メッセージ - 201311のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:永遠に名前が記される栄誉に与った娘たち(民数記27:1-11):右クリックで保存

『さて、ヨセフの子マナセの氏族のうちのヘペルの子、ゼロペハデ(ツェロフハデ)の娘たちが訴えてきた。ヘペルはギレアデの子、ギレアデはマキルの子、マキルはマナセの子である。その娘たちは名をマアラ、ノア、ホグラ、ミルカ、テルザといったが、彼らは会見の幕屋の入口でモーセと、祭司エレアザルと、つかさたちと全会衆との前に立って言った』(民数記27:1-2)

このゼロペハデの娘たちに関する出来事は、二十六章にも、三十三章にも記されている。
女の名が系図に記されるのは、通常の事ではなく、そのような場合は、必ず、主が特に我々に伝えたい事があるはずである。

彼女たちは、モーセや祭司、全会衆の前で、以下の事を主張した。
「わたしたちの父は荒野で死にました。彼は、コラの仲間となって主に逆らった者どもの仲間のうちには加わりませんでした。彼は自分の罪によって死んだのですが、男の子がありませんでした。男の子がないからといって、どうしてわたしたちの父の名がその氏族のうちから削られなければならないのでしょうか。わたしたちの父の兄弟と同じように、わたしたちにも所有地を与えてください。」(民数記27:3-4)
主はそれに対し、どう判断を下したか。
『主はモーセに言われた、「ゼロペハデの娘たちの言うことは正しい。あなたは必ず彼らの父の兄弟たちと同じように、彼らにも嗣業の所有地を与えなければならない。すなわち、その父の嗣業を彼らに渡さなければならない。』(民数記27:6-7)

主は、彼女たちの訴えを、もっともとされた。なぜなら、彼女たちの主張は、御言葉に叶っているからである。
主は、その土地が別の者の手に渡る事も、氏族の名がその土地から絶えることも、よしとしない。(申命記25:6)
主は、御言葉に叶った訴えは、正面から受け止めてくださる。

そして何より、彼女たちが「相続地」について訴え出た行いそのものが、彼女たちの立派な「信仰告白」であった。
一体どこが「信仰告白」なのか。

この事が起こった時期は、イスラエルがまだヨルダン川の東にいる時、自分達がこれから入っていこうとしている地には、父の代の者達がその前から逃げ出した、強力なカナン人が跋扈しているような状況であり、各部族への相続地の割り当てもまだ為される前、どんな相続地が与えられるのかも、また、果たしてカナン人に勝てるのかも分からない時期である。

そんな時なのに、彼女たちは、主が必ずこの土地に住んでいるカナン人を追い払って下さると信じ、イスラエルには多くの相続地が与えられる、と、主に期待している。
将来必ずそうなる、だからこそ今、自分達には男の兄弟がいないこの状況のままだと、自分達に与えられるはずの相続地は、他人のものとなってしまう。
それでは困る、と。
だから彼女たち五姉妹は、モーセと大祭司エルアザルと、全会衆の前に、勇気を絞って進み出て、訴えたのだ。
カレブと同じ信仰である。(ヨシュア14:6-15)

主は、彼女たちの訴えを取り上げて下さり、次の新しい戒めをも制定された。
『あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『もし人が死んで、男の子がない時は、その嗣業を娘に渡さなければならない。もしまた娘もない時は、その嗣業を兄弟に与えなければならない。もし兄弟もない時は、その嗣業を父の兄弟に与えなければならない。もしまた父に兄弟がない時は、その氏族のうちで彼に最も近い親族にその嗣業を与えて所有させなければならない』。主がモーセに命じられたようにイスラエルの人々は、これをおきての定めとしなければならない」。』(民数記27:8-11)

思えば、彼女たちのようなケースは、イスラエルの中には他にも多くあっただろう。
女の子が生まれる確率が1/2なら、五人子供がいる家庭のうち、五人全員が女の子である確率は、三十二家庭に一つある事になる。
イスラエルには、およそ六十万家庭あるので、その中で、子供には女の子しかいない家庭は、かなりの数あっただろう。
それでも、このツェロフハデと娘たちの名が、永遠の書物・聖書に記されたのは、彼女たちは信仰を持って進み出て、主に期待したからである。
裏を返せば、それだけ他の多くは、期待もせず、勇気をもって訴え出もしなかったのだ。

「主から頂けない」などと言って泣き寝入りしてはならない。
間違った「謙遜」に陥ってはならない。
主はどうせ聞いて下さらない、主は蒔かない所から刈り取りをなさる方だなどと、ねじ曲がった神観を持ってはならない。
期待しない事、ねじまがった神観を持つ事は、罪であり、主はそのような人の持っているものを取り上げ、信仰をもって進み出る人に与えられる。(マタイ25:14-30)

彼女たちは、親の世代の罪の故に、荒野での放浪に四十年間付き合わされるはめになってしまった。
同じように私達も、親や同僚、上司などの罪で、とばっちりを喰らってしまうことがあるが、それでも、信仰を持って進み出るなら、主は報いてくださる。

彼女たちの父は、特に何をしたとも記されていない。ただ、罪に死んだ、とだけ記されている。
しかし、彼の名が永遠の書物に記されたのは、その娘たちの信仰の故である。
私達も信じるなら、私達も、私達の家族も、救われるのである。(使徒16:31)

礼拝説教メッセージ音声:六十万中、わずか二人(民数記26:57-65):右クリックで保存

続いて、レビ人の氏族と祭司の家系についてである。
『レビの氏族は次のとおりである。すなわちリブニびとの氏族、ヘブロンびとの氏族、マヘリびとの氏族、ムシびとの氏族、コラびとの氏族であって、コハテからアムラムが生れた。アムラムの妻の名はヨケベデといって、レビの娘である。彼女はエジプトでレビに生れた者であるが、アムラムにとついで、アロンとモーセおよびその姉妹ミリアムを産んだ。アロンにはナダブ、アビウ、エレアザルおよびイタマルが生れた。ナダブとアビウは異火を主の前にささげた時に死んだ。』(民数記26:58-61)
ここには、大祭司アロンの家系が記されており、その中には、主に滅ぼされてしまった人達もいる。
いかに大祭司の息子と言えども、主の御言葉をないがしろにし、自分の判断に従って歩むなら、滅ぼされてしまうのだ。

『その数えられた一か月以上のすべての男子は二万三千人であった。』(民数記26:62)
レビ人は、第一回目の人口調査では22,000人だったのが、今回は23,000人。1000人の増加である。

『彼らはイスラエルの人々のうちに嗣業を与えられなかったため、イスラエルの人々のうちに数えられなかった者である。』(民数記26:62)
レビ人は主のものとされた故、他の部族のように、イスラエルの人々としては数えられず、軍務につく者としても登録されず、相続地の分与が無い。(民数記1:49)
彼らには、イスラエルの神・主ご自身が、相続そのものであり、聖所の奉仕という霊的軍務に就く者達であり、永遠の塩の契約により、一般の民からの十分の一が、彼らの受ける分として定められている。(民数記18:19-20)

またレビ人は、他の部族のように、20歳以上が登録されるのではなく、生後一ヶ月から主の働き人として登録される。
つまり、母の胸に抱かれている時から、主の奉仕者として数えられ、教育されるのだ。

『これらはモーセと祭司エレアザルが、エリコに近いヨルダンのほとりにあるモアブの平野で数えたイスラエルの人々の数である。
ただしそのうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエルの人々を数えた時に数えられた者はひとりもなかった。それは主がかつて彼らについて「彼らは必ず荒野で死ぬであろう」と言われたからである。それで彼らのうちエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほか、ひとりも残った者はなかった。』(民数記26:63-65)
38年前の、第一回目の人口調査の時の、六十万以上のあの人々は、二名を残して全員が死に絶え、第二回目の人口調査も経験したのは、カレブとヨシュアだけだった。
この事は、信仰によって歩まない者、不信仰の者は、決して約束の地を相続できない事を示唆している。

一方で、60万以上の民が、不信仰で「エジプトへ帰ろう」と言い、他方、わずか二人が、信仰をもって「約束の地へ行こう」と言うなら、主は六十万は捨て、信仰ある二人を取られるのである。
人間の多数決の原理では、六十万を取るだろう。しかし真実であられる主は、不信仰の六十万よりも、信仰ある二人の方が価値が高いのだ。

主が「約束の地へ行け」と言っているのであれば、シンプルに「行く」べきであり、それに逆らったのが、いかに、神の民イスラエル60万以上であったとしても、大祭司であっても、例外なく荒野で屍を晒してしまうのである。
主の約束は峻厳であり、御声に逆らい、御言葉に逆らう者には、厳然たる「災い」しか無いのだ。

『肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。』(ガラテヤ5:19-21)
肉にあって歩む者は、決して、神の国を相続できない。
ただ、信仰によって歩む人のみが、神の国に入れるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:永遠のマンションに入居するための査定(民数記26:1-56):右クリックで保存

民数記はその名前の通り、民の数を数える場面から始まっており、その第一回目の人口調査は、戦争に出る事の出来る20歳以上の男子を登録し、荒野を進み行く上で、秩序正しく宿営したり、行進したりするための、事前調査の意味合いも濃かった。
そして、荒野での日々も40年を経、あと少しで約束の地に入ろうとしているこの時、主は、第二回目の人口調査を命じている。
『疫病の後、主はモーセと祭司アロンの子エレアザルとに言われた、「イスラエルの人々の全会衆の総数をその父祖の家にしたがって調べ、イスラエルにおいて、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者を数えなさい」。』(民数記26:1-2)

主がこの時、再び民の数を数えるよう命じられた事の目的が、52節以降に記されている。
『これらの人々に、その名の数にしたがって地を分け与え、嗣業とさせなさい。大きい部族には多くの嗣業を与え、小さい部族には少しの嗣業を与えなさい。すなわち数えられた数にしたがって、おのおのの部族にその嗣業を与えなければならない。ただし地は、くじをもって分け、その父祖の部族の名にしたがって、それを継がなければならない。すなわち、くじをもってその嗣業を大きいものと、小さいものとに分けなければならない。』(民数記26:53-56)
つまり、これから勝ち取って行くべきカナンの広大な土地を、各部族に割り当てる際、数の多い部族は多く、数の少ない部族は少なく割り当てるための、事前調査と言える。

この時に相続地として定められた境界線は、後代もずっと変えてはならない事を、主は定められた。(申命記19:14、27:17、箴言22:28、23:10)
つまり、イスラエル12部族がそれぞれ受け継ぐ土地の広さは、この時点の人口の数によって、永遠に決定づけらる事になる。
同じように、今、私達が生きている「人生」という荒野の歩みは、天における永遠の相続を決定づけるための、査定期間のようなものである。

クリスチャンの中に、ひと度イエス様を信じたなら、全ては赦されるのだから、何やっても天国行きだ、だから何をしても良い、と、思い違いをしている人がいるが、聖書には次の御言葉もある事を、忘れてはならない。
『わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。』(2コリント5:10)

イエス様を信じる人は、確かに天国に行く。
しかし、天において頂ける相続には、個人差があり、それは地上で為した行いに拠りけりだという事は、確かである。
言ってみれば、天にはキリスト者が永遠に住まうマンションが相続地として用意されており、どのくらい良いグレードのマンションに住まう事が出来るのかは、この地上での人生という査定期間にかかっているのである。

荒野での40年で、増えた部族もあれば、減った部族もある。
ユダ族は、最初の調査と後の調査の両方において、トップの数字を誇り、ユダ族が主に喜ばれる生活をして来た氏族である事が分かる。
彼らは良い土地を相続し、後には王達が生まれ出て、さらには、全人類の救い主、イエス・キリストの家系を生み出す栄誉にあずかった。

増加率が最も多かった民族は、マナセ族で、32,200人から52,700人に増えており、増加率はプラス64%である。
ちなみに、同じヨセフから生まれたマナセの弟の部族・エフライム族は、荒野の生活のはじめよりも減少している。
エフライムのほうがヤコブから祝福を多く受けたというのに(創世記48章)、減少しているのは、エフライムが祝福に値しない事を続けてきたからだろう。(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1144 )

そして、減少率が最も顕著だったのが、シメオン族である。
59,300人だったのが、22,200人になっており、マイナス63%である。
これは、前回の箇所の、あのコズビ事件の故であろう。
あの事件は、査定終了の直前に大きな不正事件を起こしてしまって、査定点数が一気に下がってしまったようなもので、私達の人生の歩みでも、それまで順調に主に喜ばれる信仰生活を送っていたのに、人生の終わりになって傲慢になり、それまで積み上げて来た良き評価が、一気に崩れてしまう、というような事がありうるのである。
親が子を祝福したり、牧師が信徒を祝福したりする事は、確かに大事ではある。しかし結局のところ、その人が本当に祝福されるかどうかは、その人本人がどのような信仰の歩みをし、どのような行いを積み重ねて行くかに、かかっているのだ。

そしてまた、約束の地に入れず、途中で脱落した人も多数いる事も忘れてはならない。
実に多くの人たちが、荒野に屍となって、置いてけぼりにされた。
これらの事は全て、私達に対する教訓である。

『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。』(1コリント10:1-12)

礼拝説教メッセージ音声:誘惑者は決して放置してはならない(民数記25:14-18):右クリックで保存

『ミデアンの女と共に殺されたイスラエルの人の名はジムリといい、サルの子で、シメオンびとのうちの一族のつかさであった。またその殺されたミデアンの女の名はコズビといい、ツルの娘であった。ツルはミデアンの民の一族のかしらであった。』(民数記25:14-15)

一族のつかさたる者が、主に忌み嫌われる事を率先して行っており、しかも、相手の女性は、ミデアン人のかしらの娘であるという。
イスラエル12部族のひとつ、シメオンの長の家と、イスラエルに敵対するミデアンの長の家とが、互いに縁を結ぶ。これは、実に由々しき事である。

彼れは堂々とミデヤンの女を連れてきた事ため、もしかしたら、この縁結びは内々で行われたのではなく、配下にいる多くの人達の合意もあったのかもしれない。
シメオン人は、その長たる者の為す事に習い、主に忌み嫌われるみだらな事を一族合同で行いはじめていたのかもしれない。
というのは、次章では第二回目の人口調査が行われるのだが、シメオン人は、イスラエル12部族中、減少率が最も激しかったのだ。
エジプトを出たばかりの第一回目の人口調査の時に、シメオン族は59,300人だったのに、荒野での生活をまさに終えようとしているこの時は、22,200人に減っている。
荒野での生活の最初と最後で、3,7100人の減少、減少率は、およそマイナス63%である。
もしかしたら、「トップがやっているし、みんなもやっているから」と、不品行がはびこり、それで多くの人達が主に打たれたのかもしれない。

トップの人や、身内の人が犯す罪は、大目に見てしまったり、見て見ぬ振りをしてしまいがちである。
しかし主は、それを許さない。
レビ記20章によると、ある人が子供をモレクにささげたのを目撃した時、あえてその事を黙認し、大目に見るのであれば、主ご自身が、その人とその家族とに顔をそむけ、彼および彼に見倣ってモレクを慕い姦淫する者を全て民のうちから断つ、と、主は宣言している。(レビ記20:4-5)
見て見ぬ振りは、いけないのだ。それによってますます不品行がはびこるからである。

異邦人との結婚を、民のつかさが率先して行う。それは深刻な罪である。
今回のコズビの事件では二万四千人が倒れたし、あの人類で最も知恵を得た王、ソロモンでさえ、異邦の女達との結婚によって、ついには公然とモレク礼拝をするようになり、それが引き金となってイスラエルは二つに分裂し、後々には亡国の憂き目に遭ってしまったし、また、ピネハスの子孫エズラも、民が異邦の女達と結婚し、しかも民の長たる者達が率先してそれを行っている事を聞いた時、色を失い、ショックのあまり夕方まで呆然として何も出来ない程だった。
多くの人を、誤った方向へと導いてしまう可能性がある故に、師たる者は、格別厳しいさばきを受けるのだ。(ヤコブ3:1)

『主はまたモーセに言われた、「ミデアンびとを打ち悩ましなさい。彼らはたくらみをもって、あなたがたを悩まし、ペオルの事と、彼らの姉妹、ミデアンのつかさの娘コズビ、すなわちペオルの事により、疫病の起った日に殺された女の事とによって、あなたがたを惑わしたからである」。』(民数記25:16-18)
誘惑者は、決して、そのまま野放しにしてはならない。
主は、主を信じる小さい者のひとりにでも、つまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましだと言っている(マタイ18:6)し、黙示録においても、多くの人々を惑わした大淫婦には、二倍にして報復し、彼女のしわざに従って災いの杯を倍にして入れよ、と言っている。(黙示録18:4-8)

人を誘惑し、人類全体を堕落へと導いたサタンを、主は決して赦されなかった。
同じように、誘惑さえ無ければ滅びとは無縁のような人を、あえて誘惑して滅びと導くような者は、決して赦してはならないのだ。
「彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。」(黙示録14:11)

礼拝説教メッセージ音声:祭司ピネハスの性質(民数記25:6-13):右クリックで保存

今回、イスラエルが異邦の女達とみだらなことし、偶像崇拝に走ったために、2万4千人が神罰(疫病とも訳せる)によって倒れた。
イスラエル全男子の、およそ25人に一人が倒れた事になる。
なぜこの恐ろしい出来事が聖書に記されているか。
それは、現代を生きる私達への警告のためである。
『また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。・・・これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。』(1コリント10:8-11)

神様は寛大なお方だから、時代の流れに習って、性にみだらになったり、一緒に偶像を拝んだりしても許される、と思っているクリスチャンもいるが、そうだとしたら、この民数記の出来事や第一コリントの記述は、一体何のために記されているのだろう。
この事は当然、現代の私達にも関係があり、そのような事をしたら主に忌み嫌われ、災いに遭うからこそ、警告のために私達に向けて記されているのではないか。

『モーセとイスラエルの人々の全会衆とが会見の幕屋の入口で泣いていた時、彼らの目の前で、ひとりのイスラエルびとが、その兄弟たちの中に、ひとりのミデアンの女を連れてきた。』(民数記25:6)

言ってみれば、悔い改めの祈りの集会で、皆が真剣に罪を告白し祈り、主に立ち返ろうとしている最中、突然スマートフォンを出し、堂々と淫らな動画を再生しだした者が現れたようなものだろうか。
聖なる集会中に、そのような不遜な者が現れたなら、「クリスチャンならニコニコ黙って耐えている」場合ではない。
ピネハスが、祭司として手本となる行動を取っている。

『祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスはこれを見て、会衆のうちから立ち上がり、やりを手に執り、そのイスラエルの人の後を追って、奥の間に入り、そのイスラエルの人を突き、またその女の腹を突き通して、ふたりを殺した。こうして疫病がイスラエルの人々に及ぶのがやんだ。』(民数記25:7-8)

礼拝中に敢えて不快な言動をして、皆の心を御言葉から逸らすような者や、兄弟姉妹の聖なる集いに、敢えて汚れを持ち込むような者たちによって、礼拝されるべきお方が侮られ、聖徒達の礼拝への意欲が汚され、そうして、主の怒りが燃え上がるのだ。
そのような時、私達もピネハスのように毅然と立ち上がり、「御言葉の剣」によってその者を刺し貫き、聖なる場から排除し、主の怒りをなだめるべきである。

祭司というと、どちらかと言うと、力を使わず、祈り、なだめる、平和な系統の人を思い浮かべるかもしれないが、時には、御言葉の剣を取り、神の怒りを引き起こす根源を抹殺するべき時もあるのだ。
レビ人が祭司の一族となった最初の成り立ちを思い出して欲しい。
あの金の子牛事件の時、血肉に逆らってでも、主に従い通したからだった。(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1361 )

この出来事の故に、主は、ピネハスに永遠の祭司職の契約をされた。
『「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。このゆえにあなたは言いなさい、『わたしは平和の契約を彼に授ける。これは彼とその後の子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であって、イスラエルの人々のために罪のあがないをしたからである』と」。』(民数記25:11-13)

ピネハスの子孫には、バビロン捕囚の後にイスラエルを霊的に立て直した祭司・エズラがいる。
彼も、イスラエルの中で異邦人と結婚した者達が現れた時には、ピネハスのように、毅然とした態度でつまづきとなる者を除き去った。

ピネハスやエズラ、レビ人のした事を見ると、ちょっとやり過ぎなのでは、と思うかもしれない。
しかし、御言葉を私達の常識に服従させるべきでなく、私達の思いを御言葉に服従させるべきであり、キリスト者である私達の内に入り込んでこようとする誘惑の芽には、それだけ、毅然とした態度で望まなくてはならない、という事なのだ。
『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を”殺して”しまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)

栄光の家系の女達 – ウリヤの妻3 あなたがその人です。(2サムエル記12:1-14)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

『主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった・・・。』(2サムエル12:1)
この話中の、富んだ人はダビデを、貧しい人は、ダビデによって謀殺されたヘテ人ウリヤを、よく表している。
ウリヤは元々、滅ぼされるべきカナンのヘテ人であったのに、まことの神・主を慕い求め、イスラエルの民に加えられ、その純粋な信仰と誠実な人柄の故に、そして、戦士としての有能さの故に、ダビデの三十勇士の一人に数えられ、同じ三十勇士の一人エリアムの娘、バテ・シェバという美しい妻も与えられた。
以前は暗闇の民であったのに、今は神の民とされ、与えられた恵みの日々に喜びつつ、与えられた妻と共に食べ、共に寝ていた。そうして、主と、主が立てられた権威とに忠実に仕える幸いな日々を送っていた。
しかし、その幸いな日々は、ある日突然、ダビデ王によって奪われてしまった。
ダビデはその事を隠れて行ったが、覆われているもので、露わにされないものは無い。(ルカ12:2-3)

ダビデはナタンの話を聞いて、話中の貧しい者の一頭の雌羊を取った金持ちに激しく怒り、そのような憐れみの無い者は死ぬべきだ、なおかつ、四倍にして償いをしなくてはならない、と宣告した。
確かに律法には、羊一頭を盗んだ場合は四倍にして償うべき事が記されているが、死刑とは書いていない(出エジプト記22:1)。ダビデは、この喩えが自分に向けて語られた事に気付いていなかったが、それ程に人は、自分がした事、神と人とに犯してきた罪を覚えておらず、それでいて、他人の犯した罪をよく覚えていて、その裁きを厳しくし、そうして自分自身を罪に定めてしまうのだ。(ローマ2:1)
『ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。」』(2サムエル12:7)
自分が犯した罪を明確に指摘されたダビデは、王権を乱用して闇に葬り去ろうとする事なく素直に認めた。
「私は主に罪をおかしました。」 ダビデはこの素直でシンプルな罪の告白によって、死を免れたが、この言葉にさらに色々な付け足しをして、逆に罪を増し加えた人も、多い。言葉数の多い所には罪がある。
サウルの場合は、私は主に罪をおかしました、だから私を赦して、一緒に来て礼拝を捧げささせて下さい、と、サムエルに頼んだ。それは、彼の体面を保つためだった。(1サムエル15章)
エジプトのパロも、自分は主に罪を犯した、と言ったが、すぐ後に、だからこの苦しみを取ってくれ、自分のために祝福を祈ってくれ、と続けた。でも彼は、苦しみが取り除けられたら、すぐまた心頑なにしてしまった。
私達が「自分は罪を犯した」と言う場合、どれ程の当事者意識があるだろうか。インスタントに苦しみから脱却したいから口先で言っているだけではなかろうか。もう、その罪を犯さない覚悟は、あるだろうか。
「あなたがその人です。」という言葉を聞いた時、どれ程純粋に、そのまま受け取れるだろうか。
ダビデは、ナタンに罪を指摘された時、詩篇51篇を記したが、そこで彼は、自分の罪は母の胎にいる時から本質的に存在しており、ただ、主に清めていただく事が必要だと告白し祈っている。(詩篇51:5-9)
「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(16-17節)
サウル王は、自分は罪を犯した、だから礼拝だ、いけにえだ、と言って聞かなかったが、ダビデの場合、たとえ主に捧げても、今の自分の罪ある状態では、決して受け取られない事を、わきまえていた。
自分の罪を悲しみ、悔い、もうそこには戻らないという決心を含んだ、砕かれた心を、主は受け取られる。
そうして主が赦して下さる時、私達ははじめて真に礼拝を捧げられ、主はそれを受け取って下さるのだ。

確かにダビデの罪は、主の御前に赦された。しかし、行動の結果は、必ず刈り取らなければならない。
ナタンを通して主が語られた通り、この姦淫の結果生まれた子供は死に、後には、ダビデのそばめ10人は彼の子アブシャロムによって白昼堂々と寝取られ、ダビデの家から剣が離れないと言われた通りに、ヘブロンで生まれた3人の子は剣で殺された。そしてダビデは、それらに逆らわず、甘んじて受けた。
自分の罪の故に、主からの懲らしめを受ける時、それは確かに辛い経験ではあるが、罪を隠している時よりは、心は安らかである。彼は罪を隠している時の、骨身にしみる渇きと疲れを、そして、罪を告白して主に赦していただいた時の幸いと喜びを、詩篇32篇に記している。
罪があればすぐに主に告白し、いつも御前に心安らかでいる皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の特別待遇を一身に受ける教会(使徒12章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主が受けられた荒野での試み(マタイ4:1-11):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
永遠の安息に入る人と永遠に御怒りを受ける人(黙示録14:6-13):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:誘惑には勝とうと思うな、逃げよ(民数記25:1-5):右クリックで保存

前回の所では、イスラエルの敵モアブが、大金を積んで有力な”預言者”バラムを雇って呪わせようとしたが、決して呪う事は出来なかった。
サタンの側が、いかに神の民を霊的に攻撃しようとしても、神の許し無しには、決して手出しできないのである。
私達キリスト者も、キリストにある限りは、100%安全な城の中で匿われているようなもので、世の何者も手を出す事は出来ないのだ。
それ故、敵は、別の戦法に出て来る。

『イスラエルはシッテムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらな事をし始めた。その娘たちが神々に犠牲をささげる時に民を招くと、民は一緒にそれを食べ、娘たちの神々を拝んだ。』(民数記25:1-2)

敵は、難攻不落の城を直接攻撃する戦法でなく、城中の人の心を惑わし、城主と僕とをたがいに仲違いさせるような戦法を取ってくる。
すなわちサタンが取る戦法は、人を誘惑し、堕落させ、神の怒りを引き起こさせ、神が人を滅ぼすように仕向けるものである。
サタンのこの戦法は、人類初めの人・アダムの時からずっと用いて来たものである。

『イスラエルはこうしてペオルのバアルにつきしたがったので、主はイスラエルにむかって怒りを発せられた。』(民数記25:3)
ここの「つきしたがった」は、ヘブライ語ではツァーマド、すなわち「くびきを共にする」事であり、イスラエルの民は、ペオルのバアルという異教の神と「くびき」を共にしたのである。

くびきとは、二頭の動物を一つにつなぎ、二頭分の力を得る農具であるが、ようするに、イスラエルの民が、偶像の神とくびきを共にし、一つとなったのである。
偶像崇拝と、姦淫の罪とは、イコールである。
男と女が交われば、一つ肉となるように、偶像崇拝も、悪霊と一つに交わる行為だからである。(1コリント10:20)
病気持ちの者と一つとなったら、自分もその病気を身に負ってしまうように、主に滅ぼされるべき異教の神と一つとなるなら、主の怒りと滅びをその身に負ってしまう。

パウロは、偶像崇拝と不品行に満ちた都市・コリントの信徒達に言っている。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。』(2コリント6:14-16)

私達はどのようにして、このような姦淫の罪から身を守れば良いだろうか?
パウロは、続けて勧めている。
『だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(同17-18節)

ようするに、誘惑になるような人や物を、自分から遠ざける事、あるいは、自ら遠ざかる事。
それが、姦淫や偶像崇拝から身を守るベストな方法である。
ヨセフは、ポティファルの妻が性的誘惑を仕掛けて来た時、そんな言葉は聞き入れず、一緒にいる事もしなかった。
二人きりの時に強引に迫ってきたら、ヨセフは上着を捨てて逃げた。そのように、逃げるが勝ちである。(創世記39章)

人は、外的な攻撃にはよく抵抗できるものだが、気持ち良くさせる誘惑に対しては、弱いものであり、誘惑に身を晒してギリギリ一線を超えない程度に楽しむ人は、敗北のパターンに陥っている。
たばこや酒、ドラッグなどにはまってしまった人は、皆、そうだった。
だから、誘惑するものには近づかない事。それが最善である。

女性で失敗したソロモンも、言っている。
『遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。その足は死に下り、その歩みは陰府(よみ)の道におもむく。彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。』(箴言5:3-6)
姦淫の誘惑は、蜜のように甘く、それはどんな勇者でも簡単に陰府に送り込んでしまう諸刃の剣であり、その最後は、苦よもぎのように苦い。
サムソンは、ペリシテの屈強な男たち千人がかりでも屈服させられなかったのに、たった一人の女によって、いとも簡単に屈服させられ、苦々しい最後を遂げてしまった。

『子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。』(同7-8節)
誘惑への対処方法は、旧約も新約も全く一緒である。すなわち、近づかない、自ら離れる、それに尽きる。

『おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。』(同9-10節)
人生が80年だとしたら、伴侶と共に過ごす事のほうが、圧倒的に長い。
伴侶選びで失敗してしまうとしたら、人生の大部分を「無慈悲な者」に渡す事となってしまい、長年築き上げていく資産を、労苦の実を、他人の家に渡してしまうのだ。
サムソンは、妻の昼夜となく言い寄ってくる声に、死ぬほど辛い思いをして、尊厳を残虐な者へと渡してしまった。

『そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。』(同11-14節)
誘惑に陥っている人、姦淫の罪を隠している人は、神の会衆の中において、破滅に陥っている。
叱責を聞かず、教訓を聞かずに誘惑の穴に陥り、そこから這い上がれなくなって後悔しても、先立たずなのだ。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
Twitter
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2016/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

天声モバイルサイト!

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2019 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest