メッセージ - 201311のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
幸いな人(マタイ5:1-12):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
火の混じったガラスの海(黙示録15章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:第七月の祭り(民数記29:1-40):右クリックで保存

29章は、第7月(チスリの月、天地創造を期限とした新年)に行われる祭りにおいて、主に捧げる捧げ物の指示である。

『七月には、その月の第一日に聖会を開かなければならない。なんの労役をもしてはならない。これはあなたがたがラッパを吹く日である。』(民数記29:1)
7月第一日、元旦に当たる日は、ラッパの祭りの日である。
この日は、若い雄牛を1、雄羊を1、一歳の雄の傷のない小羊を7の割合で捧げるように示されている。
また、新月祭の時と同様に、雄牛一頭につき小麦粉6.9リットルを、雄羊一頭につき小麦粉4.6リットルを、小羊一頭につき小麦粉2.3リットルを添えて捧げるように、また、他にも罪祭として雄やぎ一頭をささげるようにと、命じられている。

『またその七月の十日に聖会を開き、かつあなたがたの身を悩まさなければならない。なんの仕事もしてはならない。』(民数記29:7)
七月の十日は、大贖罪日であり、年に一度、大祭司が血を携えて至聖所に入ってイスラエル全体の罪の贖いをする日である。
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1471

この日もまた、ラッパの祭りの日と同様に、若い雄牛、雄羊、一歳の雄の傷のない小羊を、それぞれ、1,1,7の数で捧げ、それぞれに添えて捧げる小麦粉の分量も同じであり、罪祭も同様に雄やぎ一頭をささげるよう命じられている。

『七月の十五日に聖会を開かなければならない。なんの労役もしてはならない。七日のあいだ主のために祭をしなければならない。』(民数記29:12)
この七日間は「仮庵祭」と呼ばれる祭りで、祭りの期間、仮小屋(仮庵)を建て、ぶどうやいちじくなど秋の収穫を飾ってそこに住み、主からいただいた収穫を感謝して喜ぶ祭りである。
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1513

この祭の期間は、一年で最も盛大にいけにえが捧げられる時である。
まず、祭りの第一日目は、若い雄牛が13,雄羊が2、一歳の雄の傷のない小羊が14も捧げられ、それに添えられるものも同じ分量で捧げられ、また、罪祭も同様にささげられる。
第二日目は、若い雄牛、雄羊、一歳の雄の傷のない小羊は、それぞれ、12,2,14の割合で捧げられる。つまり、前日と比べて雄牛が一頭減るだけで、あとは第一日目と全く同じである。
第三、第四日と日を追うごとに、雄牛の数だけは一頭ずつ減っていくものの、他のいけにえは全く同じ分量が捧げられ、それが第七日目まで続く。
つまり、仮庵祭の全期間を通じて捧げられる動物の合計は、雄牛は七十頭、小羊は九十八頭、雄羊十四頭、雄やぎは七頭、かなりの分量である。

この祭りは、最も盛大で喜びの祭りのはずである。
仮小屋を作って、その中をあらゆる果物や地の産物で飾り、その香りを嗅ぎながら、主に感謝を捧げつつ、兄弟姉妹たちと小屋の中で過ごす。
聞いているだけでも、わくわくしそうな祭りである。
しかしどういうわけか、この祭りは、ヨシュアの時代からバビロン捕囚後までの長い間、ずっと疎かにされていたようである。(ネヘミヤ記8:13-18)

人が神から離れる時は、主へ捧げ物を惜しんで、真っ先に切ってしまうのかもしれない。
しかし、人が喜んで捧げるのであれば、主は喜びと祝福を大いに増し加え、押入れ揺すり入れして与えて下さるのである。

主はなぜ、28-29章にわたって、事細かく捧げ物の指示をされたか。それは、祝福を受けるための法則は、主に捧げる事がまず先にあるからだ。
人が主に為すべきは、まず「捧げる事」で、そうするなら、主の側から祝福をいただく。この神と人との双方向のコミュニケーションこそ、永遠に続く礼拝である。

礼拝説教メッセージ音声:祭りの実体であるキリスト(民数記28:11-31):右クリックで保存

11-15節は、新月ごとに行われる「新月祭」において、主に捧げるべきものが定められている。

新月祭で、全焼のいけにえとして捧げられる動物は、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の傷の無い小羊七頭である。
それに添え、雄牛一頭につき、小麦粉6.9リットルに油を混ぜたものを、雄羊一頭につき、小麦粉4.6リットルに油を混ぜたものを、小羊一頭につき、小麦粉2.3リットルに油を混ぜたものを素祭として一緒に捧げるように命じられている。
また、注ぎの捧げ物として、ぶどう酒を、雄牛一頭にき1.9リットル、雄羊一頭につき1.3リットル、小羊一頭につき0.95リットルを、ささげなければならない。
その他に、罪祭として、雄やぎ一頭を主にささげなければならない。

ここで添えて捧げられる小麦粉も、ぶどう酒も、結構な分量である。
荒野を旅する民には、畑は無いので、当時のそれらは、貴重なものであるが、主は、乳と蜜の流れる約束の地において、それらを十分に与えて余らせるお方である。
主は、喜んで捧げる人には、さらに押入れ、揺すり入れして多くを与えて下さるお方だ。

16-25節は「過越祭」と、それに続く七日間の「種を入れないパンの祭り」にて捧げるべきものが定められている。
既に習った通り、過越祭は、正月14日の夕に子羊をほふり、その血を家の鴨居と門柱に塗り、夜、それを食して、主がイスラエルの民をエジプトから贖い出して下さった事を記念する祭りであるが、この祭りはまさしく、キリストを表し、サタンから私達を贖い出すために、ほふられた小羊となって血を流し、その血によって私達は滅びを免れた事を予表している。
この祭りの間は、毎日、新月祭と同じいけにえと添え物が捧げられる事になる。

26-31節は「初穂の日」すなわち「七週の祭り」にて捧げるべきものが、定められている。
初穂の日は、種を入れないパンの祭りの安息日から50日目の日であり、それはすなわちペンテコステの日、イエスの弟子たちが聖霊に満たされ、主に捧げられる者の初穂として公に示された日である。
この日も、新月祭や過越祭の時と同じいけにえと添え物が捧げられる。

これら祭りで捧げられる動物も、添えられるものも、そして、これらの祭り自体も、全てはイエス・キリストのご性質を表している。
旧約の全ての事は、イエス・キリストをあらわしており、旧約の実体であるキリストがあらわれた今、私達にはそのような動物を捧げる礼拝は、もはや無用である。

パウロは、日ごと月ごと年ごとの例祭を守ろうとしているガラテヤの人たちに警告している。(ガラテヤ4:8-11)
キリストを知り、キリストに救われておきながら、それでなお例祭などの「律法」によって義に至ろうとする行為は、ナンセンスだ、と。
『それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。』(ガラテヤ3:19)

律法とは、人には「罪」という違反がある事を示すためのものだと、書いてある。
だから、私達にはまことの犠牲が必要であり、まことの贖いが必要である事を渇望するようになり、そうして人は、救い主へと導かれるのである。
『このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。』(ガラテヤ3:24-26)

律法の実体であり、まことのいけにえとして、ただ一度完全な贖いをして下さったキリストが現れた以上、もはや、私達は律法という養育係の下にいる必要は無く、日ごと、月ごとのいけにえは不要となった。
『あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。』(コロサイ2:16-17)
だから私達は、感謝して、日ごと、月ごと、年ごとに、キリストを覚え、キリストに感謝しつつ、世にある日々を送って行くのである。

礼拝説教メッセージ音声:朝ごとに、夕ごとに(民数記28:1-10):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に命じて言いなさい、『あなたがたは香ばしいかおりとしてわたしにささげる火祭、すなわち、わたしの供え物、わたしの食物を定めの時にわたしにささげることを怠ってはならない』。』(民数記28:1-2)
後に続く28-29章は、主への日ごと、週ごと、月ごと、年ごとの捧げ物の指示である。
その内容はほぼ、出エジプト記やレビ記で記されている通りだが、主はここで特に「定められた時に」「忠実に」捧げるべき事を強調している。

主がイスラエルの民を、約束の地へと入らせるのは、ただ、一つの民族を祝福し、そこで安穏と、のんべんだらりと過ごさせるためではなく、「礼拝を中心とした日々」を送らせるためである。
礼拝とは、人の側が為すべきは「捧げる事」で、そうして神の側から、御言葉のいのちと祝福をいただくという、神と人との双方向のコミュニケーションである。

そして、礼拝には捧げるべき「時」があり、その「時」とは、私達の「時」ではなく神の「時」である。
また、礼拝を捧げる際には「忠実に(新共同訳)」「気をつけて(新改訳)」捧げるべきだと、2節で示されている。
例えば、主日礼拝に参加できるように、私達の側が仕事の都合を調整する等、私達の側が「気をつけて」神の側に合わせ、神に「忠実さ」を示すのだ。

礼拝を捧げるべき「神の時」は「毎日」、それも、朝ごと、夕ごとである。
『また彼らに言いなさい、『あなたがたが主にささぐべき火祭はこれである。すなわち一歳の雄の全き小羊二頭を毎日ささげて常燔祭としなければならない。すなわち一頭の小羊を朝にささげ、一頭の小羊を夕にささげなければならない。また麦粉一エパの十分の一に、砕いて取った油一ヒンの四分の一を混ぜて素祭としなければならない。』(民数記28:3-5)

捧げ物として用いられるのは、一歳の雄の傷のない小羊であり、それに添えて、小麦に油を混ぜたものと、強い酒(出エジプト記29章によると、ぶどう酒)とを捧げる。
一歳の雄の傷のない小羊は、ほふられた小羊キリストを、また、添えて捧げられる小麦粉とぶどう酒は、キリストの裂かれた体なるパンと、キリストの流された血を、思い起こさせる。

キリストはただ一度、永遠の贖いを成し遂げられた。
それ故、私達には旧約の礼拝、動物を屠って祭壇に捧げるような礼拝は不要であるが、キリストにあって、そのような特権に預からせて頂いたからには、私達もまた、朝ごとに、夕ごとに、ほふられたキリストを思い起こすべきであり、自分自身をきよい生きた供え物として、日々神に捧げるべきである。

『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。』(ローマ12:1-2)

礼拝を捧げる際の、私達の側の責任は、まず、積極的な意志を用いて、この世から離れ、思いを「自分中心」から「神中心」に切り替え、神に思いを向ける事である。
そうするなら、神は御力を働かせ、私達を造り変えて下さる。(新改訳では、自分を「変えなさい」とあるが、正確には、自分を「変えていただきなさい」)

この、日ごと捧げる命令は、出エジプト記29章で既に命じられており、朝ごと夕ごとに捧げる事によって、以下の恩恵が約束されている。
『これはあなたがたが代々会見の幕屋の入口で、主の前に絶やすことなく、ささぐべき燔祭である。わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。また、その所でわたしはイスラエルの人々に会うであろう。幕屋はわたしの栄光によって聖別されるであろう。わたしは会見の幕屋と祭壇とを聖別するであろう。またアロンとその子たちを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるであろう。わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。』(出エジプト記29:42-45)

日ごと、絶やすことなく主に捧げるのであれば、主は、その所で会って下さり、語って下さり、その所を聖別して下さる。
天地を創られ、今私達を守り導いておられる主ご自身が、語って下さる言葉を聞く事。会って下さる事。私達を聖別して下さる事。
それは、何にもまさるプレゼントである。

主はこれを、代々にわたって絶やすことなく、捧げるべきものとして定められた。(同42節)
だから、現代の私達も、朝ごと夕ごとに、ほふられた小羊キリストを覚え、自分自身を生きた供えものとして捧げるべきであり、そうするなら、約束しておられる通りに、主は私達に会って下さり、語りかけ、聖別して下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:ヨシュアの任命(民数記27:12-23):右クリックで保存

主は、モーセのその役割がいよいよ終わりに近づいた事を示された。

『主はモーセに言われた、「このアバリムの山に登って、わたしがイスラエルの人々に与える地を見なさい。あなたはそれを見てから、兄弟アロンのようにその民に加えられるであろう。』(民数記27:12-13)
40年間、ずっとイスラエルの民を約束の地へと導いて来たモーセとしては、色々と複雑な心境であったろう。
やるせない思いもあったかもしれない。
しかし彼は、この期に及んで「どうか自分も約束の地に入れせて下さい」とか「あと10年生きさせて下さい」など、自分の事は一切願わず、このイスラエル60万以上を、牧者のいない羊のように、路頭に迷うようにはさせないで下さい、と、ただイスラエルのために主に求めた。
『モーセは主に言った、「すべての肉なるものの命の神、主よ、どうぞ、この会衆の上にひとりの人を立て、彼らの前に出入りし、彼らを導き出し、彼らを導き入れる者とし、主の会衆を牧者のない羊のようにしないでください」。』(民数記27:15)

『主はモーセに言われた、「神の霊のやどっているヌンの子ヨシュアを選び、あなたの手をその上におき、彼を祭司エレアザルと全会衆の前に立たせて、彼らの前で職に任じなさい。』(民数記27:18)
主は、ヌンの子ヨシュアを「神の霊のやどっている」者と呼び、モーセに代わる指導者として指名された。

主が、モーセひとりに重荷を負わせぬようにと、70人の長老に霊を与えられた時(民数記11章)、ヨシュアにはその時与えられなかった。
しかし彼はずっとモーセの従者として、誰よりも忠実に仕えて来た。
そして彼は、誰より主を慕い続けて来た。
『人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。こうしてモーセは宿営に帰ったが、その従者なる若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋を離れなかった。』(出エジプト記33:11)

70人の長老たちは、約束の地に入る事なく、荒野で死んで行ったが、ヨシュアは、入る事ができた。
なぜなら、そのすぐ後の12人の斥候の事件の時、ヨシュアは主を信じ、約束の地に入れる事を信じたが、長老達を含む他の全員はそれを信ぜず、エジプトに帰ろうと言い出し、モーセやアロン、ヨシュアやカレブを石で撃ち殺そうとまで言い出したからだ。(詳細:民の"不信仰"告白(民数記14:1-9) http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1612 )
70人の長老たちに霊が与えられたのは、元々、モーセの重荷を共に負うためだったのに、かえって、モーセ重荷となるような性質を改めず、だから彼らが預言したのは、たったひと度で終わってしまったのだ。(詳細:一度きりで終ってしまった預言の唇(民数記11:24-30) http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1597 )

主の霊が注がれたからと言って、また、預言した事があるからと言って、必ずしも、約束の地に入れるとは限らない。
この70人の長老や、サウル王のように。
約束の地に入れる人とは、ヨシュアのように主を慕い求め、主に与えられた権威に忠実に仕え、そして、主の御心を行う人である。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイ7:21-23)

『そして彼にあなたの権威を分け与え、イスラエルの人々の全会衆を彼に従わせなさい。彼は祭司エレアザルの前に立ち、エレアザルは彼のためにウリムをもって、主の前に判断を求めなければならない。ヨシュアとイスラエルの人々の全会衆とはエレアザルの言葉に従っていで、エレアザルの言葉に従ってはいらなければならない」。そこでモーセは主が命じられたようにし、ヨシュアを選んで、祭司エレアザルと全会衆の前に立たせ、彼の上に手をおき、主がモーセによって語られたとおりに彼を任命した。』(民数記27:20-23)

今後、イスラエルの人々の全会衆はヨシュアに従い、ヨシュアは祭司エルアザルに御心を求め、エルアザルは、ウリム(主の御心を求める祭具)を用いて主に御心を求める。
全会衆も、指導者ヨシュアも、そして大祭司も、全員が主の御言葉によって出入りし、進退する事になる。そこに人間の思惑は一切入らない。
このようにして、モーセの次の世代の、神を中心とした体制が確立された。

私達も、今立てられている霊的権威に従うべきであるが、その最頂点は主であって、それ以外の誰かであってはならない。

栄光の家系の女達 - ウリヤの妻4 罪の増す所に恵みも満ちる(2サムエル記12:15-25)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

『主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食して、へやにはいり終夜地に伏した。』(2サムエル12:15-16)
ダビデは七日間、そのように断食して祈った。周りの人が見て、痛々しいと見えるほどに。
しかし主は、ダビデが主の敵に大いに侮りの心を起させたために、その子は必ず死ぬ、という宣告を取り下げず、その子は七日目に死んでしまった。
人が祈っても無駄か、というと、そうではない。悔い改めて立ち返るなら、主は災いを思い直される事もある。
ニネベの町は罪から立ち直ろうと真剣になったため災いの宣告は撤回されたし、ソドムの町も、アブラハムの執り成しによって、義人が10人でもいるなら、災いは起こらない所まで漕ぎ着けられた。
しかし、いかに人が断食して祈ろうとも、いかに執り成そうとも、主が宣告された通りの事が起こる事がある。
そうなった場合、私達はダビデの取った対応を取るべきだ。ダビデは、子が死んだと分かった時、地から起き上がり、体を洗って油をぬり、着物を替えて、主の宮に入って礼拝してから、家に帰って食事をとった。
その事は人々を不思議がらせた。あんなに子のために必死に祈ったのに、死んでしまったのだから、もっと大声で泣き、主に涙と叫びをもって訴えるほうが、理にかなっているのでは、と人は思う。
しかし、いかに断食し、必死で執り成しても、主が宣告された通りの事が起こったなら、私達はその結果をとやかく言わず、そのまま受け止めるべきだ。ダビデも「あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。」(詩篇51:4 )と告白している。

ダビデは生きながらえ、子は死んだ。そしてこれから、主が言われた通り、剣がダビデの家を離れない。
長男アムノン、三男アブシャロムは罪を犯し、殺されて然るべき状況に自ら邁進して刃に倒れたが、いずれもダビデは、不自然な程に、泣き過ぎる程、泣いていた。(2サムエル13:39、18:33-19:8)
もしかしたら、「剣はあなたの家から離れない」という、「自分の罪のせい」だと思っていたのかもしれない。
ダビデは自分の罪の故に死ぬのではなく、罪を背負い、報いを刈り取りつつ生きなくてはならなかった。
罪の刈り取りは、必ずある。しかし主は、人が一度罪を犯せば罰の中に永遠に閉じ込めたままにされるお方ではない。懲らしめられて悔い、主に帰ろうとする人を、主は憐れまずにはいられない。(エレ31:18-22)

『ダビデは妻(英訳:「his wife」)バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。』(2サムエル12:24)
ダビデは、バテシェバを「彼の妻」として近づき、慰め、夫婦の営みをした。いかに元々が姦淫によって結ばれ、元夫ウリヤの血に塗られた夫婦であっても、罪の処罰の後には、慰めがあるのだ。
同じ罪によって、二度も、三度も罰される事は無い。主イエスはただ一度、私達の罪の故に身代わりとなって懲らしめを受け、十字架上で死んで下さった。ただ一度だけである。そしてそこに恵みが増し加わった。
そして産まれて来た子を、ダビデは「ソロモン(平和)」と名づけた。ノアの洪水の後に、虹と共に平和の契約が成就したように、キリストの十字架上の処罰によって、神と人との間に平和が実現したように。
そうしてイエス・キリストの系図に「ウリヤの妻」が記され、ソロモン(平和)が記された。
まさしく、次の御言葉の通りである。『罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。』(ローマ5:20-21)

もしダビデが、姦淫と殺人の罪を犯さなければ、ソロモンは生まれず、イエス・キリストも生まれなかったのだろうか。姦淫と殺人の罪は、必然だったのだろうか。決してそんな事は無い。(ローマ6:1-2)
ダビデが罪を犯さない状態で人生を過ごしていたなら、剣に追われる事も無く、妻達を公然と寝取られる事も無かったはずだ。ただ主は、人間の罪ごときによって、祝福のご計画を頓挫される事など、決して無い。
たとい人が最悪の罪を犯したとしても、それを最善へと造り替える事の出来るお方である。
私達は、ダビデのように罪を犯して、剣で追われる生涯は送る必要は無い。むしろ生涯、正しく主に仕え通し、栄光ある者として名を残す皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
海にできた道(出エジプト記14章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ゼブルンとナフタリ、暗闇の地に光が昇った(マタイ4:12-25):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
集められる穀物と踏まれるぶどう(黙示録14:14-20):右クリックで保存

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