メッセージ - 201401のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:心の割礼を受けよ(申命記10:12-22):右クリックで保存

『イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。
見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。そうであるのに、主はただあなたの先祖たちを喜び愛し、その後の子孫であるあなたがたを万民のうちから選ばれた。今日見るとおりである。』(申命記10:12-15)

主がイスラエルに、そして私達に求めておられる事、それは、心をつくし、精神をつくして主を愛し、主に仕え、主を恐れ、主の道に歩む事であり、そうするなら幸いを得る。
これは既に、幾度も聞かされた事であり、申命記の核とも言える命令である。

主の祈りや使徒信条などもそうだが、私達は、幾度も同じ事を言われたり繰り返されたりすると、次第にその内容が漠然として来て、意味を忘れてしまいがちになってしまうが、そうならないよう気をつけたい。
例えば、総理大臣など地位の高い人から、何か重要な仕事を任された時、きっと皆さんは、心をつくし、精神を尽くしてそれを思い巡らし、為すべき事を尋ね求め、粗相のないよう頑張るであろうが、皆さんは、総理大臣よりも遥かに地位の高い主の奉仕に当たる時、心をつくし、精神を尽くして、主に喜ばれる事を尋ね求め、御言葉を思い巡らし、主に対して粗相のないよう頑張っているだろうか。
私達は、繰り返す所に、慣れてくる所に油断が生じてしまいがちになるため、そこを気をつけたい。

『それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。』(申命記10:16)
割礼とは、肉を削ぎ取る事であり、肉とは、人間生来の罪に傾く性質や、神を除外した人間的な力や考え方全般である。
神はアブラハムに、男子は全て包皮の肉を切り落とす「割礼」を、契約のしるしとして与え、「割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」とさえ言われている程、「肉を削ぎ落とす事」は、神の民としての必要条件である。(創世記17:9-14)
重要なのは、肉体に割礼を施す割礼よりも、むしろ、心の割礼である。
『というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。』(ローマ2:28-29)

心が肉に覆われているなら、すなわち、肉体的な力や世的な考え方を野放しにし、罪へと傾く性質を放置したままにしているなら、その心は罪人と何ら変わらず、神の民としての条件を果たしていない。
私達は、神から離れた思考や、自己中心的な罪深い行動パターンという「肉」を排除し、心の割礼を受けなくてはならない。

『あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし、人をかたより見ず、また、まいないを取らず、みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった。』(申命記10:17)
主は公平なるお方であり、人々を偏り見ず、在留異国人を愛される主である。

律法を読むと、あたかも主は、異邦人は容赦なく滅ぼしつくすべし、と言っているように錯覚してしまう事もある。
しかし、主が言われる「滅ぼし尽くすべき者」とは、カナン人やエブス人など、約束の地に巣食う邪悪な先住民であり、選民以外の異邦人は全て殲滅すべし、という事ではない。
主は、イスラエルの神・全能なる主を慕い求めて集う異邦人に対しては、恵み深い。
それだから私達のような、東の果てに住んでいる異邦人さえも、この主の憐れみが注がれ、主キリストにあって救われたのである。

『あなたの神、主を恐れ、彼に仕え、彼に従い、その名をさして誓わなければならない。彼はあなたのさんびすべきもの、またあなたの神であって、あなたが目に見たこれらの大いなる恐るべき事を、あなたのために行われた。あなたの先祖たちは、わずか七十人でエジプトに下ったが、いま、あなたの神、主はあなたを天の星のように多くされた。』(申命記10:20-22)

イスラエルをこのように数多くして下さったのは、主である。
エジプト滞在中のイスラエルのように、一つの民族がもし虐待されるなら、普通なら人生に希望を見いだせず、結婚して子供を産む事にも消極的になり、その民族は減っていくものだが、イスラエル民族は逆にますます増えて行った。(出エジプト1:12)
まさに、主が直接介在して、いのちを増やして下さったからである。

それは、既に再三言われた通り、イスラエル人が誰よりも正しいからではない。
主が恵み深く、御心のご計画をもって、アブラハムの子孫を通して世界を救おうとされたからである。
だから主は、イスラエルに、心の覆いを取り除き、心の割礼を受けよ、と命じているのである。

私達も、心を覆っている肉的な思いを切り落とし、霊的な割礼を受け、いつも霊的感受性を清く保ち、思いを新たにしておくべきである。
どのようにしてか。
それは、キリストを通してである。
『あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。』(コロサイ2:11-15)

礼拝説教メッセージ音声:新約の主の務め(申命記10:1-11):右クリックで保存

主は、モーセの執り成しを聞いて下さった。
『その時、主はわたしに言われた、『おまえは、前のような石の板二枚を切って作り、山に登って、わたしのもとにきなさい。また木の箱一つを作りなさい。さきにおまえが砕いた二枚の板に書いてあった言葉を、わたしはその板に書きしるそう。おまえはそれをその箱におさめなければならない』。そこでわたしはアカシヤ材の箱一つを作り、また前のような石の板二枚を切って作り、その二枚の板を手に持って山に登った。』(申命記10:1-3)

最初に主から与えられた石板は、切り出しから彫刻まで、100%、主ご自身の手によるものだったが、民が早くも、契約違反を犯したため、モーセ自身の手によって粉々に砕かれてしまった。
しかし主は、モーセの執り成しの祈りを聞かれ、再び契約の板を与えて下さる約束をして下さった。
この板は、今度は、人の側が用意し、主の御前に持って行かなくてはならない。
そして、それを主の御前に差し出した所、主は、その板に再び御指でもって、主のさとしを刻み付けて下さった。

これらの事は、旧約と新約の有り様を、良くあらわしている。
この世界は100%、主の御手の技によって成り立っており、創世の当初は極めて良い状態だった。
しかし人は、たった一つ与えられていた約束に違反し、主が創造された、この極めて良き世界を台無しに、めちゃくちゃにしてしまった。
主イエスは、そんな罪深い人間のために執り成し、十字架上で受けられた苦しみによって神をなだめて下さった。
人は、このイエス・キリストの執り成しによって義とされた事を、信仰をもって受け入れ、そして、自らの身を主のもとへ持っていくなら、主は、御言葉をその人の心の板に書き記し、もはや、神の言葉と私達とは離れ離れになる事は無くなるのだ。

『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。・・・
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)

『こうしてイスラエルの人々はベエロテ・ベネ・ヤカンを出立してモセラに着いた。アロンはその所で死んでそこに葬られ、その子エレアザルが彼に代って祭司となった。』(申命記10:6)
モーセは、金の子牛の事件の時、大祭司アロンのためにも執り成して祈り、それで、アロンも打たれずに済んだが、結局、人間の祭司は不完全であり、やがては死ぬ運命にある。
だから人には、罪のない、死の無い、まことの大祭司が必要であるが、主イエス様がそのまことの大祭司として立って下さった。
『彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。』(ヘブル7:25-27)

『その時、主はレビの部族を選んで、主の契約の箱をかつぎ、主の前に立って仕え、また主の名をもって祝福することをさせられた。この事は今日に及んでいる。そのためレビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。あなたの神、主が彼に言われたとおり、主みずからが彼の嗣業であった。』(申命記10:8-9)

レビ人も、祭司と同じように、主の名をもって民を祝福するようになった。
レビ人は主の前に立って「仕える人」(英語の聖書ではミニスター)であり、現代において、ミニスターは、牧師や宣教師に限らず、キリスト・イエスにあって、主のために働く人全てが、それである。
レビ人には、土地の分け前は無く、主ご自身が分け前であるが、同じように、キリストにあって主の働き人とされた私達も、世の何物かに報酬を求めるのではなく、主イエス様ご自身を、報酬として求める者達である。

『わたしは前の時のように四十日四十夜、山におったが、主はその時にもわたしの願いを聞かれた。主はあなたを滅ぼすことを望まれなかった。そして主はわたしに『おまえは立ちあがり、民に先立って進み行き、わたしが彼らに与えると、その先祖に誓った地に彼らをはいらせ、それを取らせよ』と言われた。』(申命記10:10-11)

主はモーセに、民に先立って進み、主が約束された地へと導くよう命じられたが、民を約束の地へと導き入れたのは、ヨシュアだった。
ヨシュア、それはヘブライ語でイエシュアであり、イエス・キリストも、イエシュアである。
私達も、先んじて進み行って下さるイエシュア、キリストに導かれて行くなら、主が約束された地、天の王国へ入る事が出来るのである。

キリストにあって王族の祭司とされた私達は、ミニスターとしての自覚を持ち、人々のために執り成し、天の王国のために働く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:執り成しの祈り(申命記9:22-29):右クリックで保存

モーセは、民はホレブばかりでなく、その他の場面においても主に逆らってきた事を、思い起こさせている。

『あなたがたはタベラ、マッサおよびキブロテ・ハッタワにおいてもまた主を怒らせた。』(申命記9:22)
タベラで、民は主の耳につぶやいたために、主の火が燃えあがって宿営の端が焼かれ(民数記11:1)、マサでは、「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試み(出エジプト記17:7)、キブロテ・ハッタワでは、民がエジプトをなつかしんで肉が食べたいと泣き言を言ったために、主は圧倒的な分量のうずらを与えたが、欲望に駆られた者は、激しい疫病に打たれて死に、そこは「欲望の墓(キブロテ・ハタアワ)」と呼ばれるようになった(民数記11章)。

『また主はカデシ・バルネアから、あなたがたをつかわそうとされた時、『上って行って、わたしが与える地を占領せよ』と言われた。ところが、あなたがたはあなたがたの神、主の命令にそむき、彼を信ぜず、また彼の声に聞き従わなかった。わたしがあなたがたを知ったその日からこのかた、あなたがたはいつも主にそむいた。』(申命記9:23-24)
40年前に12人の斥候を遣わした時、民は斥候の報告に恐れをなし、主が「行け」と命じられているのに、逆らって「戻ろう」と言い出した。
自分と相手とを見比べて計算はするけれど、主がおられる事は度外視して、主に期待しない事、それは、主へのそむきである。
それで四十年の荒野の放浪が確定してしまったのだ。

『そしてわたしは、さきにひれ伏したように、四十日四十夜、主の前にひれ伏した。主があなたがたを滅ぼすと言われたからである。』(申命記9:25)
モーセには、こんな民のために、四十日断食する義務も無いだろうに、と思えるのに、それでもなお、彼は執り成した。
霊的な親という立場であるなら、そのような事もある。
いかに、面倒を見ている相手がわがままで、聞かず屋であろうとも、その人の救いのために、あえてその人から、打たれ通し・与え通しとなる事がある。
その時は辛いかもしれないが、主に喜ばれる事である。なぜなら主は、誰一人滅びる事を望んでおられず、その人が立ち直って、救われて欲しいからだ。
そして、その人が立ち直ったのなら、その人からは、それこそ永遠に感謝されるであろう。

以下のモーセの執り成しの祈りは、注目に値する。
もし、皆さんが、誰か執り成し祈りたい人がいるなら、「あなたの民」を、その人の名前に置き換えて祈ってみると良い。

『わたしは主に祈って言った、「主なる神よ、あなたが大いなる力をもってあがない、強い手をもってエジプトから導き出されたあなたの民、あなたの嗣業を滅ぼさないでください。あなたのしもべアブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。この民の強情と悪と罪とに目をとめないでください。
あなたがわれわれを導き出された国の人はおそらく、「主は、約束した地に彼らを導き入れることができず、また彼らを憎んだので、彼らを導き出して荒野で殺したのだ」と言うでしょう。しかし彼らは、あなたの民、あなたの嗣業であって、あなたが大いなる力と伸ばした腕とをもって導き出されたのです。』(申命記9:26-29)

モーセの祈りの中には、イスラエルの民がかわいそう、とか、彼らにはこれこれの良い点があります、など、イスラエルの何かを根拠に、イスラエルを弁護する言葉は、一切、無い。そもそも、人の側には、主に喜ばれるような根拠は、何も無いのだ。
だから彼は、イスラエル人の「何か」を元に執り成す事はせず、「主がどのようなお方であるか」という点を突いて、神にイスラエルを執り成したのである。

実際、この短い祈りの中で「あなた」という言葉が言葉が6回も出て来る。そう、あくまで主語は、主なのだ。
主は真実で、栄光をお受けになるべきお方。
だから、主ご自身が人々から嘲られるような事をするなどとんでもない。
だから、あなたのその真実にかけて、イスラエルを憐れんで下さい、アブラハムに約束されたその真実にかけて、その約束を覚えて下さい、と。
そのように、主の真実を、主の約束された御言葉を盾にして祈る祈りは、有効である。

主の御心は、誰ひとり罪の内に滅びず、救われる事である。(エゼキエル18:23,31-32、ヨハネ3:16)
それで主は、破れ口に立って、執り成して祈ってくれる人を、求めておられる。(エゼキエル22:30)
私達も、使わされた場において、執り成し祈る者として、神と人との間に立ち、日々祈るべきである。

アダム - 人 - の成り立ち (創世記2:7-9)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

「人」はヘブル語で「アダム」と発音し、人類最初の人の個人名も、そして、人類自体を言う時も、同じアダムという言葉で表す。この、アダムの成り立ちを見る時、人類全体の成り立ちをも、知る事が出来る。
『主なる神は「土(アダマ)」のちりで人を形造り、「命(カイ)」の「息(ネシャマ:霊、風)」をその鼻に吹きいれられた。そこで「人(アダム)」は「生きた(カイ)」「者(ネフェシュ:たましい)」となった。』(創世記2:7)
つまり、人間の元々の成り立ちは、陶器師の手で形作られた器のように、土を素材として神の御手によって形作られた「体」と、神の息を素材とし吹きこまれた「霊」と、神の息が吹き込まれた結果生成した「たましい」の、3要素から成っている事が分かる。体と霊と魂、それが、人間の構成要素である。
それ故、人類は、土を元に体を形作って下さった神から、そして、いのちの息を吹き込んで下さった、霊の大元であられる神から離れて生きる存在ではない。現在、神を知らない人たちが神から離れて歩んでいる有り様は、あたかも、人格の死んだゾンビが、目的もなく、ただ欲求の赴くままに破壊活動したり、互いを喰い合ったりしているようなものである。(何故そうなってしまったのかは後述)
神に由来するものは「いのち(カイ:命、生の、新鮮な、力強い)」である。土のちりを由来とする「人」に、神由来のいのちの息が吹き込まれると、それは、活発で、新鮮な、いのちの活動をするようになるのだ。

『主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に「命(カイ)」の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。・・・主なる神は人(アダム)を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。』(創世記2:9,15)
主なる神は、人が働き生活するべき領域である「園」に、アダムを置き、彼にそこを耕し、守り、管理させたのと同様に、私達も、主が置いて下さった場を、正しく守り、管理するように定められている。
そして、主が置いて下さった私達の働きの場、私達の生活ステージの中央には、2種類の木がある。
すなわち、神が由来である「命の木」と、神から離れ自立して生きる「善悪を知る木」の二つが。
人類なら誰しも必ず通らざるを得ない「二者択一」がある。すなわち、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るか。それは、人類創造以降、全ての人が避けて通れない究極の二択である。
究極の二択というと、「善か悪か」と思われやすいが、そうではない。聖書が提示する究極の二択とは、神由来のいのちにあって生きるか、それとも、神から独立し自分で善悪判断して生きるかだ。

神である主は、人(アダム)に、一つのルールを授けられた。
「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」(創世記2:16-17)
神は、善悪の知識の木から食べる事を、禁じられた。それを食べるその時、必ず死ぬためだ。
結果的にアダムはそれを食べたが、その瞬間に心臓が止まって死んだわけではなく、相変わらず生き続けていた。では、神はウソの脅しをしていたのか?そうではない。人はその時、確かに、死んだのだ。
何が死んだのか?それは、神のいのちの息である「霊」が、である。
神を認知し神と交わりをする器官である「霊」が死んだ人間は、神を離れ、ちりである「体」と、霊が吹き込まれた時の名残である「魂」とをやりくりし、自分で善悪判断をしながら生きていかなくてはならなくなった。
それ故、人は、ゾンビのごとく、目的もなくただ欲求の赴くまま破壊したり、喰い合ったりしているのである。

以上のように、人(アダム)の組成は、元々土のちりであるが、人は元々、この土の器に計り知れない宝を、すなわち、神の息であるいのちの霊を入れる存在として、創られていたのである。
そして、人の生活ステージには、二つの選択肢が置かれている。いのちを選ぶか、善悪判断を選ぶか。
善悪の木にしがみつき、ぶら下がって生きる生き方は、呪い以外の何物でもなく、やがてちりに帰るのみである。しかし、自分で善悪判断する事を捨て去り、いのちなる神に従って生きる時、この土の器の中に、全能なる神由来の、新鮮で力強い、永遠のいのちのともしびが灯るのである。
新鮮な、力強い、いのちの木。それは、イエス・キリストの十字架以外の何物であろうか。私達は最初のアダムとしての生き方は十字架につけ、第二のアダムであるキリストにあって生きるのである。(1コリ15:45)

礼拝説教メッセージ音声:主に逆らった罪の数々も思い起こせ(申命記9:7-21):右クリックで保存

『あなたは荒野であなたの神、主を怒らせたことを覚え、それを忘れてはならない。』(9:7a)
主がイスラエルに、カナンの良い地を得させて下さるのは、あなた方が正しいからではない、と、モーセは三回繰り返した。むしろイスラエルは、主に逆らい通しで、うなじのこわい(頑なな)民だ、と指摘し、イスラエルが今までいかに主に逆らい、主を怒らせてきたかを、詳細に思い起こさせている。

私達も、自分が主に逆らって来た数々を思い返し、その過去と正面から向き合う事は、有益である。
自分がいかに、主の御前に醜い事をして来たか、どんな迷惑を、神と人とに為して来たかを、真正面から見つめ、それを悲しみ、悔い、もう二度と神と人とを悲しませる事をすまい、と決心するのだ。
自分がして来た、悪しき事の数々にも関わらず、主は、いかに良き事をして来てくださったのか。
それを知れば知るほど、私達は、自分に与えられた冠は、全て主の御前に投げ出し、ただ、主にひれ伏す以外には無い事を、知るのである。

自分がして来た恥ずべき事を、指摘されるのを嫌がったり、そこから話題を逸そうとしたり、あるいは、指摘している人のほうを逆に訴え、攻め立てる者がいるが、そのような人は、いつまで経っても恵みの深みに入る事は出来ず、呪われた生き方から脱却出来ない。
自分の罪と向き合う事をしないから、罪は相変わらず手付かずのまま残ったままで、その罪が神との隔ての壁となり、祝福の窓は、閉じられたままだからだ。
アダムやカインが、神様から罪を指摘された時、自分の罪を認めるのではなく、逆に神を訴え、それによって呪いが確定してしまったように、罪を認めず、逆に、神や人を訴え出るのは、呪いとさすらいと拒絶を受けるべき性質である。

『あなたがたはエジプトの地を出た日からこの所に来るまで、いつも主にそむいた。またホレブにおいてさえ、あなたがたが主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを滅ぼそうとされた。わたしが石の板すなわち主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために山に登った時、わたしは四十日四十夜、山にいて、パンも食べず水も飲まなかった。』(申命記9:7-9)
モーセはまず、四十年前、イスラエルがホレブ山のふもとで、主を怒らせる事をしたのを思い起こさせた。

モーセは主から契約の板をいただくために、四十日四十夜断食し、主に求めた。
それなのに民ときたら、モーセが早く無事に山から戻ってくるのを祈るのでもなく、あのモーセという者がどうなったか分からないから、私達のために、先立っていく神々を作ってくれ、と、アロンに頼んだ。(出エジプト記32:1)

『そしてわたしが見ると、あなたがたは、あなたがたの神、主にむかって罪を犯し、自分たちのために鋳物の子牛を造って、主が命じられた道を早くも離れたので、わたしはその二枚の板をつかんで、両手から投げ出し、あなたがたの目の前でこれを砕いた。』(申命記9:16-17)

契約の石板は、あまりに「聖」であり、罪ある人間が、その前に立つなら、たちまち「聖」に打たれて死んでしまう。
サムエルの時代、多くの人が石の板を、そのまま見てしまった故に死んでしまったし(1サムエル6:19)、ウザは、契約の箱が倒れそうなのを、手で押さえただけなのに、容赦なく打たれて死んだ。(2サムエル6章)

モーセが主からいただいた石の板に、真っ先に書かれてあった事は、十戒の第一戎、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」、その次に書かれてあるのは第二戎「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」である。
民は早くも、それらを破ってしまった。
この聖なる石板が、むき出しのまま、罪を飲み食いしている彼らの前にあらわれたとしたら、彼らはたちまち打たれ、誰も残らなかった事は、容易に想像出来る。
だから、モーセが石板を割ったのは、怒りに任せてというより、民を憐れみ、主に執り成すためだったのではなかろうか。

『そしてわたしは前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった。これはあなたがたが主の目の前に悪をおこない、罪を犯して主を怒らせたすべての罪によるのである。主は怒りを発し、憤りを起し、あなたがたを怒って滅ぼそうとされたので、わたしは恐れたが、その時もまた主はわたしの願いを聞かれた。』(申命記9:18)
モーセは民のために執り成すために、再び四十日四十夜、主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった。

イエス様も、悪魔の試みを受けるために荒野へ出て行き、四十日四十夜、パンも食べず、水も飲まなかった。
荒野の民は、誘惑されもせずに、四十日で堕落してしまったが、イエス様は、人として悪魔の誘惑を受け、人として悪魔に勝利した。
それによって、イエス様は私達に、悪魔に勝利する術を、手本として示して下さった。すなわち、御言葉の剣による勝利の方法である。(マタイ4章)

誘惑に遭った時は、歯を食いしばって誘惑を耐えても、無意味である。
その時は、私達もイエス様のように、御言葉の剣を差し出す事によって、悪魔に勝利出来るのだ。
私達は、人間的ながんばりによって誘惑に勝つのではない。御言葉を信じ、信仰をもってそれを宣言する事によって、誘惑と悪魔とに勝利するのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
言葉の行き先と出所元(1コリント14:6-19):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
山上の説教 - 主の祈り2(マタイ6:9-15):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
千年の懲役と千年の支配(黙示録20:1-6):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:私達が正しいからではない(申命記9:1-6):右クリックで保存

イスラエルが、これから攻め込もうとしている地は、イスラエルよりも大きく、強い国々である。
そして、彼らの親の世代から『アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか』と言われるのを、彼らは子供の時から聞かされていた。(申命記9:1-2)
不信仰な親によって、「できっこない」という否定的な思考パターンが刷り込まれているとしたら、それは、祝福への歩みの、大きな妨げととなってしまうものであるが、モーセの次の言葉は、その強力な刷り込みを打ち破らせる。

『それゆえ、あなたは、きょう、あなたの神、主は焼きつくす火であって、あなたの前に進まれることを知らなければならない。主は彼らを滅ぼし、彼らをあなたの前に屈伏させられるであろう。主があなたに言われたように、彼らを追い払い、すみやかに滅ぼさなければならない。』(申命記9:3)

信仰をもって進む時、戦うのは私達ではなく、主である。
主が焼きつくす火となって先んじて進み、主が戦い、主が勝利して下さるのだ。
だから私達も、いかに親から、不信仰で否定的な言葉の刷り込みがあったとしても、私達自身が主に信頼し、前進するなら、そうした、強烈に植えられたマイナスなものは、あっけない程簡単に打ち破られ、今まで勝てなかった敵に勝利し、今まで入れなかった領域に、入って行けるようになるのである。

そうなるためには、私達自身が実際、信仰によって一歩踏み出す必要がある。
契約の箱をかつぐ祭司が、水いっぱいたたえているヨルダン川へと、一歩足を踏み入れたら、川は堰き止められて行ったように(ヨシュア記3章)、主の御業は、私達の信仰と共に働くものであるからだ。

「アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか」と言った、あの、四十年前の不信仰世代のように、恐れて退くなら、荒野の四十年の放浪が、前途に待ち構えている。
『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』(ヘブル10:38-39)
しかし、私達がもし信じて、主の御心に従って行くなら、主の御業は必ず為され、必ず祝福が待っている。

『あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。』(申命記9:4)
主がイスラエルを勝利させて下さるのは、イスラエルが正しいからではない。
その地の先住民が、邪悪なためだ。
これらの国々は、アブラハムの時代からずっと、何百年も悪を行っており(創世記15:16)、ついには、主の憐れみの期間が尽きてしまったため、主はこれらの国々を、イスラエルを用いて、滅ぼすに任されたからだ。

『あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。』(申命記9:5)
モーセは同じ事を、繰り返して言っている。
あなたがその地を得られるのは、あなたがたが正しいからではなく、心がまっすぐだからでもない、と。
むしろ、彼らがその良き地を得る事が出来る、もう一つの理由は、彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブの、信仰の故である。
親の代が信仰をもって主に仕えるなら、確かに、その人自身も、その子・孫も、祝福される。
ただし、もし子や孫の世代が、主に逆らうのであれば、その世代は、確かに呪われてしまう。

『それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。』(申命記9:6)
モーセは、これで三度、同じ事を繰り返して言った。「あなたが正しいからではない」と。
むしろ、あなた方は強情である、本来なら、こんな良い目を見させられるには値しない者達だ、と。

私達も同じだ。
罪ある人間である私達は、本来、主の愛を受けるに値せず、主の憐れみや恩恵にあずかれるに値しない者である。
それなのに、主は私達を愛し、憐れみ、救って下さった。
それはただ、神は愛であられるからだ。
私達が正しいからでも、他より優れているからでは、決してないのだ。

主は、自分を正しいとするような傲慢な人は、放って置かれる。
むしろ、自分は救いを必要としている罪人だという自覚のある人を、救われる。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12-13)

礼拝説教メッセージ音声:成功した時こそ気をつけよ(申命記8:11-20):右クリックで保存

『あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。』(申命記8:11-14a)
モーセがここでも再度注意しているように、私達は、成功したり、富が増し加わった時こそ、最も気をつけるべきである。

アブラハムは、主がエジプトから金銀や家畜をたくさん得させて、ベテルに帰らせて下さった時、彼はかつて祭壇を築いた場所で、主を礼拝した。(創世記13:1-4)
彼は、富が増し加わった時でも、主を恐れ敬い、礼拝する事を忘れなかったが、甥のロトは、富が増し加わった事が逆に災いとなってしまった。

ロトがアブラハムと共に、生まれ故郷を離れてアブラハムについて行ったのは、アブラハムが主から祝福されているのを見、何をしても祝福される彼について行くなら、祝福のおこぼれにあずかれる、と思っていたのかもしれない。
ともかくロトは、アブラハムについて行って、実際に多くの富を手に入れた。
しかし、富を手に入れた彼は、祝福の元であるアブラハムと、彼が恐れ敬っているアブラハムの神・主と共にいる事よりも、自分が、たくさん得た富の「オーナー」である事のほうを優先させ、アブラハムから離れて行き、そして、不品行の町ソドムが「主の園のように」潤っているのを見て、そちらの方に行ってしまった。

結局ロトは、主がソドムを滅ぼされる時、娘二人と、着の身着のまま、命からがら逃げる事となり、彼の財産は全て、ソドムと共に滅んでしまった。
ロトの妻も、滅んでいくソドムを見続けたままの姿勢で塩の柱となってしまい、ソドムと一緒に滅んでしまった。
だから私達も、富が増し加わった時にこそ、注意して、主から離れないようにすべきである。

『主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、あなたを導いて、あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない、かわいた地を通り、あなたのために堅い岩から水を出し、先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。』(申命記8:14b-16)
ここでもモーセが、主がイスラエルの民に具体的に何をして下さったのかを思い起こさせているように、私達も、主が何をして下さったかを、いつも思い返すべきである。
私達は主に対しても、主にある兄弟姉妹に対しても、恩知らずになってはいけない。
『あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。』(申命記8:17-18)

私の聖書の、この箇所には、ある聖徒の名前と日付が記されている。
その聖徒は当時、ある事業をしていて、その事業はあまりうまく行っていない時だったが、上記の言葉を宣言し、主が自分達を成功させて下さった暁には、決して自分の力で富を得たとは考えるまい、主が荒野のような状況で信仰を鍛えさせ、私達に富を得る力を与えて下さり、そしてついには自分達を幸せにして下さった主の導きを、決して忘れるまい、と、宣言したので、私はその信仰の告白を嬉しく思い、後の日に、この聖徒が幸いを得た暁には、「この御言葉の通り主は真実でしたね」と伝えたいと思ったので、そこに記したのだ。
実際に翌年、その事業は祝福された。
しかし残念ながら、祝福されて以来、その聖徒は、礼拝を捧げに来る事を、ぱったりと止めてしまった。
事業がだんだん衰退して行っても礼拝に来ることはなく、ほどなくしてその事業を畳み、どこかへ行ってしまった。

主を信頼し、信仰をもって御言葉を宣言するなら、主は必ず、100%、最善を為して報いて下さる。
しかし大切なのは、その後、私達が主を忘れず、当初の信仰をキープし続けていられるかである。
主に信頼して行った結果、主から幸いを頂いた、という所までの経験は、結構多くのキリスト者がしている。
しかし、その最初の信仰をキープし続けて、祝福を頂き続ける事も、同様にコンスタントにキープしていられるクリスチャンは、少数になってしまう。

『もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう。主があなたがたの前から滅ぼし去られる国々の民のように、あなたがたも滅びるであろう。あなたがたの神、主の声に従わないからである。』(申命記8:19-20)
英語の聖書KJVでは「ye shall surely perish. 」と、非常に強い表現である。
そうするなら、あなたは必ず、perish(突然または非業な死に方で死ぬ)と。
滅びるための手っ取り早い方法、それは、主を忘れて、他のものにより頼み、主よりもそちらを拝む事である。
全ての祝福の元である主を忘れ、他の神々、あるいは、皆さんにとって神以上に拠り頼む存在を見つけ、そちらの方に従い仕えるとしたら、必ず滅びてしまうのだ。

成功した時こそ、努めて主を思い出し、主に感謝するように、気をつける事。私達はこれを忘れないでいたい。

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