メッセージ - 201312のエントリ

クリスマスイブ礼拝

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その他音声
執筆 : 
pastor 2013-12-25 3:44

クリスマスイブ礼拝(音声のみ):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:祝福の地が呪いの地となってしまう条件(申命記4:20-31):右クリックで保存

『主はあなたがたを取って、鉄の炉すなわちエジプトから導き出し、自分の所有の民とされた。きょう、見るとおりである。ところで主はあなたがたのゆえに、わたしを怒り、わたしがヨルダンを渡って行くことができないことと、あなたの神、主が嗣業としてあなたに賜わる良い地にはいることができないこととを誓われた。わたしはこの地で死ぬ。ヨルダンを渡って行くことはできない。しかしあなたがたは渡って行って、あの良い地を獲るであろう。』(申命記4:20-22)

イスラエルの民がこれから入ろうとしている土地は「良い地」であると言われているが、その土地は、そこに入る人なら誰でも100%良きものばかりをもたらすかというと、そうではない。
その地が、良き事をその人にもたらすかどうかは、その人に依りけりである。
主の御教えに従順する人に対しては、そこはとことん「良い地」となりえるが、逆に、その地がとことん災いばかりもたらすようになってしまう可能性もあり、モーセはその条件を以下に述べている。

『あなたがたは慎み、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れて、あなたの神、主が禁じられたどんな形の刻んだ像をも造ってはならない。あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である。』(申命記4:23-24)
主は、偶像を忌み嫌われる。
そして主は、自らを「焼きつくす火(英語:コンシューミング・ファイアー)」であると言われた。

最近、ビジネス用語でコンシューマーという言葉を良く耳にする。
コンシューマーとは「お客様」「消費者」であり、サービス業は、コンシューマーを主体としたビジネス展開こそ成功に欠かせないが、あるクリスチャンは、教会をサービス提供者か何かのように思い、自分達をコンシューマのように思い違いしているが、真逆である。
キリスト者にとって、主こそコンシューマーであり、私達は主にサービス(礼拝)を捧げる側である。

だから、コンシューマである主との契約をないがしろにして、契約違反するならば、主は「妬む神」となってその人を焼きつくしてしまう。
主は、妬む神である。
妬む、という事は、深く熱い愛情によって愛しておられる、という事だ。
相手を愛していれば、愛している程、相手が浮気したならその時の修羅場の度合いが酷くなるが、同じように、私達の神・主も、私達をねたむ程に愛しておられるのである。

『あなたがたが子を生み、孫を得、長くその地におるうちに、道を誤って、すべて何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪をなして、その憤りを引き起すことがあれば、わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対してあかしとする。あなたがたはヨルダンを渡って行って獲る地から、たちまち全滅するであろう。あなたがたはその所で長く命を保つことができず、全く滅ぼされるであろう。』(申命記4:25)

偶像崇拝、それは「良き地」がたちまち「滅びの地」に早変わりしてしまう条件である。
主に対し不従順であったり、主の怒りを引き起こす事を、敢えて行い続ける者は、どんなに祝福の地のただ中にいても、そこを滅びの地としてしまうのだ。
それは現代の教会においても同じである。
実際、アナニヤとサッピラは、聖霊を欺いた故に、教会のただ中で滅ぼされた。

『主はあなたがたを国々に散らされるであろう。そして主があなたがたを追いやられる国民のうちに、あなたがたの残る者の数は少ないであろう。』(申命記4:27)
実際、イスラエルの歴史の中で、イスラエルが不従順と偶像崇拝の罪を犯し続けた故に、アッシリヤやバビロンに攻撃され、異国に散らされ、モーセの時代には六十万もいたイスラエル人は、エズラの時代には四万人ほどしか戻ってこなかった。

しかし、たとい人が不従順を犯したとしても、主は人を滅ぼしつくすという事はしない。
『その所であなたがたは人が手で作った、見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともない木や石の神々に仕えるであろう。しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。』(申命記4:28-29)

イスラエルの民は、捕囚先で、人が手で作った見ることも聞くことも出来ない味気のない偶像に仕え、そこで思い知った。
主に対して不従順である事がいかに罪深いか。
そして、偶像がいかに味気なく、主がいかに麗しく良きお方であるかを。

私達も、主を捨てて世俗に下る時、同じような体験をする。
主の支配から抜け出して来て、人間の作った味気ない決まり事を強要され、不公平で不完全なシステムに仕える時、人間の罪深さ、不完全さ、そして、一部の特権階級だけが甘い汁を吸うような、自己中心的な有り様に、嫌気がさしてくるのだ。
そして、つくづく思い知るのである。
世に仕えるよりも、主に仕えていた方が良かった、と。

『後の日になって、あなたがなやみにあい、これらのすべての事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう。』(申命記4:30-31)
主は、慈しみ深い。
私達を愛しておられる。そして、愛しておられるからこそ、時に厳しく懲らしめる事もある。
しかし主は、放蕩息子の帰りを待ちわびるように、離れている聖徒が主のもとに戻るのを、今か今かと待ち望み、そして帰ってきた時には、大きな喜びをもって迎えて下さるのである。(ルカ15章)

栄光の家系の女達 - マリヤ4 皇帝アウグスト vs 乙女マリヤ(ルカ2:1-7)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

『そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。』(ルカ2:1)
この皇帝アウグストは、ローマ帝国の初代皇帝で、強大な権力と強力な軍隊を持ち、莫大な富を貯え、人々から「神の子、救い主」と呼ばれ、彼が赦免を告知することを人々は福音と言った。
とは言っても、それは武力による支配、十字架刑に象徴される恐れと刑罰を伴った強制的な支配であった。
それはキリストの支配、すなわち、平和と自由、愛による喜びの支配とは、全く逆の支配である。
そのアウグストが、人口調査せよとの勅令を出した場合、属国であるイスラエルの人は皆、それに従う以外には無かった。いかに、臨月に差し掛かっているマリヤと言えども。
マリヤ達が住んでいたナザレからベツレヘムまでは、百キロ以上ある。車も無い当時、妊娠し臨月になっていたマリヤにとって、かなり過酷な旅だった事は、容易に想像がつく。
思えば、マリヤにとってのクリスマスは、一番嫌なタイミングの時に、大変な思いばかりしている。
婚約中という最もセンシティブなタイミングに身ごもり、もうすぐ生まれるというタイミングで皇帝から勅令が出て、臨月中に長旅をしなくてはならなくなった。また、イエス様が生まれてまだ間もない時に、御使いのヨセフへのお告げで、着の身着のままでエジプトへ逃げなくてはならなかった。
これは、よほど御言葉に対する「従順力」が無ければ出来ない事だ。だからこそ、マリヤは選ばれたのだ。

マリヤのような栄誉と幸いに与れる人とは、どんな時でも主の御言葉に従順する人だと私達は学んでいる。
人は思うかもしれない。自分はマリヤのような特別な栄誉はいらない、マリヤのような試練にあうくらいなら、もっと凡人の、普通でささやかな人生を送れるなら、それでいい、と。そのような心配は、無用である。
主は私達に耐えられないような試練に遭わせたり、負いきれないような重荷を負わせるお方ではない。
私達の分に応じた役割と、ご計画を立てておられるのだ。いずれにせよ、御言葉に対する従順こそが、何よりの幸いの秘訣であり、御言葉への不従順こそ、何よりの不幸の元である。
私達は、日々の小さな従順を積み重ねていけば良い。それは積もり積もって大きな栄誉へと育って行く。
そして主は、誰もが目を見張って憧れるローマ皇帝よりも、主に対するつつましやかな従順を積み重ねる無名な信仰者にこそ、目を留められ、彼らを守り、導き、後には栄光の内に受け入れて下さるのだ。

皇帝アウグストとマリヤ、この二人を比べるなら、当時のマリヤは、無きも同然の弱く無名な者だったが、今、全世界に対し、また全歴史に対して、より影響力を与えた人は、どちらだろうか?
きっと、キリスト教を信じていない人でも、多くはマリヤだと答えるだろう。
事実、世界史は、マリヤが御言葉に従順した結果、生まれたイエス・キリストによって、大転換を迎える。
キリストの生まれる前はB.C.で「キリストの前」の意味、生まれた後はA.D.で「主の年に」の意味である。
そしてイエスを信じた人の一体、何十億の人生が、また社会が、そして国々が、光へと変えられただろうか。
同じように、無名な私達が、主に対して従順し服従する事によって、世界が、時代が動くのである。
マリヤのこの従順によって、およそ八百年前の預言、「イスラエルの支配者になる者ベツレヘムから出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)が成就し、そして「彼は大いなる者となって、(支配は)地の果にまで及ぶ」(同4節)という預言は、これからも成就して行くのである。

主は、永遠の昔から定められた事を成就させるために、アウグストを立て、動かし、聖徒のためには星をさえ動かす。主のなさる事は、時に、人の目には「どうしてこんなタイミングで?」と思う事もあるかもしれない。
しかしそれは、主が永遠の昔から私達に立てている将来と希望のご計画を成就されるためのものなのだ。
そして、主に対する聖徒の祈りと、その従順な行動は、世界を動かし、歴史を動かすのである。
どういう訳か主は、主を信じ御言葉に従順する人の祈りや行動を通して、世に関与され働かれる。
人は、この世においてアウグストのように強く、有名で、金持ちで、権力者になりたがる欲求が、少なからずあるが、主が現れ力を働かされるのは、その正反対にいる人達である。
支配権を主に明け渡して、主の前にへりくだる人達にこそ、主は現れ、力を働かれるのである。
そういう人は、真理と永遠の観点から見れば、世間の支配者よりも、より大きな影響力を持っているのだ!

礼拝説教メッセージ音声:見えるものによらず、御言葉によって(申命記4:9-19):右クリックで保存

モーセは、民がホレブで見た事を思い起こさせている。
イスラエルの民は、そこで大いなる光景を見た。
『あなたがホレブにおいて、あなたの神、主の前に立った日に、主はわたしに言われた、「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしの言葉を聞かせ、地上に生きながらえる間、彼らにわたしを恐れることを学ばせ、またその子供を教えることのできるようにさせよう。」そこであなたがたは近づいて、山のふもとに立ったが、山は火で焼けて、その炎は中天に達し、暗黒と雲と濃い雲とがあった。』(申命記4:10-11)

モーセは、あのホレブで見たことを忘れるな、その事を子や孫に教えよ、と言っている。(申命記4:9)
あの時、火が山の上にあって、炎は中天に達し、山全体は黒雲に包まれて震え動き、雷鳴と角笛の響きが高く鳴り響く中で、主は降りて来られたのだが、その大いなる現象の中で、モーセが最も強調している事は、主はその中に見える形では見い出せなかった事だ。
「主は火の中から、あなたがたに語られたが、あなたがたは言葉の声を聞いたけれども、声ばかりで、なんの形も見なかった。」(12節)

後の時代の預言者エリヤも、同じ場所で、同じ体験をしている。(1列王記19:11-13)
イスラエルの民と、エリヤの二者が共通して体験した事は、主は大いなる現象を起こされたものの、主を見る事は出来なかった事、そして、主が御声をもって語られた、その内容のほうが、現象よりも重要である事だ。

『主はその契約を述べて、それを行うように、あなたがたに命じられた。それはすなわち十誡であって、主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。その時、主はわたしに命じて、あなたがたに定めと、おきてとを教えさせられた。あなたがたが渡って行って自分のものとする地で、行わせるためであった。』(申命記4:13-14)
人々は何かと、主から石版をもらったとか、大いなる現象を見て体験したとか、そういった事を誇りやすい。
しかし大切なのは、その石板に記されている中身であり、その内容を、自分達の生活ステージのただ中で実行する事である。
いかに牧師が奇跡を行ったり感動的なメッセージをしたとしても、集っていた人達が、その与えられた御言葉を自分の生活の場に持ち帰り、それを守り行わないとしたら、何の益も無いのだ。

『それゆえ、あなたがたはみずから深く慎まなければならない。ホレブで主が火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたはなんの形も見なかった。』(申命記4:15)
主はここで再度、主について「なんの形も見なかった」と繰り返している。
私達も、目に見えるものにではなく、目で見えない御言葉にこそ、目を留めるべきなのだ。
『わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。』(2コリント4:18)

そして主は、神といわれるものに関して、目に見える像を作る事を禁じている。(申命記4:16-19)
すなわち、自然界で目に見えるものは何でも、それが男であれ女であれ、動物であれ、天体であり、自分のためにそうした像を作って、それを拝んだりする事を禁じている。
『あなたはまた目を上げて天を望み、日、月、星すなわちすべて天の万象を見、誘惑されてそれを拝み、それに仕えてはならない。それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。』(申命記4:16-19)

昔の人は、地球が全ての中心で、太陽や月、星々は地球の周りを回っていると思っていたが、実のところ、それら星々のほうが、地球よりもはるかに大きかったのだ。
宇宙は、私達の目(地球から観測できる光)の届く範囲だけでも、137億光年もの広さがあり、そのさらに先はもっともっと広大な宇宙が広がっていると言われている。

その広大な宇宙に点在している星々も、太陽も月も、なんと、「それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。」
あの宇宙に浮かぶ巨大な星々は、このちっぽけな地球に住む万民に分け与えられたものなのだ!その事は、人の想像できる範囲を、遥かに超えている。
それ程に、主は、人の小さな頭では収まりきらないお方なのだ。
だから私達は、神に似せて何物も偶像(イメージ)を作ってはならない。
それはあまりにも愚かな事だ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪魔 - 日夜兄弟姉妹を訴える者(ゼカリヤ3:1-5):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
山上の説教 - 誓いについて(マタイ5:33-37):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
贅沢三昧の都の最後(黙示録18:14-24):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:主の言葉に対して取るべき姿勢(申命記4:1-8):右クリックで保存

『イスラエルよ、いま、わたしがあなたがたに教える定めと、おきてとを「聞いて」、これを「行い」なさい。そうすれば、あなたがたは生きることができ、あなたがたの先祖の神、主が賜わる地にはいって、それを自分のものとすることができよう。』(申命記4:1)

主の御言葉を「聞いて」「行う」事、これはキリスト者がいつでも保つべき重要な姿勢である。
みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようである。(ヤコブ1:23)
御言葉を聞いて行うなら、その人は、その行いによって祝福され、主が与えて下さる「良き地」で長く生き、生涯、良きもので満たされるのだ。
『完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。』(ヤコブ1:25) と、記されている通りである。

また、御言葉の権威に対し、人がつけ加えたり、減らしたりしてはならない。
『わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。』(申命記4:2)

黙示録にも、同じことが記されている。
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)
御言葉を聞いたなら、それをそのままいただく事、それが、御言葉に対する正しい対応である。
しかしパリサイ人は、純粋な御言葉に多くの人間的解釈という「混ぜ物」を加えた事によって、自分自身だけでなく、多くの人々も、がんじがらめにして神の国から遠ざけてしまった。

御言葉は、主の息吹(霊)が込められており、主のご性質そのものが現れている。
そして御言葉は、世が滅んでも決して滅びる事なく、永遠に残る、決して変わらぬ真実である。
それを人間ごときが、自分の好き勝手によって加えたり減らしたりはできない。
もし、人が「御言葉を超える真理を編み出した」と思っても、その人はやがて消えていくだけである。

主は何のために、イスラエルに定めとおきてとを与えられたか。
それは、イスラエルの民が、その生活ステージのただ中で、「守って」「行う」ためである。
『しかし、あなたがたの神、主につき従ったあなたがたは皆、きょう、生きながらえている。わたしはわたしの神、主が命じられたとおりに、定めと、おきてとを、あなたがたに教える。あなたがたがはいって、自分のものとする地において、そのように行うためである。あなたがたは、これを「守」って「行」わなければならない。これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。』(申命記4:4-6)

この、御言葉を「守る」事と「行う」事、これもキリスト者がいつも目を留めておくべき重要なキーワードである。
もし私達が、御言葉を守り、行うなら、主が力強き御手でもって働かれ、それを見た周囲の人々は驚き、主の栄光は大いに広がるのである。

『われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべての律法のような正しい定めと、おきてとがあるであろうか。』(申命記4:7-8)
主は、インマヌエルなるお方、すなわち、共におられる神。
私達が寝ている時も、起きている時も、家にいる時も、仕事場にいても、また、若い時も、年老いた時でも、主は、主を恐れ敬う聖徒といつも共におられる神である。
白髪頭になっても、主は私達をおぶって運んで下さる。(イザヤ46:4)
この主にあって、私達はまさに特権階級である。

地上においても、永遠においても、主にあって幸いと祝福を得ていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:断られてしまったモーセの願い(申命記3:23-29):右クリックで保存

モーセは、荒野放浪の最後の年に犯してしまったあのメリバでの過ちの故に、約束の地には入れないと宣告されていた。(民数記20章)
あれだけの実績を残したモーセが、なぜ、ただ一度の失敗の故に、約束の地に入れなくなってしまったのか。

それは、荒野で40年もイスラエルと共に歩んできた「岩なるキリスト」に、尊敬と信頼をもって「語りかけ」、水を出していただくべきだった所を、民を怒る怒りに身を任せ、御言葉を無視し、岩なるキリストを二度「打って」しまったからだ。
「打つ」のヘブル語「ナーカー」には、他にも「罰する」「殺す」などの意味がある。十字架上で一度打たれ罰されたキリストを、二度も打つような事は、いかにモーセのような実績を残した人と言えども、許されないのだ。
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1649&cid=35

彼らが約束の地に近づくにつれ、主は次々と輝かしい勝利をイスラエルに与えて下さっている様を見たモーセは、ああ、やっぱり自分も約束の地に入りたい、と思ったのだろう。
彼は「どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにしてください。」とお願いしてみたが、主の返事は、とてもつれなかった。

『おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。おまえはピスガの頂に登り、目をあげて西、北、南、東を望み見よ。おまえはこのヨルダンを渡ることができないからである。しかし、おまえはヨシュアに命じ、彼を励まし、彼を強くせよ。彼はこの民に先立って渡って行き、彼らにおまえの見る地を継がせるであろう。』(申命記3:26-28)

私はかつて、この箇所を読んだ時、すごい切なさを覚えた。
それは、長い間ある事を主に願い求めて来たのに、主からは何の返事も無く、また与えられる兆候も無く、ただ延々と断られ続けているかのように感じていた時だった。
イスラエルを約束の地に入れようと、長い年月、多くの苦労をしながら、主のために働いて来たあのモーセが願ったのに、主がすげなく断ってしまう様を見て、やるせない気持ちになったものだが、後になって思い返すと、あの時の私は、モーセと自分を連ねるなど、全くもっておこがましく自分勝手な状態だった事に気づいた。

モーセの場合は、主が示された約束の地に入れなくて切ない思いをしている、というのに、あの時の私は、全く逆だった。
つまり私は、神の国の事よりも、世の幸いや栄えを求めていて、それが与えられないからと悲しんでいたのだ。

私はずっと主にあって世から守られ、神の国の中で主と共にいたというのに、そんな素晴らしい状態に気づかず、むしろ、世のスタンダードに従って生きようとし、世間的に「幸せ」とされている事が満たされるほうを、願い求めていたのだ。
それまで、自分はまっとうなクリスチャンとして歩み、主が約束された国を望み見て歩むヨシュアとカレブの側の生活をしていた、と、思っていたら、実は全く逆で、むしろ世(エジプト)をなつかしみ、荒野でマナしか無い事を「みじめだ」と言って嘆いている、あの、荒野で滅ぼされてしまったイスラエル人のパターンに陥っていたのだ。

私は今や、主にとても感謝している。
主が私に計画されていた事は、世間一般の人たちが得ている普通の楽しみより遥かにまさる者として召しだされ、人々を永遠のいのちへと導き救うようにと、永遠の栄光をもたらす務めに任じられており、御言葉という、決して変わらぬ愛の法則を伝える栄光にあずかっているのだから。
よくぞ主は、私を世の中に安住する事を留め、自分で思っても見なかった程の栄光と幸いを与えて下さった、と、本当に感謝している。

皆さんも、かつての私のように、神の国の事ではなく、世の栄えや世の楽しみが与えられない事で、切なくなっていないだろうか。
私達が目指し、近づいているのは、世の栄華よりはるかに優れた、天の故郷である。

『また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。・・・
しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。』(ヘブル12:16-25)

礼拝説教メッセージ音声:戦いも報酬も共に受ける(申命記3:12-22):右クリックで保存

続いてモーセは、ヨルダン川の東側で既に獲得した土地の分与をする。
『その時われわれは、この地を獲た。そしてわたしはアルノン川のほとりのアロエルから始まる地と、ギレアデの山地の半ばと、その町々とは、ルベンびとと、ガドびととに与えた。わたしはまたギレアデの残りの地と、オグの国であったバシャンの全地とは、マナセの半部族に与えた。すなわちアルゴブの全地方である。(そのバシャンの全地はレパイムの国と唱えられる。』(申命記3:12-13)

民数記32章を見ると、ヨルダン川の東側の領土を下さい、と、モーセに願い出たのは、ルベン族とガド族からだった。
彼らの当初の願いは、「もし、あなたの恵みを得られますなら、どうぞこの地をしもべらの領地にして、われわれにヨルダンを渡らせないでください。」(民数記32:4)という、自己中心的なものだったが、モーセに咎められ、要望を変えた。
すなわち、自分達は相続地を先に受ける代わりに、他の部族が戦いに出る時は、一緒になって、それも、先頭に立って戦い、全部族が相続地を受ける時までは帰らない、と。(民数記32:16-19)

主からの幸いを、ある兄弟姉妹は先に、ある兄弟姉妹は後に与えられる事がある。
その時、先に与えられた兄弟姉妹は、そこに安住し、まだ与えられていない兄弟姉妹をないがしろにしてはならない。
ルベン・ガド族、マナセの半部族は、先に領地が与えられたが、モーセは、イスラエルの全部族が領地を勝ち取る時まで、彼らは共に戦わなくてはならない、と命じた。(申命記3:18-20)

これはキリスト者全員にも言える事である。
他の兄弟姉妹が皆、一致して信仰の戦いをしているのに、自分達が先に幸いを得たからと言って、戦いを降りて安住するのは、神の民のする事ではない。
なぜなら、主にある兄弟姉妹は皆、キリストの体の各器官であり、互いが互いを助け合い、いたわり合い、共に喜び、共に悲しみ、そうしてキリストにある「一つ」を実現するように、召されているからである。
『それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。』(1コリント12:25-27)
だから、もし他の兄弟姉妹より先に幸いを得たとするならば、まだ得ていない兄弟姉妹が得る時まで、一緒になって戦うべきである。

『マナセの子ヤイルは、アルゴブの全地方を取って、ゲシュルびとと、マアカびとの境にまで達し、自分の名にしたがって、バシャンをハボテ・ヤイルと名づけた。この名は今日にまでおよんでいる。)またわたしはマキルにはギレアデを与えた。』(申命記3:14-15)
民数記を見ると、当初、ヨルダン川の東側の領土を下さいとモーセに願い出たのは、ルベン族とガド族だけだったはずだが、途中からマナセの半部族も、それに加わっている。
もしかしたら、ルベン、ガドの申し出が通ったのを見て、「自分も」と進み出たのかもしれない。
しかも、マナセ族は積極的にエモリ人を攻撃し、勝ち得た土地に堂々と自分達の名をつけている。(民数記32:39-42)
このように、ある人が幸いを先取りして与えられたのを見て、信仰を奮い立たせ、積極的に進み出て大胆に勝ち取っていく兄弟姉妹もいるのだ。

またモーセは、次期イスラエルの指導者となるヨシュアに、特別に教えた。
『あなたの目はあなたがたの神、主がこのふたりの王に行われたすべてのことを見た。主はまたあなたが渡って行くもろもろの国にも、同じように行われるであろう。彼らを恐れてはならない。あなたがたの神、主があなたがたのために戦われるからである。』(申命記3:21-22)

ヨシュアは、主が戦われ、主が圧倒的に勝利を与えて下さるのを、モーセの近くでつぶさに見、神が活き活きと働かれるのを体験した。
そしてモーセ亡き後も、主は必ず同じように働かれ、共に戦って下さる、だから、恐れるな、とモーセは力づけた。

私達も、主からいただいた恵みを数えて見ると良い。
人生のあの時もこの時も、主があのように働いて下さった、だから今目の前に起きているこの問題も、必ず主と共に乗り越えて行ける、と、勇気が湧いてくるのだ。

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