メッセージ - 201404のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:エシュルンは肥え太って足で蹴った(申命記32:10-18):右クリックで保存

モーセが主から授かった歌の内容は、イスラエルの神が今までどんなに良くしてくださったか、それに引き換え、イスラエルの民は、どんなに恩知らずで、恩を仇で返してきたかを、表している。

『主はこれ(イスラエル)を荒野の地で見いだし、/獣のほえる荒れ地で会い、/これを巡り囲んでいたわり、/目のひとみのように守られた。わしがその巣のひなを呼び起し、/その子の上に舞いかけり、/その羽をひろげて彼らをのせ、/そのつばさの上にこれを負うように、主はただひとりで彼を導かれて、/ほかの神々はあずからなかった。』(申命記32:10-12)
わしは、ひな鳥がある程度成長したら、巣を揺り動かしてひな鳥を落とす。
落ちていくひな鳥は、羽をばたばたさせて、そうして飛ぶ訓練をさせるのだが、本当に危なくなったら、親鳥は子の上に舞いかけ、羽を広げてそれを乗せて、巣に運び、再び訓練させる。
そうして、子わしは飛ぶことを学んでいく。
同じように主も、イスラエルを、エジプトという巣を打って揺り動かし、荒野へと呼び出され、信仰によって歩む訓練をされた。
万軍の主の訓練は安全であり、あたかもひとみを大切に守るがごとくに、主は、イスラエルを巡り囲んでいたわって下さった。

主は、現代を生きる私達にも、同じように訓練される。
主は、私達がいた「世」という元々の住み家を揺り動かし、主の元へと召し出し、信仰にあって歩めるよう訓練させて下さった。
その間、主は私達を前から後ろから取り囲み、ひとみのように守って下さった。
そのように信仰によって私達が歩むなら、主は、あらゆる良きものを与え、地位を高くし、栄えさせてくださり、後には永遠のいのちへと導いて下さるのだ。
次のように記されているとおりである。
『主は彼に地の高き所を乗り通らせ、/田畑の産物を食わせ、/岩の中から蜜を吸わせ、/堅い岩から油を吸わせ、牛の凝乳、羊の乳、/小羊と雄羊の脂肪、/バシャンの牛と雄やぎ、/小麦の良い物を食わせられた。またあなたはぶどうのしるのあわ立つ酒を飲んだ。』(申命記32:13-14)

しかし主は、イスラエルがそのように何もかもがうまく行った時、今まで良くして下さった主を裏切る、と、言われる。
『しかるにエシュルンは肥え太って、足でけった。あなたは肥え太って、つややかになり、/自分を造った神を捨て、/救の岩を侮った。』(申命記32:15)
私達の中にも、そのような性質がある事を、忘れてはならない。
ダビデでさえ、何もかもがうまく行くようになった時、慢心が生じて失敗し、主の御前に罪を犯してしまった。

『彼らはほかの神々に仕えて、主のねたみを起し、/憎むべきおこないをもって主の怒りをひき起した。彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々、/近ごろ出た新しい神々、/先祖たちの恐れることもしなかった者である。』(申命記32:16-17)
彼らは満ち足りた時、主の教えを乗り越え、もっと自分の好き勝手に、もっと自由奔放に生きようとたいがために、今まで彼らを守り、幸いへと導いて下さった主を裏切るのだ。

パウロも言っている。
『神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。』(2テモテ4:1-4)
今の時代も、主がどんなに良くして下さったかを覚えず、健全な御言葉の教えを捨て去り、自分に都合の良い事を言ってもらうために、先生を自分の所に呼び寄せて空想話にうつつを抜かしているクリスチャンは多い。
パウロは、そのような時代を見越して、「御言葉をのべ伝えなさい」という、実にシンプルかつ重要な命令を、おごそかに命じているのである。

『あなたは自分を生んだ岩を軽んじ、/自分を造った神を忘れた。』(申命記32:18)
モーセが死ぬ前に伝えたこの歌は、昔イスラエルに対して歌われた詩歌で、現代の自分には何も関係ない、と、思ってはならない。
この歌は、今の私達にこそ、関係あるのだ。

主は私達を世から召し出し、信仰にあって歩むように訓練をさせ、前から後ろから私達を取り囲んで、ひとみのように守って下さり、この地においては、あらゆる良きもので満たし、地位を高くし、栄えさせ、後には、永遠の御国へと導き入れんがために、今なお、私達を導いておられる。
それでいながら、私達には、主を捨てて自分勝手な道に行ってしまいたいという性質も、またある事を、日々、思い出すべきである。
そしてもし、今、主から離れて諸々の災いに遭っているとしたなら、この歌の内容を思い返し、速やかに主に立ち返るべきである。
地上での生活においては、主に信頼しつつ歩んで、ますます幸いと祝福を歩んでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:モーセが残した歌(申命記32:1-9):右クリックで保存

イスラエルが将来、主の御言葉を軽んじ、それで災いが自分達に降りかかると、「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか。」と言う事までも、主は、あらかじめご存知であった。
そうなった時、結局悪かったのは主ではなく、自分達だった、という、将来の証拠を残すために、主はあらかじめ「歌」という形で、将来起こる事を表明しておられた。
32章には、その歌の内容が記されている。

『「天よ、耳を傾けよ、わたしは語る、/地よ、わたしの口の言葉を聞け。わたしの教は雨のように降りそそぎ、/わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように、/青草の上にくだる夕立のように。わたしは主の名をのべよう、/われわれの神に栄光を帰せよ。主は岩であって、そのみわざは全く、/その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、/義であって、正である。』(申命記32:1-4)

この歌の最初の出だしは、主は初めから終わりまで、どういうお方であり続けたかを、示している。
主は初めからずっと真実であり、完全で、正しいお方であった。
後の時代の人が、主について思い返す時、その事だけは、誰も否定出来ないものである。

人が、たかだか何十年か、好き放題して、その報いを受けて何十年か苦しんだとしても、主の恵み、主の正しさは何百年もの間、ずっと変わらず注がれて来たのだ。
人がどんなに不正を行おうと、また戦争などのどんな事変が起きようとも、そのような人間の営みとは一切関係なく、太陽は相変わらず善人にも悪人にも照らし続け、相変わらず恵みの雨は善人にも悪人にも降り注がれ続けていたように、主の御言葉はいつも完全であり、同時に、主の御言葉を軽んじ、ないがしろにする者が災いを受ける事も、また変わる事なく確実な事である。

モーセの時代以降、人は何をするか。
そして多くの時が過ぎた後、その将来から見て、人はそれまで何をして来たのかをも、歌は示している。
『彼らは主にむかって悪を行い、/そのきずのゆえに、もはや主の子らではなく、/よこしまで、曲ったやからである。愚かな知恵のない民よ、/あなたがたはこのようにして主に報いるのか。主はあなたを生み、あなたを造り、/あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか。いにしえの日を覚え、/代々の年を思え。あなたの父に問え、/彼はあなたに告げるであろう。長老たちに問え、/彼らはあなたに語るであろう。』(申命記32:5-7)

人は、真実な主に対し、偽りを返し、正しい主に対し、悪を返し、恩を仇で返すような事ばかりして来た。
そこで主は、昔を思いだせ、と命じている。御言葉に聞け、と。

『いと高き者は人の子らを分け、/諸国民にその嗣業を与えられたとき、/イスラエルの子らの数に照して、/もろもろの民の境を定められた。主の分はその民であって、/ヤコブはその定められた嗣業である。』(申命記32:8)
この節には、驚くべき事が記されている。
主はイスラエルの嗣業(相続地)として、乳と蜜の流れる地を相続された。
それはモーセ五書では何度も言われている通りであるが、では、主の嗣業、主が相続されるものは、何か。
それはなんと、ヤコブ、すなわち、イスラエルの人々だ、というのだ。

イスラエル人の相続は、乳と蜜の流れる良き地、であるのに対し、主が相続されるものは、恩を仇で返してばかりいるイスラエル人、というのだ。
本当に主は、貧乏くじを自ら引かれ、私達には、当たりくじを引かせて下さった。

キリストが十字架上で全身全霊が焼きつくされるような苦しみを味わったのは、本来人が受けるべき罰を身代わりに受け、御父に執り成し、救い、パラダイスへの道を開くためであった。
というのに、人々が主に差し出したのは、酸っぱく変質してしまった、酸いぶどう酒だった。
皆さんは、食用酢を希釈もせず飲めるだろうか。
私達のために十字架につけられたイエス様に対し、人は、酢で返したのだ。

そして、主がその酢を受けられた時、「完了した」と言われて、父なる神様に霊をお渡しになられた。
それによって、イスラエルだけでなく、全世界の人が受けるべき呪いと罰を受け尽くし、罪の罰金を全額払い、私達を責め立てていた債務証書を無効とし、人も全被造物も、十字架の血によって、神と和解させられたのだ。

キリストが十字架上で為して下さった尊い贖いによって、私達は罪赦され、永遠の命が与えられ、神の子となり、聖なる国民とされた。
その事を私達は、いつも覚えて感謝しつつ、生きていくべきである。

礼拝説教メッセージ音声:全てをあらかじめ知っておられる主(申命記31:19-30):右クリックで保存

主は、全てをご存知である。
自分達を戒めてくれる指導者がいなくなったら、「うるさいのがやっといなくなった」とばかりに、主の教えを軽んじ、約束した事を平気で裏切ろうとする、その心の機微さえも。

『それであなたがたは今、この歌を書きしるし、イスラエルの人々に教えてその口に唱えさせ、この歌をイスラエルの人々に対するわたしのあかしとならせなさい。』(申命記31:19)主の御声に聞き従わずにそむき続けるなら、必ず災いが振りかかる。
それで、実際に災いが降りかかった時、イスラエルは「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか。」と言う事さえ、主は予め知っておられた。
そこで将来、彼らがそのように言ったとしても、主はそのような事は予めご存知だった事、そして、悪かったのは主ではなく自分達だった、と、示す証拠を、主はあらかじめ「歌」という形で備えられたのだ。

『わたしが彼らの先祖たちに誓った、乳と蜜の流れる地に彼らを導き入れる時、彼らは食べて飽き、肥え太るに及んで、ほかの神々に帰し、それに仕えて、わたしを軽んじ、わたしの契約を破るであろう。こうして多くの災と悩みとが彼らに臨む時、この歌は彼らに対して、あかしとなるであろう。(それはこの歌が彼らの子孫の口にあって、彼らはそれを忘れないからである。)わたしが誓った地に彼らを導き入れる前、すでに彼らが思いはかっている事をわたしは知っているからである」。モーセはその日、この歌を書いてイスラエルの人々に教えた。』(申命記31:20-22)

モーセは、32章にて記される歌を、子々孫々に伝えるよう命じた。
歌は不思議である。
歌詞には全く気にかけずに、ただメロディだけを口ずさんでいた歌が、ある時、ふとその歌詞に気づき、その内容が今の自分の姿をありありと言い当てているのに驚く、という事が、よくある。
特に、何世紀も歌い込まれた賛美歌や、何世紀にも聖徒たちに親しまれてきた詩篇は、そうである。
主が私達人間に為して下さった、恵みと憐れみの素晴らしさは、昔も今も、遠い国であろうと近い国であろうと、変わらないからだ。

『主はヌンの子ヨシュアに命じて言われた、「あなたはイスラエルの人々をわたしが彼らに誓った地に導き入れなければならない。それゆえ強くかつ勇ましくあれ。わたしはあなたと共にいるであろう」。』(申命記31:23)
ヨシュアも、モーセと共に、イスラエルが近い将来、主を裏切る事を聞いていた。
しかし主は、ヨシュアには、強く勇ましくあるように命じられた。
たとえ将来、自分が導く人達がどうなるかが、分かり切っていても、それで虚しくなったりする事なく、主から与えられた使命を、しっかり果たすべきなのだ。
実際パウロもそうだった。自分が夜昼となく手塩にかけて面倒を見てきたエペソの聖徒たちが、将来どうなるか、あらかじめ示されていたが、パウロは彼らを、神と、その恵みの御言葉とに委ね、次の働きへと邁進して行った。(使徒20章)

主は確かに、人が将来裏切る事、失敗する事をご存知であり、あらかじめ伝えられる。
それで実際、その人が、あらかじめ言われていた通りに、裏切ったり、失敗したりしたら、「それ見た事か、お前のような者なぞ、もう知らん」と言うような主ではない。
主は、失敗したり裏切ったりしたの後のフォローさえ、予めしておられるのだ。

父なる神様は、放蕩息子が失敗する事を承知しておきながら、その子の言いなりのまま、送り出すのである。(ルカ15章)
そして、送り出した後は、その子が戻ってくるのを、待つのである。その子が出て行ったその方向を、いつも気にかけながら。
そして、その子がさんざんな目に遭って戻ってきた時には、遠くからその姿を見て、走り寄って来て、くちづけして迎えて下さるのである。
父なる神様は、我に返って悔い改め、戻ってきた聖徒を、そのように歓迎し、そして元の地位に戻して下さるのである。

イエス様も、ペテロの失敗を予めご存知だった。
『シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」』(ルカ22:31-32)
主はペテロの失敗をあらかじめご存知だったが、ちゃんと立ち直るように、そして、兄弟姉妹達全体が力づけられるように、あらかじめ、祈っておられたのだ。
主は、そのようなご性質の持ち主なのだ。

十字架上の七つの言葉 2 (詩篇22:1-18)
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第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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イエス様は十字架上で7つの言葉を語られたが、それらは私達キリスト者にとって、とても大切なものである。
前回はその内の3つを学び、それらによって私達は執り成され、パラダイスへの道が開かれ、主を信じた人は神の家族としてひとつに結び合わされる事が分かった。今回は、残る4つの言葉を詳しく見て行きたい。

イエス様が十字架上で語られた言葉の四つ目は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(マタイ27:46)、これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
彼の呼びかけは「父よ」ではなく「わが神」である事に注目したい。
イエス様は「神の御子」という座からは下りて、私達と同じ「人」となり、人として苦しみ、刑罰を受けられ、神から見捨てられた。本来、全ての人がそれらを受けるべきなのに、主が身代わりとなられたのだ。
キリストは、私達の身代わりに刑罰を受けられ、それに引き換え私達キリスト者は、キリストの身代わりに神の子としての特権が与えられ、キリストの義が付与され、神をアバ父と呼ぶ事の、神の子の特権が与えられたのだ!(2コリント5:21)

イエス様が十字架上で語られた言葉の五つ目は、「わたしは、かわく」(ヨハネ19:28)である。
この言葉が語られたのは、神に対してでも人に対してでもなく、苦しみの極限状態にあった彼自身の口から、おのずと出てきた言葉であり、そしてそれは、「聖書が全うされるため」である。
キリストは十字架上で、それこそ全身全霊が焼きつくされるような苦しみを味わったのだが、人々がそれを聞いた時、ヒソプにつけて差し出したのは、甘いぶどう酒ではなく、変質してしまった、酸いぶどう酒だった。
『彼らはわたしの食物に「毒(ロシュ:ヒソプ)」を入れ、わたしの渇いた時に酢を飲ませました。』(詩篇69:21)
酸いぶどうは、イスラエルを表している。神は甘いぶどうを望んだのに、酸いぶどうがなってしまったため、そのぶどう畑を荒れさせ、踏みつけ、滅びるにまかせられる事を、イザヤは預言した。(イザヤ5:1-7)

キリストは、だめになってしまったイスラエルを受けられ、イスラエルが受けるべき「滅び」を、受けられた時、「すべてが終った(テテレスタイ)」(ヨハネ19:30)と言われた。これが、十字架上の六つ目の言葉である。
この言葉は、イスラエルの祭り・大贖罪日に、大祭司が至聖所に入って、全イスラエルの贖罪を成し遂げ、出てきた時に発する言葉でもあり、完成した、完済した、成就した、満たした、終わった、等の意味がある。
キリストは神と人との間に立つ大祭司であり、父なる神と、人との双方に対し、「成就した」と語られた。
イスラエルだけでなく、全世界の人が受けるべき呪いと罰を受け尽くし、罪の罰金を全額払い、私達を責め立てていた債務証書を無効とし、人も全被造物も、十字架の血によって、神と和解させられたのだ。

そしてイエス様が十字架上で語られた七つ目の言葉は「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)である。こう言って息を引きとられた。全てを成し遂げた後、父なる神に全てを委ね尽くしたのだ。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人としての性質をもって自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた。それ故、神は、キリストを高く上げ、全ての名にまさる名をお与えになったのだ。こうしてキリストは、全権威の上に立つお方となられた。
それはイエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものの全てが膝をかがめ、全ての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白し、父なる神がほめたたえられるためである。(ピリピ2:6-11)

私達は、キリストが十字架上で語られた言葉のゆえに、執り成され、パラダイスへの道が開かれ、主にある兄弟姉妹は一つの家族として結び合わされた。そしてキリストは、神に見捨てられ、焼き尽くされるような苦しみを受けられ、そうして全てを成就した後、霊さえも父なる神に委ね尽くし、息を引き取られた。
このキリストを信じ、主とする者には、十字架上で成就された、全ての良き恩恵を受ける事が出来る。
このようにして成された、キリストの尊い十字架上での贖いを、私達は、ないがしろにしてはならない。
その尊い贖いによって、罪赦され、永遠の命が与えられ、神の子、聖なる国民とされた事を喜び感謝しつつ、この地上での歩みを全うしていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
怠け者はどっちだ(出エジプト記5:1-9):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
自然界を創られ支配される主(マタイ8:23-27):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
全ての事には時がある(伝道者の書3:1-11):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:主の御顔が隠されてしまう呪い(申命記31:14-18):右クリックで保存

前回の箇所で、モーセは、主から命じられた事を全て書き記して、それを民の長と祭司に託し、7年ごとに全イスラエルに読んで聞かせるよう命じたが、その次に主は、モーセとヨシュアだけを会見の幕屋に呼び寄せ、イスラエルの民が何を考えており、これから何をしようとしているかをプライベートに示された。

『主はまたモーセに言われた、「あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを召して共に会見の幕屋に立ちなさい。わたしは彼に務を命じるであろう」。モーセとヨシュアが行って会見の幕屋に立つと、主は幕屋で雲の柱のうちに現れられた。その雲の柱は幕屋の入口のかたわらにとどまった。
主はモーセに言われた、「あなたはまもなく眠って先祖たちと一緒になるであろう。そのときこの民はたちあがり、はいって行く地の異なる神々を慕って姦淫を行い、わたしを捨て、わたしが彼らと結んだ契約を破るであろう。』(申命記31:14-16)

人はうわべしか見れないが、主は、心を見られる。
イスラエルの民は、口では主の契約を守り行います、とは言ったものの、心の秘められた所では、実は、主を敬いもせず、御言葉を何とも思っていない事を、主はご存知であり、このまま行くなら、彼らはやがて主を捨て、外国の偽りの神々を慕い求めるようになる事を、知っておられたのだ。
『その日には、わたしは彼らにむかって怒りを発し、彼らを捨て、わたしの顔を彼らに隠すゆえに、彼らは滅ぼしつくされ、多くの災と悩みが彼らに臨むであろう。そこでその日、彼らは言うであろう、「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか。」しかも彼らがほかの神々に帰して、もろもろの悪を行うゆえに、わたしはその日には必ずわたしの顔を隠すであろう。』(申命記31:17-18)

主の御声に聞き従わずに、そむいたとしたら、何が起きるか。
それは28章以降で、さんざん繰り返し言われていた通りである。主の御怒りを買ってしまい、必ず災いにあうと、彼らは何度も聞いていたはずだ。
それなのに彼らは、主の御言葉を軽んじ、いざ災いが降りかかった時には、「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか。」と言うのだ。
自分の思いどおりに生きたい人とは、そのようなもので、主の言われる事も、人が言っている事も、心を留めないため、物事の的を射ず、労多くして功少ない人生であるばかりでなく、主からの災いが絶えないのだ。

主は、主を捨て去って、御言葉を破った者に対しては、「わたしの顔を彼らに隠す」と、2回も、「御顔をそむける」事の警告している。
主の御顔、それは、私達を照らして、いのちの祝福を与える太陽であり、また、私達の平和の源である。

以下の言葉は、有名な祝福の言葉であるが、「御顔を向ける」事を2度、言っている。
「願わくは主があなたを祝福し、/あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安を賜わるように」(民数記6:24-26)
主の御顔、それは私達には太陽であり、盾である。

主は、私達の身代わりとなって神に見捨てられ、「御顔がそむけられる」呪いを十字架上で味わった。(マルコ15:33-34)
本来、私達が父なる神と断絶されるべき所を、イエス様が身代わりとなって断絶され、それで彼にあって私達は神との和解を得た。

イエス様が十字架につけられていた時、同じ刑罰を受けていた罪人が、右と左にいたように、私達も、イエス様の十字架を前に、2つの道に分かれる。
すなわち、その中の一人の罪人のように、自分の罪は一切打ち捨てたままにして、ただ「自分を十字架から降ろして救え、救えないなら救い主ではない」「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか」などと言って、主を罵り続け、滅びに向かうか。
それとも、もう一人のように、自分の罪を認め、イエス様は生と死を超越した王である事を認め、個人的に彼に救いを求め、そうしてイエス様と共にパラダイスへ行くか。

パラダイスに行った罪人のように、自分の罪を認め、主に個人的に交わりを求め、主と共にパラダイスに行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:子々孫々に御言葉を読み聞かせよ(申命記31:9-13):右クリックで保存

『モーセはこの律法を書いて、主の契約の箱をかつぐレビの子孫である祭司およびイスラエルのすべての長老たちに授けた。』(申命記31:9)
モーセは、死を目前にして、後継者であるヨシュアへの引き継ぎをし、主から受けた事の全てを、後世に残す整えをしている。
彼は、今まで主からいただいた言葉を、ことごとく書物にしるし、それを、民の長と、祭司とに託した。

『そしてモーセは彼らに命じて言った、「七年の終りごとに、すなわち、ゆるしの年の定めの時になり、仮庵の祭に、イスラエルのすべての人があなたの神、主の前に出るため、主の選ばれる場所に来るとき、あなたはイスラエルのすべての人の前でこの律法を読んで聞かせなければならない。すなわち男、女、子供およびあなたの町のうちに寄留している他国人など民を集め、彼らにこれを聞かせ、かつ学ばせなければならない。そうすれば彼らはあなたがたの神、主を恐れてこの律法の言葉を、ことごとく守り行うであろう。』(申命記31:10-12)

モーセは、祭司と民の長に託した律法の書物を、七年ごとに、老若男女全イスラエルに読み聞かせ、学ばせるよう命じた。
そうして主の命令を子々孫々へと伝え、それを守り行う事によって、イスラエルは末永く祝福に与かるためである。

実際、そこに記されている通りに守り行っていた時は、大いに強くなり、ますます栄えて行った。
しかしやがて、その御教えはおろそかにされてゆき、イスラエルの信仰が廃れ始めた時から、栄光も同じく、廃れ始めて行った。
その廃れ始めた時期は、実に早く、モーセの後継者ヨシュアの時代のすぐ後からである。

モーセは、記された命令を、第七の年の仮庵祭で読み聞かせるよう命じていたが、仮庵祭がおろそかになりだしたのは、ヨシュアの時代のすぐ後からで、それから何百年もの長きに渡り、仮庵祭は正しく行われておらず、次に仮庵祭が正当に行われたのは、ネヘミヤの時代になるまでであった。すなわち、イスラエルが不従順に不従順を重ねてバビロンへ捕囚となり、そこから人々が帰って後の時代になってから、であった。(ネヘミヤ8章)
『捕囚から帰って来た会衆は皆仮庵を造って、仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの日からこの日まで、イスラエルの人々はこのように行ったことがなかった。それでその喜びは非常に大きかった。』(ネヘミヤ8:17)
また、第2列王記22-23章を見ると、モーセがこの時、民の長と祭司とに託した御言葉の書物は、ヨシヤ王の時代までの数百年、ずっと神殿の奥で陽の目を見る事なく、埃かぶって放置されていたようである。
ヨシヤは信仰回復の執政を行い祝福されたが、彼の前の王達も、後の王達も、災が絶えなかった。

そういう訳で、信仰を子々孫々へと継承する事は、とても大事である。
皆さんは、子供の教育において、いい塾や大学に行かせる事以上に、御言葉を伝え、信仰を継承させる事に、心砕いているだろうか。
確かに勉強も大事だが、信仰を育む事のほうが、はるかに大事である。
なぜなら主は、主を敬わない東大生より、主を敬う中卒の方を、祝福されるからだ。

主はうめきつつ、幾度も幾度も、呼びかけている。聞け、イスラエル、と。
聞かない私達にも、御言葉に聞き従え、と。
私達は断然、主の御声に聞き従い、主が与えようとして用意されている祝福に入るべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:強く雄々しく進み行け(申命記31:1-8):右クリックで保存

前章までの所では、祝福を受ける法則と、その逆ののろいを受けてしまう法則とを、繰り返し丁寧に教えこまれて来た。
そして、祝福を受ける法則とは、何度も聞いてきた通り、、御声に聞き従い、御言葉を守り行う事だった。
この祝福の法則に立つならば、あの有名な励まし「強くあれ、雄々しくあれ」の幸いに入る事が出来る。

『そこでモーセは続いてこの言葉をイスラエルのすべての人に告げて、彼らに言った、「わたしは、きょう、すでに百二十歳になり、もはや出入りすることはできない。また主はわたしに『おまえはこのヨルダンを渡ることはできない』と言われた。あなたの神、主はみずからあなたに先立って渡り、あなたの前から、これらの国々の民を滅ぼし去って、あなたにこれを獲させられるであろう。また主がかつて言われたように、ヨシュアはあなたを率いて渡るであろう。』(申命記31:1-3)

モーセ五書の中心人物であり、律法の代表的存在とも言えるモーセの死は、いよいよ近くなった。
彼は、多くの実績と功労を残したが、たった一つの過ちを犯したが故に、主が用意された安息の地には、入れない事が、確定してしまった。
一つでも過ちを犯してしまうと、どんな功績を残しても、安息には入れない。
その事は、律法の性質をよく表している。

律法は、たった一つの違反を犯しても、律法の全体を犯したと、みなされてしまう。(ヤコブ2:10)
そして律法の致命的欠陥は、人には違反があるという事を単に示すだけで、いのちを与える事ができない事である。(ガラテヤ2:21, 3:21)
『いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。』(ガラテヤ3:10-11)

モーセは、約束の地の手前までは導く事は出来ても、約束の地に導き入れる場面には立ち会えなかった。
人々を約束の地へと導き入れるのは、モーセではなく、ヨシュアである。
この事も、イエス・キリストを信じる信仰と、旧約律法との関係を、よくあらわしている。

ヨシュア、その名はヘブライ語読みでは「イエシュア」、すなわち、イエス様と同名である。
私達を約束の地、すなわち、永遠のいのちへと導くお方は、モーセに代表される律法ではなく、イエスキリストである。
律法は、イエス・キリストへと導く事はできても、実際に安息の地へは入れない。
永遠の安息の地・天国へと導き入れるのは、イエスである。
『律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。』(ガラテヤ3:24)

律法にあって歩む人は、確かに祝福と幸いを受けるが、律法は人を義とする事も、永遠のいのちを与える事も、出来ない。(ガラテヤ2:21, 3:21)
人を義とするのも、永遠のいのちを与えるのも、唯一、イエス・キリスト、この御方である。

『主がさきにアモリびとの王シホンとオグおよびその地にされたように、彼らにもおこなって彼らを滅ぼされるであろう。』(申命記31:4)
少し前、イスラエルは、広大な地域を支配する王たち、シホンとオグに、やすやすと勝利した。(民数記21章)
そのように、いかに広大な地に住む強敵であっても、以下の事を守るなら、カナンの町々をも勝利させ、やすやすと入る事が出来る。
『主は彼らをあなたがたに渡されるから、あなたがたはわたしが命じたすべての命令のとおりに彼らに行わなければならない。あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう。』(申命記31:5-)

恐れない事こそ、肝要である。
40年前、イスラエルは、もう約束の地まであと一歩という所で、恐れをなして、進み行かなかった。それで、荒野での40年の放浪に、陥ってしまった。
私達の信仰生活でも、この、恐れの故に、信仰の「あと一歩」が踏み出せず、40年の荒野の放浪に迷っているクリスチャンは多い。

私達は、恐れて尻込みする者ではなく、進み行って勝ち取る者でありたい。信じて進み行くなら、あっさりと勝利し、祝福を勝ち得るのである。
『ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』(ヘブル10:35-39)

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