メッセージ - 201405のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:見たことも体験した事もない道(ヨシュア記3:5-13):右クリックで保存
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『ヨシュアはまた民に言った、「あなたがたは身を清めなさい。あす、主があなたがたのうちに不思議を行われるからである」。』(ヨシュア記3:5)

主が御業を行われるためには、まず、私達の側が身を清めなくてはならない。
身を清めるとは、自分の中にある主の「聖」に相応しくない肉的な事、特に、性的な事柄を離れ、身についてしまった心と体の汚れを洗いきよめ、主と向き合うために心と体の備えをする事だ。(出エジプト記19:10-15)
聖別して下さるお方は主であり、主が私達を「聖別」して下さるためには、私達の側がまず、主の定めを守り行わなければならない。(レビ記20:7-8)
私達が「聖なる者」となるために、自らを整えて、主の前に進みゆくなら、主は私達をさらに聖なる、尊い者として下さる。

『主はヨシュアに言われた、「きょうからわたしはすべてのイスラエルの前にあなたを尊い者とするであろう。こうしてわたしがモーセと共にいたように、あなたとともにおることを彼らに知らせるであろう。あなたは契約の箱をかく祭司たちに命じて言わなければならない、『あなたがたは、ヨルダンの水ぎわへ行くと、すぐ、ヨルダンの中に立ちとどまらなければならない』」。』(ヨシュア記3:7-8)
主は、新しい指導者・ヨシュアを、イスラエルの民や全ての国の人々の畏敬の対象とさせるために、大いなる事をなさる。
彼らは、今まで入ったことの無い道を進み行こうとし、今まで体験しなかった事を、体験しようとしている。
その道を進み行くには、自分の中の、現状維持したいという思いや、未知の事への恐れを、主に対する信仰によって征服させる事が必要であり、その事は、自らの心を御言葉へと服従させる事によって、可能である。

『ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなたがたはここに近づいて、あなたがたの神、主の言葉を聞きなさい」。』(ヨシュア記3:9)
ヨシュアが民にまず言った事、それは、近づいて、主の言葉を聞け、である。
信仰はそもそも、聞く事から始まる。
種を蒔いていない土地は、当然のように、何の実りを実らせず、ただ雑草しか生じて来ないように、御声を聞こうとしない人は、当然のごとく、何の良き実りをもたらさず、神と人に対して雑草のようなものしか生じさせないのだ。

『そしてヨシュアは言った、「生ける神があなたがたのうちにおいでになり、あなたがたの前から、カナンびと、ヘテびと、ヒビびと、ペリジびと、ギルガシびと、アモリびと、エブスびとを、必ず追い払われることを、次のことによって、あなたがたは知るであろう。ごらんなさい。全地の主の契約の箱は、あなたがたに先立ってヨルダンを渡ろうとしている。・・・全地の主なる神の箱をかく祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、上から流れくだる水はとどまって、うず高くなるであろう」。』(ヨシュア記3:10-13)

水がうず高く積み上がっている様は、おそらく、皆さんは今まで見たことが無いだろう。
イスラエルの民も、40歳以下の人達は、見たことが無かったはずである。
しかし彼らは、かつて、主が紅海の水を分断し、海の中のかわいた所を通らせ、エジプトは逆に水の中に沈めた事を、伝え聞いて、知っている。
それと同じ体験を、これからあなたがたもする、そして、その不思議なしるしを体験する事によって、その不思議を可能にした主は、これから攻め入ろうとしている敵の全てを、必ず追い払って下さるのだ、と、ヨシュアは民を励ました。

主が「進み行け」と言われるなら、信頼して進み行くべきであり、主が「とどまれ」と言われるなら、信頼して、留まるべきである。
しかし、主の言葉の内容を聞いてみた時、それは不可能だ、ばかげている、と言って退け、自分の考えつく手段や方法に頼って行くなら、ますます悪いことになって行く。
『主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに/山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。』(イザヤ30:15-17)

私達は、御言葉の内容に敵対するのような思いが沸き起こった時、それをとりこにし、服従させて、その上で、御言葉を守り行わなくてはならない。
そうでないと、砂の上に建てられた建物のような、こっぴどい倒れ方で、倒れてしまう。
信頼して御言葉を守り行うなら、力を得、救われるのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
聖絶すべきものを大事に隠し持っている者への警告(イザヤ30:15-26):右クリックで保存
悔い改めの祈り会音声:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の前では言葉に気をつけよ(伝道者の書5:1-3):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:今まで通った事のない道を行くには(ヨシュア記3:1-4):右クリックで保存

斥候から報告を受けた後、ヨシュアは全イスラエルと一緒にシティムを出発し、ヨルダン川の川岸まで行って、そこに泊まった。
彼らの目前には、これから超えるべきヨルダン川が横たわっている。
『三日の後、つかさたちは宿営の中を行き巡り、「レビびとである祭司たちが、あなたがたの神、主の契約の箱をかきあげるのを見るならば、あなたがたはその所を出立して、そのあとに従わなければならない。そうすれば、あなたがたは行くべき道を知ることができるであろう。あなたがたは前にこの道をとおったことがないからである。』(ヨシュア記3:2-3)
彼らは、今までに一度も通った事の無い、全く新しい領域へ踏みだそうとしている。
そのような時、今まで慣れ親しんだ方法や経験は全て通用せず、その一歩一歩は、信仰のチャレンジとなり、目当てとして従い行くべきは、ただ、祭司たちが担いで進んでいく契約の箱のみとなる。

契約の箱。
それは神様が約束して下さった契約のしるしであり、その中に入っているものは、主の命令が記された石の板、マナの入った金の壷、アーモンドの芽と花が吹いたアロンの杖である。
石の板は、御言葉そのものであり、マナは、神様が天から与えて下さった食物、すなわち、全て人に必要なものを満たして下さるしるしであり、芽を吹いたアロンの杖は、永遠の祭司のしるしであり、かつ、死からいのちを息吹いて下さる、いのちの源なる主のしるしである。
彼らはもはや、雲の柱や火の柱のような、目に見えるしるしや不思議に頼って歩む事を止めにし、祭司たちが担ぐ「御言葉そのもの」と、「必要の満たしのしるし」と、「死からの復活のしるし」のみを見つめつつ、これから歩んでいくのだ。

現代を生きている私達キリスト者の歩みも、それに似ている。
まことの大祭司・イエス・キリストが私達に指し示して下さる御言葉を見つめつつ、ただそれのみを頼りに導かれて行くのだ。
『信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。』(ヘブル12:2)

御言葉には、数々の素晴らしき約束が記されている。契約の箱の中にあったすばらしきしるしの数々のように。
主は、この地上においては全ての必要を満たして下さり、罪の中で死んでしまっている私達を復活させ、永遠のいのちへと、天の御国へと、導いて下さる。
私達はその約束を仰ぎ見つつ、地上における残された日々を歩んでいくものである。

『しかし、あなたがたと箱との間には、おおよそ二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。』(ヨシュア記3:4)
箱をかつぐ祭司との間は、二千キュビトの距離をおかなければならなかった。
その二千キュビトの距離を、縮めてはならず、追い越してもならない。
私達も、まことの大祭司であるイエス様との、そのような距離感は、大切である。

私達は主イエス・キリストを、あまりにも馴れ馴れしいものとして軽んじたり、無礼を働いてはならない。
かと言って、あまりに遠い存在として、離れすぎてもいけない。
私達は御言葉を乗り越えて進んで行ってはならないし、また、御言葉が先を行くのに、ついて行く事を怠け、ついには御言葉がどこへ行ったかさえ分からなくなってしまうような「霊的なまけぐせ」をつけてはならない。

契約の箱をかつぐ祭司との間に、二千キュビトの距離をを保つには、自分自身の歩みを、祭司に合わせる必要がある。
この歩みにおいて必要な事は、信仰によって自己を降ろし、御言葉をかつぐ大祭司キリストへと、歩調を合わせる事である。
キリストとくびきを共にして歩むなら、私達の心に平安が来る。
『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。』(マタイ11:28-30)

主はヨシュアに、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束した通り、あなたがたに与えている。」(ヨシュア1:3)と約束された。
私達も、大祭司であるキリストが御言葉をかついで行くのが見えたなら、どこに行くのかを案じず、恐れず、ただキリストの歩みに歩調を合わせて進み、そうして、新しく入る土地を一歩一歩踏んで行くなら、その所はいつの間にか、私達のものとなって行き、私達が未だかつて経験した事の無い、主の素晴らしい領域を、ますます自分のものとしてゆくのだ。
『聖書に書いてあるとおり、/「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、/人の心に思い浮びもしなかったことを、/神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」/のである。』(1コリント2:9)

礼拝説教メッセージ音声:苦もなく安息に入る人の特徴(ヨシュア記2:15-24):右クリックで保存

『そこでラハブは綱をもって彼らを窓からつりおろした。その家が町の城壁の上に建っていて、彼女はその城壁の上に住んでいたからである。』(ヨシュア記2:15)

ラハブは、城壁の中に建て込まれていた”マンション”の一室に住んでいたため、彼らを安全に送り出すために、その窓から吊り降ろした。
このようにして助けだされた二人は、約束どおり、ラハブとその家族の救いの方法を示した。
『ふたりの人は彼女に言った、「あなたがわれわれに誓わせたこの誓いについて、われわれは罪を犯しません。われわれがこの地に討ち入る時、わたしたちをつりおろした窓に、この赤い糸のひもを結びつけ、またあなたの父母、兄弟、およびあなたの父の家族をみなあなたの家に集めなさい。ひとりでも家の戸口から外へ出て、血を流されることがあれば、その責めはその人自身のこうべに帰すでしょう。われわれに罪はありません。しかしあなたの家の中にいる人に手をかけて血を流すことがあれば、その責めはわれわれのこうべに帰すでしょう。』(ヨシュア記2:17-19)

主から指示された救いの印を付けて、その中でじっとしている。そうするなら、さばきの日に守られる。
これは、聖書の色々な箇所において共通する、救いの方法である。(出エジプト記12:7、ヨシュア2:18-21、エゼキエル9章、黙示録7:3,9:4)

二人の斥候は、ラハブに、救われるために「赤い印」を家に付すよう指示したが、それは、主がイスラエルをエジプトから救い出された時を彷彿させる。
『主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。』(出エジプト記12:21-23)

かつてイスラエルは、エジプトがさばかれる日、血潮の赤いしるしを付与し、滅びを免れた。
その日、血潮の赤いしるし境に、いのちと死がはっきり分かれた。
ほふられた小羊の血のしるしの内では、ごちそうと安全と感謝があり、しるしの外側では、死と叫びと滅びがあったのだ。

この”赤いしるし”の内側に助けを求めて来る人が救われる事は、今の私達も全く同じである。
すなわち、世の罪を取り除くまことの小羊イエス・キリストの血によって、人の罪は洗い清められ、その血潮の内側に救いを求めて来る人は、誰でも、罪が赦され、罪の刑罰をまぬがれ、さばきの日には滅びは届かず、改まった世において永遠に生きる幸いが与えられるのだ。
『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」』(ヨハネ11:25)
そして、ほふられた小羊キリストに贖われた人達は、救いを成就して下さった彼を、永久にほめたたえるのである。
『ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。』(黙示録5:12)

『ラハブは言った、「あなたがたの仰せのとおりにいたしましょう」。こうして彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は赤いひもを窓に結んだ。』(ヨシュア記2:21)
「あなたの仰せのとおりに」。
これこそ、苦もなく救われる人が、よく口にする言葉である。
赤い印を結ぶのは、裁きの日の前日でも、滅びのラッパが吹き鳴らされる直前でも別に良かったのだが、彼女は、言われた時にすぐに実行した。

大いなる裁きの日、赤い印を結んだ状態で、かつ、その中にいる事。
それが、救いの条件であるが、御言葉に対し「でも」や「だって」が多い人は、信仰の歩みには苦労が多い。
そういう人は、御言葉を身勝手に解釈して、ややこしい事をしたり、人々に「あれせよ、これせよ」と言っておきながら、かんじんのその日、見事に赤いしるしを結び忘れていたり、あるいは、しるしの外に飛び出して、滅びてしまったりするのである。

私達も、自分自身に結びつけるべきものがある。
それは「御言葉」であり、信仰によって結びつけるものである。
『それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、「信仰によって結びつけ」られなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。』(ヘブル4:1-3)

信仰によって結びつける、それは、自我のうごめく自分自身の心をとりこにし、御言葉に服従させ、御言葉を交ぜ合わせ、その御言葉と一体化する事である。
聞いた御言葉に、信仰を交ぜないなら、聞いた御言葉は何の益にもならないし、決して安息に入れない。
「彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。」(永井訳 ヘブル4:2)

苦もなく安息へと入る人は、聞いた御言葉を、信仰によって、自身に結びつける人である。
聞いた御言葉に、信仰を混ぜ込んで、御言葉と一体化するなら、御言葉の守りが、きよめが、私達へと一体化され、そうして私達は、滅びを免れるのである。

礼拝説教メッセージ音声:求める人にはご自身を現して下さる主(ヨシュア記2:8-14):右クリックで保存

ヨシュア記の多くは、カナンでの戦闘と土地分与の記録に多くの文量を割いているが、この2章については、遊女ラハブと2人の斥候のやり取りに終始している。
この遊女ラハブが取った行動と、その行動の結果、彼女とその家族とが得た救いの有り様は、私達異邦人の救いの有り様とよく似ており、それは新約を生きる私達にとって重要だからであろう。

『ふたりの人がまだ寝ないうち、ラハブは屋上にのぼって彼らの所にきた。そして彼らに言った、「主がこの地をあなたがたに賜わったこと、わたしたちがあなたがたをひじょうに恐れていること、そしてこの地の民がみなあなたがたの前に震えおののいていることをわたしは知っています。あなたがたがエジプトから出てこられた時、主があなたがたの前で紅海の水を干されたこと、およびあなたがたが、ヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王シホンとオグにされたこと、すなわちふたりを、全滅されたことを、わたしたちは聞いたからです。』(ヨシュア記2:8-10)

ラハブは、非常に重要な情報を、斥候に提供した。すなわち、この地の民は皆、イスラエルを恐れ、震えおののいているというのだ。
しかもそれは、彼らがエジプトから出てきた時から、すなわち、その40年も前からなのだ。
40年前、ヨシュアとカレブを除いた斥候10人は、臆病の霊にとりつかれ、この地について悪い情報をもたらした。
すなわち、カナンの地は堅固で強大で、自分達がいなごのように見えた、と言って、全イスラエルを迷わせ、荒野の放浪へと陥れたが、実のところ、あの時から既に、カナン人は、エジプトを徹底的に懲らしめた主と、主がついておられるイスラエルの民を恐れ、震えおののいていたのだ。
あの時からカナン人は震えおののいていたのだから、40年前、恐れずに進み行っておれば、やすやすと占領できたのに、不信仰のゆえに、荒野で無駄に40年の時間を費やし、また無駄に命を落としてしまったのだ。

『わたしたちはそれを聞くと、心は消え、あなたがたのゆえに人々は全く勇気を失ってしまいました。あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです。』(ヨシュア記2:11)

ラハブと、エリコの他の住人との決定的な違いは、主の圧倒的な力と権威を目の当たりにし、それに対してどのように応対したか、である。
エリコの住人は、主の為されたわざを聞いて、恐れおののいた。
しかし彼らは、城門を固く閉ざし、高くそびえ立った先祖由来の城壁を頼りにし、神とその民に対抗する事にして、探りに来た神の国の使者を探し出し、剣や槍をもって捕らえようとした。
一方ラハブは、その神の国の使者に、憐れみを乞うた。
『それで、どうか、わたしがあなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い、確かなしるしをください。そしてわたしの父母、兄弟、姉妹およびすべて彼らに属するものを生きながらえさせ、わたしたちの命を救って、死を免れさせてください」。』(ヨシュア記2:12-13)

傍から見れば、敵地の真っ只中にいる二人の斥候こそ、ラハブに命乞いをするはずの立場なのに、逆に、彼女のほうが、命乞いをしている。
彼女のその態度は、真実をついている。
なぜなら、彼女が告白した通り、「神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるから」である。

言ってみれば、エリコの王は、全宇宙を支配している”社長”である主に敵対して、社長が何も言わないのをいい事に好き放題をして、全社に不利益ばかりをもたらしている不採算部門の課長のようなもので、それにひきかえ、この二人の斥候は、社長から遣わされた監査役のようなものだ。
ラハブは、その権威構造を正しく理解していたため、この二人をかくまい、助けを求めたのだ。

ラハブと、この二人の斥候とを、うまく引き合わせたのは、主である。
彼女は、この、神の民の噂を聞く度に、願っていたのではなかろうか。この城壁の壁に囲まれた町で、身売りをするような日々から救われ、出来る事なら、このうわさの神の民に入りたいと。
それで主は、彼女の心の叫びを聞かれ、彼女の家に二人の斥候を遣わされたのではないか。
なぜなら主は、御目をもってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に、御力をあらわしてくださるお方だからだ。(2歴代誌16:9)

主は、岩砂漠の中に立てられたエリコの城壁の壁に住んで、身売りをしながら生活していたラハブの声を聞かれたように、現代、コンクリート砂漠の壁の中で、身売り同然の過酷な労働をしつつ搾取されているような現代人達をさえも、御目をもって見渡し、救いを求めて神に立ち返ろうとしている人を見い出し、その人のところには、神の国からの使いを遣わして下さるのだ。
私達が救われた時の有り様も、そのようではなかっただろうか。なぜこのような私に、と。よくぞこんな私に目を留めて見出して下さったと、不思議だったのではなかろうか。

かつてのエリコの住人のように、不道徳に満ちたこの世界の終わりが近づいている、と、なんとなく認知して、その滅びから救われたい、と思っている人は多い。
しかし、救われるためには、ラハブのような決断が必要である。
私達を造られた、全能なる主を認め、救われたいと願い求めるなら、主はどこにでもおられるお方である。主は、必ずその人に答えて下さる。
そして、イエス・キリストを救い主として受け入れるなら、あなたも、あなたの家族も、救われるのである。(使徒16:30)

礼拝説教メッセージ音声:真の権威に従順だった遊女ラハブ(ヨシュア記2:1-7):右クリックで保存

『ヌンの子ヨシュアは、シッテムから、ひそかにふたりの斥候をつかわして彼らに言った、「行って、その地、特にエリコを探りなさい」。』(2:1a)
ヨシュアは、もしかしたら恐れがあったために斥候を遣わしたのかもしれない。しかし、この敵情視察は、最終的にヨシュアに励ましと勇気をもたらした。
主は、恐れるギデオンにも、羊の毛のしるしや、ギデオンに対して恐れを抱いている敵を見させる事よって、勇気づけたように(士師記6,7章)、御心を求める人には、GOサインを示して下さる。
そして、主がそれを示して下さったからには、その道は是が非でも行くべきなのだ。
なぜならそれは主の御旨であり、行く先には勝利しか無いからである。

『彼らは行って、名をラハブという遊女の家にはいり、そこに泊まったが、エリコの王に、「イスラエルの人々のうちの数名の者が今夜この地を探るために、はいってきました」と言う者があったので、エリコの王は人をやってラハブに言った、「あなたの所にきて、あなたの家にはいった人々をここへ出しなさい。彼らはこの国のすべてを探るためにきたのです。」』(ヨシュア記2:1b-3)

このラハブという女性は、イエスキリストの系図に名を連ね、王族の家系の産みの母の一人として名を連ね(マタイ1:5-6)、新約聖書では、信仰の人として度々出ている。
一体なぜ、聖絶の対象であるカナン人の、しかも遊女という、およそ救いからは程遠いような彼女が、そのような栄光を受けたのだろうか。
それは、以下の彼女の行動によってである。
『しかし、女はすでにそのふたりの人を入れて彼らを隠していた。そして彼女は言った、「確かにその人々はわたしの所にきました。しかし、わたしはその人々がどこからきたのか知りませんでしたが、たそがれ時、門の閉じるころに、その人々は出て行きました。どこへ行ったのかわたしは知りません。急いであとを追いなさい。追いつけるでしょう」。その実、彼女はすでに彼らを連れて屋根にのぼり、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に彼らを隠していたのである。』(ヨシュア記2:4-6)

彼女のこの行動を、ヤコブは、行いをともなった信仰の行動として、褒めている。
信仰の人といえばアブラハムであるが、ヤコブは、アブラハムに続いて、ラハブのこの行いを取り上げた。
『「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。』(ヤコブ2:23-26)

ある人は言う。彼女は嘘をついて自国の王を、裏切った、と。
しかし、彼女のこの行動は、そんな瑣末な善悪判断で計るレベルの問題ではない。
これは、救いと滅びの問題であり、神かサタンか、光か闇か、そのどちらに属すのか、という問題なのだ。

遊女である事を強いるような、搾取され続ける事を強いるような、また、聖なる事や命なる事をあざ笑い、阻害し、打ち壊すような、そのようなサタンに属する権威に対しては、断固として、敵対するべきである。
その場合、至高なる神を裏切った堕天使に「裏切り者」呼ばわりされる筋合いは無いし、偽りの父であるサタンに「嘘つき」呼ばわりされる筋合いは無いし、最も偉大な権威に不従順な者から「不従順」と言われる筋合いは、一切、無い。

『信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。』(ヘブル11:31)
もしあなたが平社員なら、社長に不従順な課長と、社長と、どちらに従うべきだろう。その場合、最終的に勝つのは、もちろん、社長に従順な人である。
同じようにラハブは、全宇宙の”社長”である神を侮る”不従順な部署”であるエリコに敵対し、圧倒的高位である神の視察団を、エリコの王から守ったが故に、救いを得たのだ。

人は、この遊女ラハブのように、早かれ遅かれ究極の選択が迫られる時が来る。
不真実で不従順な世に対して、今までどおり”忠実に”属し続けるのか。
それとも、真実なる神への従順を選択するのか。

ピラトは、義なるお方・イエス様をかくまわず、かえって邪悪な者どもに引き渡した。
そのため彼は、キリスト教会が使徒信条を告白する度に、義なるお方を邪悪な者共に渡した”裏切り者”として、その名は朗読されている。
遊女ラハブは、義なる人達を、邪悪な者には引き渡さずに、かくまった結果、栄光の家系に名を連ねる栄誉を得た。
『サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。』(マタイ1:5-6)

『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。・・・まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』(マタイ25:40、45)
遊女ラハブのように、不従順な世から脱却し、神に属する兄弟姉妹を大切にし、栄光の家系へと入る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ノア - 滅びの日が来る前に為すべき事(創世記7章)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ノアとその家族以外の人類は、全て、暴虐と不品行に染まってしまった時代においても、ノアは、子供達や嫁達にしっかりと信仰を継承し、本当に起こるとも分からない大洪水に備えるために、百年をかけて、全長およそ135mの巨大な船を、主から示された通りの寸法で造り続けた。
その間、彼らは義を宣べ伝え続けたが、結局、誰も改心しなかったようである。(2ペテロ2:5)
そうして、ついに箱舟は完成し、主が定められた時が近づいた。

『主はノアに言われた、「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである。』(創世記7:1)
主に命じられた通りの仕様で箱舟が完成した時、ノアの信仰は実体となり、主から「わたしの前に正しい人」と認められた。信仰は行いによって実体化される。行いの無い信仰は死んだものである。(ヤコブ2:17)
このようにノアは、行いを伴った信仰によって、多くのいのちを救う箱舟を造る働きをしたが、彼が主に命じられて救ったのは、きよい動物だけでなかった。「あなたはすべての清い獣の中から雄と雌とを七つずつ取り、清くない獣の中から雄と雌とを二つずつ取り、また空の鳥の中から雄と雌とを七つずつ取って、その種類が全地のおもてに生き残るようにしなさい。」(創世記7:2-3)
主は、清い動物だけでなく、清くない動物をも、滅びから救われる。この事は、救いは、きよい民だけでなく、きよくない民である異邦人にも開かれている事を意味し、主の働き人の宣教を通して救いは広められる。
ペテロは幻の内に、四隅を吊るされた敷布が天から降りてきて、そこに、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っているのを見せられ、主に屠って食べるよう言われた。彼は「できません」と断ったが、主は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と言われた。(使徒10:9-16)
救われたのは、きよいかきよくないかは関係なく、ただその時、救いの箱舟に入っているかどうかであった。
同じように今、救われるのは、良い人か悪い人かは一切関係なく、ただイエスを信ているかどうかなのだ。

「雄と雌とが、二つずつノアのもとにきて、神がノアに命じられたように箱舟にはいった。」(9節)
この動物たちが主の促しによって救いを得たように、私達も、主の促しが聞き分けられるように、いつも耳を研ぎ澄ませ、主の御声を聞けるようにしているべきである。
もし世の思い煩いや富の誘惑によって、霊的感性が鈍っていたら、主の御声を聞き分けられず、ノアの家族以外は箱舟をばからしく思ったように、救いの箱舟に入るべき時に「入らない」のだ。
「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」(16節) その日その時、救いの扉を閉ざすのは人ではなく神であり、ひと度、救いの門が閉じられたら、内にいる者には救いが、外にいる者には滅びが確定してしまう。
今は救いの時だが、それにはリミットがあり、それがいつなのかは、ただ主だけがご存知である。
「その日に大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて、雨は四十日四十夜、地に降り注いだ。」(創世記7:11-12) 悔い改める事をせずにいた人々に、ついに、裁きの時が来てしまった。
天の水門が一気に開かれ、地の底の深淵の源が張り裂け、そこから溢れる水は大波のように、濁流のように全てを洗い流し、わずか40日ほどで、何千メートル級の山々さえ水没し、その上15キュビトも覆うほど、地球全体は水で覆われた。人々はそれまで、めとったり嫁いだり、売ったり買ったりしながら築きあげて来た家も土地も財産も、ことごとく、一瞬にして流し去ってしまった。
それまで、天の上の水も地の下の水の源も、元々は全て生けるものを潤す恵みとして与えられていたが、この日、それらは全てのいのちに反旗を翻し、死のために押し迫った。

やがて来るべき終わりの日にも、同じことが起きる。私達は今、恵みが恵みとして注がれている今の内に悔い改め、救いの箱舟であるイエスキリストへと立ち返るべきである。
そして、ノアが忍耐しながら箱舟を建て上げつつ、義を宣べ伝えたように、私達も、忍耐しつつキリストの体を建て上げる働きをしつつ、福音を宣べ伝えるべきである。
ノアのように、キリストの体を建て上げつつ、多くのいのちを救いへと導く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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