は殺人者である。今でもそのようなニセ礼拝者はいるが、全能なる主は黙っていない。
博士達は、何か解せない思いがあっただろう。行って拝むつもりなら、自分達のような異邦のマゴスに外注するのではなく、自ら祭司や学者の調査団を組織して行くのがスジであろうに、誰も行かないのだから。
ともかく博士達は送り出された。とりあえず、ユダヤのベツレヘム地方、という情報だけは入手できたが、その以外の情報は一切無し、助けもいっさい無しである。博士達はふたたび頼りを失ってしまった。

ところがなんと、東方で見たあの星が、彼らを導くのだ。彼らはその星を見て、この上もなく(メガス)喜んだ。
神は星の配置を定め、光のスピードを定め、博士達がこの時代のこの時メシアを礼拝するために出かける事を、何千年何万年前から既に知っておられ、星の配置をあらかじめそのように定めておられたのだ。
神はまことに人の知恵では計り知れない。私達は主のわざの仕組みを、物理などで理解する必要は無い。
ザカリヤは理解しようとして口を閉ざされたが、私達は主が真実で偉大なお方であり、イエス様を礼拝したいと願う礼拝者のためには、星さえも動かして都合つけてくださるお方だと喜ぶだけで良いのだ。
ヘロデ王の宮殿に留まった者は誰一人、この天文学的レベルの奇跡に預かることは出来ず、預かれたのはたった三人の礼拝者、イスラエルから疎外されたこの博士達だけだった。

博士達は星の導きに従って、示された家に入った。そこには、若き母マリヤと赤ちゃんイエス様がいたのを見て、赤ちゃんの前にひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を捧げた。
万物はこの御方よって成り、この、御方のために創られた、その御方は赤ちゃんの成りをして来られたのだ。
この三人の博士は王のような、とても高貴な身分であったと言われているが、そんな高貴な壮年男性達が、生まれたばかりの赤ちゃんを前にひれ伏して拝む。彼らはこの旅で受けた物は何もなく、ただ捧げたのだ。
ただ捧げに行き、手ぶらで帰る。礼拝とはそういうものである。礼拝は何か受けるにあらず、礼拝とは、捧げに行くことだ。博士達は、物理的には失ったが、しかし誰よりも素晴らしい体験がプレゼントされた。
全能の主、宇宙を創られた主が、なんとこの私達のために現れ、あらゆる便宜を図って下さり、イエス様の元へと導いてくださった。これ以上の喜びはあろうか。それは世の王達、権威者たちには分からない密かな喜びである。今、権威の世界は、闇の混沌が渦巻き、蹴落とし蹴落とされの、非常にどろどろした世界だが、そこに憧れる必要は無い。イエス様を求め、礼拝する事を求めるのならば、主はあらゆる便宜をはかり、宇宙規模の不思議を働かせて、礼拝へと導かれるのである。
博士達のように素晴らしい恵みと特権に預かる事ができますように、イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪魔サタンの居場所をなくす方法(黙示録12:7-12):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
恵みにあずかった食卓の下の子犬(マタイ15:21-28):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
花婿に迎えられる花嫁(雅歌3:5-11):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ベネディクトゥス(ルカ1:67-80):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:内戦へと突き進む高揚した集団心理(士師記20:1-11):右クリックで保存

前回の個所は、聖書の内容とはとても思えないほどの凶行が行われたが、その事がきっかけで、士師記時代の中では、かつて無かった事が始まる。

『そこでイスラエルの人々は、ダンからベエルシバまで、またギレアデの地からもみな出てきて、その会衆はひとりのようにミヅパで主のもとに集まった。』(士師記20:1)
ダンからベエルシバまで、とは、イスラエルの最北端から最南端まで、すなわち、イスラエルの全地域をあらわす言葉である。
それまでの士師記の時代は、全体を一つにまとめる王が無く、それぞれが良いと思う事を行い、てんでバラバラに動いていたため、イスラエルはまとまりが無く、霊的にも軍事的にも全く力を失ってしまい、モラルも地に堕ちて、ソドムよりも非道い堕落へと陥ってしまった。
ところが、この、最低最悪の出来事がきっかけとなり、全地域から「主のもとに」「ひとりの人のように」集まって、この問題を真剣に取り組もうという機運が起きた。

『民の首領たち、すなわちイスラエルのすべての部族の首領たちは、みずから神の民の集合に出た。つるぎを帯びている歩兵が四十万人あった。』(士師記20:2)
剣を帯びている男達が40万。この集団の故に、一日だけで、かなりの食料や物資、人員が、この近辺で動いただろう。
ミツパは一気にものものしい雰囲気となり、ベニヤミン族にも、その事が耳に入った。

『イスラエルの人々は言った、「どうして、この悪事が起ったのか、われわれに話してください」。』(士師記20:3)
集まった人々に促されて、レビ人は話し出すのだが、自分に都合の悪い事は伏せ、相手に対しては都合悪く言う。
『殺された女の夫であるレビびとは答えて言った、「わたしは、めかけと一緒にベニヤミンに属するギベアへ行って宿りましたが、ギベアの人々は立ってわたしを攻め、夜の間に、わたしのおる家を取り囲んで、わたしを殺そうと企て、ついにわたしのめかけをはずかしめて、死なせました。それでわたしはめかけを捕えて断ち切り、それをイスラエルの嗣業のすべての地方にあまねく送りました。彼らがイスラエルにおいて憎むべきみだらなことを行ったからです。』(士師記20:4-6)
ベニヤミン族はもともと、彼を殺そうと企てたというより、性的に暴行しようとしたのであり、彼は自分がレイプされるのを避けるために、彼のめかけを彼らに突き放した事が、抜け落ちている。
それで彼女は朝まで暴行され、彼は彼女の死体をバラバラにし、それを全地に送って、これからどうするかを、全イスラエルに促したのである。

『イスラエルの人々よ、あなたがたは皆自分の意見と考えをここに述べてください。』(士師記20:7)
何か事件が起きた時は、本来、レビ人の祭司が、律法に基づいて主の道にそったさばきをすべきであり(申命記17:8)、律法から神の喜ばれる事・忌み嫌われる事の何たるかを、民に教えるのがレビ人務めであるのだが(申命記33:8-11)、彼は律法を持ち出す事も無く、主の御旨を示す事も無く、ただ、人の意見と考えを扇情的に求めている。
そうして人々は、神も律法も抜きにした、直情的な意見を叫び出す。

『民は皆ひとりのように立って言った、「われわれはだれも自分の天幕に行きません。まただれも自分の家に帰りません。われわれが今ギベアに対してしようとする事はこれです。われわれはくじを引いて、ギベアに攻めのぼりましょう。すなわちイスラエルのすべての部族から百人について十人、千人について百人、万人について千人を選んで、民の糧食をとらせ、民はベニヤミンのギベアに行って、ベニヤミンびとがイスラエルにおいておこなったすべてのみだらな事に対して、報復しましょう」。』(士師記20:8-10)
40万の群衆が、剣をかかげ、みだらな者達を討伐するぞ!と、気勢をあげて叫んでいる。そのただ中にいたなら、自分たちは官軍として、何でもやれる気になって奮い立っただろう。
しかし、まことの神の御心を除外し、自らを奮い立たせる事は、日本の戦前の軍国主義と同様、破壊欲や占有欲を正当化させる狂言に過ぎず、かのベニヤミン族と、なんら変わる所は無い。

『こうしてイスラエルの人々は皆集まり、一致結束して町を攻めようとした。』(士師記20:11)
このようにして、イスラエルは、国を上げての内戦状態へと進んで行く。
イスラエルはこれより、痛い所を通らされるが、主は、その向こう側を見ておられる。

礼拝説教メッセージ音声:ソドム以下に成り下がってしまったイスラエル(士師記19:22-30):右クリックで保存

かのレビ人達は、宿が与えられ、ほっと一息ついたのもつかの間、とんでもない事に陥る。
『彼らが楽しく過ごしていた時、町の人々の悪い者どもがその家を取り囲み、戸を打ちたたいて、家のあるじである老人に言った、「あなたの家にきた人を出しなさい。われわれはその者を知るであろう」。』(士師記19:22)
「知る」とは、性的関係を結ぶ、という事である。
そう、この町の男達は、旅客として訪れたレビ人の男性と、性行為がしたいために、暴力的に取り囲んでいるのだ。
もう、旅人をもてなすとか、神の奉仕者・レビ人を大事にするとかいったレベルの事ではなく、相手が旅人であろうが、レビ人であろうが、同性であろうが、とにかくただ性的に犯したいという、獣以下の本能で動いているのだ。
ここに、ソドムやゴモラと全く同じ事が、展開されている。
ソドムといえば、創世記19章で記されている通り、生きたまま地獄の炎が降ってきて神に直接裁かれた、不品行の象徴のような罪深い町であるが、それと全く同じ状況が、神の民イスラエルの中で起きてしまっている。

『しかし家のあるじは彼らのところに出ていって言った、「いいえ、兄弟たちよ、どうぞ、そんな悪いことをしないでください。この人はすでにわたしの家にはいったのだから、そんなつまらない事をしないでください。ここに処女であるわたしの娘と、この人のめかけがいます。今それを出しますから、それをはずかしめ、あなたがたの好きなようにしなさい。しかしこの人にはそのようなつまらない事をしないでください」。』(士師記19:23-24)
この町の者達の要求も、この老人の対応も、創世記19章で記されているロトとソドムの住人の対応に似てはいるが、違う点がいくつかある。

ロトの時は、客人を守るために、処女である自分の二人の娘を渡そうともちかけたが、今回この老人は、自分の娘だけでなく、客人のめかけも差し出そうと提案している。
それだけでも非道い話だが、レビ人は自分の身を守ろうと、次の事をする。
『しかし人々が聞きいれなかったので、その人は自分のめかけをとって彼らのところに出した。彼らはその女を犯して朝まで終夜はずかしめ、日ののぼるころになって放し帰らせた。朝になって女は自分の主人を宿してくれた人の家の戸口にきて倒れ伏し、夜のあけるまでに及んだ。』(士師記19:25-26)
ここでロトの時と決定的に違う事は、ロトの時は御使いによって助けられたが、今回は、助けはどこにも無く、レビ人は無情にも自分のめかけを暴漢どもへ投げやり、暴漢どもは彼女を朝になるまで好き放題に暴行した。

ロトは、信仰者アブラハムによって執り成し祈られていが、この時代、執り成し祈る者は誰もいなかった。
普通のストーリーなら、こういうピンチの時はヒーローが現れて必ず救ってくれる事を期待するが、御言葉を守る事も、執り成しの祈りも無い時代には、残念ながら救いのヒーローは現れず、ただ蹂躙され、やられてしまうだけなのだ。

もう一つ、ロトの時と違う事といえば、ソドムは天から火が降って来て裁かれたが、イスラエルはすぐには裁かれない事だ。
人は思う。なぜこのような事が神の民の中で起こるのか、と。
なぜこうなるまで、主は放って置かれたのかと。

逆に見れば、主は、そこまで神の民を”特別扱い”されているのだ。
主は、ソドムの罪悪がある点まで達した時、天から火を降し、滅ぼした。しかし、神の民イスラエルについては、特別扱いされる。
主は彼らが義に立ち返ることを願い、悔い改めるまで待たれ、さばきを先々まで先伸ばしにされるのだ。
しかし、人々は、その主の憐れみを悪用し、いつまでも赦されると思って、さらに悪をし放題してしまった。
神は侮られるようなお方ではない。必ず自分のした事の報いはその身に受ける事になる。

『彼女の主人は朝起きて家の戸を開き、出て旅立とうとすると、そのめかけである女が家の戸口に、手を敷居にかけて倒れていた。彼は女に向かって、「起きよ、行こう」と言ったけれども、なんの答もなかった。そこでその人は女をろばに乗せ、立って自分の家におもむいたが、その家に着いたとき、刀を執り、めかけを捕えて、そのからだを十二切れに断ち切り、それをイスラエルの全領域にあまねく送った。』(士師記19:27-29)
彼女を襲った暴漢も非道いが、このレビ人も、そうとう非道い。
レビ人は、彼女を暴漢どもにつきだしておきながら、彼女が襲われている間、彼自身はそのまま安全な所で睡眠したのだ。
そして起きあがると、彼女をその町に残したまま、自分だけ、旅立つつもりでいたのだ。
彼が旅立とうとして、扉を開けると、そこに彼女が倒れていたのを見たが、安否を気遣う事もなく、そのまま「起きよ、行こう」と言う。
ここまで見ると、このレビ人が彼女をわざわざ父の家に迎えに行ったのは、彼女の人格を愛していたからではなく、性的な快楽の”道具”として有用だったから取り戻しに行っただけだったのかもしれない。

そして、動かなくなった彼女を家に持ち帰ると、なんとその死体をバラバラに解体して、それぞれの部位を、イスラエル各地に送ったのだ。
少しでも共に過ごした女性の死体を、自分の手でバラバラに解体して、各地に送りつける。
現在日本も、死体をバラバラにしてしまう事件を聞く事には、ある程度の耐性がついてしまっているくらいに、異様な時代ではあるが、神に仕えるはずのレビ人がそのようにするというのは、深刻なまでに異常な事態である。
レビ人は、神の専任の働き人として身を清く保ち、汚れた行いからはほど遠い存在であるはずなのに、そのレビ人が率先して堕落し、汚れに身を投じてしまっている。
これら一連の状況を見るに、ソドムやゴモラのほうが、まだましに思えて来てしまう。

『それを見たものはみな言った、「イスラエルの人々がエジプトの地から上ってきた日から今日まで、このような事は起ったこともなく、また見たこともない。この事をよく考え、協議して言うことを決めよ」。』(士師記19:30)
この事によって、悔い改めの祈りが沸き起こったとか、神に立ち返ろうという運動が起こったとかは一切無く、「この事をよく考え、協議して言うことを決めよ」と、神抜きに言っている点が、いかにも士師記らしい。
しかし少なくとも、神の国と言われるイスラエルにおいて、このような事が起こった事については、イスラエル中に衝撃が巻き起こった。
堕落の究極の象徴とも言えるソドムよりも、さらに非道い状況へと落ちいってしまった事に対して、問題意識が本気に芽生えて来たのだ。
大きな前進とも言えるが、やはり、神に立ち返る事なく、互いや自分の意見や考えによって解決しようとしている内は、問題の解決は決して無い。
事態はもっと混乱していくばかりである。

今回の箇所は、聖書の中でも、トップレベルと言える程に非道い内容が記されている。
なぜこのような事が、聖書に記されているのか。
それは、神の民といえども、御言葉から離れて好き勝手を続けるなら、ソドムよりも非道いモラル低下へと陥る可能性が、十分にあると、私達は決して忘れてはならないからだ。

執り成しの祈りが無い所に、御言葉の戒めが無い所には、救いは無く、それを続けるなら、神の民といえどソドム以下になってしまうのだ。
私達はこの個所から戒めを受け、いつも主を意識する事を怠らず、霊的に目を覚まし、アブラハムのようにこの時代を執り成して祈り、神の裁きからこの時代を救う者でありますように!

礼拝説教メッセージ音声:寄留者によってもてなされた寄留者(士師記19:16-21):右クリックで保存

レビ人の旅人は、近くにある異邦人の町に滞在する事を避け、わざわざ遠くのギブアまで来たというのに、あいにく、彼らをもてなそうとする人は誰もいなかった。
ようやく彼らに声をかけたのは、この町の者ではなかった。
『時にひとりの老人が夕暮に畑の仕事から帰ってきた。この人はエフライムの山地の者で、ギベアに寄留していたのである。ただしこの所の人々はベニヤミンびとであった。彼は目をあげて、町の広場に旅人のおるのを見た。老人は言った、「あなたはどこへ行かれるのですか。どこからおいでになりましたか」。』(士師記19:16-17)
律法では、同族の人が困っている時には助けてやるべきことが命じられているのに、ベニヤミン族はそれをしなかった。
旅人をもてなす事は、パレスチナでは、何も律法を持っていない民であっても、当然のごとく行う事であり、それをしない事は品格を疑われるものであった
つまり彼らは、神の国の美徳どころか、世の美徳も全くもって意に介さなかったようである。
御言葉なしに生きていると、世の人よりも、モラルが低下してしまうのだ。

『その人は言った、「われわれはユダのベツレヘムから、エフライムの山地の奥へ行くものです。わたしはあそこの者で、ユダのベツレヘムへ行き、今わたしの家(原文:主(エホバ)の家に帰るところですが、だれもわたしを家に泊めてくれる者がありません。』(士師記19:16-18)
主(エホバ)の家は当時、エフライム山地の近くのシロにあった。
彼らはもしかしたら、自分の家に帰る途中、シロに寄ろうとしていたのかもしれない。

『われわれには、ろばのわらも飼葉もあり、またわたしと、はしためと、しもべと共にいる若者との食物も酒もあって、何も欠けているものはありません」。老人は言った、「安心しなさい。あなたの必要なものはなんでも備えましょう。ただ広場で夜を過ごしてはなりません」。そして彼を家に連れていって、ろばに飼葉を与えた。彼らは足を洗って飲み食いした。』(士師記19:19-21)
彼らは、主に仕えるレビ人であり、また、彼ら自身が食料や飼料も持っていたため、宿を貸すだけでも十分だったのに、誰もそれをしなかった。
しかし彼らは、寄留の人の家に寄留する形で、ようやく一息つくことが出来た。

この地上においては、私達は旅人であり、寄留者である。
神の国であるべき場が神の品性を捨てる時、神の国の中では”寄留者”と呼ばれるような人こそ、神の人をもてなすようである。

主イエス様は言っている。
『そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。」
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか。」すると、王は答えて言うであろう、「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」』(マタイ25:34-40)

主は全てを見ておられる。
世が創造される以前から用意されている御国(マタイ25:34)を受け継ぐ事ができるのは、主にある兄弟姉妹をよくもてなす人、小さな事に忠実な人である。

王となられた主から誉められた人達は、自分がそれをしたのに、それを覚えていない程「当然に」その行動を行っており、また、永遠の呪いに定められる人も、自分たちがいつ主を軽んじたのかを知らないほど「当然に」その行動を行っている。
この、主に喜ばれる事を、当然のごとくに、無意識のうちにしてしまう性質は、主を意識し、天の御国を意識して過ごす日々の積み重ねによって、培われる。
私達は、いつもどこでも主がおられる事を意識し、無意識に主を喜ばせる特性を日々積み上げたい。

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