メッセージ - 201312のエントリ

栄光の家系の女達 - マリヤ2 インマヌエル(マタイ1:18-23)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

『「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)』(マタイ1:23)
マリヤのように男を知らぬ女が身籠る事、人間由来の何かによらずいのちが宿る事は、現実的にはありえないが、キリストはむしろ、処女のような性質の人、「思いが汚されていない人」にこそ、宿る。(2コリ11:2-3)
そして、処女がみごもる事は、「神が私達と共におられる事」(インマヌエル)のしるしである。
インマヌエル。それは、マリヤの時代よりもはるか昔、預言者イザヤによって示された。
当時、不信仰な王アハズは、主から「しるしを求めよ」と言われたのに、「私は主にしるしを求めません」と言ったため、主は彼の主に期待しない心を怒って言われた。『主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。』(イザヤ7:14)
人間が不信仰である故、主みずから降りて来られ、人が思ってもいない「しるし」を与えて下さったが、実は、イザヤの時代よりもっと前、人がエデンの園で堕落した時から「処女がみごもる」事は既に預言されていた。
エバが蛇にそそのかされ、禁じられていた実を食べてしまった時、神は蛇に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」と言われた。
この「子孫」はヘブライ語でゼラ、「子孫、子」の他に「種」の意味もある。
「種」は父系をあらわす用語で、女には「種」は無く、女は男から「種」を受けなくては子は生まれない。
つまり、この「女の種」という、一見相反する言葉は、処女がみごもる事を意味している。

「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:20)
マリヤは、人間の男の種によらず、聖霊によって、超自然的にイエス・キリストのいのちを宿した。
実は私達も、マリヤのように、聖霊によってキリストのいのちを宿す事が出来る。
それは、マリヤが「お言葉どおりこの身になりますように」と言って御言葉を受け入れたように、私達も、御言葉(ロゴス)という「種」を信仰によって受け入れ、私達の内に植え付ける事によって。
『言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。』(ヨハネ1:12)
聖霊によるのでなければ、誰も、イエスを主とはしない。そして、聖霊の促しによって御言葉を受け入れ、信じた人々は、神の子になるという、驚くべき、超自然的な作用が、私達に起こる。
マリヤは実際にその事を体験し、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力ある方が、わたしに大きな事をしてくださったからです。」(ルカ1:46-49)と言って、喜びに喜んだ。
私達も、マリヤのこの喜びと同じ喜びを味わえる。なぜなら、御言葉であるキリストを信じる事によって、マリヤと同等の事、キリストを宿す事が、私達の身に起きるのだから!

『インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる。』(イザヤ8:8)
海が水で満ちているように、主の霊は全地に満ちており、主の愛とあわれみは溢れている。
預言者イザヤの時代、不信仰なイスラエルに、強大な敵国アッシリアが押し寄せて来たが、それでもインマヌエルなる主は、翼を広げ、イスラエルを覆っておられた。これは、創世記1:2の、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを”おおって”いた」時と、同じ状況である。
ここの「おおう(ラゥカフ)」の語は、親鳥が卵の上を覆ったり、鷲が雛の上を舞いかけたりする様を意味する。
光が創られる前の、暗闇と混沌の時、めんどりが雛を翼でかくまうように、神の霊は既に全地を覆っていた。
同じように主は、私達が暗闇で混沌状態だった時から、私達を愛の御翼によって覆っておられたのだ。
この、暗闇と混沌に満ちた「世界」という器に、ある時、ひとつの「種」が降りて来た。
それは、言葉であり、光であり、いのちなるキリストである。このキリストを信仰によって受け入れた人には、インマヌエルが実現する。すなわち、いつまでも主は共におられ、主とひとつとなる恵みにあずかるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:長たる者の人選は誤るなかれ(申命記1:5-18):右クリックで保存

『われわれの神、主はホレブにおいて、われわれに言われた、『あなたがたはすでに久しく、この山にとどまっていたが、身をめぐらして道に進み、アモリびとの山地に行き、その近隣のすべての所、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海べ、カナンびとの地、またレバノンに行き、大川ユフラテにまで行きなさい。見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に置いた。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主が、あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた所である』。』(申命記1:6-8)
これはまだ、荒野での40年を経る前の、すぐにでも約束の地に入れる望みがあった頃の話で、「久しくこの山にとどまっていた」と言っても、一年という期間である。
四十年の放浪に比べれば、一年はわずかな期間だが、それでも当時の彼らにとっては、長い期間だった。

私達の人生も、長い期間に見えるかもしれない。
しかし、永遠の栄光を得るためのボーナス査定の期間と思うなら、あるいは、ゲヘナで絶え間なく受ける永遠の苦しみを思うなら、この人生という”短い期間”を、いかに主にあって大切に過ごすべきかを知る事が出来る。

『わたしひとりで、どうして、あなたがたを負い、あなたがたの重荷と、あなたがたの争いを処理することができようか。・・・そこで、わたしは、あなたがたのうちから、知恵があり、人に知られている人々を取って、あなたがたのかしらとした。すなわち千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長とし、また、あなたがたの部族のつかさびととした。』(申命記1:12-15)

民の数は、あまりにも多いので、モーセ一人で民全体の面倒を見る事はできない。
そこでモーセは千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を選別して、重荷を分散しようとした。
その長たちの選別基準は「知恵があり、人に知られている人々」であるが、この時の選別基準の中に、早くも、四十年の放浪という失敗の兆候があった。

モーセがこの時語っている出来事は、出エジプト記18章での出来事の回顧である。
『モーセのしゅうとは彼に言った、「あなたのしていることは良くない。あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい。
また、すべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。平素は彼らに民をさばかせ、大事件はすべてあなたの所に持ってこさせ、小事件はすべて彼らにさばかせなさい。こうしてあなたを身軽にし、あなたと共に彼らに、荷を負わせなさい。』(出エジプト記18:17-22)

モーセのしゅうと・イテロは、元はミデヤンの祭司であるが、イスラエルの神・主の素晴らしさを見て、主に立ち返ったため、素晴らしい助言をしている。
モーセのように神と人との間に立つべき人が、民の日常的な争い事の処理に時間とエネルギーを費やしてはならない、そうした事は長たちに任せ、モーセ自身は、彼らでは処理できないような事を、主から聞いて、答えを頂くべきだ、と。
モーセはむしろ、人々に神の基準を示し、主にあってどう判決すべきか、そして、人々が歩むべき道やなすべき事を教える、という、もっと神様の御用に則した事で、その身を用いるべきだ、と。

また、イテロが勧める長たる者の選別基準が、また素晴らしい。
「有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人」である。
それなのにモーセは、イテロのアドバイス通りの人選を、しなかった。
『そこで、わたしは、あなたがたのうちから、知恵があり、人に知られている人々を取って、あなたがたのかしらとした。すなわち千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長とし、また、あなたがたの部族のつかさびととした。 』(申命記1:15)
すなわちモーセは、神を畏れる人でもなく、誠実な人でもなく、不正の利を憎む人でもなく、「知恵があり、人に知られている人々」を取った。

私達が組織の人選をする上で、神を恐れる人格者よりも、多少不正をしようとも”出来る人”のほうを選びやすい。
世の中の社会ではそれで良くても、神の国の事柄を為すべき長たる者は、まず、神を恐れる事がなければならない。なぜなら神の国においては、量や力、効率よりも、霊的純粋さこそ最優して保つべき事柄だからである。
新約の初代教会では、成長するにつれて、どのような点を優先事項としたか。

『そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。』(使徒6:1-2)

教会が成長し、国際化して行く中、教会の中の社会的弱者のある人達への配給がおろそかにされている、という問題が起こった。
その時、十二弟子が言った事は、弱者を大切にしましょうとか、民族や文化の差別の無くしましょうとか、もっと互いに仲良くしましょうといった、現代クリスチャンなら真っ先に言いそうな事は一切なく、「神の言葉をほうって置いて、食事の奉仕をするのは良くない」であった。

『そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。』(使徒6:3-4)
教会では、確かに弱者救済や差別撤廃などの奉仕もするが、そうした社会活動が中心ではない。
教会が最も優先すべきは、祈りと御言葉の奉仕である。
この優先順位を取り違えて、社会活動を中心にして祈りと御言葉をおろそかにすると、教会はいびつに、不健全になって行ってしまう。

この時、十二弟子が提案した、七人の食卓の奉仕者の選別基準は何だったか。
現代の教会であれば、栄養や調理のプロ、弱い立場へ配慮が出来る人、諍いやクレーム処理するのに長けた口達者な人など、その道に通じた人を選ぶ所であろうが、彼らの選別基準は、「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち」であった。
いかに出来る人であっても、霊と知恵に満ちていないなら、落とされるのである。
また、評判の良い人でなくてはならない。教会という閉じた世界の中でしか生きられず、外の社会では通用しないような人は、選別から落とされるのである。

このような人選をし、主だった人達は祈りと御言葉の奉仕に専念し、七人が教会の奉仕に励んだ結果、神のことばはますます広まり、弟子の数は非常に増え、祭司たちも多数、信仰に入った。(使徒6:7)

モーセは長たる者の人選に誤って、過ちの根を植えてしまった。
私達は、霊的奉仕の人選に誤る事がないようにしたい。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
災いの日が来ない内に(伝道者の書12:1-8):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:申命記概要(申命記1:1-4):右クリックで保存

『これはヨルダンの向こうの荒野、パランと、トペル、ラバン、ハゼロテ、デザハブとの間の、スフの前にあるアラバにおいて、モーセがイスラエルのすべての人に告げた言葉である。』(申命記1:1)
申命記は、ヘブライ語では「デヴァリーム」、「これらはことばである」という意味である。古代ユダヤでは、書物の冒頭の単語をタイトルとして使っているため、そのような名前となっている。
日本語題の「申命記」は「繰り返し命じる」という意味で、それは、イスラエルがカナンに入る直前にモーセが繰り返し律法を命じているためだ。

モーセは、申命記でよく命じている。「聞け」と。
神がいかにイスラエルを愛し、いかに導いて来たか。
また、神を愛して生きる事が、いかに幸いであるか、神に反逆して生きる事が、いかに災いであるかを、繰り返し説いている。

申命記を概略的に見ると、1章から4章までの所では、荒野での日々を振り返っており、民がいかに反逆して歩んできたか、その結果、どんな災いが与えられて来たかを、繰り返し述べている。
5章から26章の所では、主が与えられた十戒や律法を再確認しており、そして、27〜30章では、従順と不従順の二者択一、すなわち、祝福とのろいの二者択一を迫っている。
ことに、従順しなかった場合の呪いについては、とても詳細に記している。なぜそんなにも、呪いの結果を詳細に教えるか。それは、その道を歩ませないための、愛ゆえの戒めである。
31章以降は、モーセの告別のメッセージであり、後継者ヨシュアへの助言と、将来起こる事の預言的な歌、各部族への祝福、そして、モーセの死で終わる。

エジプトを出てきた民が通らされた荒野を、学校にたとえるとしたら、出エジプト記では教科書の基礎を学び、レビ記では応用的な学科を学び、民数記は卒業するための実技試験で、そして、申命記は卒業式における校長の最後のメッセージと言える。

『ホレブからセイル山の道を経て、カデシ・バルネアに達するには、十一日の道のりである。第四十年の十一月となり、その月の一日に、モーセはイスラエルの人々にむかって、主が彼らのため彼に授けられた命令を、ことごとく告げた。』(申命記1:2-3)
イスラエルの民はおよそ40年前、神の山ホレブで、律法の教科書である十戒が授けられ、そこで詳細な学科を一年学んだ。
そして第二年目の二月二十日、雲があかしの幕屋から離れて上り、イスラエルはシナイの荒野を出て旅立って行った。(民数記10:11-12)

そこからカデシュ・バルネアまでは、わずか十一日で行ける距離。
なのに、なんと、三十八年以上もかかってしまった。
なぜなら、彼らはカデシュ・バルネアでの卒業試験をかなりまずく行い、面接官である主に、度重なる無礼と反逆を繰り返したため、その反逆の世代が死に絶えるまでの、およそ三十九年もの「留年」が課せられてしまったからである。
不従順な世代が死に絶え、いよいよ荒野という学校の卒業を控えた今、四十年もの長きに渡って導いてきた校長・モーセによる卒業メッセージが、この申命記である。

卒業式では、良く語られる。これから皆さんは社会に出て、それぞれの道を歩み出す。これからは、ここで学んだ事をしっかりと握りしめて、自立した大人として歩みなさい、と。
そう、荒野での養育を受けたイスラエルは、これから信仰的に自立した歩みしていかなくてはならない。
続くヨシュア記以降が、その記録であるが、残念ながら、良い歩みをしたとはあまり言えない。

学校と社会とでは評価基準が真逆になる。学校では、いかにインプットしたかで評価されるが、社会では、いかにアウトプットしたか、すなわち、何を行ったか、どんな成果を残したかが評価される。
同じように、信仰の歩みも、インプットしたからにはアウトプットしなければならない。
御言葉が与えられたなら、それを実践し、信仰の結果を勝ち取って行く事が、要求される。御言葉をただ知っている、だけでは、ゆるされないのだ。
ヨシュア記以降、まさに、信仰を持って大胆に進み出た人達は大きな結果を残し、御心に反して自分勝手を行った者は滅んで行った。

学校を卒業したら、学生時代には無い「自由さ」がある。
しかし、その自由を自堕落な事に用い続けて年月を過ごすなら、取り返しの付かない事になってしまう。
同じように、この地上での信仰者の歩みは、自由である。実に、御心を裏切る自由さえもあるが、その結果も必ず刈り取る事になる。
『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:7-8)

与えられている自由を、肉に用いて滅びを招くか、それとも霊に用いて永遠のいのちを勝ち取るかは、皆さんの選択にかかっている。
天国は、自律的に神を愛し、神に愛される行いをする者だけが居る所である。
神を愛する事とはなにか、神を愛さない事とはなにか、この申命記から、しっかり学びたい。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
殺人と等しい罪:兄弟姉妹を憎む事(マタイ5:21-26):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
大淫婦と聖徒(黙示録17章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:相続地を絶やさぬために(民数記36:1-13):右クリックで保存

いよいよ民数記最後の章である。
出エジプト記とレビ記が、主から与えられた学科であるとするなら、民数記は、実技試験の記録であった。
主の山・ホレブで律法が授けられ、礼拝から日常生活に至るまでの多岐にわたる学びを受け、いざ、これから主が約束された地に向かって編隊を組み、意気揚々と出発し始めたのが、民数記のはじめであった。
しかしイスラエルの民は、その実技試験をかなりまずく行い、面接官である主の御前に度重なる無礼なふるまいを続けた。
それで、その世代の者たちは約束の地に入る資格無しとされ、子の世代は、荒野での余計な38年の放浪生活を通らされてしまった。

信仰生活において、荒野の放浪に陥ってしまう原因は、「不信仰」である。
遡る事38年前、カデシュ・バルネアにおいて、主が与えると示された地に、いざ入ろうとしている時に、民は「その地には行けない」「そこの住民たちは我々を食いつくす民だ」「エジプトへ帰ろう」と言い出し、モーセ達に石を投げつけようとさえした。
主は、民の不信仰や御怒りを引き起こす度々の振る舞いを、幾度も赦し、憐れみを注いできたのに、民はことごとくモーセの執り成しや主の憐れみを踏みにじり、つぶやきを止めなかったため、ついにその世代は、荒野で滅ぶようにされたのである。

不信仰な世代が死に絶え、その子にあたる世代は、失敗を繰り返しながらも、着実に主に従う事を学び、良き性質へと変えられてきた。
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1654&cid=35
このような所を経て、これからいよいよカナンの地に入ろうとしているこの時期、民数記の最後の記述は、ゼロペハデの娘たちに関するマナセ族の訴えと、それに対して主が応えている場面で終わっている。

『イスラエルの人々に、その嗣業の地をくじによって与えることを主はあなたに命じられ、あなたもまた、われわれの兄弟ゼロペハデの嗣業を、その娘たちに与えるよう、主によって命じられました。その娘たちがもし、イスラエルの人々のうちの他の部族のむすこたちにとつぐならば、彼女たちの嗣業は、われわれの父祖の嗣業のうちから取り除かれて、そのとつぐ部族の嗣業に加えられるでしょう。こうしてそれはわれわれの嗣業の分から取り除かれるでしょう。
そしてイスラエルの人々のヨベルの年がきた時、彼女たちの嗣業は、そのとついだ部族の嗣業に加えられるでしょう。こうして彼女たちの嗣業は、われわれの父祖の部族の嗣業のうちから取り除かれるでしょう」。』(民数記36:2-4)

すなわち、ゼロペハデの娘達のように、父親が娘しか生まなかった場合、彼女たちが結婚して嫁いで行くとしたら、子々孫々へと受け継いでいかなくてはならない先祖代々の相続地が、嫁ぎ先の部族のものとなってしまい、そこで途絶えてしまう。
それでは不服だ、という訴えである。
主は、御言葉に沿った正当な訴えは、喜んで聞いて下さる。

『モーセは主の言葉にしたがって、イスラエルの人々に命じて言った、「ヨセフの子孫の部族の言うところは正しい。ゼロペハデの娘たちについて、主が命じられたことはこうである。すなわち、彼女たちはその心にかなう者にとついでもよいが、ただその父祖の部族の一族にのみ、とつがなければならない。そうすればイスラエルの人々の嗣業は、部族から部族に移るようなことはないであろう。イスラエルの人々は、おのおのその父祖の部族の嗣業をかたく保つべきだからである。」』(民数記36:5-7)
このような場合は、自分の父祖の部族としか結婚できない、という「制限」があるかもしれない。
しかし、結婚相手の選別は、自分の好みによって行ってはならない。
主の約束と御言葉を優先させるべきなのだ。

結婚相手を自分の好みで選ぶと、大体良くない事が起きる。ノアの時代はそれでネフィリムが誕生し、サムソンはそれで身を滅ぼした。
人間の「好き」という感情は、良いもののように見えて、実は当てにならないし、何より自己中心的な感情である。
結婚相手の選別において優先すべきは、主の御心であり、主からいただくべき地をしっかりと受け継いで、それを子々孫々へと相続できるかどうか、である。
それが望めない結婚は、最初からしないほうが良い。

イスラエルの民にとって、約束の地を継ぐ権利は、最優先で守られるべき権利であり、父祖の部族の相続地は、結婚などの理由によっても、決して他に譲ったりしてはならない。
神の民である私達も、同じ価値観である。
私達が死守すべきは「天の御国を受け継ぐ権利」であり、それは結婚などによって決して奪われてはならない。
もし妻が、あるいは夫が、主の御言葉にも、天の御国にも一切興味を示さず、世において罪を飲み食いし続ける事に固持するなら、その結婚は、どんなに苦々しいものであろうか。
子を霊的に健全に育てるのに、どんなに苦労するだろうか。

民数記でのイスラエルの失敗は、主の御言葉や約束よりも、自分の好む所に従って歩もうとした事にあった。
自分達の欲望を貫かんとするために、主のさとしを跳ね除け、神とモーセに逆らい続けた民は、荒野で屍をさらし、死に絶えてしまった。
見える所によらず、見えない信仰によって歩む人、主が与えて下さると約束して下さった、その約束に従って歩む人こそ幸いである。

この民数記の終わりが、相続地を絶やさぬためには、結婚相手を選びなさい、という命令で終わっているのは、実に興味深い。
荒野での余計な歩みをせず、約束にかなった結婚し、子供達に天の御国を継がせる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:土地を汚す者(民数記35:16-29):右クリックで保存

故意に、あるいは一時の激情によって人を殺した人の死刑を求刑するには、一人の証言のみでは有効ではない。二人以上の証人が必要である。(民数記35:30)
二人または三人の主の御名の集いの内に、主がおられ、そこで御名によって宣言される事は、神と人との前で宣言されるのである。

新約においても、兄弟姉妹の誰かが罪を犯したなら二人または三人でさとし、それでも言って聞かないなら教会に告げ、それでも聞かないなら、その者を交わりから断つべき事を、主は言われている。(マタイ18:15-17)
『よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。』(マタイ18:18)

また、人のいのちを故意に奪う罪については、お金を幾ら積んでも、誰であろうと、見逃してはならないと主は定めている。(民数記35:31)
もし、人のいのちを奪う事が金銀で解決するなら、お金を持つ者なら、いくら人のいのちを奪ってもお咎めなし、という事になってしまう。
主の御前には、「カネがあれば何でも許される」は通用しないのだ。
人のいのちを取ったら、その人のいのちで償うのが原則である。

また、故意にではなく不慮に人のいのちを奪ってしまった場合、その人は逃れの町に逃れる事になっているが、その場合も、お金では解決できず、その時の大祭司が死ぬまで、逃れの町から出る事は許されない。(民数記35:32)
大祭司の死以外には、幾ら支払っても自由になる術は無い、というのは、まことの大祭司キリストの十字架以外に、罪と死からの贖いはありえないのと同じである。

『あなたがたはそのおる所の地を汚してはならない。流血は地を汚すからである。地の上に流された血は、それを流した者の血によらなければあがなうことができない。あなたがたは、その住む所の地、すなわちわたしのおる地を汚してはならない。主なるわたしがイスラエルの人々のうちに住んでいるからである。』(民数記35:33-34)

不当に血が流された土地は、汚れる、と書いてある。
罪なき人が不当に流された血は、神に叫び訴えるからだ。

カインは、正しくない礼拝をして神に受け入れられなかったが、アベルは正しい礼拝をして神に受け入れられた。カインはその事を憤り、御前に顔を伏せた。
彼は、門口で彼を待ち伏せ恋い慕っている罪を支配せず、かえって罪を飲み込み、怒りと妬み、嫉妬の激情に、身も心も委ね、弟アベルを殺してしまった。
『主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」』(創世記4:9-12)

主は、カインのした事をご存知だった。しかし、あえて彼の口で告白させるために、「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」と問うた。
カインはこの主が与えて下さった機会を、罪を告白して悔い改める事に用いるべきだったのに、「知りません」と答え、そればかりでなく「わたしは弟の番人でしょうか。」と、主にたてをつく言葉さえ吐いた。

カインの特徴は、自分が手を下して死んでしまったアベルを見ても何とも思わず、また、兄弟姉妹に対し一体何をしてしまったかに、何ら心配らず、全能者の前におそれる事もなく、うそをつき、たてをつく性質である。
そのような者は、呪われ、人々からも忌み嫌われ、どこにも居場所が無くなって、さすらい人となるのだ。
全てを見ておられる神は、侮られるようなお方ではない。
自分の為した結果と、神の前で告白した言葉の報いは、きっちりと、受けるのだ。

不当に流された血は、その土地を汚す。
同じように、性的不品行もその土地を汚し、それを行った者どもは、土地から吐き出される。(レビ記16:24-30)
人殺しも、性的不品行も、「いのち」を汚す行為であり、土地に呪われ、土地から吐出される元となる行為なのだ。

私達は、主に対し、あるいは人に対して罪を犯した時は、すみやかにそれを告白し、悔い改め、兄弟姉妹に損害を与えたなら、その償いをするべきである。
そうして赦していただき、主と、兄弟姉妹との、光の交わりに速やかに戻って、楽になるべきである。
『神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。』(1ヨハネ1:7-9)

礼拝説教メッセージ音声:復讐者とのがれの町(民数記35:16-29):右クリックで保存

主から与えられた律法を見ると、現代の日本国憲法とはずいぶん違うと思う。

律法によれば、鉄や石、木製などの器物で人を打って死なせた場合は、必ず死刑である。(民数記35:16-19)
『血の復讐をする者は、自分でその故殺人を殺すことができる。すなわち彼に出会うとき、彼を殺すことができる。またもし恨みのために人を突き、あるいは故意に人に物を投げつけて死なせ、あるいは恨みによって手で人を打って死なせたならば、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は故殺人だからである。血の復讐をする者は、その故殺人に出会うとき殺すことができる。』(民数記35:19-21)

故殺とは、故意に人を殺すこと、また、一時の激情によって殺意を生じ人を殺す事(デジタル大辞泉)であり、そのような悪意や殺意をもって故殺した人への復讐は、主が許している。
そこには、未成年者の場合はどうとか、その時の精神状態とか、責任能力が云々とかは、一切なく、意図的に人を打って死なせたなら「必ず殺されなければならない」と主は定めている。

このは、現代日本を生きる私達が見ると、随分厳しすぎるように思えるかもしれない。
しかし私達は、日本国憲法の中で育まれた現代の常識や民主主義や人権思想を基準にして、神様が定めた律法を、評価したり、批評したりする立場にはない。
私達・神を主とする者が取るべきスタンスは、その逆である。
すなわち、神様が定めた法のほうを基準とし、それを元にして、現代の常識や思想のほうを、評価すべきである。

現代日本は、ゲームやメディアの影響を受けて、ずいぶんと手軽に殺人をする傾向にあり、親が子を殺したとか、子が親を殺したとか、一昔前なら大事件にもなるような記事が、平気な顔をして毎日登場する。
それは、現代日本が、主のスタンダードから離れた所にあるからに、他ならない。
もし現代日本に、この神の法が適用されたなら、人はもっと人のいのちを大切にして、殺人は随分と減るのではなかろうか。

『しかし、もし恨みもないのに思わず人を突き、または、なにごころなく人に物を投げつけ、あるいは人のいるのも見ずに、人を殺せるほどの石を投げつけて死なせた場合、その人がその敵でもなく、また害を加えようとしたのでもない時は、会衆はこれらのおきてによって、その人を殺した者と、血の復讐をする者との間をさばかなければならない。』(民数記35:22-24)

主は、意図せずに人を殺してしまった場合の温情措置も、しっかりと定めておられる。

『すなわち会衆はその人を殺した者を血の復讐をする者の手から救い出して、逃げて行ったのがれの町に返さなければならない。その者は聖なる油を注がれた大祭司の死ぬまで、そこにいなければならない。しかし、もし人を殺した者が、その逃げて行ったのがれの町の境を出た場合、血の復讐をする者は、のがれの町の境の外で、これに出会い、血の復讐をする者が、その人を殺した者を殺しても、彼には血を流した罪はない。』(民数記35:25-27)

主は、意図せず殺してしまった人は、この「のがれの町」に逃れて保護され、復讐者から守られるよう定められた。
しかし、その町から出歩いてしまっている場合は、その限りではなく、いのちが守られる保証は無い。
この定めは、罪を犯してしまう私達と、その事を訴え追い回すサタンと、キリストという「のがれの町」を用意して下さった神様との関係に似ている。

罪のとげの刺さった肉体をまとっている私達は、どうしても罪を犯してしまう。
あのパウロでさえ、罪と死の法則に縛られている自分達は、なんとみじめな人間であろう、と嘆いた。
罪と死の法則にいる間、私達は、死とのろいという復讐者にいつも追い回されるが、しかし主が定めて下さったのがれの町、「いのちの御霊の法則」へと逃れるならば、もはや安全であり、罪と死の法則に追い回される必要は無くなる。その事を、パウロは見出したのだ。(ローマ7:14-8:2)
私達も、主がその「いのちの御霊の法則」という逃れの町に逃れるなら、サタンの責め苦から守られ、安全である。
(いのちの御霊の法則に乗る方法: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1317

意図せずして殺人してしまった人は、大祭司が死ぬ日まで、のがれの町でかくまわれ、大祭司が死んだ後は、自由とされるように、私達の大祭司であるキリストは、私達のために、死んで下さった。
その事を、信仰によって自分自身に適用するなら、私達は罪の責め苦から自由なのである。

栄光の家系の女達 - マリヤ1 キリストを宿す性質(マタイ1:16)
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週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

『ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。』(マタイ1:16) 今まで、マタイ一章のイエス・キリストの系図に出てくる女性に焦点を絞り、「栄光の家系の女達」のシリーズとして見て来たが、その最後の女性は、イエスの母・マリヤである。
今まで四人の女性達を見てきたが、いずれも何かしらの「訳あり」だったが、その点マリヤは、血筋においても、素養においても、申し分のない女性であった。

イエス・キリストは、どのような血筋として生まれているか。
マタイ一章の系図は、ダビデの子としてのイエスキリストの系図で、ダビデ以降バビロン捕囚までは王族が、それ以降は王族はなく一般人が連なり、最後は、イエス・キリストの(法律上の)父・ヨセフで終わっている。
しかしイエス様は、聖霊によってみごもり、処女マリヤから生まれたため、ヨセフの血は継いでいない。
継いではならない理由があるのだ。系図の中のマタイ1:11に、エコニヤの名があるが、彼と、その前の王達は、あまりに悪い事をし続けたために、主はエコニヤ以降について、以下のように仰せられている。
「この人を、子なき人として、またその一生のうち、栄えることのない人として記録せよ。その子孫のうち、ひとりも栄えて、ダビデの位にすわり、ユダを治めるものが再び起らないからである。」(エレミヤ22:30)
実際、エコニヤ以降に王は出なかった。では、イエス様は王族ではないのか?ダビデの子ではないのだろうか?いいや、ダビデの子であり王族である。
実は、ルカの福音書三章に、もう一つの系図がある。この系図は、マリヤの家系の系図であり、マタイ一章のヨセフ系図では、ダビデの子はソロモンであるが、ルカのマリヤ系図では、ダビデの子はナタン(バテ・シェバの子でソロモンの兄:1歴代3:5)となっており、それ以降のマタイとルカの系図は、分岐している。
つまり、イエスの母マリヤは、歴代の王族の家系ではないものの、れっきとしたダビデの子孫であり、そして悪に染まった王族の血を継いでもいない。つまりイエス様は、法的なヨセフの子、すなわち法的には歴代の王族の子であり、血筋としては、悪しき王達の血を継がない純粋なダビデの子孫である。
人間が王になると、必ず過ちを犯す。ダビデ王さえ、そうだった。主は元々、人間を王を立てるのは、御心ではなかった。それでも人間が王に立ったのは、人々が神を退けたからだった。(1サムエル8章)
人間の王は代々失敗し罪を重ね、エコニヤ以降、イスラエルにはもはや人間の王は立たなかった。
そこで主は、人間の王には頼らず、聖霊によって処女マリヤに宿り、生まれた神の子・キリストを真の王として立てたのだ。主に選ばれたマリヤはどのような性質であったか。主が宿られる人の性質を見てみたい。

マリヤはダビデ王の家系であるものの、ダビデはもう遠い遠い先祖であり、彼女の代にはあまり関係なかっただろう。彼女はごく普通の、どちらかと言えば貧しい家の女の子であった。そんな彼女の所に、ある日突然、御使いが現れて「おめでとう、恵まれた方」と言われた。彼女はその言葉に考え込んだ。(ルカ1:28)
彼女は、主から何かを受けた時は、それに対し口でとやかく言わず、「思い巡らす」性質の持ち主である。
御使いが羊飼いに現れ、羊飼い達が生まれたばかりの赤ちゃんイエス様に会いに来た時もそうだったし、イエス様が12歳の時、子供であるイエス様が言われた事に言い返さず、心に留め、思い巡らしていた。
御言葉に対し「でも」や「だって」を言わず、そのまま受け止め、たとえ理解できなくても、それを心に留め、思い巡らす性質は、きよい性質である。反芻する動物は、きよい(レビ記11:3)とされている。
また彼女は、主の語られた事は必ず成就すると信じ、100%受け入れる体制が整っている人である。
彼女は御使いから示された事を「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と言って受け止めたし、エリザベツも彼女を「主の語られた事は必ず成就すると信じ切った人」と評した。
キリストに宿られる体制が整っている人とは、御言葉を受けた時には、「でも」や「だって」は一切なく、素直に受け止め、信じ、それを思い巡らす人であって、血筋や能力、人の意欲や欲望は一切関係ない。
『言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。』(ヨハネ1:12)
マリヤのように、素直に御言葉を受け入れ、信じ、思い巡らす、主イエスキリストが宿る性質を持つ皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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